舞鶴橋(九州鉄道眼鏡橋跡)〜祇園神輿巡幸地4/唐津街道赤間宿跡(宗像市)赤間の須賀神社(2)祭神、由緒、境内神社等/唐津街道赤間宿跡(宗像市)

2019年09月06日

赤間の須賀神社(1)石鳥居とその周辺/唐津街道赤間宿跡(宗像市)

 ※前回「舞鶴橋(九州鉄道眼鏡橋跡)〜祇園神輿巡幸地4/唐津街道赤間宿跡 (宗像市)」から続く。

 ・赤間須賀神社(本殿)鎮座地:福岡県宗像市赤間6丁目6-7。

 (1) 石鳥居4基とその周辺

  参道外の「脇鳥居」一基

1須賀神社脇鳥居東構口 ・赤間須賀神社入口に向かって左前方境外に横向きに建つ「脇鳥居」一基は、昭和十一年(1936)四月吉日に産子の「初老自祝」として奉納された石鳥居(明神鳥居)で、額束の文字は「須賀神社」である。


 ※宗像市赤間6丁目4-2・唐津街道赤間宿東構口・同中筋往還赤間口付近。

 ・赤間祇園祭(御神幸祭)の第2日目の午後11時過ぎ、舞鶴橋(※前回掲載)から赤間須賀神社に向かって150m、坂道を下って引き返した巡行御神輿は、先ず、還幸門ともいえる須賀神社「脇鳥居」をくぐり、境内に還幸する。

 ・この石鳥居(脇鳥居)を「一の鳥居」と数える向きもあるが、小生は、次の理由で勝手に「脇鳥居」と呼称している。


2須賀神社脇鳥居裏側 つまり、この石鳥居は、須賀神社境内の正面参道を向いておらず、須賀神社境外にあって、木屋瀬に向かう「旧唐津街道中筋往還の赤間口」(「従是右木屋瀬・従是左芦屋」の道標あり)に建っていること。


 第一日目の赤間祇園御神幸の際に、境内を出た「御神輿」は、この石鳥居をくぐらない。

 さらに、境内参道上に石鳥居三基が建ち並んでいるので、この三基を「一、二、三の鳥居」と数えると、この参道の列に入らない石鳥居は「脇鳥居」と呼称した方が分かりやすいと思った。ただし、この脇鳥居の正式呼称は知らない。


  「参道内の石鳥居」三基

 ・赤間須賀神社の境内は、入口(朱塗り木製塀・玉垣の内側に「一の鳥居」あり)から本殿(その前方に「三の鳥居」あり)に向かって伸びる縦長の小丘陵で、参道上に建つ三基の石鳥居は、それぞれその前にある石段の上に建っている。


2-2熊越池 ・参道の右(東)側は杜の樹木で覆われているが、崖状の段差があり、その下(七社宮との間)の谷あいには「熊越池」がある。
 その北側には、今は住宅、アパート等もできている。



 なお、境内の左側には、玉垣(石柱)が張り巡らされている境界と接している赤間6丁目4の民家やマンションなどの建物が丸見えになっている。

 ・この境内の小丘陵は、旧祇園社が七社宮から当地に遷宮する前の地主神「貴布祢(貴船)神社」の名を採って「きふね山」と称されることがあるが、須賀神社の旧社名「祇園社」の名を採って「祇園山」という人もいる。
 その遷宮時期については、永禄九年(1566)説があり、赤間祇園祭は、その後、400年に亘る伝統行事となっているという。

 ・なお、もし車で訪れるときは、当社の前にある駐車場は月極駐車場なので、東側下方の「熊越池公園駐車場」を利用することが望ましい。


 (a) 一の鳥居とその周辺

3須賀神社正面一鳥居と二の鳥居 ・上記「脇鳥居」をくぐってすぐ左(北)側、旧唐津街道中筋往還に面して建つ朱塗りの木製玉垣が目に入るが、その中央の石段(4段)を上ると、正面に参道入口を示す「一の鳥居」が建っている。


 (※宗像市赤間6丁目5-10)。

 ・「一の鳥居」は、「明治三十七年日露戦役紀念」として建立、奉納された石鳥居(明神鳥居)で、額束の文字は「須賀神社」である。

 ・石鳥居の柱に「明治三十七年」(右)、「日露戦役紀念」(左)と刻されているので、恐らく、軍神でもある当社祭神・素戔嗚命に、その戦勝と従軍兵士の高揚を祈念して、日露戦争が開戦した同年(1904)2月8日の直後に建立されたものだと思う。
 その翌年9月5日に日露戦争が終戦したが、当地からも多くの兵士が出征し戦死された人たちもおられたのでないかと思う。
 因みに、境内には、その他の戦争関連遺産ともいえるものには「旅順開港記念樹」や「上海事変役の砲弾」があるが下記する。

