2019年02月

2019年02月25日

古戦場(考)・畦町河原の戦い(合戦) 福津市畦町

 ※前回「畦町の一里塚・馬塚(?) 福津市」から続く


 (1) 表題について

 ・前回記したように「畦町物語1(唐津街道畦町宿保存会)」は、「畦町の歴史(岩熊寛)」の項で、弘治3年(1557年)7月8日、畦町(畝町)の高宮城下を貫流する西郷川の川端で、多賀美作守隆忠(みさかのかみたかただ)、彦四郎の軍勢(大友方)と占部右馬助尚持、尚安の軍勢(宗像方)が戦った合戦名を「畦町河原の合戦」として掲載している。

 ・「畦町河原の合戦」という名称が、歴史的に確立された呼称なのかは分からないが、単刀直入で分かりやすいので、この名称を使わしてもらう。
 ただ、小生は、過去に「日本の合戦(桑田忠親)」の発行にかかわったことがあるが、その頃から概して「合戦」を「戦い」と書くようにしているので、本表題は古戦場(考)・「畦町河原の戦い(合戦)」とした。


1畦町川原前田橋付近 ・以下は、筑前國續風土記拾遺の「高宮古城」の記述(※下記)を基に、一部小生の想像(独断と偏見)を交えて書いた「畦町河原の戦い」である。

 ※画像1:現畦町河原の西郷川・前田橋付近。


 (2) 畦町河原の戦いの始末

 ・ここでいう「畦町河原の戦い」が展開した「畦町河原」とは、現在、西郷川に架かる県道503号「(新)畦町橋」(畦町512付近)⇔県道531号「川原橋」(内殿1007付近)までの約1.5kmの、西郷川の河原一帯を指しているようだ。つまり、この間が「畦町河原古戦場」ということになるのだろう。

 ・この戦いは、(新)畦町橋より下流の左岸(※後の畦町宿の北「大明神橋上流〜前田橋」付近か)で立花城(立花山城)を発った多賀美作守隆忠(※以下「多賀隆忠」と書く)の軍勢と許斐城(許斐山城・許斐岳城)を発った占部右馬助尚持(※「占部尚持」と書く)の軍勢が正面衝突したことで始まったのではないかと思うが、戦いは、一進一退で一時膠着した。

 ・なお、双方の軍勢の人数に関する記録はないが、多賀軍が、後に畦町宿が作られた官道を避け、西郷川河原に繰り出したのは、当時の官道は狭く、ここで決戦となった場合、大軍を容易に動かすことができないとの判断があったのかもしれない。。

 ・しかるに、河原での戦いの最中に、突然、遅れて参陣した占部尚安(※尚持の父)の精鋭二百餘騎が、多賀隆忠の軍の横合いから現れた。

 ※多分、尚安は、待機していた許斐城で、尚持軍苦戦の報を聞き、許斐城に残っていた守備軍を率いて、八並から、(途中久末からの道と合流して)西郷川右岸の現大明神橋に抜ける間道を通ったのではないかと推測する。

2貴船神社の杜 そのため、この軍を食い止めようとした多賀隆忠軍の一部は右岸に渡り、その川岸にある貴船神社周辺が激戦地となったのではないかと考えられる。

※画像2:貴船神社周辺。



 ・これにより尚持軍の勢いが盛り返したが、多賀隆忠軍の軍団は分断され、一気に総崩れとなった。
 さすがに多賀隆忠軍は、休む間もない進軍と戦いによる疲れもあいまっていたところに、予期せぬ事態が起きて持ちこたえることができず、散り散りに討たれた。

 ・多賀隆忠や多賀彦四郎(隆忠の四男か)らは、下流の川原橋付近(※西郷花園近く)まで退いた。

 ・しかし、多くが討たれ、少人数で落ち延びるにしても、ここは宗像領内であり、来た道を山越えで領外に戻ろうとしても、今度は必ず山上で待ち受ける飯盛山城から攻撃を仕掛けられ挟み撃ちになるのは必定で、逃げ道はない。

 ・「もはやこれまで」と覚悟を決めた多賀隆忠は、単身馬を引き返し、追撃する占部軍のなかに突入して討ち取られた。
 なお、多賀隆忠を打ち取った占部軍の武将は、吉田弾正忠だという(新撰宗像記考證)。

 ・また、総大将・多賀隆忠に続けと、勇猛な多賀彦四郎など、多賀軍残兵らも次々に引き返し悉く討たれた。
 つまり、この戦いは、多賀隆忠らが討ち死に(全滅)したと思われる畦町の岩崎、高宮地区(高宮城南麓)の河原において占部軍が勝利し決着したのではないかと想像する。


 (3) 畦町河原の貴船神社周辺

 ・「貴船神社周辺が激戦地となった」と上記したのは、「畦町物語1」の「畦町今昔」掲載記事を読んでである。

 ・それを要約すると、其一は、氏神様(八幡宮)前の道辺りには多くの人骨が埋まっており、昔は火の玉が出た。近くの山には古墓もある。貴船神社は、氏神様の道の下方の杜にある。

3祟りの大石 ・其二、貴船様の杜の木や竹を伐り出したら祟りを受けて死人も出た。
 ・其三、貴船様の右横の竹林前の畑には、叩いたり蹴ったりすると祟られる「祟りの大石」(※画像3)がある、等々である。



 ・これらは、戦いより後の時代に鎮座した氏神様や貴船神社の周辺地で戦いがあり、この戦いで死んだ多くの両軍将兵がいたことを物語っているように思えた。

 ・特に「祟りの大石」には討ち死にした将兵の霊魂が宿り、鎮魂慰霊の石となっているように思えた。なお、この大石には石を断割ろうとした穴跡が残っているが、そのために実際に祟られた人がいたのかもしれない。


 (4) 高宮城(許斐城の端城)の状況

 ・筑前國續風土記拾遺に「(西郷)川一流(畦町宿)駅の西に在り。其源ハ本木八並等の村より流れ出、當村(畦町村)の下にて一ツに會して、高宮の城址を廻りて上西郷村に入」とある。※( )内は小生の挿入。

 ・現在も「高宮城址」(高宮山)の南麓直下で、東方から流れてくる西郷川本流の左岸に本木川が合流しており、この川は、高宮城の天然掘にもなっていたのかもしれない。

 ・古代から官道は、西郷川の左岸に沿って付いていたので、本木川が官道を横切る場所にはもとから「大道橋」(※この橋名は官道の名残りだという…鎌倉時代の官道を大道ダイドウという)が架けられていたと思われるが、この辺りから西郷川対岸の高宮城(許斐城の端城)に渡る橋はなかったのではないかと思う。

 ・そのため、古内殿から当地に着いた多賀隆忠は、この辺の事情を知り尽くしていたので、高宮城に対する若干の警戒はしたかとは思うが、わざわざ西郷川を渡って高宮城に攻め込むような愚はせず、また、高宮城の城番兵も僅かの人数で多賀隆忠の軍に攻め込むようなことはできなかったと思う。

 ・各種史料は、この「畦町河原の戦い」を「高宮城」(高宮古城)の項に記し、また、討ち死した「多賀隆忠の墓」を高宮山の南の腰に作ったと記してはいるが、実際に高宮城内で戦闘があったという記述はない。

 ・多分、飯盛山城(内殿)からの伝令(※下記)を受けて、許斐城を発進した占部尚持軍は、先ずは高宮城に入って多賀隆忠軍を迎え撃つという作戦もしていたかもしれないが、高宮城に到着する前に、その城下の西郷川河原で、許斐城奪還を目指してすごい速さで進軍していた多賀隆忠軍と遭遇したのだろう。


 (5) 多賀隆忠軍の飯盛山城下通過

 ・畦町河原に進軍する前の多賀隆忠は、大宰府に駐留していたと言われるが、その日、大友方の筑前拠点「立花城(立花山城)」(糟屋郡新宮町立花山)に出張した後、立花城の西下から北東方向に官道(後の唐津街道)を進み、青柳を経てほぼ一直線に内殿の「飯盛山城」(許斐城の端城)下に進んだと思われる。

 ・多賀隆忠軍のなかに、飯盛山の南麓一帯を領有する大友(立花)方の小野、薦野、米多比氏等の将兵の名がないので、多賀隆忠軍は、大友(立花)勢の加勢を得ぬ(謂わば孤立無援の)単独行軍だったと思われる。

 ・そのため青柳から飯盛山南麓を進まず、飯盛山の南西にほぼ一直線に伸びる官道を通り、「旦ノ原」の平原に入ったと思われる。そして、このとき、この軍勢の動きを飯盛山城で発見した飯盛山城の遠見番は、直ちにこのことを知らせる伝令を、本城の許斐城に送ったかもしれない。

 ・しかし、飯盛山城の城兵は少数で、大軍を相手に戦う術はなく、また、多賀隆忠軍も無用の戦さをして軍兵を消耗することはできず、ただひたすら許斐城を目指したのではないかと思う。


 (6) 多賀隆忠と占部尚持の宿命の対決

 ・多賀隆忠にとっては、これより2年前の天文24年(1555)7月、占部尚安の嫡子尚持の軍勢が仕掛けた夜襲により、当時、自分が城代をしていた「許斐城」を奪われているので、今回の許斐城奪還は宿願でもあった。 
 また、占部尚安、尚持らにとっては、多賀隆忠から奪い取った許斐城は、もともと尚安の父豊安が再建した城であり、宗像氏(当時の大宮司は宗像氏貞)の拠点の一である許斐城を死守する使命があった。

