August 27, 2013

いやー

この週末、某国際機関にお勤めのプロフェッショナルお二人を含む、割とガチな議論に参加する機会があったんだけど、マジで勉強になったなあ、と。ちなみにそのお二方は、僕が大学時代にブログを食い入るように読んでいた方々なので(当時お二人はまだ米国留学中でしたが)、実はディスカッションに参加するに当たり、割と緊張していました。本音を言うと(笑)

ちなみにセネガルにいらっしゃるお一方は、大学時代に一度だけ議論&飲みをさせて頂いたことがあったので、実は「お久しぶりです!」が正しくて、初めて議論させて頂く訳ではなかったんですけどね。

トピック自体「アフリカ×金融」というなかなかホットなもの(かつ僕が無知なもの)だったんだけど、それよりも何よりも、その討議のレベルが高過ぎてマジ感銘を受けた。

イシューの設定の仕方も、そしてそこへの切り込みの深さも、討議のスピードも、知見の広さも(これは向こうが専門なので当たり前っちゃ当たり前なんだけど)、ちょっとこれまで過去にビジネスの世界では経験したことが無いくらい・・・(恥ずかしい限りだけど)まあ、佐藤俊樹先生とか酒井哲哉先生のゼミで経験した気がするけどw

あ、昔一度だけあったな。日本有数の某投資ファンドのトップパートナーとの議論は、ああいうレベルだったなあ・・・

どちらにせよ、マジ焦るわー。数年でああいうレベルになるには、少なくとも何かしらやり方なり環境なりを変えないとなーと思わされた経験でした。。。

ちょっと、あまりに興奮し過ぎた日曜日だったので、ブログを更新してしまいました(笑)



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April 21, 2013

文明の衝突?アメリカという国家の統合理念の後退?


今回のボストンの事件では、関連するいくつかの報道を眺める中で、犯人とされる兄弟がアメリカ「社会」に溶け込めていなかったという記述をしばしば目にしました。
http://www.asahi.com/international/update/0421/TKY201304200396.html 
(朝日新聞:孤立深め、過激思想か ボストン爆破テロ容疑の兄弟)

僕にとっては、ここで想起されるのが、マイケル・ウォルツァーの『アメリカ人であるとはどういうことか(What it means to be an American)』の議論でした。あれ自体は1990年代に書かれた本(つまり9.11前)だけど、基本的にはアメリカにおける国民のアイデンティティを上手く言い表しているように思います。

あの本の主張は、そんじょそこらの解体してしまった"帝国≒多民族国家"(ex:ユーゴスラビア)とは異なり、我々アメリカは「異なるバックグラウンド」を持つ市民同士が、その相違性を尊重しつつも同じ国民/市民であるというアイデンティティを持つ点においてユニークであると。

そして、アメリカをアメリカたらしめる上で、バックグラウンドを持つことも、アメリカ市民であることも、同時に尊重されることが制度的にも社会的にも担保されていることが大事(そしてアメリカはそういうことが出来ている国である)と、そういうような話だったように記憶しています。

つまり、アメリカは、本質的に移民国家である、と。

ウォルツァーの指摘では、このアメリカにおける国民(社会)統合で大きな機能を果たすのが、一定期間アメリカに住んだ移民に対して与えられる各種の社会参加の権利だということだったように、記憶しています。

5年?アメリカで過ごした移民は参政権とか永住権とかもらえるんだよね?
でも、先に紹介した朝日新聞によると、どうも兄は市民権を獲得できなかったらしいし・・・(10年以上住んでいるにもかかわらず)
それに、過去にFBIから取り調べを受けているらしいし。しかもその当時はイスラム過激派とは何の関連も無かった(模様)というのに・・・

なので、ここで注目すべきは、9.11以降、東欧系−アメリカ人、中国系−アメリカ人、日系−アメリカ人・・・という多数の「○○系−アメリカ人」の中で、「イスラム系−アメリカ人」は、本当にその他のバックグラウンドを持つ市民と、同等に扱われてきたのだろうか、という点だと思います。(答えはNoでしょう)

