「石松邸(橋口屋)・吉田邸・石松邸(蔦屋)」唐津街道赤間宿24(宗像市)」「郡屋跡・御茶屋奉行役宅跡・下代役宅跡」/唐津街道赤間宿跡26(宗像市)

2019年10月22日

「赤間本町(古町)通り・浄万寺」唐津街道赤間宿25(宗像市)

※前回「石松邸(橋口屋)・吉田邸・石松邸(蔦屋)/唐津街道赤間宿24 (宗像市)」から続く。

  [本町(古町)通り]

本(古)町通り下代役宅跡付近 ・本町(古町)の通りは、(赤間上町🚥から三郎丸に抜ける新道ができるまでの)旧幹道(旧県道75号線)の一部で、旧赤間宿内官道(旧唐津街道)のほぼ中間辺り(十字路あり)から西方の猿田彦神社前(十字路あり)までをいう。


 丁度、この本町(古町)道は赤間宿上町(西側)と下町(西側)地域を分断するように走っている。

 ・戦国末期、宗像大宮司氏貞が、城山(蔦ヶ岳)山頂の赤馬山城を改修して本城(岳山城・蘿嶽城)とした頃の赤間宿は、その城下町だったといい、当時の本城の城口は麓の陵厳寺にあり、その城口近くに氏貞の館があったとされており、本町(古町)通りはこの城口と赤間城下町を結ぶ幹線道路だったと考えられる。

1御茶屋奉行役宅跡 ・また、本町(古町)の通りは、玄界灘・鐘崎港と当地を結ぶ、かつて「鯖街道」とも言われた幹道(古道)の赤間口として古くに開けた地区だったので、赤間本町、又は赤間古町と言われたのかもしれない。


 ・本町(古町)通りの西口に鎮座している「猿田彦神社」(祭神:猿田彦大神)は、赤間三社の一、本町(古町)地区の守り神で、赤間祇園祭還幸の際には、須賀神社の御輿がこの道を通って猿田彦神社に入る。
 因みに他の二社は、赤間の産神・須賀神社(祭神:素戔嗚命/赤間上町守り神)、今井神社(祭神:素戔嗚命/赤間下町守り神)である。
1猿田彦神社前景 [猿田彦神社]の鎮座地
 宗像市赤間4丁目6−12。

 ※別記参照→「赤間の猿田彦神社〜祇園神輿巡幸地3/唐津街道赤間宿跡(宗像市)」。



 ・また、この通り沿いには、赤間宿時代に(福岡黒田藩が設けた)「郡屋、黒田藩御用米倉庫、御茶屋奉行役宅、下代役宅」等があり、また、通りの北側(現城山中学内)に「赤間宿御茶屋(本陣)」があったが、いずれも明治元年閏四月の王政復古により廃止された。(※次回掲載)


  [浄万寺]

3浄万寺山門 ・このほか、この通りの中ほどにある「浄万寺」は、赤間宿(江戸)時代には既に存在しており、また、旅の人馬のための辻井戸もあった浄土真宗(西)本願寺派の寺院で、今日も隆盛している。


 ・浄土真宗本願寺派 清涼山浄万寺
 ・所在地 福岡県宗像市赤間4丁目6−1 (旧地番:赤間919-1)


2浄万寺前景 ・本町通りに面して瓦葺の塀と山門(やや右寄り)があり、黒光りしている黒御影石柱を持つ山門の内側に本堂、左側の塀の内側に鐘楼(しょうろう)や庫裡がある。



 なお、通りの反対側に、浄万寺駐車場浄万寺伝道会館などがある。


 「浄万寺山門寄進碑」

4浄万寺山門寄進碑 ・通りに面した立派な黒御影石柱の「浄万寺山門」をくぐると、「山門寄進」碑がある。それによると、この山門は、昭和六十年(1985)七月に赤間の出光真一さんと出光寿夫さんのご寄進により建立されたことが分かる。



