「郡屋跡・御茶屋奉行役宅跡・下代役宅跡」/唐津街道赤間宿跡26(宗像市)唐津街道赤間宿跡(宗像市)・目次 

2019年10月31日

「御茶屋(本陣)跡」/唐津街道赤間宿跡27(宗像市)

 ※前回「郡屋跡・御茶屋奉行役宅跡・下代役宅跡」/唐津街道赤間宿跡26 (宗像市)」から続く。

 [赤間宿の御茶屋(本陣)跡]

 「御茶屋(本陣)跡地の場所」

 ・所在地 宗像市市陵厳寺1丁目13-1
  宗像市立城山中学校内南東部(遺構は現存しない)

1御茶屋本陣跡付近 ・「赤間宿の御茶屋(本陣)」と云うが、所在地の字は、赤間ではなく、赤間と隣接する陵厳寺である。
 (旧:宗像郡陵厳寺村字寺田)。




 ・なお、終戦後の昭和23年(1948)頃までは、「茶屋の辻」という小字があり、その頃まで、明治元年閏四月の王政復古(明治維新)により廃止された「御茶屋(本陣)」の跡に建てられた個人邸宅と森があったようだ。


2御茶屋本陣案内碑 ・赤間宿「御茶屋(本陣)跡の案内碑」は、県道75号線「赤間上町🚥」の北西55m先の左側(曲がり角)、即ち宗像市立城山中学校グランドの南東部の柵の外側の法面に設置してある。


 だが、かつて「御茶屋(本陣)」があった場所は、ここより少し西〜北西部辺りだったようだ。(画像の左方)。


3城山中学校門坂下 ・なお、ここは、猿田彦神社の上方(坂上の高台)にある「城山中学校校門」から中学校内に入ると、その校門より右側の一帯ということになる。




 だが、昭和50年(1975)頃、城山中学校校地の拡張整備がなされ、同所は、現在のような起伏のない平坦地に整地されたので、現在、「御茶屋(本陣)の遺構」を探ることはできない。

 ・つまり、当時、地元で、この地にあった「御茶屋(本陣)跡」に想いを寄せるような人はいなかったようで、昭和23年(1948)頃まであった個人所有の建物がなくなって以降、その跡地の発掘調査はされないまま、跡地があった高台(丘陵)を削平し、その土で、石段下の低い地にあった畑地を埋め立て、石垣を造り現在の高さに整地されたようだ。

 ・その結果、「御茶屋(本陣)跡の遺構」は、このとき、完全に滅失したのである。

城山中南東部遠景 もし、現在、その遺構が残されていたら、その復元ができ、赤間宿のシンボル的存在にもなり得たかもしれないが、今となっては何とも致し難いものである。




 「御茶屋(本陣)案内碑」

 ・上記の「御茶屋(本陣)案内碑」には、次のように記されている。

4本陣案内碑5御茶屋本陣碑建物配置図








 「黒田藩御茶屋(本陣)は、参勤交代の始まりにより、宿場と共に設置され、藩主や巡見使、奉幣使の宿所となった。慶応元年(1865)は、攘夷派の公卿三条実美ら五卿とその従者50人が、25日間御茶屋に滞在した。その間に全国からはせ参じた勤王の志士たちは、西郷隆盛、高杉晋作、中岡慎太郎、地元の早川勇ら100人ほどにもなった。御茶屋は、現在の城山中学校の敷地内にあった。(建物配置指図添付) 昭和24年2月作成」と記している。

 ・この案内文は、五卿落ちの三条実美らが宿泊したことに重点を置いて記されているように見受けるが、明治維新後、彼らが赤間宿に対して恩返しをしたとは思えない。ただ早川勇の出世のきっかけを作ったことだけは確かであろう。