 ・天文20年(1551)9月大内義隆が自害し事実上大内氏が滅亡するまでの多賀隆忠は、大内家譜代の家臣であり、その意味では、宗像氏家臣として大内家に付いていた占部尚安、尚持らとは、いわば同朋だったが、大内氏の滅亡により、その袂を分った。

 ・占部尚持にしてみれば、もともと大内氏から派遣されて許斐城の城代を任せられていた大内氏の家臣多賀隆忠が、その主君大内氏を滅ぼした陶隆房(晴賢)に付いたことは裏切り行為だという憤りがあり、当時多賀隆忠が守っていた許斐城を奪ったことには正当性があると考えていた。

 ・その後、弘治元年(1555)9月毛利氏が陶晴賢を討ち破ると、多賀隆忠は、大友方の立花城主立花鑑載を頼った。

 ・弘治3年(1557年)7月、多賀隆忠は、立花城に出張し、大友氏への忠誠を示すために許斐城奪還を目指して進攻したので、この多賀隆忠に対して、反大友氏でもあった占部尚持が、「隆忠が大友に降参して忠義顔に此城を攻んということこそ奇怪なれ、寄せ付けては無念也」と言った気持ちは分からぬでもない。

  ・とはいえ、大内氏滅亡後、占部尚持の主君となった宗像氏貞は、大内氏を滅ぼした陶氏が立てた人だったので、当時の占部氏のなかにあっては自己矛盾があり、その氏貞が陶氏を破った毛利氏に付き、かつ裏では大友氏とも気脈を通じているような行方の定まらぬ複雑な時の状況もあったので、心中穏やかではなかったかと思う。

 ・因みに、この後のことになるが、元亀元年正月(1570)、宗像氏貞は、反大友を貫いていた西郷の亀山城主河津掃部助隆家を暗殺し大友方の立花城主戸次鑑連(後の立花道雪)と融和を図るというような事件も発生している。(※別記参照→「石松加賀守秀兼と小金原の戦い,いろ姫悲劇(宗像市・宮若市)」。


 (7) 許斐山城奪還は大友氏の命令

 ・多賀隆忠にとって、「許斐山城の奪還」は宿願だったかもしれないが、弘治3年(1557年)7月、多賀隆忠の立花城出張の背景には、立花鑑載から「許斐城を奪還し大友氏への忠誠を尽くせ」という命令があってのことで、許斐城奪還に向けて発進した途中で、挨拶のために立ち寄ったということだったのかもしれない。

 ・主君を失った戦国武将が、この時代を生き抜くことは並大抵のことではなく、こうなっては、本当に許斐山城を奪還することが「多賀隆忠の本心」であったかどうかが疑わしくなってくる。

 ・もしそうだったら、追い詰められて生きては帰れない許斐城へと進軍し、許斐城を目前にして畦町河原の戦いであえなく失命したことになり、命令に逆らえない状況にあった多賀隆忠の複雑な心情は、いかばかりであったかと思う。

 ・多賀隆忠は、主君大内義隆を失った後に頼るべき相手を読み違えて、このような悲劇的な最期を遂げた、としか言いようがなく、これは現代社会にも当てはまることである。
 改めて、多賀隆忠とその軍勢の死を悼む。


 (5) 多賀隆忠の墓

 ・とはいえ、畦町河原の戦いで討ち死にした「多賀隆忠の墓」が、高宮城がある高宮山の南の腰に作られたとなると、占部氏方には、「敵方とはいえ死者に罪なし」として弔う土壌があったことになる。

 ・実際に「多賀隆忠の墓」を見ていないのでコメントし辛いけど、「畦町物語1」に載っている写真を見た限りでは、その形から、やはり、これが戦国武将の墓のようには思えない。

 ・また、戦国武将の墓に法名ほかの何の記銘もないことは、確かに疑問があるが、その墓石の形と「高さ1m程、土に埋もれた下部の幅も1m程の自然石」とある説明から推察すると、或は、かつて高宮山に鎮座していた高宮神社(旧鳥巣社)、若しくは、その南の腰に鎮座していたと伝わる旧神興宮の磐座の一だったような気もする。案外、パワースポットかもしれない。


 (6) 多賀隆忠の後継

 ・まさに昨日の敵は今日の友で、聞くところによると、その後、多賀隆忠の子、多賀左京亮は、毛利家の家臣となり、毛利元就の一字を貰い元竜と名乗ったといい、その子には、元竜と祖父隆忠の各一字を継がせ多賀元忠と名乗らせたという。

 ・因みに、本稿とは直接関係ないが、多賀隆忠の読みは、室町幕府京都侍所所司代を務めた多賀高忠(京極氏流)と同じであり、また、多賀の文字から滋賀県多賀町鎮座の多賀大社、近くでは直方市の多賀神社、かつて訪れた宮城県多賀城市の古代城柵「多賀城」も思い浮かんだ。多賀氏は由緒ある名家の流れだったのかもしれない。


  [参考史料]

 「高宮古城 畝町村の西南川を隔てて丸き山有。是なり。(中略)許斐城の端城にして大内家より城代を遣し置しいいふ。多賀美作守隆忠は山の南の腰にあり。(中略)其西の方に高宮神社址有。これ鳥巣社の旧址也。宗像追考に云。弘治三年七月多賀美作守隆忠は大内殿滅亡の後大友に降参す。かくて隆忠大勢を率ゐ立花に出張し許斐城を攻んとす。占部右馬助尚持此由を聞てなんじやう隆忠か大友に降参して忠義顔に此城を攻んといふ社(こそ)奇怪なれ。よせつけては無念也と同月八日に本木郷に出張し合戦数剋に及ぶといへ共、勝負更に決しかたし。然る所に占部尚安二百騎許横合に馬をいる。隆忠不怺(こらえず)一度にどつと崩れ立て右往左往に敗北す。味方ハ機にのり追詰追詰討つほとに、隆忠ハ畝町の川端にて取て返し戦ひけれとも、大勢に取こめられて討れにけり。多賀彦四郎もかへし合せ勇を振ふといへとも、竟に討れて失にけりと見へたり。此時隆忠ハ宰府に在しといへり。太宰府満盛院の古證文に此人見へたり。」
(筑前國續風土記拾遺巻之五十一)

 ※次回→「畦町宿の西坂下口・案内板 (福津市畦町)」。

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2019年02月21日

畦町の一里塚・馬塚(?) 福津市

 ※前回「旧唐津街道:楢ノ木坂〜古内殿橋(福津市内殿)」から続く。

1畦町の一里塚 「畦町一里塚」(馬塚?)の所在地
 福岡県福津市畦町437番地付近
 (県道503号沿い)






 (1) 畦町の一里塚

 ・前回の「古内殿橋」の東(※上西郷小学校校舎西側)から、県道503号(旧唐津街道)を通り旧唐津街道畦町宿跡を目指す途中、「大道橋」(大道は鎌倉時代の官道の名残りを伝える呼称か)を渡り、「畦町入口🚥」(三叉路)から100mほど進んだ県道(歩道は左側のみ)の右側に、県道に面して土盛りした小丘(土饅頭)の上で大きく枝を広げて生えている一本の大樹が目に入る。
(※古内殿橋から内殿東🚥、畦町入口🚥経由で約750m)。

 ・この大樹は、「」である。冬季は、葉が落ちているので、それと分かりにくいが、春先には新芽が葺き、緑の葉が枝いっぱいに茂る元気な木である。

 ・小生は、以前から、この土饅頭は、「畦町の一里塚」だと思っている。

 ・道路に面した基礎部分は、土留めのコンクリート擁壁が施され、その右寄りに数段のセメント階段があるが、階段の上の盛り土部分の叢には道がなく、何のための階段か分からなくなっている。
 以前、木の根元付近の叢に小さな稲荷祠が置いてあったので、かつてここにはその参道が付いていたのかもしれないが、いつしかお参りする人(かつての所有者か)がいなくなって久しく消えてしまったのか。なお、現在もその祠が置いてあるのかは確かめていない。

 ・県道から塚を見て、塚の右下と左上に民家があるが、両家と塚との敷地の間は仕切られているように感じるので、両家は、この土地の所有者ではないような気がする(未確認)。

 ・かつて街道を通る旅人の目安として、一里(約3.927km)ごとに土盛りの「一里塚」を作る習慣は、既に平安時代からあったらしいが、全国に整備されたのは江戸時代初期・慶長9年(1604)以降のことで、福岡、唐津藩の参勤交代路でもあった唐津街道の道筋にあるこの「畦町の一里塚」は、筑前入国した黒田長政、或は忠之の命によって作られたものだと思う。


2畦町の一里塚 ・「畦町の一里塚」は、土盛りした小高い土饅頭の上に、目印となる榎(或は松)を植えるという一般的な「一里塚の形式」を今に伝えている。
 ここに生えている榎の樹齢が400年以上であれば、その頃に植えられたもので、もっと若ければ、その後に植え替えられたものとなるが、このまま放置し根が張りすぎて土饅頭が壊れないのかと心配になる。



