2019年01月

2019年01月31日

太平寺の創建由来に疑問(福津市上西郷)

※前回「宗像四国西部霊場第六番薬師堂にて(福津市上西郷)」から続く。

 天徳山太平寺の所在地: 福岡県福津市上西郷1058。

太平寺 前回、「太平寺」(曹洞宗)の境内に「宗像四国西部霊場第六番上西郷薬師堂(本尊薬師如来)」があることを記したが、太平寺は、戦国時代、この地区(蓑生郷)を領有した周防大内氏と係わる寺院だという。


 今回、大内氏と上西郷との係わり、太平寺の創建由来の疑問等について若干触れておく。

 (1) 大内氏と上西郷との係わり

以前別記した「大森神社◆疎腓覆泙才佑陵浬」と一部重複するが、大内氏と上西郷との係わりに下記しておく。

 ・寛正6年(1465)、「大内政弘」は、父・第28代(13代説あり)当主「大内教弘」の死去により大内氏の家督を相続し、第29代(14代説あり)当主となり、周防・長門・豊前・「筑前(宗像郡蓑生郷上西郷を含む)」の守護職(守護大名)を継承した。

 ・応仁1年(1467)5月〜文明9年(1477)11月、京都を焦土と化した「応仁の乱」は、室町幕府官領家の畠山氏や斯波氏ほかの家督争いが、細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)の勢力争いに変わり大乱に発展したものだが、畠山義就を支援した山名宗全と縁戚関係にあった「大内政弘」は、西軍の主力大名としてこの乱に参戦した。

 ・文明11年(1478)、「大内政弘」は、蓑生郷の地頭「河津掃部助弘業」の要請を受け入れ、当時、廃絶していた蓑生郷の宗社「大森神社」を再興した(福岡縣神社誌)。
 なお、当時の「大森神社」は、「大守六社宮(大守六宮)」と呼ばれていた。

 ・明応3年(1494)秋、「大内義興」が父大内政弘の隠居(翌年9月死去)により、大内氏の第30代(15代説あり)当主となる。

 ・永正8年(1511)、応仁の乱終息後34年、洛北の舟岡山(京都市北区)で「舟岡山の合戦」が起きた。発端は永正5年(1508)に細川高国と「大内義興」の支援で足利義稙が将軍職に復帰したことに対し、前将軍足利義澄が細川澄元・赤松義村らの支援を得て将軍職奪還を図ったことによるが、結果は義澄の大敗で終息した。

 ・当時、大内氏の所領宗像郡蓑生郷の地頭職「河津民部少輔興光」は、「大内義興」の命を受け足利義稙方として舟岡山の合戦に参陣し、深手を負い、大河の対岸にある本陣に戻るとき、鞍を置いた大鯰(なまず)が現れたので、この背に乘って大河を渡り無事帰還でき、その後、この大鯰は、大森六社宮(大森神社)の御祭神の権化だと覚り、鯰魚は祭神の使神であるとされ、以後、蓑生郷の産子らは、なまずを口にすることはなかったという。(大森神社由緒)

 ・なお、大森神社拝殿に掲示してある「大なまず(鯰)の背に乗って大河を渡る河津興光の絵馬」について、「応仁の乱、大内家の命をうけ山城国舟岡山の合戦云々」との説明があるが、舟岡山の合戦は、応仁の乱より後の時代である。

 ・大森神社の東南400mにある「天徳山太平寺」(曹洞宗)は、「大内義興」が創立した寺だと言う説があるが、この説には疑問があり、その疑問を下記する。


 (2) 「太平寺由来」に対する疑問

 ・太平寺入口の掲示板に「太平寺由来」が貼り付けてあるが、この創立由来には大きな疑問がある。まず「太平寺由来」そのまま転記し、その後に小生の疑問について記す。

 「太平寺は、福井県吉田郡の大本山永平寺と神奈川県鶴見区の大本山總持寺を本山とする曹洞宗の寺である。 太平寺は山口城主大内多々良朝臣義興(凌雲院殿傑心宗勝大居士)が、 長禄元年(1457)亡父(大内政弘・法泉寺殿真翁性公大居士)追善菩提の為に創建された寺であり、 山口県下小鯖にある月光山泰雲寺御開山石屋真粱大和尚8世の法孫、竺心慶仙大和尚(長禄2年11月2日示寂)を御開山として拝請した。 大内家より寺田四町八反の寄進があり、開創当時は大寺にて末寺19ヶ寺ありましたが、 大内家滅亡後次第に廃寺となる。 寛政4年(1792)当寺19世碓宗石嘴大和尚時代に寺檀一心同体となり再興す。
 開基・大内義興享禄元年12月亡、52歳)は周防国山口(現在山口市)を本拠とした戦国大名にて周防・長門・筑前・石見・安芸等の大守護職を兼ねて、 足利10代将軍義稙を復職させ細川氏に代わって管領として10年間幕政を掌る。
 寺宝として本堂御拝口楼上に「阿・吽の水龍の彫刻」(年代、作者不詳)・達磨大師坐像・釈迦涅槃図(上田主治画)等がある。 現在は安国寺(福岡市中央区天神)と永泉寺(嘉穂郡碓井町)と深い縁を結んでいる。 」


 ※この「太平寺由来」について最大の疑問は、「太平寺は…大内多々良朝臣義興…が、 長禄元年(1457)亡父(大内政弘…)追善菩提の為に創建された寺」の一文である。
 因みに、筑前國續風土記拾遺(下記)にも「當寺ハ大内多々良朝臣義興長禄元年の創立也」とあり、この文を受けて書かれた由来なのだろうか。
 これらは、下記により明らかな間違いであると思う。

  第30代大内義興の生誕は、文明9年(1477年)であり、生誕前の長禄元年(1457)に義興が太平寺を創立することは絶対にありえない
  長禄元年(1457)創立説が正しければ、大内氏は、義興の祖父、第28代大内教弘の時代ということになる。
  義興の父、第29代大内政弘は、文安3年(1446)年8月生誕、明応4年(1495)9月没であり、その追善供養をしたという長禄元年(1457)は、政弘未だ生存中である
  「大内義興(享禄元年12月亡、52歳)」と、あえてこの年号にだけ西暦年が記していないのは、長禄元年(1457)義興創建説の矛盾が見えてくるからではないかと思った。
 つまり、享禄元年は1528年で、長禄元年(1457)が、その71年前となり、義興の歿年52歳より前となる矛盾が分かってしまうからだろうか。
  本当に大内義興が創建(開基)したのであれば、竺心慶仙和尚 (長禄2年[1458] 11月寂)の開山説も怪しくなる。

 ・このように創建由来に疑問はあるが、太平寺には、大内政弘、義興、義隆(義興の嫡男)の位牌を有していると聞くので、当地を大内氏が領有した時代に大内氏と係わりがあった寺院であることには間違いないのだろう。

 ・「大内義興が亡父大内政弘の追善菩提の為に太平寺を創建した」のが正しければ、太平寺の創建は、大内政弘が没した明応4年(1495)9月から、義興が没した享禄元年(1528)12月までの間ということになるが、案外、このように考えた方がよいのかもしれない。


 (3) 史料

 「太平寺 トシダ 禪宗 佛堂六間入三間 天徳山と號す。嘉麻郡臼井村永泉寺に属す。長祿元年防州佐波郡鳴瀧村泰雲寺八世竺心慶仙といふ僧開山也。昔は子院十九院ありしとそ。其在所篇に誌せり。」(筑前國續風土記附録)

 「太平寺 牟田に在。天徳山と号。曹洞宗也。 昔ハ周防國佐婆郡鳴瀧の泰雲寺に属せしか、近代ハ嘉麻郡臼井村永泉寺の末寺となる。 本尊ハ正観音左右に大現菩薩達磨の像在。 開山ハ泰雲寺八世竺心慶仙和尚也。 竺心は生國豊前の人也。 長禄二年戊寅十一月二日に寂す。 木像在。當寺ハ大内多々良朝臣義興長禄元年の創立也。 寺料田畠4町8反寄らる。今ニ其処を寺田と云。 堂内に凌雲院殿大内義興法泉院殿同政弘龍福寺殿同義隆牌あり。 又花翁養心居士の牌及画像あり。 此邊の領主なりしかハ、當寺の廃を再興せられし事多かりしと云。始ハ大寺にて末寺も自國他國にかけて十九箇寺有しか、大内家滅しかハ、漸凌遅して今纔に六箇寺殘れり。 長州萩生福寺當村玉泉庵同西福庵同不欺軒津丸村玉泉庵のミなり。 寛文九年寺地六百三十坪古来の如く除地たるへき由國君の命あり。 有司の証文を蔵む。鎮守天満宮あり。 〇西福庵今西太平寺末庵也。」(筑前國續風土記拾遺)

