2019年06月

2019年06月27日

本木の大日堂と大日如来 (福津市)

 ※前回「筑前竹槍一揆と井上勝次の墓碑(福津市本木)」から続く。

1大日堂「本木の大日堂」(※画像)

 所在地:
福岡県福津市本木1872。








 (1) 本木大日堂へ

 ・県道30号飯塚福間線(本木河内🚏)から分岐して「本木川自然公園・ほたるの里」に向かう道幅の広い里道を進むと九州自動車道のガードがあるが、その少し手前を右折し、緩やかな細い坂道を上る。この坂道は、昭和63年(1988)7月に新設された「本木の大日堂(大日如来)の参道」(施工者駒井建設)である。

 ・坂道の先にある広場は、左(南)側の小丘陵の北側を削り取って平らにした段差のようで、この右(北)側と奥部(西側)は段差の上となっている。「本木の大日堂」は、この広場の奧部に建っているので、その手前部分は、叢となっている。

 ・この壇上の空き地に立って、左(南)側の崖上や、右(北)側の崖下を見ていると、かつてここには神社の社殿があり、右下に参道があったのではないかなどと思えるような雰囲気があった。そこで、つい、この本木の大日堂の本尊「大日如来像」を作った楠木の原木があったという「天満宮」の社名が脳裏を過ぎった。しかし、当地の字名は「河内」であり、現在、本木八幡宮境内に鎮座している「天満宮」の遷宮前の鎮座地の字名は「石畠」だから、それはない。

 …筑前國續風土記附録に「天満宮イシバタケ」、また同拾遺に「天満宮 石畠といふ處に在」との記載あり。

 ・因みに、現在、本木八幡宮境内神社で、遷宮前に「河内」に鎮座していたのは、同上附録に記載のある「天神社」一社であるが、その河内の社地が当所だったのかについては未調。
 ※別記参照→「本木八幡宮(7)〜境内神社△修梁召10社(福津市本木)」。


 (2) 本木の大日如来・由来(俗説)

 ・本木の大日堂の本尊「大日如来像」を作った楠木の原木が、かつて「石畠の天満宮」にあったという上記伝承は、筑前國續風土記拾遺に次の記事がある。

 「天満宮 (本木村)石畠といふ處に在。宗像末社記に老松社といへるは此社にや。…俗説に往昔此社の楠の木を伐って大日の像三躰を彫刻す。其にて作るを此村(※本木村)河内に安置す。依て村の名を本木といふにて刻めるを糟屋郡須恵村に置、なるは那珂郡那珂村にありといへり。其木の根株朽残りて今に在。又大木の棟樹(あふち)も有。」

 「大日堂 (本木村)河内という處に在。世俗の所謂本木の大日是也。坐像二尺余昔の佛像ハ朽損せし故、近年今の像造りて古像は躰中に籠たりといふ。」


2大日堂絵馬 ・俗説とはいえ、「本木の地名の由来」を伝える伝承であり、本木村の人々は大事な「大日さま」として今なお守り続けておられるのだろう。




 ※画像は、堂内に掲げてある「大日如来顔面絵馬」。

 ・福津市教育委員会の文化財案内には、もとの「大日如来の古像」が作造された時期についての記載はないが、現「本尊大日如来像」は、寄木造の坐像で、寛政四年(1792)福岡の仏師佐田文蔵慶始が本体の修理と宝冠、光背、台座の新調を行ったとしている。
 また、本体底板の墨書から、このとき、元からあった「大日如来の古像」の頭部だけを使って体部全体を新調したことが分かるという。

 ・上記俗説によると、一本の楠の木を三分割し、その「末(すえ)」の部分の木を刻して作った大日如来像を糟屋郡須恵村(現須惠町)に置き、また「中(なか)」の部分の木で刻して作った大日如来像は那珂郡那珂村(現那珂川市or福岡市博多区の一部か…那珂郡那珂村は現那珂川市ではなく現福岡市博多区の一部との説がある)に置いたということで、これらは、「末(すえ)=須恵村」「中(なか)=那珂村」と両村名の地名と結びつけているような印象がある。

 ・この俗説にいう大日如来像が古像なのか、現像なのか、また古像は、いつの時代に誰が作ったものかも分からないが、現在、須惠町と那珂川市or福岡市博多区の一部にはそれぞれ、古い大日如来像が残っている。
 これらは、「本木の大日如来像」と同形の法界定印を結ぶ「胎蔵界大日如坐像」だが、上記俗説に該当するものかどうかは分からない。

 ・因みに「須惠町の秘仏・大日如来像」(佐谷大日堂)については、毎年4月第一日曜に御開帳があり、数回拝観したことがあるが、本木のものよりは一尺ほど坐高が高いように思えた。そして、この像は、平安時代、伝教大師が宗像の大樹(材質不詳)で作った三体の大日如来像のうち、その樹の末(すえ)の部分で作ったものだという。本木のそれとよく似た伝承があるものだ。

 ・「那珂川市の大日如来像」は、拝観したことがないが、遍明院大日堂(浄法寺882)にあるらしい。この像は、本木の大日如来像が現在の形に修理新調されたのと同じ寛政四年(1792)に作られたものらしい。
 ・また福岡市博多区東光寺町の大日如来(大日寺)も拝観したことがないが、平安時代の作もと聞いた。

 ・なお、小生は、これら三体の大日如来像は、案外、本木の大日堂にある三体の仏像なのかもしれないと思ってみたこともあったが、確証はない。


 (3) 宗像四国西部霊場第72番・本尊大日如来

 ・本木の大日堂は、拝殿内に須弥壇を設けた胴長の木造瓦葺のお堂で、昭和63年(1988)7月に屋根修理、平成6年(1994)6月に格子戸及び外装工事が施されたので、現在、痛みなく、がっちりとしている。
 また、一部漆喰もある板壁、格子戸や格子窓などが美しい外容を呈している。 

 ・この大日堂の入口は、敷地空間が狭い樹林が茂る左(南)側を向いており、なぜか、参道及び入口側の広場の方を向いていない。

 ・「宗像四国西部霊場本木第七十二番本尊大日如来」と書いた板札は、この大日堂の入口の左横の板壁にが打ち付けてある。
 この西部霊場を巡る春の千日詣りときには、団参者が訪れ、堂内(拝殿板張り)に座して勤行する。

 ・因みに、四国八十八ヶ所霊場第七十二番札所は真言宗善通寺派の我拝師山 延命院 曼荼羅寺(香川県善通寺市)で、本尊は大日如来である。

 ・本木の大日堂は、普段は、入口(引き戸)が鎖南京錠などで二重に施錠してある。管理されている人たちが毎日鍵を開け堂内の清掃やお花、お水、お供物等を供える等のご奉仕をされているが、一般の人は事前許可なしに堂内(拝殿)に上がることはできない。
 だが、その入口の格子戸の間から堂内を覗き込むことができる。

