赤間宿まち歩き〜街道MAP/唐津街道赤間宿(宗像市)赤間宿上町(南部)まち歩き/唐津街道赤間宿(宗像市)

2019年09月21日

赤間宿上町(北部)まち歩き/唐津街道赤間宿跡(宗像市)

 ※前回「赤間宿まち歩き〜街道MAP/唐津街道赤間宿(宗像市)」から続く。


 ◇赤間宿上町(北部)を歩く(赤間上町🚥より北側)

 [唐津街道赤間宿東構口]

1道標 ・赤間宿東構口の位置は、当初、現在の、\峇崗緜駐車場―◆崕樟Пμ擴粟ァ従是左芦屋」の道標が建っている場所―0舵有料駐車場を結ぶL字線上にあったのではないかと推測していた。


 ・だが、最近は、\峇崗緜駐車場―0舵有料駐車場を結ぶ線上にあったとする説が定説となっているが、納得できる。


1-2須賀神社脇鳥居東構口 ・因みに 臭△蓮唐津街道芦屋往還」の赤間口である。また、◆臭は木屋瀬に到る「唐津街道中筋往還」の赤間口で、現在、その場所に(赤間)須賀神社脇鳥居が建っている。



 ・なお、舞鶴橋(JR教育大前駅)の南側、現在「旧唐津街道・赤間宿」の木柱(門柱)が建っている場所を「東構口」と考えている人たちもいるが、往時、そこに舞鶴橋はなく、上記 臭△茲衙未砲蓮家屋は建っていなかったことが「筑前名所図会」を見ても分かり、この考えには無理がある。

 ※別記参照→「赤間宿搆口/唐津街道赤間宿跡(宗像市)」。
 →「舞鶴橋(九州鉄道眼鏡橋跡)〜祇園神輿巡幸地4」/唐津街道赤間宿跡(宗像市)」。


 [(赤間)須賀神社]

2赤間須賀神社口一鳥居 ・「赤間宿の氏神社。江戸期は祇園社と称し、明治になり須賀神社と改称した。貴船神社・菅原神社・水神社・恵比須神社も境内に祀られています。毎年7月には祇園祭が行われ、12月にはゑびす座が行われます。」

(赤間宿まち歩きMAPを転記)…以下このMAPから転記した文には(map)と書く。

 ※別記参照→「赤間の須賀神社(1)石鳥居とその周辺/唐津街道赤間宿跡(宗像市)」。
 →「赤間の須賀神社(2)祭神、由緒、境内神社等/唐津街道赤間宿跡(宗像市)」。


 [辻井戸の一(須賀神社入口)]

 「辻井戸は、宿場の旅人や馬に飲み水を供給するためのもので、赤間の宿場600mの間で計7か所あった。現在、赤間宿には2か所の辻井戸が残っている。平成24年2月作成」。(現地の案内碑)

3赤間辻井戸(須賀神社) ・この井戸は、「唐津街道中筋往還」に面した須賀神社入口(一の鳥居の左)にあるので、木屋瀬、或は芦屋方面から赤間宿東構口に到着した人馬の喉を潤した井戸であったと想像できる。



 ・この辻井戸は、石造の角井戸で、現在、木柱造瓦葺の井戸舎(注連縄あり)に守られ、保存されている。
 水汲み口が2枚の石蓋で塞がれ、その上に須賀神社の由緒板が設置してあり、石蓋を取って井戸の中を覗くことはできないので、現在、井戸水の有無を目にすることはできないが、昭和30年代頃までは利用されていたと聞いた。
 

 [節婦お政の碑]
 
 「赤間村に住む政という娘は、父が決めた許婚と経済的な理由から結婚できず、勝浦村の富豪の子息の求婚との狭間で思い悩み、享和元年(1801)に18歳で自害したのを悼み建立されました。」(map)

4赤間阿政碑 ・この碑は、(赤間)須賀神社入口・一の鳥居の左後ろに建っており、大きな自然石に「節婦阿政之碑」と刻されている。





 ・なお、節婦お政(阿政)の墓は、宗像市赤間1丁目1-1の林に囲まれた小山のなかの共同墓地内にあり、小祠の形をしている。この墓地入口(上り口)に「節婦政伝の案内板」と「節婦お政墓道の石標」、墓(小祠)の横に「烈女政碑」が建っている。

 また、単なる18歳の少女の自害に対し、その後に黒田藩主の知る所となり、藩主が乗り出してこの事件を秘密裏に処理した関係者を裁いたとの話が伝えられている。ここまで大事件となった背景には、多分、阿政が黒田藩高臣明石(久左衛門だっか)邸(二千石)での行儀作法見習いを終えて帰宅した直後に起きた事件だったことから、やがて明石家が知ることとなり、藩主に報告が上がったのかもしれない。