 (注)・「當寺ハ大内多々良朝臣義興長禄元年の創立也」についての疑問は、上述(2)項に記した。

 「上西郷村 …和名抄宗像郡に蓑生郷あり。此邊蓑生郷也へし。今蓑生と云所上西郷村ノ内にあり。…文明十一年大内家より郡士河津弘業に與られし文書に、粕屋郡西郷福間とあれハ、尚其先より粕屋へ入れたる也へし。…西郷ハ當(宗像)大宮司領也しを、闕所して大内家より是を支配せられ、郡士河津伊豆守井原深川等の士を置て代官とせらる。天文廿年に義隆亡ひられしかハ、九國の地悉く豊後の大友氏に属すといへとも、西郷の士旧好を慕ひ、立花家に属せすして、永禄十年の頃より宗像に附り。…」(同上)

 (注)・文明十一年(1479)。
 (注)・天文廿年(1551)。
  …大内義隆は、享禄元年(1528年)12月に父義興死去により22歳で周防国守護職ほかの家督を相続、天文20年(1551)9月、周防国守護代陶隆房の謀反により逃走した長門深川の大寧寺にて自害(享年45)、その子大内義尊も殺害され、事実上ここに大内氏は滅亡した。太平寺には、大内義隆の位牌も伝わるという。
 (注)・永禄十年(1567)。
  …大内氏滅亡後、しばらく河津氏を頭目とする西郷衆は西郷地区(亀山城)で独立自尊を保っていたが、この年、宗像氏(氏貞)に属したことにより、その後の西郷衆の、頭目河津掃部助隆家暗殺、西郷地区強制退去(立花領となる)、そして若宮郷小金原の戦いで立花勢に大敗し、壊滅へとつながっていく。

 ※次回→「やくじんさま (福津市上西郷)」。

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2019年01月30日

宗像四国西部霊場第六番薬師堂にて(福津市上西郷)

 ※前回「上西郷の旧陸軍弾薬庫(福津市上西郷)」から続く。

太平寺薬師堂 ・「宗像四国西部霊場第六番上西郷薬師堂(本尊薬師如来)」は、前回記した「上西郷の旧陸軍弾薬庫」跡の入口に当たる小橋(杉の尾橋)の南、50mにある三つ角(上西郷集落の入口)を右折し、すぐ左側「太平寺」(曹洞宗)の境内にある。

 所在地: 福岡県福津市上西郷1059(太平寺境内)。

 ・この「薬師堂」(木造瓦葺)は、里道に面した太平寺入口の正面階段を上った丘陵上の太平寺本堂の左手前、つまり正面階段を上ってすぐ左側(鐘楼の右側)に建っている。

 ・薬師堂の広さは、その中に入ってお参りするほどの広さはなく、薬師堂の扉は、観音開き格子戸になっているので、通常は、扉を閉じたまま、お堂の前に立って参拝するのだと思う。

 ・格子の間から薬師堂のなか、須弥壇に安置されている薬師如来のほか、数体の仏像やご神像を覗き見することができる。

 ・仏堂内に「ご神像」が置いてあるのが気になって、たまたま近くに居られた御住職に、「お堂のなかに置いてあるご神像は、天神様ですか」と尋ねたら「そうです」と答えられた。

 ・筑前國續風土記拾遺に(太平寺境内に)「鎮守天満宮あり」との記事があったことを思い出し、下記のようなことが思い浮かんだので、これ以上の質問をしなかったが、後で考えたらこのことを確かめておくべきだった。

 ・つまり、何となく、このご神像は、明治維新政府の神仏分離により廃された「鎮守天満宮」の主神像(菅公:菅原道真/天神様)像ではないかと思った。

・もし、この思いが正しかったら、よく保存されたもので、当地に鎮守天満宮が鎮座し、かつ当地に天神信仰があったことを今に伝える貴重な文化遺産だと思う。したがって、ここで薬師堂をお参りすることは、天満宮を合せてお参りしていることになる。

 ・因みに「四国八十八ヶ所霊場第6番札所」は、「温泉山瑠璃光院安楽寺本尊薬師如来(高野山真言宗)」(徳島県板野郡上板町引野8)である。
「かりの世に知行争うむやくなり 安楽国の守護をのぞめよ」

(余録)
 今回、太平寺境内に入ったとき、頭にタオルを巻いた人が本堂前庭のソテツを剪定されている姿を見かけたが、この人は、てっきり造園屋さんと思い込んでいて、特に目を合わせることもなかったので声掛けはしなかった。

 その後、薬師堂の前でデジカメのシャッターを切ったとき、突然、後ろからその人に「何か(用事ですか)」と声を掛けられたので、びっくりして改めてその人の顔を見たらご住職さんだった。
 「あっ、ご住職さんでしたか、実は八十八ヶ所の霊場巡りをしていまして…」「千人詣りは、済みましたよ」「いえ、個人で、東部霊場を回り終えたので、今、西部霊場を巡っています」「そうですか」

 こんな会話を交わしたが、これとよく似たことが「来迎寺」(宗像四国東部霊場第68番阿弥陀堂/宗像市須惠)でもあった。

 小生は、時々、寺院訪問記も記してはいるが、寺院内に入るのは実のところあまり好きではない。

 ※次回→「太平寺の創建由来に疑問(福津市上西郷)」に続く。

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2019年01月25日

上西郷の旧陸軍弾薬庫(福津市上西郷)

 ※前回「谷底神社(福津市上西郷)」から続く。

弾薬庫跡(1) 前回記したように、上西郷の弾薬庫(陸軍上西郷航空廠弾薬倉庫)は、「昭和18年(1943)8月に建設が始まり、翌年に入ってほぼ完成したようだが、その翌20年(1945)8月15日、終戦で慌ただしく閉鎖されたという。


 このとき40棟超の弾薬庫が残っていたが、現在、そのうち2棟が残存し、農業用倉庫等に利用されている」ことを書いた。


弾薬庫跡 (2) よく今日まで保存されたもので、この2棟は「戦時遺産」としての歴史文化財的な評価が高いと思っている。
 
 当地は、三方を飯盛山の山陵に囲まれた谷底にある傾斜地で段差も見られる。



弾薬庫跡 (10) 建設当時に、現在と同じような農耕地だったのかは分からないが、軍事的に航空廠弾薬庫を設けるに適した条件を満たしていたのかもしれない。





弾薬庫跡 (4) 特に当地は、弾薬を生産する八幡製鉄所を中心とする北九州工業地帯に近く、旧大刀洗陸軍飛行場に運ぶ弾薬の保管場所として交通的な利便地もあったのかもしれない。




 当時、国鉄福間駅から当地への引き込み線が敷かれ、弾薬運搬は列車で行われたようだ。


弾薬庫跡 (3) 昭和19年(1944)6月16日北九州地区は米軍の爆撃で甚大な被害を蒙り、また、昭和20年(1945)3月27日・31日大刀洗陸軍飛行場も爆撃され(※頓田の森の悲劇が起きたのは3/27)、同年8月15日に終戦となり閉鎖された。



弾薬庫跡 (8) そのため、弾薬庫としての歴史期間が短く、その機能を充分には果たし得なかったともいう。

 また、軍事用秘密基地だったので、閉鎖された後も、世間には、その存在があまり知らされなかったようだ。


弾薬庫跡 (5) 現存している「旧弾薬庫」がある場所の地番は分からないが、大森神社・谷底神社の右前方にある四つ角を左折して里道に入り、小橋(杉の尾橋)を渡ってすぐ左折し南に進むのが正式見学ルートとみてよい。


 ここから農道を100m進むと、左に当時の「弾薬庫引き込み線ホーム跡」(コンクリート枠)が残っているが、さらに直進し、突き当たりから道なりに左折すると、右前方に「旧弾薬庫」が見えてくる。