 ・一里塚は、街道の両側に設けられていたという説もあり、もしそうであれば、当「畦町の一里塚」は、明治以降の道路の拡幅などにより、道路の北側にあったものは消滅し、南側にあったものが残ったということになる。


藤崎一里塚跡 ・唐津街道に一里塚があったことは、現在、(地下鉄藤崎駅上の)藤崎バスセンター1番乗り場の右前方、福田眼科医院(福岡市早良区藤崎1-24-1)の横に「藤崎の一里塚案内碑」があり、存在していたことが分かる。


 ・「一里塚」は、明治維新後、参勤交代がなくなり、また、道路の拡幅、交通網の整備、交通手段の変化などの理由で、その存在意義がなくなり、当唐津街道に限らず全国のほとんどが消滅した。
 したがって、ここに残っている「畦町の一里塚」は、全国的にも貴重な歴史文化遺産だと思う。


 (2) 軍馬の墓(馬塚)説

 ・しかし、なぜか地元では、この塚を「軍馬の墓・馬塚」だと言っており、「一里塚」とは見ていないようだ。

 ・「軍馬の墓・馬塚」と聞いたのは、つい最近のことで、聞いた当初はびっくりし、もし「軍馬の墓」だとしたら、それは、明治か、昭和時代の軍馬なのか、誰が乗った馬か、なぜここに馬の墓を作ったのか等々の疑問が脳裏を巡り、あまりにもあり得ないと思えることで何のことか分からなかった。

 ・だが、その後、手持ちの「福岡県の城(廣崎篤夫)」の「高宮城」(畦町)の頁に「ついに畦町の川端で(高宮勢と戦う多賀)隆忠の首を討ち取った」との記事があることに気付いた。
 そこで「筑前國續風土記拾遺」で「高宮古城」を調べたら「弘治三年(1557)七月…隆忠ハ畝町(※畦町のこと)の川端にて…討れけり」の記事があったので、やっと、ひょっとしたら、軍馬とは、このときの合戦で死んだ馬のことを言っているのかと思った。

 ・高宮城(高宮古城)は、この馬塚の北側に見えるお椀を伏せたような形をした小山に築かれていた山城(許斐城の端城)で、その間を西郷川が流れているので、畦町の川端とは、この川の畦町の川端のどこかということなのだろう。

 ・この合戦について、手持ちの「畦町物語1(唐津街道畦町宿保存会)」は「畦町河原の合戦」としているが、この書には「軍馬の墓(馬塚)」の記事は載っていなかった。
 (※「畦町河原の合戦」については次回記す)。

 ・改めてネットで調べていたら「よかとこ福岡BY福岡県徹底探検隊」のブログに「畦町(あぜまち)馬塚の謎」という項があった。
 それにより、この塚が畦町河原の合戦で死んだ「軍馬の墓・馬塚」とされたのは、「文化福津第6号(2011年)」に掲載された「畦町河原の合戦(岩隈寛/ギャラリー畦)」の記事だったことが分かった。

 ・時代は、まだ「畦町宿」ができた時代より一昔前の時代のことになるが、この説が吟味されないまま固定化されると、今日に残された貴重な「一里塚」は、一里塚ではなくなり、一気にその歴史文化財的評価を失ってしまう。事実、そのようになってしまっているように思えて残念である。

 ・「よかとこ福岡BY」さんは、「畦町馬塚の謎」を、いろいろ考証した上でやはり、これは「90%方一里塚」だとされているが、「一里塚」とみて間違いないと思う。

 ・出来れば行政(市教委)で調査し、史料の有無は分からないが、「一里塚」に間違いなければ、文化財、史跡等の指定をしてほしいものだ。


 (3) (畦町の一里塚の)前後の一里塚

 ・「よかとこ福岡BY」さんは、畦町の一里塚の前後にあったと思われる一里塚があった場所についても考察もされているが、この場所についても小生が考えていた場所とほぼ一致していた。

 ・即ち、赤間方面に向かっては、「お大師様の可能性が高い」とされている。
 この「お大師様」とは、唐津街道原町宿南搆口にあるお堂のことで、小生は、このお堂が建っている盛土が「一里塚の跡」ではないかと思っていたので安堵した。
 ※別記参照→「唐津街道原町宿南搆口と原町館原釈迦堂へ(宗像市)」。

 ・また、青柳方面に向かっては、古賀市筵内の高柳池の下方(古賀清掃工場エコロの森の近く)に残っている旧道付近を考察されている。
 小生は、同上高柳池(小生は池の名は知らなかったので上記の受け売り)の築堤の下方に残っている旧道の中ほどに若干残る三叉路が、筵内の熊野神社(若一王子社)の参道東口だったのではないかと思い、この付近に一里塚があったのではないかと思っていたので、ほぼ一致している。
 現在この付近に一里塚跡らしきものは残っておらず、あったとしたら県道拡幅で消滅したものか。

 なお、「この辺りに畦町二里という道標があったが今はない」と記してある。その近く(池の築堤下)に移築されていたような記憶があるが、最近訪問しておらず未確認。

 ※次回→「古戦場(考)・畦町河原の戦い(福津市畦町)」。

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2019年02月17日

旧唐津街道:楢ノ木坂〜古内殿橋(福津市内殿)

 ※前回「旧唐津街道:望玄峠・駕籠立場跡へ(福津市内殿)」から続く。

 (1) 楢ノ木坂の上方へ

1楢の木坂上部の鞍部への上り口 ・前回の望玄峠・駕籠立場跡旧道の北側口(セメント階段)の前から県道503号を横切ると、対面に鋭角で左方に下る「上西郷杉ノ尾橋に至る里道」があるが、その右側(県道の横)に上り坂がある。



 ・ここが、旧唐津街道・楢(なら)ノ木坂の上方に向かう上り口で、道幅2mほどのその入口には、竹が渡されて一般車両の通行を禁止している。…福津市内殿1223付近。
 ※因みに、ここから楢の木坂の出口までは約400m。


2鞍部ミカン畑 ・舗装された急坂を一直線に100mほど上ると、左側がミカン畑となっている峠の鞍部に着く。

 ・日当たりや風通しの良い丘の上に続く平らな鞍部を200mほど歩く。



 ・この間の道の左側は、ミカン畑の後ろに林が続き、その後方の視界は効かない。
 また、右側は、崖下の県道の対面に樹木の茂る丘陵があり、その先の視界を遮っている。

 ・この景色を観ていて、ふと、右対面の丘陵は、県道がこの下を通るまでは、多分、こちら側と一体の丘陵で、県道は、この一体の丘陵を切り通し(分断し)て作られたものかもしれないと思った。

 ・また、ひょっとしたら、県道がここを開削する以前の旧唐津街道の道筋は、上記望玄峠・駕籠立場跡の北側から対面の丘陵を上り、こちらの鞍部に通じていた、或は、同上から斜めにこの鞍部に向かっていたのではないか、そんな気もしたが、確認する術がない。


3鞍部から上西郷小を望む ・鞍部から唯一視界が効くのは、対面の丘陵が切れる右(北)前方の裾に建っている「上西郷小学校校舎」で、今、歩いている旧街道は、この先、同小学校の横に突き当たることになる(下述)。



 (2) 楢(なら)ノ木坂

 ・鞍部上の道路舗装が切れた辺りから、この丘道は下りとなり、森林のなかに入る。この森林のなかを通り抜ける100mほどの坂道が、旧唐津街道「楢の木坂」(ならのきさか)である。
 …福津市内殿1153の一部。


4楢の木坂 ・この森は、杉ほかの樹木や笹竹に囲まれ、薄暗く、どことなく荒れた感じもする。
 この森の道に茂っている背丈の高い雑草や笹竹、木枝等を手で払い除け、踏みつけての踏破となる。


 ・だが、道幅が意外と広く、さほどの苦労もなく、数分で通り抜けたが、辺りの雰囲気を楽しむというような感覚にはなれず、ただ先を急いだ。後で思い直すと、この坂道を「楢の木坂」というのは、楢の木が茂っている(或はかつて茂っていた)からかもしれないが、きれいに忘れていた。

 ・林を抜けると左側に小さな住宅団地(9軒)があり(※右の崖下にも30軒くらいの住宅団地がある)、この通りに面して建っている3軒の住宅の前を通り過ぎると市道「杉ノ尾・内殿線」に出る。(※福津市内殿583付近)。


 (3) 古内殿橋 (旧内殿橋)

5古内殿橋 ・楢の坂下の小団地の出口から市道に出て、そのまま直進するようになだらかな坂道を下り、この道が右カーブしたところ(210m先)に、大内川に架かる「古内殿橋」がある。
…福津市内殿1146付近。



 ・「古内殿橋」は、大内川に架かる長さ6mのRC橋で、「昭和43年3月竣工」(1968)の銘版が取りつけてある。

6銘板7銘板








 ・今、「古内殿橋」と書いたが、橋柱には、「内殿橋」と「うちどのはし」の銘板が付いているので、旧唐津街道ハイカーは「内殿橋」と書いている人の方が多い。

 ・にも拘わらず、「古内殿橋」と書いたのは、ここから大内川を600mほど遡った内殿集落の北口付近(内殿46号線市道・福津市内殿615付近)に、昭和51年(1976)竣工の「内殿橋」(RC橋、長さ6.4m)があるからだ。
 この「内殿橋」の方が新しいので「新・内殿橋」となるのだが、「」の呼称は付いていない。