もし、今のアメリカ社会が、バックグラウンドである「イスラム系」というタグを元に、そのイスラム系−市民をその他の○○系の市民と峻別するようなエートスがあるのであれば、おそらくウォルツァーが見たような「アメリカにおける国民統合の理念」は、9.11以降大きく変容してしまった、ということになるんじゃなかろうか、と思うのです。

21世紀の世界でハンチントンの言う「文明の衝突」(という単純な図式)を回避する上で、(ウォルツァーが指摘したような)アメリカの持つ(否、持っていた?)「寛容性」が鍵になると考えていた、という個人的な立場からは、今回の事件は「イスラムにおけるアメリカへの恨みの深さ」の再確認という文脈ではなく、「アメリカ社会の寛容性の後退」という文脈から、とても残念に思います。

まあ、一番の問題は、僕がアメリカの本土に行ったことがないので、実感として先に書いたエートス(空気感)を捉え切れていないという点と、そもそもウォルツァーの書いた「アメリカの国民統合の理念」が的を射ているのかどうかもよく分からない、という点なんですけどね。



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January 26, 2013

教職員の駆け込み事件に際して考えたこと―日本の空気感―

今回の教職員の駆け込み辞職の件について、先日書くと言っていたことをつらつら書こうと思います。

 

Batsuhitoくんからは「職業倫理を梃子に退職金支出額を抑制した今回の制度設計者は、世代間公平性という観点から評価されるべき」という意見を頂戴しました。この件に関しては、ぼくは制度設計者がイケてない点こそ責められるべきと書きましたが、Batsuhitoくんの主張は正しいと思います。目的合理性の観点から言えば、制度設計はイケてたのかもしれない。

 

ただし、もし制度設計者が、日本人の職業倫理観および「公僕なんだから給与や退職金をどうこう言ってないで働け」という日本の空気を上手く使ってやろうと考えたのであれば、それはその目的合理性の追求のために使った「手段」として、大いに問題があると考えます。

 

というのは、この倫理観と空気は、大げさに言えば、今の日本の停滞感をうんでいる一つの原因であると同時に、日本と世界の間の大きなギャップ―解消しなければならない―ではないだろうかと、ぼくが考えるからです。そして、今回のようなやり方は、ことが起きている空間が公務員の世界だったということと相俟って、日本人が(昔から根強く)持つ上記の観念を再強化しているように思うからです。

 

付加価値のある仕事をしている人は、それがパブリックであろうがそうでなかろうが、相応の給与は支払われるべき、なんて、資本主義社会に生きていたら当たり前の前提が、多くの日本人にとっては前提でなかったりしますよね。でも、そういうところって変えていく/変わっていかなければならないんじゃないだろうかと。

 

また、「大きな目的のため、崇高な仕事、理想のためであれば、給与が多少少なかろうが、働くだろう」という前提は、現在これだけグローバル化が叫ばれている中では、人材獲得・リテンションの観点から、一番最初に取り払われるべき観念かと。

 

優秀な人材が国家公務員(一種)を目指さなくなってきている原因にもなっていると考えられる上記二つは、官僚の質が国家運営の質に直結している日本の性質上、まったく持って望ましくないと思います。民間で言えば、マネジメント層がこういう職業倫理観や現場のこういう空気に頼っている限り、真のグローバル化や会社の多様化は進まないだろう、と。

 

なので、官僚ではなくて政治家がこういう打ち手の方向性を決めたのであれば、ある種人気取りに走ったと考えて(終わってるけど)仕方ないと思う一方で、官僚自らがこういう施策を具体化・リードしたのであれば、それはそれで、自分の首を絞めているカッコウになっちゃうんじゃないかと思います。

 

以上が、僕が考えた主なことがらです。

 

あと、もう一つ。

 

Batsuhito氏が書いたように、制度設計者(各都道府県?)が「もし辞めるようなやつが出るならマスコミに叩かせて・・・」というような高度な戦術まで考えていたかと言われれば、ぼくはそこまで考えていなかったんじゃないかなあ、と思います。

