大森神社〜旧蓑生郷宗社大森神社ァ糎羣弯析暫

2009年09月25日

大森神社ぁ組喟校(大守社)

大森神社参道

 ※上の画像は、大森神社参道にあった植木と花。
  (名前は知らない/2009.7.30撮影)

 前回、大森神社(福津市)の「由緒」の前半部分を転記し読んでみたが、なお分からない部分が多くあったので、次に掲げてみた。

 鎮座時期は不明で、「由緒」にも書いてない。

 「主祭神六柱の内、右記御祭神は、往時よりの御鎮座、飯盛社小盛社西塔田若宮社の御祭神也」とあるなかの「御鎮座」の地は、冒頭部分の「往時、飯盛山の麓大森に鎮座」とは現在地、或はその近くか。
 この「由緒」には記されていないが、中近世に、神社の廃絶、再建、焼失、移転を繰り返す等があったようなので、もともとの鎮座地は、現在地以外の場所にあったとも考えられる。

 また、「往時よりの御鎮座」したという「飯盛、小盛、西塔田若宮社三社は、宗像七拾五社の一とあり」というが、「宗像七拾五社の一」に数えられる各社が、最初から同じ場所に鎮座していたとは考えられない。 なお、この「三社は、宗像七拾五社の一とあり」と書いてあるが、「小盛社」が「宗像七拾五社の一」であったというような記憶はない。

 「大森宮・大守宮・大守六宮と奉称せり」とあるが、森と守と盛は同音で、神社の杜、若しくは飯盛社小盛社を合わせて大守社と称したのかもしれない。守は神でもある。

 神社名については、「福岡縣神社誌」に「宗像社記曰飯盛小盛神社と有り後世大森神社と改む」と記されているので、このことは、当初、別々のところにあった「飯盛社」と「小盛社」の二社が、最初に合併して「飯盛小盛神社」と称したことを物語っているだろう。

 若しくは、この二社は、別々の場所に鎮座はしていたが、もとに「飯盛明神」を祀る一体の神社だったので、この二社を合わせて「飯盛小盛神社」と称していたとも考えられる。
 たとえば、「飯盛社」が仮に飯盛山頂にあったとして、「小盛社」がその麓の小盛にあったと考えると、この二社は、上宮(山宮)と外宮(里宮、遥拝宮)の形態になっていたと考えられる。

 また、上記のように「小盛社」は、単独での「宗像七拾五社の一」ではなく、「宗像七拾五社の一」は、「飯盛社」と「小盛社」の二社が一体の「飯盛小盛神社」であったと考えられる。
 それは、「宗像社記曰飯盛小盛神社と有り後世大森神社と改む則七十五社の一也」(福岡縣神社誌)とあるのを見ても分かる。

 続いて「而して蓑生郡宗社也小盛に鎮座」とあるので、「飯盛社」が、小盛にあった「小盛社」に遷ったと考えてもよさそうである。

 「飯盛社が仮に飯盛山頂にあったとして」と上記したが、「飯盛社」は、その名称からして、もとは飯盛山に鎮座していたと考えた方が分かりやすい。
 多分、飯盛山に中世山城が築城されたときに、「飯盛宮」は、飯盛山の麓小盛にあった里宮「小盛社」に遷され合祀されたのかもしれない。この小盛の地は、現在地付近だったかもしれない。

 飯盛山(福津市内殿)は、大森神社(現在地)の南東約1.7kmのところにある神奈備形の山(157.2m)で、頂上からの見晴らしはよく、山城を設けるにはもってこいの場所であった。現在、飯盛山の南方眼下に九州自動車道・古賀SA(古賀市)が見えるが、地形的にも交通の要所であった。往古、飯盛山頂に、飯盛山を神体山とする神社があったとしてもおかしくはないと思う。

 なお、戦国期、飯盛山城は、当初、大森神社の社職も兼ねた河津氏が本城を亀山城に移すまでは、河津氏の本城だったようで、亀山城に移動後も、立花城(糟屋郡立花町)に拠る大友氏方の立花氏に対する押さえの出城としての役割を担っていたと聞く。
 亀山城は、大森神社の北西約1.5km、福津市四角区切寄の丘陵にあり、丘陵の頂上部にある亀山神社の鎮座地は前方後円墳か。

  ところで、「往時よりの御鎮座」のもう一社、「西塔田若宮社」は、確かに「宗像七拾五社の一」に間違いはなく、後に蓑生郡五郷の何処から遷され合祀されたものだと思う。

※つづく→「大森神社ァ糎羣弯析暫」。

※前回「大森神社〜旧蓑生郷宗社」。

keitokuchin at 00:12│Comments(0)

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