2019年04月

2019年04月29日

宗像四国西部霊場10・48・64番ほか(福津市本木)

 ※前回「宗像宮道碑(福津市畦町)」から続く。

 (1) 概要

 ・前回の「宗像宮道碑」から県道530号を本木方面に南下すると、その途中、道路の左側にやや三角形に近い大池(※竹ノ尾池)がある。

1本木霊場五堂全景 ・この竹ノ尾池の後ろにある小丘陵上の東方に「宗像四国西部霊場本木第10番・第48番・第64番・番外、その他の御堂、及び小石仏群」がある。
(※画像1)




2本木納骨堂霊場への石段 ・竹ノ尾池の裏(東)側に沿った小路の南方からこの小丘陵上の急斜面を上る41段の石段(※画像2)を上り、そこに張られている野球等の玉除けネットの脇から中に入ると、観客席付グランドがある。


 ・このなかを通り抜けると、左側に、さらに一段高い小丘があり、その上に、本木地区の共同納骨堂(鉄筋コンクリート造)が建っている。


3本木納骨堂境内霊場 ・その正面の石段(14段)を上り、納骨堂の右前の置いてある自然石の水盤を避けるようにして右後方の奧に進むと、林に囲まれたなかに、上記の霊場や石仏群がまとめられている。(※画像3)



 ・ここにL字形に並んで建っている「五宇の小御堂」(奥3堂、右前2堂)や、その前庭に整然と並んでいる「小石仏群弘法大師石像小石碑」等を目にすると、ある意味壮観である。

 ・これらは、当初からここにまとまってあったものではなく、多分、本木の各所に別々にあったものを、明治以降にここにまとめたものではないか思う。


 (2) 小石仏群 


4本木霊場石仏群 ・前庭に5列に並べて置いてある「小石仏群」の数は、合計101体で、この数の石仏が当初からまとまってここに設置してあったとは考えづらいが、詳細は分からない。
(※画像4)



 ・小石仏群の配列は、左から第一列目(内向き)23体。第二列目(同左対面)19体。第三列目(同左背中合わせ)19体。第四列目(同左対面)20体。第五列目(同左背中合わせ)20体である。


5本木霊場弘法大師・石碑 ・また、別に、小石仏群の第二・三列目の右端に、石造「弘法大師坐像」(※顔部分が判別できないほど痛んでおり、首部分をつなぎ合わせたような跡もあり、風化が進んでいる)と「小石碑」が1基ある。(※画像5)


 ・この小石碑には、刻字の彫りが浅いが「御國順禮 同行 五番善通寺地蔵」と読める。

 ・この小石碑がここに建ててある意味の説明はできないが、四国八十八ヶ所霊場の第五番は、荘厳院地蔵寺(本尊延命地蔵 胎内仏・勝軍地蔵菩薩/徳島県板野町)である。善通寺は七十五番(誕生院善通寺本尊薬師如来)で、「誕生院地蔵堂」もある。


 (3) 五宇御堂
 

6本木霊場 ・次に「五宇の御堂」は、すべて間口半間ほどの木造ブロック造トタン葺き、全格子扉付きの建物で、近年、ほぼ同じ時期に建て直されたものかもしれない。
(※画像6)



 ・五宇御堂の建立時期は分からないが、納骨堂建築時(詳細不詳)に、現在地に御堂を建て直し同建設地から再移動したものだろうか。(未確認)

 ・五宇御堂の構成は、「阿弥陀堂二宇、毘沙門堂、地蔵堂、観音堂各一宇」である。

 ・このうち、地蔵堂を除く四宇の御堂は、筑前國續風土記附録に記載あり、カタカナで記してある所(本木内の字名)が、元あった場所ではないかと思う(ピンポイントでは分からない)。地蔵堂の記載はない。

 〇 阿彌陀堂二宇 ドウノシタ、カタミ子
 〇 毘沙門堂(一宇) ハタケダ
 〇 觀音堂(一宇) タケノウチ

 ・このうち元より当地にあったと思われるのは、タケノウチ(竹ノ内)観音堂で、下記によると観音堂一宇のなかに第十番と第四十八番が同居しているが、私見では多分第十番だろうと思っている。

 ・なお、ドウノシタ(堂下)には、西法寺阿弥陀堂があり、この一宇がその阿弥陀堂を指すものかどうかは分からない。(※別記「西法寺と阿弥陀堂 (福津市本木)」参照)。

 ・次に、この五宇の御堂を奥部の左から順次右へと拝観して行くことにする。

  阿弥陀堂(A)」
 …当地に二宇ある「阿弥陀堂」のうちの一宇である。堂面に「本尊阿弥陀如来 (御真言)おんあみりたぜいからうん」の表示在り。堂内には、木造阿弥陀如来立像のほか、(左)小石仏(阿弥陀如来か)、(右)石造小御神像(菅公か)などが安置してある。

 ◆阿弥陀堂(B)」
 …こちらの方が「宗像四国西部霊場本木第六十四番本尊阿弥陀如来」となっているが、堂内に「本尊阿弥陀如来像」はなく、安置してあるのは、坐像石仏(地蔵菩薩か)、木造弘法大師坐像のほか、小石仏2体(不動明王ほか不詳)。

 「毘沙門堂
 …「毘沙門天」の表示があり、堂内に彩色毘沙門天立像が安置されている。昭和42年(1967)10月、信者さんらによる修復が施された(修復費用85,000円)。おんべいしらまんだやそわか。

 ぁ地蔵堂
 …「宗像四国西部霊場本木番外本尊地蔵菩薩…(御真言)おんかかかびさまえいそわか」。堂内には大小石造地蔵菩薩立像4体が詰め込み状態で安置されている。

 ァ観音堂(十一面観音堂)」
 …「宗像四国西部霊場本木第十番本尊観世音菩薩」と「宗像四国西部霊場本木第四十八番本尊十一面観世音菩薩」、及び「宗像三十三ヶ所第二番観音堂」などとなっている。
 しかるに堂内に安置されているのは、朱塗一木造馬頭観音坐像一体のみで、その詳細は分からないものの像形は海蔵寺(遠賀郡岡垣町内浦)の馬頭観音坐像(毎年2/18御開帳)に似ている。

 なお、「西部霊場本木第四十八番本尊十一面観世音菩薩」の御真言として「おんあろりきゃそわか」と記してあったが、この御真言は「十番観世音菩薩」を聖観世音菩薩と考えた場合の御真言とした方がよい。ただし、この観世音菩薩が馬頭観音なのであれば「おんあみりとどばんうんぱったそわか」となる。また「四十八番本尊十一面観世音菩薩」の御真言は、「おんまかきゃろにきゃそわか」とした方がよいと思う。