 ・したがって、この内殿橋」に対して、また、上西郷杉ノ尾・内殿市道沿いの途中にある内殿地域を「古内殿」と呼ぶこともあるので、この路線上に、先にできた「内殿橋」の方を「古内殿橋」とした。
 (※この呼称は公的にも通用するとのこと)。


8上西郷小西側 ・旧唐津街道は、「古内殿橋」の東、約30m先のT字路で、県道503号に突き当たる。

 ・このT字路の正面が、上記鞍部から見えた上西郷小学校校舎の西側である。



 ・ここを左折すると、県道503号は、JAむなかた上西郷支店の前でT字路となり、ここを右折し、そのまま直進し、内殿東🚥(右に残っている歩道は旧唐津街道の小路か)→畦町入口🚥→唐津街道畦町宿場跡の西構口に入る三叉路(※福津市本木1321付近)までの約850mの間が、ほぼ旧唐津街道の道筋と重なる。
 
 ※次回→「畦町の一里塚・馬塚(?) 福津市」。

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2019年02月14日

旧唐津街道:望玄峠・駕籠立場跡へ(福津市内殿)

 ※前回「旧唐津街道・旦ノ原の井戸(古賀市筵内)」から続く。

1北側の旧道出口と県道歩道 ・前回の「旧唐津街道・旦ノ原の井戸」(古賀市筵内)から同・畦町宿場街跡を目指し、県道503号の坂道を北に下る途中、旧唐津街道の旧道に残る「望玄峠・駕籠立場跡」と思われるところに立ち寄った。


 ・望玄峠・駕籠立場跡の場所:福岡県福津市内殿489付近。


 (1) 飯盛山北陵の坂道を下る(県道503号)

 ・旧唐津街道が拡幅されてできた県道503号(町川原赤間線。※以下「県道」と書く)を通り、旦ノ原の井戸→旦ノ原愛宕神社前・飯盛山登山口へ。

 正面に飯盛山(福津市内殿)を見上げて、ここから県道は大きく左カーブし下り始めるが、その後、緩やかに右カーブした後、ほぼ真北に向かって下り続ける。

 ・県道の左側に付いている歩道は、所々断続的に途切れるので、右側の歩道を下るが、この県道は、飯盛山の北陵尾根筋を通っているので、逆に北側から上るコースを選択したときは、かなりの労力を消耗することだろう。

 ・途中、右の谷下の内橋集落(※日吉神社あり)に下る三叉路があるが、さらにここを直進して下ると、内殿集落(右下方にある)と古内殿集落や上西郷杉ノ尾橋(左下方側にある)を結ぶ里道が交差する四つ角がある。

 ・その四つ角の右手前140m(※旦ノ原の井戸から約1.1kmのところ)に、下る県道(歩道)に沿って逆に緩やかに上る道幅2mほどの旧唐津街道の一部、望玄峠・駕籠立場跡への旧道入口(南側)がある。


2県道503号 ・ここまでが、かつて幅2mほどだった旧唐津街道を、度重なる拡幅工事で2車線(片側全歩道付き、片側部分歩道付き)道路に拡幅された県道である。





 ・拡幅工事により、かつての曲がりくねっていた道幅の狭い旧道は、ほぼ直線的に整備され、かつての面影はない。それだけに、僅かに残った上記旧道には、古道の面影が微かに残っているので貴重ではある。

 ・これより下方に続く県道(約800m)は、まず上記旧道の縁を削り、この先の交差点を横切っていた旧道を分断して通り抜けた新道で、旧唐津街道とは重なっていない。


 (2) 望玄峠・駕籠立場跡の旧道入口(南側)


3旧道口 ・上記の、旧唐津街道の一部、望玄峠・駕籠立場跡への旧道入口(南側)には、その旧道入口の両側に付いていたガードレールが残っており、また、県道歩道に沿って通行止めのロープが張ってある。



 ・推奨はできないが、旧唐津街道の「望玄峠・駕籠立場跡」を確実に踏破するためには、ロープを乗り越え、覚悟を決めて雑草をかき分け行くしかない。

 ・この県道に沿った低い崖の上を通る旧道の距離は150mくらいあり、まず入口の背丈の高い雑草をかき分けて道幅2m足らずの坂道を上ると、すぐに雑木の枝や弦、竹などが行く手を塞ぐ道幅の狭い藪道となり、見晴らしも効かない。

 ・普段、この旧道を通る人はいないので手入れが施されておらず、このような荒れ放題の状態になっているようで、よく切れるナタを手にしての藪漕ぎとなる。
 このような状態なので、旧唐津街道を歩くハイカーたちも、旧道のこの部分を通るのを避け、そのままこの下の県道歩道を歩いているようだ。


 (3) 望玄峠・駕籠立場跡

 ・上記旧道入口(南側)から約100m(※下記四つ角側の旧道出入口の階段上からは約10m)の高い個所が「望玄峠・駕籠立場跡」だと聞いた。

 ・ここから真西(県道側)の方向の先にある「玄界灘」(古賀市花見海岸沖)を望むことができるので「望玄峠」というだと思う。

4駕籠立て場跡 ・かつては、眺望の効くよく開けた場所だったのだと思うが、今は、狭い場所で、西側も藪に囲まれているので、その隙間から望玄するしかなく、かつ気候状況によってはそれを望むこともできない。



 ・「駕籠立場」というのは、道中で乗っていた駕籠を下りて野立などの小休止を行うところをいい、所謂「峠の茶屋」などもこれに該当するらしい。
 したがって、茶屋とは、時代劇に出てくる粗末な仮設小屋のようなものなので、その遺構が残ることはまず考えられず、ここの「駕籠立場跡」にも何も残っていない。

 ・ただ唐津街道は、参勤交代の大名行列も通ったので、ここが大名の御駕籠を置く「駕籠立場」だったとしたら、それなりに広い場所も必要だったと思うが、そこは、県道工事で削り取られたということなのだろうか。

 ・また、大名行列の「駕籠立場」だったら、ここでは、村人などのもてなしもあったと思うので、「駕籠立場」は、最寄りの集落から便のよいところに作らねばならないが、現在、このすぐ下方から右に内殿集落に下りる旧道の一部が残っているので、ここは、利便の良いところではあったように思える。


 (4) 望玄峠・駕籠立場跡の旧道出入口(北側)


5北側の旧道出入口 ・この右折場所が残る地点の左側に、現在、白いパイプ手すりの横に、南側(四つ角側)の旧道の出入口ともなっている「セメント階段」(9段)がある。





 ・この階段の下は、上記県道沿いの四つ角の右手前(歩道あり)で、角地には擁護壁が作られている。

 ・階段の上は、かつて旧道の四つ角、若しくはT字路になっていたようで、特に、ここから左折する旧唐津街道は、現在の県道を横切るように付いていた。

 ・この階段は、この旧道を県道が分断し削り取ったときに作られたものだと思うが、県は単に階段を作るだけでなく、人が常に通れる自然歩道として旧街道の整備にも力を入れて欲しいものだと思う。

 ・この先、旧唐津街道を辿るには、今は失われた空中の旧道に沿って県道を横切り、対面の杉ノ尾への里道の右手前から急坂を上り、坂上から楢(ならの)木坂の藪道を下り、古内殿橋(※橋銘板は「内殿橋(うちどのはし)」のまま)に行くことになる(次回掲載)。

 ※つづく→「旧唐津街道:楢ノ木坂〜古内殿橋(福津市内殿)」。

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2019年02月12日

旧唐津街道・旦ノ原の井戸(古賀市筵内)

 ※前回「旦ノ原の愛宕神社(福津市上西郷)」から続く。


1旦ノ原井戸全景 旧唐津街道「旦ノ原井戸」所在地
 〜福岡県古賀市筵内(番地不詳・県道503号旦ノ原交差点の南約40m)

 (旧糟屋郡古賀町大字筵内字旦ノ原)



 (1) 旦ノ原(旧:團ノ原)

 ・前回、県道503号線が同535号線と交差する「旦ノ原交差点」(🚥なし)の北側に「旦ノ原の愛宕神社」(福津市上西郷)があり、南側に「旦ノ原の井戸」(古賀市筵内)があると書いた。

 ・この辺りは、古賀市筵内・薦野、福津市上西郷・内殿の境界になっているが、これらの行政区に関係なく旧字はすべて「旦ノ原(ダンノハル)」(旧團ノ原)である。

 ・この「旦ノ原」は、飯盛山(福津市内殿)の南尾根筋(丘陵)上にあり、そこは日当たりの良い広い台地(平坦地)となっている。
 そこで、小生は、当初「旦ノ原の地名由来」について、旧團ノ原(ダンノハル)の「團」(ダン)の音に「旦」に当てて「旦ノ原」とした理由は分からないが、この尾根上にある広い台地をみて、尾根=段上、台地=原、広い台地=團地などの案が思い浮かび、勝手に段(上)ノ原、團ノ原となったのではないかと推測していた。

 ・しかるに、筑前國續風土記拾遺は、「旦ノ原の地名由来」について、「上西郷村の項」に、この辺に昔、「團左近將監の宅地」があったから「團ノ原」と云うと言っているようにとれる次の記事を載せている。

