先月、納品の報告も兼ねて拙ミニコミ誌の新刊『台東定食遺産』の中から、中身の参考にと「日の出」というトンカツ店の記事をUPした【該当記事】。その記事に、寄稿もして頂いた古利根氏よりコメントを頂いたのだが、それによると、誌上で紹介させていただいた「大木」という古くからの小体な洋食店に、どうも拙著を読んで押しかけたと思しき団体がいたというのだ【コメント部分】

この報告を頂いて、愕然とした。

そして、どうしてもここで表明しておかねばならないことがあると思うに至った。
以下、長い文章だが、一読いただきたい。
拙著はミニコミ誌として頒布している。私個人の手でつくっているもので、小部数が極限られた範囲でしか流通していない。まさに、ミニ・コミュニケーションなわけだが、同人誌でもある。同人誌と表現するとヲタク文化的なニュアンスが付きすぎてしまっている。アニメやマンガ表現を用いていない誌面なので誤解が生じぬよう、同人という言葉を用いぬようにしている(別にいわゆる同人誌を蔑視はしていない。区別しているだけだ)。そもそも同人とは、趣味を同じくする人間が集まるから同人なのであって、原則一人で活動している自分の場合、個人誌となるわけだが、限られた範囲でも手にとってもらえる人がいるから活動を続けられるわけで、嬉々として毎号購読いただいてる方々とは共通の趣味を持つ同人である、という意識で私は同人誌でもあると思っている。
そうしたミニ・コミュニティであるが故に、書けることがある。だから限られた読者の中でも成立する表現があるはずだ。本来、「大木」や「日の出」といった、常連や地元民のオアシスのような店は白日の下に晒すべきではない。当ブログ上では散々述べているが、これは常連じゃないと入っちゃいけないとかいう、選民意識ではない。だれでも均一なサービスをというファミレスやファストフードなどとは違う飲食形態だからだ。小さくても、少々コ汚くても、気安く落ち着ける店。チェーン系とは違うサービスを欲したい時、なくてはならない存在。だからキャパは小さいし、小さいからこそ店の人の目が届き、目が届くことで初めて可能なサービスが成立する。だから、余所者がワンサか入ってこれない程の小さなキャパで納まっている。席が多少空いてるから入れるとか、そういう問題ではない。みな、大抵一人客、それを心得ているのが多くて2〜3人で、大声で話さず、それぞれ好き勝手にマタ〜リしているのだ。そこに席を詰めたりして、ムリヤリに5人とか8人で詰め掛けても、全員同席はムリがあるし、出来たとしてもその空間でみんなでくっちゃべれるだろうか。店主だって普段せいぜい2〜3人分一緒につくるのが精一杯だろう中、その人数分いっぺんには出来ないし、その状態で接客などのサービスを求められようはずもない。もし地元民や常連で大人数で押しかける時は、ピークタイムを外すとか、メニューをある程度まとめるとか、客が水汲みや配膳など、声をかけながら様子を見ながら店の手伝いをし、少しでも負担軽減を自然とするものだ。
私が拙著を同人と呼ぶのは、誌上で扱っているような、こうしたタイプの店を楽しめる心の広さを読者が持っていると信じているからだ。店では、撮影の許可を得るケースが多いが、正直、取材許可までは得ていない。拙著はブログをまとめて1冊にするという基本スタンスを取っているので、ブログ掲載の許可までイチイチとってられないほど、取扱店舗数も多い。宣伝効果だってないし、掲載誌を送れるほど刷ってもない。許可を取ったところで、迷惑な輩が減るわけではない。本当に、面白がってくれる同人の間だけの趣味誌でありたいし、そんなに売れてないから、どう頑張っても今の活動を続ける限りはその範囲は出ようもない。
しかし、仮に「大木」にいたという団体が拙著を読んでいたとして、こうしたこちらの想定範囲を超えた不逞の輩が出てくるとなると話が変わってくる。掲載許可を貰う・貰わないの問題ではない。それを超えて、扱っていいのか、悪いのかになる。その意味で言うと、今回の『台東定食遺産』で取り上げた店の殆どが非掲載となる。どこも、誰にも教えたくないような、ドメスティックで地域に根ざした愛すべきフツーの店ばかりだから。自分でつくり、限られた場でしか頒布しないから、こうした店が載せられた。しかし自分がしたことで、こうした店が荒らされるようでは、掲載店の選定を、ダレでも受け入れられるような店ばかりで行わなければならない。それじゃフツーに売ってるガイドブックと同じじゃないか。そうなったら自分で本を作る意味も価値もない。仕上がりで見劣りする同人誌でしかも値も張るとなれば、そんなもんダレが手に取る?
