翌朝、式の時間は聞いていたので支度に間に合う時間に起床した。
ツインの部屋だったので隣のベッドで眠る父は、いつまで話していたのかまだ夢の中だった。
さっぱり起きる気配もない。
僕はジャケットを除いて喪服に着替え、居室の方へと向かうと、昨日のお手伝いさんがキッチンにいた。
挨拶を交わしお茶を飲む。
それから少し経ってきょうだいもやってきて、昨晩の話をした。
「ねぇ、昨日夜中に入れなくなったからって、外から窓叩かれて起こされたんだよ」
と、なにやら穏やかでないことを言ってくる。
曰く、深夜に牧場に勤めているご夫妻を見送ったあと、両親は施設の自動ドアが開かずに困ってしまい、外から窓を叩いてきょうだいを起こして入れてもらったとのことだった。
その話を聞いて何をしているやら、と呆れていると母がやってきて、当直の人を呼び出してもでてこなかったと言う。
二人のしょうもないやりとりを聞き流していると、ふと「お父さん起こしてきて」と母が僕に言った。
しかたなく席を立って寝室に行き、声をかけて戻ってくると、朝食を机に並べているところだった。
先にいただいているとしばらくして父が起きてきて、昨晩のことを語る。
「先にハルの方を起こそうとしたんだけど、まったく反応なかったんだよ」
その後もウンタラカンタラと、あたかも僕が起きなかったことが悪いみたいなことを半笑いで言ってきたので、なんか随分と理不尽なこと言ってるなと内心毒づき、無視した。
寝坊してきた父に早々に嫌味を言われて気分を害したので、僕は食後に寝室へと戻り、気分転換を兼ねて持ってきていた携帯ゲーム機で時間を潰した。
それから三十分くらい経ってから、「そろそろ」とお呼びがかかったのでジャケットを羽織り、居室へと戻ると、すでに参列者の方々は到着していて、ちょうど棺を葬儀場へと運び出すところだった。
それを手伝い、流れで葬儀場へ。
昨日と同じお寺の住職がいらして、葬儀が始まる。
途中、今年入社したばかりの会社から弔電の読み上げがあり、感謝に絶えず、泣くまではいかなかったがきちんと役目を果たさねばと気持ちを新たにした。
それから、不思議なことに子供の頃にはあって、いつしか失われた感覚がこのときばかりは戻ってきて、壇上の棺を取り囲むようにたくさんの白い影がやってきていた。
その中にふと、背筋を伸ばして笑顔で話す祖母の影を見た。
あんな顔をするんだなぁ、なんて嬉しくなってしまい、悲しさとは違う涙が溢れた。
そうか、もう次を見ることができている。
いつ朽ちるかもしれない肉体と、どうにもならない現実に縛られることもない。
あぁ、よかったなぁ……――。
最後のお別れの前、花を詰める時にももう一度「お疲れ様」と心の中で声をかけた。
「最後のお別れの時です」
と、司会の方が言う前に僕はもうお別れが済んでしまっていたから、一歩後ろで手を合わせただ涙を流しながら家族や親族がお別れの言葉を告げる様を眺めていた。
棺は霊柩車に乗って火葬場へ。
祖父の時と同じ火葬場で、祖父の時と同じ段取りで待機室へ。
昨日よりは少し打ち解けた参列者の方々と少し話をしながら待つこと一時間半。
呼び出されたので揃って収骨へ。
祖父のときにはあれほど流れていた涙は、少しも頬を伝うこともなくて。
代わりに出てきた魚の骨のような形をした「鉄の塊」に感嘆の声を上げた。
先に書いていたかと思うが、脊椎が悪かった祖母の首にあったものだ。
文字通り、茶色くなった鉄の塊とボルト、ナットが転がっていた。
それらは避けて、壺に骨を納めた。
あまり残った骨も多くなく、短い時間でそれも済んで、骨つぼ、遺影を持って葬儀場へと戻る。
一度スタッフさんに骨つぼを預け、今度は慌ただしく葬儀場を出る支度を進めた。
あとから遺影や骨つぼは家の方に持ってきてくれるとのことだったので、少ない荷物をまとめ、着替えてから住む人がいなくなった家に戻った。
ややあって、葬儀場の方が来て、仏間を整えて帰っていく。
どっと疲れを感じて、僕は居間で気づかないうちに居眠りをしていた。
途中、きょうだいの周辺の散歩に付き合ったり、車で買い物に付き合ったりして一日を終える。
これだけきょうだいと話したのはいつ以来だったろうか、もしかしたらそんな機会すらないかもしれない。
そして次に来るのは……あまり考えたくはないことだ。
翌日、きょうだいは一足先に関東へ戻るという。
空港まで車で送っていき、きょうだいを見送ってから両親が、
「ペーパードライバーのはずのハルが、意外と上手かった。自分も練習せねば」
なんてきょうだいが言っていた、と笑った。
ペーパードライバーだからこそ、こういう機会に運転して練習しているのだが……。
そしてアナタ、僕が運転するか聞いたら断ったじゃないの……。
どこへ行くでもなく最終日を迎え、最終便で成田に戻ってきた。
出発前には、仏壇に線香を上げてきた。
特にやることも語ることもなく、飛行機からの眺めすらも乗り慣れてしまって感動はない。
強いて言えば、いつからか大きなソーラーパネルが設置されるようになったのを見るたびに、胸が痛んだというくらいだろうか。
成田に着いたのは夜十時半頃だっただろうか。
そこから都内のアパートまで雨上がりの高速で送ってもらい、約三時間。
帰宅したら一報入れるよう伝えて、両親を見送った。
今回、亡くなった祖母もそうだし、参列者の方もそう。
当たり前のこと、仕方のないことだが、集まりがあるたびに知っている人が減っていく。
年齢を重ねるたびにそれを顕著に思うようになって、それを何食わぬ顔して談笑できるものだから、抗うものでもなく、かといって無条件に受け入れるものでもなく、長生きしてほしいなと遠目に眺め、また僕もそうやって送られるのだろう。
人生の終わりをより身近に思うようになったし、青年の頃とは体が変わっていることももちろん感じる。
技術者として現場を転々としてきて、出会ってきた人たちの顔も覚えていたり、いなかったり、今覚えている人たちは何もなければ最期まできっと忘れないのだろう。
そして、忘れないために写真というものがあるのだろう。
毎年のように葬儀の連絡がきたり、子供の頃遊んだ従兄弟が子連れだったり、同級生が再婚したりと、変化のない日常に僕はふと、時間に取り残されているような錯覚も覚える。
大学生時代の同級生も、僕の顔なんてきっと覚えちゃいないだろう。
自分が歩んできた時間の節目が、重ねた年齢の何分の一かになっていく。
そうして、出会った人の数よりも忘れた人の数のほうが多くなって、死ぬ時はきっと皆一人だ。
順番とは言うけれど、あと残された両親を見送ってしまうと、本当に帰れる場所がなくなってしまうことにようやく気がついて、あれから少し怖くなってしまった。
自分らは好きにやるから気にしなくていい、と両親は言うけれど、そうも言ってられないこともあるだろう。
でもそう思えることはきっと幸せなことだ。
噛み締めてというほど大層なものではないが、言いたいことは忘れる前に言っておかなければならない。
こちらを向いていない瞳ほど、寂しいものはないから。