東禅寺の梵鐘(宮若市湯原)東禅寺の山門(旧名島城裏門)ほか (宮若市湯原)

2017年04月15日

東禅寺の所在地・由緒記板(宮若市湯原)

 前回「東禅寺の梵鐘(宮若市湯原)」からつづく。

 1. 東禅寺の所在地

1東禅寺前景 福岡県宮若市湯原62
 黄龍山東禅寺 (曹洞宗)
 (旧:鞍手郡若宮町湯原字谷・鞍手郡湯原村谷) 
 湯原山(標高384.2m)の北北西に伸びる一山陵の山麓(標高71.1m)。
 脇田温泉郷の北東約2km。この辺りは東禅谷と通称される。


 県道21号福岡直方線の「総合運動公園入口交差点」(🚥あり)を南東方向(※西鞍の丘運動公園とは反対方向)に曲がり、犬鳴川を渡り突当りのT字路(市道)を左折、右前方に見える集落の丘の上にある(この間、約700m)。
 車の場合、市道の集落入口を右折(=市道が左カーブする地点をほぼ直進する狭い旧道)、さらに直ぐ右折して上った所に駐車場がある。

 2. 「黄龍山東禅寺」由緒記板

2東禅寺由緒記 ・参道(石段下の左側)に東禅寺の由緒記板が建っているが、かなりの文字が消えているので、あまり読めない。かろうじて読めた部分を次に転記するが、はっきり言って内容はよくは分からない。
 ※(注) …は消えていたりして読めない、[ ]内は消えているが推測で記入してみたもの。


「[黄]龍山 東禅寺(曹洞宗) [創建]は永正二年……………、[桂]芳和尚が堂宇建立……とひきつき、天文十二年[(一五四三)十二月]十五日に完成しました。……世に堂宇も荒れはて、湯[原]……志は黒丸城主安永但馬……天正五年[(一五七七)]六……戦死者の菩提を[弔]いま[した。そ]の後、五十年ほどし……地蔵山の城主(前の…前…)………時に…元………(…七)四月…八日のこと…。[主]要文化財 本尊釈迦如来座像 梵鐘(県重要文化財) 芭蕉句碑 大般若経六百[巻] 山門(名島城[裏]手門) 若宮町… 若宮町文化財…」。

 甚だ不明個所の多いこの由緒記を見ながら、以下あくまでも小生が推測した由緒記を書きとめておく。ただし、訪問時にご住職に会ってなく、また宮若市教委等にも行っておらず、一切の確認を行っていないので、間違い個所があるかもしれない。

  創建年は永正二年か

 ・創建年は、永正二年(1505)
 筑前國續風土記附録に「開基の年歴詳ならす」と記されているが、当寺には開基(創建)の年歴を永正2年とする史料があるのだと思う。

 ・同拾遺には「天文十二年十二月十五日桂芳と云僧開基す」とあるが、上記の由緒板は、「桂芳和尚が東禅寺を引き継ぎ、天文12年(1543)に堂宇を建立した」と書いているように思える。ということは、創建当初の東禅寺は、或は「庵」だったのかもしれない。

 創建年とされる永正2年(1505)は、天文12年(1543)より38年前のことなので、或は、上記にその創建僧名が記されていたのかもしれない。
 いずれにしろ東禅寺の創建は、室町時代(1388〜1573)の後期=戦国時代のことだと分かる。

 しかるに、その後に「世に堂宇も荒れはて」の文があり、多分、桂芳和尚の没後、荒れ寺となっていたのであれば、後継者がいなかったのか。

  再興(黒丸城主安永但馬?)

 ・天正五年(1577)前後の文字の消えている部分の記述が分からないので、(これはあくまで小生の推測になってしまうが)、東禅寺のある若宮庄湯原村の有志らが相はかり、荒れ果ててしまっていた東禅寺の再興を黒丸城主(宗像氏の城代)安永但馬(安永越中か)に依頼し再興が叶い、同年、当寺で戦乱での戦死者の菩提供養を行ったということなのだろうか。
 ただし、天正5年(1577)に戦死者の供養を行ったのであれば、いつの戦いの戦死者なのだろうか。
 なお、黒丸城址は、宮若市黒丸の北斗宮の裏山にあり、こがむね城ともいう。

 ・当寺の鞍手郡若宮庄の状況は、天文11年(1542)4月、大友氏の鞍手侵入により、宗像氏の若宮庄の諸城(上記の黒丸城、及び湯原の地蔵山城含む)は尽く落城したらしく、この後、若宮庄は、大友氏の支配となったのか。
 元亀元年(1570)正月、宗像氏貞は、豊後大友氏の将戸次鑑連(後の立花道雪=立花氏)と和合し、盟友の河津掃部助隆家(西郷衆頭領)を暗殺しその領地だった西郷庄を立花氏に譲渡し、立花氏が領有していた若宮郷を返してもらい、西郷衆を強制的に若宮庄内の各地に移住させた。
 この時に、宗像氏の端城・宮永城(宮若市宮永)、及び周辺の諸城も宗像氏に復帰したのか。
 その後、暫く両氏の間は安穏だったが、天正9年(1581) 11月、突如若宮庄の旧西郷衆が蜂起し、若宮庄を通過していた立花勢を襲撃した。この戦い(小金原の戦い)に若宮庄の諸城も巻き込まれた。結果、旧西郷衆は全滅、宗像・立花勢双方に多くの戦死者が出た。

 ・「その後、五十年ほどし……地蔵山の城主…云々」については、もし天正5年(1577)から50年後だったら、寛永4年(1627)となり、既に当地は筑前黒田氏の時代となっているので、ここに何が書いてあったのか、まったく見当がつかない。
 いつか機会があったら、いろいろお話しを聞いてみたいとは思うが、今回は探究しない。

 ※史料
 ・「東禪寺 (湯原村) 洞家 佛堂三間四間 黄龍山と號す。宗像郡大穂宗生寺に属せり。開基の年歴詳ならす。寺内に秋葉社・釋迦堂-喜樂庵といふあり」(筑前國續風土記附録)
 ・「東禅寺 本村(湯原村)谷に在。黄龍山と号す。禅宗洞家宗像郡大穂宗生寺に属す。天文十二年十二月十五日桂芳と云僧開基す」(筑前國續風土記拾遺)

 ※つづく→「東禅寺の山門(旧名島城裏門)ほか (宮若市湯原)」。

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