 

と言うのは、今回の一連の出来事の結果として、教育の現場で混乱が起きている(臨時採用が間に合わないなど)ということから推察しています。本当に戦略的にやるなら、そこまでやってるはずじゃないかと。ぼくは、「給料減っても公僕だし辞めんだろう」という強い前提が制度設計側にあったように思いますが、いかがでしょうか。(というか、内部事情を知っているのであれば、教えて欲しい&いまいち文部科学省の本件への関係の仕方が良く分かっていないのでそのへんも教えて欲しい)


まあ、このどこまで考えていたか問題はあんまり論点ではないのでこのへんで。

 

そして、最後に。(そして、これが個人的に一番重要な論点)

 

自分の視座がいかに低いかと。そして、政策立案・決定に関わる人間の視座を、いかに持ち合わせていないかと。そんなことを思わされた、今回のBatsuhitoくんからの指摘でありました。

正直悔しいですね(そんなこと言ってなんになるのかという話ですが)。自分の身の振り方を考えさせられます・・・

 

とはいえ、Batsuhitoくんにはこれに懲りず、今後とも色々とご指導賜りたいので、引き続き宜しくお願いします。

 

もちろん、Batsuhitoくんに限らず、社会で活躍されている先輩方・同輩・後輩の皆様も、引き続き本年も叱咤激励の程よろしくおねがいします。

 

 



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August 16, 2012

さてさて

すげー久しぶりにブログ更新。

震災とか、色々あって2011年は書く気が起きなかったけど。

別に復活させるかは分からないけど、ちょっと書いてみました。


近頃のテーマは、どうやって自分の人生を生きるか。


悩みは深い・・・


まあ、周りの皆様、今後とも引き続きよろしくです。

kemonomichi55 at 00:52|PermalinkComments(0)clip!考えたこと 

March 04, 2011

メディアの変化について

最近まったくBlogを書いていないんだけど、やっぱりその理由はオルタナティブとしてのTwitterの登場が大きいなー、と思う。もちろん、仕事で文章は書いているので、家に帰った後にまとまった文章を書こうと言う気力がないというのも事実だけど。

 
Twitterが便利なのは、一つはあのサイト(というかアプリケーション?)一つでインプットからアウトプットまで一連の動作で出来てしまうところにあると思う。いちいちログインしたりしなくてだらだら書ける手軽さと言ったらもう!


だけど、今日たまたま仲の良い同期と朝の電車で一緒になり、最近メディアの変化って熱いよね!って議論になった+本当に心をワクワクさせるくらい最近のメディアの変容振りは面白いので、久しぶりに重い筆を手に取りました。ということで、今日は、最近ぼくがメディアについて考えていることのオーバービューをば。(これを元にディスカッションさせていただけると嬉しいっす>なかちゃん!)


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ウェブの登場がメディアと個人の力関係を変えた、なーんてことは色んなところで言われているけど、ブログやTwitterは、今まで発言する場を与えられていなかった一個人が発言する場(≒メディア)を持てるようになったという意味で、やっぱりすごいことだと、最近本当に痛感している。


今起こっている事態って、端的に言うと、既存メディア(テレビ、新聞、雑誌とかね)という権力装置の崩壊だと思うのです。よくメディアは「第四の権力」と言われるけど、それが崩壊に向かっているってわけ。すげー話だ。


ほんの15年前は、本当に人々が情報を得るソースは限定されていたと思う。テレビ局の数なんてどう考えても2ケタだったし、新聞だって3大誌と日経と産経みたいな。


「情報」のバリューチェーン(仮に「現場」⇒「編集(あとでこれは「優先順付け」と「意味・解釈付け」の二つに分けるけどとりあえずここでは編集で!)」⇒「媒体」⇒「人々」という流れとしよう)を考えれば一番分かりやすいと思うのだけれど、世の中に現場で情報を取る「記者」さんっていうのは何万人もいるし(多分)、情報の受け手である「人々」も(日本には)一億人以上いる中で、最もボトルネックが起こっているのが中間に存在する「編集」⇒「媒体」というところだった。ポーターの5Forcesのフレームに従えば、川上たる「現場≒記者」に対しても、川下たる「人々」に対しても、めちゃくちゃ大きいバーゲニングパワーを持っていたことが分かるかと。


