日吉神社(旧吉川総鎮守) 宮若市下日吉神社古宮・須賀神社・釘神社 (宮若市下)

2017年04月25日

日吉神社の由緒記 (宮若市下)

 前回「日吉神社(旧吉川総鎮守) 宮若市下」からつづく。

 「日吉神社(山王宮)由緒板

1日吉社由緒板 前回、「(4)祭神」の項に記した「日吉神社(山王宮)由緒板」のなかにある「社説に述ぶる所次の如し」については次回掲載するとしていたので、今回、以下に記す。

 なお、文中の(※注)は、小生が付けたもので、その部分の付記を下欄に記す。


 「人皇第六十代、村上天皇の天暦三年(949)四月、滋賀県大津市坂本の日吉大社の分霊を勧請し奉る社なり(※注1)

 神霊は、日吉大社より御輿で浪速津(大阪)から船で宗像勝浦―笠松(比恵谷)―福丸坂本(本社鎮座地の名)を経て小伏(比恵崎)に鎮座さる。日吉はヒエとも読み、この神霊が通過した縁ある地名が今日まで残れり(※注2)

 当時の御神幸は乙野草場の大行事神社なり(※注3)

 その後およそ400年を経て、正平二十三年(1368)下村の地に宮所を移し、文明9年(1477)太宰少貮政尚の命に依り惣政所藤右京進安秀修復を行ふ。
 50年を経て、大内義興の下知にて守護杉豊後守平興長奉行となり、願主として大村日向守重継・同苗又四郎興景が新に再建し奉る。

 天正十三年(1585)に至りては、氏子内湯原村草場の城主松井越後守秀郷拝殿を建立し、同年願主秋月種長神殿の造営をなせり(※注4)
 下りて寛永十一年(1634)長崎某願主となり神殿の修復をなす。

 此地に鎮座ありて凡そ300年を経る寛文十一年(1671)神霊を当地東山の地に移し、前鎮座地を古宮と称す(※注5)
 国主より郡司を派遣し社地の検分を行はしめ造営料として銀子10枚の寄進あり。他の入財は産子中より寄進し大宮柱を建て奉祠す。
 元禄二年(1689)拝殿再建願主産子中なり。

1日吉社高宮 さらに文化三年(1806)に到り社殿の造営が行はれ、国主の命に依り郡奉行永田清十郎造営奉行として指揮し、山口觸16ヶ村の外、植木、龍徳等の觸中より造営料の寄進あり、現今の神殿は此時の建築なり
 文化十二年(1815)三月大風により幣殿破損せるを再建す、願主湯原村安永安治なり。
 同十四年(1817)拝殿の再建あり願主氏子中なり。

 当神社の由緒の詳細は貝原好古の縁起書、及び竹田定直の山王古實に明らかなり。また筑前国続風土記(※注6)・太宰管内志等に登載せる處にして、国主黒田家の崇敬殊の外篤く、光之・綱政・斉清三代の当社参詣あり(※注7)。故あって当社の家紋は黒田家同様の藤巴なり。
 尚、当社は吉川郷の惣社のみならず、分神霊を奉祠せる社郡内に数社あり(※注8)

 鎮座より一千年有余の悠久の時を刻む間、社の盛衰はありたれとも、主祭神大国主命の神明の威徳は不変にして、医の道を起し万病退除の神にして人民はいふに及ばす六書にいたるまで悪病災難のがれるべし、また子孫の繁栄を願はばなこの神に祈るべし、子孫綿々と長く栄えなん、この御神威誠に顕著なり。日吉神社氏子総代会」。

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 [付記(注)]
 ※上記の(注1〜8)部分の記事に関して、付記しておく。

 (※注1)「第六十代村上天皇」とあるのは、「第六十二代村上天皇」の間違いである。なお、神社誌は「人皇第六十二代村上天皇の天暦三年四月、滋賀縣滋賀郡坂本村の官幣大社日吉神社(近江國日枝坂本大宮)の分靈を勧請」と記載している。