 ※因みに、四国八十八ヶ所霊場の第64番は、真言宗石鉄派前神寺・本尊阿弥陀如来(愛媛県西条市)。同10番は、高野山真言宗切幡寺・本尊千手観世音菩薩(徳島県阿波市市)、同48番は、真言宗豊山派西林寺・本尊十一面観世音菩薩(愛媛県松山市)である。

 ※次回→「赤御堂板碑 (福津市本木)」。

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2019年04月26日

宗像宮道碑 (福津市畦町)

 ※前回「畦町橋 (福津市畦町)」から続く。

 ・宗像宮道碑の所在地:福岡県福津市畦町524番地

1宗像官道碑 ・旧唐津街道は、「畦町橋」の北東100m先で県道530号線(道幅拡張)と交差するが、この交差点の北東の角地(民家の前)に、立方体の立石「宗像宮道碑」が建っている。
(※画像)



 ・その表面には、碑面いっぱいに毛筆体で「宗像宮道」と書かれた文字が刻されている。

 ・また、建立日等については、石碑の左面に同じ毛筆体で「安政三年歳在 丙辰正月 畦町宿」と刻してある。(※画像)


2宗像官道碑建立日と唐津街道 ・この碑は、江戸時代後期の「安政三年(1856)」に、唐津街道を経由で「宗像宮」(現宗像大社)の参拝に行く人たちの利便を図り、宗像宮への分岐点の「道標」として、畦町宿の人たちが建てたものである。


 ・畦町須賀神社(祇園宮)の祇園祭で街中に繰り出す「子供山笠」は、旧畦町宿東構口を出て、畦町橋を渡り、宗像宮道碑まで来て引き返すので、畦町の人々にとっては、畦町宿の外にあるこの地点までが、畦町宿の範囲内と意識されていたのかもしれない。
 ある意味、ここが宗像大社を遥拝する地点になっているとも考えても良いのかもしれない。
 ※別記参照→「畦町須賀神社(1)〜お祇園様 (福津市畦町)」。

 ・宗像宮道は、ここから、北西寄りに進む道で、現県道530号線と重なる。


3宗像官道 ・この沿線の右側に、かつての宗像五社(宗像大社・織幡神社・孔大寺神社・的原神社・王子神社)の一「的原神社」(福津市八並1020)や「王子神社」(許斐山頂)が鎮座しており、当地方の主要な参拝道だった。


 ・因みに、現在、ここから県道530号線を通って宗像大社に向かうときは、途中で国道3号線(山並🚥あり)を横切り、道幅が急に細くなったところの左側にあるJR鹿児島本線の狭いガード下=車の離合はできない=をくぐり、県道97号線(福間宗像玄海線)に抜けることになる。


 [補記]

 「宗像道碑から大穂町まで(唐津街道)

4宗像官道と唐津街道 ・今回、ここから県道530号線を逆方向に南下して本木地区に向かったので、この先に大穂町に続く旧「唐津街道」を辿っていないが、ここでは、以前、歩いたときの記憶(道のりのみ)を簡単に書きとめておく。
 


付1月ヶ森池 ・宗像宮碑から「月ヶ森池」(福津市八並)に至る唐津街道の上り坂(約220m)をひたすら上る。道幅は狭くなっていくが、月ヶ森池の手前(右側)に近年開店した「このみ支那そば店」(福津市畦町109-1)に行く車が時々通る。


付2このみ窯 ・同店は、その前に開業した「このみ窯元」の建物(同展示場の)一画にある。
 ここの支那そばは好評と聞いて立ち寄ったことがあるが、ぬるめのたれのなかに盛られたその味は美味しかった。

 そば入れ器や湯飲みなどは「このみ窯」焼かれたもので風情もあった。
 今どき「支那」という言葉は死語になっていたのではないかと思っていたが、そばの名として生きていたのかと改めて思い知った。因みに支那そば一杯一杯700円、半そば500円、ちゃーしゅうそば850円だった。


付3唐津街道このみ窯前小仏 ・「このみ窯元」の前に、宗像宮碑方向を示す「唐津街道→」の表示板が立っており、その横に小仏が置いてあったが由緒は知らない。ただ、その横に「月ヶ森池」があるので、係わりがあるのかもしれない。

 そんなことを思いながら、さらに道幅の狭い月ヶ森池の左縁(築堤約180m)を通り抜けると「県道503号」に合流する(福津市八並145)ので、ここを右折する。※なお対面叢路に入ったような記憶があるが記憶曖昧。


付4太閤水 ・県道503号沿いに約200m歩くと右(北)側に「八並の太閤水」(福津市八並130)がある。現在の太閤水の井戸は、平成3年4月旧福間町教育委員会が作ったものだが、井戸を覗き込むと清水が見られる。

 天正15年(1587)3月豊臣秀吉は島津征圧のために九州入りしたとき、この道を通り、この地で休憩しこの地の湧水で喉を潤し、また同年7月帰路においてもこの地の湧水を口にしたといい、その故を以て「太閤水」の名が付いたという。その由緒を今に残すために、現在ここに井戸が作られたのだろう。

 ※この後、山ノ口峠に向かう途中、八並123の民家の左手前から小路に入り黒田藩重臣吉田知年(ちかとし)館(殿ん屋敷)跡地に立ち寄ったことがあるが、どんなところだったかよく覚えていない。

 ・山ノ口峠→(A)太閤水から1km弱先のT字路(宗像市大穂453)右折し、大穂貴船神社前T字路(大穂583)左折して大穂に入る。
 又は(B)、上記(A)地点の先300mでT字路(大穂421)を右折して大穂に入る道が残されているが、多分、旧唐津街道はこちらの方で、大穂町は、大穂の先にあるが、ここでは記さない。 
 なお、上記の県道部分は、車道と段差のない白線で仕切られただけの歩道を歩くことになるので、時々通る車に注意が必要である。
 (本稿で唐津街道「畦町宿跡」散策おわり)

 ※唐津街道畦町宿跡散策のトップ→「畦町の一里塚・馬塚(?) 福津市」。

 ※次回→「宗像四国西部霊場10・48・64番ほか(福津市本木)」。

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2019年04月24日

畦町橋 (福津市畦町)