 ・「團ノ原ハ飯盛の麓より南に長き岡山也。近年松林と成。南ハ糟屋郡筵内村に属し、東南ハ同郡薦野村、東ハ當(宗像)郡舎利蔵村、北ハ内殿村に隷ス。人家有処ハ黒崎駅よりの官道也。人家ノ少し北飯盛の西南の麓に少しの谷あり。飯盛山ハ内殿村に属す。此邊昔團左近將監と云地士の宅地也と云。今ハ其址通衢となれり。人家の北東(舎利蔵村)に團氏か墓在。…」。

 ・舎利蔵村に在る「團氏墓」については、「飯盛山の南にて團原の人家近し。径を挟みて墳二ツあり。各墳の上に小松立り。村俗は婦夫松といふ。松の本に各石を含めり。是團左近將監夫婦の墓表といふ。文字ハなし。」とあり、この表記の位置を考えると、現在、飯盛山登山口の駐車場がある辺りではないかと思うのだが未確認。
 なお、團氏は、長政筑前入国後、黒田家に仕えた武士で、明治〜大正期の実業家・団琢磨はその子孫らしい。

 ・「人家有処ハ黒崎駅よりの官道也」の官道とは、旧唐津街道のことで、県道503号線は、概ね(すべてではないが)この旧唐津街道を拡幅して作られている。
 旧唐津街道の道筋がそのまま拡幅された旦ノ原地区では、県道503号線の面して残るこの「旦の原井戸」が、度重なる県道503号線の拡幅工事により移設され、復元されたものとはいえ、当時の面影を残す唯一のものとなっている。


 (2) 旦ノ原の井戸

 ・「旦ノ原の井戸」は、県道503号線に面して、その西側に移設復元されている。


2旦ノ原井戸 ・井戸舎に、「旦ノ原の井戸」の由緒を記した案内板(平成21年3月古賀市教育委員会)が貼りつけてあるが、それによると次のようなことが分かる。
 (※以下は原文のままの転記ではないので注意)。



   旦ノ原は、旧糟屋郡筵内・薦野村と旧宗像郡内殿、上西郷村の「二郡四村」にまたがる丘陵一帯のことをいう。
 そのため、ここに作られた「旦の原井戸」は、江戸時代、からつ街道の「二郡四か村の井戸ひとつ」とも呼ばれ旅人に喜ばれた。

   江戸時代、ここを通る参勤交代の要路・唐津街道があったが、丘陵のため水がなく難儀していたので、この地の住人・伊東忠平が、この実情を大庄屋石松林平に訴え、自らの敷地内に井戸を掘る許可を得て、文久2年(1862)秋に鑿井(さくせい)開始し、翌文久3年(1863)秋に「旦の原井戸」が完成した。

   昭和61年の県道拡幅工事で、もと「旦の原井戸」があった場所は、道路敷となったため、荒巻晋一氏の協力により移転した。
更に、平成21年再度の県道拡幅工事で、荒巻裕貴、荒巻照貴両氏の協力により再移転した。
 ※荒巻氏三氏についての説明がないが、移転先の敷地を所有していた人か。

 ・案内板は、「この井戸が唐津街道の当時の様子を伝える歴史資料として、永く愛され、活用されることを願ってやみません」と結んでいるが、2度の移転に係わらず、井戸の中の石組みまで忠実に復元されており、もう井戸水は出ていないとは思うものの驚きに絶えない。


  (3) 伊東忠平祐義碑

 ・旦ノ原井戸の右横に自然石に「伊東忠平祐義碑」と刻した石碑が建っている。


3旦ノ原井戸伊東忠平碑 ・これは、上記(2)の△傍したように、唐津街道を旅する人たちにとって、街道沿いに飲み水を得る井戸がない難儀を鑑みて、唐津街道に面した自らの土地内に旦ノ原井戸を作り旅人の利便に供した功績を記念して建てられたものだろう。


 ・この井戸のさく井にあたって、伊東忠平の訴えを聞き入れた大庄屋石松林平は、郡役に願い出て許可を得たのだとは思うが、それにより郡費を支出する英断を下したのだろう。

 ・また、そのさく井には、当地の郡村境をこえて居住する村落共同体的な農家が20〜30軒くらいはあったかと想像される農民らの労働提供もあったのかもしれない。なお、現在は愛宕神社近く以外であまり民家を見かけない。

 ・この地に居住していた農民は、もとは飯盛山城と係わる中世武士の家系も含まれる前回述の旦の原の愛宕神社の信徒だったかもしれない。
 伊東忠平も農民だと思うが、かつて大森神社の産子で上西郷〜下西郷に根を張った郷士河津氏とつながる伊東姓を名乗っており、祐義の忌み名(法名なのか)もあるので、それなりの家系があった人だとも想像する。
 因みに、宗像市のカメノオ酒造伊豆本店(伊豆家)の先祖は、伊東姓で、平家御家人伊豆国押領使・伊東祐親(曽我兄弟の祖父)だという。伊東祐親と伊東(忠平)祐義とは、一字違いである。

 ※次回→「旧唐津街道:望玄峠・駕籠立場跡へ(福津市内殿)」。

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2019年02月10日

旦ノ原の愛宕神社 (福津市上西郷)

 ※前回「上大森古墳は大森神社の古宮なのでは…(福津市上西郷)」から続く。


1愛宕神社を見上げる 旦ノ原の愛宕神社鎮座地

・福岡県福津市上西郷2035

 (旧:宗像郡福間町大字上西郷字旦ノ原/ダンノハル)





 (1) 旦ノ原(旧:團ノ原)交差点

 ・前回記した「上大森古墳」(県道535号線/飯盛山の西尾根稜線沿い)の南、約500mに、県道503号線と交差する上西郷「旦ノ原交差点」がある。

  ・この交差点の北西側は福津市上西郷、南西側が古賀市筵内(旦ノ原井戸あり)、北東側が福津市内殿(飯盛山あり)〜福津市舎利蔵、南東側が古賀市薦野(北九州市水道局飯盛山追塩施設あり)になると理解している。
 とはいえ、その詳細な区分線については理解できていないが、旧唐津街道の「旦ノ原(旧:團ノ原)」とは、これらの各地区にまたがるこの一帯のことのようだ。

 ・この辺りの県道503号線は、旧唐津街道を拡幅して作られた道路で、この北60m辺りから、正面(北)に内殿の「飯盛山」を見ながら、左(北西)に大きくカーブし下り坂となる。
  この個所の右側に「飯盛山登山口/駐車場」があり、左側角の小丘上に「上西郷旦ノ原(團原)の愛宕神社」が鎮座している。


 (2) 愛宕神社の創始と修験道

 「愛宕社 (上西郷村)枝郷團原に在。宗像臣吉田小太郎秀時と云者(後改名して小田善左衛門と云)天正廿年初て此所を開き家居せり。此時宅の側に将軍地蔵を建立せしか、元禄十五年に秀時か遠孫愛宕社を造立し眞言の修驗者と成て奉祀せり。」(筑前國續風土記拾遺)

 ・ただ、当愛宕神社縁起には、「天文22年(1553)9月、宗像家臣小田善左衛尉氏勝(旧:吉田小太郎秀時)が創建した「太郎坊愛宕大権現」が同社の始まりとなっており、この年号は、何故か拾遺にいう「天正廿年(1592) 小田善左衛門が初て此所を開き」より39年も古い時代になっている。

 また、「江戸時代中期元禄15年(1702)その子孫久兵衛、一子を真言修験とし、以来代々小田家(現織田家)によって祭祀されている」とあるが、拾遺は「元禄十五年に秀時か遠孫愛宕社を造立し眞言の修驗者と成て奉祀せり」と記しており、この年に愛宕社が造立されたとしている。

 ・よく分からないので、ここでは、当初、吉田秀時が屋敷神として勧請した将軍地蔵を「太郎坊愛宕大権現」と号し、元禄15年に至り、真言修験者となった子孫が「太郎坊愛宕大権現」を祭る「愛宕社」を造設、公開し、唐津街道沿いと云う地の利を生かし、祈祷などにより多くの信者を獲得したというように考えてみた。

 ・しかるに、当初から「将軍地蔵・太郎坊愛宕大権現」を勧請していたのであれば、当家は愛宕山修験道と係わっていたことになる(下記)。

 ・因みに、宗像家家臣団のなかにあって吉田氏は重鎮の一であり、この吉田小太郎秀時という人も、その吉田氏の一員だったのではないかと考えられる。
 後に小田姓に変えた理由は分からないが、中世、宗像氏と相対していた立花氏の進攻を抑える飯盛山城が飯盛山にあり、その登山口に居を構えたということは、飯盛山城の城代を任せられた家系であったかもしれない。
 そして、愛宕神社の近くに居を構え、同社を守り神としていた人たち(現4軒、及び当地を退居した20軒前後の人たちを含む)の祖先も飯盛山城を守っていた宗像家の家臣だったのかもしれない。

