白鯰の恩返し2〜武守神社(宗像市)三銃士トークショーに行った

2011年08月28日

武守神社(宗像市)の由緒と熊野本宮大社

625武守宮由緒板と烏(社紋)  前回、武守神社(宗像市武丸)の拝殿掲示の、長文の「白鯰池の由来伝説記」を転記したが、「武守権現神社由緒」(※左の画像)の文章はもっと長い。
  首を上向け欄間上に掲げてある墨字(楷書)で書かれた由緒を読み終わったときは、かなり疲れた。

  必要以上に長い文章になっているので、以下、本稿では、由緒の不必要と思われる部分は端折り、誤字や文意がつながらない部分は、私なりに訂正しながら「 」内に記すことにする。

  まず、祭神は、「武速素盞鳴尊神と櫛稲田姫神〜危険防止結縁の神」で、「武守とは武丸村(旧)を守る(権現)」という意味で、「権現とは、神が仮の姿に化身して現われる」ことで、当社の祭神は「烏に化身」して現れた、となる。

  私は、上記の意とは別に、武守の武は、武速素盞鳴尊の武であり、宗像地方に進軍した武速素盞鳴尊が守備を固めるために烏(権現)に化身して現れた地という意味があるのではないかと思った。
  素盞鳴尊の宗像地方進軍については、宗像大社の祭神(三女神)が高天原における素盞鳴尊と天照皇大神(女神)との誓約で産まれた神々であることからからも推測できる。

  武速素盞鳴尊神と櫛稲田姫神を合わせて祭神としていることは、熊野大社(島根県)の影響かと思われるが、祭神(武速素盞鳴尊)が「烏に化身」して現れたという伝承は、熊野本宮大社(和歌山県)の熊野午王(又は宝印神符)と熊野権現思想の影響を受けていると思う。

  熊野本宮大社の主祭神である家津美御子大神は、武速素盞鳴尊であるというのが通説であり、その御神符を烏(オカラスさん)とした背景には、神武天皇(神倭伊波礼彦)東征のときに熊野烏(八咫烏)が導いたという故事に由来している。

  「由緒」にも、「往古祭神は神武天皇御東征の折祭神が烏に姿を変え諸国の道案内に先導され…多大の貢献あり」、(当社の)「社紋は烏なり、氏子烏を神鳥として大切に保護するなり」と記されて、由緒板の上に二羽の烏を描いた神紋額(絵馬)が掲げてある(※左上の画像の上部)。
  なお、当地方には赤間(宗像市)の地名の由来になったという神武天皇御東征赤馬伝承が八所宮(宗像市吉留)ほかに残っている。

  また、由緒には、「古代皇祖十代崇神天皇御守西暦前97年頃出雲国の人欽入根彦という人当地に住す祭神の御徳を称え 社を建て祀り 祭神(武速素盞鳴尊)の武の一字を採り武丸村と号す 以来武丸村の総氏神として称えられる」と、武守神社創建と武丸の地名の由来伝説を記している。
  私は、武丸の丸には土地(一円の村)という意味で、武丸は武速素盞鳴尊が守備を固めた村であったのではないかとも思っている。

  なお、由緒には記載がないが、当社は勝守神社とも言われていたようで、この勝守の名称も上記熊野本宮大社の勝守(お守り)の影響を受けていると思われる。
  つまり、記紀には、素盞鳴尊と天照大神との誓約(うけい)のとき、天照大神が身につけていた八坂瓊の五百箇の御統を噛み吹き出した霧から正勝吾勝勝速天之忍穂耳命が生まれたとあり、熊野本宮大社では、この神の勝の字をとって、お守りのことを勝守(かつもり)と称しているからである。

  しかるに、熊野本宮大社における記紀伝承の数々が、本来は、宗像などを含む九州王朝に伝わる伝承ではなかったのかと考えることができれば、ひょっとしたら武守神社の伝承の捉え方は逆転するかもしれない。
 
 ※→(つづく)。

keitokuchin at 01:35│Comments(0)

コメントする

名前
 
  絵文字
 
 
白鯰の恩返し2〜武守神社(宗像市)三銃士トークショーに行った