 ※前回「畦町宿東構口(上町)の庚申塔(福津市畦町)」から続く。

 ・畦町橋の所在地:福岡県福津市畦町130付近。
 …畦町橋辺りは、かつての唐津街道ありし時代の風景とさほど変わっていないような雰囲気が漂っているに思える。


1畦町橋から東構口を見る ・唐津街道畦町宿「東構口」から畦町宿跡の外に出ると、ほぼ直線の緩やかな下り坂が、(本木流出の)西郷川に架かる「畦町橋」(※以下「本畦町橋」と書く)まで約90m続く。



 ・本畦町橋は、橋の長さ11.5mのRC橋で、親柱に「昭和35年12月完成」の表示板が貼り付けてあるので、1960年に付け替えられたことが分かる。

 ・それ以前に、どのような橋が架かっていたかは分からないが、かつて唐津街道を大名や旅人が往来していた時代は、板橋が架かっていたのかもしれない。

 ・東構口から本畦町橋までの道は、上記のようにほぼ直線で下ってきているので、東構口の監視所からは、ここを通る人たちの様子がよく見渡せていたと思う。

 ・本畦町橋から「東構口」を振り返ると、左側に本木山塊の北東端部に位置し畦町天満宮が鎮座する東鼻の小丘陵が見える。
 また、右側にある民家の左には、西郷川左岸の狭い農地と左岸に沿った県道503号町河原赤間線がある。


2畦町橋北西→新畦町橋 ・本畦町橋下の西郷川は、この北東約100m下流で八並川と合流し北西に大きく向きを変えるが、県道503号は、その手前で西郷川を渡る。本畦町橋から、その県道に架かっている橋が見える。


 実は、この県道の橋の名称も、同じ「畦町橋」(1983年架橋/長さ19m×幅11m)である。

 ・同名の橋が近距離に並んで架かっていると、ややこしく、次のように分けて呼ぶ向きもある。
 「旧唐津街道畦町橋」(本畦町橋)を、単に「畦町橋」又は「畦町36号線畦町橋」「畦町本橋」などと呼ぶ。
 「県道503号線畦町橋」を、「県道(河原赤間線)畦町橋」「新畦町橋」などと呼ぶ。


3畦町橋より北東 ・本畦町橋の100m先で、旧唐津街道は、県道530号線と交差し、月ヶ森池に向かって坂道を上り、その先で県道503号と合流し、太閤水〜山ノ口峠を越え大穂町に向かうことになる。


 なお、この交差点の北東の角に「宗像宮道碑」(次回)が建っている。

 ※次回→「宗像宮道碑 (福津市畦町)」。

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2019年04月23日

畦町宿東構口(上町)の庚申塔(福津市畦町)

 ※前回「畦町宿東構口(福津市畦町)」から続く。

 (1) 東構口の庚申塔の場所

 ・畦町宿「東構口の庚申塔(庚申様)」は、「上町(かんまち)の庚申塔(庚申様)」「東鼻(トウノハナ)の庚申塔(庚申様)」などとも呼ばれている。


1畦町宿東構口庚申塔 ・この「東構口の庚申塔」は、「東構口」の表示板が建っている畦町宿東構口跡から、その南側の(東鼻の)崖を数メートル直登した右側の「崖の縁」に建っている。




  ・この崖に、この庚申塔に上る「崖路」(※斜面の一部を削って階段状にコンクリートを流し込んだ路)が付いており、その距離は僅かだが、何しろ急斜面の崖路で、階段は見せかけに過ぎず、簡単には上れない。

  ・最近、二人でここを訪れ、この「崖路」を見上げて、その上に建っている「庚申塔」を確認したが、この崖路を登ることには、一瞬たじろいた。その後、意を決して登り始めたが、やはり二人とも、この僅かな距離の間で数度、足を滑らし、ずり落ちたりもした。 

  ・庚申塔は、この崖路の上、右縁に建っているが、この上には、即急斜面の山肌が続き、孟宗竹や雑木がぎっしりと生い茂っている。
 孟宗竹や雑木の太い根は、「庚申塔」の前まで張り出し、その前の狭い空間に落ち葉も溜まっており、安定した足の置き場がなく立っているのにも苦労した。

 ・足許不如意で体を安定させることができないまま、何とか写真を一枚撮って、早々に立ち去ったが、この崖路を下るときも足が滑った。何しろ大変な場所に建てられているとしか言いようがない。


 (2) 庚申塔の刻銘

 ・この庚申塔は、「畦町宿三庚申塔」の一つで、砂岩質の「角柱形の加工碑」(板状四面)で、所謂、笠なし墓石の竿を思わせるものである。

 ・表面の囲み枠のなかに彫り込まれている文字は「奉庚申」で、その下に多分、「」の文字があったと思われるが、現在、その文字が刻まれていた部分の石の表面が剥げ落ちてしまっている。なお、「尊」の下に「天」の文字まで刻するスペースはないように思える。
 いたがって、もしこの推測が正しければ、当初、表面に刻されていた文字は「奉庚申尊」であったと考えられる。

 ・また、この右面に建立日等が薄く刻されていたようにも思えるが、その文字は確認できないので、建立日は不詳である。

 ・ただ、何もなかったこの地に畦町宿が開かれたのは、寛永十九年(1642)と言われているので、この「庚申塔」には、東方からこの宿場に邪気が入るのを防ぐという役割があったと考えると、建立は、その年以降だっただろう。

 ・因みに「畦町宿三庚申塔」のうち、他の二基は、前述した下記にある。
  観地山地蔵堂境内(畦町宿西構口付近)〜自然石「奉庚申」刻あり、建立日不詳。
 ※別記→「観地山地蔵尊境内の庚申塔、六地蔵など(福津市畦町・本木)」。
  護念寺境内前庭〜東構口庚申塔と類似形、「庚申尊天・明和四年亥六月吉日」(1767)刻あり。
 ※別記→「護念寺境内の庚申塔 (福津市畦町)」。


 (3)「庚申様の話」

 ・「畦町物語1」(唐津街道畦町宿保存会)に掲載されていた「ふでばあちゃんの話/櫻井麗子」のうち、次の2話をここに転記させていただく。「ふでばあちゃんは、慶應の生まれで、昭和12年72歳で亡くなった」。
 明治初期の「東構口(上町)の庚申様」と係わる状況がありありと見えてくるようだ。

  庚申様の話
 「庚申様は今坂の上にあろうが。あれを明治の初めにお参りするのがきついし、滑るし難儀やからとみんなで相談して下に降ろしたったい。そしたら急に子供の病気が流行って何人も死んだと。『こりゃ庚申様の祟りばい』というて、また元の場所に戻したとばい。」(「ふでばあちゃんの話/櫻井麗子)。

