フィルターの大掃除をした

お久しぶりです。
スマホを換え、海水魚について書こうと思ってから早2ヶ月半。

最近サンゴたちの調子がどうもイマイチで、段々小さくなっていってしまうという悩みを抱えている。
照明、水質、汚れがひどい、微量元素がetc……。

とかいろいろ考えて、とりあえずフィルターの掃除をして様子を見ることに。
まぁ、結論を先に書くと、フィルター掃除しても改善されてなかったんですがね。
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これ、コンテナの掃除が終わった状態。



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なんかよく分からない春雨みたいな何か……。

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ろ材を一部戻した。
あまりにも汚くて、全部海水で洗って戻す気には到底ならなかった。

上で書いたとおり、結論からして調子自体は上がってなくて、全体的に下り坂。
うーん、なんだろ。

『家族』の供養は感謝

 突然だけれども、僕の星座はかに座だ。
 だからかは知らないが、カニとかエビとかといった甲殻類を妙に気に入っている。
 現実にわが家にはヤドカリと、数十匹の小さいエビを育てている水槽があり、つい先日までカニも育てていた。
 あのゆったりさと、何考えてるのか分からない感じと、手渡しでエサを与えられる感じがかわいいよね。

 意味不明なくだりで星座の話から入ったところでめっちゃ勘のいい人は分かるかも知れないが、珍しくスピリチュアルな話をしようと思う。
 
 占いの九星でいうと、僕は一白水星になる。
 一白水星は水との親和性が高いらしく、かに座なのもあってか、いやほんともうどうしようってくらい、水の生き物が好きでたまらない。
 ざっくり言えば海水魚を12年くらいは育てている。
 残念ながら、ずっとその当時から育てている子らはいないが、今育てている子らは3年くらい? は変わらず元気にしている。

 いつかはその魚たちも寿命が来ることと思っているが、ごく稀に、何も原因が分からずに死んでしまうことがある。
 そうしたときに自分の状態と照らし合わせると、大抵思い当たる『何か』がある。
 精神、身体的に調子が悪かったり、人付き合い、仕事でゴタゴタしていたり。
 そのたびに僕はいつも、僕と育てている『彼ら』とで妙なところの結びつきを感じる。

 というのも、それを契機に何かが変わったり、好転したり、ということが度々起こるからだ。
 言い方を変えると身代わりのような一端を担っている節があるんじゃないかと思えてならない。
 犬や、猫を迎えたことがある人も経験したことがあるかもしれない。
 『犬や猫が何か病気になってしまったのに、不思議と自分はならずに済んだ』みたいな話が。
 勘違いしないでもらいたいのは、自分が助かるために迎えるわけじゃないということ。
 あくまでも愛情を持って接していこうという姿勢はなんであっても揺らがない。
 身代わりなんていう嘘みたいな守り方をしてくれる彼らに対して、やはりしっかりと向き合って最期の最期まで面倒見るというのは最低条件だ。
 そこから先、いずれは迎える瞬間と、そのさらに先。
 全てを覚えていることは無理だろうけど、旅立った彼らをきちんと供養してやるというのは、僕自身はとても大切なことだと捉えている。
 それは彼らの生に対しての感謝だ。

 言うまでもなく、生き物を迎えて育てるということは、彼らの生への選択肢と、時間を奪うこと。

 彼らは果たして幸せだろうか、だっただろうかと真剣に考えてみるということ。


 不思議な繋がりも、家族として迎えた生き物たちと真摯に向き合った上での最後の最後に『しょうがねぇなぁ』って与えてもらえる一抹の慈悲なんじゃないだろうかと。
 
 生き物を飼うということはいろんな心構えもあるかと思うが、単純に最期まで面倒を見るということ以外の意味。

 環境保護とかなんとかもそうだけど、それ以前に僕は育てると決めた人の内面や意味というところを考えてもらえること、巡り合わせの意味を大切にしてもらえることを願っている。

