原町宿のお大師様・釋迦堂は再建されるのか(宗像市)高良内三町内公民館と地域憲章 (高良山麓巡り48)

2019年07月14日

善一田古墳公園を見学 (大野城市乙金東)

1善一田古墳公園














  [善一田(ぜんいちだ)古墳公園]
   所在地: 福岡県大野城市乙金東1丁目29


3周辺の古代遺跡 ・平成に入って乙金山(四王寺山/大野城跡の北西)の西山麓(九州自動車道の下方)の開発(住宅や商業地)が進み、それに伴う一帯の発掘調査で、この山の斜面で多くの古代遺跡が発掘された。
 

 ※薬師の森遺跡、古野古墳群、王城山古墳群、善一田古墳群、乙金窯跡等々(※画像)。

 ・これらの遺跡は、発掘調査後、その大部分が消滅したが、そのなかで、幸いなことに、「善一田古墳群の一部(上方)の古墳」が保存整備され、本年(平成31年/2019)4月27日「善一田古墳公園」として開園した。


2保存・消滅古墳図 ・現地案内板によると、30基の群集墳(円墳)が確認されたようで、このうち調査されたのは27基で、そのうち9基の古墳、及び3か所の土壙墓群跡が保存されたようである。



 しかるに、同上案内板の図面(※画像)に載っている古墳の数を数えたら29基で、そのうち3基あるはずの未調査の古墳が2基しか載っていない。
 したがって、未調査の古墳が3基あると考えたら、9基+3基=12基の古墳が保存されたことになるのだろう。


4 19号墳 ・乙金東団地道路(新道)沿いの「セブンイレブン大野城乙金東1丁目店」の北側の路地を入り、突当りの石段を上ると、左前方の傾斜地に整備保存された9基の古墳を一望でき、ある意味壮観ではある。(※画像)


 ・案内板によれば、善一田古墳群を含む周辺地区には、古墳時代後期〜終末期(6、7世紀)に築造された古墳が100基を越え、同時期の集落遺跡(薬師の森遺跡)も発掘されていたといい、当時この地区に住んだ人たちは、665年に築造された古代山城「大野城」の築造にも関わった可能性がある、という。
 また、これらの遺跡からは、当時のアジアとの交流を物語る新羅の土器や西アジア(イラク付近)で作られたガラス玉が出土している。

 ・しかるに、大野城の当初の築造が665年だったのかについては疑問があり、全古墳の築造時期や集落遺跡、出土品なども、6、7世紀よりも少し遡るような気もしている。

 ・当地方の古墳や集落等の古代遺跡の年代推定は、大宰府政庁が設置されたとされる663年(天智天皇2)を基準にしてなされることが多いが、この先入観念を捨てない限り正確な年代測定は難しい。

 ・大宰府政庁は、少なくとも五世記初頭にはあった、つまり、ヤマト王権(天智天皇)が九州を抑える前の、倭国(倭の五王など)の都督府の成立に始まると考えたら、周辺には、この時期と符合する遺跡があってもしかるべきで、新羅土器の出土は、当地区に倭国と親交が深い新羅人や新羅と係わる人々がいたという考えができる。

 ・特に、百済救援を主導し新羅と戦い白村江で大敗した天智天皇が、その後、新羅からの侵略を恐れて大宰府政庁と接する大野山(四王子山)に大野山城を造ったのであれば、その築造に、新羅土器を有した当地区の人たちが係わったという説には違和感がある。今後の課題としたい。

 ・それはともかく、当地区のように都市化が進むなかで見つかった古墳や古代遺跡等の多くは消滅していく運命にあるようだが、そのなかで、この「善一田古墳群」の一部(9基)だけでも残し、整備公開するという決断がなされたことは称賛に値する。多くの人たちに見学してほしいものだと思う。

5 17号墳6 16号墳

keitokuchin at 20:09│Comments(0)

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