 ※別記→「節婦お政(阿政)の墓(宗像市赤間1丁目)」。

 ※リンク→「節婦おまさ|蔦が岳-楽天ブログ
 →「節婦お政読解|蔦が岳-楽天ブログ」 
 →「節婦お政読解(10月末出版)のあとがき、平成23年


 [石松林平・伴六の碑]

 「徳重村の豪農石松家十代目の石松林平は、質素勤勉倹約、荒地を開墾し農業全書を配るなどした篤農家です。安政の初め、許斐山頂に鐘を引き上げ、時を報じさせました。従兄弟で義弟の石松伴六は五卿赤間滞在時、ねんごろに尽くしました。」(map)

 「…石松林平と伴六は、…天保の凶作(1830年代)の時には人々を自ら救済し、宗像米を薄利で貸し出す制度を始め、その後宗像郡内に広まった。(許斐山頂に鐘を引き上げたのは安政の初め(1854年〜)頃)」(現地案内碑による)

5赤間石松林平1 ・この碑は、上記「節婦阿政之碑」の左横に並んで建っている大きな自然石碑で、この碑の表面には、碑建立の由来(上記の内容など)が刻してあったようにも思えるが、その碑文は読めない。

 ・石松姓は、当地にそびえたつ城山、即ち蔦ヶ岳の「蔦」を由来にしているようで、徳重を含む蔦ヶ岳山麓の赤間周辺地区に広く分布している。




 [法然寺]

6赤間法然寺 「幸阿上人という僧が、圓光大師の白骨を頸にかけ九州に下り、この地に白骨を埋めて草庵を結び圓通院と名づけたのが始まりです。天正3年(1575)慶春という僧が圓光大師の霊夢によって建てたと伝える。」(map)

 ※別記参照→「出光佐三の菩提寺・法然寺〜出光佐三map(4)/唐津街道赤間宿跡(宗像市)」。
 →「法然寺 鼠浬錣覆(宗像市赤間)」。
 →「法然寺◆礎和堂・観音堂(大師堂・韋駄聖天堂)等(宗像市赤間)」。


 [五卿西遷之遺跡碑]

7赤間五卿碑前面 「幕末、攘夷の公家三条実美らは、京都を脱し長州を経て筑前大宰府へ移されることになりました。この石碑は、その途中の赤間宿御茶屋に25日間滞在したことを記念するものです。」(map)



 「五卿西遷の碑 幕末の文久3年(1863)8月18日政変によって攘夷派の急先鋒だった三条実美公ら7人は、京都を脱出して、長州へ落ち延びた。そのうち5人三条実美(さんじょうさねとみ)、三条西季知(さんじょうにしすえとも)、壬生基修(みぶもとなが)、東久世道禧(ひがしくぜみちとみ)、四条隆謌(しじょうたかうた)が、長州から筑前入した。慶応元年(1865)赤間宿の御茶屋(本陣)に25日間滞在し、その間に全国からはせ参じた勤王の志士たちは、西郷隆盛、高杉晋作、中岡慎太郎、地元の早川勇ら、100人程になった。(野村和作、三条実美、早川勇集合写真添付)」(現地案内碑)

 ・その後、慶応3年(1867) 12月9日王政復古の大号令が発せられ、新政権が樹立され、五卿は、12月19日に太宰府延寿王院を発ち京へ向かい、明治新政府に登用される。
 …三条実美:右大臣、太政大臣。三条西季知:新政府参与、明治天皇侍従。壬生基修:元老院議官、東京府知事。東久世道禧:新政府参与、元老院議官、初代貴族院副議長。四条隆謌:戊辰戦争錦旗奉行、陸軍中将。

 ・郷土の志士として顕彰される早川勇は、福岡藩から五卿迎え役の命を受け長州から赤間まで警護役を務めた。
 ・五卿が赤間宿御茶屋(本陣)に逗留したとき、ねんごろに尽くした石松伴六(上記)のように人がいる反面、福岡藩は、当初冷遇(囚人扱い)し、後改善したというが、明治維新には乗り遅れた。

 ・また、明治政府は、交通手段を改変し、唐津街道赤間宿が宿場町として生き残る術を完全に打ち砕いた。そう思うと、この五卿西遷之遺跡碑は、赤間人にとって讃え得るものだったのだろうか。

7-2赤間五卿西遷碑 ・この五卿西遷之遺跡碑は、赤間上町🚥の横(法然寺の塀の外側)の歩道に建っている大きな自然石碑であり、福岡県道29号(直方宗像線)、同75号(町川原赤間線)を走る車の中からも見える。


 側碑によると、この碑は、昭和3年11月建立発起、集まった寄付金で昭和6年6月3日竣工、昭和7年7月赤間町に維持管理を委託したようで、現在宗像市が委託を引き継いでいるのだろう。
 ※別記参照→「早川勇(養敬)顕彰碑など(宗像市)」。

 ※次回→「赤間宿上町(南部)まち歩き(3)/唐津街道赤間宿(宗像市)」。

keitokuchin at 20:25│Comments(0)

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