 ・奧の須弥壇の中央に安置されているのが「本尊大日如来坐像」(寄木造像高36.7cm)で、その左右に安置さている仏像は、「附菩薩形坐像」(一木造像高56.5cm)と「附大日如来坐像」(一木造像高42.5cm)である。
 これら三体の仏像は、平成14年8月28日福間町(現・福津市)有形文化財(彫刻)に指定されたが、現在、いずれも、漆箔彩色等が剥げ落ち、破損、風化が進んでいることは否めない。


3大日堂十三仏 ・なお、お堂の外の左側(広場の西端の段上)に比較的新しい感じのする「十三仏」の石仏が並んで置いてあるのに気付いた。水道蛇口と水盤もあるが、詳細は調べていない。
(※画像)


 ※次回→「祥雲寺 (福津市本木)」。

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2019年06月22日

筑前竹槍一揆と井上勝次の墓碑(福津市本木)

 ※前回「西法寺と阿弥陀堂(福津市本木)」から続く。

 (1) 井上勝次墓碑

 ・西法寺(福岡県福津市本木1664)の左側にある坂道を上って、途中(左側に駐車場あり)から右に、阿弥陀堂に行く道に入ると、その途中の墓地内に、筑前竹槍一揆の首謀者の一人として処刑された「井上勝次の墓碑」がある。


1井上勝次墓スケッチ ・自然石の墓碑で、その表面には、「新花基釋浄光居士 明治六年癸酉七月十四日 井上勝次 行年三十九 施主村中 世話人頭取中」と読める刻がある。




 ※画像1は、小生が描いたスケッチ「井上勝次の墓碑」。

・ここは、西法寺裏山の墓地の最上段部分に当たるが、この井上勝次の墓の横に「筑前竹槍一揆犠牲者井上勝次墓碑」と書いた案内板が立っているので、すぐにそれと分かる。


2井上勝次墓案内板 ・案内板には、井上勝次の処刑について、分かりやすい説明が記されているので、ここに転記する。

※画像2は、井上勝次墓碑案内板。


 ・「明治6年6月筑前全域を舞台に約10万人が参加した「筑前竹槍一揆」が起こりました。新政府の、徴兵制・太陽暦・身分制廃止などの急激な改革に反発した民衆の怒りが折からの干ばつと米価の騰貴もあって爆発。
 一揆鎮圧後参加者の多くが「附和随行」として笞(むち)30の刑に処せられました。当時132戸の本木村からは109人が参加。その中で39歳の井上勝次は「斬罪」の極刑に処せられました。村の組頭であった為に大蔵省官員一行3名殺害の首謀者とされて。
 本木村の村人は、参加者の犠牲として処刑された勝次の死を悼み資金を募り、7月14日を命日として墓碑を建立。
 以来142年。私たちは隠されてきた筑前竹槍一揆の真相究明をめざすとともに、犠牲者故井上勝次に光を当て、その無念に思いを致し、明治という変革の時代における歴史の一端をここに伝え、冥福を祈ります。
 平成27年9月吉日 遺族代表井上ヨシ子並びに有志」

 (2)  筑前竹槍一揆

 ・各種資料によると、「筑前竹槍一揆」は、明治6年(1873) 6月16日、当時の嘉麻郡高倉村(後の庄内町、現・飯塚市高倉)の農民らが、筑前一帯の大干ばつと米価暴騰に反発して起こした「打ちこわし」が「竹槍一揆」に変化して、嘉麻郡、穂波郡から宗像郡に波及し、瞬く間に筑前全域に広がったものだと言われている。

 ・6月21日、一揆の一隊が福岡県庁(福岡城内)に乱入したのを機に、県は士族による鎮舞隊を編成し、同月25日(〜7月初め)に鎮圧。一揆参加者は10〜30万人、一揆による破壊、焼失家屋は4590軒、鎮圧後の処罰者は6万4000人に達し、本国最大の百姓(農民)一揆だったという。

 ・明治維新で成立した明治政府の無為無策ぶりと大衆弾圧が露呈した事件の一つで、特にその鎮圧の仕方は、中国の天安門事件をも思い浮かばせる。日本の自由・民主主義は、こういった大衆の暴動と犠牲を経過しなければならなかったのだろう。

 (3) 睡蓮忌

 ・唐津街道畦町宿保存会福岡支部ブログの記事「第2回睡蓮忌―故井上勝次追悼―(2018年6月14日)」によると、次のことが分かる。

 ・宗像郡から6000人余りが参加し、うち本木・舎利蔵・内殿3村から参加した160人は附和随行として処罰された。なかでも、本木村の井上勝次(39歳)は、村の組頭であったために、真偽のことは分からないまま、官員殺害の首謀者の一人とされ斬罪に処せられた。

 ・そのため、本木村の村人たちは、井上勝次を百姓(農民)一揆の犠牲者として、命日を7月14日とした墓碑西法寺の墓地内に建立して弔った。

 ・しかるに、その後140年を経て、郷土の歴史の彼方に忘れ去られてしまっていた井上勝次に、今一度光を当て、その当時に思いを馳せようという人たち(岩熊寛ほか)が、「井上勝次を追悼する集いの会」を主宰し、平成27年(2015)7月14日「第一回睡蓮忌・故井上勝次142回忌追悼」の法要とイベントを実施、また、2種の版画絵葉書(二川秀臣作)を作成し、合せて翌8月に墓碑の横に案内板(説明板)を設置したという。


3西法寺 ・なお、「第二回睡蓮忌」は、平成30年(2018)7月14日に、西法寺境内で実施されたようだ。

 ※画像3は、西法寺(浄土真宗本願寺派)。
 

 (4) 付記:ふでばあちゃんの話(櫻井麗子)

 ・唐津街道畦町宿保存会と云えば、同会発行の「畦町物語1」に「竹槍一揆の話」が載っていたのを思い出した。それは、昭和12年72歳で亡くなった「ふでばあちゃんの話(櫻井麗子)」のなかの第四話だが、上記とも係わりがあると思えるので、ここに転記させていただくことにする。

 ・「これは実話やな。隣の家は切妻の町家やった。今の高木さんの家と同じ構えの家。玄関の横はガラス戸やらなかった時代やから蔀(しとみ)やったと。上げ下ろしする板戸たい。
 明治六年のこと、「筑前竹槍一揆」の事件があったとたい。隣の親戚の人もついて行って箱崎あたりまでいったげな。後で捕まってお寺で尻ば百叩きにおうとんなさるとたい。
 その一揆の時になあ。隣の家の蔀ばくさ、大穂やら野坂の方からやって来た大勢の人たちが「ブスブスブス」と竹槍で突き破ったとたい。だいぶ後まで竹槍の穴が板戸に残っておったなあ。」

 ※次回→「本木の大日堂と大日如来 (福津市)」。

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2019年06月19日

西法寺と阿弥陀堂 (福津市本木)

 ※前回「本木の庚申塔・7基 (福津市)」から続く。

 (1) 堂下(ドウノシタ)