 ・なお、愛宕神社の左横にある織田家が、小田善左衛門の子孫に当たる家なのだろうか。現在、当社の祭祀は大森神社が行っているとのこと。


 (3) 飯盛山修験道と係わるか

 ・以前、別記した「大森神社ァ糎羣弯析暫」のなかに、「飯盛山(福津市内殿)の登山口近くに愛宕神社があり、愛宕神は、火の神ないし火伏せの神の迦具土神(かぐつちのかみ)。修験道では愛宕神の本地仏は勝軍地蔵。飯盛山には修験道の影が見え隠れする。この愛宕神社と飯盛山が係わりあったと考えると、その麓の「小盛社」御祭神は、水を掌る神、「水象女命(みずはめのみこと)であったかもしれない。」と記したことがあった。

1-2愛宕神社から飯盛山を見る ・つまり、当愛宕神社の対面に飯盛山登山口があるので、当社と飯盛山にもあったと想像される修験道との間に何らかの係わりがあったのではないかと考えていた。
 しかるに、上記縁起で、愛宕社創立は中世(或は近世)以降で、愛宕社の修験道はそれ以上には遡らないことが分かった。手持ち史料だけでは飯盛山に修験道があったのかについても近世以上に遡れない。



 ・近世、飯盛山に修験道があったかについては、筑前國續風土記附録の内殿村の項に「寶満宮イイモリヤマ(飯盛山)・福地神相殿」の記事が見え、また、同拾遺には「飯盛明神社・飯盛山の頂に在。今ハ宝満宮といふ。玉依姫を祭れり。相殿に福地神あり。小祠なり。」の記事があるので、江戸時代の飯盛山には、玉依姫を祭祀する「宝満宮」=寶満山修験道が存在していたようにも思える。

 なお内殿の日吉神社の境内社「福地神社」は、その小石祠が作られた明治19年(1886)9月頃に飯盛山を下った福地神(廃止された宝満宮相殿神)を祀った神社ではないかと思っている。

 ・これにより、飯盛山の修験道と愛宕神社の修験道との係わっていたように思えたが、宝満宮は天台系修験道であり、愛宕社は真言系修験道であり、宗派の違いがある。


 (4) 太郎坊愛宕大権現

 ・祭神は、加具士神(かぐつちのかみ)である。
 なお、神仏習合の時代には本地仏勝軍地蔵尊、脇侍不動明王・毘沙門天を祀っり、当初は「太郎坊愛宕大権現」と号した。

 ・いずこの愛宕神社も、当初は「太郎坊社」、「太郎坊愛宕大権現」と呼ばれていた例が多く、これは、山城国(京都)の愛宕神社の総本宮をかつて「愛宕山太郎坊」(天狗)と称したことと係わる。そして、ここで、愛宕山修験道と係わる戦神「愛宕山将軍地蔵菩薩」を本地仏とする「軻遇突智大神」(加具土之神・愛宕神)を祭神する。

 ・宗像地方では、冨士原の愛宕神社(宗像市冨地原字銭垣1315)があるが、その由緒縁起にも「社説に拠れば縁起に天慶三年(940)宗像大宮司氏男、山城國愛宕嶽大神を勧請せる由見えたり。…此社は元、太郎坊社と稱へしが、寛政の後愛宕神社と改稱す」と記されている。
 ※別記参照→「愛宕神社へ(2)旧太郎坊社・太郎坊橋(宗像市冨士原)」。

 ・因みに、上西郷の愛宕神社の創始者は、上記のように「宗像臣吉田小太郎秀時」と云う吉田氏だが、冨士原の愛宕神社の縁起に、「村上天皇康保元年甲子五月兵乱、此時宗像臣吉田氏重平素愛宕神を信ず、戦功ありて社壇を修造し四社を加へ祭祀す、田心姫神、瑞津姫神、市杵島姫、惶根命の四神之なり」の一文があり、つくづく宗像臣吉田氏と愛宕神は係わりがあったように思える。

 ・また、太郎坊天狗、愛宕将軍地蔵については、下記に詳しく記したので参照のこと。
 ※別記参照→「上秋月愛宕神社にて(1)~太郎坊天狗(朝倉市)」。→「上秋月愛宕神社にて(2)~愛宕将軍地蔵(朝倉市)」。


 (5) 愛宕神社社殿・絵馬

2愛宕神社鳥居と社殿 ・神殿・拝殿一体型、木造瓦葺〜昭和61年(1986)、社前の県道503号線が拡幅されたときに境内が削られ改築された。
 ・拝殿入口の扉は施錠されており、無断上段はできない。


 ・入口扉の小さな格子窓から拝殿内を覗き見ると、正面の鴨居に掲げてある「愛宕社」の木彫神額が見える。


3愛宕神社絵馬 ・また、左側の窓(不透明ガラス)の上に色褪せた「富士巻狩図」の絵馬が掲げてあるのが分かる。
 この絵馬は、「文化十一年(1814)戌歳八月吉日奉寄進 當村伊東姓惣治郎」である。


 なお、以前、絵馬はこのほかにも3枚あると聞いていたが、格子窓からは確認できなかった。


 (6) 境内神社

4愛宕神社境内神社 ・愛宕神社社殿の右奥にある一戸4神殿(区分あり)の木造瓦葺長屋造社殿に境内神社がまとめられており、各社の扉の上に、神社名を書いた板札が貼り付けてあるが、いずれの札も字が消えていてまったく読めない。


 ・各扉のなかには御神体として丸石が納めてある。
 そのなかには、「三重稲荷神社」「地主大神」と彫ったものがあり、これは、筑前國續風土記附録の「社内に日田明神・多賀明神・稲荷・地主權現社あり」の記事のうちの稲荷・地主權現社と符合する。

 ・ただし、現在、ここに祭神されている境内神社は、日田神社(日田明神と符合)祭神大日霊神(天照大神)、多賀神社(多賀明神と符合)祭神伊弉諾命、疫神社祭神八十枉津日神、貴船神社祭神闇龗神のようだ。


 (7) 石造物ほか

 ・「石鳥居
 〜十数段上った石段の上に明神石鳥居が一基建っている。
 「昭和三年(1928)十一月・大典記念・若松市 坂丸丈太郎ほか(省略)」による建立。※若松市は、現北九州市若松区。かつての信者さんの広がりが伺える。


5愛宕神社水盤と汐井台 ・「水盤
 〜丸みのある自然石の上部を刳り貫いた手水鉢で、「御霊前 太郎坊權現 寶永七庚寅年二月二十四日」(1710)の刻が読める。
 これにより、当時、当社が「太郎坊權現」と称されていたことが分かる。


 ・「お汐井石台
 〜「(?)田正兵衛 明治廿七年中春」(1894)の刻が読める。

 ・「征露記念碑

6愛宕神社征露記念碑 〜「征露記念 明治三十九年二月 藤棚柱建設」(1906)の刻が読めるので、当時境内に藤棚があり、明治37年(1904)2月〜明治38年(1905)9月にあった日露戦争の勝利を記念して、藤棚柱が建設されたものか。



 特に福津市は、その海岸が、明治38年(1905)5月27日〜28日に対馬沖で行われた日本海海戦の戦場に近く、その勝利の歓喜に沸いたものと想像する。福津市渡には、この海戦を記念して建立された東郷神社宝物館もある。因みに、現在の日本は、露国にいいようにあしらわれているように思えてならないが。

 ・桜樹
 〜社殿の右方の崖の上に数本のソメイヨシノが植樹されており、開花時期には、県道から境内を見上げても美しい。常時、境内の清掃は行き届いている。


 (8)追記〜「たらぼー様参り」(畦町物語1の記事から)

 ・畦町物語1に掲載されていた「小学生の頃の話(的場芳子さん)」の記事の一部を転記させていただく。
 「たらぼー様参りの話。毎月、当番三人ずつ連れそって、旦の原にある愛宕神社に、たらぼー参りに行きよった。なんでもそのお宮は火事の神様で、畦町は江戸時代の昔から火事が多かったからやろうな。正式には太郎坊様ていうとげな、でも私たちゃあ…たらぼー様て言いよった。上町、中町、下町、で順番に当番が回って来よった、と行く時きゃ、ちゃんと木で作った絵馬みたいな御札(ふだ)を持っていきよった。旦の原まで遠かろうが、…けっこうきつかったよ。」。


 ※次回→「旧唐津街道・旦ノ原の井戸(古賀市筵内)」。

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2019年02月06日

上大森古墳は、大森神社の古宮なのでは…(福津市上西郷)

 ※前回「上西郷の大日・薬師・弥勒御堂(福津市)」から続く。

 (1) 飯盛山の西尾根・県道

 前回、「蓑生(ミノヲ)」という地名は現存しているのだろうか。蓑生は、和名抄にその名が残る古地名で、もし、この辺りを蓑生と云うのであれば、かつてこの辺に、宗像郡「蓑生郷の惣社」と言われた「大森神社(福津市上西郷801)」の古宮があったとも考えられるというようなこと書いた。

 蓑生の地名の存在を確認して書いたわけではないが、「杉ノ尾橋と周辺覚え(福津市上西郷)」のなかに次のようなことを書いていた。


1上大森古墳の杜 即ち、県道535号線の南東部の道沿いの南側に「上大森古墳(かみおおもりこふん)」(※画像1)があり、「上大森」の名称からして「大森神社の古宮地」だと思う、と書いた。