 「親鸞聖人像と恩徳讃碑」

5浄万寺親鸞聖人像 ・本堂の前(蘇鉄の前)に、行脚修行中の「親鸞聖人立像」(石造)が立っている。

 また、その横に、親鸞聖人の「恩徳讃」を記した石碑がある。


 「如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし師主知識の恩徳もほねをくだきても謝すべし

 ・なお、この意味は、「如来(阿弥陀如来)の大悲の恩徳は、身を粉にしても報いきれない、このことを教えてくれた人たち(師主)に対する恩徳もまた、骨を砕いてもすまないほど大きく有り難いもので感謝すべきことだ」と思っている。念仏合掌。

 ・この書の後に、「即如ご門主御巡回記念二〇〇三(平成十五)年二月五日」とあるので、当時、(先代の)「即如門主」(浄土真宗本願寺派第24代門主釋即如/諱は大谷光真宗主)が、九州巡回の砌に浄万寺を訪れたことが伺える。
 このことを名誉なこととして、その記念にこの親鸞聖人像を建立されたのだろう。なお、本堂も真新しい感じがするが、その頃に建て直されたものだろうか。

 ・脱線するが、かつて金峯山寺(世界遺産)の管長猊下が、小生が主管する修行道場に巡錫来訪されたことがあり、そのとき大変名誉なことと思ったので、その気持ちが伺えるが、改めて思い出してみるとその記念になるようなものは何も作っていなかった。


 「旧辻井戸と現手水鉢」

6浄万寺龍の口水盤 ・山門内に、一基の手水鉢(石盤)が置いてある。

 そして、この手水鉢の縁に、精工に作られた小さな龍の彫像(蛇口)が身を乗り出すように置いてある。

 
 この手水鉢に溜める水が、この「龍の口」から吐き出される構造となっているのだが、この手水鉢を観ていて、かつて赤間宿ありし時代に、浄万寺にも旅の人馬に井戸水を供する辻井戸があったことを思い出した。
 今、唐津街道や鯖街道を旅する人馬の往来などはないが、見方を変えれば、この石鉢は、かつての「辻井戸に代わるもの」かもしれないと思った。
 因みに、赤間宿にあったとされる七か所の辻井戸は、現在二か所のみ形だけだが残っている。


 「浄万寺の由緒(史料)」

 ・「浄萬寺 ホンマチ 眞宗西 佛堂五間半四面 清涼山と號す。本願寺に属せり。開基の僧を等圓といふ。年月詳ならす。等園ハ弘治の頃許斐嶽の城主占部某か遁世せる也。此寺むかしハ田久村にありしか、第三世西照といふ僧、茲に移せりと寺記に見えたり。」筑前國續風土記附録。

 ・「浄万寺 本町に在。真宗西本願寺に属す。開基の僧を常圓と云。弘治の比許斐岳の城主占部氏の族也と云。はしめは田久村に在しか、第三世西照と云僧茲に移すといふ。」筑前國續風土記拾遺。

 ・上記二つの史料によると、開基の僧は、「等圓」、若しくは「常圓」(※弘治の頃に遁世した許斐城主占部某)ということになるが、浄万寺伝道会館前の来歴碑には「當圓」となっている。

 ・なお、弘治は1555年〜1558年までで、室町幕府13代将軍・足利義輝の時代(戦国時代、義輝はその後の永禄の変で討ち死する)、時の宗像大宮司は氏貞である。
 また、田久村は、現:宗像市田久(赤間宿の南、辻田橋、赤間1丁目の先、西側、田久瓜ヶ坂遺跡田久の釈迦堂二宇と薬師堂(宗像市田久)=宗像四国東部霊場などあり)である。
 
 ※次回→「郡屋跡・御茶屋奉行役宅跡・下代役宅跡/唐津街道赤間宿跡26(宗像市)」。

keitokuchin at 19:06│Comments(2)

この記事へのコメント

1. Posted by 最近   2019年10月23日 07:09
たまにこの赤間にある神社のことを調べているとこのブログにたどり着きます。面白い歴史、考察が書かれており、読むのが大変楽しいです。
2. Posted by keitokuchin   2019年10月25日 22:22
最近様
コメントありがとうございます。試行錯誤しながら書き上げていますが、励みになります。

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「石松邸(橋口屋)・吉田邸・石松邸(蔦屋)」唐津街道赤間宿24(宗像市)」「郡屋跡・御茶屋奉行役宅跡・下代役宅跡」/唐津街道赤間宿跡26(宗像市)