山口八幡宮(2) 宗像神社末社・山口御口代神社等(宮若市山口)山口八幡宮(4) 「敵國降伏」の扁額(宮若市山口)

2016年01月24日

山口八幡宮(3)「由緒」など(宮若市山口)

 前回「山口八幡宮(2) 宗像神社末社・山口御口代神社等(宮若市山口)」からつづく。

 前回「山口八幡宮」(宮若市山口1580)の由緒に「詳細なることは…筑前國續風土記拾遺附録に見えたり」とあると書いたが、「拾遺」のどこに書いてあるのかが分からず、今回は下記「附録」の記事により付記する。
 因みに筑前國續風土記附録は、江戸中期の天明4年(1784)藩命により編纂され、寛政10年(1798)頃に完成した当時の一級史料である。

 「山口村若八幡宮 神殿三間・社拝殿二間半・祭禮九月十九日・石鳥居有・奉祀小方左仲 産神也。祭る所の神三坐、應神天皇・神功皇后・武内大臣也。鎮座の年歴詳ならす。境内に地蔵堂あり。」

 (1)「神殿三間・社拝殿二間半」〜山口八幡宮の神殿・社拝殿は、近年、改修・再建されているが、その規模は往時とさほど変わっていないと思う。

1神楽殿額 なお、現在、拝殿の外(右)側に、旧「神楽殿」(墨書)の額(※画像)が掲げてあるが、附録に「神楽殿」の記載はなく、もともと拝殿が神楽殿を兼ねていたのか、別棟の神楽殿があったのか確認していないが、いずれにしろ当社は、境内で神楽が行えるほどの格式を持った神社であったことが伺える。

 由緒には「湯立神楽」の記事があり、その創始年代にずれがあるが、(永3年(1706)頃(社頭案内板)、又は、元文4年(1739)頃(神社誌)に、33人の宮座祭にて神幸、湯立神楽等が行われたとある(※下記)。

 (2)「祭禮九月十九日」〜江戸時代、旧暦9月19日に行われていた祭禮は、戦前は新暦10月17日、現在は10月7日に行われている「例祭」か。

 なお、福岡懸神社誌に「年中數度の祭事あり」とあり、社頭の案内板(山口八幡宮奉賛会)によると、現在行われている祭事(祭礼)は「1月元旦祭、2月11日紀元祭、4月上旬春祭、7月上旬夏祭、7月31日大祓式、10月7日例祭、11月15日七五三祭、11月23日新穀感謝祭、12月31日大祓式、12月31日除夜祭」とある。

 (3)「石鳥居有」〜この鳥居は「正徳二年」(1712)建立の「八幡宮」の神名額(額束)を持つ鳥居だと思われる。

 由緒に「昔より若八幡宮と申けるを正徳二年(1712)…鳥井神名額に八幡宮と記したるに付其後村人は八幡宮と申し奉る(神社誌)」とあり、この鳥居の神名額(額束)に「八幡宮」の社名が刻まれていたので、以後「(山口)八幡宮」と呼ばれるようになったと云われている。

 しかるに、正徳二年(1712)より後の寛政10年(1798)頃発刊の上記「附録」には、(山口村)「若八幡宮」と記載してあるので、「(山口)八幡宮」の呼称に統一されたのは、これより後の幕末か明治の頃かもしれない。
 (※参照→「山口八幡宮(1) 正徳二年の旧鳥居 (宮若市山口)」)。

 (4)「奉祀小方左仲」〜代々小方氏が宮司を務めてきたようで、由緒や社務所(宮司宅)前の石碑にも小方氏の名が書き留められている。

 福岡懸神社誌の由緒から宮司小方氏の名前を拾うと次のようである。
・「延喜二年(902)九月九日始めて小方隼人と云える者、皇后の行幸の例に任せ八幡宮を建立す。今の宮所是なり」。

・「元文四己未年(1739)九月九日神殿造営の棟札あり、時の神主小方頼母正藤原光範代なり。其の頃より神幸湯立神樂等ありて三十三人の宮座祭あり。今日迄例祭日に執行す。三座共に本膳一式の神饌を供する例なり。」。

 ただし、社頭案内板には、
・「宝永三年丙戊年(西暦一七〇六年)四月二十八日神殿造営の棟札あり。時の神主小方左右ヱ門藤原光次代なり。その頃より、神幸、湯立神楽等ありて三十三人の宮座祭あり。今日迄、例祭日に執行す。三座共に本膳一式の神饌を供する例なり。」
 とあり、なぜか神社誌とは、棟札の年号日付と神主の名が違っており、したって神幸湯立神楽等の宮座祭の始まりの年代についてもずれがある。