 「上大森古墳」は、前回の「上西郷の大日・薬師・弥勒御堂」入口から県道535号線を南東(旦ノ原)方向に約1.7kmに進んだ道沿い(※上西郷旦ノ原交差点の手前約500m) にあり、この間の道路は、飯盛山の西尾根稜線上に造られている。

 因みに県道535号線は、時々車で通り、上記2.2kmを歩いたこともあった。
 特に「上大森古墳」の前後2kmの間は、道幅が狭く、杉林や竹林があり、その間に「産業廃棄物中間処理施設」や「自動車解体作業場」があるが、人家がまったくなく、昼間通っていても不安になりそうな道でもある。また、舗装道とはいえ、ひび割れや水溜りもあり、雨天やその後は、泥が跳ねあがる悪路となる。


 (2) 大森池下溜池など

 「上大森古墳」の近くで、「大森神社」と同じ「大森」の名が付いているものに「大森下貯水池(溜池)」(大森池下溜池)がある。
 この池は、同古墳の北東・直下の谷あいにあり、「嘉永年間(1848〜1854)築造」だという。その上方にも池があり、この池はもともとあった大森池(古池)か。

 現在、この尾根の上・下一帯で人家をまったく見かけないが、この地区には、幕末の上記溜池の作造前や、戦時中の「上西郷陸軍弾薬庫」の設置前などに退去させられた農家もあったようで、かつてこの一帯には大森集落が存在していたと思われる。

 ただ、近くで古代の住居遺跡の発掘例を聞かず、古代の状況は分からないが、この「上大森古墳」の周辺に、古代より人家がなかったということはないと思う。

 なお、以前、上大森古墳の近くから大森下池の築堤をつなぐ山道があったような記憶があり、最近、行ったときその道を探してみたが分からず、記憶違いだったのか。


 (3) 大森神社の元宮(古宮)小盛神社跡か

 「上大森古墳」は、福津市(旧福間町)教委の記録によれば、根拠は分からないが、古墳時代後期(5世紀末~6世紀末)に築造されたものではないかと推定されている。


2上大森古墳墳丘 古墳の被葬者など、詳細は分からないが、「墳丘の高さ3m、直径13mの横穴式円墳」で、ほぼ原形のまま残っているものだと考えられ、この状況を目にして確かに云えることは、見た目に「小盛の墳丘」であることだ。(※画像2)


 小生は、この「上大森古墳」のこの「小盛」の墳丘を見ていて、かつて蓑生郷の惣社と言われた「大森神社」の古社(元宮)小盛神社は、この古墳の被葬者を大守(小守)神として祭祀するために、ここに作られていたのではないか、と推定した。

 小生のこんな推定をする人をほかで聞いたことがないが、当地は、次の史料の記述とも合致していると思っている。

 現「大森神社」は、大倉の杜に鎮座しているが、当初より同地にあったものではなく、「大森神社」が「大森」の名を冠していることから見ても、古くは「大森」にあったことが伺える。
 このことは、筑前國續風土記附録にも「(大森神社は) 昔は(上西郷村)属村大森にあり。故に大森の號ありと里民傳へり。」とある。

 また、筑前國續風土記拾遺は「大森神社…古へは(上西郷)村の東飯盛山の麓(團原人家の西也)小盛(ヲモリ)に在。後に小盛を誤りて大森と云フ。…宗像宮神社記に飯盛の小盛神社と有ハ是也。」とある。

 この「團原」は、今の「旦ノ原」であり、その「西の小盛」は、その西にある「小盛の円墳」、つまり「上大森古墳」の位置と合致していると思う。

 また、古墳の被葬者を御神体として設けられた神社の例は数多く、この「小盛」の円墳の被葬者を御神体として祭祀する「飯盛の小盛神社」(大森神社の前身)が、飯盛山の西尾根上にある上大森古墳の敷地内に設けられたと考えてもおかしくはないと思う。その敷地の杜は西側に広がりを見せている。

 小盛神社(小盛社)は、大森神社の往時三社(飯盛社、小盛社、西塔田若宮社)の一とされており、この祭神について、私見では、「飯盛社が伊弉册命、小盛社が水象女命、西塔田若宮社が事代主命」ではないかと推測しているが、この水象女命については、或は上大森古墳の北東側・直下の谷あいにある上西郷側の水源(大森池古池を含む)が意識されていたかもしれない。

 なお、被葬者は、古代上西郷地区を治めた大守となるが、古墳の北側の谷底には、かつて祇園社(素戔嗚命)や谷底神社(稲田姫)の元宮が鎮座していたし、大森神社を惣社とする地区には素戔嗚命(物部祖神)を祭神する神社が多く、また同地区内の津丸には鞍手郡から遷ったとされる「神興神社」もあるので、かつて鞍手郡に古代王国を築いた古代物部氏と係わる統治者だったのではないかと思っている。


 (4) 上大森古墳の入口

 上大森古墳(円墳)は、その南側が半円形にカーブした県道と、その東側の林道(坂下は古賀市筵内)が交わる場所にあり、孟宗竹や樫等の林に覆われている。

 墳丘の南下方部分を断割るように古墳入口への墓道(羨道)が付いている。
 丁度、東側の林道に並行に隣接する場所になるが、現在、林道側は自然の竹垣が完全に行く手を塞いでおり、林道側から古墳に近づくことはできない。


3上大森古墳羨道口 県道側のガードレールを乗り越えて古墳に近づいたが、墳丘を含む周辺は孟宗竹林(枯れ竹を含む)が覆っているので、それらをかき分けながらやっとの想いで、この反対側にある墓道に行き着いた。しかし、ここも孟宗竹が行く手を遮る。

 さらに、古墳の入口は、土砂で大部分埋まっており、古墳内に入ることはできない。(※画像3)



 足元に注意して、僅かに開いている上部の穴から内部を覗いても中は真っ暗で何も見えない。
 このようなことは危険が伴うので、推奨できないことだが、電灯で照らしてちらっと中を覗き見すると、前室、袖石、玄室、巨大な天井石や壁石、積み重ねられた無数の石などが微かに見え、大変立派な古墳であることが分かる。

 まさに見た目は「小盛の円墳」であっても、古墳の主を「大守(小守)大明神」として祭るにふさわしい内部構造を有する古墳であることが伺え、やはり、この「上大森古墳」が「大森神社の元宮(古宮)・小盛神社」だったのではないかと思っている。

 ※別記参照→「大森神社(福津市)〜黒なまず様」。
  →「大森神社◆疎腓覆泙才佑陵浬」。
  →「大森神社〜旧蓑生郷宗社」。
  →「大森神社ぁ組喟校(大守社)」。
  →「大森神社ァ糎羣弯析暫」。
  →「大森神社の梛〜秋篠宮殿下の御参拝記念樹」。


※次回→「旦ノ原の愛宕神社 (福津市上西郷)」。

keitokuchin at 23:41|PermalinkComments(0)

2019年02月04日

上西郷の大日・薬師・弥勒御堂(福津市)

  ※前回「杉ノ尾橋と周辺覚え(福津市上西郷)」から続く。
 
  [所在地] 福岡県福津市上西郷1623付近。

 ・前回記した「杉ノ尾橋」から里道(上西郷・杉ノ尾線)を通って杉尾集落に入るとなだらかな上り道となるが、この集落を通り抜けると県道535号線(※県道と言っても田舎道)にT字形に突き当たる。

1大日薬師弥勒堂参道口 ・その対面は、県道より若干盛り上がっている農地で、ビニールハウスがあるが、その右端の外側の斜面に、白地の立札が建っている。
(※画像1)




 ・立札の文字は一部消えかかっているが、「大日如来 薬師如来 弥勒菩薩 御堂」と読める。 
 このお堂の正式の名称が分からなかったので、この立札を見て、本稿表題を「上西郷の大日・薬師・弥勒御堂」とした。

 ・ここから、両側の農地の間を一直線に延びる幅の狭いアスファルト参道が30mほど付いており、この突当りに、周囲の見晴らしの良い農地のなかに特出したように古墳を思わせるような小丘がある。


2大日薬師弥勒堂 ・小丘の斜面に設置してある15段の石段を上ると、正面に木造瓦葺の立派なお堂が建っている。
(※画像2)





 ・お堂の入口扉は、施錠してあり、堂内の確認はしていないが、大日如来、薬師如来、弥勒菩薩像などが安置してあるのだろう。

 ・筑前國續風土記附録の上西郷村の項に「藥師堂 ミノヲ」「大日堂 同上」が載っているが、この二堂が、多分、ここにある薬師如来、大日如来を安置していたお堂に該当するのではないかと思う。したがって、この薬師、大日の二如来は、同附録が完成した寛政10年(1778)以前からあり、以来今日までその信仰が続いてきたことが伺える。

 ・「 ミノヲ」は、「蓑生」だと思うが、この地名は今に現存しているのだろうか。 
 因みに、かつて「大森神社」が宗像郡「蓑生郷の惣社」と言われたように、蓑生は、和名抄にその名が残る古地名である。もし、この辺りを蓑生と云うのであれば、大森神社の古宮が、この辺にあったとも考えられる。

 ・なお、同書には「弥勒堂」が載っておらず、弥勒菩薩は、上記時期以後に作られたものだろうか。

 ・また、お堂の外に「石祠」「庚申塔」などがあったが、詳細は未調。ここには再訪しておらず、これ以上のことは調べていない。
 なお、上西郷地区の「庚申塔」は、このほかに、太平寺境内や上西郷公民館の近く、大森神社境内などにもあったが詳細は調べていない。