その絶妙なポジショニングにおいて既存メディアは、「世の中で皆が考えるべき/注目すべきイシューは何か」を決めることができたからこそ権力を持てた。権力論で言うところの課題設定的(2次元的?)権力というやつですね(杉田敦『権力』に詳しい)。もちろん、選択肢を提示するという権力もあるのだけれど、こちらは課題設定的権力に比べれば重要ではないかと思う。


課題設定とはどういうことかと言うと、「どの記事(≒出来ごと)を(人々が知るべき情報として)紙面に載せ、どの記事を載せないか」また「どの記事に(人々が特に知るべき情報として)どのくらいのスペースを割く(≒プライオリティを付ける)か」ということ。


具体例で言うと、仮に国民の情報ソースとしてのメディアがチャンネルAとチャンネルBしかなかったと仮定しよう。


その際に例えばリクルート事件が起きて、どちらのチャンネルもそのことを放送していたら、国民の意識はみんなリクルート事件に向いてしまうよね。これが課題設定的権力。


本当はバブル経済の動向の方が考えるべきイシュとして大事!と思っていたとしても、メディアが上記のような状況の時は、そもそも考えるための情報が入ってこなかったりする(もちろん、ゼロではないんだけどね。分かりやすくするための極論です)。


※つまり課題設定的権力とは、現在の状況で言えば、京大でのカンニングにみんなの意識を向けることができるという権力(Twitter上ではその課題設定に対する異論が紛失しているけど。)。TL上で指摘が出てるけど、今この状況でおいしい思いをしているのは前原、野田、蓮舫らへんの政治献金問題で名前が挙がっていた人たちでは?という指摘もあるが、そういう人がメディアや警察に働きかけていたら?と考えるとこの権力の重要性が分かるかと。


で、もしチャンネルAが主張A’を持ち、チャンネルB’が主張B’を持って意見を戦わせていると、こういう状況ではどうしても国民の意見はその二つに割れてしまう。本当は何か主張Cみたいなものがあっても、それに思いを馳せられる能力がある人は限られているだろうし、もし一般の人が主張Cを持ったとしてもどうやっても世論に働きかけたりすることはできない。


以上が、僕が理解するこれまでのメディアという権力の在り方。


じゃあ、今起きている変化は、何かというと「編集」という権力の分散化なわけです。


と、ここまで書いたのは良いんだけど正直疲れちゃったからまた今度にします。(ホントに書くのか?w)


まあ書きたい内容をブレッドベースで書くと


・ファクト(起きた事件についての情報)とオピニオン(事件に対する考え)について、これまでは一つのマスメディアに独占されてきたが、今や発信するツールが万人に開かれ、万人がどの発信者の声をフォローするかを決められる


・ただし、WEBメディアが出てきたとは言え、万人がファクト情報を収集できる「記者≒事件の「現場」にいあわせ、それを伝え書く人」になれるわけではない。ゆえに、ファクト情報を提供できる「現場≒記者」の重要性は、”記者がそのファクト情報を伝えるプラットフォーム”さえあれば、基本的に変化しないのではないか。


(ここからはマジでメモ)


・ただし、記者がオピニオンを語れるようになれば面白い。「現場」と「受信者」の直接契約モデルが生まれる?


・非「記者」にも、上手に自らがメディアになる人間がもっともっと出てくる。そういう人間になるには「情報の集め方」と「オピニオンの紡ぎ方」が上手くなる必要がある。そして、この二つは新世代の情報社会におけるメディアリテラシーなはず?


・既存メディアの価値はセレンディピティ(掘り出し物を見つけ出す能力)のみとなってしまうのでは?


