大橋建一ブログ

元新聞記者、前和歌山市長の大橋建一のブログです。

大橋建一のコラム(惰学記、余談独談)と活動日誌は2014(平成26)年4月28日以後、 ライブドアブログで発信いたします。当分の間、これまでの大橋建一ホームページ(http://www.ken-ohashi.jp/)は残していますので、古いコラムなどはそちらをご参照 くださいますようお願いします。

 「北京の55日」は、19世紀と20世紀の境目となる1900年に起きた中国民衆の蜂起事件「義和団の乱」を題材に、ハリウッド調の大スペクタクル活劇に仕立てた1963年の米映画*2である。監督は「大砂塵」「理由なき反抗」などのニコラス・レイ。チャールトン・ヘストン、エヴァ・ガードナー、デヴィット・ニーヴン、伊丹十三*1らが出演した。音楽は5060年代の米映画「ジャイアンツ」「OK牧場の決斗」「リオ・ブラボー」「アラモ」、初期のテレビ映画シリーズ「ローハイド」のディミトリ・ティオムキンが担当、60年に「グリーンフィールズ」がヒットした男声4人組ブラザース・フォアが同名主題歌を歌った。
  私は当時高校2年、世界史の授業が偶々この時期で、担当教師が「映画ではルイス少佐ら欧米人の活躍が描かれているが、史実は全く違う。55日間の籠城戦を耐え抜き勝利に導いた主役は日本の北京駐在武官・柴五郎中佐だ*3」と授業で熱弁を振るったのを思い出す。

では史実は――。日清戦争後、三国干渉*4で中国に恩を売ったドイツは青島郊外の膠州湾を拠点に山東省全体へ権益を広げ、キリスト教布教に力を入れたが、強引な布教と教会建設用地として農民の土地を奪ったため、地元の英傑・孔子を尊ぶ義和団*5と衝突が続いた。清朝政府は独の抗議を入れて義和団を弾圧、義和団は「扶清滅洋*6」を叫びながら大挙北京に向け移動した。1900610日、紫禁城や天安門広場周辺は義和団で埋まり、近隣の列国公使館が集まった紫禁城東南の交民巷地区を包囲、小競り合いが続いた。当時の清朝の実権は西太后*7が握っていたが、621日に11カ国公使館*8が完全包囲されたのを見て義和団に付き、列国に宣戦布告した*9。全滅もありうる籠城戦の始まりである。籠城中の柴中佐は居留民保護を重視、他国と協力して8ヵ国連合軍の北京到着まで東交民巷を守り抜いた功を称えられ、英ビクトリア女王はじめ籠城各国から勲章を授与された。

*1 1963年当時は米中間に国交がなく(米国は台湾の蒋介石政権を中国全土の正当政府としていた。)関係は最悪で、中国本土での映画ロケは不可能であった。そのためこの映画はほぼスペインで撮影された。    

*2 伊丹十三(193397)は本名池内義弘、60年に大映入社、永田雅一社長に「伊丹一三」の芸名をもらったが、翌年退社し、63年に「北京の55日」に出演した。65年に前妻の川喜多和子と離婚、前年に映画「日本春歌考」で共演した宮本信子と知り合い、「心機一転の意味でマイナス(一)をプラス(十)に変える」と、芸名の伊丹一三を十三に変えた。宮本とは69年に正式に結婚し、84年には映画監督に転身、「お葬式」「マルサの女」「ミンボーの女」など数々の話題作のメガホンを取った。

*3 映画の主役はチャールトン・ヘストンのルイス少佐(米海兵隊員)で、乱の直前に部下を引き連れて北京に入ったとされるが、どうも架空の人物のようだ。伊丹十三が演じた日本人の北京駐在武官柴五郎中佐は、映画ではチョイ役だが、実際は得意の語学力(英、中、仏語に堪能で、ロシア語、ドイツ語、スペイン語もできたという)で欧米各国の公使や武官を説得し、東交民巷に逃げ込んだ一般の非中国人、キリスト教徒(中国人も含む)にも配慮、右往左往する各国公使館員に、さりげなく適切な対処を指示して全体の信頼を勝ちとり、いつのまにか司令官的存在となった。柴中佐は籠城前に東交民巷とその周辺の地理を調べ尽くしていた。

