自分のことを知っている人が減っていく怖さ 後編

 翌朝、式の時間は聞いていたので支度に間に合う時間に起床した。
 ツインの部屋だったので隣のベッドで眠る父は、いつまで話していたのかまだ夢の中だった。
 さっぱり起きる気配もない。
 僕はジャケットを除いて喪服に着替え、居室の方へと向かうと、昨日のお手伝いさんがキッチンにいた。
 挨拶を交わしお茶を飲む。
 それから少し経ってきょうだいもやってきて、昨晩の話をした。
「ねぇ、昨日夜中に入れなくなったからって、外から窓叩かれて起こされたんだよ」
 と、なにやら穏やかでないことを言ってくる。
 曰く、深夜に牧場に勤めているご夫妻を見送ったあと、両親は施設の自動ドアが開かずに困ってしまい、外から窓を叩いてきょうだいを起こして入れてもらったとのことだった。
 その話を聞いて何をしているやら、と呆れていると母がやってきて、当直の人を呼び出してもでてこなかったと言う。
 二人のしょうもないやりとりを聞き流していると、ふと「お父さん起こしてきて」と母が僕に言った。
 しかたなく席を立って寝室に行き、声をかけて戻ってくると、朝食を机に並べているところだった。
 先にいただいているとしばらくして父が起きてきて、昨晩のことを語る。
「先にハルの方を起こそうとしたんだけど、まったく反応なかったんだよ」
 その後もウンタラカンタラと、あたかも僕が起きなかったことが悪いみたいなことを半笑いで言ってきたので、なんか随分と理不尽なこと言ってるなと内心毒づき、無視した。
 寝坊してきた父に早々に嫌味を言われて気分を害したので、僕は食後に寝室へと戻り、気分転換を兼ねて持ってきていた携帯ゲーム機で時間を潰した。
 それから三十分くらい経ってから、「そろそろ」とお呼びがかかったのでジャケットを羽織り、居室へと戻ると、すでに参列者の方々は到着していて、ちょうど棺を葬儀場へと運び出すところだった。
 それを手伝い、流れで葬儀場へ。
 昨日と同じお寺の住職がいらして、葬儀が始まる。
 途中、今年入社したばかりの会社から弔電の読み上げがあり、感謝に絶えず、泣くまではいかなかったがきちんと役目を果たさねばと気持ちを新たにした。

 それから、不思議なことに子供の頃にはあって、いつしか失われた感覚がこのときばかりは戻ってきて、壇上の棺を取り囲むようにたくさんの白い影がやってきていた。
 その中にふと、背筋を伸ばして笑顔で話す祖母の影を見た。
 あんな顔をするんだなぁ、なんて嬉しくなってしまい、悲しさとは違う涙が溢れた。
 そうか、もう次を見ることができている。
 いつ朽ちるかもしれない肉体と、どうにもならない現実に縛られることもない。
 あぁ、よかったなぁ……――。
 最後のお別れの前、花を詰める時にももう一度「お疲れ様」と心の中で声をかけた。
 
「最後のお別れの時です」
 
 と、司会の方が言う前に僕はもうお別れが済んでしまっていたから、一歩後ろで手を合わせただ涙を流しながら家族や親族がお別れの言葉を告げる様を眺めていた。

 棺は霊柩車に乗って火葬場へ。
 祖父の時と同じ火葬場で、祖父の時と同じ段取りで待機室へ。
 昨日よりは少し打ち解けた参列者の方々と少し話をしながら待つこと一時間半。
 呼び出されたので揃って収骨へ。
 祖父のときにはあれほど流れていた涙は、少しも頬を伝うこともなくて。
 代わりに出てきた魚の骨のような形をした「鉄の塊」に感嘆の声を上げた。
 先に書いていたかと思うが、脊椎が悪かった祖母の首にあったものだ。
 文字通り、茶色くなった鉄の塊とボルト、ナットが転がっていた。
 それらは避けて、壺に骨を納めた。
 あまり残った骨も多くなく、短い時間でそれも済んで、骨つぼ、遺影を持って葬儀場へと戻る。
 一度スタッフさんに骨つぼを預け、今度は慌ただしく葬儀場を出る支度を進めた。
 あとから遺影や骨つぼは家の方に持ってきてくれるとのことだったので、少ない荷物をまとめ、着替えてから住む人がいなくなった家に戻った。
 ややあって、葬儀場の方が来て、仏間を整えて帰っていく。
 どっと疲れを感じて、僕は居間で気づかないうちに居眠りをしていた。
 途中、きょうだいの周辺の散歩に付き合ったり、車で買い物に付き合ったりして一日を終える。
 これだけきょうだいと話したのはいつ以来だったろうか、もしかしたらそんな機会すらないかもしれない。
 そして次に来るのは……あまり考えたくはないことだ。