1西法寺 ・前回の「本木の庚申塔・7基」のなかの1基「(5)庚申之塔」の前面を流れている本木川を挟んで対岸(左岸)に鐘楼付の二層山門を有する浄土真宗本願寺派の「西法寺」がある(本木1664 )。


 ・(史料)
  「西法寺 ドウノシタ 眞宗西 佛堂四間半四間 寶林山と號す。福岡光專寺門徒なり。」筑前國續風土記附録。
  「西法寺 堂下に在。一向宗西派福岡光専寺の下也。」筑前國續風土記拾遺。


2阿彌陀堂 ・これにより西法寺所在地の字が「ドウノシタ(堂下)」だと分かるが、この「堂」とは、西法寺「仏堂」のことではなく、この寺の境内裏山にある「阿弥陀堂」のことなのかもしれない。


 ・つまり、「西法寺」が建つ前に、既にこの裏山に「阿弥陀堂」があり、後に、この「阿弥陀堂」の下方(堂下)に「西法寺」が建ったということになるのかもしれない。
 果たして、このことを伺わせる由緒書(木板墨書)が「阿弥陀堂」の外壁に貼り付けてあった (※下記(2)に記載)。

 ・先に掲載した「宗像四国西部霊場10・48・64番ほか(福津市本木)」のなかに、筑前國續風土記附録に記載されている「ドウノシタ」の「阿彌陀堂一宇」について、「ドウノシタ(堂下)には、西法寺阿弥陀堂があり、この一宇がその阿弥陀堂を指すものかどうかは分からない」と記した。

 それは、「ドウノシタ」(堂下)の字名が気になったこと、及び、西法寺境内にある阿弥陀堂なら、当然上記史料の「西法寺」の項のなかに「境内に阿弥陀堂あり」と書いてあってしかるべきだと思ったからだった。

 しかるに、当時(史料成立時)、この阿弥陀堂が、まだ西法寺境内に取りこまれていなかったから別項で載せてあったのかもしれないと考えれば、この「阿彌陀堂一宇」は、その後、西法寺境内に取りこまれた西法寺の「阿弥陀堂」ということになる。

 だが、この阿弥陀堂が建つ地の字も「ドウノシタ(堂下)」であり、「西法寺の字は、後に、この阿弥陀堂の下方に西法寺が建ったので堂下となった」と上記したことと矛盾が生じるが、さしづめ阿弥陀堂がある地の「堂下(ドウノシタ)」は、「堂下(ドウノモト)」だったと考えればよいのかもしれない。


 (2) 西法寺と阿弥陀堂の由緒

3西法寺と阿彌陀堂由緒書 ・「昔 本木村に宝林と云う山があり此処に無住の御堂があったが その以前より現在の西法寺裏山の上段に小さな阿弥陀堂があり 三体の御仏が安置してあった。



 此処は 本木村の中心であったことから、格ある寺を建立すべきだと 第一世順智と云う人が発起となり、次の第二世梅暦が非常に力を入れ、万治三年(一六六〇年) ついに寺院を建立した と伝わる。
 爾来 継続三百有余年になれば 阿弥陀堂の三体の御仏は 幾星霜風雨にさらされ原型さえも判明仕難く、また 阿弥陀堂も雨漏り激しく 主柱の腐敗により、よって此処に再建するに至る。 平成八年八月八日 第十二世西法寺住職 釈尚教 識」。

 ・下記は、上記「由緒書」の一部に小生の推測等を加筆するなどして書き直したものである。

   往古、本木村には、宝林山があり、そこに無住の御堂があったが、それより古い小さな阿弥陀堂が(現西法寺裏山の上段に)あり、堂内に阿弥陀仏など三体の仏像を安置していた。
   江戸時代初期(正保<1664~1647>頃か)、順智(西法寺第一世住職とされる)が、本木村の中心地にある古い御堂と仏像に注目し、当地に僧侶が住持する格ある寺院を建立すべきだと想い一念発起し、その建設に着手したが、この人の時世中には寺の完成はなしえなかった。
   万治3年(1660)、第二世住職梅暦のときに、その努力が実り念願の寺が完成した。この寺が現在に継続している西法寺である。
   平成8年(1996)8月8日、上記△ら数えても既に350有余年が経過しており、この間、幾星霜風雨に晒され続けていた上記,琉ぬ鐶吠などの仏像は、原形が分からないほどに激しく損傷し、また、これらの仏像を安置していた阿弥陀堂は、激しい雨漏り等にもより主柱までもが腐敗していたので、第十二世住職釈尚教は、旧御堂を撤去し、その後に現阿弥陀堂を建造し、さらに新たに作造した阿弥陀仏など3体の仏像を安置した。


 (3) 旧阿弥陀仏など

 ・甚だ損傷の激しい阿弥陀仏など3体の旧仏像は、須弥壇の左端にガラスケースの中に入れた状態で安置してある。

4阿彌陀堂左柱 ・同ケースの中には、「今より三百五十年前の万治三年(千六百六十年)、江戸中期の頃、阿弥陀堂に安置されていた三体の御仏と推定される」と書いた説明木札が入っている。
 だが、この木札の内容は、上記(2)の ↓△陵浬錣瞭睛討般圭發靴討り、頂けない。また、万治3年(1660)は、江戸中期ではなく、江戸初期である。このような読む人が混乱を起こすようなことを書いた木札は置かない方がよいと思う。


 (4) 阿弥陀堂の前柱の板札

5阿彌陀堂右柱 ・阿弥陀堂の前面の両柱に「其佛本願力聞名欲往生」「皆悉到彼國自致不退轉」と書いた板札が打ち付けてある。

 ・この経文は、無量寿経を引用した「教行証文類」にあり、その行巻訓は、「その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲(おも)へば」「みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る」とある。




 ・阿弥陀仏の利益を頂く言葉として、この阿弥陀堂に掲げられたのだと思う。

 ・小生は、経文の意味を吟味して誦むことがあまりないので、同行者にこれらの経文の解釈を問われると一呼吸置くことがあるが、ここでは、「阿弥陀仏の名(みな)を聞いて、つまり念仏を唱え極楽に往生したいと欲したら、阿弥陀仏の本願力により誰もが迷うことなく不退転に極楽に往生できるという意味ではないかと思う」と答えた。
 この答えが正しい解釈であるかどうかは分からないが、経文はそれを誦む人が感じた意識で理解してもらうことにしている。

6阿彌陀堂内の板碑 ・なお、須弥壇の下に、一基の「板碑」が置いてあるが、説明がない。
 その下方の〇のなかに刻してある文字は、妙のようにも見えるがよく分からない。




 (5)  寶林山の山号

 ・ 西方寺が、「寶林山(宝林山)」という山号を冠しているのは、上記(2)の「昔本木村に宝林と云う山があった」という由緒に則ったものだと思うが、西方寺の裏山が寶林山(宝林山)ということではない。

 ・上記(2)の由緒に「昔本木村に宝林と云う山があり此処に無住の御堂があった」とあるが、この「御堂」(寺の仏堂)とは、少なくとも天治年間(1124~1125)〜南朝正平年間(1346~1370)には存在していた思われる古刹、真言宗「寶林寺」のことではないかと思う。この「御堂」は、江戸時代には無くなっていたようだが、いつ「無住の御堂」となって、廃絶したのかは定かでない。

