名残の立山天満宮(天満神社)へ(宗像市名残)広陵台古墳公園(名残高田遺跡)へ(宗像市)

2014年06月08日

宗像四国東部霊場「名残春観音堂」へ(宗像市名残)

 前回「名残の立山天満宮へ(宗像市名残)」からつづく。
 15名残春 
 名残公民館の裏側の名残川(小川)左岸沿いの里道を上る。
 少し歩くとY字路があり、ここから左の道に沿って曲がる名残川を外れて、右側の里道本道を進む。

 この里道の先から自由ヶ丘南3丁目(住宅団地)に行くことができるが、特に休日は、この里道を通る車はほとんどなく、前回記した「農道~県道75~自由ヶ丘南(交差点信号機)」とセットにして周回ウォークを行っている住民も多い。

 里道の右側は、(対岸の)立山(丘陵)との間に広がる谷あいで、立山寄りに名残川支流が流れ、その前に水田が段状に広がっているという景だが、谷あいの奥に水源地があり、水は豊富だ。

 左側は、小丘となり、名残春集落の農家が並んでいる。
 「宗像四国東部霊場第10番札所・名残春観音堂(本尊十一面・千手観世音菩薩)」は、その途中の小丘上に建っている。(画像1)。
 名残公民館から徒歩約10分、位置的には浪寄神社から直線で南西約300mの距離である。
 お堂の向きからすると北東(鬼門)の浪寄神社を遥拝するような形に建てられているようにも思えたので、明治以前の「名残春観音堂」は、浪寄神社と神仏一体で崇敬されていたのかもしれない。

 筑前国續風土記附録の名残村の項に「観音堂二宇(タシロ・ハル)」とあり、多くの堂宇が消滅した明治の廃仏毀釈の波をくぐって、その一宇(ハル=名残春観音堂)が残ったのだとすれば幸いなことだと思う。

 現在のお堂の建築年代が分からないが、寄付者名簿によると昭和4年と24年に屋根の葺き替えをしたとある。

 また、「本尊十一面・千手観世音菩薩」というが、堂内を見渡した限りでは、十一面観世音菩薩・千手観世音菩薩らしき観音像はなかった。
 聖観世音菩薩像(木造小仏立像か)や子安観音(石膏小仏立像か)だろうと思える観音像はあったものの、肝心の本尊像がなく、やはり本尊の観音像は、廃仏毀釈の波、或は盗難に遭ったのか、それとも別途保管されているものかは分からない。

14名残春 壁に掲げてある墨書の奉納板(※画像2)には、「天文壬辰年三月十八日丹波国安野寺の子安の観世音」を移したと記されていたが、丹波国安野寺について無知で、また上記子安観音が当時のものとは思えない。

 ただ、観音会は今も3月18日の縁日にあっているのかもしれない。

 このほかの仏像等には、厨子入りの立像(小仏)と不動明王立像(小)や、立像石仏(小)、弘法大師座像(小)が置いてあったが、肝心のもの(本尊像など)が分からず、謎の多い観音堂ではあった。
 そういえば、前述した「宗像四国東部霊場第32番名残観音堂(本尊十一面観世音菩薩)」にも十一面観世音菩薩像らしきものはなかった。

 消化不良のような気持ちで参拝した後、お堂の床下に巣を作って激しく羽音を立てて飛び回っている蜂に気を付けてお堂を出て、名残公民館前に引き返した。

※つづく→「広陵台古墳公園(名残高田遺跡)へ(宗像市)」。

keitokuchin at 02:00│Comments(0)TrackBack(0)

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