水城プロジェクト「彫刻展大宰府2015」行神舞峡「馬口の滝」に行く(宮若市山口)

2015年12月26日

円通院のあれこれ (宮若市)

 前回「宗像騒動・千代松と母お弁の墓(宮若市山口)」からつづく。

(1) 聖音山「円通院(圓通院)」(宮若市山口3809)の建立年月は分からないが、前回、第79代宗像大宮司氏貞が、宗像千代松とその母お弁の霊、及びその父氏続(第76代大宮司)の霊の鎮魂のために円通院を建立したと書いた。

1園通院山門・鐘楼 氏貞の手の者によって千代松(3歳)とその母お弁が当山口村枝村畑村で殺害されたのは天文22年(1553年)3月24日で、氏続はその前年の天文21年 (1552)12月20日に彦山で殺害されている。

 その後、祟りを恐れた氏貞は、当地にお弁の追号(法名)円通院花屋貞顔禅定尼の院号を付けた曹洞宗・円通院 (宗像市大穂の宗生寺末寺)を建立し、聖観世音菩薩を本尊としたという。

 もしかしたら、お弁を聖観世音菩薩に見立てて、親子三人の鎮魂を図ろうとしたのかもしれない。

 (2) 筑前國續風土記附録には次の記載がある。

 「圓通院 洞家 佛堂五間七間 ホンバタケ 本編に詳也。開基の僧を蘭室といふ。聖音山と號す。此寺に氏男弟千代松及び氏續か妾辨か位牌有り。辨か追號を円通院華屋貞顔といふ。ゆへに寺號とす。千代松か追號を林昌院幻智性禅といふ。寺記に見へたり。」

 なお、第78代宗像大宮司氏男は、第76代大宮司氏續(氏続)の子で、千代松は、氏續が妾辨(お弁)に産ませた子なので、「氏男弟千代松」となる。

 「千代松と母お弁の墓」(前回)の説明板には、お弁(辨)と千代松の追號は、「お弁:円通院花屋貞顔禅定尼」「千代松:林昌院春幻智生禅童子」とあった。(上記附録とは若干違う)。

 お弁の法名に、お弁や千代松を殺害した氏貞の「」が入っているのは何とも解せないが、あえて氏貞がその名を贈ったのだろうか。
 また、千代松の法名を見ていると、春(旧暦3月)の幻のように未だ物事の是非、善悪の弁別(智)も分からない幼い命を不本意に散らされた幻の如き人生であったことを物語っているようで切ない。

 (3) 円通院本堂の裏山30mの所にもある「千代松、お弁の墓」は「まつり墓」といわれ、寺内で二人の菩提を弔う供養塔だという。

 前回記した「千代松、お弁の墓」は、平成13年(2001)12月に、その南50mから現在地に移設されたもので、旧地は千代松の「埋め墓」で「おちいどん」(お稚児殿の意か)と言われたが、土地改良で消滅した。

 また、お弁を埋めたのではとも思える「たちのわき」(太刀の脇と書くのか)は、その東にあったが、県道開削工事で県道地下に埋没した。

 宗像大宮司家の嫡流は、氏貞の代を以て跡継ぎが早世して廃絶、大宮司家が所領していた宗像郡及び鞍手郡西部(山口村含む)は、豊臣秀吉が没収。秀吉没後、黒田長政が筑前に入国し、当地は福岡藩の所領となる。

 (4) 黒田長政の筑前入国後の円通院は、長政の庇護を受けたようで、附録に次の記載がある。

 「長政公入國し給ふ後、大音六左衛門重成に此村を賜ひける。長政公に請ふて山林五千坪及圃地二反餘を此寺に寄附せり。」

 また、筑前國續風土記(本編)は、「長政公入國の後、此村をは大音六左衛門 法名宗閑 に給りける。 采地の内、田畠少々圓通院へ寄附して寺産とす。 又其寺のうしろの野山一萬坪を、長政公へ申て、此寺に付けり。 今も寺に属せり。 松、かへで、椎及雑木繁榮して、茂山となれり。栗、椎など山果多し。 冬は林中に紅葉多く、嵐にしたかひて、錦をひるかへせり。 今の住持普禪、高き所をならし、宅地を廣め、佛堂を改め作れり。 又観音堂を新に作る。 かゝる僻地の山中には、又たくひすくなき牡ん梵刹也。 大音氏代々の位牌も、此寺に安置せり。」と記載している。