ちゅーことで、なかちゃんとのディスカッション、楽しみ♪


※正直、あんまりこれまでメディアに関心を持って来なかったので、ここで書かれていることは基礎的過ぎてつまらないという人いたらマジごめんなさい。


※今回のエントリの一番の示唆であるブレッドらへんも、全然新規性のあること言ってないじゃんつまらない、という人いたらマジでごめんなさい。そして、そういう人にはどういう人がどういう媒体でそうした発信をしているかお教え頂けると嬉しいです。思考が進むので。


※個人的にはブレッドのような話は佐々木俊尚さんの『キュレーションの時代』に書かれているのではないか、と予想している。仮説ですが。


ということで。おやすみなさい。


kemonomichi55 at 03:05|PermalinkComments(3)clip!考えたこと | ビジネス

January 15, 2011

今年も宜しくお願いします

少し遅くなってしまいましたが、あけましておめでとうございます。
今年も宜しくお願いします。

最近Twitterばかりやっているせいで、ブログの更新頻度が落ちてしまってます。TwitterはOutputの手段(≒自分が発信する際のメディア)であると同時に、Inputの手段であるので、何か情報を得てそれについて自分が考えたことをそのまま発信する際には、本当に都合が良いプラットフォームなんですよね。もちろん、他のユーザーとのインタラクションの面白さも、ついついTwitterを使ってしまう大きな理由なのですが。

とは言え、やっぱり何か長く文章を書こうとすると、どうしてもTwitterでは限界があると思っています。やはり140字というのは大きな制限です。逆に言うと、こちらのブログで発信をする機会が少ないということは、それだけ今の自分には何か発信に値するような、まとまったアイデアがストックされてないんじゃないか、と言うことも出来るかなあと。なので、こちらのブログが更新されないこと自体はあまり褒められた状況ではないように思うわけです。と言うことで、今後もこのブログは頑張っていこうかなと考えています。

まず、去年の振り返りですが、
1.Call without Voiceに耳を傾け続ける(人間として)
2.天下・国家を語り続ける(ポスト・コンサルタントを見据えて)
3.Consultantになる(コンサルタントとして)
という三つの目標を掲げていました。

ただし、問題はここで掲げた目標が、別に2010年に限った目標ではないことです。

なので、達成度で言いたいところですが、どれも定性的な話なので難しいなあ、というのが正直なところです。SMART(Specific、Measurable、Achievable、Result-oriented、Time-bound)な目標になってない良くない目標ですね。

1については『狂気の歴史』を読んでたことと、今年も継続的に某知的障害者施設にボランティアに行ったこと、それくらいしかやれてなかったような気もします。

2については、個人的には夕張でのインタビューツアーを始め、かなり色々と考える機会が持てたように思います。ただ前のエントリーでは「この目標は、「議論にたる議論」をこのブログでどれだけ投稿できるか、で測定しよう」と書かれているので、そういう意味ではアウトです(苦笑)


ここについては、一番色々と考えたので、またどこかでまとまったことを書く予定です。 

3については何とも言えません。出来るようになったことも多ければ、一方で出来ていないこともまだまだ多いと思うし、引き続き努力が必要かと。

まあ、上記三つは引き続き目標と言うことで頑張ろうかなと思っています。

・・・なんという面白くないエントリ!!(苦笑)

ひとまず近況報告と言うことで、お許しください。またなんか書きます。

というか酷寒のみなさん、スキー行きたくないですか?(笑)


kemonomichi55 at 22:58|PermalinkComments(0)clip!活動 

August 21, 2010

ここ2カ月くらいの記録

1.本業

基本的には製薬でした。これ、成長してるのかなあ。。。
結果として自分が出来る範囲が広がっているのは分かるんだけど、この1カ月に得たものが何で、それが評価に値するものなのかどうなのか、のちのち自分で振り返った際にどう判断するんだろう。