 ・この「寶林寺」は本木村御鷹原宝林にあったようで、この御鷹原の丘陵に「宝林山」という山があったのかもしれない。現在、この丘陵の一画に僅かに「天治二年三尊仏石塔及び正平板碑」(福津市史跡)が残っており、かつての隆盛を今に伝えている。(※別記予定)

 ・なお、「宗像伝説風土記」には「宝林山城の奇計」(天正15年=1587、城主赤星将監×加藤清正の戦い)という伝承も載っており、その城址は分からないが、「宝林」という字は残っており、やはり上記丘陵に「宝林山」という山が存在していたのだろう。

 (6) 古城址

 ・筑前國續風土記等三誌に、本木村の古城として、「螻姑羽子(けらはご)城址」と「城浦古城」の名が載っている。
 小生は、「螻姑羽子城址」は、本木八幡宮などがある丘陵の一画にあったのではないかと考えていたので、「城浦古城」は、「螻姑羽子城の南四丁許にあり(同附録)」とあるので、当初、西法寺・阿弥陀堂の裏山にあったのではないかと思っていた。
 だが、同上拾遺には「城浦古城 本木村の南に在。西法寺に近し。」とあり、西法寺の裏山にあるとは記載していない。これにより西法寺の周辺の何処かにあったことは間違いないが、その後の探索はしていない。

※次回→「筑前竹槍一揆と井上勝次の墓碑(福津市本木)」。

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2019年06月10日

本木の庚申塔・7基 (福津市)

 ※前回「本木八幡宮境内の薬師堂 (福津市本木)」から続く。

 これまでに、福岡県福津市本木地区を散策中に撮っていた「庚申塔」は7基ある。ひょっとしたら、もっとあるのかもしれないが、とりあえず、これまでに本ブログに掲載したものも含めて、ここに、この7基の庚申塔をまとめて記しておく。

 このうち、5基が板状石碑、2基が自然石碑である。
 また、刻字はさまざまで、「奉庚申」1基、「庚申塔」2基(うち1基は摩耗あり推測)、「庚申尊天」2基、「庚申碑」1基(摩耗あり推測)、「庚申之塔」1基である。

 また、このうち、明確に建立年の分かる庚申塔は3基で、最も古いのは下記(3)の正徳元年(1711)、次が(2)の宝暦八年(1758)、次が(4)の文政五年(1822)である。

 なお、「…」の次に書いた各庚申塔の呼称については、(公式呼称があるのかどうかは分からないので)、小生が覚えとして付けたものである。

 (1) 「奉庚申」
  下がり藤 (観地山地蔵尊境内) の庚申塔 (※画像1)

 ・所在地: 本木1311番地 観地山地蔵尊境内

1藤ノ木の観地山地蔵尊境内の奉庚申 ・「観地山地蔵尊」入口の石段を上って、右側の角に「奉庚申」と刻した自然石碑がある。

 ・建立年月: その刻がなく不明だが、江戸時代造と思われる。


 ・この下の道は、三叉路になっており、一般的には、この北東に伸びる旧唐津街道「畦町宿」の辻「西構口」を守る庚申塔として知られているが、当地の字は「本木」であり、ここでは本木の庚申塔の一として記しておく。
 なお、この庚申塔に右横にある小さな丸めの石碑は無銘で墓石のようにも見えるが不詳。

 ・この三叉路を北西に進むと、県道30号と合流し「本木八幡宮」を経て本木集落の中心部に至るので、この庚申塔は、見方を変えれば、本木集落の北西口を守る庚申塔だという意味合いもあったのかもしれない。

 ・因みに、「本木八幡宮」にも庚申塔(下記)があるので、いってみれば本木集落の北西口を守る庚申塔は2基あったことになりそうだ。

 ※別記参照→「観地山地蔵尊境内の庚申塔、六地蔵など(福津市畦町・本木)」。


 (2)「庚申塔」 
  …竹ノ尾池前・丘上の庚申塔 (※画像2-1、2-2)

 ・所在地: 本木550番地(県道530号沿道)

 ・「畦町宿東構口跡」を出て、「宗像官道碑」が建つ交差点を右折して、県道530号を本木方面に進むと、左側(東側)に「竹ノ尾池」(貯水池)があり、右側(西側)に小丘陵と森がある。

2-1竹ノ尾池上の庚申塔 ・この森の入口から、県道に沿ってその上方に付いている段差上の径を進むと、その先部に板状の「庚申塔」が建っている。





 ・場所的に観て、本木集落の北方の入口の固め(守り)神であったのかもれない。

 ・表面に「庚申塔」と刻してはあるが、丁度その文字の左半分が削れ落ちて無くなっている。
 また、板石と台石のつなぎ目や台石の下も大量のセメントで塗り固めてあるので、倒壊していたのを起こして補修されたのかもしれない。

 ・建立年月:「宝暦八戌寅建立」の刻が辛うじて読めるので、江戸中期の「宝暦八年(1758)」(吉宗の子家重の時代)に建立されたものであればかなり古く、それなりの風雪に耐えてきたものであろう。

2-2竹ノ尾池の庚申塔 ・前述「赤御堂板碑 (福津市本木)」に、竹ノ尾池の南方地点から県道の西側にある旧道口に入るとき、その右上の小屋の先の丘の林のなかに庚申塔が見えていると書いた、その庚申塔である。



 (3)「庚申尊天」
   …本木八幡宮境内(石鳥居右横)の庚申塔
(※画像3-1、3-2、3-3)

 ・所在地: 本木1213本木八幡宮境内 (県道530号沿道)

3-1本木八幡庚申塔 ・本木八幡宮の入口(前庭)、八幡宮の石鳥居の右側、銀杏樹の後ろの斜面上に、割と大きく立派な板状(基台石あり)の「庚申塔」が建っている。




 ・表面に「庚申尊天塔」の刻がある。

 ・建立年月: その文字の両横に、微かに「正徳元年」(右側)、「十一月吉日」(左側)の刻字が読めるので、この庚申塔は江戸中期(六代将軍家宣の時代)の正徳元年(1711)11月建立で、本木地区に残っている建立年の分かる庚申塔の中では最も古い。

3-2本木八幡宮前庭の庚申尊天塔 (2)・古いものなので、板碑面にひび割れが生じているなど、風化が進んでいるのが伺えるが、この庚申塔を保存するために、基礎部分にコンクリート・ブロックなどを用いた補強工事が施されている。


 例えば、基台石の下にさらに基台を設け、その前に供物置き台を設け、周りをブロックで囲み、その中の基礎部分全体をコンクリート舗装するなど、かなり大がかりな補強がなされており、地元の人たちの信心、或は郷土の文化財保護に対する熱意が伝わってくる。