 翌日、きょうだいは一足先に関東へ戻るという。
 空港まで車で送っていき、きょうだいを見送ってから両親が、
「ペーパードライバーのはずのハルが、意外と上手かった。自分も練習せねば」
 なんてきょうだいが言っていた、と笑った。
 ペーパードライバーだからこそ、こういう機会に運転して練習しているのだが……。
 そしてアナタ、僕が運転するか聞いたら断ったじゃないの……。
 
 どこへ行くでもなく最終日を迎え、最終便で成田に戻ってきた。
 出発前には、仏壇に線香を上げてきた。
 特にやることも語ることもなく、飛行機からの眺めすらも乗り慣れてしまって感動はない。
 強いて言えば、いつからか大きなソーラーパネルが設置されるようになったのを見るたびに、胸が痛んだというくらいだろうか。
 成田に着いたのは夜十時半頃だっただろうか。
 そこから都内のアパートまで雨上がりの高速で送ってもらい、約三時間。
 帰宅したら一報入れるよう伝えて、両親を見送った。
 
 今回、亡くなった祖母もそうだし、参列者の方もそう。
 当たり前のこと、仕方のないことだが、集まりがあるたびに知っている人が減っていく。
 年齢を重ねるたびにそれを顕著に思うようになって、それを何食わぬ顔して談笑できるものだから、抗うものでもなく、かといって無条件に受け入れるものでもなく、長生きしてほしいなと遠目に眺め、また僕もそうやって送られるのだろう。
 人生の終わりをより身近に思うようになったし、青年の頃とは体が変わっていることももちろん感じる。
 技術者として現場を転々としてきて、出会ってきた人たちの顔も覚えていたり、いなかったり、今覚えている人たちは何もなければ最期まできっと忘れないのだろう。
 そして、忘れないために写真というものがあるのだろう。
 毎年のように葬儀の連絡がきたり、子供の頃遊んだ従兄弟が子連れだったり、同級生が再婚したりと、変化のない日常に僕はふと、時間に取り残されているような錯覚も覚える。
 大学生時代の同級生も、僕の顔なんてきっと覚えちゃいないだろう。
 自分が歩んできた時間の節目が、重ねた年齢の何分の一かになっていく。
 そうして、出会った人の数よりも忘れた人の数のほうが多くなって、死ぬ時はきっと皆一人だ。
 順番とは言うけれど、あと残された両親を見送ってしまうと、本当に帰れる場所がなくなってしまうことにようやく気がついて、あれから少し怖くなってしまった。
 自分らは好きにやるから気にしなくていい、と両親は言うけれど、そうも言ってられないこともあるだろう。
 でもそう思えることはきっと幸せなことだ。
 噛み締めてというほど大層なものではないが、言いたいことは忘れる前に言っておかなければならない。
 こちらを向いていない瞳ほど、寂しいものはないから。

自分のことを知っている人が減っていく怖さ 中編

 通夜の日が決まった。もともと祖母に会う予定だった日だ。
 生前最後の面会ではなく、死後最初の面会になることが決まった。
 当日は朝四時くらいに起床して、始発がある一駅先までスーツケースを引いて三十分かけて歩いた。
 前日が仕事であっただけにしんどかったが、夏場でなかったことがせめてもの救いで、それでも雨上がりの街は蒸し暑く、駅に着いた頃には汗だくになっていた。
 朝六時過ぎに成田空港に着いて父と、きょうだい(あえて平仮名で書く)と合流し、七時くらいの飛行機の便に乗った。
 きょうだいに「窓際がいい」とせがまれたので席を交換し、約一時間半のフライトののちに到着、レンタカーを借りて一度母方の実家へ向かった。
 母とも合流して改めて車で十五分ほどの葬儀場へ向かう。
 この日は人生で初めて葬儀場に一泊する予定になっていた。
 葬儀場一泊なんて初めて聞いたし、近くに家があるのだからそちらでいいのではと思ったのだが、母も思うところがあったのだろうとその疑問は口にはしなかった。
 