*4 日清戦争に勝利した日本は1895417日、「清国は台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲、賠償金2億テール(現在の価値で約3億円→ただし3億円は日本の当時の国家予算の4倍に当たるので、3億円よりはずっと高いはずだ)を払う」という下関条約を締結したが、欧米列強に日本の中国大陸部への領土的野心を知らしめて新たな問題を生んだ。不凍港を求め南進政策を進めるロシアにとって旅順、大連のある遼東半島を日本に渡すのは絶対許せないことで、同盟国フランスと、中国に出遅れていたドイツを語らい、5日後の22日に「遼東半島割譲は北京など中国中心部への脅威となり、朝鮮の独立を有名無実にし、極東の平和を危うくするので、日本は遼東半島を放棄すべきだ」と勧告する三国干渉を行った。欧州3列強と戦っては勝ち目がなく、55日、日本は遼東半島返還を決断、代償として賠償金を3000テール上積みさせた。

*5 義和団のルーツについては諸説あるが、発祥の地は山東省らしい。山東省には孔子生誕の地・曲阜(生誕当時は鄹邑=陬邑といった)があり、同省は中国の歴史と伝統に誇りを持つ人たちが多く、ドイツの強引な布教政策への住民の不満が募り義和団が急成長したとみられる。

*6 「扶清滅洋」は列強の急激な進出に対する危機感と、列強の進出を抑えられない清朝政府へのいら立ちから民衆が清を助けて西洋を滅ぼそうという思いを込めた義和団のスローガンで、広く中国の民衆に浸透した。 

*7 西太后(18351908)は清朝9咸豊帝の后妃。1852年、紫禁城で3年ごとに行われる后妃選定面接試験に合格、56年咸豊帝の長男(後の同治帝を生んだ。61年に5歳で即位した同治帝は74年嘉順皇后と結婚、それを機に親政を行おうとしたが同年病死し、後継問題が持ち上がった。西太后は自分の妹の子を光緒帝として即位させ、権力の中枢に居座った。同治帝の嘉順皇后は西太后に幽閉され死亡。81年には咸豊帝の皇后・東太后が45歳で突然死去、これにより西太后は絶対的な権力を確立した。

*8 東交民巷に籠城したのは英、仏、露、独、米、伊、オーストリア=ハンガリー、スペイン、ベルギー、オランダ、日本の11ヵ国公使館。柴中佐の事実上のリーダーシップで全公使館建物を「共有の城」として防御態勢を強化し、今か今かと援軍を待った。援軍となるべき連合軍は、英(主力はインド、オーストラリア軍)、仏、露、独、米、オーストリア=ハンガリー、日本の8か国だったが、当初は作戦がまとまらず、清国分割支配のため、公使館員を「捨て駒」にしようという思惑の国まであった。また、天津~北京間は義和団が占拠し、北京に向けた鉄道を動かすことができなかった。

*9 西太后は宣戦布告直後に紫禁城を脱出、西安に逃げた。脱出時に、そりが合わず2年前から紫禁城内の冷宮に幽閉していた珍妃(光緒帝寵愛の妃)を王宮内の井戸に投げ込んで殺すよう命じ、珍妃は24歳で命を落とした。




 小学生時代だから、今から60以上前のことである。そのころ、母方の祖父母と父方の伯母・従姉弟が東京に住んでいたので、春休みや夏休みには必ずと言っていいほど母と一緒に東京に行っていた。母の弟2人が相次いで早世したこともあって、祖父母を慰めるための母の「里帰り」ということだったようだが、私にとっては、和歌山では見られないものを体験できるワクワク旅だった。後楽園球場で初めてプロ野球を見た*1のは2年生の夏休みだったし、万世橋の交通博物館や渋谷の五島プラネタリウムに行ったのも懐かしい。だが最も印象に残っているのは旅そのもの、つまり列車による大阪~東京間の往復だった。