新しいフェーズではあるんだけど、継続には違いないので、ちょっと仕事に刺激が足りない気がする。まあ、自分の動き方の問題なんですが。

いま、サプライチェーンやってるんだけど、これは「戦略」じゃないなーと思っているのも、そう思う背景の一つ。このテーマ、アート感・飛び感・ストーリー感がないんだよなー。あくまでマネジメント。しかも、「管理」ってやつ。

あと、事業計画(数字づくり)もやってるけど、これもあんまり楽しくない。

7月前半に絡んでいたセールスはすげー楽しかった。自分がビューを持てている業界での、ファンド(≒素人さん)に対するセールスだったこともあり、セールスでフロントを張れたし。自分が作ったマテリアルを、向こうのMDとかがすげー評価してくれたし。息の長い提案だから、しばらくはPJTにならないだろうけど。

あと、6月末にBOPビジネスについての講義を東大(本郷)でしました。

ちなみに来月からインフラ系のPJTに入りそう。インプットとして業界動向の本を4〜5冊目を通したんだけど、インダストリーとしては相当面白そう。

2.夕張スタディ・ツアー

「新しい公共」について考えを巡らせましょう、ということで6月中旬から企画したツアーが実現。3泊4日、インタビュー7件を北海道で実施。それにしても楽しいメンバーでした。

・GEじゃないけど、リバース・イノベーションの最終的な行き先は、こういうところにあるのではないか
・結局論点は、世代間衡平性だろう
という二つが最大のインサイトか。
この旅を通じて、自分のこれからの方向性の大枠が見えたように思う。


3.アデオのコンサルテーション

6月からずっとやっているインタビューが終了し、中旬に中間報告を終了。来週のMTGに向けて今日はマテリアル作り。イシュの整理が終わり、これから打ち手の方向性を示しつつ、メンバーの巻き込みを図る予定。

なにげに土日がけっこう潰れましたw

 

4.松庵小サッカークラブの合宿

練習方法にイノベーションが起きていた。要素還元主義からカオス・フラクタル重視へ。
まあ、またどこかで書きます。たぶん。

5.大島でのボランティア

今年も強行日程で行ってきました。金夜の夜行の船で浜松町を出、日曜の夜に帰還。時間は短かったんだけど、今年の方が去年より学びは多かったように思われる。


簡単ですが、以上で!



kemonomichi55 at 12:28|PermalinkComments(0)clip!ビジネス | やったこと

June 13, 2010

this time for Africa

ワールドカップはじまっちゃいましたね。

パクチソンのドリブル、やばかったですね。



曲もShakiraですねー。まーP-Squareとかだったらもっとローカル感出てて良かったですが。。。

このPV何が秀逸って、ちゃんとロベルト=バッジョの名シーンが入っているところ。素晴らしい。

テンション上がるわ―。



ちなみに今日はアフリカンフェスタ@横浜に行ってきたんですが、南アW杯効果かわかりませんが、人の入りがすごかったです。



kemonomichi55 at 23:36|PermalinkComments(0)clip!サッカー | アフリカ

June 01, 2010

なんと6月。。。

全然ブログを書いていないうちに6月になってしまいました。。。ちなみに5月中旬までは、いわゆるビーチだったのでそこまで忙しくなかったんだけどね。

ちなみに今はBusinessTripで上海に来ていて、時差が1時間あるから、僕的にはまだ5月なんだけどね。。。と言っても言い訳に過ぎませんが。

先月くらいから本格的にTwitterをはじめた(@kemonomichi。。。かな?フォローよろ)から、Trade-Off的にブログに書かなくなってしまった、というのもあると思いますけど、それにしても書いてなさ過ぎ。

考えたことを書かなかったとしても、日々の行動の記録としてだけでもいいから残して置きたいなあ、と。

Twitterは一ヶ月やってみて色々と見えてきたし、戦略的に使えばかなーり面白いツールだなあと思うのだけれど、今別にやる必要がないんじゃないか、と思うと少しモチベーションがダウンしている今日この頃です。必要なときに(その時がくれば、だけど)、自分マーケティングのツールとして使えばいい、ってただそれだけの話だと思います。