 貝原益軒は、上記のように円通院の風景を詳しく述べているが、今も昔と変わらないのかもしれない。 
 なお、大音六左衛門重成は、近江国の出で、黒田光之の家老を務めたこともあり、子孫も当地に住したらしい。
 

 (5) 大音青山(おおおとせいざん)。

 円通院本堂の裏山には、幕末の福岡藩を勤王派に導いたといわれる「大音青山の墓」がある。

2大音青山 円通院門前の案内板(若宮町観光協会・若宮町文化財保存委員会設置…※若宮町は現・宮若市)に、「大音青山」(1817 – 1886)について次のように記している。
 「黒田藩の重臣、明治維新後、家族と共に若宮町山口に移住。当円通院裏山一帯を寄付さる。1886年、明治19年4月18日70才で死去。青山宗意居士。」

※画像2: 福岡藩勤王派家老大音青山(HP「ついっぷる」からお借りした)。

 大音青山は、文化14年(1817)生、幕末期の福岡藩で勤王派の家老として積極的に蘭学、西洋兵学等の導入を図ったが、佐幕、勤王で揺れ動く政情に藩が翻弄し、家老職の辞任、復職を繰り返した。薩長連合に尽力し、明治維新後は福岡藩大参事になった。

 「大音青山」は、上記「大音六左衛門重成」を初代とする子孫で、大音家は代々家老職の家系でもあった。また、円通院の裏山に大音青山の墓(仮墓との説もある)があるのは、晩年を当地山口村で送り、当地で没したということなのだろうか。いずれにしろ、有能な人物が当地にいたということ。
 (私の友人にも大音さんがいたが消息不明)。

 ※別記参照→「大音青山と大音屋敷跡(宮若市山口)」。

 (6) 山崎羔三郎(やまさきこうざぶろう)。

 円通院の裏山には、かつて征清殉難九烈士の一人として称賛された「山崎羔三郎の墓」もある。

3Yamasakikozaburo 同上案内板には、次の記載がある。

 「山崎羔三郎 日清戦争の時に諜報員として活躍。福岡市白水家に生まれ明治廃藩の際、若宮町山口に移り山崎家の養子となる。1894年、明治27年10月31日、中国にて囚われ処刑される。31才。英哲院忠山義勇居士。」

※画像3: 山崎羔三郎(ウィキペディア「征清殉難九烈士」からお借りしました)。

 京都熊野若王子神社前に「征清殉難九烈士碑」があるが、ウィキペディアには「征清殉難九烈士」とは「日清戦争当時、根津一によって召集された軍通訳官のうち、清国軍にスパイとして捕えられて処刑された漢口楽善堂出身者(3名)、日清貿易研究所卒業生(6名)を指す」とある。

 山崎羔三郎は、処刑された漢口楽善堂出身者3名のうちの一人で、金州で捕捉、斬首されたという。

 祖国のために命がけで働き、若い命を捧げた有能な人物であつた山崎羔三郎は、刑死後「殉難九烈士」の一として讃えられたが、今の(平和な?)日本においては、負の歴史のなかに埋没し忘れられた存在となっている。
 時の流れとはいえ、当地は、かつて有能な国士を生んだところとして誇らしい。
 それにしても当地の出身者に、当地で敵に捕捉され殺害された千代松、お弁と同じように、敵に捕捉され殺害された人物がいたのだと思うと何とも痛々しい限りだ。合掌。