 もちろん、当時東海道新幹線はなく*2、東海道本線そのものも一部は未電化で、東京~大阪を8時間で走る*3特急「つばめ」「はと」の各1往復が最速の列車だった。「つばめ」は上りも下りも9時発17時着、「はと」は1230分発2030分着、和歌山からだと往路は「はと」、復路は「つばめ」が便利だった。子どものころ、ちょっと目立ちたがり屋*4だった私は、何度も乗っているうちに、「途中の駅名を全部覚えたら、エーカッコウできるだろうな」と思いついた。今は見る影もないが、当時は記憶力も抜群だった*5ので、あっという間に覚えてしまい、学校や、父が家に招待した客人の前で何度も披露したものだ。

 幼いころ覚えたことは、年を取ってもなかなか忘れないもので、今でも、つっかえつっかえではあるが、当時覚えた駅名を言うことができる。だが、今これを人前で披露することはできない。旧東海道本線の東京―神戸間の駅の数は、私が覚えた当時は132*6だったが、今は当時よりも34駅も増えているからで、これを覚え直すのは至難の業である。

 ちなみに、増えた駅は東から▽東戸塚=神奈川県▽片浜、新蒲原、東静岡、安倍川、西焼津、六合、愛野、豊田町=静岡県▽三河大塚、三河塩津、三ヶ根、相見、西岡崎、三河安城、東刈谷、野田新町、逢妻、南大高、金山、尾頭橋=愛知県▽西岐阜=岐阜県▽南彦根、栗東、南草津、瀬田=滋賀県▽桂川、長岡京=京都府▽島本、JR総持寺、新大阪=大阪府▽さくら夙川、甲南山手、摩耶=兵庫県の34駅。中で最も新しいのは昨年317日開業のJR総持寺で、古いのは新幹線開業前の60年に臨時駅から昇格した三河大塚だ*7

東海道新幹線開業から約55年、旧東海道線はローカル鉄道になってしまったが、その分、都市近郊の通勤・通学列車としての役割が大きくなったのが駅増加の主な要因のようだ。

一方、新幹線は東海道(東京~新大阪)が12駅でスタートしたが、品川、三島、新富士、掛川、三河安城が増えて17駅、山陽18駅、九州11駅、東北23駅、山形10駅、秋田5駅、上越10駅、北陸12駅、北海道3駅で、現在のところ109駅である*8。むしろ、これを覚える方が簡単かもしれないが、こっちもどんどん増えるし、このトシでは無理かなー。

 

*1 1954年、中日ドラゴンズが優勝した年の夏、巨人~中日戦を後楽園球場のネット裏で見た。当時からアンチ巨人で、この試合、中日が勝ったのをうっすら覚えている。

*2 東海道新幹線が開業したのは1964101日、東京オリンピックの直前だった。

*3 私が最初に東海道本線の特急で東京に行ったころは、電気機関車が牽引する区間は浜松~東京間だけだったが、その後名古屋~浜松間、米原~名古屋間が順次電化され、195611月に京都~米原間の電化が完成、すでに電化済みだった神戸~京都間も含め全線電化が完了した。これに伴い、「つばめ」「はと」の東京~大阪間の所要時間は30分短縮され7時時間30分になった。さらに58年に電車特急「こだま」が運航開始され、東京~大阪間は6時間50分に短縮された。

*4 父親に教えられた小話を学校で披露したり、何年も先のカレンダーを覚えて大人を驚かせたりしていた。小学校6年の時には和歌山の児童劇団に所属、舞台で2度主役を演じた。

*5 百人一首はかなり早くから覚えたし、和歌山の市電(和歌山電気軌道→南海)や東京の山手線、中央線電車の駅名は東海道線よりずっと前から覚えていた。なぜか阪和線や南海電車の駅名を覚えた記憶はない。