 この庚申尊天塔が、当初からここにあったものかどうかは分からないが、仮に道路拡張等で移設させられたものであったとしても、この近くにあったことは間違いないだろう。

3-3庚申尊天塔 ・因みに旧道は、本木八幡宮の北西部から下がり藤(観地山地蔵尊・畦町宿西構口)を経て畦町入口に行く道だったと思われ、下がり藤には上記(1)の庚申塔があるので、本木集落の北西口を守る庚申塔は2基あったことになりそうだ。
 村の境目に置かれた庚申塔は、そこから魔が入ってこないように守る塞ノ神的な意味合いを持つものが多い。

 ※別記参照→「本木八幡宮(2)〜境内入口・前庭 (福津市本木)」。


 (4)「庚申碑」
  …本木集落中心部の庚申塔
(※画像4-1、4-2)

 ・所在地: 本木1072 (県道530号沿道)

4-1県道30くわの農園入口庚申碑 ・本木集落中心部を通る県道530号線の四つ角の北東角部に、県道(南側)を向いて、自然石の基台の上に板状の「庚申塔」が建っている。





 ・道路面より若干高い地面の叢のなかにあり、そのすぐ後ろ(北側)には、くわの農園(自宅)の土塀が築かれている。
 幸いなことに、県道拡張工事にも触れることなく、この部分の残されたのだろう。

4-2県道30くわの農園入口庚申碑 ・庚申塔の表面の文字は、「庚申碑」と刻されていたと思われるが、その文字の大部分が欠落しており、正確には読めなくなっている。





 ・だが、「庚」の文字の「厂」(雁垂れ)の上部が残り、「申」の文字の右横の「|」が辛うじて残り、また、「碑」の文字も、明確には読めなくなっているが、じっと見ているとそれとなく「碑」と読めるので、この庚申塔の表面には「庚申碑」の文字が刻されていたと伺えた。

 ・建立年月: 碑の右側に「文政五年在歳」、左面に「壬午三月吉辰」の刻があるので、この庚申塔は「文政五年(1822)壬午(みずのえうま)歳三月吉日」に建立(在)されたことが分かる。
本木集落全体の災いを避けるために建てられたものだろうか。
 建立年の分かる本木地区の庚申塔3基のうちでは最も新しい。


 (5)「庚申之塔」
  …西法寺前・本木川対岸の川岸の庚申塔

 ・所在地: 本木1668 (本木川右岸の川岸) (※画像5)

 ・上記(4)から県道30号線を南東に100m行くと左側に本木公民館があり、その前の三つ角を右に95m下ると本木川があるが、その右側の川岸に、供台を有し、二段の四角い基台石の上に乗った板状の「庚申塔」が建っている。

5西方寺対岸の庚申之塔 ・石碑は2基あるが、その右側の石碑がそれで、表面に「庚申之塔」の刻がある。

 また、左側の石碑(四角い基台の上に乗っている)は無銘碑である。


 ・建立年月:「庚申之塔」の左側面に刻してある「三月吉日」の文字は読めたが、建立年の文字が刻してあったと思われる右側面の刻字は風化してまったく読めない。

 ・訪れたとき、この一画は、雑草がきれいに刈り払われていたが、地面から小さな竹の子がたくさん頭を持ち上げていたので、普段は竹林になっているのか。

 ・なお、本木川の対岸には、堂の下の西法寺の伽藍が見えているが、その裏山には墓石や阿弥陀堂等が建っている。


 (6)「庚申尊天」
  …御鷹原の庚申塔

・所在地: 本木959(民家の前庭内) (※画像6)

 ・上記(4)から県道530号線を南東に350m行くと、「本木河内バス停」があり、頭上に「ほたるの里→700m」の看板が掲げてある右折れできる三叉路があるが、この三叉路は、実際は右側(北東部)の丘を上る二路があるので、変則五叉路である。

6県道30ほたるの里入口北東付近庚申尊天 ・その左側から左に上る路を上り、すぐ右側にある民家の前庭に板状の「庚申塔」がある。

 ・表面に「庚申尊天」と刻した文字が明確に読み取れる。



 ・建立年月:建立年月が分からない。  
 というのは、民家の前庭で、小高く盛り上がった土台の上にあり、周りを花壇や弦状の雑木が覆っており近づけず、下部がどうなっているのか分からず、また、庚申塔の側面や後ろ面にも弦が巻き付いており、側面に文字があるのかどうかも分からなかったからだ。
 なお、民家の人に尋ねようとしたが、不在で、以後訪れていない。

 ・念のため、福津市郷土史会作成の「福津市内の庚申塔のマップ」も開いてみたが、この庚申塔は記載されていなかった。

 ・因みに、県道は、このすぐ先で見坂峠に上る道(左)と、見坂トンネル(平成30年<2018>4月7日開通)に向かう新道に分岐するが、この辺りの道路が工事前と変わっており、以前の形状が思い出せない。


 (7)「庚申塔」
  …河内地区の本木川の左岸川岸の庚申塔

 ・所在地: 本木1872(民家敷地内) (※画像7)

7河内本木川縁庚申塔 ・上記(6)「ほたるの里→」の交差点から南に300m直進(途中の二股道は右側の細い道を進む)し、本木川に架かる小橋を渡ると、左側の川岸(民家内)に小さな自然石の「庚申塔」が建っている。


 ・当初、この自然石に何という文字が刻してあるのか分からなかったが、そのうち何とか「庚申」の文字が読めたので、「庚申塔」と書いてあるのではないかと推測した。

 ・建立年月:何とか読めたのは上記だけで、建立年月等は不明である。
 因みに、本木川岸に建っている庚申塔は、上記(5)と合せて2基となる。

 ※次回→「西法寺と阿弥陀堂 (福津市本木)」。

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2019年06月07日

本木八幡宮境内の薬師堂 (福津市本木)

 ※前回「本木八幡宮(8)〜神功皇后の休息地(福津市本木)」から続く。

 所在地:福岡県福津市本木1213本木八幡宮境内(※画像)

1薬師堂と石段 ・前述「本木八幡宮(2)〜境内入口・前庭 (福津市本木)」に、本木八幡宮前庭の右端から「薬師堂」へ上る「石段参道」(21段+8段)があると書いた。




 この「薬師堂」が建っているところは、本木八幡宮の拝殿に向かって右方になり、「薬師堂」の建物は、ブロック(5段)の基礎の上に乗った木造瓦葺(観音開き戸付)の小仏堂(堂宇)で、杉樹が茂る丘陵の斜面に石垣と石段(8段)を作り、平らな土台(地盤)を作った、その上に建っている。


2本木八幡薬師堂・筑前國續風土記附録の本木村八幡宮の項に「藥師堂あり」、同拾遺の本木村若宮社の項に「社内に藥師堂有」の記載があり、この原形は少なくとも江戸時代(以前)にはあったことが分かる。


 ・当時の神社の境内には、神仏習合による御祭神の本地仏と目される仏像を安置する小仏堂が建てられていたことが多いが、そのほとんどは、明治維新の神仏分離令、廃仏毀釈などにより、破壊消滅、或は寺院他に移されたものが多い。


