2018年08月

2018年08月21日

プロフィギュアスケーター今井遥さん(毎日新聞日曜くらぶ)

今井遥 毎日新聞の日曜くらぶ一面には毎週、今活躍している俳優の大きな画像が掲載されている。
 ところが、8/19(2018)の紙面には、なぜか俳優ではない「プロフィギュアスケーター今井遥さん」が載っていた。
 今井遥さんがデビューした当時には、ひときわ大きな存在だった浅田真央さん安藤美姫さんらがいた。

 そのためか、あまり目立たなかったが、その細やかな所作と美しい優雅な滑りには目を見張るものがあった。

 今のアマフィギュアスケートはジャンプが主体のように思えてならないが、基本的なステップを踏んで妖精のように滑る優雅なスケート、例えばかつての太田由希奈さん村主章枝さんなど、彼女らと同様に今井遥さんも好きだった。

 ジャンプは時代の流れだが、今、期待している選手といえば紀平梨花さんかな。ともあれアマフィギュアスケートの世界も厳しいね。

 今井遥さんには、アマ引退勧告があったとのうわさもあるが、ともあれプロとなった今井遥さんのスピード感のある優雅な滑りが、またいつか観られるといいな。そんなことを思いながらこの紙面に暫しくぎ付けになっていた。

 ※参照→「紀平梨花さんが金。やったね!! (2018年NHK杯)」。

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2018年08月20日

昭和の女優・浴衣の山本陽子さん

 毎日物療を続け今日は少し左肩背の激痛が和らいだので、先日買ったままになっていた「週刊ポスト8/24号」を開いた。

山本陽子[週刊ポスト] まず目に飛び込んできたのは「納涼グラビア〜昭和の女優浴衣姿のいい女・山本陽子」だった。

 かつて田宮二郎や沖田浩之(共に自殺)との交際で魔性の女といわれ、今は老年の悪女みたいな役が多いが、昭和48年頃、白い影に出演していた山本陽子さんを初めて観たとき、「なんと美しい女性なのか」と見惚れてしまった印象が未だに残っている。

 このグラビアを観て、そのころの、あの美しい女性の山本陽子さんだと思い、やはり見惚れてしまった。

 昭和の女優が、今も健在でドラマに出ている姿を観るとそれなりに喜ばしく思えるが、でも、こういう昭和時代のグラビア写真を観ると本当に心が生き返る。


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2018年08月17日

赤とんぼを見なかったお盆

 以前掲載した「迎え盆提灯、赤とんぼ舞う」に「赤とんぼは、故郷の山の上から先祖の霊魂を乗せて里に下ってくる」というようなことを書いていたが、今年は、なぜか、盆前から盆になっても赤とんぼが飛んでいなかった。

 猛暑という異常気象のせいなのだろうか。
 そのため先祖の霊魂は、里に下りるのをためらう赤とんぼらの背に乗ることができなかったのだろうか。言ってみれば、赤とんぼらのストライキに巻き込まれたってところかな。
 もっとも赤とんぼにしてもやりたくてやったストでもないだろうが、命にかかわる地上の猛暑には対処できなかったのだろう。

 それでも盂蘭盆だから、きっとご先祖様は、自力飛行で各家に戻ってこられ、この暑さは何だと思われたかもしれない。
 幸い(?)というのか九州では、盆の15日に台風15号が通過し気温の上昇が抑えられ35度を下回ったとか。
 この現象は、逆走した台風12号が接近した7月30日以来のことらしいが、それにしても過去に例のない「台風の逆走」など、やはり今年の夏の気象はどこか変だ。
 それでも30度は超えているのだから、かつて30度超えの熱帯夜云々という時代は過去のものとなってしまった。
 ご先祖様が「暑すぎる」といって、お盆に九州に限っては被害のなかった台風15号を引き寄せてくれたのかもしれない。(※ただ、台風15号は九州通過後、日本海沿岸地方に大雨を降らせた。)