*6 132駅の中には山手線・京浜東北線、横須賀線、今のJR京都線・神戸線の電車しか止まらない駅(たとえば浜松町、保土ヶ谷、茨木など)も含まれている。

*7 改めて132駅と増えた35駅(赤字)のすべてを以下に列挙する。

▽東京、有楽町、新橋、浜松町、田町、品川、大井町、大森、蒲田(以上東京都)▽川崎、鶴見、新子安、東神奈川、横浜、保土ヶ谷、東戸塚、戸塚、大船、藤沢、辻堂、茅ケ崎、平塚、大磯、二宮、国府津、鴨宮、小田原、早川、根府川、真鶴、湯河原(神奈川県)▽熱海、函南、三島、沼津、片浜、原、東田子の浦、吉原、富士、富士川=旧岩淵、新蒲原、蒲原、由比、興津、清水、草薙、東静岡、静岡、安倍川、用宗、焼津、西焼津、藤枝、六合、島田、金谷、菊川、掛川、愛野、袋井、磐田、豊田町、天竜川、浜松、高塚、舞阪、弁天島、鷲津、新所原(静岡県)▽二川、豊橋、愛知御津、三河大塚、三河三谷、蒲郡、三河塩津三ケ根、幸田、相見、岡崎、西岡崎、安城、三河安城東刈谷野田新町、刈谷、逢妻、大府、共和、南大高、大高、笠寺、熱田、金山尾頭橋、名古屋、枇杷島、清洲、稲沢、尾張一宮、木曽川(愛知県)▽岐阜、西岐阜、穂積、大垣、垂井、関ケ原(岐阜県)▽柏原、近江長岡、醒ヶ井、米原、彦根、南彦根、河瀬、稲枝、能登川、安土、近江八幡、篠原、野洲、守山、栗東、草津、南草津瀬田、石山、膳所、大津(滋賀県)▽山科、京都、西大路、桂川、向日町、長岡京、山崎(京都府)▽島本、高槻、摂津富田、JR総持寺、茨木、千里丘、岸辺、吹田、東淀川、新大阪、大阪、塚本(大阪府)▽尼崎、立花、甲子園口、西宮、さくら夙川、芦屋、甲南山手、摂津本山、住吉、摩耶、六甲道、灘、三ノ宮、元町、神戸(兵庫県、神戸から西は山陽本線)

*8 全国の新幹線の駅を列挙すると

北海道・東北新幹線▽新函館北斗、木古内(北海道)▽奥津軽いまべつ、新青森、七戸十和田、八戸(青森県)▽二戸、いわて沼宮内、盛岡、新花巻、北上、水沢江刺、一ノ関(岩手県)▽くりこま高原、古川、仙台、白石蔵王(宮城県)▽福島、郡山、新白河(福島県)▽那須塩原、宇都宮、小山(栃木県)▽大宮(埼玉県)▽上野<東京へ>

東海道・山陽新幹線=東京、品川(東京都)▽新横浜、小田原(神奈川県)▽熱海、三島、新富士、静岡、掛川、浜松(静岡県)▽豊橋、三河安城、名古屋(愛知県)▽岐阜羽島(岐阜県)▽米原(滋賀県)▽京都(京都府)▽新大阪(大阪府)▽新神戸、西明石、姫路、相生(兵庫県)▽岡山、新倉敷(岡山県)▽福山、新尾道、三原、東広島、広島(広島県)▽新岩国、徳山、新山口、厚狭、新下関(山口県)▽小倉、博多(福岡県)

九州新幹線<博多から>▽新鳥栖(佐賀県)▽久留米、筑後船小屋、新大牟田(福岡県)▽新玉名、熊本、新八代、新水俣(熊本県)▽出水、川内、鹿児島中央(鹿児島県)