3本木八幡薬師堂の杜・しかし、この「薬師堂」は建て替えられてはいるが、八幡宮境内に厳然としてあり、地元の人たちの篤い信心の力で明治期の破壊の被害を免れ、今日まで代々守り続けてこられたものだと思う。

 

4本木八幡薬師堂 ・現在、この小仏堂の右柱に「宗像四国西部霊場本木第六十七番本尊薬師如来」の表示板が打ち付けられあり、現在も本尊「薬師如来像(坐像)」を安置し、「薬師堂」と称されている。


 ・因みに、この第六十七番の札所番号は、四国八十八箇所霊場の「小松尾山不動光院大興寺・本尊薬師如来」(真言宗善通寺派/香川県三豊市)に重ね合わせたものである。

 ・このように現在も「薬師堂」と呼称されているが、本地垂迹による八幡神の本地仏は「阿弥陀如来」なので、この小仏堂が本木八幡宮の本地堂だとしたら「阿弥陀堂」の方が相応しいのではないかなどと思いつつ、参拝、拝観したら、「薬師如来像(坐像)」と並んで、同本地仏と思われる「阿弥陀如来像(坐像)」が安置されていたので、何かしら安堵した。
 なお、この二仏とも一木造の坐像で、ともに素地が露見し虫食いも見られ磨損が進んでいる。

 ・現在、須弥壇の左半分には何も置いてなく、空洞になっている。以前、一時期(2018年頃)、ここに弘法大師坐像を含む4体ほどの仏像が置いてあったが、これらは、もと「祥雲寺」(福津市本木2083)境内の「海中出現阿弥陀如来堂(宗像四国西部霊場本木第57番)」にあったものだが、最近(2019年)、そのお堂が建て直されたので、同所に戻された。
 先日、このうちの3体については、建て直された同「海中出現阿弥陀如来堂」の須弥壇に安置してあるのを見かけたので、同所に戻されたことが分かる。ただ、大きめの弘法大師坐像(木造)1体は、同所で観かけなかったが、多分、現在、祥雲寺で保管修理されているのかもしれない。
 (※別記参照→「海中出現阿弥陀如来/宗像四国西部霊場第57番(福津市本木)」。

 ・上記薬師堂内に吊り下げてある「昭和62年(1987)10月、中下信者一同奉納」の垂れ幕は、さほど傷んではいない。

 ・なお、薬師堂の外、右手前(地面)に、板蓋を被せた平べったい「水盤(手水鉢)」が置いてある。(※画像)。

5本木八幡薬師堂水盤 ・板蓋を手で持って開けたら、水盤の水鉢のなかに綺麗な水が蓄えてあったので、この「薬師堂」のお世話をされている人が、いつも心がけて新しい水と入れ替えておられるのだろう。


 なお、この手水は、本木八幡宮拝殿前に置いてある水盤に付設している水道水を運んでいるのだと思う。
 (「本木八幡宮」に係わる原稿の投稿・おわり)

 ※本木八幡宮トップ→「本木八幡宮(1)〜神社誌 (福津市本木)」。

 ※なお、今回の歴史探訪ウォーキングでは、この後「本木八幡宮」を出て県道30号を左に70m戻り(本木1200付近)、鋭角で右斜め(手前)に下る農道に入りそのまま道なりに歩き、1.3km先の「内殿日吉神社」の入口前(内殿127)に抜け、さらに1.6km進み(途中から上り坂)「旦ノ原の愛宕神社」前の飯盛山駐車場(内殿2033)までひたすら歩き、ウォーキングを終えた。
 ※別記参照→「日吉神社の銀杏とその黄葉 (福津市内殿)」。
 ※別記参照→「旦ノ原の愛宕神社 (福津市上西郷)」。

 ※次回→「本木の庚申塔・7基 (福津市)」。

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2019年06月05日

本木八幡宮(8)〜神功皇后の休息地(福津市本木)

 ※前回「本木八幡宮(7)〜境内神社△修梁召10社(福津市本木)」から続く。

 (1) 神功皇后の休息地

 ・前述「本木八幡宮(1)〜神社誌 (福津市本木)」に、「神功皇后と武内大臣らは、の「山口八幡宮」(宮若市山口)から「見坂峠」を越えて本木に下り、歩を止めて休憩した聖地に建てられたのが本木八幡宮(←※小生の独説)であり…(このとき)神功皇后が腰掛けて休憩した巨石は、崖上の山中にあって、社殿付近から目視できず、往古より山中にあって当社の御神体、磐座とも目されていたのではないかと思う。現況は、崖を上る道がなく、またその石の上を藪が覆っており近づき難い。」

 ・「神功皇后御腰掛石」は、福岡縣神社誌には載っていないが、筑前國續風土記附録に「境内林中に大石壹個(高二尺周五尺)あり。皇后の御腰懸石といふ。」、また同拾遺に「社内に巨石有。俗神功の御腰掛石といふ。」と記載されている。


1本木八幡後方の崖 ・本木八幡宮の社殿等のすぐ後方に裏山があり、かなりの急角度の斜面を有する崖が立ちはだかっており、斜面上には杉が生え、その落ち葉が地面を覆い、所々に孟宗竹も生えている。(※画像)



 この斜面を上る道はまったくないが、一度だけ危険を冒してよじ登ったことがある。ただ足場がない斜面を上り下りするときの心身の疲労度は相当なもので、二度とこんなことはすべきでないと思った。

2本木八幡後方の崖上 ・上り切った斜面の上(裏山の頂)は、尾根状の丘陵になっており、孟宗竹が茂る竹林となっていた。
(※画像)
 これ以外のものは見当たらないが、清浄な神域であることは間違いなかった。


 かつてこの尾根筋を通る山道があったのかもしれないと思ってはみたが、道らしき跡はない。

 ・「神功皇后御腰掛石」(御腰懸石/約60cm×150cm)は、この尾根をさらに右に上った所にあると思い歩を進めた。


3本木八幡石上 だが、枯竹や倒竹、繁茂する背丈の高い雑草や弦状の雑草等々に覆われた藪に遮られて前進できなかった。
 簡単には行かせてもらえないのだろう。
(※画像)

 


 ・ともあれ、本木八幡宮には、このような誇るべき神功皇后の伝承遺跡がありながら、現在、あまり知られていない。

 ・因みに、神功皇后の御腰掛石は、この他の皇后伝承地にも残っているが、なかでも小生は、目配山の神功腰掛石(筑前町)や大野の神功腰掛石(飯塚市)などが今も印象に残っている。


 (2) 神功皇后の見坂峠越え

 ・ところで、神功皇后が陸路で「見坂峠」に至る前を振り返ってみると、まず、神功皇后は、船団を率いて岡湊から遠賀川(古遠賀潟)を遡り、鞍手町古門の皇后崎(古物神社・旧西山八幡宮の旧跡地・「神崎八幡宮」鎮座)に至り、ここで同行していた仲哀天皇と別れ、随臣の武内大臣等を伴い陸路を進み、新羅遠征(三韓征伐)の集合地・香椎湊(香椎宮)へと向かい、その過程で「見坂峠」を越えた。