 合流後の会話は感傷に浸るでも、思い出に耽るでもなく、式の進行や日程、参列者、お金の話が主だった。
 実に淡々とした、大人の世界。
 あえてそういう風にしていたのか、たまたまだったのかはわからない。
 もしかしたら日程を遂行することで精一杯だったのか、あるいは、考えないようにしていたのかもわからない。

 式場についたのち、簡単に居室の利用案内を受けていて間を開けずに、参列者が到着した。
 何度か会ったことのある、顔見知り程度の方々。
 祖父の式の時では満席だったのに対して、今回は出席は約半数程度だったという。
 その親戚の方々もお年を召して、病に倒れたり、足腰を悪くしたりと、ここでもまた時間の移り変わりを感じてしまった。
 特に、確か四人くらいいた祖父の親戚の参列者は、一人のみだった。その方も齢九十近くか、超えていたかと記憶している。
 ああ、人の繋がりが失われていってしまう。
 雨風に晒されてやがて朽ちていく木々のように。
 まるで使い古した糸が細くなって切れるように。
 参列者の方々は、棺の前で談笑の合間に時々「窓」を覗き込んで祖母に声をかけている。
 施設の説明をしてくださったお手伝いの方が、僕ときょうだいに
「参列者の方、座ってもらったらいいんじゃないですか」
 と言った。
 そうですね、と僕は返事をしたが、僕たちがいないかのように話す人たちの水を差すのが嫌だったし、喪主である母がずっと受付で何かを話していた(なぜか父も一緒にいた)上にどうしてほしいとかも言わなかったしで、僕は入り口でただ居心地悪く突っ立っているだけだった。
 そんな僕たちを見かねて、お手伝いの方が参列者の方に声をかけ、それでようやく皆さん席に着く。
 今日この人は家で僕たちの愚痴を言うだろうな、と勝手に想像していたところでようやく両親が来て、僕たちきょうだいは長机の端に座り、相変わらず透明人間になったまま場を眺めていた。
 わざわざ出しゃばるようなこともなし、生まれる前の思い出話をするこの人らと共有できるものはないのだ。
 そういうものだと思うし、それでいい。
 ここは初めからそういうところ。
 きょうだいの姪っ子たちの学校の最近と、早くもゲーム大好きという話を聞いてから席を立ち、蓋が空いている棺を見に行った。
 僕が知る頃の「ぽっちゃり」ではなくなり、随分と痩せてしまった冷たい祖母の姿があった。
 食事が取れなくなった、とは聞いていたから驚くこともなく、独り言のようなきょうだいの言葉に相槌を打っていると母がやってきて、
「おばあちゃん、お着物ピンクにしたのよ。かわいいでしょ?」
 そう言って、冷たい頬をペタペタと触っては、頭を撫でていた。
 僕が知っている思い出話を聞いていると途中で式場のスタッフの方がやってきて、
「お寺の方到着されましたので、そろそろ……」
 と声がかかり、ゾロゾロと式場へと移動した。

 通夜はこれといって語るようなこともなく、お焼香の所作が気づけば、子供の頃に見様見真似でやっていた違和感も消えていたなと、今回も感じる程度だった。
 未だにあのお作法というか、やり方の意味は知らないけれど、そんなものだろう。
 悲しさや寂しさもほとんどなくて、どちらかといえば脊椎を悪くし、歩けなくなり、その後も病と戦い苦労してきた人だったから、その体から、その苦しみからようやく解放されたんだなという安堵と、「お疲れ様でした」という気持ちの方が大きかった。
 
 通夜が終わって何時だったかは覚えていないが、夕方早めの時間に参列者の方々と大人数用の食事をつまみ、みなさん「明日も来るから」と残して帰っていった。
 もしかしたら一生のうちに会うことはもうないかもしれないな、とそれぞれの背中を見送った。
 その後は着替えてきょうだいと、とりとめのないことをずっと話していた。
 子供の頃からの知っている母の同級生の方や、通夜には間に合わなかったものの、駆けつけてくれた方も参加した。
 僕は少しばかり肩の力が抜けて会話に参加しつつ、惰性であまり減っていない食事を腹に詰めた。

