清水耕蔵 絵本館・ゑほんの藏(宗像市山田)雲乘寺(宗像市朝町)

2017年03月20日

朝町八幡宮(宗像市朝町)

 ※前回「木香薔薇(宗像市朝町)」からつづく。

 「野坂神社(6)〜境内神社(宗像市野坂)」に、宗像市野坂地区に隣接する朝町地区に八幡宮(八幡神社)が二社(朝町と昼掛)あると書いたが、このうち朝町昼掛鎮座の「昼掛八幡宮」については前述したので、今回は朝町中村鎮座の「朝町八幡宮」について書き留めておく。

 (1) 朝町八幡宮の社名・鎮座地

 ・朝町八幡宮鎮座地:福岡県宗像市朝町2373。

1朝町八幡宮遠景 ・社名呼称: 朝町八幡宮(八幡神社)・中村八幡宮・本村八幡宮・村社八幡宮

 ※本来は、単に朝町に鎮座する「八幡宮」、戦後は「八幡神社」というだろうが、一般的には朝町の地名を冠して「朝町八幡宮(朝町八幡神社)」と言われている。


 ただ、当地の旧地名は、宗像郡朝町村大字中村(又は本村)→宗像郡南郷村大字朝町字中村だったので、当時は「中村八幡宮」又は「本村八幡宮」とも呼ばれ、また、明治5年(1872)11月3日の(朝町)村社被定以後は「村社八幡宮」とも呼ばれた。
 これらの呼称は現存しているが、本稿では「朝町八幡宮」と記す。

2村社八幡宮碑 ※上記「村社八幡宮」に係わる「村社八幡宮碑」(昭和11年10月建立)が、里道沿い石段上の「八幡宮本鳥居」の手前(左側)に現存している。(※画像)
 多分この碑を観てだろうと思うが、当社名を「村社八幡宮」と掲載しているmapがあるが、違和感はある。


 ※なお、昭和19年(1944)1月当時の氏子は「朝町區百二十四戸、境内坪数七百五十三坪」(福岡縣神社誌)。

 (2) 朝町大明神(宗像社末社)

 ・朝町大明神:宗像七十五末社(百八社)の一

6-1竹重宮鳥居  ※筑前國續風土記拾遺に「(朝町村八幡宮)…宗像社年中行事記に朝町大明神あり。此社をいふにや」とある。

 つまり、朝町八幡宮は、宗像社(宗像神社・現宗像大社)末社…宗像七十五末社(百八社)の一「朝町大明神」である。


 ※「(宗像)郡内総鎮守の宗像神社の氏子で、天保14年の略御祓御初穂神納帳(宗像家文書)では、御札61体を受けて初穂料を納めている。」(角川日本地名大辞典)
 ※なお、朝町八幡宮前方を流れる朝町川を(川岸に沿って)下れば、釣川岸の宗像大社辺津宮に到る。

 (3) 朝町八幡宮の祭神

 ・祭神:品陀和気命(ホンダワケノミコト)=応神天皇

 ※筑前國續風土記附録・同拾遺には「産神なり。祭る所應神天皇、神功皇后、武内大臣なり。」とあるが、福岡懸神社誌(昭和19年)には「祭神 仲哀天皇、譽田天皇、神功皇后」とあり、恐らく明治以降、武内大臣が消え仲哀天皇が現れ、主神が應神天皇(=譽田天皇)から仲哀天皇に入れ替わったのではないかとも思えるが、現在は品陀和気命(=譽田天皇=応神(應神)天皇=八幡大神)である。

 (4) 竹重神社合社・祭神合祀

4-1八幡宮竹重宮合社記念碑 ・昭和26年(1951)4月、朝町八幡宮に「竹重宮」合社、同神殿に竹重宮の祭神「住吉三神」が合祀された。
 ※「八幡宮・竹重宮合社記念碑」(昭和26年4月建立)が、境内入口の里道沿い石段上の八幡宮本鳥居の手前(右側)に現存している。(※画像)

 ※竹重宮旧跡の場所地を知らないが、古社のようで同地に古代遺跡が埋もれている可能性がある。


4-2竹重宮鳥居 ※「竹重宮」の銘があり、旧竹重宮から当社に移動したものと確認できるものは下記である。

  竹重宮の額束がある石鳥居」1基
 〜「皇太子殿下御降誕記念 昭和九年一月 再建産子中 石工石田百次郎」…(※画像/外参道二の鳥居)


4-3竹重宮寄付碑 ◆竹重宮本殿新築寄附連名碑」(建立日失念)…上記,硫(※画像/里道沿い)