  狐の話(抜粋)
 「…家の隣のおいさんは…本木で呼ばれて、お土産ばもろうて新堤(高太郎池)の所まで歩いて帰ってきよんさったそうな。そしたら堤の奥の木が茂って暗い久保田の所から狐が出てきてくさ、お土産をひっぱったげな。…狐は『こればくれ』ていうたそうな。『お土産やからもって帰らな』というたら、上町の庚申様の所までずーとついて来て、『土産を家に置いたら戻ってこい、相撲ばとろう、まっとくぞ』というたげな。おいさんは…土産を家に置くと『庚申様の所で狐と相撲取らないけん』というたので、『行ったらいかん』というてみんなで押さえつけて止めたげなたい。」(「ふでばあちゃんの話/櫻井麗子)。

 ※次回→「畦町橋 (福津市畦町)」。

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2019年04月22日

畦町宿東構口 (福津市畦町)

 ※前回「畦町の天満宮(福津市畦町)」から続く。

 ・所在地:福岡県福津市畦町512番地付近

 ・唐津街道畦町宿「東構口」(ひがしかまえぐち)は、東鼻(トウガハナ)の崖下にあった。

畦町宿東構口表示 「東鼻」は、畦町宿(※100余戸、480余人居住)の南側にある「本木山魂」の東部の最北端部(北東部)に位置する小丘陵のことで、この小丘陵上に「畦町天満宮」(前回記述)が鎮座している。



 ・つまり、畦町宿「東構口」は、東鼻の丘陵に鎮座する畦町天満宮社殿の北側の崖下に作られていたことになり、この場所は、畦町天満宮「参道口」の北東約30mの位置になる。

 ・唐津街道畦町宿内(街並み)の道筋は、緩やかなカーブを描いているので、きっちり一直線ではないが、その西南部にある「西構口」から北東に約600mあり、「東構口」は、その北東部の末端部にある。

 ・畦町宿の東方出入口なので「東構口」と呼ぶと言っても違和感はないが、正しくは、この宿場の出入口が上方(かみがた)の方向にあるからである。
 つまり、いずれの宿場においても「構口の呼び名」は、実際の方位に関係なく、上方方面に向いている方を「東構口」と呼び、逆に下り方面を「西構口」と呼ぶのである。
 「北構口」とか「南構口」といった呼び名は聴かない。

 ・したがって、この畦町宿「東構口」は、上方方面、即ち約7km先にある「赤間宿(西構口)」の方向を向いているので、その名が付いたことが分かる。

 ・なお、赤間宿に至る途中、ここから約3km先に「原町宿」があり、この宿にも「東構口・西構口」もあったが、「原町宿」は公的な宿場ではなく、所謂、一般の旅人の休憩で、今でいう民宿などがあった所なのかもしれない。

 ・畦町宿「東構口」の南側は東鼻の崖、北側は平地(傾斜地)で、かつてここに「東構口」があった頃は、或は、この両側に石垣が組まれ、又は土塀等があり、関所のような門があり、御駅札所や役人詰所などもあり、常駐の役人が旅人の監視を行っていたのかもしれないが、現在、ここには、それらを想像させるような遺構は何も残っていない。


2畦町宿東構口この先下り勾配 ・街道の道筋は、ここからいったん、湾曲している西郷川に架かる(旧)「畦町橋」に向かって下りとなるが、その少し先の「宗像官道碑」を過ぎると急勾配の上りとなり、この先も上り下りを繰り返しながら赤間宿へと向かう。


 ※次回→「畦町宿東構口(上町)の庚申塔(福津市畦町)」。

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2019年04月20日

畦町の天満宮 (福津市畦町)

 ※前回「旧畦町宿道筋の土人形(福津市畦町)」から続く。

 ・鎮座地:福岡県福津市畦町343番地(163?)

 (1) 参道口

1畦町天満宮参道口 ・旧唐津街道畦町宿東構口跡の30mほど手前=畦町上町(かんまち)の道筋の南側に「畦町天満宮の参道口」がある。
(※画像)





 ・先ず道路面(参道口):横巾約3m×奥行き10mほどの「土塁状に伸びる参道」があり、その三面には土留めの石垣(左側は途中まで)が築かれている。(※実測した分けではないので不正確)。

 ・道路面に組まれた石垣の間(中央部)に在る「6段の石段」を上ると、両側に「石燈籠」(※メモ紛失し刻字不詳)があり、その右後ろに大きく立派な「ソテツ(蘇鉄)」の木が生えている。

 ・この「ソテツ」は上・横三方に枝葉を広げ、特に左に、参道の頭部を跨ぐように伸びた太枝と葉は「自然の鳥居」をイメージさせる見事なものである。
 つまり、ここに一の石鳥居などは建っていないので、まさにこの「ソテツ」が立派に「鳥居の代わり」をしているようだ。

 ・なお、左後ろに生えているのは藪椿で、季節には赤い花びらをたくさん付ける。


 (2) 石段の参道

 ・参道口から伸びた土塁状の参道は、「本木山の東山稜の北麓の急斜面」に突当り、ここからは、この山麓の急斜面を左寄りに上る「石段参道」となる。

 ・この石段の入口に、いつもだと唐津街道畦町宿保存会の人たちが参拝者の利便のために作った数本の「竹杖」(竹を切った杖)が置いてあるが、この日はなかった。

 ・ここから始まる石段の参道は、上記のように本木山稜の縁の急斜面を上るように作られており、石段の左側に「手すり」が付いているものの、息切れするほど、傾斜がきついので、「竹杖」があった方がよいと思う。


2畦町天満宮石段口 ・最初の石段は「28段」あり、ここから左に急斜面を上るように付いている。
(※画像)






3畦町天満宮石段と鳥居 ・この石段を上り詰め、左に少し歩くと、さらに、ここから左側の斜面を直登する「33段」の石段を上ると、さらにその上に建つ「石鳥居」が見えてくる。
(※画像)




4畦町天満宮鳥居下に展望所  ・石鳥居の下方にあるここで、振り返って畦町宿跡の街並みを眺めることができる「展望所」…夕陽風景時計平板あり…がある。
(※画像)





 なお、2月12日前後と10月30日前後頃には、ここから玄界島(博多湾)に沈む夕陽を望め、その絶景ポイントでもある。

 ・ここからさらに「19段」上ると、石鳥居がある。


5畦町天満宮鳥  ・「石鳥居」は、額束の下方が少し欠けてはいるが、「天満宮」の刻がはっきり見える。※メモを紛失し、甚だ不正確な記憶だが、寛延二年(1742)建立だったか。(※画像:その部分を写していない)