 夜も深くなってきた頃、最後に牧場を運営しているご夫妻がいらっしゃった。
 最後に会ったのは祖父の葬式以来で、まともに話したこともない方だけどすごく良くしてくださっていることは知っていた。
 途中で施設内の設備でシャワーを浴び、夕食の残りをまたつまみながら雑談に興じ、時計の短針がてっぺんを回って少しした頃寝室へ。
 ホテルさながらのベッドで目を閉じると、居室の方から両親とご夫妻が大きな声で笑う声が響いてくる。
 昨日もニ、三時間くらいの睡眠で疲れていたのかすぐに眠りに落ちた。

自分のことを知っている人が減っていく怖さ 前編

 ――五月。
 ゴールデンウイークだけを心の支えに、社会の奔流に溺れまいと毎日を乗り切った。
 特にこれと言って大きな出来事があったわけじゃないのだが、日々生きていくだけで相変わらずいっぱいっぱいの日が続いていた。
 二十日の少し前、心療内科にて僕は精神科医に言った。

「もう、通わなくても大丈夫です」

 約一年半、僕のことを診てくださっていた先生から反論はなく、

「そうですね、わかりました。お元気で、過ごされてくださいね」

 そう優しく笑みを湛えて、送り出してくださった。
 今もまだあの時の恐怖が抜けないわけじゃなく、机の上に精神安定剤は置きっぱなしになっていることも、それ以来一度も飲んだことがないことも、戒めや、覚悟の上に成り立っている今があるのだろう。

 それを少し過ぎて六月に入った頃、母からから電話が来た。
「おばあちゃんの具合がよくない。そろそろかもしれない」
 母方の祖父が亡くなったのはもう五年くらい前。
 当時「もうすぐ私も行くよ」と泣きながら遺体にすがっていた母方の祖母にも、残された時間は少なくなっていた。
 母は急ぎで飛行機のチケットを取り、祖母のもとへ向かうという。
 コロナが流行り始めた頃から僕は祖母に一度か二度会ったきりだが、その頃は老人ホーム内に併設されたカフェで、一緒にケーキを食べる元気があったのだが、時間というのは本当に残酷だ。
 母から連絡が来たときはまだ危篤というほどでもなく、様子を見にいく程度の温度感だったのでその時は一緒に向かうことはしなかった。
 職場には「近々休みをいただくかもしれない」という一報は入れておき、今年入社したばかりの会社に慶弔休暇の制度の確認はしつつ変わらない時間を過ごしていたが、それから一週間後くらいには「危ない」という話が連絡が来て、そのタイミングで「最後のお別れ」を言うために週末僕も祖母のもとへと向かうことになった。
 でも、残念ながら生前のお別れを伝えることは叶わなかった。
 でも……、不謹慎ながら僕の胸中は少しホッとしてしまった瞬間があったのも事実だった。

 祖母の訃報を受けた後、母からの電話でその最期の様子を聞いた。
 軽度の認知症を発症し言葉も話すことができなくなっていたとも聞いていた。
 そして、その頃になって子宮がんを患っていたことも知った。
 年齢が年齢だけにがんの進行も非常にゆっくりで、摘出などをすることもなく緩やかに見送るという話もしていて、余命も数か月だろうという話もしていたのに、実際は数週間という「せっかちに」灯は消えてしまった。
 僕が、お別れを言わなくて済んだことに少しホッとしてしまった理由は、「きっと、顔を見ても僕のことを覚えていない」ということがわかってしまっていたからこそ、現実と向かい合うのが怖かった。
 何年か前に会った時にも、祖母の中の僕の時間が大学生になる直前と、社会人になって間もない頃まで巻き戻って、行ったり来たりしまっていたのを感じて胸が痛んで、向き合うことが辛かったからだ。
 そして、残されているのがもう両親しかいないという事実と、刻々と迫る時が急に怖くなってしまった。
 わかっていたことなのに、どうしようもないことなのに。
 僕はこれまで何をしてきただろう、何ができるだろう。
 いつか必ずすべての者に等しく訪れる瞬間が、こんなにも怖くなるなんて思いもしなかった。

 いずれは一人ぼっちになってしまうこと、こんなにも怖いという気持ちなんて知りたくもなかった。
 そんなことをついポロっと母に漏らしてしまったならば、母は、
「順番だからしかたない」
 と笑って言った。
 なんの解決にもなってない、と僕は内心毒づいた。
 そんな時、僕は決まってこう言い訳するんだ。