 ※別記参照→「殉維烈士「山崎羔三郎」墓参道碑など(宮若市山口)」。

 (7) 大梵鐘由来(保存してあるコンクリート製梵鐘)。

4園通院石鐘・薬師堂 円通院の山門(※画像1)は、鐘楼が併用しているが、昭和19年(1944)に旧梵鐘を供出した後、昭和50年(1975)に現梵鐘が出来るまでの間は、コンクリート製梵鐘(昭和17年製)が吊り下げていたらしい。

 そのコンクリート製梵鐘と思われるものが、境内の薬師堂(ヤマジタから移設したものか)の横に保存されているが、仏頭の螺髪(らはつ)を現すつぶつぶの乳まで精巧に作られたもので、「皇紀二千六百二年」の刻字が読み取れるので、昭和17年(1942)に製作後に旧梵鐘を供出したことが分かる。(※画像4:コンクリート製梵鐘)

 昭和13年(1938)、政府は鉄鋼配給規則を制定し、以後、武器製造に係わる金属資源不足を補填するために国民に金属類の供出を求め、梵鐘を供出した多くの寺院では、重量のアンバランスによる鐘楼の倒壊を防止する必要上、供出した梵鐘と同重量の代替梵鐘を石やコンクリートで作って吊り下げた。

 円通院に保存してある「コンクリート製梵鐘」を見たとき、今や忘れ去られようとしている大戦中の金属供出史の一端を教えてくれる貴重な遺産だと思った。大事に残してほしい。

 山門・鐘楼に「大梵鐘由来記」が掲示してあったので次に記す。

 「明治四十余年 山門にふさわしい大梵鐘が檀信徒より寄進され、その美事な音色は、神舞の峯にこだまし、人々に安らぎと祖先崇拝の念をいだかせておりましたが、不幸にして昭和十九年戦火いよいよ高まる中で、大梵鐘は供出される運命に遭遇いたしました。
 大梵鐘の供出後、宮田町の岩見蘭始氏の特志によりコンクリート製の梵鐘がさげられ今日にいたりました。
 このたび狩野惠雄、狩野源四郎両氏の発起に基づく、荒牧政雄氏をはじめとする檀信徒一同の寄進により 昭和五十年六月、端妙な大梵鐘の錘上げとなったのであります。十五世住職誌」

 ※コンクリート梵鐘:別記参照→「法蓮寺にて(宮若市沼口)」。

 上記に「神舞の峯」とあるが、西山(鮎坂山)の北東の山裾、細川の谷川に沿って開けた谷あいに広がる当地から見上げる山容を神舞の峯と称したのではないかと思う。
 今も細川の上流を神舞峡といい、神仏が舞い下りたと思われるような美しい馬口の滝もある(次回掲載)。

 (8) なお、円通院駐車場の先に鎮座する「三柱大神」については別記する。※別記→「三柱大神(宮若市山口 畑)」。

 (9)「円通院」(宮若市山口3809)への道順

 ・県道92号(宗像笹栗線)沿いの筑前畑バス停前の「山神橋」を渡る。
  (※なお、県道脇<山口川右岸>に空地<旧道跡か>が3か所ほどあり大型車の駐車も可能)
 →畑集落内の里道(2車線舗装道路)を150mほど上ると「第二山神橋」がある。

畑庚申塔「第二山神橋」の左手前(庚申塔あり)に「円通院→」の表示板がある(※画像5)。

 また、同右手前(橋際)に「円通院参道」の石碑があり、ここが「円通院参道口」となる。
 ここを右折し、舗装された細い参道を150mほど上る。

 谷あいに入って、すぐ右側にある円通院入口の坂を上ると山門下の駐車場がある(小型車駐車可)。

 ※別途・前回の「千代松と母お弁の墓」からは、その左の旧道・農道(舗装坂道)を上ると、上記「円通院参道口」の20m手前(小橋あり)に出る。
 ※筑前畑バス停(山神橋)から、若しくは「千代松・お弁墓」から「円通院」までともに徒歩5〜10分。

※つづく→「神舞峡 馬口の滝に行く(宮若市山口)」。

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