弾薬庫跡 (6) なお、先に「宗像四国西部霊場第82番 内殿観音堂(福津市内殿)」に記した「内殿公民館」前の四つ角を西方向に進み(坂上る)、県道503号線を横切って道なりに進む(坂下る)と上記の小橋(杉の尾橋)の手前に到る。



弾薬庫跡 (11) この道は、弾薬庫跡の北側の縁を通るので、途中から左折して農道に入っても良い。

 ただ道に迷いやすいのであまり勧められないが、左折すると途中に緑の里や、南部中学跡碑などがある。


 さらに農道を直進すると、上記の小橋(杉の尾橋)から上ってきた農道に突き当たるので、左折する。


弾薬庫跡 (7) 因みに、前回記したように、大森神社参道横にある谷底神社は、当地に弾薬庫群が設けられるときに、当地区内の谷底から遷されたようだ。
 また、同谷底の地にはかつて祇園社(須賀神社)も鎮座していたようだ。



弾薬庫跡 (9) ※本稿に掲載した全画像は、2018.12.21に旧弾薬庫を訪れたときに撮ったものである。
 





 ※次回→「宗像四国西部霊場第六番薬師堂にて(福津市上西郷)」。

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2019年01月23日

谷底神社 (福津市上西郷)

 ※前回「大森神社の梛〜秋篠宮殿下の御参拝記念樹(福津市)」から続く。

 ・谷底(タニソコ)神社の鎮座地:福岡県福津市上西郷804
  (旧:宗像郡福間町大字上西郷字ヤケミドウ)。

 ・前回記した秋篠宮殿下の御参拝記念樹「梛(ナギ)の木」が植えられている大森神社の参道の右横に駐車広場やトイレ棟があり、その右側の一画に「谷底神社」(谷底稲荷社)が鎮座している。

 (1) 境内概要

 ・谷底神社の入口には、なまずの郷公園前にある市道に面して稲荷社を示す赤鳥居(一の鳥居)が建っている。

2谷底社二、三の鳥居参道・ ・その後ろの20mほど続く参道には、幟立て石、無色の石鳥居(二の鳥居)、石灯篭、赤鳥居(三の鳥居)等が建ち並んでいる。
(※画像)




 ・各鳥居の貫には、「谷底神社」の額束が掲げてある。
 ・参道の両横には桜やツツジほかの樹木が植えてあり、右横には藤棚もあり、参道は緑豊かで、季節にはそれらの花も楽しめる。

1谷底社拝殿と三の鳥居・ ・参道の先に、数段の石段があり、賽銭箱が設置され、割と大きな木造瓦葺の「拝殿」(方3間)が建っている。
(※画像)





 ・拝殿内の正面の鴨居には「谷底神社」の木製神額が掲げてあるが、絵馬等の掲額物はない。

 ・拝殿と本殿(神殿)を結ぶ幣殿はなく、拝殿の後方に分離独立する形で木造の「本殿(神殿)」が建っている。
 ・本殿は、コンクリートの土台の上に建つ柱の上、丁度高床式のような形で、さらにその上を覆う覆い屋があれ、なかなか手の込んだ神殿である。


 (2) 狐の石像(?)

3谷底社右阿狐 ・ ・本殿(神殿)区画内で目を惹くのは、石燈籠の前に居て神殿を守っている「狛犬」ならぬ阿吽二匹の「狐の石像」である。
(※画像)




 ・ただ、この石像は、ここは稲荷社だから「狐」に間違いないと思うが、何度見直しても「狐」のように見えないのが不思議である。

4谷底社左吽狐・ ・初めて観たとき、これは「獅子(狛犬)か」と思い、すぐに「いや、そんな筈はない」と思い直し、しげしげと覗き込んだほどだった。それほどに、イメージしている「狐」と思えないユーモラスな顔立ちと恰好をしている。


 ・思いつくこととしたら、「獅子(狛犬)化した狐像」ということかもしれない。
 ・なお、阿吽二匹とも躰の一部が石膏かセメントで補修されているが、もともとセメントと作られたものか(未確認)。

 (3) 祭神について

 ・祭神は、穀物神である正一位稲荷大明神「ウカノミタマ」(宇迦之御魂神・倉稲魂命)」と考えるのが筋であるが、当社では「イナダヒメ(稲田媛=櫛名田比売・奇稲田姫)」としているようだ。

 ・「イナダヒメ(稲田媛)」を稲荷神とする例は、あまり聞かないが、その名に「稲」が付いているので、稲作など穀物神の「稲荷神」と同化されたものだろうか。

 ・ただ、「イナダヒメ」と稲荷神「ウカノミタマ」は、同じスサノオ系譜にいる神で、「イナダヒメ」は、須賀神社等に祭られるスサノオの妻であり、そのスサノオが次に娶ったカムオオイチヒメとの間に生まれた神が「ウカノミタマ」である(古事記)。

 ・また、「スサノオ」は、当社の北西400m(上西郷443)にある上西郷須賀神社に祭られているが、この社は、もとは「祇園社タニソコ」(筑前國續風土記附録)だったのか。
 もし、そうだとすると、ここは丘陵地で、「タニソコ(谷底)」ではないので、同社は「タニソコ(谷底)」(地名)からここに遷ってきたことになる。
 ということは、「谷底」の名を持つ「谷底神社」も、現鎮座地が「谷底」だとは思えないので、別のところにある「谷底の地から遷って来た」とも考えられ、また、もとは「祇園社」と同じ場所(谷底の地)に祭られていたとも考えられる(下記)。

 ・因みに、宗像福津地方で広く分布する大年(大歳)神社等で、保食神の神名に変えられて祭られている同じく穀物神とされる大年神(大歳命・饒速日命)もスサノオの子(ウカノミタマの兄)で古代物部氏の祖神とされている。
 見方を変えれば、ここに古代物部氏と係わりある出雲スサノオ系譜に係わる神々が集中していることは、当地方が古代物部氏とも係わる地たったと言えなくもない。

 ・なお、稲荷祭ともされる初午の日に行われる「初午祭」のときは、上西郷地区ほかからも参拝者が訪れるという。

 (4) 旧鎮座地「谷底」と遷宮時期

 ・上記したように「谷底神社」の社名を持つ当社の現鎮座地には、後方に低丘陵を控えてはいるが、「谷底」というイメージはなく、当地は「谷底」の社名を持つ神社の鎮座地としては不具合を感じる。

 ・したがって最初、当社は、伏見山、或は祐徳山などの谷底にあった稲荷社を勧請したのかとも考えていたが、以前、「大森神社(福津市)〜黒なまず様」に記したように、当社は、もともと現鎮座地の大森神社と直接的つながりはなく、戦時中に、上西郷の某所(当社前の市道の対面側の何処)から現在地に遷宮してき来た神社だから、「谷底」の社名と現在地の状況が合わないのは当然だ、と聞いた。

 ・では、当地に遷宮する前の旧鎮座地はどこだったのか。
 まず、上記したように筑前國續風土記附録に「祇園社タニソコ」の記事があるので、上西郷に「タニソコ(谷底)」という地名(字名)の地があったことが分かる。
 ※「祇園社タニソコ 社の向ひ、道路の峯のうへに老松一株あり。奇怪なり。」(筑前國續風土記附録)

 「谷底神社」も、もとは同字の谷底の地にあったと考えられるので、その字名が現在も残っていれば、旧鎮座地の大方の推測ができることになる、また、生存者のなかにその地を伝え聞いている人もおられるのではないかと思うが、現時点で小生はそこまでは調べていない。

 ・その後、「やさしい福間町の歴史」に掲載されている「昭和18年(1943)8月〜20年8月に陸軍上西郷航空廠弾薬倉庫(通称:上西郷の弾薬庫)」があったの場所が、上記「上西郷の某所(当社前の市道の対面側の何処)」を含む区域と大方該当することが分かった。

 ・この弾薬庫跡は、「100町歩・約100万屐廚傍擇咫△修療效脇發法谷底(タニソコ)」の字名もあったと考えられ、この地に何処かに「谷底神社」や「祇園社」があったことになる。
 谷底神社等の鎮座地が陸軍の軍事施設建設予定地のなかにあったことにより、この陸軍弾薬庫の建設が始まる前に、なかば強制的に退去させられ、大森神社の境内の現在地に遷宮したのではないかと考えられる。