◇秋田新幹線=秋田、大曲、角館、田沢湖(秋田県)▽雫石(岩手県)<盛岡へ>

◇山形新幹線=新庄、大石田、村山、さくらんぼ東根、天童、山形、かみのやま温泉、赤湯、高畠、米沢(山形県)<福島へ>

◇上越新幹線=新潟、燕三条、長岡、浦佐、越後湯沢(新潟県)▽上毛高原、高崎(群馬県)▽本庄早稲田、熊谷(埼玉県)<大宮へ>

◇北陸新幹線=金沢(石川県)▽新高岡、富山、黒部宇奈月温泉(富山県)▽糸魚川、上越妙高(新潟県)▽飯山、長野、上田、佐久平、軽井沢(長野県)▽安中榛名(群馬県)<高崎へ>

 ベサメ ベサメ ムーチョ 私のすべてはあなたなのよ ベサメ ベサメ ムーチョ いつも いつも いつまでもよ*1 こんな歌詞の歌を、うた好きだった父が風呂上がりに上機嫌でおどけて、母に向かって歌っていたのはいつ頃のことだっただろうか。私が小学生時代、それも低学年だった1954年ごろの気がするのだが、記憶がはっきりしない。
 昔の歌について書いたブログ「二木紘三のうた物語」によれば、メキシコの女性作曲家コンスエロ・ベラスケス(1920?2005)が1941年に作り*2、たちまち世界的なヒットとなったとある。そのころ日本は米国と太平洋戦争に突入する直前で、誰もこの曲のヒットなど知らなかったが、1945年の敗戦とともに進駐軍放送を通じて日本人の洋楽愛好家に知られるところとなって、トリオ・ロス・パンチョスなどラテン系バンドによって広まった。
 この曲の日本語盤リリースは1950年で、黒木曜子という歌手が早川真平とオルケスタ・ティピカ東京の伴奏で歌いヒットしたという。この辺りはすべて「二木紘三のうた物語」の受け売りである。当時は洋楽邦楽を問わず流行歌の寿命が長く、かなり長く歌い継がれていたようで、NHK紅白歌合戦には1959年の第10回に登場、藤沢嵐子*3が歌った。
 さて、ご承知の通り19953月に当時日本で活躍していた韓国人歌手のケー・ウンスク(桂銀淑)が「ベサメムーチョ」という曲を13枚目のシングルとして出し、そこそこのヒットとなった。もちろんベラスケスのカバーではなく、FUMIKO作詞、杉本眞人作曲*4の「新曲」である。ここでも使われた「ベサメムーチョ」っていったいどういう意味?
 答は「いっぱいキスして」。スペイン語でBésame muchoと書く。bésaはフランス語のベーゼに当たるbésar(キスする)の命令形で、meは英語と同じで「私に」。uchoは英語のmuchでたくさんということだ。父は意味を知っていて母に歌いかけたのだろうか。


*1 実はこの歌詞は2番の冒頭で、1番は「ベサメ ベサメ ムーチョ」のあとが「燃ゆる口づけを交わすたびに ベサメ ベサメ ムーチョ いつもいつも流れる調べ どんなに雨が降っても 風が吹き荒れても も一度 またも一度 燃ゆるあの口づけ……」(訳詞・鈴木勝)と、もっと激しい。
*2 「二木紘三のうた物語」によれば、ベラスケス死去の時、NYタイムス紙が「彼女は1920年生まれを自称していたが、実は1916年生まれだった」と報じた。とすればこの曲を作った時(1940年説も有力)25歳前後で、この歌詞を作るにふさわしい年齢だったと言える。
*3 藤沢嵐子(19252013)は「タンゴの女王」と呼ばれ一世を風靡した歌手。ドサ回りなど苦労していた時期に早川真平とオルケスタ・ティピカ東京の目に留まり、専属歌手をしていた時期があった。
*4 FUMIKOは本名岡田富美子、シブがき隊「スシ食いねえ!」、ずうとるび「みかん色の恋」、鈴木雅之・聖美「ロンリーチャップリン」などたくさんのヒット曲を書いている。杉本眞人は自ら歌った「吾亦紅」のほか、小柳ルミ子「お久しぶりね」「今さらジロー」、今陽子「東高円寺」、桂銀淑「花のように鳥のように」などのヒット曲がある。

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