「赤間本町(古町)通り・浄万寺」唐津街道赤間宿25(宗像市)「御茶屋(本陣)跡」/唐津街道赤間宿跡27(宗像市)

2019年10月27日

「郡屋跡・御茶屋奉行役宅跡・下代役宅跡」/唐津街道赤間宿跡26(宗像市)

 ※前回「本町(古町)通り・浄万寺/唐津街道赤間宿跡25 (宗像市)」から続く。

 ・江戸時代、福岡(黒田)藩は、赤間宿に藩と係わる各種の施設を多数設けた。
 このうち、本町(古町)通りには「郡屋(ぐんや)、黒田藩御用米倉庫、御茶屋奉行役宅、下代役宅」等が、唐津街道筋には「問屋場(人馬継所)」「御茶屋(脇本陣)2か所」等が、また、上町上ノ番の後方、つまり、本町(古町)の浄万寺などの後方にある高台(現城山中学内の西側)に「御茶屋(本陣)」があった。

 ・「問屋場跡」や「御茶屋(脇本陣)跡2か所」「御茶屋(本陣)跡」については、既に掲載した。ただし、「御茶屋(本陣)跡」については、次回、改めて記載する。
 また、本町(古町)通りにあった「郡屋、黒田藩御用米倉庫、御茶屋奉行役宅、下代役宅」の跡地(現在はすべて民有地)等については、今回掲載しておく。
 なお、これらの施設は、明治元年閏四月の王政復古(明治維新)による体制の変化によりすべて廃止され(それでも御茶屋(本陣)跡の遺構のみは、昭和50年(1975)まで残っていたらしいが)、現在、現存している施設はない。


 [郡屋(ぐんや)跡・黒田藩御用米倉庫跡]

1郡屋跡付近 ・江戸時代の赤間宿には、本町(古町)通りの一画に「郡屋」が作られていた。
 その場所は、現在の四丁目パーキングと、その両横の民家がある辺りに渡っていたのではないかと推定されている。


 ・「郡屋」は、郡奉行や村役人等が詰めている所で、詰所、集会所、番所とも言われる施設で、「筑前27宿」のうちの主要な宿場、及び主要な村落に置かれていた。

 (※「筑前27宿」…筑前の宿場は、九州諸藩の利用が高かった長崎街道の「筑前6宿」と、その他の街道の「筑前21宿」とに区分されるが、「筑前27宿」はこの合計である。「赤間宿」は、唐津街道の宿場なので、「筑前21宿の一」である。)

 ・福岡藩から郡奉行に重要な伝達があったときは、郡奉行が代官(赤間宿の場合は御茶屋奉行)、下代、当地・周辺村の大庄屋や庄屋、組頭などを「郡屋」に招集し、その対応策についての協議し役割分担等を行った。

 ・特に、諸大名の参勤交代が通行するときは、大庄屋や街道沿いの村の庄屋、組頭らも「郡屋」に詰め、行列の休憩等に必要な筵(むしろ)や菰(こも)などの諸道具を収納してある郡屋内「倉庫」から運び出し提供するために采配を振るったという。


2郡屋黒田藩御用米倉庫跡 なお、赤間宿郡屋内にあった倉庫は、その北西部(現在、民家あり)にあったとされる「郡蔵(黒田藩御用米倉庫)」と並んで建っていたのではないかと想像する。




 赤間の郡蔵は、安永4年(1775)年に上西郷、津屋崎の郡蔵と合せて建てられたといい、宗像市史に御囲い米は3800俵、又は4800俵とある。

 ※因みに、赤間村を所管する大庄屋は、徳重触大庄屋といい、文政2年(1819)〜3年(1820)に赤間村出光卯惣太(赤間宿の蛭子屋酒店か)が徳重触大庄屋に任じられたことある。
また、赤間宿の庄屋は、神山油屋と出光恵比須屋が代々勤め、一時、舩津家、鎌屋、滝口新屋が務めたこともあるという。


 [御茶屋奉行役宅跡]

3御茶屋奉行役宅跡付近 ・江戸時代、赤間宿の「御茶屋奉行役宅」は、御茶屋(本陣)の石段下から本町(古町)通りに下る路を下った角地の左側にあったようだが、明治維新で廃止され、現在、当地には民家(民有地)があり、当時の建物は残っていない。


 ・赤間の御茶屋奉行(通称:代官)は、福岡藩内の主な宿場に置かれた御茶屋奉行の一で、宿場全体の管理と御茶屋の管理、及び参勤交代で通行する大名等の送迎などの業務を行ったとされている。
 因みに赤間宿を通行し、また宿泊に利用した大名は、福岡藩のほかは唐津藩だが、幕末には薩摩藩も利用したことがあるようだ。
 
 ・また、ここは、赤間宿下町の御茶屋(脇本陣/新屋)にも近く、宿場の管理上何かと便利な地であったと思われる。

 ・御茶屋奉行役宅には、御茶奉行に任命された福岡藩士(馬廻組)が時に応じて派遣され、駐在したが、常駐の役職ではなかったようだ。
 なお、赤間宿に派遣された御茶屋奉行の名に、神屋宅右衛門目鼻、小河次右衛門、平賀伝左衛門、月形三太郎などが記録されているという。


 [下代役宅跡]

 ・「下代」とは、上記御茶屋奉行の下に置かれた現地採用の役人である。

4_実緻鯊霎彙 ・御茶屋奉行が常駐していなかったので、いつもは「下代」という役人が、必要最低限の奉行の役割を代行していたのではないかと思う。




 ・文化九年(1812)の記録に、石田専七(二人扶持六石)、池田半蔵(二人扶持六石)の名があるという。

 ・下代が常住していた屋敷が「下代役宅」であるが、その役宅は、‐万寺の右隣、現在、民家がある辺りにあったのではないかと聞いた。

5下代役宅跡地 また、∨詼の頃には、現在、Advancedアパートが建っている辺りに下代役宅があったのではという話も聞いたが、詳細は分からない。




 ※次回→「御茶屋(本陣)跡/唐津街道赤間宿跡27(宗像市)」。

keitokuchin at 23:58│Comments(0)

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