仕事はノッてる時ほど早く帰った方がいい

 IT業界で4年と少し、日々終わりのない作業をしていく中でふと思ったこと。

 仕事(作業)って、ノッてる時こそほどよく切り上げて帰る方が賢い。

 基本仕事って毎日いくのいやだし、一分一秒でも早く帰りたいもの。
 僕はプログラム書いたり、なんかの資料作ったりといわゆるSEをやっているわけだが、基本的にはプログラムも書きかけ、資料も作りかけの状態で一日の始まりも、終わりも迎えることが多い。
 そうした中で稀に「ノッてる瞬間」が訪れる。
 わかりやすく言えば、たまに楽しさを見出せる作業もある。
 いつまでもやれてしまいそうな、そんな気分。
 冒頭に書いたとおり、僕はそういうときこそ自制して帰宅するようにしている。

 ノッてるならやりきった方がいいじゃん! って思うところだがちゃんと理由がある。

 ひとつめにして最大の理由は、翌日の仕事が楽しくなるから。
 普段嫌な仕事が楽しいポイントを捉えると、早く続きがやりたいという気持ちに駆られる。
 発売日に買ったゲームの続きをやるような感覚でいられるわけだ。進捗としてはいつもと大差ないかもしれないが、どうせ明日も仕事なわけだから、少しでもメンタルに優しい方がいい。

 ふたつめは、一度離れることで頭がリセットされるから。
 経験上、推してやった日は大体変な勘違いや、書き間違いなんかをしているものだ。
 自分ではノッていても、あくまで気持ちの問題であって体は確実に疲れている。
 そういうときこそ一度立ち止まって、切り替えた方がいい。

 みっつめは、仮にその仕事を早く終わらせたところで、次の仕事も楽しいかは分からないから。
 納期がまだある場合は焦る必要はないのだから、給料分仕事をする、という観点ならあえて遅くまで残業がしても意味がない。
 なまじ早く終わらせて、質もよければ次はもっと多くの、楽しくない仕事が控えていることはよくある。
 だから極端に早くやるメリットがあんまりない。1日前くらいに終わっておけば一番無難に思える。
 別に褒められるわけでも、評価に繋がるわけでもない。

 最後に、言うまでもないがこんな話は仕事の内容によるのですべてに当てはまるとは限らない。
 ただ仕事してて思うのは、早く終わらせようが、期限通りに終わらせようが着地点は同じだということ。
 僕が3カ月で辞めた新卒で入社した会社は、「常にお客様の予想の上をいく仕事をしろ」と新卒研修で言われ続けてきた。
 
 今、思う。
 お客様の予想なんてお客様にしかわからんだろ。必要以上のことをやり続けると、時と場合によってはあれもこれもと要求が青天井になるんだ、と。
 忙しくなると残業代で給料がふえ、稼働時間が労基法に引っかかるからと文句を言われ、稼働を減らすと進捗に影響が出る。
 進捗と時間って、比例してると思うんだよな。
 結論でもなんでもないが、ほどほどが一番なんだと僕は最近身に染みている。
 やり過ぎないのも、仕事の大切なテクニックのひとつだと僕は思っている。

何を書こうかという話


何を書こうかという話。

 12月末ぐらいに「早く更新しろや!」とお怒り(?)のコメントをいただいた。

 たまーにはみてたんですよ。
 そもそも本音を言えば、ブログ自体をもう畳んでしまおうかと思っていたんだけど、いくつかの記事は根強く需要があるので残していたに過ぎなかった。

 じゃあ、実際久しぶりに更新をするとして、何を書こうかという話。
 たまに思う難しい話をするのは、エネルギーを使うので、なかなかネタはともかく書くという行為に踏み出せない。
 あれね、通勤時間でかくと読み直し含めて3日くらいかかるんですよ。
 仕事の話も愚痴っぽくなっちゃってよろしくない。
 そんな僕に何が残るか? と考えるとどうしても「うーん……?」という感じに行き先不明になってしまう。
 少なくとも、何を書こうかと悩んでますよーというまさしく何もない心境を綴る暴挙に出るくらいには、行き先不明なわけだ。
 けれど、やはり何も書かないでは始まらない。

 
 そんな甲斐あってか、1つ思いついた。
 次回は脂の乗ったところで一日の仕事を放り投げる話をしようと思う。
 お楽しみに。

自粛に買い溜めは必要か

 つい先日の話になる。
 そして恥ずかしながら書き始めてから時間が経ってしまい、今はもう緊急事態宣言発令というところまで来てしまっている。

 東京都の小池都知事によって、土日の外出自粛要請が出ている。
 みなさんの行くスーパーでもきっとあった光景だろうが、三月終わりくらいの外出自粛要請が出たあたりで、スーパーではレジにこれでもかと山盛りになったカゴを持つ人が行列を作っていた。
 「うわぁ……」とそれを横目に見ながら思ったときには、すでにカップ麺や冷凍食品、非常食の棚はすっからかんになっていた。
 その時は無事に翌日の昼食は買えたわけだがあえて言いたい。……バカなの?