 でも、赤とんぼは、まだ飛んでいない。
 ご先祖様は、今年は急いで自力で帰られたかもしれない。
 こんな想像が脳裏に浮かぶような今年の盆だった。合掌。

※こんなときにまた頚椎症による左上腕部激痛が出た。

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2018年08月16日

(故)剱木亨弘先生に係る記事(西日本新聞)を読んで

西日本新聞 昨日(2018.8.15)たまたま買った西日本新聞を見ていて「佐藤栄作首相時代の1966年12月、剱木亨弘さんは文部大臣に就任した」との説明がある写真に目が留まった。
 「聞き書きシリーズ」の「動あれば反動あり(元文部科学省官僚寺脇研さん)」の記事の添付写真だが、剱木亨弘文部大臣は、寺脇研さんが目指した官僚像の一人だったという。

 現在、文科といえば、何かと世間を騒がせて余り良いイメージがないが、かつて文部官僚だった剱木亨弘さんは不正を嫌い、信念を持って戦前、戦中、戦後を生き抜き、文部大臣となり万人に慕われた人だった。そのため、金儲けとはまったく無縁の人だった。
 寺脇研さんは、実際に会ったことのない剱木亨弘さんを、自分が目指した官僚像の一人だったと言われているのだからその偉大さは計り知れない。

 小生にとっては剱木亨弘さんではなく剱木亨弘先生だが、文部大臣時代の先生の秘書をしていた小生は、一体先生から何を学んでいたのだろう。

牛歩八十五年 先生は、1986年同上シリーズ「牛歩八十五年」(田中正隆記者)で取り上げられたことがあるが、私は単行本となった「牛歩八十五年剱木亨弘聞書(田中正隆)」を今も座右の銘としている。



 この新聞記事を見て、先の行橋市長選で敗れた岡田博利さん(元福岡県議)に電話した。彼は、母の初盆で忙しそうだったが対応してくれて、故剱木先生の元秘書会を再招集しようということになった。それまでには元気になっていたいものだ。

 因みに「剱木」の姓は、天神が霊峰・英彦山に突き刺した刃が剱(剣)の木になったことに由来すると聞いたことがあり、剱の文字の旁(つくり)は、正しくは「刃」と書くが、そのような漢字が見当たらず、剱のほか、剣・劔・劍・劒などの字をあてているものもある。
 なお、英彦山には、これに良く似た伝説を持つ鬼杉の巨木もある。


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2018年08月15日

療養中でもブログ再開できるかな…

 病とは、用心していてもいつ訪れるか分からない。治療法を巡って迷っていたが、病院に任せることにした。治療が始まった今、流れに任せるだけだが、治療に踏み切ることができたことは、天の助けと思っている。
 体調を見ながら本ブログ再開できたらという思いも。手もとのノートPCには最少機能しか入っていないので、それなりにかな。


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2018年08月03日

池浦の地名由来、池浦ドボシ遺跡(宗像市池浦)

 前回「池浦村落の形成と池浦山王神社鎮座時期(宗像市池浦)」から続く

 (1) 池浦の地名の由来

 ・「池浦」(地名)は、「湾曲した池の周辺地」という意味だと思う。

 ・先に「池浦山王神社参拝(6)〜アラカシの杜(宗像市)」に次のようなことを記していた。

1多礼池(池浦古屋敷付近) 池浦には、今も多礼ダム(多礼と池浦にまたがる巨大貯水池/昭和58年/1983年宗像地区水道企業団により隣接する吉田ダムと共に建設)や大堤、椿池ほかの貯水池、横山川に流入する湧水池など、多くの池が存在しているので、当初、池浦の地名の由来は、これら多くの池が連なる浦だったのではないかと想像した。

 ※画像1は池浦古屋敷付近から観た多礼ダム池。

 ・しかるに、その後、池浦は、釣川が入海であった時代(縄文時代前期〜)にできた地名という説があることを知った。
 確かに池浦の丘陵地は、稜線が入りこんでおり、その稜線下に入海、内海があったとしたら、その海は湾曲した池に見え、これらの入海、内海は、往々にして池と称することがある。
 つまり、これが池浦の地名の由来で、この時代に池浦の地名が出来ていたのであれば、池浦には既に縄文時代に人々が居住していたと考えてもよいのだろう。

 ・因みに、縄文時代前期頃の釣川の入海は、田島、大井、稲元、東郷辺りまで入り込んでいた(海岸線の高さ5m前後)との研究成果があり、弥生時代以降、海岸線の後退(高さ4m前後)が徐々に進み、古墳〜鎌倉時代にはさらに後退し、海岸線は河川の岸となり、その流域に低湿地が広がり、耕作地も形成されていったが、度重なる河川の氾濫にも見舞われてきたようだ。
 そのため、人々が低地に居住できるようになったのは江戸時代以降、灌漑が進んでからのことなのだろうか。