――それだけ自分が、大人になったということだ。

転職活動のあれから 後編

 二月の二十日頃から、現場への配属と一緒に次の仕事を始めた。
 当初はどうなるかというのと、やはり新しい会社での「自社」社員と仕事をするにしても、面接の場とのギャップには随分と神経をすり減らしてしまった。
 どう人と接していいのかわからない。距離感がわからない。言葉遣いがわからない。目上の人に対してかっちりとした敬語を使うと「硬い」と言われてしまい、でも失礼にならない範囲で、その進むことも戻ることもできないコミュニケーションの袋小路に行きついてしまい、なかなかそこから抜け出すこともできなかった。
 我ながらみっともないほどにおろおろしてしまい、それまでは「有識者」であった環境から「新参者」へと変わった立場に質問の仕方も分からなくなり、久しぶりに分からないことが分からない状態にも陥り、三月の終わりくらいまではずいぶんと憂鬱な日々が続いた。

 精神的にも不安定になってしまい、精神安定剤の服薬も継続しつつ、何度か体が動かないもどかしさにも苛立ちながらも、ただ目の前にある時間と仕事をこなすだけの日々が続いていた。
 いつも気にかけてくれていた近しい友人にも、ずいぶんと迷惑をかけてしまい、何かできることはないかと思う気持ちと、何もないことへの無力感や、八つ当たり、苛立ち、そういった己の至らなさに振り回されてしまった。
 スパッと線引きもできないままグズグズと甘えてしまった。
 言い訳をするなら、自分の時間を守ることにただ必死だったのだろうと思う。
 ――本当に情けない……。

 四月。
 仕事もなんとなく慣れてきて、通院も、服薬も減っていた。
 毎週だったものが隔週、隔週だったものが月イチに変更となり、その時には処方せんに書かれる薬剤もほぼ漢方のみとなっていた。
 新しい仕事は他者からの干渉も少なく、再スタートを切ろうと考える僕自身のペースを掴むには重要な意味があった。
 悪く言えば、全て自分で動かなきゃいけなかったが、それまでずっと単独で動くような働き方をしてきたので、僕に関して言えば問題がなかった。
 職場の人との距離感もよくわからないままで一言も喋ることがない日もあったが、その頃から週に数日のテレワークが入ってきたおかげで、多少は心身が楽になった。
 思えば、たまにはこうして赤裸々に、自分の恥ずかしくみっともない一面をつらつらと書き続けるというのは大切なことだったのだろう。
 だからこそ書きかけのものが何本も残っていて、それは時間が経ってしまえば恥ずかしさから読み返すのが辛い悩みや屁理屈の吐露であった。
 今でこそ更新はかなり減ってしまったが、まだ高校生だった頃から日記と称して書き続けてきたことは、自分が生きてきた証明であり、今同じような苦しみを持っている方々に気づきや共感があればいいなと思って始めたことだった。
 僕が自分から傷口を見せ続けるという行為に意味があったかどうかの結論は、もしかしたら僕の命の火が尽きるときまで、もしかしたらわからないのかもしれない。
 そんなカッコつけたことを、過去の話を書きながら思った。

 ふと、思い出したことがある。
 自分と関わった誰かが助かった時に、「ハルさんのおかげ」なんて言われることがたまにある。
 その時僕はいつも「あなたが勝手に助かってるだけ」と言う。
 この言葉の元は某小説(アニメ化もしてるが)のキャラクターの台詞から来ていて、僕が自分の価値を見出せないからこそ得た納得の答えだった。
 僕は「感謝をするならば、僕の行為を次の助けを求める後輩たちのために使ってほしい。恩返しという気持ちは必要ない」と答えるようにしている。
 人の感謝は気持ちは、末広がっていってほしい。
 自分に感謝を向けられるのは嬉し恥ずかしで若干はぐらかしていることは否めないが、その気持ち自体に嘘はない。
 でも、僕に恩を感じてくれる物好きな人たちはそれもまた、うまい比喩表現が思いつかないくらいの、まさしく「微妙」というにふさわしい顔を例外なくする。
「いやぁ、そうじゃないんだけどな~……。でも、あなたがそう言うなら…」
 みたいな雰囲気だ。
 人によっては拒絶や無関心のようにも映るだろう。
 けしてそんなことはなく、僕が持っているポリシーに従って、ただできることをやっていこうとしている行動の結果であって、僕に対して少しでも親しみを持ってくれた人たちが、よりよい人生を迎えられることを願ってのことだ。
 それに、最後に選択をして、結果を出すのは当事者だけというのが事実だし、僕はそれで十分だと思っている。
 勉強にしろ、仕事にしろ、なんとかしなきゃっていう本人の気持ちと行動が結果を呼ぶのだと僕は信じている。
 彼らが勝手に救われるのと同じように、僕もまた勝手に生きているのだ。
 感謝や恩という気持ち自体を否定するつもりはないが、形を変えるとそれが引け目や劣等感にも変わりうることを理解している。
 ゆえに、フラットな気持ちで接してもらえたら、と僕は願ってやまない。
 どうか、自分のために時間を使ってほしい。
 それでもなお僕と過ごす時間があるなら、それでもなお感謝をしてくれるなら、たまに僕の愚痴を聞くために居酒屋に付き合ってくれるだけでいい。
 ただ、とりとめのない話をしてくれるだけ、聞いてくれるだけ。
 それでいい。