 (※注2) 戦前まで「日吉」は、「ヒエ」と読まれ、日枝・比恵・比叡と同じ読みであることを前回記した。そして、日吉大社の御分霊を載せた御輿が留まった宮若市内にその比恵の名が付けた「比恵谷」(笠松)、「比恵崎」(小伏)、及び大宮鎮座地の坂本の名を付けた「坂本」(福丸)などの地名(字名)が今も残っているという。筑前國續風土記附録には、小伏村「比恵崎社 ヒエザキ 吉川山王初の宮地なり」の記事がある。

 神霊(神輿・御輿)は「宗像勝浦→笠松(比恵谷)→福丸坂本→小伏(比恵崎)」を通過したと記されているが、笠松→福丸→小伏之コースはおおよその推定がつくものの、勝浦(福津市)→笠松(宮若市四郎丸)間はいかなるコースを辿ったのだろうか。
 当時の道筋をいろいろ考えた末、勝浦→名児山越(古代官道→)田島から釣川を遡り→赤間(古代街道→)赤木峠→笠松と推定したが、もとより合っているかどうかは分からない。
 なお、笠松は、神功皇后の笠かけ松の伝承地だが、神功皇后は笠松から赤間には抜けず、山口村(山口八幡宮鎮座)を経て見坂峠を越えた。

 (※注3)「当時の御神幸は乙野草場の大行事神社」とあるので、御神幸先(頓宮)がなぜ大行事神社なのかの説明はないが、日吉神社が小伏比恵崎に鎮座していた時代には、吉川郡乙野村草場地区に「大行事神社」が鎮座していたことが分かる。

 筑前國續風土記附録に鞍手郡黒丸村山王宮 ※キヨミツ 神殿方一間・社拝殿二間三間 祭禮九月十八日・奉祀清水寺 清水十六戸の産神也。昔ハ乙野村の内大行事といふ所に有りしか、いつの頃にか、此地に移せりといふ。」ある。(※キヨミツは、キヨミズ(清水)のこと)

 この黒丸村清水の「山王宮」が、かつて乙野村草場に鎮座していた「大行事神社」で、乙野村草場の集落名は「大行事」とも云っていたのだろう。

 なお、この黒丸村「山王宮」は、一般的には「大行事神社」(現「高木神社」)と言われ、「英彦山四十八大行事社の一」に数えられる「大行事神社」だったので、英彦山神宮・彦山修験道豊前坊・黒川院との係わりも考えられる。※別記参照→「佐田高木神社へ(4)菊紋石柱・英彦山四十八大行事社(朝倉市)」。

 因みに黒丸「山王宮(山王権現)・大行事神社(現高木神社)」の鎮座地(宮若市黒丸1572)は、西山連山の主峰「西山」(鮎坂山/標高664.6m)の南東中腹(清水寺の上方)で、時として雲海などが見られる絶景地である。なお、清水寺までは車で行けるが、石鳥居からは徒歩数分上る。

 「福岡縣神社誌(昭和19年)」の「日吉神社」の項に次の記事がある。
 「年々の祭禮も盛大に執行せられる特に三申祭は四月の申の日三日あれば中の申の日を撰び、二日あるときは後の申の日を定めて神靈を神輿と遷し頓宮迄御神幸あり、一日滞輿翌日歸輿あり、流鏑馬特殊神樂奉納して賑盛なり、現今に於ては隔年に執行す、神幸頓宮の處は當社の攝社にして清水の地に鎮座します大行事神社(高木神社)なり。古神領として數十町歩を有し現在に至る迄供田薦敷田火焼田流鏑田印鑑田等の地名田字殘れり。」

 (※注4) 草場城は、湯原町大地原(草場集落)の湯原山の一丘陵上にあり、本丸跡に城主松井越後守秀郷之墓がある。秀郷は、もと大内氏の家臣で、大内氏滅亡後、秋月種実の配下になり、天正13年(1585)に秋月種長とともに日吉神社(当時山王権現社古宮鎮座地)の社殿を造営したが、同年、宗像勢に攻められ討ち死にした。(福岡県の城参照)。

 (※注5) 古宮は、筑前國續風土記附録に「今の社より艮六町計」とあるので、現社殿より艮(うしとら・北東・鬼門)方向600mほどにある須賀神社鎮座地にあったではないか。(※一町・六十間・約108m×6=618m)。※次回掲載。
 
