出光佐三展示室〜出光佐三map(2)/唐津街道赤間宿跡(宗像市)出光佐三の菩提寺・法然寺〜出光佐三map(4)/唐津街道赤間宿跡(宗像市)

2019年09月15日

出光佐三の生家〜出光佐三map(3)/唐津街道赤間宿跡(宗像市)

 ※前回「出光佐三展示室〜出光佐三map(2)/唐津街道赤間宿跡(宗像市)」から続く。


 (3) 出光佐三の生家

 ・所在地:福岡県宗像市赤間4丁目11-28。〜「出光佐三の生家」は、上記「出光佐三展示室」から北に約95m(徒歩1.5分)上った左(西)側に建っている。
  
 [建物の外観]

4出水佐三生家 ・白壁2階建ての町家で、「明治時代中期の建築」…明治26年(1893)築、昭和中期改修。
 この家屋は、2015年3月13日国の登録有形文化財に登録してある。


 ・普段は、家屋の外観しか見学できないが、見るからに北側の棟が南側より高く、木造瓦葺二階建て、漆喰壁でできている。また、2階の大小二つの窓には鉄格子がはまっているようだ。間口5間半(約10m)。建築面積202屐

 ・現在、玄関や窓にはアルミサッシが入っており、窓の内側にカーテンが見え、表札(出光ではなく早田)や郵便受けもあり、また、たまたまこの裏の通りにある赤馬館駐車場(赤間4丁目12)から裏庭を眺めたとき、洗濯物が干してあるのが見えたので、現在、早田様が居住されておられることが分かる。

 ・ただ、「出光佐三の実家」の内部は、毎年2月中旬の土日の「赤間まつり」(バナナの叩き売り、大道芸、花嫁行列、勝屋酒造蔵開き等)のときに、赤間宿下町の町家「橋口屋」(明治前期建築)ほか、数軒の町家などとともにも開放され、見学ができる。この日に合せて赤間宿跡を散策し、訪れる人たちも多い。

 
 [出光佐三の先祖の家系と生業、移転など]

0出光藤六錦絵 ・佐三の父出光藤六の生業は「藍玉問屋(あいだまといや)」らしく、この家で徳島などから仕入れた藍玉を卸すような商売をしていたのだろうか。




 ※画像は、出光藤六の名入り錦絵。

 ・「傘マークの下に」となっている商標の「三」は、赤間で染物業をしていた曾祖父藤三、若しくは祖父出光藤三郎の「三」に由来するのだろう。

 ・藤三郎は、藤三の養子で、明治に入り初めて「出光」姓を名乗った人物。
 藍玉問屋業に転じた藤六は、藤三郎の子。
 佐三は藤六の二男だったにかかわらず、曾祖父藤三、及び祖父藤三郎の名の一字「三」を引き継いでいるので、産まれたときから出光家の跡取り(中心人物)となる運命を背負っていたのかもしれない。

 ・「藍玉」とは、Wikipediaには「藍の葉を発酵・熟成させた染料である蒅(すくも)を突き固めて固形化したもの、玉藍とも」いうとある。
 ただ、もともとの生業は、染物業で、藤六が藍玉卸商に転業したことで、それまで住んでいた家屋では手狭と判断し、現在の土地を購入し、ここに新たに建物に建て、移転したのだろう。

赤間出水邸裏倉庫  ・当時は、現在、応接室となっている部屋(玄関を入って左側)が作業場で、ここに「藍玉を煮る大釜」が置いてあったという。
 ・また、当時の「倉庫」は、現在も裏庭(北側)に残っている。


 ・因みに、ここは、この家が建つまでは、現城山中学(赤間宿時代は本陣)に到る道路だったのでそれまで、ここに建物はなかった。この家は、「明治時代中期の建築」と上記したが、明治26 年(1893)築である。

 ・つまり、この家屋は、出光佐三が生まれた「明治18(1885)年」より後の明治26 年に建てられたものなので、佐三が、この家に移ったのは8歳の頃であり、この家で生まれてはいないことは明らかだが、なぜか「出光佐三生家」と称されている。
 
 ・以下、赤馬館のガイドさんから伺った「出光佐三の先祖の家系」について書きとめておく。

 〜「出光佐三の家系は、赤間宿の恵比須屋(出光卯右衛門)に奉公に出た藤助(鞍手郡中山村忠吉の息子)から始まる。藤助は、主家に忠勤し、かつ高齢の父に孝行を尽くし、文化十二年(1815)藩から表彰され、宗像遺徳集にその名を遺す。
 藤助に子なく、妻の弟藤三(染物職人)を養子とする。藤三の名は、天保二年(1831)六月の宗像郡赤間宿軒別小間割書上帳に記載あり。
 藤三の子藤三郎(染物職人)、明治維新後に、初めて出光姓を名乗る。
 出光藤三郎の子梅吉の名は明治21年(1888)の地価帳に記載あるが、その後、名を藤六と改め、明治26 年(1893)現在地(出光佐三生家)を建築移転、藍玉問屋を行う。
 この藤六の二男が佐三である。」

 ・つまり、出光姓は、明治時代に、佐三の祖父藤三郎が、主家(比須屋)から出光姓を貰い、初めて名乗ったものであり、赤間に並みある出光家とは出自を異としている。
 また、父梅吉が「藤六」と名を改めたのは、その父藤三郎、及び祖父「藤三」、曾祖父藤助の「藤」を受け継いだことによると思われる。「藤六」とその子「佐三」の名を合体すると「藤三」の名が浮かび上がってくる。
 「藤」の字にこだわったのは、ひょっとしたら先祖が藤原氏の流れであるという伝聞と自負があったのかもしれない。
 先祖の地、鞍手郡中山村(現:鞍手町中山)は、古代物部氏が治めた物部王国の中心地(剱岳・八剱神社)だったが、藤原氏全盛時代になると、当地方の物部氏を抑えるために藤原氏が進出し、その祖神天児屋根命を祀るが春日神社が鞍手郡宮田町に春日神社が鎮座した。剱岳山麓の熱田神社境内にも春日神社がある。


  [実際の生家は]

辻行燈2 ・ところで佐三の実際の生家は、父らが代々染物業をしていた家屋だったと考えられる。
 その家は、赤間上町通りの五葉松(+辻行灯)がある所から奧に入ったところに、かつてあったと最近聞いた。


 だが、同所に当時の家は残っておらず、同所を生家として記すものはない。赤間4丁目10-4。
 

 [出光佐三について]

 「出光佐三翁生家
 出光佐三翁は、明治8年赤間に生まれた。幼少期は地元の小学校で学び、福岡商業を経て、神戸高商を卒業し、酒井商会に入社した。
 その後、『士魂商才』をモットーとし、門司に出光商会を設立した。後に社名を出光興産とし、昭和28年には、民族資本としては初めて、イランから石油輸入に成功した。
 佐三翁は、愛郷心が強く、『互譲互助』の精神で郷土のために尽くした。
 また信仰心が厚く、宗像神社復興期成会会長として、社殿の整備や沖ノ島の学術調査等に尽力した。
 昭和53年には旧宗像町名誉町民第1号の称号が贈られた。」(現地案内碑)
 ※別記参照→「赤間宿上町(南部)〜赤間宿まち歩き(3)/唐津街道赤間宿跡(宗像市)」。

 ※次回→「出光佐三の菩提寺・法然寺〜出光佐三map(4)/唐津街道赤間宿跡(宗像市)」。

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