 何か勘違いしてないか。
 やることが極端過ぎて気持ち悪い。
 
 東日本大震災みたいな物流が死ぬような災害が起きたわけでも、不足しているわけでもなく。
 水道も、電気も、ガスも。
 何一つとして止まるわけではない。
 これこそ何も学んでないと僕は感じた。

 武漢肺炎を広げないために、土日は大人しくしててください。
 それを満たすために、なんでカップ麺や冷凍食品など、非常食の買い溜めをする必要があるのか。
 この前のトイレットペーパーのデマもそうだけど、さすがに呆れを通り越して腹立たしかった。
 冷静とか、効率とか、助け合いとか、優しさとか。
 自分に都合のいい言葉と、他人への理想を押し付ける言葉が好きな人は多いのに、こういうときには我先にと衝動買いしちゃって。
 活動自粛っていうからって、土日カップ麺や缶詰、冷凍食品を食べて過ごすって、違和感しかないのだけれど。
 繰り返すけど、別に致命的なことではないのだから、二日分のいつも通りの食事をすればいい話なだけだと今でも思うわけだ。

 もしも、それによってスーパーとかも全部店は閉めます。
 とか、
 もしも、かかったときのために自分じゃ作れなくなるだろうから買いだめておく。
 特に後者というなら分かる。けれど、他人の内心は知り得ないものの、後者のような備えではないように感じる。

 もっと根本的に、だ。
 電気や水道、ガスが止まればお湯が使えないので家でもカップ麺は食べられない。
 冷凍食品も食べられない。
 ゆえに、そもそも非常時にしてもどうなの? って僕は首を傾げてしまう。
 非常時には、実はそれらは手軽に食べらない食事だろうと。

 「武漢肺炎を恐れる必要はない」と言うつもりはない。
 感染しやすい状況を避ける、衛生管理をしっかりする、といった日頃の僕たちの注意は以前より増しているとは感じている。
 一時の盛り上がりに扇動されることなく、怖がることが必要ではないか。

 可能な限り定量的に、客観的に、何が必要で何が不要かを、見極めていくことが大切だと思う。
 特別なことは何も言ってないが、たとえばネット記事一つではなく、複数の情報をもとに整合性を高めるとか、ツイッターなどの個人が発信するデータを鵜呑みにしないとか。
 その上で、身を守るためにできることをやっていく。
 それは少なくとも、慌ててカップ麺や冷凍食品の買いだめをすることではないと思う。
 だったら日頃から家の中でルール決めてやっておけば、いざって時に品切れでヒステリックを起こさなくて済むという話。
 ヒステリックを起こしたあとにたまたま別の店で運良く見つけたときには、その人がまた買い占めをするだろう。
 そして他の人に行き渡らないという悪循環。
  ……うんざりしてしまう。

 デマをはじめ、フェイクニュースで騒がれる現状を鑑みて、テレビも新聞もネットも何が正しいか本当のところは分からない。
 だからこそ、何かをする前には一旦情報と、自分自身の感情を疑うことも必要だと考えている。
 
 明日、緊急事態宣言が効力を発するということだから、昨日もそうだったけど、今日もまたスーパーで長蛇の列に並ばなければならないかと思うと、今から気が重い。

 必要なものを、必要な分だけ。
 情報も、モノも溢れているからこそ、「増やしすぎない」だとか、「本当に意味があるのか、必要なのか」とか、「情報、状況の正しさ」というところを、熟考することが重要ではないだろうか。
 立ち位置を誤ると、結局は自分自身が身を滅ぼすように僕は感じられてならない。



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