6-2畦町天満宮鎮座東鼻 ・さらに最後の石段が「28段」と続き、その上に上り詰めた先は、参道口から左に見えていた「東鼻」(トウガハナ・畦町宿東構口の上)の丘陵上であった。
(※画像)




 ・改めて石段参道の石段の数を数え直したら合計「108段」となり、108は仏教の煩悩(百八煩悩)の数を表しており、そんなことも考えて造られたものだろうか。

 ・因みに、畦町天満宮が創建されたのは、畦町宿ができた寛永十九年(1642)以降で、大宰府天満宮から御神体を勧請したものと考えられるが、境内に「観音堂」を建てるなどもしており、その背景には当時の神仏習合の思想もあったと考えられる。因みに、天満宮の本地仏は「十一面観世音菩薩」である。

 ・その神仏習合の思想から、仏教でいう煩悩からの解放を踏みつける石段の数に託して「108段の石段」を築いたのかもしれない。
 つまり、一個の石段を一つの煩悩の数に譬えると、その一個一個を踏み越えることによって、自分たちの心身を惑わす108の煩悩(「百八煩悩」)を踏み超えることができると考えた。

 ・そのように考えると、参道口の6段の石段は、差し詰め「六道輪廻」を超えることになるのかもしれない。

(※別記参照→「伊摩神社・煩悩越えの石段(3)」)

 ・しかるに、現在、当社内に「観音堂」はないので、恐らく明治政府の神仏分離令や、迎合して起きた廃仏毀釈により境内から除去されたのだろう。現在、「畦町の観音堂」は、護念寺境内の観音堂(本尊十一面観世音菩薩)に集約されており、堂内には廃仏毀釈で首をもがれたのではないかとも思われる十一面観世音菩薩像が安置してある。

 ・なお、畦町宿東構口の庚申塔から直登する山道(脇参道)もあった、と聞いて、後で行ってみたが、そこには急斜面上に立ちはだかる雑木や孟宗竹の繁みがあるだけだった。


 (3)社殿敷地内

6畦町天満宮からの畦町景色 ・このような立ち位置に、「天満宮の社殿敷地」が設けられているので、この丘陵上からも、上記の展望所同様に、畦町宿跡の街並み(特に上町の屋根、屋根)を見下ろすことができる。(※画像6)



7畦町天満宮水盤と丸石 ・[水盤]…敷地の展望の効く場所に、ぽつんと水盤(方円形)と丸石(?)が置いてあるが、水盤は今も使われているものか、また丸石は何なのかは分からなかった。(※画像)




 ・[おこもり]…昔(昭和の頃か)は、毎春、天満宮の八重桜が咲く頃、畦町中の人たちが御馳走を持ち寄って天満宮に集まり、おこもりをするといった行事があっていたようだ。(※畦町物語1掲載の小学生の頃の話/的場芳子から抜粋)。


8畦町天満宮奉納絵馬 ・「拝殿」(木造瓦葺)内には、平成27年(2015)11月20日に「畦町はっけん!」生活科の学習で天満宮を訪れた上西郷小学校2年1組の生徒が奉納した「小絵馬」58枚が吊り下げてある。(※画像)



 ・[本殿]…拝殿の後方にある、石組の基台の上に木造トタン葺きの「社祠」(昭和33年再築か)がそれで、そのなかに置いてある「木彫り菅公」(菅原道真公)の御神像(江戸中期・明和2年(1765)作)を御神体としてある。

 ・上記したように畦町天満宮は、畦町宿ができた寛永十九年(1642)以降に創建され、そのとき、大宰府天満宮から御神体を勧請し、上町の守護神としたものと考えられるが、この御神像(1765)作)がその時のものか、或はその後に作られたものなのかは分からない。
 また、勧請時に建立されたと思われる観音堂(本地仏十一面観世音菩薩)は、上記のように現存していない。

 ・[境内神社]…本殿の左横にある、赤レンガ積みの基台の上に置いてある「石祠」は、境内神社の「蛭子神社(えびすじんじゃ)」(祭神:ヒルコ神)だと思う。

 ・[古墳(5〜6世紀)]…本殿の南側の本木山稜の杜は深いが、その本木側の山麓、(及び畦町須賀神社の南側の山麓)に「東ヶ鼻・裏ノ谷古墳群」(前方後円墳1基を含む8基)がある。
 また、東構口から南側に回った畑のなかにも確認された古墳がある。

 ※参考〜「畦町の古墳」と云えば、このほかに「椿屋根古墳」(つばきやねこふん)がよく知られている。

椿屋根円墳 畦町物語1には「円墳」で「上ると石祠一基」あり「横を流れる溝を小塚川と呼び昔から墓として意識されていた」という。西郷川の前田橋から対岸に見えている小森(民有地)がそれ。6世紀頃の当地の首長墓か。(※画像)


 ・[史料]…「畦町村 〇天満宮 トウガハナ 石鳥居一基、社内に蛭子社・観音堂あり」(筑前國續風土記附録・寛政10年頃の刊行<1798年頃>)

 ※次回→「畦町宿東構口 (福津市畦町)」。

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2019年04月16日

旧畦町宿道筋の土人形とアカハライモリ人形 (福津市畦町)

 ※前回「養籠燻製場・世界一小さな蚕博物館(福津市畦町)」から続く。

1観地山地蔵尊境内の庚申塔 ・今回、旧唐津街道畦町宿を訪れて、最初に何だろうと思ったが、前述「観地山地蔵尊境内の庚申塔、六地蔵など(福津市畦町・本木)」に掲載した「庚申塔の画像」の右前に写っていた土偶の小型版のような土人形だった。(※画像)


 ・このときは、「これは何(?)」「何かの供養(?)」などと、少し心で思ってはみたが、それ以上のことは考えなかった。

2土人形 ・ところが、旧「畦町宿」の街並みを散策していて、所々の家々の門前や路傍に、何気なく置いてある多くの小さな土人形を目にして、一気に疑問が噴出した。
(※画像)


 だいたい、このように多くの土人形が、どうしてここにあるのか(?)、ひょっとして「厄除けなのか(?)」等とも思ったりもした。

 ・そんなことを思って歩いているとき、某家の駐車場の前に建っていた「土人形と話そう」と書いた看板が目に留まった。
 冒頭に、「畦町宿の街道筋に並んでいる沢山の土人形」と書いてあるので、目にしていた土人形に違いないと思った。


3畦町土人形作者 ・「作者は、故高延英昭(たかのぶひであき)さん。
1943年広島県府中市生まれ、2015年没」とあり、その故高延英昭さんの遺影も掲げてあった。
(※画像)