 筑前國續風土記附録「下村・山王権現社 ヒカシヤマ 神殿三間・社拝殿二間半三間・祭禮九月廿一日・石鳥居あり。奉祀國井但馬・堀出羽也。國井氏を大宮司と云。堀氏を神主といふ。吉川河内(下村・湯原・脇田・乙野・小伏・緑山の六村)の惣社なり。祭れる所の神ハ、日吉七座大明神・三島明神・沙川明神(一説に松尾明神)なり。初て祭りし地を比惠崎(小伏村にあり)といふ。其後今の社より艮六町計に移せり。又寛文十一年今の所に移せり。社内に鹿子馬社・祇園社・釘大明神あり。〇凡此社の事ハ本編及縁起(貝原篤信撰へり)に詳也。又神社古實と題せる一巻有り。竹田定直記せり。」

 (※注6)筑前国続風土記」(本編)の記事を下記に転記する。
 「山王権現社 下村にあり。吉川河内六社の總社也。いつの時勧請せしにや、年代詳ならす。初て鎮座の地を比叡崎と云。江洲の山王の地にかたとれる名也。九月二十一日祭あり。人多く集る。又三申の日祭あり。申の日二あれは、次の申を用ひ。三あれば中の申の日を用ゆ。※應安元年(1368)建立の棟札あり。文明九年(1477)に大内家の臣、宗掃部氶盛秀と云者、此邊を守護せし時、總政所藤右京進安房と云者、修覆を加ふ。其後頽破せしを、大永七年大村又四郎興景といふ者建立せり。又天正十三年(1585)松井越後守秀郷と云者建立す。寛文十一年(1671)に、吉川郷の産子とも寄つとひ、今の宮所に、新に神宮を建立して移し奉る。社地高き所にありて、石階をのほる。上には眺望をよろこはしめ、下には水洗いさきよし。」
 ※應安元年(1368)=上記正平23年(1368)

 (※注7) 国主黒田家の崇敬について「福岡縣神社誌」に次の記事がある。「國主黒田家の崇敬殊の外篤く、光之君綱政君齊清君三代の當社々参あり、其の他正月一日、五月五日、六月二十九日、九月一日、十二月二十九日を式日祭禮日と定め國主安泰祈願祭を行ひ、正月五月六月九月の四同必ず代参ありて荘厳に祭典を執行せしこと古文書等に明なり。」。

 (※注8)「福岡縣神社誌」は「當社の分霊を奉祠せる社郡内に数社あり」として、末尾に次の攝社と末社を掲げている。
 攝社: 黒水神社(伊弉册命、素戔嗚命)・天満神社(菅原神)・日原神社(大國主命、市杵島姫命、大山祗命)・高木神社(高皇産日命、日吉七社大神) 
 末社: 太良志神社(大邑倉命、大山祗命)・葛城神社(大山祗命、日吉七社大神)・須賀神社(素戔嗚命)・釘神社(日本武命)。

 ※上記8社の鎮座地は、黒水神社(脇田)・天満神社(乙野)・日原神社(脇田)・高木神社(黒丸)・太良志神社(→多良志神社/小伏)・葛城神社(三ヶ畑)・須賀神社(下)・釘神社(下)か。
 なお、このほかにも近隣には日吉神社の社名を有する神社がある。

 ※因みに上記「日吉七社大神」とは、「日吉七社権現」と云われる1 大山咋神(二宮小比叡 東本宮)、2 大己貴神=大国主命(大宮権現 西本宮)、3 田心姫神(聖真子 宇佐宮)、 4 鴨玉依姫神荒魂(三宮 三宮宮)、5 大山咋神荒魂(八王子 牛尾宮)、6 白山姫神(客人権現 白山宮)、7 鴨玉依姫神(十禅師 東本宮境内)である。
 若しくは、当地の場合、日吉神社祭神の1 大国主命、2 大山咋命、3 應神天皇、4 五男三女大神、5 二柱大神、6 邇々藝命、7 事代主命をいっているのか。

 ※つづく→「日吉神社古宮・須賀神社・釘神社 (宮若市下)」。

keitokuchin at 20:33│Comments(0)TrackBack(0)

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