 因みに、この後、神功皇后が辿った陸路沿いにある八幡宮等の祭神のなかには仲哀天皇の名がないのは、仲哀天皇が、上記で神功皇后と別れ、船団を率いて海路で香椎湊に向ったためである。

 ・なお、神功皇后が陸路をとった鞍手郡は、新羅王の系譜である素戔嗚命(2代新羅国王とも)とその子饒速日命(大歳命)を祖神と仰ぐ物部氏が割拠している地である。

 神功皇后は、新羅から渡来した新羅の王子「天の日矛(ひほこ)」から八世の孫を母とする末裔であり、わざわざここで陸路をとったのは、今回の新羅遠征(三韓征伐)に当たり、同じ新羅の系譜に属する鞍手(物部氏)の人々の理解を得るというような目的があったのかもしれない。

 ・現在、鞍手郡(宮若市)には、神功皇后の足跡と係わる伝承地が多く残っているが、その最後の伝承地が「見坂峠」で、山口八幡宮の社記は、「昔神功皇后異國退治の時此村を幸行ましましける折柄此處にて休ませ給ひ、夫より見坂越に赴き給ひ、遙に海原をながめさせ給ふ」と伝えている。

 ・当時、山口八幡宮鎮座地から見坂峠に至る道がどのように通っていたかは明確には分からないが、それはともかく、神功皇后は、本木山と磯辺山の間に立ちはだかる峠への坂道を上りきったとき、玄界灘(花見海岸辺りか)の遠望が目に入り、これから向かう玄界灘の先にある朝鮮半島に思いを馳せたので、ここを「見坂峠」(三坂峠ともいう)と命名したのだろう。

 ・現在の「見坂峠」(県道30号線)は、本木山〜磯辺山の山陵の間にあるこの峠道をかなり深く削り取ったので、低くなっている。そのため、玄界灘の海原が見にくく、この地に立っても、かつて神功皇后が海原を見て感歎したことであろう感激を味あうことはできない。また、現在、その下をくぐり抜ける「見坂トンネル」が開通し、見坂峠の往来は不要となりつつある。

4見坂峠 ※画像は、高速九州自動車道上に架かる「浅ヶ谷橋」から観た「見坂峠」。かつての見坂峠を切り通し、ここを県道30号線(右)と高速道(左)が段差をつけて並行するように通っている。県道北側の山肌(崖道)に上ると、かつて神功皇后が眺めた玄界灘の海原の景色をよりよく眺望できるのかもしれないが、ここは通行禁止になっている。(2016.12.8撮影)
 ※別記参照→「浅ヶ谷橋を渡り見坂峠へ(宮若市山口)」。


 (3) 神功皇后、見坂峠を越え本木へ下る

 ・神功皇后の足跡を書いた諸本には、なぜか、いずれにも見坂峠を越えた後の行程に係わる記事がなく、いきなり香椎宮となっている。

 ・しかるに、「見坂峠」を越えると必ず本木に下り、本木には「本木八幡宮」があり、ここには「神功皇后御腰掛石の伝承」も残っているのだから、この地に足跡を残した記事があってもよいはずだが、この伝承は忘れられている。

 ・筑前國續風土記拾遺に「畝町の下の口より見坂峠といふを越て、鞍手郡山口村に至る山路あり。神功皇后も香椎宮に到り給へる時、此道を経過し給へるといひ傳ふ。」「(若八幡宮=本木八幡宮は)疇(あぜ)町より鞍手郡山口にゆく道の側に在。」とある。
 「畝町の下の口」とは、「畦町西構口」のことで、山口村から見坂峠を越え山道を下り、「畝町の下の口」に到る間(直前)に本木八幡宮があり、神功皇后が当地を通ったことは明らかである。

 ・「見坂峠」から神功皇后が下った道は、大まかには、現県道30号に沿っていたのではないかと想像しているが、ただ、本木八幡宮の辺には、当時、同社の裏の丘陵を通って下がり藤に抜ける道があったのではないかと思っている。

 ・繰り返しになるが、小生は、「見坂峠」を下った神功皇后が、最初に歩を止め、休憩した地が本木八幡宮の裏山で、後世、この山麓に、そのとき神功皇后が腰掛けた石を御神体(磐座)とする「本木八幡宮」が建立されたのではないかと想像している。
 ここは、素戔嗚命を祭神する須賀神社が鎮座していることでも分かるように、やはり上記物部氏が割拠した地であり、ここを通過する神功皇后は歓迎されたことであろう。前にも記したが、須賀神社(祇園社)の方が本木八幡宮より先に鎮座していたのかもしれない。

 ・なお、神功皇后の休憩時に必要な水は、当時、この周辺に数多くあった湧水井で調達できたのではないかと思う。
 特に見坂峠は、山口川、西郷川の分水嶺で、西郷川は本木に流れ落ちており、本木は水が豊富で、また、本木八幡宮に続く丘陵の一画にある「赤坂御堂板碑」の辺りには、江戸時代まで豊富な湧水池があったように、当時の本木には各所に湧水井があり、水にはこと欠かなかったのではないかと思う。

 ・ところで、神功皇后の時代(4世紀後半〜5世紀前半)に、既におおよそ旧唐津街道に沿った官道が開けていたとすると、本木を発った神功皇后は、この官道を辿り香椎湊(香椎宮)に至ったと考えられ、この道筋にも神功皇后伝承が残っている。

 ・なお、神功皇后の新羅遠征(三韓征伐)は391年に行われ、その船団は約500艘(約10,000人)の構成だったと思う。この遠征は、新羅の帰化人の末裔である神功皇后が、先祖の母国を征伐したことになるが、華々しい戦歴はない。

 ※次回→「本木八幡宮境内の薬師堂 (福津市本木)」。

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2019年06月01日

本木八幡宮(7)〜境内神社△修梁召10社(福津市本木)

 ※前回「本木八幡宮(6)〜境内神社/棆貎声卍炭造料杼(福津市本木)」から続く。

 (1) 境内神社の配置

 ・先に載せた「本木八幡宮(1)〜神社誌 (福津市本木)」の「補足」の項に掲げた境内神社11社は、次のように「八幡宮本殿の左右」に配置されているが、今回は、前回述べた「須賀神社」を除く10社について記しておくことにする。

1境内社左 ・左側8社〜左端に単体の「須賀神社」(前回掲載)があり、そして、その右側に、左から「歳山神社、大歳神社、秋葉神社、龗神社、天神社、貴船神社」の6社(※画像1)が並んでいる。


 …このうちの「須賀神社」を除く「歳山神社、大歳神社、秋葉神社、龗神社、天神社、貴船神社」の6社は、コンクリート土台の上に置かれた本殿のみの木造小社殿で、すべて同じ形式で作られている。