 ・「御茶屋(本陣)」設立の要は、福岡藩が参勤交代のとき藩主が宿泊する「福岡藩赤間別邸」として建てられたことである。
 この御茶屋(本陣)・福岡藩別邸の施設は、参勤交代で唐津街道を通行した唐津藩(幕末には薩摩藩も)の大名(藩主)の宿泊所にもなったので、「本陣」と称するのだろう。

 ・加えて、御茶屋(本陣)は、「巡見使」(「巡検使」と書いた史料もあるが間違いか)や「奉幣使」等の宿舎としても利用された。
 「巡見使」とは、江戸幕府が大名・旗本の監視や情勢調査を行うために諸藩に派遣した臨時の上使役人のことで、また、「奉幣使」とは、天皇が諸国の神社や霊山に幣帛(へいはく)を奉献するために派遣した勅使のことである。

 ・蔦が岳-楽天ブログ赤間地区の年表を見ると、九州を巡った「巡見使」が享保二年(1717)、宝永七年(1757年)、宝暦十一年(1761)、天保九年(1838)に、また、「奉幣使」が文化元年(1804)と元治元年(1864)に赤間宿を訪れていることが分かる。

 因みに、筑前二十七宿のうち、十九宿に御茶屋(本陣)が設けられていたともいう。
 そのうち、現在知られているのは、筑前二十一宿では「雑餉隈、前原、姪浜、箱崎、青柳、赤間」の六宿と、筑前六宿では「黒崎、木屋瀬、飯塚、内野、山家」の五宿(※原田には町茶屋1軒のみで御茶屋はなかった)、計十一宿である。

 
 「御茶屋(本陣)見取り図(指図)」

 ・案内碑に添付してある御茶屋(本陣)の建物配置見取り図(指図)は、天保五年(1834)作成の「赤間宿御茶屋(本陣)指図」(福岡藩御用大工林家文書/九州歴史資料館蔵)だと思われるが、その画像(上記)は、かなり不鮮明で分かりづらい。

 ・その図面を複写清書した指図(写)が手持ちの「宗像と出光佐三」に載っていたので転写し、ここに掲載させてもらう。
 なお、この掲載図面は右方が北である。

6御茶屋本陣建物指図 ・この指図によると、南東部にかなり高い「石段」があり、その上の高台の正面に「表御門」があり、そのなかに「御駕籠部屋」や、家臣らが待機する「腰掛」がある。



 ということは、大名(藩主)は、この石段を御駕籠に乗ったまま上ったのだろうか。
 しかし、よく図面を見ると、「御駕籠部屋」の左上に坂道らしき通路が描かれているので、御駕籠は、この坂道を上ったのではないかと考えられる。
 もし大名(藩主)が、石段の下で御駕籠を降りて、「表御門」から御茶屋(本陣)に入ったのであれば、この急な石段を歩いて上ったことになり、その後で、上記の坂道を空御駕籠が上ったことになる。
 こんなことを考えて、そのときの様子をあれこれ想像していると、結構楽しくなる。


0現地形との重ね合わせ想像配置図借用 ・唐津街道歴史研究所「赤間宿の御茶屋」掲載の、現地形と重ね合わせた配置想定図(※お借りします)を見ると、「石段」は、現赤馬館駐車場の(今は崖に埋もれた)西側の若干左寄り、つまり現城山中学校通学路の横に並行するようにあったようだ。



7御茶屋本陣跡 ・現在、赤馬館駐車場の西側の境界線は、城山中学校グランドの崖下となっているが、このグランドができる前は、境界から数m先までは赤馬館駐車場とほぼ同じ高さの平地だったと思う。


 つまり、ここが、上記した昭和50年(1975)頃、城山中学校グランドが作られたときに埋められた畑があった低地だと思う。

 ・また、この石段の上の「表御門」が建つ高台の右方に、御茶屋(本陣)の主要部である「御居間八畳、御次間拾畳、御次間拾畳」と書いた部屋があり、ここが福岡藩主ほかの、上記藩主や巡見使、奉幣使、及び五卿らの宿所となった部屋だろう。