今のところ、本誌の一番最初に「お願い」として、小規模個人店や路地裏の生活空間を歩く上での心得、というか当然持ち合わせているべき当たり前のマナーを不本意ながら掲載している。なのに関わらず、それを無視する蛮行が行われているだとしたら、自分の文章など全く読んでいないのだろう。パラパラとページをめくって、オモシロそうだからと冷やかし半分で団体で繰り出す。古利根氏のコメントによると、なんか読んだと思しき人間が説明を仲間にしていたようだが、読んでいてもなお、団体で押しかけるなら、それは本当の意味で読んでいない。こういう店の良さを心底身をもって感じていない。自分の表現力のなさかもしれないし、そこは反省点でもあるのだが、仮に自分の本を読んでなかったとしても、状況に応じてやっていいことと悪いことがある。なんにしても本当に「大木」のマスターには悪いことをしてしまったと、暫くは敷居は跨げないなと、申し訳ない思いで一杯だ。もしその団体を引き連れた人間がこの文章を読んでいたら、菓子折り一つでももって、私のことなど一言も触れずに、先日はお騒がせしたと営業時間終了間際にでも行って謝ってきてほしい。広く出回ってるものとはじゃなくてちゃんとした店のものをだ。ぜったいにマスターは悪くはいわないだろうが、だからって気を良くするんじゃない。怒られたから謝るんじゃなくて、礼節をもって日々をおくってほしいものだ。

とはいえ、私自身そんな偉ぶれる人間ではない。今思えば穴があったら入りたいほどだが、本当に人より失礼な男で、さんざん周りに迷惑をかけてきた。しかし、自分を叱ってくれる人が居たことで、それを恥ずかしいと思えるようになった。まだまだだが、少しは周りが見れるようになったとは思う。
そもそも気がつくようになる素地をつくってくれたのが、子供時分の駄菓子屋のババアだったり、個人店の店主だった。「それくらいイイじゃん!」って思うこと、ほんの些細なことが、日々の中で度重なると本当に失礼なこととなる。自分が良くても他人には良くないことだったりする。自分と同じ年恰好の人の間だけでOKなのかもしれない。そうじゃないってことは、地域社会の中で育まれるものじゃないだろうか。本来、近所や駄菓子屋などの商店といったものがそれを担っていた。そうしたものが稀薄になることで、気づくことが出来なくなっているのではないだろうか。
それは何も若い人間に限ったことではない。「大木」の例のように、寧ろ年配者の方が厄介だ。若いうちは自分のように、気づかせてくれる存在が居れば気づくようになる可能性があるが、齢を重ねると怒れる人間がいなくなるのでたちが悪い。いろんなことが歳月を経て許されるようになり、いつしか自分さえ良ければが肥大化し、電車で見かけるような、周りをなんら省みないオバチャンなんかが出来上がる。小さい頃は地域に育てられたであろう人間でさえ、その環境から遠く離れると、忘れてしまうのだ。

私は現在、珈琲店を自営している。路地裏の本当に小さな、店と呼べないような店だが、メディアで紹介いただいたり、クチコミサイトでのクチコミもそこそこの件数いただいている。その中で、一時期、接客態度の悪さをよく指摘された。そうした指摘はサイトやブログ上でも散見できる。メディアではカフェとして取り上げられがちだからだろう、いわゆるカフェのイメージとのギャップから生じている現象だと思っている。