 ※次回→「上大森古墳は、大森神社の古宮なのでは…(福津市上西郷)」。

keitokuchin at 19:53|PermalinkComments(0)

2019年02月03日

杉ノ尾橋と周辺覚え(福津市上西郷)

 ※前回「やくじんさま(福津市上西郷)」から続く。

杉ノ尾橋
















 現「杉ノ尾橋」は、昭和35年(1960)に作られた長さ約5mのPC橋である。
 「杉ノ尾橋」の所在地:福岡県福津市上西郷1031。

 ※画像は、前回記した「やくじんさま」(厄神社/上西郷1679)の小丘上から北東側を見下ろしたもので、「やくじんさま」下の里道(上西郷・杉ノ尾線)がカーブするところ(約80m先)に写っている小橋が「杉ノ尾橋」である。

 以下、この画像を見ながら覚えを記しておく。

  画像の中央、上部に写っている森は、一画に「谷底神社」(上西郷804)がある「大森神社」の大倉ノ杜で、両神社は、「杉ノ尾橋」の上(北側160m)に見える四つ角(上西郷791)の右(東)、約100m先の左側にある。
 なお、この四つ角の左上(北西)の建物は、折目酒店(上西郷905-3)で、ここに「上西郷バス停」がある。

  「杉ノ尾橋」が架かっている小川は、この右方(北東)にある飯盛山(福津市内殿)の北西部の谷底から流出(「大森下(貯水)溜池」の溢流水を合流)する「上西郷川」の上流である。
 この上西郷川は、この後、下流(左・北西方)にある「日蒔橋」(県道535号)の下で「西郷川」に合流し、福津海岸の河口から玄界灘に流れ出る。

  「杉ノ尾橋」の手前から農地のなかを右に行く農道が写っているが、この農道の先に「上西郷の旧陸軍弾薬庫」や「大森下溜池(貯水池)」等がある。
 また、途中から右に分岐して納骨堂の前を通り、次の分岐を直進すると、その途中から右に県道535号線に出る林道(舗装なし)がある。因みに、この県道を左(南東)に進むと、道沿いに「上大森古墳」があるが、上大森は、その名称からして上記の大森神社と係わりのある古地だと想像する(別記する)。

  「杉ノ尾橋」のすぐ先(※乗用車が写っているところ)から右に入る里道は、内殿・杉ノ尾線で、ここから600m先の四つ角(内殿1184)を左折して約800m進むと「古内殿橋」(旧唐津街道)→上西郷小学校に至る。

  同上四つ角を左折せずに直進し、210m進んだ左側の溝(古内殿川渕)がある個所の森に、里道に面して見落としがちな「ミニ庚申塔」がある(内殿1200付近)。

 さらにここからカーブの大きい坂道を360m上ると、県道503号(内殿532)を横切り、さらに進むと、「内殿公民館」や「宗像四国西部霊場第82番内殿観音堂」等がある福津市内殿の集落の中心地に至り、この道を同第82番霊場〜同第6番霊場上西郷薬師堂(上西郷1059太平寺境内)の参詣道に利用する人たちもいる。
 なお、県道503号を横切るところの左右には旧唐津街道の旧道跡が残り、このうち県道の手前から左に急坂を上る旧道(車不可)を歩いて上記「古内殿橋」に行くこともできる。

  「杉ノ尾橋」の名称について、前回、「やくじんさま」の社祠の横に建っている寄附碑に「杉尾組合」の文字があったので、この集落の名を「杉尾」(すぎのお)というのかもしれない、したがって、この名を橋の名称に付けたのかもしれないと書いた。

  「杉ノ尾(杉尾)」の名称は、多分、この杉尾集落が飯盛山の北西、上大森に続く山稜(県道535号線上の稜線)の末端部に当たる丘陵上にあるので、当地が文字通り「杉の生えていた尾」(杉山、杉尾根、杉峰、杉林)であったことに由来しているのだろうか。

  上西郷・杉ノ尾線の里道は、「杉ノ尾橋」から手前(南)の「やくじんさま」下から杉尾集落内に入り、なだらかな坂道を上りながら、途中から道沿いに(西方に)右折し400m進むと県道535号線に出る。
 なお、この県道の対面の農地のなかの小丘上に「大日・薬師・弥勒堂」(如来・菩薩堂)がある(次回掲載)。

 ※次回→「上西郷の大日・薬師・弥勒御堂(福津市)」。

keitokuchin at 18:35|PermalinkComments(0)

2019年02月02日

やくじんさま (福津市上西郷)

 ※前回「太平寺の創立由来に疑問(福津市上西郷)」から続く。

・やくじんさま(厄神社)所在地:福岡県福津市上西郷1679。


1やくじんさまの丘 ・前回の太平寺は、大森神社・谷底神社の右前方の四つ角を左折し小橋(杉の尾橋)を渡り50m先の三つ角(集落の入口)を右折すると左側にあるが、「やくじんさま」(厄神社)はこの三つ角の左側の小丘上にある。(※画像1)



 (1) やくじんさまの赤鳥居

 ・里道から左の小丘の斜面をV字のように曲がって上る急なコンクリート石段(18段)→土道が付いている。


2やくじんさま赤鳥居 ・振り返るように曲がって上る石段上に、小さな赤鳥居(平成4年4月建立)が建っている(※画像2)。
 ・この赤鳥居は、鉄板や鉄パイプを組み合わせて作られ、全体を朱く塗装したものである。



3やくじんさま鳥居額 ・この鳥居を一見すると稲荷神社の赤鳥居のように見えるが、赤く塗られた額束に、黒ペンキで「やくじんさま」と記されているので、稲荷社ではない。
(※画像3)



 ・この「やくじんさま」について、最初はピンとこなくて、一瞬「薬師神様」か、と勘違いしたが、「厄神様」だった。したがって、この丘上に鎮座する社祠は「厄神様(やくじんさま)」を祭祀する「厄神社」である。


4やくじんさま鳥居付近柱 ・ここは、上西郷の一集落の入口に位置しているので、この集落の人々が集落に「厄災」が入ってくるのを防ぐ神様としてここに「厄神様」を祭ったのかもしれない。
(※画像4)



 ・さらに、「額束」に、ひらがなで「やくじんさま」と書いてあるのは、この集落の老若男女が、この神様に親しみを以て接しやすくできるように考えてのことなのだろうか。


 (2) やくじんさま(厄神社の祭神)

 ・当地と隣接する内殿地区にも「厄神社(内殿の日吉神社境内)」があり、大事な行事して毎年12月に「厄神祭」を行っているので、当地方では、「厄神社」を塞ノ神様や庚申塔、道祖神、猿田彦神のような意味合いを持たせて祀ったのだろうか。


5やくじんさま社祠 ・因みに、多分、ここの「厄神社(やくじんさま)」の木造社祠(※画像5)に祭神されている「厄神様(やくじんさま)」とは、上記内殿の厄神社の祭神と同じの次の神々ではないかと思う。



 ・つまり、「直毘神(なおびのかみ、なほびのかみ)」「大直毘神(おほなほびのかみ)」「八十禍津日神(やおまがつひのかみ)」ではないかと推測する。
 これらの神々は、日本神話の神産み神話に表れる古神で、先に「日吉神社〜盗難、廃屋、厄神社など(福津市内殿)」に別記した内容を、ここに再録しておく。

 ・記紀により若干の違いはあるが、黄泉国から逃げ帰って来た伊弉諾命(イザナミノミコト)がその穢れを払うための禊を行ったとき、その穢れから生まれた禍津日神(八十禍津日神+大禍津日神=大綾津日神…祓戸大神の一柱瀬織津姫と同神説もある)がもたらす禍を抑えるために、神直毘神、大直毘神(古事記では、+伊豆能売)が生まれたとされている。

 なお、伊弉諾命がその禊を行った場所は、当地からほど近い青柳(古賀市/唐津街道青柳宿)だったと言う説もある。


 (3) やくじんさまの境内敷地


6やくじんさま丘上 ・真北を向いた厄神社(やくじんさま)の木造「社祠」が建っている小丘上の敷地には、数本の桜の木が植えられており、開花の頃は花見が楽しめそうだ。
(※画像6)

 

 ・ここから左側(北〜東側)の見晴らしもよく、竹ノ尾橋大森神社の杜などを望むことができる。
 ただ、崖下に民家がある右側(西側)の斜面は崖崩れが起きているようで、急な斜面いっぱいに空色の大きなビニールシートが張られていた。

 ・社前の左、「手水石鉢」の後ろに建っている小石碑に「寄附 五畝十歩 伊藤竹十殿 杉尾組合」の文字が刻してあったので、当社の境内は、さほど広くは見えなかったが、それでも「五畝十歩=160坪=約528」あることが分かる。

 ・なお、「杉尾組合」の文字があるので、当集落の名を「杉尾」(すぎのお)というのか。したって、大森神社方面からこの集落に入る手前の小川に架かる小橋の名称を「杉ノ尾橋」というのかもしれない。

 ※次回→「杉ノ尾橋と周辺覚え(福津市上西郷)」。

keitokuchin at 18:56|PermalinkComments(0)