 ・そのほか、「御玄関(御式台あり)、行燈部屋御広間(藩主と上級武士が会見した部屋か)、御前立拾五畳拾二畳半御台所弐拾弐畳御下台所土間御手水所御小用所御香隠御湯殿東屋御番所(3か所)、練塀(表御門内の囲み、北西部)」等の記載がある。

 ・このような高台(丘陵)に御茶屋(本陣)を作り、要所を練塀で囲み、要所に番所が設けてあるので、この建物は、防御機能を備えた小砦を想定して作られたようにも思える。


8御茶屋本陣案内碑から城山 ・左上(北西部)の練塀の外に「」が見えるが、この池には、後背に見える「城山」の清い山水が流れ込んでいたのかもしれない。





 当時、現城山中学の校門辺りから、赤間保育園の東に入り、その南側を通って猿田彦神社西横の道路に流れ落ちる水路があったようなので、ひょっとしたら、この池の溢れ水もこの水路に流れ込んでいたのかもしれない。だが、多分、明治維新後に、城山の裾を削り鉄道が走ったことで、この池や水路も無くなったのではないかと思う。

 ・繰り返しになるが、この御茶屋(本陣)が建っていた高台(丘陵)や石段下の低地は、昭和50年(1975)頃、城山中学校校地の拡張整備による削平、埋め立て等により、すべて消滅したので、現在、その遺構の一部も見ることはできない。


 「御茶屋(本陣)の表通路と表木戸御門跡」

 ・往時、御茶屋(本陣)の石段下から(今の赤馬館駐車場内の縁を通って、赤間宿上町通り(唐津街道)に直線的に伸びる専用路があった。
 その上町通り口には、御茶屋(本陣)への通路の入口を示す「御茶屋(本陣)表木戸御門」(正式名称は分からない)が建っていたという。

 ・上記した大名(藩主)の御駕籠(行列)や巡見使、奉幣使などは、必ずこの通路を往来したと考えられ、参勤交代時には、下町新屋及び上町の御茶屋(脇本陣)に宿泊した家臣団と御茶屋本陣をつなぐ通路でもあったと考えられる。
 しかし、明治維新(王政復古)により、御茶屋(本陣や脇本陣)が消滅し、その専用通路としての必要性がなくなった。

 ・その後、「表木戸御門」があった部分の通路は払い下げられ民有地となり、この部分の専用通路は消滅した。
 明治26 年(1893)、ここで藍玉業を行うために出光藤六(出光佐三の父)が町家を建てた。この町家は、現在「出光佐三の生家」と称されている。

10-2出光佐三の生家後ろ側10出光佐三の生家








 ・なお、「表木戸御門」の筋向いには「制札場」(「札ノ辻」ともいう)があった。
 「制札場」は、宿場と次の各宿場との間の距離を測る基点で、言わば各宿場の中心地点である。
 また、ここには、次の宿場までの人馬賃銭等の掲示や、藩からの重要なお触れ(通知)を掲示した。
 赤間宿の場合、この「制札場」が木戸表御門の真向かいに作られていたので、宿場の中心地点にある「制札場」としては最適地だった。


9本町〜本陣通り ・因みに、赤馬館駐車場から本町(古町)通りに出る里道がある。
 この路は、往時、御茶屋(本陣)の石段下から左横に行くようにつながっていた。



 現在、本町(古町)通りに出る地点の右側は宗像市消防団第2分団格納庫があるが、この左側の角地に、往時、「御茶屋奉行役宅」があった。

本町下代役宅跡付近 また、本町(古町)通りには、「下代役宅」や「郡屋」もあったので、この通路は、御茶屋奉行や下代らの関係者が、その役宅等から御茶屋(本陣)に通った脇通路だったと思われる。



 ・本稿を以て、今回の「唐津街道赤間宿跡」の散策記を終了する。長くなったので、次回、目次を掲げておくことにする。

 ※次回→「唐津街道赤間宿跡(宗像市)・目次」。

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