5上西郷弾薬庫跡 ・当時、40棟以上あった弾薬庫のうち2棟が現存している(※画像)と聞いて、見学を兼ねて出かけてみて、その周辺を歩いていて次のことに気づいた。




 当地は、大森下貯水池の下方の谷あい(水流あり)にあって、北側に現在「なまずの郷公園がある丘陵、西側に飯盛山〜県道503号線(旧唐津街道)が走る稜線、南〜西側に飯盛山〜県道535号線(上大森)の稜線があり、これらの丘陵線に囲まれ、行く手を遮られるような感じのするなだらかな傾斜地だが、実際に歩いてみると処々に起伏、段差、貯水池などもあり「谷底」には違いない。

 ・因みに、農地のなかに現存する旧弾薬庫2棟は、歴史文化財的な評価もできるのではないかと思えたので、次回、改めて掲載する。

 ※次回→「上西郷の旧陸軍弾薬庫(福津市上西郷)」。

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2019年01月21日

渓雲寺 (福津市内殿)

 ※前回「宗像四国西部霊場第82番 内殿観音堂(福津市内殿)」から続く。

 ・渓雲寺所在地:福岡県福津市内殿732。

 ・前回、渓雲寺境内の入口について、次のように書いた。
 市道沿いにある「内殿公民館」(内殿434)前の四つ角を東へ里道を歩き、大内川(源流は舎利蔵)に架かる小橋を渡り、内殿観音堂に向かう急坂を上る途中(四つ角から約140m)の左側に、渓雲寺本堂に上る坂口がある。


 (1) 境内にて

1渓雲寺坂口石門 ・この坂口の左側に寄せたように「渓雲禅寺」の石門柱が建っている。

 この先は、まっすぐ50mほど上る、巾2mほどの急坂となっている。



 その先の高台(小丘陵の中腹の崖面)に「渓雲寺」の庫裡、本堂などの伽藍が建っている。
 なお、この上り坂の途中、右側には民家が二軒あり、一軒は新築中だったが、渓雲寺との関係は分からない。


2渓雲寺境内石門 ・この坂を上り詰めたところの左側に、「慈眼視衆生」と刻した石門柱が建っていた。
 「慈眼視衆生」は、「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)のお経文の一部分である。


 この「慈眼視衆生」の後に「福聚海無量」が続き、通常「慈しみの眼で衆生を視ると海の如き無量の福が集まる」と解釈される。


3渓雲寺 ・境内のすぐ右側に植えてある蘇鉄とその前に「臨済宗大徳寺派 渓雲寺」と書いた木板に目が留まり、そのまま誘われるように右に歩が進み本堂前に行った。
 ご住職と会っておらず本堂内には入らずに合掌した。



4渓雲寺寶光山額 ・本堂は、近年、立て替えられたようで、この新しい堂宇の入口の扉の上に、「寶光山」と書いた古めかしい趣のある天然木の山門額が掲げてあった。
 つまり、当寺の名は「寶光山渓雲寺」ということだ。



5渓雲寺 ・本堂前は、崖上の塀に囲まれた内側に設けられた庭なので広くはないが、砂熊手で描いた波模様が美しい枯山水の庭になっており、思わず目を見張った。




 毎日、本尊様(釈迦如来さまか)の前庭を、このように手をかけて美しくされているのだと思うと心が浄化されそうだった。


6渓雲寺 ・枯山水の庭の奧部に点在している三宝荒神石像や観音菩薩石像(石祠)ほかの石祠石仏等が眺められるが、枯山水庭園の波模様の砂石を足で踏んでまで、近づくわけには行かないので、本堂前からそれらに向かって合掌した。



7渓雲寺 ・なお、本堂に行く途中にも、石造地蔵菩薩坐像、水子地蔵菩薩小立像がある。
 及び、石祠のなかにある石坐像は、丸顔の僧で右手に五鈷を持っているので明菴栄西禅師像ではなく、弘法大師像なのか。


 真言系ではない寺院で弘法大師像が安置されている例をよく見かけるが、その理由について、小生は、弘法大師が宗派を超える民間崇敬的存在だったからとしか説明ができない。

 (2) 史料

 ・「渓雲寺 ヲトマル 禪宗 佛堂五間三間半 寶光山と號す。開基の年歴傳ふる事なし。寺内に八幡宮・天滿宮・馬司皇の祠あり。」(筑前國續風土記附録)
 ・「渓雲寺 寶光山と号す。禅宗済家崇福寺の末院也。乙丸にあり。開基の年歴不詳。」(筑前國續風土記拾遺)

 ※なお、後で気付いたことだが、附録に載っている「馬司皇」の意味がまったく分からない。皇室の関係者(天皇の孫に皇を付けることがある)なのか、或は、北宋時代の哲宗に仕えた「馬司光」宰相(1019〜1086年)のことなのだろうかなど、いろいろ考えてはみたが、詳細不詳。・リンク→「馬司光」。

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2019年01月20日

宗像四国西部霊場第82番 内殿観音堂(福津市内殿)

 ※前回「日吉神社〜旧社殿再建棟札と旧鎮座地(福津市内殿)」から続く。

 ・内殿(うちどの)観音堂の所在地:福岡県福津市内殿712。

1内殿観音堂 前回記した内殿の「日吉神社」の北西方向、同社から直線にして約300mの高台(小丘陵の中腹)にある。

 最寄駅は、JR東福間駅で、その南南東、約3.5km。


 (1) 次郎丸

 ・「内殿観音堂」は、筑前國續風土記附録の「内殿村」の項に載っている「觀音堂ジロウマル」のことで、「ジロウマル」は、「次郎丸」と書く旧字名である。

 ・別記した「日吉神社〜神猿と笑尺(福津市内殿)」に、(旧)内殿村には、「七丸八尺」と言われる旧字名があったと書いたが、この「次郎丸」は、七丸(土居丸、坂丸、太郎丸、次郎丸、三郎丸、今丸、乙丸)の一つだろう。

 ・当地にもある「太郎丸、次郎丸、三郎丸」の字名は、日本の各地でよく見られる地名で、水田を開墾した順番に付けた地名という説を聞いたことがあるが、今、この「次郎丸」の場所を見た限りでは、こんな高台が水田開墾地には思えてこない。

 ・「内殿観音堂」の横並びの高台にある「渓雲寺」の旧字は「乙丸(ヲトマル)」といい、また、ほかに「坂丸」(坂丸さんもいる)の字名もあり、これだけでは全体像が見えないものの、当地の「丸」の字名は、高台を意味するのなのだろうか。(未調)

 ・福津市津丸は、平安時代には既に在った「宗像郡津丸郷」のことで、この「」(マル)は、「」(韓国語のマウル)が転化したものではないかという説がある。
 また、九州では、新原や前原、長者原、原田、田原坂等々、「原」を「ハル・バル」と発音する地名も多いが、この「ハル・バル」の発音は、この「マル」が転訛したものだという説もある。

 ・宗像、福津地方は、古代朝鮮(特に新羅、百済、高句麗等の三国時代)との係わりは深く、朝鮮語(韓国語)から転訛した地名や人名もあり、内殿の「丸」についても、村に類するほどの規模ではないかもしれないが、一考はできる。
 小生は、この丸は、日吉神社の祭神も絡めて新羅系の古代物部氏と係わる字名かもしれないと思ってみたが、確証は何もない。

 ・或は、「マル」は、「モリ」(山・森・杜)の転訛で同じ意味だとする説もあり、観音堂や渓雲寺の所在地を見ていて、この地はきっと神聖な「モリ」だったのかもしれない、と思えば、この説はうなずける。


 (2) 御堂と石段

 ・話が完全に脱線してしまったが、内殿観音堂は、内殿のほぼ中央、市道沿いにある「内殿公民館」(内殿434/車はここに駐車して歩くこと)の横の四つ角から東に里道を入って200m弱進んだ左方の崖上に建っている(徒歩5分)。
 なお、この里道に入るとすぐ、大内川(※大内川の名は、当地を大内氏が所領した時代の名残りを伝えているものか/源流は舎利蔵)に架かる小橋があり、この橋を渡ると急な坂道となり、途中左側に渓雲寺本堂に上る坂口がある。