最初はMixiのVoiceと同じかと思いましたけど、本質は全く違いますねー。圧倒的にTwitterのほうが面白い構造をしていると思います。

それにしてもホテルで粛々とスライドを作るのは苦痛で仕方がない。。。と言うか、集中力が途切れがちになっちゃう。

そうそう、巷で「シェアハウス」とか「大人の思想勉強会」とかいう流れがありますが、ADEO的に言わせればシェアハウスはそれがまだルームシェアと言われていた時代(2005年末w)からやられていたし、勉強会も去年からやってたんですけどねー。まあ、マーケティングが上手いほうが勝つ時代でしょうか。


と、Twitterがアクセスできない中国から、つぶやいてブログを更新してみました。


さーて、仕事!!

kemonomichi55 at 00:43|PermalinkComments(0)clip!職業の話 

May 04, 2010

ゴールデンウィーク中に考えたこと

PJTの最終報告が先月末にあったので、ゴールデンウィークは休めるかな?と思ったけど、結局フォローアップに追われてしまっている今日この頃です。うーん、全然心が休まらない。これまでやっていたPJTが次フェーズに続くから心が休まらない、というのもあるんですが。。。

そして、次フェーズの提案作業から外された(とは言え次フェーズには確実にメンバーで入れられるんだが)代わりに、他のセールスでクライアントとディスカッションするために、ベトナム(しかもホーチミン&ハノイの二都市)に行くことになりました。ちなみに6日から11日まで。

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また新しいプロジェクトが始まる時期なんですが、なんか憂鬱です。

まず何より、新しいプロジェクトに入るのはそもそも不安。自分は付加価値が出せるんだろうか、と。

忙しすぎてpassiveになると自分の出せる付加価値が下がり、一方でproactiveに動けると付加価値が上がることは、一年通じてやっと分かってきた。まあ、当たり前なんだけど。

なんとかproactiveに動き続けないとなーと思います。でも、それにしても色々不安だーー。

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YDPのときに仲良くしてた友達で投資銀行に行った子が、1年足らずで転職した。しかも、僕から見るとかなりポジティブな転職。

彼は死ぬほどデキるし、彼にいわゆる“市場価値”があるのはすげー分かるんだけど、翻って自分は??

ちなみに、“市場価値”ってのはどんだけお金貰えるか、ではなくて、どんだけ自由な仕事が出来るか、だと思う今日この頃。

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おとといはAIESECの新歓合宿にお呼ばれして、新一年生50人位を含む大学生70-80人の前でお喋りしてきた。

目の前にいる学生のあまりの若さにジェネレーションギャップを感じまくったことは置いておくにしても、一人の女の子からの質問には、ちょっと考えさせられた。

「なんで貴重な休日を使って、こんな場に来てプレゼンテーションしてるんですか?」とさ。

その場では取り繕って「学生の皆にはいろんなチャレンジをして欲しいと思って」みたいな適当かつえらそーな答えをひねり出しちゃったけど、帰り道よくよく考えてみたら、ああいう場でむしろ価値をもらっているのは、僕な気がしたのでした。

社会人って目の前の仕事に手一杯で、どんどん感覚が麻痺していって、普通に過ごしてたらきっと最初に自分が考えていたことなんてさっぱり忘れちゃう。

そうならないように、という訳ではないのだけれど、AIESECのああいう場で話をしたり、学生からのシンプルだけど本質を突いた質問を浴びせられ、それにウーンと考えて答えたりする過程で、実はバリューを出されているのは、自分なんだなー、と。初志を思い出すじゃないけれど。きっと深層にそういう意識があるんだろうなーと思ったのでした。

と言うことで、AIESECのみなさん、呼んでいただいてありがとうございました。あんまり面白い話が出来なくて恐縮ですが、また誘っていただけたらと思います。


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そんな、取りとめもない感じで。でわ。



kemonomichi55 at 02:52|PermalinkComments(3)clip!考えたこと | 職業の話