 ・再度、この看板の冒頭を読み直して、やはり「故」と書いてある、しかも「2015年没」とある。
 この土人形を残した作者高延英昭さんは、笑顔の写真と作品を残して亡くなっておられたのだ。


しゃく ・高延英昭さんは、家族4人の作品を集めて編集された写真集「「爍〜しゃく〜 (高延英昭/高延紗代/高延知里/高延ひかり著」(文芸社)を2000年12月に刊行されている。爍には、光る、輝く、溶かすなどの意味がある。フリガナなしでは読み辛いが、音はお釋迦様の釋に通じる。



 ・宗像地方で土人形と云えば着色の鮮やかな津屋崎人形があるが、こちらの人形はほぼ土色のまま、それぞれに素朴な感じがあってよい。

 ・後で聞いたことだが、高延英昭さんは、畦町宿街並み保存会、畦町物語1編集者の岩熊寛氏と懇意で、高延英昭さんの供養を兼ねて畦街宿を活気づけるために、その遺作の一部をこの街並みに並べさせてもらったとのこと。旧畦町宿散策者の道端土人形美術館となっている。

 ・「彼(高延英昭さん)は、自分の土人形について、『表現されたがっているエネルギーが、いっぱい、いっぱい、あるのだろうなと思います。私が人形を作るのではありません。それらのエネルギーが形をとる手伝いを、私はするだけ、言ってみれば供養なのだろうなと思います。』と語っていました。みなさんも土人形に、自由に話しかけて、楽しんで下さい。設置 2016年6月吉日 唐津街道畦町宿保存会」。

 ・これは、「自分が作る人形には魂が入っており、その魂のエネルギーが彼に人形を作らせる。それは人形の魂の供養でもある。」と言っているようにもとれる。
 確かに人形には魂が入るので、場所によっては人形供養等の行事もある。そうなると、これらの人形の一つ一つに手を合わせなくてはならなくなる。すごいものを残されたようだ。


4畦町人形 ・上町で、白提灯を持った黒い体に赤腹の張り子人形(※画像)を観かけた。これは土人形ではないが、復元した祇園様池の「アカハライモリ」をイメージしたもので畦町宿保存会の櫻井文生さん作だという。

 
 提灯持ってどこ行くの、ご供養に行くのかな。
 併せて故高延英昭さんの御冥福を祈ります。
 南無阿弥陀仏。合掌。

 ※次回→「畦町の天満宮 (福津市畦町)」。

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2019年04月15日

養籠燻製場・世界一小さな蚕博物館 (福津市畦町)

 ※前回「畦町須賀神社(3)〜境内概要(福津市畦町)」から続く。

 [所在地] 福岡県福津市畦町313・畦町須賀神社石鳥居前

1蚕博物館正面 ・畦町須賀神社の石鳥居の前に総赤レンガ造(木造扉)の小さな建物が建っており、その正面の赤レンガ色に塗った木造観音開き扉の右扉に、白ペンキで「世界一小さな蚕(かいこ)博物館」と書いてある。
(※画像1)


2蚕博物館外壁 ・また、左側の赤レンガ壁の一部分に、同じく「世界一小さな蚕博物館」と題した下記説明文が貼りつけてある。
(※画像2)





 「大正期から戦前まで、農家の副業として養蚕業が隆盛。八並に製糸場があり。畦町でも7割程の農家が養蚕を営み、養蚕組合が作られていた。この建物は正期に作られたと思われ、蚕の幼虫(ケゴ)を入れる 容器を硫黄で燻蒸消毒し無菌化する施設。貴重な産業遺産である。平成26年7月吉日 唐津街道畦町宿保存会復元 土木工事一式寄贈 櫻井良行」。

 ・上記の「建物は正期に作られた」という意味は分からなかいが、大方理解できた。
 昔(昭和30年代のことだが)、農家の知人の家で、(今はもうやっていないが) 畑に桑の木を植え、家で蚕(蠶)を飼い、繭(まゆ)を作っておられる様子を目にしたことはあったが、このような建物は観たことがなかった。
 そして、この建物が、実際に蚕を無菌化するための消毒用施設として使われていたもの(2014年復元)だと分かり、今、こういう建物を目にできたことに感嘆し、まさに貴重な「産業遺産」だと思った。


3蚕博物館内部 ・建物のなかには、白くて大きな蚕の模型や、糸引き車などが納められ、両側の内壁に「カイコの一生」の写真パネルが展示してあった。まさに、「世界一小さな蚕博物館」に違いない。
(※画像3、4、5) 

 ※次回→「旧畦町宿道筋の土人形 (福津市畦町)」。


4蚕博物館パネル
5蚕博物館パネル2


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2019年04月14日

畦町須賀神社(3)〜境内概要(福津市畦町)

 ※前回「畦町須賀神社(2)〜祇園様池(福津市畦町)」から続く。

 (3) 境内概要

 ・鎮座地:福岡県福津市畦町313番地 (185番地?)。

 ・「祇園社 江戸時代に建立され、疫病の神様スサノオノミコトを祀ります。祇園社の池は唐津街道畦町宿保存会が平成25年に復元しました。この池にはアカハライモリが住んでいます。(畦町宿散策マップ)」。←※以下「上記A」と書く。


  参道口

1祇園様参道口 ・旧唐津街道畦町宿道に面した須賀神社(旧祇園社)参道口の両側の角地の地面に「幟立て石」が埋め込まれている。また、右側の同石の左横に「畦町宿燈籠」が設置してある。(※画像1)



 ・7月14日の祇園祭時には、参道口前の道路上にひと際大きい「御神燈」が設置されるが、この日、「幟立て石」に幟旗は立っていなかった。

 ・右側の住宅地には、畦町宿時代に「造り酒屋」があったところである。畦町宿にあった「造り酒屋」二軒のうちの一軒で、他の一軒は、前述した「中村酒屋」である。


  石鳥居

2須賀神社石鳥居、神木、本殿 ・「上記A」の「」マークは、スマホなどで使われている絵文字だが、当社に建っている実際の「石鳥居」の形は「明神鳥居」である。
(※画像2)




 ・石鳥居の刻
  額束〜「須賀神社
  右柱〜「明治三十三年四月」…1900年建立。
  左柱〜「畦甼區中甼中敬建」…畦町区中町中敬建。

 ・この「石鳥居」は、明治の神仏分離令で「祇園社」が「須賀神社」に変えられたことを受けて建て替えられたものではないかと思う。

3石鳥居左柱刻字 ・また、当初、鳥居の刻字「畦甼區中甼」を観たとき、一瞬戸惑ったが、多分昭和30年頃まで「畦町区中町」は、このように書いていたのだろう。
(※画像3)