 ・一の鳥居の左手前に「須賀神社」と刻した社頭標示碑が建ち、右横に大きな石燈籠一基が建っている。敷地内には、使われていない小水盤なども放置されている。

 ・なお、その他、一の鳥居の敷地内にある赤間宿辻井戸、節婦お政碑、石松林平・伴六碑等については別記する。
 ※別記参照→「赤間上町(北部)〜赤間宿まち歩き(2)/唐津街道赤間宿跡(宗像市)」。


 (b) 二の鳥居とその周辺

4須賀神社正面二の鳥居 ・「二の鳥居」は、一の鳥居の先から石段(15段)を上った参道上に建っている「明治廿七年(1894)六月良辰再建」の石鳥居(明神鳥居)で、額束の文字は「祇園社」である。



 ・「二の鳥居」と下記の「三の鳥居」は同時期に作られているが、「二の鳥居」は、当社の旧社名である「祇園社」の額束を掲げている。
 これは、明治維新により強制的に「祇園社」の社名が廃されたことに対し、産子の人たち反発し、鳥居再建という形を採って、旧社名を鳥居額に残したものだろうか。
 祇園祭の暴れ神輿の豪快さを鑑みて、この鳥居を観ていると、豪快な祭神「祇園神(素戔嗚命)」の気吹(いぶき)と当時の地元の人々の反骨精神の一端が伝わってくるようだ。


5須賀神社御神輿藏 ・祇園祭等の祭礼のとき繰り出す「御神輿」を納める「御神輿藏」は、二の鳥居の先の参道右側の敷地内に建っているが、その扉は、厳重に施錠してあり、お祭り以外のときに観ることはできない。


 また、その前の参道の左側には「藤棚」がある。

 ・その他、二の鳥居のある敷地内には、石造狛犬一対、石燈籠一対、寄附碑等が建っている。
 また、「旅順開港記念樹」(石碑あり)があり、旅順開港の意味がよく分からないが、旅順港は、明治27年(1894)〜28年の日清戦争の激戦地で、明治37年(1904)〜38年に一時日本海軍の管理下になったことがあり、この頃のことだとすれば、既に樹齢は100年を超えていることになる。

 ・なお、境内の右側は杜の樹木で覆われているが、左側は、赤間6丁目の民家やマンションなどの建物が丸見えで、その境界には、玉垣(小石柱)が張り巡らされている。


 (c) 三の鳥居とその周辺

6須賀神社正面三の鳥居 ・「三の鳥居」は、二の鳥居の先から石段(5段)を上った参道上に建っている「明治廿七年(1894)六月良辰」建立の石鳥居(明神鳥居)で、額束の文字は「須賀神社」である。



 ・三の鳥居の敷地内(参道左側)には、上記した「上海事変役の砲弾」の奉納碑が建っている。上海事変役時の砲弾(※長さ390mm、直径120mm)が乗った細長い台座に「奉献 昭和八年(1933)五月吉辰 砲弾ハ昭和七年上海事変役海軍下士官牧正太郎君ヨリ寄贈セラル」の銘がある。なお、牧正太郎氏についての詳細は調べていない。


7社務所と御大典記念樹 ・その右横に、「社務所」が建っている。
 各種祭礼時には「お守り頒布所」となりにぎやかしいが、祭礼時以外は施錠されている。建物には、外水道が付いている。

 ・その右横には「納献御大典記念樹」(石碑あり)がある。昭和3年(1928)11月10日京都御所で行われた昭和天皇即位の礼を記念して植樹されたものだとしたら、樹齢90年になる。



 ・本殿及び境内神社は、この上の段(石段5段上る)にあるが、石段の両横に、この段上と三の鳥居が建つ敷地を区切る「仕切石壁」がある。

8須賀神社本殿前仕切石屛 ・最近、本殿参拝に訪れるたびに、この仕切石壁を、屋根石部分を含めて断割るように入っている二か所の亀裂が目に入り、いつか倒壊するのではないかと気になっている。




 もし倒壊したら、この石壁の内側(本殿側)に記銘されている篤志の奉賛者の氏名も消えてしまうのかと思うと残念な気もなる。その記銘をここに転記しておく。
 「寶榮舎: 八尋忠蔵 花田治平 白木貞十 中山森蔵 吉田万太郎 八尋代吉 芳村種蔵 早田初平 福田國松 中尾清太郎 灘谷勝次 大正弐年六月再建 職工 松尾仁助 持主伊三」


 (追記) 2019.9.22夜~23未明、台風17号の強風により、拝殿前石段の右側の石壁の下に生えているイヌマキの木(高さ約10m)が、地上3mの部分から折れ、同上石壁に倒れかかり、その一部を破壊した。心配していたことの一部が的中したようで何か悲しいが、全壊にまでは至ってないのでよしと考えるべきか。

 ※次回→「赤間の須賀神社(2)祭神、由緒、境内神社等/唐津街道赤間宿跡(宗像市)」。

keitokuchin at 13:46│Comments(0)

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