「萩尾邸」唐津街道赤間宿22(宗像市)「石松邸(橋口屋)・吉田邸・石松邸(蔦屋)」唐津街道赤間宿24(宗像市)」

2019年10月12日

「辻井戸(赤間宿下町)・大黒屋・今井神社」唐津街道赤間宿23(宗像市)

 ※前回「萩尾邸/唐津街道赤間宿22(宗像市)」から続く。

  [辻井戸] (赤間宿下町)

 ・所在地:福岡県宗像市赤間4丁目1-25
 ※赤間宿下町残存の辻井戸跡

1辻井戸(赤間下町) 「旅人や馬に飲み水を供給するため、町筋に合計7箇所の辻井戸があったと言われています。現在は、そのうちの2ヵ所が残っています。」(map)




 ・先に掲載した[辻井戸の一(須賀神社入口)]の現地説明板にもほぼ同様の説明がされていた。=「赤間宿上町(北部)〜赤間宿まち歩き(2)/唐津街道赤間宿跡(宗像市)」。

 「赤間宿の消滅した辻井戸5か所」

 ・赤間宿(赤馬宿)の街道筋600mの間に7か所の辻井戸があったことは確かで、明治維新以後、交通手段・ルートが変わり、唐津街道を往来する人馬がなくなり、赤間宿の辻井戸の必要性がなくなり、現在、形だけでも残っている2か所(須賀神社入口と下町の辻井戸)を除く5か所の辻井戸が消滅した。

  ・以前、この消滅した5か所の辻井戸の場所は、すべて特定されていると聞いていたが、その場所は次のようだったかと思う(すべて唐津街道赤間宿筋の西側)。
 )〜鎧山門付近、∪峇崗緜🚥の南の西側(赤間5丁目1-29付近だったか)、7暖羶棆亜ι隼匆斡界部分の対面(赤間4丁目11-25)、そ亳佐三の生家の左隣の角地(赤間間4丁目11-28)、ジ田(本町)の浄万寺境内。

・近年(平成24年/2012)、発掘された場所(※多分、上記)があると聞いたが、そのとき4.5mの深さまで調査された井戸内部の石組み(石積み)は、かなり緻密で、まったく壊れていなかったようである。

上町旧辻井戸発掘地 この発掘地の旧辻井戸の井戸水は既に枯れていたと思われるが、これより深い部分の調査はされないまま完全に埋め戻されたので、現在、その跡を確認することはできない。
(※画像)


  ・なお、赤間宿の井戸(辻井戸や、その他の井戸を含む)は、5m前後の深さで水が湧いていたので、一般的な井戸より浅かったようだ。


 「赤間宿下町の辻井戸の現況」

  ・このように明治維新後に消滅した辻井戸があるなかで、現在、かろうじて形だけでも残っている2か所の辻井戸のうち、須賀神社入口の辻井戸は、昭和30年代頃までは生活用水として利用されていたことが分かっているが、赤間宿下町の辻井戸(※以下「下町の辻井戸」という)も、それなりに利用されていたのではないかと思われる。それしても、使われなくなった辻井戸が、今日まで残ったのは不思議と言わざるを得ない。

 ・下町の辻井戸は、「石造六角形」の井戸で、「竹組の簾蓋」が被せてあり、その上に水を汲み上げる「桶」まで置いてあり、今も使えそうな井戸に見えるが、蓋の下には転落防止の丈夫な「金網」が張られており、その桶を井戸のなかに入れて井戸水を汲み上げるようなことはできない。

 ・当初、左側に隣接した家屋があり、後ろの松尾家の庭との間に仕切りがなく、「古い井戸舎」が建っていた。
 その後、左側の家屋がなくなり、隣接して駐車場の看板が作られ、また古い井戸舎が撤去され、後ろの松尾家の庭と右側の駐車場との間に仕切り壁(ブロック塀)がつくられたので、当時、この前を通っていてこの井戸を見落とすことがあった。
 現在は、「新しく建て直された立派な井戸舎」(木柱造瓦葺)が建っているので、それが目印となり容易に確認できる。


 [辻井戸と敷地続きの大黒屋松尾家と今井神社]