 「竹重宮石灯篭」3基
 〜「寶暦二壬申年九月吉祥日」(1752)…(※画像/里道沿い石段上)…なお、境内にある破損石灯篭残骸も同宮ものか。
 ぁ崔歃典椰棲曄1枚…拝殿正面の鴨居に掲額(神殿前)
 

4-4石灯篭。手水八 ※史料「竹重宮 イノウエ 神殿方五尺・拝殿方二間・祭禮九月十九日・石鳥居一基・奉祀中津内膳 タケシゲ拾四戸の産神なり。祭る所住吉三神也。」(筑前國續風土記附録)
 「竹重(タケシゲ)ノ社 竹重と云所に在。此所の産神也。住吉三神を祭る。祭日九月十九日東郷村の中村氏奉祀す。」(同拾遺)

 ※資料「規模表記のある拝殿・地理全誌の規模 横二間入三間…朝町八幡宮に合祀」(江戸末期から近代にかけての神社拝殿の変化に関する研究 園田將人)
 ※旧竹重神社の鎮座地に「朝倉橘広庭宮」があったという説もある(下記(9)-)。

 (5) 朝町八幡宮の外参道

1外参道・老人の家・畑 ・県道401号線寄りの農地のなかに広い駐車場あり、その先の農道(前回記した「田畑の間の里道」)を横切ると外参道(約50m)がある。
 ・外参道口の右側には、農道に面して平屋建ての「老人憩いの家(朝町公民館)」があり、その後ろは一段高く、農地がある。


 ・同左側には、段差(三段)のある横長の広い農地(田畑)があり、また、外参道内には高樹木はなく、県道401号線のこちら側からの見通しはよい(外参道及び境内の本鳥居や社叢等も望める)。

5-5幟立石2 ・外参道内には、石鳥居2基など次の石造物が並んでいる。
 古い幟立石1基、八幡宮の石柱神門一対(※一の神門)、八幡宮の石鳥居(※一の鳥居)、古い幟立石1基(※画像)や、二の神門、上記旧竹重宮から移し再建した石鳥居(※上記二の鳥居)、竹重宮本殿新築寄附連名碑(※上記)、華表建築寄附連名碑(境内前の里道沿い)などがある。…これらのうち八幡宮のものか旧竹重宮のもの分からないものがある。


1神門、一・二鳥居 ※一の神門:「右三つ巴(神紋) 奉獻 御昇格記念 昭和十一年九月 正五位勲六等 農學士 井上陽之助」…(※画像/外参道口)

 〜昭和11年(1936)10月10日付け「神饌幣帛料供進指定」が決まったことを記念して事前に建立したものか。


 ※一の鳥居(※画像):「八幡宮」の額束、「奉獻 御即位禮記念 維持大正四年十一月」…大正4年(1915)11月10日京都御所紫宸殿で、大正天皇の即位の礼が行われたことを記念して建立されたものか。
※二の神門:「祭政一致 維神大義」

 (6) 朝町八幡宮の境内と本殿

6-2里道石垣 ・外参道と境内に入る石段(切石10段)の間に里道があり、里道に沿って(約30m)野面積みの石垣(上部コンクリ塀)がある。

・境内は、大きなケヤキを主体とした木々が形作る杜のなかにあり、入口石段を上ったところに内参道があり、この部分の段が前壇部である。

6-9境内前段 ・ここには、村社八幡宮碑(上記)、八幡宮竹重宮合社記念碑(上記)、手水石鉢1基(上記画像)、石灯篭5基(上記旧竹重宮から移設分含む)、※本鳥居1基、※幟立石2基、破損石灯篭残骸、井戸跡(?)等がある。
 右方にある空き地は、戦前に社務所が建っていた場所か。


6-3本鳥居 ※本鳥居:「八幡宮」の額束、「…産子中 寶暦八戌寅歳三月吉日」(1758)
…額束の左上部が欠け、文字上を苔(カビ)が覆って読みにくいが、間違いなく「八幡宮」である。
 この「本鳥居」が、筑前國續風土記附録記載の「石鳥居一基」である。


 ※幟立石(※画像):「奉献 明治四十五年壬子一月吉祥日 石田太郎」 
 〜なお、明治45年(1912)は、7月30日まで、同日が大正元年7月30日となる。

 (7) 朝町八幡宮の境内と本殿

7-4拝殿 ・内参道奥の石段(切石5段)を上ったところ(上壇部、切石石垣上に寄附者名入り玉垣、石造狛犬一対あり)に小丘陵の森を背にして八幡宮本殿(拝殿、渡殿、神殿/木造瓦葺)が建っている。





