富松神社〜本殿跡(高良山麓巡り51)高良内八幡神社(高良山麓巡り53)

2019年07月26日

富松神社ぁ塑弯澄岩竹古墳2号墳など(高良山麓巡り52)

 ※前回「富松神社〜本殿跡(高良山麓巡り51)」から続く。

 ◇ 岩竹古墳2号墳(岩竹古墳群2号墳・岩竹2号墳)

 ・所在地:福岡県久留米市高良内町979富松神社境内。

 ・前回、「富松神社本殿跡の石垣に囲まれている盛り土は、岩竹古墳2号墳で、この墳丘上に本殿が建てられていたことなる」と書いた。

1富松神社岩竹2号墳入口 ・「岩竹古墳2号墳」(岩竹古墳群の一)は、横穴式石室(前室+玄室)を有する古墳で、その石室の入口は、本殿跡(墳丘上)に上る中央石段の上り口のすぐ右横にあった。 

 


 ・現在、そこには多数の土嚢が積まれて、入口が塞がれているが、以前は、石室の入口の天井岩やそれを支える脇石などが露出し石室が覗ける程度に開口していた。

 ・平成20年(2008)8月に社殿(本殿、拝殿)が焼失したとき、火災時の火炎、火煙が石室内を襲い、或は消防車の消火水等が石室内に入ったのか、入口の天井石が落下するほかの被害もあったようで、地盤が緩んだ状態のまま放置すると古墳全体が崩壊する恐れもあったらしい。

 ・そのため、平成22年度に発掘調査が行われ、その後、古墳の強度を保つために石室内部に真砂土を詰め、入口に土嚢を積み上げ、塞いだようだ。

 ・発掘調査で、石室内から須恵器、馬具、装身具、金属製の錘等の副葬品が出土し、当地方の有力豪族の墳墓と推測された。

 ・古墳の形は、墳丘の形から推して二段構築の円墳とみることもできるが、帆立貝式前方後円墳のようにも思える。

 ・後世、富松神社本殿が造営されたとき、盛土(墳丘)の表面を削って石垣が作られたと考えたら、もとは高さ、幅ともにもっと大きな墳丘だったと想像され、かつ、この墳丘に接続している拝殿敷地の壁部分(参道部分より一段高い)にも石垣が施されていことなどを見ていて、帆立貝式前方後円墳もあり得ると推測した。

 ・古墳の築造時期については確定できないが、六世紀中期以降(古墳時代後期)説や、それよりもっと古いとする説もあるようだ。

 ・六世紀中期以降築造説には、高良内町に居住した古代物部氏が、継体天皇21年(527)に反乱を起こした磐井を高良山麓で鎮圧したヤマトの将軍・物部麁鹿火に始まると推測したことにあるようだ。
 だが、この物部麁鹿火が、本当にヤマトの将であったかどうかは疑わしく、また、当地の物部氏は、筑紫君磐井の挙兵に味方していたはずで、その物部氏が物部麁鹿火に始まるとするのは考えにくい。因みに岩竹の岩は、磐井(岩井)の岩に通じる。


2地図 ・富松神社の社殿、及び岩竹古墳の入口は、彼方(南東方向)に見える明星山(明星岳・一之岳/362.3m)を向いており、被葬者は、この明星山とも係わる人物が想像される。



 ・その明星山に住まいした明星(妙見)神は、富松神社の祭神「筑紫弦田物部祖天津赤星」にほかならない。
 つまり、高良内町に居住した古代物部氏は、弦田物部氏で、物部麁鹿火より遥かに古くに明星山に降臨した天津赤星の系譜であり、この岩竹古墳の被葬者は、天津赤星、若しくは天津赤星の系譜と係わる人物だと想像する。(※下記祭神の項参照)

 ・上記掲載地図を見ていると、岩竹古墳2号墳・富松神社(「↓」の地点)は、当所と明星山(一之岳)を結ぶ線と、高良山(二之岳)を結ぶ線がほぼ直角に交差する地点にあり、両山との係わりを示す絶妙な位置に造営されているようにも思える。

 ・なお、岩竹古墳群のもう一つ「岩竹古墳1号墳」がどこにあるのかが分からなかったが、その後、「山歩き古墳巡り」さんから、そのブログの「岩竹1号墳」の記事に「参考に」として教えいただきました。感謝感激です。その場所は、高良内八幡神社の右方に鎮座している「水神社」(石祠)の角を山側に曲がり、その先の二股を左に上ると、すぐ右側(空き地)にある。次の機会に訪れたいと思っている。


 ◇ 富松神社の祭神

 ・富松神社の祭神の「筑紫弦田物部祖天津赤星」は、先代旧事本紀にいう饒速日命の天孫降臨に際して、「副従為(そえしたがい)て天降(あまくだり)供奉(つかえまつ)らした」五部人の一人で、明星山に住まいして明星神、妙見神とも称された。
 ※赤星(あかぼし)→明星(あかぼしみょうじょう)→妙見尊星王(みょうけんそんしょうおう/妙見菩薩)と集合か。

 ・筑紫弦田物部祖天津赤星は、その名のとおり、筑紫弦田物部氏の祖で、高良内町の古代弦田物部氏は、この天津赤星を祖とする一族で、高良内町内には天津赤星を祀る「赤星神社」(妙見宮/久留米市高良内町759)があり、また、大谷古墳1号墳(高良内八幡宮境内/久留米市高良内町876−1)を天津赤星の墳墓とする説が根強くあるが、富松神社の岩竹二号墳もその一つに加えても良いようにも思う。

 ・なお、富松神社の社号は、三階松などの神紋を掲げる九州王朝との係わりも想像される。

 因みに、三階松の神紋は、高良下宮社(高良玉垂命)内(右側)の「幸神社」(祭神:孝元天皇/履中天皇元年(400)創建)で見た記憶があり、高良下宮社と九州王朝のつながりが推測される。
 また、高良内町の弦田物部氏は、古代から高良大社の大祝(おおほうり)を担っており、その高良大社には、九州王朝とのつながりを示す九州王朝年号が残っていると聞いたことがある。
 後に高良山で挙兵し敗れた筑紫君磐井は、九州王朝の後裔とされる人物である。
 富松神社には、まだまだ隠れた事柄があるのかもしれない。(おわり)。

 ※筑紫君磐井の伝承、磐井の乱については、下記参照(別記)
  →「高樹神社 (高良山麓巡り14)」。
  →「磐井川起点から旗崎・磐井の清水・応永地蔵(高良山麓巡り21)」。
 ※本項「富松神社」のトップ→「富松神社 岨夏擦寮仟な(高良山麓巡り49)」。

 ※次回→「高良内八幡神社(高良山麓巡り53)」。

keitokuchin at 13:47│Comments(0)

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