 きっと明日の朝読み返したら後悔するだろうから、これも僕の”足跡”として汚く残したままで、振り返ることなく独り言を終わることにする。
 やっぱり書くのは楽しい。
 お酒が入ってひとりほろ酔い状態。
 最高の夜だね。

転職活動のあれから 前編

 いつからかはわからないが、ずっと独り言が頭の中で巡り続けている。
 これが心の中の独白なのか、幻聴というものなのかも麻痺してしまって、ネガティブに、卑屈になろうとする自分の心を殴りつけたい衝動にも駆られた。

 仕事への復帰前後のあたりであまりにもうるさかったので、漢方を処方してもらっていた時期もある。
 統合失調症も疑われたが、他人の声ではなくあくまで自分の中でのみ完結しているとのことで、病気としては該当しないと診断を受けた。

 転職活動をしてきたことから、またしばらく間が空いたのでつらつらと語っていくことにする。
 面白味も何もない、ただの体験談。

 結果だけ先に言うと、十一月半ばには新しい会社への内定が決まった。
 プライベートな話になるので委細は伏せるが、転職先は小さなベンチャー企業にきめた。
 今時、リモート面接が流行っている中で、「対面での一発勝負」を求められたある意味、時代に逆行した方法に本音を言えば「わざわざ行くのがめんどくさかった」が、その感覚がぶっ飛ぶくらいの充実感が面談には詰まっていた。
 おそらく、WEB面接だったら不採用だったという確信が、不思議と今はある。
 あくまで、統計と比較して僕自身の稼ぎは平均よりもある程度高く、転職でも大幅ではないが年収も上がる。
 本当はポジション、年収、上を見ればもっとずっと高くを望めた。
 でもその選択肢を捨てた。その理由は言葉にならず、感情、直感という非論理的なもので終始する。
 そして悩んだが、決めてさえしまえば思ったよりもすーっと体にしみこんでいくような感覚に浸り、逆に「僕でよかったのかな」という不安にも襲われている。
 でもそれは、僕が決めることではない。
 ボールを持っていたのは面接を受けるときと、入社を決めたときだけだ。
 今更悩んだところで何か変わるわけでもない。
 
 退職に際しては随分と苦労した。
 それもまた人間関係に起因する。
 いつからか、仕事はよほど向いていないとかでなければ、案外続けるうちにそれなりにはなるものだが、人間関係は合わなければどうにもすることはできない。それが自分よりも上の立場であればなおさらだ。
 改善するには自分がさっさと離脱した方が早いが、おそらく本人は無自覚なんだろうが、逃げる足を掴み、できるだけダメージを与えてこようとする人もいる。
 円満にとか、応援しているとか、笑わせる。
 恨み節を言いたいわけじゃないが、これまでの行動からよくそんなことが言えるよねといった感想を抱いてしまう。
 とはいえ、もうそれも過去の話だ。
 二度と会うことはないのだから、その時間に記憶を置いてくればいい。
 そうできたら楽なのにな、と根に持つ僕はいつも思う。
 ただ、それを表に出すのは愚策ということもよく理解している。
 最後に残ったものはなんだったかというと、一番は「またやっていけるか」という不安だった。
 それでも、支えてくれた人たちに感謝をしつつ、次を作っていくんだと心に決めた。



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