 ・この下町の辻井戸の西側にある大黒屋松尾家の屋敷の先に「今井神社の杜」が見える。

2松尾家と今井神社杜 「今井神社」の地続きにこの「下町の辻井戸」があるので、今井の「井」は、ひょっとしたらこの辻井戸のことかもしれないと考えたこともある。




 ・であれば、この辻井戸の「井」(湧水)は、今井神社のご神体となるが、いずれにしろ、今日までよく残ったもので、赤間宿の時代から大黒屋松尾家にとっても貴重な辻井戸だったからに違いない。

 ・因みに、今井神社は、今、赤間宿西搆口(赤間宿下町)の守り神とも言われているが、鎮座地は、かつて大黒屋松尾家屋敷の庭園の一部だったところで、もとより赤間宿があった江戸時代から鎮座していた古社ではない。
 つまり、今井神社は、昭和23年頃に大黒屋松尾家がその庭園の一部を提供され、多分、須賀神社の祇園神(素戔嗚命)を勧請して鎮座したもので今井祇園社ともいう。


3今井神社参道杜 ・そのため、もともと松尾家の庭園に生えていた樹木が境内の杜となったので、その樹木の一本が参道を塞ぐ位置に立っているという珍現象も生み出した。




 ・今井神社境内に井戸は存在してないが、同所を所有していた松尾家の敷地内に「下町の辻井戸」があり、また大黒屋本家が酒造業を行っていたように、この一帯の地下には、現在も豊富な水脈を有する城山(蔦が岳)の伏流水があり、今井神社の井は、やはり辻井戸の「井」とも係わるような気がしてならない。

 ※別記参照→「今井神社〜祇園神輿巡幸地2/唐津街道赤間宿跡 (宗像市)」。


 [大黒屋の本家跡]

 ・酒造業を行っていた「大黒屋松尾本家」は、この「下町の辻井戸」の左斜め前にあり、赤間宿最古の建物と言われていた家屋は、昭和45年(1970)に解体されたので現存していない。
 
 ・また、赤間宿庄屋を勤めた出光恵比須屋とも縁戚関係のある家系で、この近くにある数軒の松尾家は、かつては大黒屋松尾本家の一統で、同じく大黒屋を名乗った。

 ・「大黒屋松尾家には安政七年(1860)在銘の指図が残り、家業は当初造酒屋だったが、江戸末期には蝋〆業に変わっていた。後に筋向いに店を構えた。」(赤馬館掲示図参考)


 [大黒屋お政の自害事件]

 ・大黒屋松尾家、及び大黒屋松尾本家については、享和元年(1801)11月9日、18歳で自害した大黒屋お政(節婦阿政事件)がよく知られている。

 ・お政は、赤間の豪商大黒屋松尾七兵衛の後妻の娘(次女)で、父が亡くなるときに、お政が成人したら、松尾本家の大黒屋酒造七左衛門の次男長次郎と結婚するように告げた。その後、長次郎の本家が衰微し婚礼できずにいたとき、勝浦村の大庄屋松賀屋酒造・二代目永嶋半五郎の子源五郎(三代目半五郎)との縁談が持ち上がり、その縁談を断り切れず悩んだ末、その婚礼の夜に「我身ひとつかくごを極め参らせ候」としたためて炭小屋(納屋)で自害した。

 ※別記参照1→「節婦お政(阿政)の墓(宗像市赤間1丁目)
 〜なお、「節婦お政(阿政)の墓」の参道入口に建っている案内板には、「勝浦村の大庄屋永嶋源五郎の子息半五郎」、及び「(お政は)村外れの山に行き、短刀で自分の喉を刺して死にました」と記してあるが、上記は「勝浦村の大庄屋松賀屋酒造・二代目永嶋半五郎の子源五郎(三代目半五郎)」、また、「(お政は)炭小屋(納屋)で自害した」とした。(※楽天ブログ/節婦お政を参照)

 ※別記参照2→「赤間宿上町(北部)〜赤間宿まち歩き(2)/唐津街道赤間宿跡(宗像市)」のなかの[節婦お政の碑]の項。

 ※次回→「石松邸(橋口屋)・吉田邸・石松邸(蔦屋)/唐津街道赤間宿跡24(宗像市)」。

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