カフェであろうがなかろうが、一地域の小規模個人店としてのある接客サービスに一貫して努めている。それは「よくしてくれる方にはよりよく、それなりの方にはそれなりのサービスしかしない」ということだ。もちろんダレにでも丁寧なサービスを心がけている。しかし他の方に迷惑をかける方もいるのは事実なわけで、私自身の独断の思想とかでなにかを強いるということはしない。貸切ならともかく、店の中といえども他人同士隣り合う空間だから、そこにはマナーがなければならない。この店はどういう店なのか、広くて皆がおしゃべりしていればいいが、そうでないのなら、他の方の過ごし方を邪魔するような行為は慎まねばならない。しかしクチコミや弊店のノートなどでは、弊店のルールに従う的な書かれ方がされてしまう。ウチの独自ルールなど存在しない。公共のマナーだろうが、結局、先述したように、「それくらいイイじゃん!」って思われてしまう。それで、あそこの店主は偏屈だとか●山珈琲と同等だとか書かれるのは心外なのだが(ダレも30分で出てけ!とか言わないって)、まぁ自分がなんといわれても構わない。そういうカキコミをしない、チョイチョイ通ってくれる方がいるってことで、自分の、地域の中の小さな商店としての役割が果たせているなぁと実感できている。
商品の価格はダレにでも均一だから(まぁ多少はいつも世話になってる方にはサービスしてるけど経営的にシンドイんでナカナカ…)、接客サービスで感じ取ってもらえるよう、努めている。こうした行為は個人店では当たり前のことでも、小規模店に慣れてない、雑誌見てオモシロ半分で来るような方にはシンドイようだ。でもそれをやらないと、ただでさえ現在成立しづらい小規模飲食店なのに、今後ますますなくなってしまうだろう。経営者が高齢だったり跡継ぎがいなかったりで、どんどんなくなっている。小規模店舗にしかない安らぎ、落ち着きの空間がないと困る人間が居る。それは私自身でもあり、拙著やこのブログを読んでいるアナタとて同じだと信じている。その土地の特色の出る、地域性の高い小規模飲食店だからこそ、その土地のことも自然と体感できるし、そうした小さな個の集合体が路地であり、町ではないか。これぞ「町並み」だろう。だから私は食べると共に町を見る。路地を歩く。そして路地で店を開いている。
この空間を守り、公共性を伝播すべく、私は記述すると共に店を営業しなくてはならない。自分の店のある谷根千と呼ばれるエリアは非常に特異な地域で、下町の代表的イメージが付いたため観光地と化しているが、下町のイメージとはそもそも日常のケ、ハレとケでいうケの空間だ。観光とは非日常のバカンス的側面を持つ、いわばハレの行いだろう。谷根千に来るのは勝手だが、そこはケであるからこそ、下町的イメージが保たれているわけで、そこにハレの要素で踏みにじると、ケの空間は崩壊する。実際、観光客相手にイメージだけでつくられたようなハリボテ的観光地にしている箇所がないわけではない。寧ろその方が多いのかと勘ぐってしまうほど、実際のケの空間は少なくなっている。自分自身、店をやる前は、土日というハレの日に散策に来ていたのだから、人のこと言えた義理ではないが、それでも殆ど一人、せいぜい2人で、生活している人の邪魔にならないよう、そっと路地を徘徊した。十数人で押し寄せて大騒ぎしながらカメラ構えて人がいようが下着干してようがお構いなしにフラッシュ焚いてシャッター切ったりはしなかった(いや本当に多いんだって!年配者に限ってそんなんばっかですよ)。
観光地でありながら下町的であることも求められるという、どっちつかずの、非常にマージナルな土地で、しかも自分の店自身、地域密着のフツーの喫茶店でもなく、メディアに出てもいながら、路地の狭小店舗であることに変わりないという中間的な存在だからこそ、小規模店舗のありようを、それを忘れた、もしくはそもそも知らない方々に伝えられるのではないか。直接こうして述べられるわけでもなく、また述べたところで伝わりにくい感覚的なものであるから、非常に難しい。もどかしい。でも、なくなると自分が困るから、困る同人が居るから、店も、本づくりも、続けていくしかあるめぇ〜