2境内社左八大龍王 また、龗神社と天神社の間の後方にある「八大龍王」碑は、自然石にその名を刻した石碑で、ブロック造土台の上に立てられ、碑の前方にある上記二社の間には、参拝用の短い参道が作られている。(※画像2、3)。

 なお、碑の後ろに小さな丸石が置いてあったが、これはなにか(?)。(※画像4)


 ・右側3社〜左から「天満神社、恵毘須大明神碑、大神宮」の3社が配置されている。(※画像3)

3境内社右 このうちの「天満神社」は、石組の基台の上に置かれた石殿(本殿のみの小石祠)で、「大神宮」は、石組土台の上に置かれた本殿のみの比較的新しい木造小社祠である。



 また、その間にある「恵毘須大明神」は、自然石にその名を刻した石碑で土間に置かれた自然石の上に立てられている。


 (2) 遷宮社

 ・福岡縣神社誌に載っている境内神社は「須賀神社」一社なので、同社を除く10社は、多分、かつて本木地区の各所に祀られていた神社で、多くは、近年、八幡宮境内に遷されたのではないかと思う。ただし、天満神社には明治21年6月石殿寄附の碑がある。

 ・筑前國續風土記附録に、本木の各所鎮座の六神社(カタカナは鎮座地の字名)の社名を載せているが、このうちの五社は、次の境内神社と符合する。

 「歳山社(トシヤマ)」→「歳山神社」
 「大歳社(ハル)」→「大歳神社」
 「天神社(カウチ)」→「天神社」
 「天満宮(イシバタケ)」→「天満神社」
 「八龍森(ダイガウラ)」→「八大龍王」。

 なお、「山神社(フロノタニ)」は、境内に同名の神社がなく、当初、秋葉神社か龗神社かと思ってみていたが確証はない(未調査)。


 (3) 10社の祭神等
 
 ・10社の祭神は、それを示す資料を目にしておらず、地元での聞き取りもしていないので断定できないが、一応、推測してみた祭神名を下記しておく。
 また、その他、付記できる事柄がある場合は、併せてここに書きとめておく。

 「歳山(としやま)神社」〜祭神名は分からない。
 …或は毎年正月に山から降りてきて、その年の穀物の実りや人々の幸福をもたらす年神(歳神/としがみ)三神(大年神、御年神、若年神)か。もとは歳山(トシヤマ)に鎮座し、同地域の人たちの先祖神(氏神)として敬われていたのかもしれない。大年神は大歳神社の祭神に同じ。

 「大歳神社」〜祭神は大歳神(大歳命)だろうと思う。
 …大歳神は、須賀神社の祭神素戔嗚命の第五子・大年命・饒速日命であり、字ハルの人々は古代物部氏の系譜につながるのかもしれない。

 「秋葉神社」〜祭神は火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)だと思う。
 …山々が連なる本木地区の山林ほかの火災防止神として勧請されたものだろうか。

 「龗(おかみ)神社」〜祭神は、高龗神(たかおかみのかみ)、 闇龗神(くらおかみのかみ) だと思う。
 …貴船神社の祭神と重なる水の神で、農耕や山神としても信奉された。

 「天神社」〜祭神は素戔嗚尊だと思う。
 …旧には牛頭天王(ごずてんのう)もあり、或は饒速日命、菅原道真などとされることもある。もと河内地区に鎮座。

 「貴船神社」〜祭神は高龗神(たかおかみのかみ)、闇龗神(くらおかみのかみ)だと思う。
 …ときとして龍神、雷神とも称される水の神で、農耕神として広く信仰された。特に宗像地方にあっては、宗像三女神の一湍津姫神(多岐津姫神)=瀬織津姫神(福津市津屋崎の波折神社祭神)を、祓いの水神である高龗神=闇龗神と同神とみなす貴船神社が各地に作られた。

 「八大龍王」碑〜祭神は、修験色の強い八大龍王神(龍神様)だと思う。(※画像4)

4八大龍王碑 …八大龍王神は、水神・仏法守護神・福徳神とされ、農耕の神としても信仰された。もとの鎮座地のダイガウラとは、当八幡宮鎮座地の大浦(ヲゝウラ)と同じなのだろうか(未確認)。

 
 「天満神社」〜祭神は菅原道真(老松明神)である。(※画像3の左)
 …この右横に、明治21年(1888)6月の「天満神社石殿寄附 (世話人中老中、當部落中・水上勝次郎以下33人の記銘)」碑が立っている。(※画像5の左)

 この天満神社は、もと本木字石畠に鎮座していた天満宮(老松社)で、同上年に、当地に石殿(石祠)を作り遷宮したのではないかと考えられる。

 筑前國續風土記拾遺に「天満宮 石畠という處に在。宗像末社記に老松社といへるは此社にや。世に天満宮と老松社と互に通し呼所多し。俗説に往昔此社の楠の木を伐て大日の像三体を彫刻す。基本にて作るを此村河内に安置す。依て村の名を本木といふ。…」とある。

 ただ同じ拾遺の若宮社(若八幡宮)の項に「宗像末社記に、本木若宮社同老松社と見え、又本木若宮明神二社内…老松明神は相殿に坐にや」あり、また、宗像神社史の宗像七十五社(境外末社百八神)の一(49番目に)「老松若宮(天満)…本木八幡宮同殿」とあるので、もし八幡宮同殿に以前から天満社(老松明神)が相坐していたのであれば、石畠の天満宮(老松社)は、宗像末社記にいう老松社とは別社のようにも読める。

 しかるに、本木八幡宮の御祭神は「譽田天皇、神功皇后、武内大臣」の三神のみで、老松神・天満神に類する祭神はなく、境内に、明確に当「天満神社(老松社)」一社が鎮座していることを考えると、当社が宗像末社記にある「老松社」(宗像七十五社の一)だとみてよいと思う。


5恵毘須大明神 「恵毘須大明神」〜祭神は、事代主命(ことしろぬしのみこと)だと思う。
(※画像5の右)

 …ただ、蛭子神(宗像大社に蛭子神社あり)とされることもある。


 いずれにしろ、恵毘須神(恵比須神ほかのあて字あり)は、福をもたらす七福神の一神で、宗像地方でも、漁業神、留守神(神無月に出雲に赴かぬ)、商い神として、多くの信仰を集めた。

 なお、その前にある四角い台座石の上に、なぜか石燈籠の宝珠、或は五輪塔の空輪らしきものがぽつんと置いてあるが、それらの残骸らしきものが見当たらない。(※画像5)

 「大神宮(だいじんぐう)」〜祭神は天照大神(皇大神宮)、又は天照大神+豊受大神(伊勢神宮総称)。(※画像3の右)
 …平成22年(2010)1月に建築(自然工房太陽、中並喜久一 嘉麻市山野)された比較的新しい社祠である。建築の経緯は分からないが、参宮紀念によるものか。
 因みにこの年は、平成17年(2005)から平成25年(2013)の正遷宮までにかけて行われた第62回式年遷宮各種行事の期間中になる。

 ※次回→「本木八幡宮(8)〜神功皇后の休息地(福津市本木)」。

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