愛宕神社へ(7)祭神五柱(宗像市冨地原)楓橋夜泊

2014年07月31日

黒川高木神社にて(朝倉市黒川宮園)

 先日、知人に呼ばれて朝倉市黒川に行った帰り、何年振りかに黒川高木神社(朝倉市黒川宮園3328)を参拝した。

 (正しくは「高木神社」だが、高木神社は朝倉地区に12社あり、黒川には疣目の谷にもう1社あるので紛らわしいけど、地元の人たちは「黒川神社」と言っているので、ここではとりあえず「黒川高木神社」と書く。)

鎮守風景2 黒川宮園集落の鎮守「黒川高木神社」の創建は不詳~伝・弘仁13年(822)説もあり、天文23年(1554)再興、天正6年(1578)拝殿再建、明治5年(1872)村社被定、祭神は高皇産霊神、五部大神(下記)である。

 境内神社には須賀神社(素戔嗚尊)、稲荷社(倉稲魂命)、保食神社(保食神)などがある。

 「黒川高木神社」の祭礼「宮座祭」(黒川くんち)には、旧黒川村(旧朝倉郡高木村大字黒川)全域の人たちが集合し、その行事内容には、かつての黒川院 (黒川御所)を中心とした共同体としての繁栄の名残を今に伝えている。

2487座主墓案内 急峻な山に囲まれた天然の要害ともいえる地に立地する宮園集落には、かつて正慶2年(1333)彦山(英彦山)座主として九州に下向した後伏見天皇第六皇子長助(助有)法親王が設けた黒川院 (黒川御所)があった。

 歴代の彦山(英彦山)の座主は、同御所に居住し、黒川は修験の一大拠点として繁栄した。
 そのため、最後の座主十四代舜有が天正15年(1587)死亡した直後の、慶長5年(1600)筑前国に入国した黒田長政と黒川院後裔勢力との間には、福岡藩の領国支配を巡っての軋轢があったのだろう。
 特に黒川院にとっては、恩顧ある豊前城井谷の宇都宮氏をだまし討ちで滅亡させた黒田長政や官兵衛に対して違和感もあったかもしれない。

 謀略で成り上がった戦国大名黒田家にとっては、格式の高さを誇る名家に対する羨望も憎悪もあったかとは思うが、元和9年(1623)、福岡藩二代藩主となったばかりの黒田忠之は、相当憎悪が堪っていたのか、藩主の強権を以て即刻黒川院歴代墓地を含む黒川御所関連施設を徹底的に破壊し後顧の憂いを断ち切り、名門黒川院は完全消滅したという。

 黒田官兵衛の家臣団として黒田家を支えた黒田二十四騎に連なる家臣らを粗略に扱った粗暴な専制藩主として知られる黒田忠之だから、かなり残酷な破壊を行っただろう、などと思いを馳せていたら、その後、急に体調が悪くなり家に引籠っていた。再度機会があればゆっくり周辺行脚をしてみたいものだ。

 ※境内案内板等の記載文を資料として下記に転載しておく。

 ※資料1:[黒川高木神社境内の案内板]
「高木神社 朝倉市黒川宮園(旧筑前国上座郡黒川村)
 祭神 高皇産霊尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊
 相殿 五部神(天兒屋根命・天太玉命・天細女命・石凝姥命・玉屋命)
 この高木神社は江戸時代まで大行事社といわれ、彦山神領の鎮護を目的とした彦山麓七大行事社の一つである。
 創建の時期は不明であるが、寄進された最古の史料に天文二十三年(一五五四)銘の墨書が確認できる。
高千穂家(現在の英彦山宮司家)に残る記録によると、正慶二年(一三三三)後伏見天皇の第六皇子長助法親王(後の助有法親王)が彦山座主として九州へ下向され、世襲制初代座主に就任したという。
 翌年には「黒川院」御所を造営し、第十四代舜有座主が豊臣秀吉の九州征伐で降伏するまで約二百五十年間にわたり、九州における修験道の中心であった彦山と共に、一大宗教都市として繁栄している。
 江戸時代に筑前国が黒田領となると、黒田家との関係が悪化し、黒川に残る歴代座主の墓所や栄華を誇った旧跡は、第二代藩主黒田忠之の破壊命令で消滅してしまう。
 現在、高木神社では毎年十月二十九日に、福岡県無形民俗文化財に指定された宮座行事がある。行事には中世修検道の要素が色濃く残り、当時の黒川院を物語る数少ない伝承となっている。
 歴代座主 初代助有 二代浄有 三代有忠 四代有俊 五代有依 六代有厳 七代頼有 八代尭有 九代興有 十代有胤 十一代有信 十二代連有 十三代連忠 十四代舜有
 平成二十一年十月二十九日 黒川協議会」

 ※資料2:[黒川高木神社境内の陶磁案内板]
宮座81 
「高木神社と宮座行事
 黒川には正慶二(一三三三)年に彦山座主(彦山の指導者)の居館がつくられ、座主はこの黒川村から彦山荘園領主として彦山(現英彦山)を支配していた。

 この高木神社は、彦山を鎮護するために神領内に建立された大行事社の一つであり、彦山麓七大行事社の一つといわれている。
 毎年十月二十九日に当神社で行われる宮座行事(黒川くんち)は、きわめて古い様相を残していることから、近隣の宝珠山村福井神社に伝わる祭礼とあわせ、福岡県無形民俗文化財に指定されている。
 宮座行事は、現在の黒川の各集落が順番に座元を引き受け行われているが、本来はジンガ(神課)と呼ばれる特定のイエ筋の世襲制によるものだったと考えられている。
 宮座の特徴としては、中心となるのが御当(ミトウ)と呼ばれる子供であること、行事の中に御ホシによる穀霊つなぎがみられることである。
 その年にとれた新米を土器に入れて木箱に収め、藁苟(ワラット)に包みこんだ穀霊(御ホシ)を受方の座元地区で作り、地区守護神を祀る社の神木の樹上に安置して一年間保存し、翌年の宮座の前に、新しく収穫した米に混ぜて御供を調整する。収穫祭の御供から御供への循環という形で穀霊つなぎが行われている。
 準備段階から宮座、座元譲り渡しまでの一連の行事には共同体の結束が見られ、中世以来の貴重な集落祭祀の伝統が維持されている。」

 ※資料3:[黒川高木神社境内の「高木神社災害碑」]
鎮守風景1「平成三年九月十四日大型台風十七号に依り境内の神木樹齢約五〇〇年幹廻り三.七米 高さ三十数米の神木二本倒伏。一木は拝殿鬼瓦御供屋篭堂を破損、一木は手水舎石燈籠大鳥居コマ犬池周辺石垣玉垣小杉数本を破損する。

 また同年九月二十七日超大型台風十九号に依り神社裏の杉が神殿棟に倒れ破損し、大鳥居前大杉が民家倉庫に被害をあたえ、裏山神社林三十年生杉桧六〇〇本倒伏折損し大被害を受けた。ここに碑を建立し後世に残す。
 但し御神木二本は金壱千参拾萬円にて売却、その中の一部金を修理費として充てる」。

※参照→「佐田高木神社へ(1)~佐田安谷・県道工事中 (朝倉市)」。
※参照→「黒川の彦山と高木神社機創噌(九州王朝)終末期の王府15朝倉市」。
→「黒川の彦山と高木神社供創噌(九州王朝)終末期の王府16朝倉市」。

keitokuchin at 15:41│Comments(0)

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