 ここでは「畦町中町区」と書くが、当社は、畦町中町区に鎮座しているので、この石鳥居は、主として当社の奉仕をしていた畦町中町区の氏子が建立したのではないかと推測する。

 ・なお、平成25年、たまたま境内の出水元の井・湧水池(現祇園様池)の復元工事中に「祇園宮/天保十二年」(1841)の銘がある石燈籠に一部(竿部分)が掘り出されたので、神仏習合の「祇園社(祇園宮)」から「須賀神社」に社名を変えたとき、「祇園社・祇園宮」の銘がある諸々のものを、すべて廃棄したようにも伺える。
 畦町では、神仏分離令に連動した廃仏毀釈運動が徹底して行われた形跡があり、祇園祭など祇園の名が復活したのは、日本文化に混乱をもたらしたその運動が下火になって以後のことではないかと思う。

 ・「上記A」に、当社を「祇園社」と記載してあるのは、旧畦町宿を散策する人のための地図なので、畦町宿時代の社名の「祇園社」が記載されているのだと思う。


  本殿(神殿)石祠

4社殿覆い屋 ・「覆い屋」(木造瓦葺、切妻屋根、前方開放)のなかに、「石祠」1基(本殿)、「木造社祠」2社(境内神社)が納められているが、拝殿は現存していない。
(※画像4)




 ・このうち、当社の本殿(神殿)は、中央に置いてある「石祠」で、両脇の二社の社祠に比べると一際小さい。いずれも前扉はない。

 ・石祠の刻
  右外壁面〜「天保八年酉六月吉日」(1837)
  左外壁面〜「奉寄進(畦)町中安全」

5祇園社案内 ・境内設置の案内板(「須賀神社(通称お祇園様)」平成25年7月唐津街道畦町宿の街並みを保存する会寄贈)に、当社の創建は「寛永十九年(1642)畦町宿開設以降」と記してあるが、確定年月は不明。(※画像5)



 ・この石祠に「再建」等の刻が見当たらないのが気になり、上記石燈籠竿の「天保十二年」(1841)」にも近い年号であり、一瞬、天保八年の創建かと思ったが、寛政十年(1798)頃刊行の筑前國續風土記に「祇園社シヤウヅガモト」の記載があるので、少なくとも寛政十年以前に鎮座していたことは確かである。

 ・また案内板には「ご神体は盗難のためか自然石」と記されており、かつて御神像が安置してあったのかもしれない。
 因みに、畦町下町区の「畦町天満宮」には、御神体の菅公像が残っているので、それに比べると、確かに自然石では不釣り合いな感じはする。

 ・ただ、当社が「祇園社」と称していた江戸時代には、現祭神の「素戔嗚之尊(素戔嗚命)」に加えてその本地仏である神仏習合神「牛頭天王(ゴズテンノウ)」が主神として祭祀されていたが、明治維新で、この「牛頭天王」が消除されているので、もし、当社の御神像がこの「牛頭天王」だったとしたら、このときに廃棄されたとも考えられなくもない。

 ・当社から「牛頭天王」の神名が消されたのは、明治元年(1868)3月に発布された神仏分離令を受けてのことだが、「素戔嗚之尊(素戔嗚命)」は、そのまま残った。
 因みに「素戔嗚之尊(素戔嗚命)」は、畦町の氏神様「神興宮(八幡宮)」の主神・宗像三女神の父神になる。


  「恵比須神社」(境内神社)

 ・上記本殿(神殿)石祠の両横にある「木造社祠二社」(前扉なし)は、ともに境内神社で、このうち右横にあるのが「恵比須神社」…祭神:事代主命(ことしろぬしのみこと)である。

 ・「事代主命」は、出雲神大国主命の子(当社祭神素戔嗚命の孫)で、出雲の美保ヶ崎で釣をしているところにやって来た天照大神の司令官建御雷神に葦原中国の国譲りを迫られたとき、戦いを避け、すぐに承知し身を隠した神で、漁業振興・航海安全・商売繁盛等の神とされる。

 ・ご神体は、社祠のなかに入っている表面の平らな自然石の立石で、その表面に「恵比須神」と思われる線刻が描かれている。線刻は、比較的よく見え、「右手に釣竿、左手に真鯛を抱えている恵比須様」の十八番的な絵柄である。

 ・この線刻は、上記の美保ヶ崎で釣をしていた「事代主命」がイメージされ、ここでは、祭神の「事代主命」が、釣上手の「恵比須神」(七福神の一柱)と同神、としていることが分かる。

 ・なお、案内板によると、裏面に「石工 花田彦市包清」の刻があるという。宗像地方で花田姓は比較的多いので、多分、花田彦市は、江戸時代の宗像に在住した石工だったかもしれないと推測するが、詳細不詳。


  「疫神社」(境内神社)

 ・本殿(神殿)石祠の左側にある前扉のない「木造社祠」(※上記恵比須神社より若干大きい)は、境内神社の一「疫神社」で、祭神は、厄除けの神の「八十禍津日神」(やそまがつひのかみ)となっている。

 ・先に「日吉神社〜盗難、廃屋、厄神社など(福津市内殿)」にも記したが、黄泉国から逃げ帰って来た伊弉諾命(イザナミノミコト)がその穢れを払うための禊を行ったとき、その穢れから禍津日神(八十禍津日神+大禍津日神=大綾津日神)が生まれた。八十禍津日神は、まさにその穢れの禍津日神の一神であり、通常疫神社には、この神がもたらす禍を抑えるために産まれた神直毘神、大直毘神(古事記では、+伊豆能売)を祀る。

 ・社祠のなかには、作りかけの台座みたいな石が置いてあるが、これが当初からあったものかどうかは分からない。


  拝殿跡広場

6拝殿跡広場本 ・今はなくなったが、現在、社殿前の広場となっている場所には、かつて芝居などができる広さの割と大きな拝殿(木造瓦葺/横二間入三間位か)があったという。
(※画像6)



 ・畦町物語1によると、昭和初期から昭和27年(1952)まで、毎年8月の盆明け夜7時から2~3時間に、この拝殿を舞台にして、青年団と女子青年団(処女会)主催、出演による、博多にわかや、新派芝居、舞踊演芸等の催しを行っていたという。舞台の拝殿につながる5~6mの花道も作られ、結構大がかりなもので、盛時には、近隣からの見学者も多く賑わっていたというが、やがて、映画、テレビほかの娯楽に押されて消滅したという。
 時代の流れは如何ともしがたく、今はその舞台となった拝殿もなく、祇園祭などの行事のないときに訪れると、結構雑草が茂っていることがあった。