 ・では、池浦の入海はどこにあったのだろうか。

 考えられる一つは、西側の、現在、多礼ダム(上記)がある辺りである。
 また一つは、東側の福岡県道97号線〜横山川流域の低地である。

2横山川福崎五号橋 なお、現在、「河東西小学校入口🚥」(県道97号線)や、「福崎五号橋」(横山川架橋)がある辺りは、横山川の両岸に迫っている丘陵により、ここに水門があったかのように狭まっているので、その上流(北)側に入海があったとすれば、その入海は大きな池・内海に見えていたかもしれない。


 ※画像2は、福崎五号橋より横山川上流域辺。

 なお、横山川は、釣川水系の山田川の支流で、現在、河東区(県道97号線山田川橋付近)で山田川に合流し、山田川は、ここから釣川とほぼ並行に流れ、多礼ダム直下(南西)の上多礼で釣川に合流し、田島〜江口に向かっている。

 ・池浦の主体地区は、この多礼ダムと横山川に挟まれるように立地している。
 そのなかで、河東福崎(ひかりケ丘3・4丁目)に連なる池浦の丘陵は、土地地開発と住宅団地の完成により、平成8(1996)年11月に地名が池浦(一部福崎含む)から樟陽台1・2丁目に変わった。

3樟陽台碑 その一画・河東西小学校(宗像市樟陽台1丁目1-15-7)周辺で、後期旧石器時代の遺跡「池浦ドボシ遺跡」(下記)が発掘されているので、ここには、次の縄文時代〜に続く人々の生活の基盤があっと想像される。

 ※画像3は、樟陽台碑(平成9年建立/樟陽台1丁目15-1)。


 ・なお、宗像市における旧石器時代の石器は、池浦地区からほど近い平等寺長浦遺跡からも発見されている。
 (※平等寺長浦遺跡については、別記→「平等寺周辺の遺跡(宗像市)」)


 (2) 池浦ドボシ遺跡

 ・遺跡年代:後期旧石器時代(ナイフ形石器出土)、古墳時代後期(6世紀後半の円墳2基)
 ・所在地:福岡県宗像市樟陽台1丁目1-15-7河東西小学校周辺

4池浦トシボ遺跡地図 ・「池浦ドボシ遺跡」の跡は、発掘調査後、削平されたので現存しておらず、その状況云々については、下記「HP宗像市の文化財/史跡地図」及び「河東西小学校内建立碑」に掲載してある同文の「池浦トシボ遺跡」の説明文を転記しておく。



 ※画像4は、「HP宗像市の文化財/史跡地図」から転載した「池浦トシボ遺跡」の所在地地図。


 ・「池浦トシボ遺跡」(宗像市の文化財/史跡地図・河東西小学校内建立碑)

5池浦トシボ遺跡写真 「池浦トシボ遺跡は遠賀・宗像郡境の四塚から南西にのびる丘陵上(標高30m)にあります。
 平成6年(1994)5月〜9月、河東西小学校を含む一帯の土地開発の前に発掘調査を行い、後期旧石器時代の石器包含層及び古墳時代後期の円墳2基などが発見されました。



 旧石器時代の石器は黒曜石のナイフ形石器と呼ばれ、ナイフとして、あるいは木の棒に取り付けて槍として使用したものと推定されます。
 古墳時代の円墳2基は、6世紀後半につくられたもので、直径11mと14mの大きさになります。古墳から出土したものには須惠か・土師器・ガラス玉などがあります。
 1万年以上前の旧石器時代には、狩猟などの場であったところが、1400年前の古墳時代には墓地になっていたことがわかりました。宗像市教育委員会」。

 ※画像5は、「河東西小学校内建立碑」に貼り付けてある池浦トシボ遺跡の陶板写真を転写したもの(発掘当時の池浦トシボ遺跡全景と、1号墳の石積石室、ナイフ形石器)。 
 ※なお、前回記した「遺跡ウォーカー」によると「池浦トシボ古墳」は3基あったように記されている。ただし、発掘当時の地番所在地は、一帯の宅地開発で地形が変わり住居表示も変わり、場所の特定は難しい。

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