 ・崖の斜面にまっすぐ付けられた30段の石段を上ると、正面に森林を背にして真新しい「内殿観音堂」の御堂(木造瓦葺アルミサッシ戸)が建っている。

 ・この観音堂の御堂と石段は、地元の人たちの寄附により、平成十三年(2001)七月十五日に建て替えて完成したものである。
 なお、御堂工事費は870万円、石段工事費は67万円で、篠崎建設株式会社(篠崎清)が施工、寄附者は石田国興氏のほか、八波、篠崎、半田、塚田、堺、日野、坂丸、奥村、磯野、鈴木、仁科、村井、水時、明永、花田氏など。施主石田三和子、鈴木三智子、仁科麻里子さんら。


 (3) 宗像四国西部霊場第38番札所

 ・当観音堂は、「宗像四国西部霊場第38番内殿観音堂・本尊千手観世音菩薩」となっているが、須弥壇に安置されているのは、釈迦如来(陶器か)、聖観音菩薩、母子観世音菩薩(木彫子安観音)、弘法大師小像などで、千手観世音菩薩像と思われる像はない。

 ・本尊千手観世音菩薩の名は、四国八十八ヶ所第82番札所青峰山千手院根香寺(香川県高松市中山町1506)の本尊千手観世音菩薩に合せたものだろう。
 「宵の間の妙降る霜の消えぬれば 後こそ鉦の勤行の声」

 ・なお、堂外の左の小堂に石地蔵が安置されている。

2観音堂から渓雲寺を見る ・この左横の外柵(鉄パイプ・網)の外の崖面に、渓雲寺方向に伸びる小路(舗装あり)が付いているが、この小路を通って渓雲寺には行けないので、多分、これは崖の点検補修等を行うための予備通路なのかもしれない。


 (付記)
 ・因みに、「内殿公民館」前の四つ角を逆に西方向に坂道を上ると、県道503号線と交差するが、その左手前側(県道に面して石段と手すりがある)、及び県道を横切ってすぐ右側(車輛通行止めの坂道上る)に「旧唐津街道の遺構」が残っている。
 また、県道を横切って坂道を下ると、「上西郷の旧陸軍弾薬庫跡」や「宗像四国西部霊場第6番上西郷薬師堂 (太平寺)」等に行くことができる。

 ※次回→「渓雲寺 (福津市内殿)」。

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2019年01月18日

日吉神社〜旧社殿再建棟札と旧鎮座地 (福津市内殿)

 ※前回「日吉神社〜境内の建造物⊂綯壁堯繕内神社ほか(福津市内殿)」から続く。[現鎮座地: 福津市内殿125番地]

 (1) 当地遷宮前の旧社殿建築棟札

 日吉神社(旧:十社大明神社、十社王子大明神社:十社王子社・十所王子社、享保年間(1716~1734)山王神社に改称か、明治(1867~)初期に現社名に変更か)は、「宗像七十五社(宗像宮社領末社)の一」に数えられているので、少なくとも天正14年(1586)宗像大宮司氏貞死没により、秀吉がその社領を没収した天正15年(1587)以前には存在していたことが分かるが、神社建築が成ったのは、黒田長政筑前入国後の慶長5年(1600)以後だったことが、次の記事で伺える。

 「慶長年中、長政公神社を再建し給ひ、忠之公、光之公も相續て修覆し給へりといふ。」(筑前國續風土記附録)

 「慶長年中再建の棟札あり」(筑前國續風土記拾遺)

 「殊に古來國主黒田家の崇敬篤く慶長年間には筑前守黒田長政の神殿建替の棟札、及び寛永年間(1624~1628)には筑前守松平忠之の神殿修覆の棟札、又寛文年間(1661~1662)には筑前守松平光之の神殿修覆の棟札を蔵せり」(福岡縣神社誌)

 ところが、当社は、その後、元禄年中(1688〜1704)に現在地に遷宮したというので、上記福岡藩主黒田家三代に亘って建築、修覆された社殿は、遷宮前の旧鎮座地(下記)にあったことになる。
 (※なお、棟札の実物を見たことはなく、現存しているかどうかは分からない)。

 (2) 旧鎮座地(古宮)の記録

 前述「日吉神社〜神猿と笑尺 (福津市内殿)」の「(2) 猿と笑尺(わらいじゃく)」の項に、下記の記事を基にして、「内殿の日吉神社は、元禄年中(1688〜1704)、現在地より北方にあった樽木から現鎮座地の笑尺(わらいじゃく)に遷宮した」と書いた。

 「當社(十所王子社)往古は村の北樽木と云う所に鎮座成しが其舊跡残れり慶長年間黒田家より営繕有し由」
 「元禄年中當社の神主尾形式部太夫惟實に此神の御告あり。『我を祭るべき土地は、ましらの多く群れ來る所に祭るべし』と、やがて今の宮所に汐井猴來りて喜びさけぶ聲さはなりしかば、宮所を今の地に遷し奉る。今も尚鎮座地名を笑尺と云ふ」。(福岡縣神社誌)

 ◆崙眦詑次“喟校海遼姪譴涼 本村 樽木 内殿 檀原四ヶ處に民居有。此村はしめは官道の西北古内殿是本村なりしか、近古今の所に移せり。」
 「此村(内殿村)初ハ官道の北上西郷村の近き邊にありしを、近古人家を本村に移す時、此社をも此地に遷座ならしむといふ。其旧跡今も古内殿にあり。民家も六戸あり。)」(筑前国続風土記拾遺)

 (3) 旧跡探索記憶

 最近、たまたま出会った地元の人たちに、旧鎮座地(古宮跡)について尋ねたが、あいにく知る人には巡り合わなかった。

 ただ、小生は、30歳代の頃、当時、誰かに教わってその場所を目指したことがあった。行き着いた台地は雑木の藪で、ほかには何もなく、雑木の枝などで手首が傷だらけになった記憶が残っている。

 その場所がどこだったのか、微かに上西郷小学校の裏辺りにあった小丘陵だったような感じだけが残っているが、今、同小学校を訪れても、そこには、自分の記憶のなかにある風景はない。今となっては、自分の記憶などあまり信用でるものではなく、それ以上の探索はしておらず、分からないままになっている。(本稿おわり)

 [※本稿「日吉神社(福津市内殿)」一覧]
 日吉神社の銀杏」とその黄葉(福津市内殿)
日吉神社〜盗難、廃屋、厄神社など(福津市内殿)
日吉神社〜神猿と笑尺(福津市内殿)
日吉神社〜神紋・抱き柏紋(福津市内殿)
日吉神社〜三十六歌仙図ほかの絵馬(福津市内殿)
Α日吉神社〜十一社宮の石造物と十所王子社(福津市内殿)
А日吉神社〜猿王子社は(現)須賀神社(福津市内殿)
日吉神社〜猿王子社は(現)須賀神社(福津市内殿)
日吉神社〜十所王子の王子は猿王子→須賀神社(内殿)
日吉神社〜十所王子社の祭神(福津市内殿)
日吉神社〜旧山王神社の社名、山王神はお産の神(内殿)
日吉神社〜境内の建造物〜庵壁堯狙伉撒錣曚(内殿)
日吉神社〜境内の建造物⊂綯壁堯繕内神社ほか(内殿)
「日吉神社〜旧社殿再建棟札と旧鎮座地 (福津市内殿)」

(※付記1)
 福津市内で日吉神社は、内殿のほかに、勝浦浜にも鎮座している。
 ※別記→「勝浦浜散策8~日吉神社と勝浦浜の風景(福津市)

(※付記2)
 内殿の日吉神社は、福岡藩主黒田家筑前入国後に社殿が再建されたが、宗像地方では次の神社も1600年代再建か。
 ・朝町八幡宮、田熊神社、尾降神社、手光熊野神社、指來神社、粢田神社など。
 ※別記→「朝町八幡宮(宗像市朝町)」。→「尾降神社〔震樵宮説(宗像市三郎丸)」。→「指來神社(追記1):なぜ一の鳥居は孔大寺神社なのか(宗像市多禮)」。→「粢田神社へ(1)参道と神社ネーミング(宗像市池田)」。
 なお、「田熊神社(宗像市田熊)」「熊野神社(福津市手光冠地区)」は現在未投稿のまま。