7-2狛犬 ※史料「八幡宮 ナカムラ 神殿方七尺・拝殿二間三間・祭禮九月十九日・石鳥居一基・奉祀中津内膳」(筑前國續風土記附録)。

 上記のうちの奉祀については、同拾遺には「奉祀ハ王丸村の中津氏なり」とある。



 …上記旧竹重宮と八幡宮の祭禮日と奉祀者は同じで、この周辺地区の神社は「王丸八幡宮」(宗像市王丸)との係わりが深かったと思われる。

 ※資料「規模表記のある拝殿…地理全誌の規模 横二間入三間、現拝殿の寸法(横9751×入5913)、建設年代 明治28年(1896) 」(江戸末期から近代にかけての神社拝殿の変化に関する研究 園田將人)

7-5神輿 ・拝殿(木造瓦葺)の入口戸は鎖・南京錠で施錠されており、中に入ることができないが、僅か10cmほど空いた隙間から中を覗いた。

 ・八幡宮と竹重宮の両神額、ほかに「絵馬」が多数掲げられていたがその枚数計や各画題等については分からない。
 ・床に古い神輿が置いてあるのも見えた。(※画像)


 (8) 境内遷宮社・朝町天満宮

 ・境内左側の別区に朝町「天満宮」が鎮座している。(※画像)

朝町7-1天満宮 ・その入口に一部風化の幟立石1対(奉寄進、下組中、?年六月建之)あり。
 石垣(ブロック積3段)・寄付者刻玉垣、切石石段(5段)上る。
 幟立石、天満宮石鳥居1基(文政二年八月竣立、昭和拾壱年拾月合社再建)あり。
 その奥に丘陵斜面を背にして前面に石垣・寄付者刻玉垣、石段(9段)あり。
 その上に立派な石祠がある。


 ・同上附録に「〇天満宮テンジンヤマ」の記載があり、この天満宮を昭和11年10月に天神山(未調)から朝町八幡宮境内に遷し再建したものか。福岡縣神社誌(昭和19年)には八幡宮に境内社の記載なし。

 (9) 朝町の地名(想像)

  朝と昼と
 ・まず朝町の「朝」から思い浮かんだのは「朝陽(朝日)」だった。
朝町八幡宮がある朝町中村集落は、南北に走る低丘陵(朝町中村古墳群あり:弥生〜古墳時代)の東下にあり、集落の南外れにある朝町八幡宮は、この低丘陵を背にしてほぼ北西方向を向いて鎮座している。季節にもよるが午前の陽当たりはよいが、午後訪れるといつも丘陵の蔭になって暗い感じがする。朝町の地名はこのことから付いた地名なのだろうか。
 ・なお、朝町八幡宮は、朝町中村古墳群の被葬者を祀るために建てられた神社であった可能性も考えられる。

 ・ところで、前述した「昼掛八幡宮(※朝町八幡宮の分霊社)」(宗像市朝町312)は、当地とは別の谷あいにある丘陵上に西向きに鎮座しており、逆に午後の陽当たりがよい。昼掛は、かつての旧朝町村の枝郷だが、朝・昼など地名のcontrastが面白い。


  朝町川の浅瀬
 ・次に、朝町の「朝」は、「浅瀬」を意味するものかと考えてみた。
 朝町川の名は、朝町内の棚原池に源を発し朝町内を貫流していることから付いた名称だと思う。この川は、東郷で釣川に合流し大河となって宗像大社の横を流れ江口から玄界灘に流出するが、上流の朝町地区では、まだ浅瀬であった、そんなことを考えてみたのである。

9参道逆 ・朝町八幡宮の外参道の先は、現在その途中を県道が横切ってはいるが、朝町川岸まで直線で伸びている。
 このことは、朝町八幡宮と朝町川が深く係わっていることを表しているのではなかろうか。
 つまり、朝町八幡宮の神は、釣川を遡り朝町川の浅瀬から当地に上陸し鎮座した。

 その意味では宗像神との係わりを考えられるが、その神を八幡神、神功皇后として祀ったのであれば、竹重宮の神は、八幡神、神功皇后と深く係わる海神・住吉三神であり、同様のことが考えられる。
 なお、隣接地の野坂(野坂村)の産神・野坂神社の祭神が一宮=住吉三神、二宮=八幡神なので、何らかの係わりがあるのか気になるところではある。

  朝は朝廷
 ・次の考えは、朝町の「朝」は、「朝廷」を意味するもの。

 ・先に掲載した「野坂神社(2)〜野坂もやい隊・野坂三千石(宗像市野坂)」の(4)太鞁田の古代田舞のなかに「野坂の開墾と集落が形成されたのは、記録上では平安期(和妙抄「乃佐加」)と言われるが、それ以前に遡ることができる。野坂の「太鞁田」に伝わる古代舞や「館原」とういう地名、隣接地「朝町」の地名(官ヶ作の小字もある)などから、野坂地域に遠の朝廷(とおのみやこ)があったと考えている人もいる。(参照:筑紫は宗像 邪馬台国は下関)」と記した。

