上げ忘れていた記事の更新。9/1分

 この一か月くらい、まともな生きる力を充電できたと感じてから、ようやくなんとかせねばと考え始めた。

 自分がどうあるべきか、どうありたいのか、何ができて、できないのか。
 ぐっちゃぐちゃに絡まった考え方、ひん曲がった決めつけや勘違い。
 他人が言うこと、印象におびえて、見栄や虚勢を張り、考えなくていい言い訳、やらなくていい言い訳を探して、一番後回しにしてきたようにも、逃げてきたようにも思う。
 せめてそれくらいからは脱却したい。
 薄ら笑いを浮かべて、へこへこしてきた自分に心底うんざりしたんだ。そんなことがしたかったから、心が痛むまで何かをしてきたのか?

 同時に腹も立った。疑問も湧いてきた。
 いや、めっちゃ頑張ってたじゃん。今あるものをよりよくしたいと考えてきた。できることは精一杯やってきた。
 なんであんな言い方されなきゃならないのか。
 わたしだけが本当に悪かったのか? どうしてだ。
 休職するほど追い詰められてまで、なぜ「君の心が弱いことが悪い」と責められなきゃいけない。
 わたし悪くない。考えれば考えるほど、疑問だ。
 今までわたし自身を追い詰めていた劣等感は消えないけれど、考えれば考えるほど違和感しかない。

 仕事をしてきて、他者にどれだけ迷惑をかけたか。
 身バレもあるから細かくは書かないが、事実として迷惑よりも、実績が上回っていたからこそ、何年も同じ現場で迎え続けられていたのではないのか。
 そのくせ精神が疲弊したら迷惑だっていう理屈はおかしいじゃないか。
 その責任はわたしが取らなければならないものなのか。
 我に返って、納得がいかないことにようやく気付いた。

 こう、我に返ったのにはきっかけがある。
 読んでいた本の中で、内向型やHSPという傾向がある人間の存在を説明しているものがあった。
 なんとなく言葉は知っていたが、あまり分類わけすることも好きではなかったから深くは知らなかったが、いろいろ読み漁るほどわたし自身の悩みや苦しみと近しい事象がたくさん載っていた。
 はたと、わたしが欲しかったものにも気づいた。
 わたし自身が「納得して」自分を許せる理屈だ。
 他人が励ましてくれるか、認めてくれるか、理解してくれるか、ということではなかったようだと、また迷うんだろうけど今は少しわかった気がする。
 そしたら、何を他人に求めていたの今度はわからなくなった。今は、ぽいってしちゃっていいのかもしれない。

 極端なネガティブ、完璧主義だったり。
 他者の感情、場の空気、物事のバランスに敏感だったり。
 好奇心のままにマイペースに向かっていき、他者を真似するのではなく、好きなようにやったらいいんだと。
 富や地位を求めることが本質ではなく、自分の心が満たされるかどうか。
 こう書いてしまうととてもありきたりで、どこでも聞くような話ではある。
 でもこの納得は、これまで感じたことがなかった。
 何度も読んだことがある話ではあったのだが、理由は分からないけど今回はこれまでとは違った。

 きれいさっぱり割り切ることはできないし、同じように悩むことはまたあるだろう。
 少なくとも今は、こうしたいということはある。
 目指すは、半分の力で二倍の成果を上げること。
 変人だと後ろ指差されることを甘受し、誇れるようにしたい。
 この目標には根拠があるのだが、スピリチュアルな話も絡んでくるのでここでは避ける。
 眉唾な話も混ぜるが、俗に言う霊感というものがわたしにはある。これまで不思議な体験もいくつもしてきた。
 某宗教団体にも所属しているが、休職をしてとあるきっかけで深く祈りを捧げる機会も生まれた。
 結果、身内の不幸も回避できたし、友人の悩みや旅行にも一つよい出来事をもたらすことができた。
 眉唾、偶然と一笑してしまえばそれまでだが、わたしは確かに「届いた」と感じたものだ。
 次は、自分の番だ。
 一番難しいけど、一番大切なこと。

 内向的な人の話をしよう。
 先に宣言しておくが、外向的な人を落とす意味はない。あくまで傾向であり、自己判断に基づいた主観である。

 人の感情や場の空気に敏感で、警戒心も高く、リスクやストレスに対しても敏感。
 自己の納得感や充足感を大切にし、少しの刺激で満足する。
 そういうものらしい。
 例えば限界値が、外向的な人が満足できるところの七割などというと、溢れた三割分は許容オーバーということだ。
 社会に住む人は外向的な傾向を持つ人が多いらしく、その向きに作られているのだという。
 なので、内向的な傾向が強い人には社会に適応するために必要な、エネルギーの消費量割合が増えるという話。
 代わりに得られるのは細やかな気遣いやら、共感性やら、独特なアイデア性やら、少々変わった特性らしい。
 言ってしまえば、「変わっている」と呼ばれる人々が多いのだという。

 故に、社会のレールに乗っかってやるだけではなく、自分が望む方へ、より人の少ない方へと向かっていく方が結果としていいという内容。
 昔からの右向け右ができないとか、どうにもならない生きづらさ、違和感、劣等感やら、「普通」でありたいという願いは、着地点がズレていたようだ。
 何度目かの、それを受け入れる決心をした。

※複数の書籍等の内容をかいつまんでるし、そもそも自己満の記述なので意味が飛び飛びになるのはご容赦を。