 ※次回→「宗像四国西部霊場第82番 内殿観音堂(福津市内殿)」。

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2019年01月15日

日吉神社〜境内の建造物⊂綯壁堯繕内神社ほか (福津市内殿)

 ※前回「日吉神社〜境内の建造物〜庵壁堯狙伉撒錣曚(福津市内殿)」から続く。[鎮座地: 福津市内殿125番地]

 (1) 神門、石燈籠(拝殿の正面参道)

1日吉社・拝殿前 ・前回の「二の鳥居」から石段(10段)を上ると、すぐ両側に「石柱神門」があり、これより先が日吉神社神殿が建つ境内上段の敷地である。

 石柱神門は一対二基。「昭和四年(1929)四月建立」。


 ここから拝殿に到る「正面参道」(舗装あり)の中ほどの両側に「石燈籠」(各一対)がある。(※画像1)
 石燈籠は一対二基。
 〜「十一社宮御寶 享保七年(1722)九月十八日建立」。
 (※別記参照→「日吉神社〜十一社宮の石造物と十所王子社(福津市内殿)」)。


 (2) 日吉神社の社殿(神殿)

2日吉社・拝殿神殿 ・日吉神社の社殿は、「拝殿+幣殿+本殿(神殿)」を有し、木造瓦葺の見るからに大きく立派な建物である。(※画像2)

 拝殿三間四間、神殿方一間、建立年は失念。


 拝殿内には、三十六歌仙ほかの絵馬が飾られている。
 (※別記参照→「日吉神社〜三十六歌仙図ほかの絵馬(福津市内殿)」)。


 (3) 神木(銀杏)と社務所

3日吉社・銀杏社務所 ・正面参道の右側にご神木で、雄雌2本の銀杏の木がある。(※画像3)

 その右手の大きな幹の方が「樹齢約500年、幹周り約5.5m、樹高30m」で、こちらが雄木なのだろうか。


 毎年11月中下旬には、その銀杏の黄葉が美しく、福津二十六景の見どころの一つになっている。

4日吉社・社務所 なお、同時期〜12月上旬にかけて落葉した黄葉は、境内の地面を黄金色に染めるので、これもまた美しい景色を醸すが、12月中旬〜になると氏子の方々は、その枯葉を掃き集め、その後、廃棄する大変な作業が待っている。


 (※画像4)は、12月下旬、銀杏の根元に掃き集められた枯葉である。
 (※別記参照→「日吉神社の銀杏」とその黄葉 (福津市内殿)」。

 ・その奥の方に見える建物が「社務所」(木造瓦葺平屋)で、通常出入口は施錠してあるが、室内には絵馬や旧神額なども掲げてある。


 (4) 相撲の土俵と「年中行事」

 ・拝殿の右側の敷地(広場)の奧方(境内神社の厄神社、貴船神社の前方)に「相撲の土俵」がある。(※画像5)

5日吉社・土俵 土俵一面を苔や青かびなどが覆うような状態になっているが、神社の祭事のときには使われているのだろうか。
 全国で神社の祭事は、少子化の影響で下火になっているところも多いと聞くが、当地はどうなのだろうか。


 ・当社には、下記の「年中行事」(祭事)があり、現在は、それぞれの行事日の直近の日曜日に実施されているという。
 「元旦祭(1/1)、初卯の日祭(5/7)、祇園祭(7/16)、通切祭(7/23)、風止祭(8/27)、川神祭(9/24)、宮座祭(10/22)、厄神祭(12/17)」。

 ・これらの行事の名称を見ただけでは、どんな祭事が行われるかが分からないが、「初卯の日祭」について、福岡縣神社誌に次の記事が載っていたので転記しておく。
 「五月初卯の日の祭は古来より百年祭と称し、弓矢的を作り的には左手にて左字の鬼と云ふ字を記し、氏子は的射をなし、其の矢を各家に持ち帰り門戸に齋きて夏中の無難を祈る。」

 ・因みに筑前國續風土記拾遺に「宗像宮末社記に、十所王子社正月朔日節供句神事三月三日節供句神事五月五日節供句神事七月七日節供句神事九月九日節供句神事と有。今ハ九月十八日祭礼流鏑馬あり。」の記事が載っている。
 また、筑前國續風土記附録に「九月十八日流鏑馬を興行す」の記事があるので、江戸時代には旧暦九月十八日に、この広場で流鏑馬(やぶさめ)の奉納が行われていたことに思いを巡らした。
 福岡縣神社誌は、由緒中に「往古宗像盛る時は年中六度祭典厳重成しが今は村民形計りの祭祀す。」の記事と、「祭礼日十月十八日」と記している(昭和19年当時)。
 

 (5) 本殿の右外列の「境内神社」(厄神社、貴船神社)

6日吉社・厄社など ・本殿の右外列、朱塗りの玉垣の横に並んで鎮座している木造小社祠(方一間)は、境内神社の「厄神社」(左側)と「貴船神社」(右側)である。
(※画像6)




 ・「厄神社」 木造瓦葺小社祠(方一間)。
 福岡縣神社誌に「境内神社 厄神社(大直毘、神直毘、八十禍津日神)」の記載がある。祭神名の読みは、「オホナホナビ、カムナホビ、ヤソマガツヒノカミ」か。
なお、上記「年中行事」のなかにある「厄神祭」(12/17の直近日曜日)は、この厄神社の祭事ではないかと思う。
 (※別記参照→「日吉神社〜盗難、廃屋、厄神社など(福津市内殿)」)。

 ・「貴船神社」 木造瓦葺小社祠(方一間)。
 福岡懸神社誌に載っていないが、多分、筑前國續風土記附録に載っている「貴船社 フダガモリ」のことで、時期は分からないが、当社境内に遷し祭祀したものではないかと思う。
 貴船神社の祭神は、農耕神、水神ともされる「高龗神(たかおかみのかみ)、闇龗神(くらおかみのかみ)」だが、宗像地方では湍津姫神命(宗像三女神の一)、或は瀬織津姫神(波折神社祭神/福津市津屋崎)と同神とも目されることがあり、各所で祭祀されている。


 (6) 大樟

7日吉社・樟 ・正面参道の右方に、大樟が生えており、上記の銀杏と合せてご神木の一つとみなされている。
(※画像7)





 ・当社は、深い杜に囲まれており、小生は、その広さを測り知れないが、これまでに記した杉、銀杏、樟(樟)や、花梨、楢ほかの樹木も茂っているようで、竹藪もある。

 ・因みに境内入口の手前から左に、境内左後方の杜に沿った里道があり、目測するとこの杜の距離は250m位はあるかと思う。なお、この里道をそのまま直進すると本木の須賀八幡神社(県道30号線沿い)の近くに出る。


 (7) 正面参道の左方の石造物

8日吉社・手水石と汐井台
 ・正面参道(左側の石燈籠)の左後方に、「汐井台」1基、「手水石」2基、また、その後方に石燈籠4基がある。
(※画像8)



 「汐井台」1基…天保十(?)年十一月/1840~1843頃。
 「手水石」2基…一基は昭和四年三月/1929、一基は不詳。
  (※別記参照→「日吉神社〜猿王子社は(現)須賀神社 (福津市内殿)

 「石燈籠」2基(貴殿神社の前面)…「十一社宮」明和二年三月/1765。
 「石燈籠」2基(須賀神社の前面)…「祇園宮」建立年不明(享保年間との推測はできないか)。
 (※別記参照→「日吉神社〜十一社宮の石造物と十所王子社(福津市内殿)
  →「日吉神社〜猿王子社は(現)須賀神社 (福津市内殿)


 (8) 正面参道及び拝殿の外・左方の「境内神社(4社)」

9日吉社左末社・ ・上記石造物の後方に、境内神社4社、左から厳島神社、福地神社、貴殿神社、須賀神社が並んで建っている。(※画像9)





 ・「厳島神社」 木造瓦葺小社祠方一間。
 福岡縣神社誌に、境内神社に当社の掲載ないが、祭神は、 市杵嶋姫命。。
 当、日吉神社の祭神のなかに、日吉神社の主神たるべき「大山咋神」(山末之大主神・山王権現・鳴鏑神・日吉山王権現)の神名がないが、京都松尾大社や宗像大社境内松尾神社では大山咋神とともに「市杵嶋姫命」をその妻神として祭神している。