 ※同資料には「朝倉橘広庭宮は朝町の竹重神社」ともある。
 これは、朝町の「朝」は、朝廷の存在を示し、旧竹重神社の鎮座地に「朝倉橘広庭宮」があったということか。旧竹重神社の鎮座地を確認していないが、少なくとも朝倉市の朝倉橘広庭宮跡に比定されている地域での発掘調査で未だにその遺跡が発見されていないので、一考に値する。当地には朝町竹重遺跡なる古代遺跡もある。
 (※別記参照→「御陵山(斉明天皇御殯葬地)と木の丸殿(1)」)

 ※七世紀新羅に進攻された百済救援のために白村江に向かった朝廷軍の集結地としては朝倉よりは宗像の方が相応しかったようにも思える。当朝町、野坂などの地区には山あいに広がる肥沃な地があり、ともに釣川につながる河川があり船を出すのにも相応しく、当地区に遠の朝廷があったとの想定は一考に値する。

  山の道
 ・「高天原は野坂で、倭王=野坂王 か。また、朝町の「朝」 の字は朝廷を表す。常世の思金神は常世村と称した名残の者で、天石屋は名残にあった。筑紫日向は牟田尻の小字「日南」(ひなた)。牟田尻の小字「桜京」 は木花之佐久夜比売で、笠紗の御前。
9-2福岡国際カントリ棚原池 かれここに、天の日子番の邇邇芸の命、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、稜威の道別き道別きて、天の浮橋に、浮きじまり、そりたたして、竺紫日向の高千穂の霊じふる峰に天降りましき。稜威(いつ)の道…伊都国。
 天の八重多那雲〜朝町「福岡国際カントリークラブむなかたゴルフ場」にある棚原池
→原始古代の宗像市には「海の道」だけでなく「山の道」もあった。万葉集3155悪木山 宮若市上有木の靡山(296.9m)」(参照:宗像市 丹後 日南 常世) という説もある。

 ※朝町、野坂などは、もとは鞍手郡に属していたので、靡山を霊山として崇めた新羅系物部氏・鞍手の物部王国と係わる。
 六ヶ嶽(鞍手町)に降臨した宗像三女神が宗像(百済系か)に進出したという伝承があり、原始古代の宗像に「山の道」もあったという考えは納得できる。
 朝町、野坂にも三女神(須佐男命の姫)を頂く鞍手の物部氏(須佐男命、饒速日命)が、三女神を頂き宗像に入った「山の道」の一つがあったと考えればよいのか。
 この場合の朝町の朝廷とは、物部王国なのか倭国(九州王朝)なのか、まとめきっていない。
 (※別記参照→「小原「伊久志神社」にて (宮若市山口」)

 (9) 釣鐘(梵鐘)の行方

 ・明治維新まで朝町八幡宮に釣鐘(梵鐘)があった。

 ※史料「(八幡宮)社内に古き釣鐘あり。賢保三年三月吉日大工坂田左馬と彫れり。いかなる人の寄附なるにや。(賢ハ誤れり。建保なり。建保ハ順徳帝の御宇なり。)」(附録)
 「古鐘一口あり。元禄の比當處の延壽浦といふ所の圃中より堀出せり。銘に建保三年乙亥三月五日大工坂田家守と記せり。其餘文字あれとも摩滅して詳ならず。建保ハ順徳院の年号、三年より文政四年まで六百七年になれり。」(拾遺)
 ※梵鐘が掘り出されたという延壽浦の圃中は、延壽寺の近くにあったのか。なぜ圃中に埋まっていたのか、その場所を特定し発掘調査ができれば何らかの痕跡が出る可能性もあるのだろうが。

10建保梵鐘 ※現在、東禅寺(宮若市湯川)に現存している「梵鐘」(県重文、高さ約1m・口径約60cm)が、明治期に朝町八幡宮から移されたものだと言われており、戦時中の金属類回収令を免れて保存されたことは幸いというべきか。(※画像)
 ※建保3年(1215)は、鎌倉時代の源実朝将軍、北条義時執権の頃で、同年銘の梵鐘は、福岡県では3番目に古いものだという。

 また、大工坂田家守は小倉の鋳物師であったと確認されているが、同氏が手がけた梵鐘はほかには残っていないという。
  (※別記参照→「東禅寺の梵鐘(宮若市湯原)」)。

 ※つづく→「雲乘寺(宗像市朝町)」。

keitokuchin at 23:59│Comments(0)TrackBack(0)

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