・「昔より若八幡宮と申けるを正徳二年(1712)大宮司小方左右ヱ門藤原光次の代、鳥井神名額に八幡宮と記したるに付其後村人は八幡宮と申し奉る」。
 なお、今も宮司は小方氏で、社務所は社殿の右側の鳥居(明治23年建立)の下方、里公民館前の坂の上(脇参道)にある。

 (5)「産神也」〜若八幡宮(山口八幡宮)は、鞍手郡山口村の項にあり、山口村=現「宮若市山口」全体(全地区)の産神(産土神)ということである。

 山口村について「古へハ下山口村といふ。此村及び沼口・竹原・宮永・小伏・乙丸此六村を山口郷といふ。」と説明している。
 つまり、若八幡宮(山口八幡宮)は、山口郷六か村(山口・沼口・竹原・宮永・小伏・乙丸村)のなかの「山口村の産神」である。

 山口村は、現・宮若市山口のことで広範囲にわたり「里、柿木田、大谷、畑、桐ノ木、萩原、三軒屋、浅ヶ谷、猫塚、野中、原の前、岡田、片山、小原など」の字(集落)がある。

 そもそも山口の地名の由来は、西山(鮎坂山)の山口(麓)に当たるからと思っていたが、改めて地図を見直すと、西側の西山〜見坂峠の尾根筋は古賀市、福津市との境界線で、また、山口川の北側にある磯辺山の山稜が宗像市との境界線になっているので、これらの境界山稜全体の山口(麓)という意味だったのかもしれない。

 また旧「山口郷」は、この旧山口村を含む旧鞍手郡(現宮若市)の西側一帯をいい、現宗像市の南に位置し、戦国時代までは宗像氏(宗像大宮司)が領有し「奥宗像郡」とも云われていたようである。

 神社誌は「當村を山口郷又は奥宗像とも申し奥宗像郷の産神にして大社なり武運の神として御神徳顕著なり」と、また、社頭案内板は「当村を山口郷又は奥宗像とも申し奥宗像郷の産神にして大社なり。幸福厄除の神として御神徳顕著なり。」と記している。
 山口八幡宮は、前回記したようにかつて宗像神社の境外末社であり、現宗像大社に境内末社「山口若宮神社」として祭神あり。

 (6)「祭る所の神三坐、應神天皇・神功皇后・武内大臣也」〜祭神の三坐(應神天皇・神功皇后・武内大臣)については、当社が「昔神功皇后異國退治の時此村を幸行ましましける折柄此處にて休ませ給ひ、夫より見坂越に赴き給ひ、遙に海原をながめさせ給ふ」(神社誌)との伝承(社説)により建立されたことによる。

 由緒的には、主神は武神たる神功皇后で、神功皇后の従臣竹内大臣(武内宿禰)を相神とした方が分かりやすいが、八幡宮では八幡神である應神天皇を主神とする。
 應神天皇は、このときは未だ神功皇后の胎内にいたので、その應神天皇を当社の主神とすることで(山口)「若宮」「若宮神社」「若八幡宮」等の社名で呼ばれ、後に現「山口八幡宮」になった。

 なお、神功皇后の夫「仲哀天皇」が祭神されていないのは、仲哀天皇が当地には来ていないからだ。
 仲哀天皇は、鞍手町古門の皇后崎(「神崎八幡宮」鎮座)までは神功皇后に同行していたかもしれないが、そこから、遠賀川を上って来た船団を連れて引き返し、海路で集合地香椎湊(香椎宮)に向かった、と考えている。
 (※なお、私の神功皇后伝承歩きや、ほかの祭神名等は別記予定)。

 (7)「鎮座の年歴詳ならす」〜各神社の鎮座年歴を不詳と記するのは崇敬上、常識的なことだが、当社の場合、上記したように真偽はともかく「延喜二年(902)九月九日始めて小方隼人と云える者、皇后の行幸の例に任せ八幡宮を建立す。今の宮所是なり」との由緒を伝えている。

 (8)「境内に地蔵堂あり」〜神仏習合により八幡信仰と地蔵菩薩信仰が結びつき、八幡神の本地を八幡大菩薩とし、僧形八幡神像が生まれたりもしているので、当社の境内に地蔵堂があってもおかしくはないが、地蔵堂は現存しない。
 社殿の右後方に社祠・堂宇跡地と思われる場所はあるが定かではなく、多分、明治維新の神仏分離令・廃仏毀釈等により廃堂廃棄されたのではないかと思う。先に記した「鞍手郡西山新四国八十八個所第64番札所(宮若市山口)」内に本尊が移されたのであれば幸いだが確認できない。
 返す返すも近代化の名目のもとに日本古来の伝統的信仰形態を徹底的に破壊した明治維新政府の政策は、徳川潰しとはいえ取り返しのつかない暴挙だったと思う。

※つづく→「山口八幡宮(4) 敵國降伏の扁額(宮若市山口)」。

keitokuchin at 16:37│Comments(0)TrackBack(0)

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