 ・「福地神社」 石祠小社〜「明治十有九年丙戌九月吉辰」(1886)。
 祭神は、保食神(うけもちのかみ)だが、大物主命(大歳命・饒速日命)とは考えられないだろうか。
 福岡縣神社誌に、境内神社に当社の掲載はないが、筑前國續風土記附録に「寶満宮 イイモリヤマ 福地神相殿」の記事が見え、また、同拾遺に「飯盛明神社 飯盛山の頂に在。今ハ宝満宮といふ。玉依姫を祭れり。相殿に福地神あり。小祠なり。」の記事があるので、多分、明治期以降、当社の近く(南西)にある飯盛山の山頂に鎮座していた宝満宮が廃されたとき、当社に遷宮し「福地神社」として祭祀したのではないかと思う。
 宝満宮竈門神社の主神・玉依姫命が合祀されている可能性も考えられる。

 ・「貴殿神社」 木造瓦葺小社祠方一間。
 福岡縣神社誌に境内神社「貴殿神社(酒解神)」と記載されているが、筑前國續風土記附録に「貴野社ドイマル」(土居丸)とあるのは当社のことだろうか。
 なお、当社の祭神を大己貴命(オオナムチノカミ)と記している記事を見かけたが、酒解神(サケトケノカミ)は、大山祇神(オオヤマツミノカミ)の別名なので明らかな間違いである。 また酒解子神(木花開耶媛)が合祀されている可能性もある。
 日吉の神・大山咋神は京都松尾大社に祀られ酒造の神と言われるが、この酒解神、酒解子神も京都梅宮大社に祀られ酒造の祖神と言われる。
 ここに酒造の祖神を祭る神社があることは、かつて当地では酒造が行われていたということなのだろうか。
 

 ・「須賀神社」 方一間の木造瓦葺社祠だが、ほかの境内神社に比べると一際大きい立派な社殿を有す。
 祭神は、素盞嗚命だが、このほかに猿田彦命、大己貴命、或は大物主命が合祀されているのではないかと推測している。
 筑前國續風土記附録に「社内に天満宮・祇園社」の記載あり、明治初期、この「祇園社」が「須賀神社」に社名変更されたものと思われる。
 須賀神社は、宗像七十五社の一「猿王子社」に比定されており、「猿王子社」は、日吉神社の往古社名「十社王子大明神社(十所王子社)」の「王子大明神社(王子社)」に該当すると思っている。
 (※別記参照→「日吉神社〜猿王子社は(現)須賀神社 (福津市内殿)
  →「日吉神社〜十所王子の王子は猿王子→須賀神社(福津市内殿)
  →「日吉神社〜十所王子社の祭神(福津市内殿) 」)。


 (9) 本殿の左外列の「境内神社(天満宮)」と石燈籠、朱塗り玉垣

10日吉社・天満 本殿の左外列に境内神社一社「天満宮」と同社石燈籠一対、玉垣奉納石と朱塗り玉垣がある。(※画像10)






 ・「天満宮」 石祠小社祠。
 筑前國續風土記附録に「社内に天満宮・祇園社」の記載あり。また、福岡縣神社誌に、境内神社「天滿神社(菅原道真)」の記載あり。

 ・天満宮の前に同社の「石燈籠」一対二基。「天満宮 享保九正月吉日」(1724)。


 (10) 玉垣寄進碑と朱塗り玉垣

11日吉社・奧の玉垣・「玉垣寄進碑」…「玉垣寄進 昭和四年四月」(1929)。

 昭和3年(1928)に執行された昭和天皇の御大典を記念して建設した玉垣が、その翌年4月完成、奉納されたものだと思う。(※画像10、11)。


 ・この玉垣寄進碑の後方から右にかけてある「瓦屋根付きの朱塗り玉垣」がそれである。この玉垣は本殿の右外〜厄神社の横にもあり、「この先神域なり」ということを示している。
(※画像10、11、画像6)。
 朱塗りはこれまで不定期的に実施されてきたものだと思われる。

 以上´△廼内を一通りしたが見落としあるときはご容赦。

 ※つづく→「日吉神社〜旧社殿再建棟札と旧鎮座地 (福津市内殿)」。

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2019年01月13日

日吉神社〜境内の建造物〜庵壁堯狙伉撒錣曚 (福津市内殿)

 ※前回「日吉神社〜旧山王神社の社名、山王神はお産の神 (福津市内殿)」から続く。[鎮座地: 福津市内殿125番地]

 (1) 幟立て石

1日吉社・幟立て石 境内入口の両側に幟立て石(一対2基)が建っている。
(※画像1)

 「奉寄進 昭和十一年十一月再建 八波源四郎 坂田丈平」(1936)



 里道から続く舗装された道は、幟立て石から正面に見える「一の鳥居」へと続いている。  
 一の鳥居の手前、右側に建っているスレート葺きの建物は、今村農産のトラックが入庫しているのを見かけたこともあり、民有の車庫・倉庫のようでだ。

1-2内殿庚申塔 なお、この「幟立て石」に至る外(前)参道の途中に大内川があるが、その川に架かる小橋の手前の右側の橋際(電柱の後ろの叢)に「庚申塔」(無刻か)が建っている(内殿266-1)。(※画像1-2)


1-3村社日吉宮参道碑 また、小橋を渡って、すぐ左の角地に小さな道標「村社日吉宮参道碑」が残っている。「参」の文字の半分以下はブロック壁の後ろに隠れ、裏面は家屋の壁に接し、読めない。(※画像1-3)
 

 (2) 一の鳥居(日𠮷宮の額束)

2日吉社・一の鳥居額 石鳥居の貫に「日𠮷宮」と刻した額束(神額)が掲げてある。(※画像2)

 「日吉神社」だから「日吉宮」と書くのが正しいのだろうが、他社でも「日𠮷宮」と書いたものを見かける。


 なお、「日𠮷宮」と書いても「ひえぐう・ひよしぐう」と読むのだろう。

 そういえば、拝殿に掲げてある神額の文字も「日𠮷宮」であり、「日吉宮」と書くより、「日𠮷宮」と書いた方が「産土神」らしくて安定感があってよいということなのだろうか。

3日吉社・一鳥居 この「日𠮷宮」の額束を掲げる「一の鳥居」は、文字通り正面に見える日吉神社の拝殿に向かう表参道口に建つ石鳥居である。(※画像3)

両柱部分に次の刻が見える(一部のみ掲載)。


 「大正十一年十一月吉日建立 八波〇市十」
 「社掌 緒方孝太郎 世話人 八波賢太郎 石工 荒井金蔵」

4日吉社・山茶花 秋には、タイミングがよければ、その右後ろに生えている大きな山茶花の木に散りばめるように咲いている白花びらを観賞できることもある。
(※画像4)




 また、春には、右横にある紅色の桜の花を観ることもできる。

 (3)表参道の杜

5日吉神社一鳥居参道の杜2010.7.17 「一の鳥居」から正面拝殿前の石段の前に建つ「二の鳥居」までの間に、約10mの舗装された参道があり、この両側に大きな杉が5本生えており、表参道の杜を形作っている。
(※画像5)

 この表参道の中ほどの右側に「十一社宮」の石燈籠した一基が建っている。(※画像6)




6日吉社・参道二の鳥居 この石燈籠は、火袋部分が消失してしるが、竿部分に「十一社宮」と「寛政十一年」(1799)」の刻がある。

 「二の鳥居」(石鳥居)
 額束は「十一社宮」。



 柱部分に「安永六丁酉歳四月吉日 奉建立(華)表一基産子」(1777)の刻がある。
 ※別記「日吉神社〜十一社宮の石造物と十所王子社(福津市内殿)」参照)。

 
 (4) 前庭広場(駐車場・トイレなど)

7日吉社・広場、トイレ 「一の鳥居」の左側に広場があり、参拝者用駐車場(舗装なし広場)となっている。(※画像7)






 境内のご神木・銀杏の葉が黄金色に色づく晩秋には、その黄葉の見学に訪れる人たちの車をよく見かける。
 また、その一画に参拝者用のトイレ棟があり、清掃も行き届いている。
 その近くには、数本の桜(ソメイヨシノ)の木が植えてあり、春のシーズンには花見ができる。