 ※別記関連記事→「畦町貴船神社 (福津市畦町)」の「(6)貴船様の木や竹の話(畦町物語)」。


  水盤

7須賀神社水盤 ・社殿の右横に置いてあるが、「地紙」の形に穿っている水盤で、やや三角形に近い形である。(※画像7)
 この「地紙形の水盤」は、畦町貴船神社にもあったが、当地には「地紙紋」を家紋とする家があるのだろうか。


 ※別記参照→「畦町貴船神社(福津市畦町)」の「(5)地紙形の水盤」。

  栴檀 (せんだん)

 ・栴檀〜石鳥居の左後ろに生えている大樹で、幹回り約4m、別名「楝」(おうち)ともいう。
 案内板には、寛永十九年(1642)畦町宿が開設された以降に当社が創設された頃に植えられたのではないかと記してあるので、大方で逆算すると樹齢は370年くらいか。


  本木丘陵の杜

 ・境内では、ほかに銀杏も観られるが、社殿の後背には、孟宗竹や雑木が鬱蒼と茂る本木丘陵の杜がある。この杜に入る山道が社殿右横の祇園様池の際にあるが、山が深く途中までしか行ったことがないが、本木側の山麓に「東ヶ鼻・裏ノ谷古墳群」があり、畦町天満宮の南に続く古墳を合せて「東ヶ鼻・裏ノ谷古墳群」(前方後円墳一基を含む8基)というようだ。


  祇園様池

8祇園様の池社 ・「上記A」にある「祇園社の池」のことで、案内板には「祇園様池」と記しているが、この池は、平成25年に唐津街道畦町宿保存会が復元した湧水池で、当社の社殿の右下方にある。
(※画像8)


 ※別記参照→「畦町須賀神社(2)〜祇園様池(福津市畦町)」。


  養籠燻製場(世界一小さな蚕博物館)

 ・石鳥居の前にある赤レンガの小さな建物がそれで、地元では「世界界一小さな蚕博物館」と言っている。
 ※詳細は、次回、別記掲載予定。
 ※次回→「養籠燻製場・世界一小さな蚕博物館 (福津市畦町)」。

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2019年04月12日

畦町須賀神社(2)〜祇園様池(福津市畦町)

 ※前回「畦町須賀神社(1)〜お祇園様(福津市畦町)」から続く。

 (2) 祇園様池(出水元/源泉の井)

 ・筑前國續風土記附録に「祇園社 シヤウヅガモト 傍らに出水あり。其邉の出水を潤す」とある。
 この記事から、この地を「出水元(シヤウヅガモト)」といい、社殿の傍らに、この周辺の出水を潤すほどの、かなりの量の水が湧き出す出水元の井(源泉池)があったことが分かる。

 ・前述別記「古代官道・津日駅跡(推定)について(福津市畦町)」のなかに、「須賀神社(お祇園様)参道口辺り」(※画像1)に「奈良・平安時代、大宰府から都に至る古代官道の「津日(つひ)駅跡」=駅家(うまや)跡があったと推定する説がある」と書いたが、その根拠の一つとなっているのが、この「出水元の井」だった。

 つまり、「駅家には馬がいるので水飲み場が必ずありました。お祇園様の池は、(水路もあり)それに相当する可能性がありますね。(岩熊寛)」ということだ。


1祇園様参道口 ・江戸時代、畦町宿には二軒の造り酒屋があり、その一軒は祇園社参道口の右側(福津市畦町305)にあったようで、その背景には、この「出水元の井」の湧き水を使用できたからではないかと想像する。



 ・神社の後背にある杜(本木山の森林)が、この井の源となっていると思われる。地元ではこの井を「祇園様池(祇園社の池)」と呼んで大切にしていたが、戦後、湧水量が減少しのか、放置され、荒廃していったようだ。

 ・境内の「案内板」には、「祇園様池 昭和30年頃までは防火用水・種籾用の池だったが荒廃、平成25年に保存会と多数の支援者の努力で復元。絶滅危惧種のアカハライモリ、沢蟹、蛍、トンボ等が生息。」とある。

 ・アカハライモリの姿を目にすることはできなかったが、池の中には、菖蒲を生やす鉢も入れてあり、梅雨時には菖蒲の開花も観れそうだ。睡蓮の葉も浮かんでいた。また7月14日の祇園祭のときには、池の周りに竹燈籠が立てられ幻想的な雰囲気も醸し出す。

 ・なお、畦町内を歩いていると、黒塗りの体に赤腹の人形を目にすることがあるが、これは、畦町祝保存会の櫻井文生さんが、アカハライモリをイメージして作った畦町のシンボル人形だとも聞いた。


2祇園様の池 ・この復元された池は、参道の先・社殿の右下方・杜の入口にあり、傍観した限りでは、水量は少なく澄みきっておらず、湧水の動きが感じられず、一般的な湧水池のイメージが感じられなかった。(※画像2)



 ・なお、前回記したが、池の復元工事中に一個の石塔・石灯籠の竿部(その他の部分はない)が、荒廃していた池の中から掘り出され、その四面には「祇園宮/天保十二年三月吉日/奉再建/下ノ番」(1841)の文字が刻されており、「祇園宮」の名を確認できる貴重な遺産の発見となった。
 明治維新で「祇園社(祇園宮)」の名が廃されたとき、その名のある石燈籠の竿部分のみを池に鎮めて隠したのだろうか。
 「祇園様池」が復元されるまで、この池を見守り続けて来た神のようにも思えるこの石塔を見落としたが、現在、どこに保管されていたのだろうか。

 ・いずれの池でも、池には「水神様」が宿るので大切にしなければならず、「祇園様池」が復元されたことは嬉しいことだ。
 因みに、畦町には、当社とも係わる「水神様」を祀る氏神様や貴船神社もある。つまり、氏神様(神興宮)の主神宗像三女神は、当社の主神・素戔嗚命の子であり、貴船神社の貴船神・闇龗神(闇淤加美神)は、祓いの水神・宗像三女神の一湍津姫神命(多岐都比賣命)とも目され、いずれも当社と係わる。
 また、神社の池に「弁財天」を祀るケースも多々見られるが、弁財天は、宗像三女神の一「市杵島姫命」の本地である。

 ※つづく→「畦町須賀神社(3)〜境内概要(福津市畦町)」。

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