 (5) 門柱と家屋

8日吉社・門柱 「一の鳥居」の右側に、「門柱石」(一対二本)が建っている。(※画像8)

 しかるに、この両サイドからはみ出した雑木の枝が、この門柱石及びその間の出入口通路を遮っている。 



9日吉社・廃屋道 したがって、門柱からは、その後ろに続く通路に入ることはできないが、落ち葉に埋まった通路を脇からたどると、まず左側に建つ家屋の玄関前に行き着く。居住者はいない。
(※画像9)


 この家屋は、玄関や窓は、サッシの引き戸になっているが、屋根は、茅葺の屋根をトタンでカバーしているようで、古民家の様相がある

10日吉社・廃屋玄関 玄関の鴨居にはしめ縄が張ってあり、旧神職宅だったのだろうか、或は、神社のイベントなどのときには今も使われているのだろうか。
(※画像10)





11日吉社・廃屋奥部2戸  さらにその前を進むと、道の両側の竹藪のなかに。その母屋に付属するものかとも思える平屋の廃屋が二戸ある。
(※画像11)




 以前、行政(福津市)に強制退去させられたというおばあさんが住んでいたところたろうか。
 このおばあさんは、日吉神社の管理、清掃等を自主的に行っていたので、氏子の人たちには感謝されていたらしい。
 (※別記「日吉神社〜盗難、廃屋、厄神社など(福津市内殿)」参照)。


 (6) 石段・石垣・玉垣

12日吉社・石・玉垣「二の鳥居」の先に、石段・石垣・玉垣がある。
(※画像12)

 この石段(10段)を上ると社殿が建つ段上境内で、石段下から拝殿が正面に見えている。


 石段は10段あり、その両側に石垣、石垣の上に玉垣石が並んでいる。

 両側の石垣に、各一枚、円囲みのなかに石垣奉納日と奉納者の名前を記した角石が埋め込まれている。
(※画像13、14)


13日吉社・石垣左 これまで、石垣に奉納者等を記した額石を見たことはあるが、このような家紋のような形に円囲みにした奉納者額石を目にした記憶がなく珍しい。




 その左側のものには、「昭和四年三月 池見利夫 石垣奉納」とある。(※画像13)

14日吉社・石垣右 また、右側は、「御大典記念 磯野勝次郎 石垣奉納」とある。(※画像14)

 昭和天皇御大典を記念して建設した石垣が、その翌昭和4年(1929)3月完成、奉納されたことが分かる。


 因みに、御大典とは、即位の礼・ 大嘗祭など一連の儀式を行う御大礼のことをいうが、昭和天皇の場合、即位礼紫宸殿の儀は昭和3年(1928)11月10日に、大嘗祭は、同年11月14、15日に京都御所で行われたという。

 今や次の平成天皇が退位する年(平成31年・2019)、いよいよ「昭和(1926~1989)は遠くになりにけり」だ。

※つづく→「日吉神社〜境内の建造物⊂綯壁堯繕内神社ほか (福津市内殿)」。

keitokuchin at 19:19|PermalinkComments(0)

2019年01月12日

日吉神社〜旧山王神社の社名、山王神はお産の神 (福津市内殿)

※前回「日吉神社〜十所王子社の祭神」から続く。

 (1) (旧)山王神社の社名はあったのか

 ・内殿の日吉神社(福岡県福津市内殿125)の神社名の変更に関して、筑前國續風土記拾遺に次の記事がある。

 「享保年中に、十社の号を改て今は山王神社と称す。」

 ・また、福岡縣神社誌に次の記事がある。

 「当社は宗像七十五社一也宗像末社記に十所王子社と有り…又享保年中に十社王子の號を改め山王神社と稱す明治一新に付山王の號を改め日吉神社と改稱す」。

 ・当社の当初の社名について、「十所王子社」とも「十社王子」と記しているが、これは、これまで記してきたとおり「十社王子大明神社」の略称で、この「十社王子大明神社」の社名は、宝永6年(1709)、貝原益軒により成立した「筑前國續風土記」(本編)に載っている。

 ・この「十社王子大明神社」の社名が、享保年間(1716~1734)に「山王神社」に改称されたというのだが、寛政10年(1798)頃に成立した「筑前國續風土記附録」(加藤一純、青柳種信編)に「山王神社」の社名の記載がなく、同書は「十社大明神社」と記している。

 ・さらに、天保8年(1837)前後頃に成立した「筑前國續風土記拾遺」(青柳種信ほか編)に至っては、同書に「享保年中に、十社の号を改て今は山王神社と称す。」と書いていながら、「山王神社」ではなく、「十社王子大明神社」と記載している。

1日吉社・拝殿前燈籠 ・また、境内に残る石造物ほかで、「山王神社」の社名を記したものがない。

 特に享保七年(1722) 〜寛政十一年(1799)の間に建立された6基の石造物の刻は「十一社宮」となっている。


 「十一社宮」とは、当時呼ばれていた「十社王子大明神社」(十所王子社・十社王子)の通称社名だと思う。
 (※別記→「日吉神社〜十一社宮の石造物と十所王子社(福津市内殿)」)

 ・こうなると、素人目には、本当に、享保年中(1716~1734)に当社名が「山王神社」に改称されていたのかどうか分からなくなってくるが、それはさておいても、「十社王子大明神社」の祭神に、山王の神「大山咋神(おおやまくいのかみ)・山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)」がいないのに、どうして社名が「山王神社」に変わり得たのだろうか。

 ・それは、神社誌に、「往古は村の北墫木と云ふ所に鎮座成しが…元禄年中(1688~1703)當社の神主尾形式部太夫惟實に此神の御告あり。『我を祭るべき土地は、ましらの多く群れ來る所に祭るべし』と、やがて今の宮所に汐井來りて喜びさけぶ聲さはなりしかば、宮所を今の地に遷し奉る。今も尚鎮座地名を笑尺と云ふ」の記事があり、この神は猿と深く係わる「山王の神」と意識されていたという背景があるのかもしれない。

 ・では、当社が猿(ましら・猴)と係わりがあるのかというと、以下、小生の私見を述べる。
 当社「十社王子大明神社」の「王子」が「猿(申)王子」だったので、この「猿」が山王の神・山王権現(今でいう「日吉の神」)に仕える「神猿」(まさる)と考えられ、「山王神社」の社名となったというのではなかろうか。

 ・そのため、当社の祭神に「大山咋神」が祭られていなくても意に介せず、また、当地には今に「猿は、ここの神様のお使えなので捕らえるな」という言い伝えが残っているのかもしれない。

 ・上記史料に「山王神社」の社名が出てこないので、或はこれも通称名だったのかもしれないが、明治一新(明治維新)に付(多分、明治4年(1871)~5年(1872)頃と想像している)、政府の命により全国の山王(権現)神社が「日吉神社」に変わったときに当社もその社名に改称したのではないかと思う。

 ・因みに、当時、当社が「十社王子大明神社」のままだったとしても、「大明神社」の社号は使うことができなくなっていたので、「山王神社」の通称を以て「日吉神社」に変えたのではないかと思う。にもかかわらず、現在に至っても当社の祭神に「大山咋神」の名はない。
 なお、このとき、猿王子は、相殿から本殿の日吉の神に仕えるために、境内の須賀神社に遷ったと考えてもよいのかもしれない。


 (2) 山王さまは、お産の神さま

 ・当社は、「山王神社」から「日吉神社」に変わっても、また、日吉(山王)の神「大山咋神」が祭られていなくても、氏子さんらは、ここの神様は「山王さま」と称しているので、何とも不思議な神社ではある。

 ・前回、十社(十柱)の神名を記したが、氏子の人たちは、これらの神名を口にされることはほとんどなく、祭神は「山王さま」と称し、また、「山王さまはお産の神さま」であるともと呼んでいる。

 ・当地には、妊娠した主婦は、必ず当社を参拝し安産祈願をするという習慣があり、その御利益は強く、これまで参拝に訪れた人たちの誰もが安産で、出産に失敗した人はいないという。

 ・当地で、山王さまが「お産の神」とされたのは、多分、「山王」の字を「産生」に当てたのではないかとは思うが、それにしてもありがたい御利益を頂ける神さまであることには違いない。

 ※つづく→「日吉神社〜境内の建造物〜庵壁堯狙伉撒錣曚 (福津市内殿)」。

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