大橋建一ブログ

元新聞記者、前和歌山市長の大橋建一のブログです。

大橋建一のコラム(惰学記、余談独談)と活動日誌は2014(平成26)年4月28日以後、 ライブドアブログで発信いたします。当分の間、これまでの大橋建一ホームページ(http://www.ken-ohashi.jp/)は残していますので、古いコラムなどはそちらをご参照 くださいますようお願いします。

 今年は外務省に唯一銅像が立つ外相経験者である陸奥宗光(18441897)の没後120周年という節目の年だった。陸奥は和歌山県(紀州藩)出身の士族で、坂本龍馬に見出されて倒幕運動に加わり、維新後、明治政府入りしたものの、薩長の藩閥政権に冷遇され、投獄される*1などの辛苦を重ねながら、能力一本で駐米大使、農商務大臣、外務大臣と中枢を歩んだ優れた政治家であった。和歌山では今年、数々の120周年記念行事が行われた*2

陸奥の事績は数々あるが、何といっても開国時に結ばれた不平等条約=安政5か国条約を改正させたことが最大の功績である。安政5ヵ国条約は各国に治外法権を認め、わが国は関税自主権を持たないという屈辱的内容で、明治政府は条約改正に全力を傾けてきた。

 1883(明治16)年1月に特赦された陸奥は、親友の伊藤博文の勧めでヨーロッパに留学、ロンドン、ウイーンで政治学を学んで862月に帰国、外務省に出仕した。同年10月、英国の貨物船ノルマントン号が和歌山県潮岬沖で沈没、日本人25人が船中に取り残され、全員溺死したが、英独両国の乗組員計26人は脱出し救助された。船長らは在日英国総領事による海難審判で全員無罪*3となり世論が沸騰、翌年、井上馨外相の条約改定案*4が世論の批判を受け、外相は辞任した。このような状況の下、陸奥は882月に駐米兼駐メキシコ公使に任命され、妻亮子*5とともに赴任、亮子はその美貌と会話力で「ワシントンの婦人公使」と評判になった。その効果もあってか、同年11月には初の対等条約である「日墨修好通商条約」がメキシコとの間で締結の運びとなり、不平等条約改正の端緒が開かれた。

ところが、当時の外相、大隈重信は条約改正と引き換えに外国人の判事を登用する案を進めようとして、反対派の爆弾テロで右足を切断、交渉はストップし大隈は辞任。さらに、後任の青木周蔵は91年の大津事件(訪日中のロシア皇太子ニコライ*6が大津で警察官の津田三蔵に切り付けられた暗殺未遂事件)で辞任を余儀なくされ、交渉はまた頓挫した。

 901月、駐米公使の任を終え帰国した陸奥は農商務相を経て、928月には第2次伊藤博文内閣の外相に就任、粘り強い交渉で日清戦争開戦直前の947月、日英通商航海条約に調印し、他の列国とも順次同様の条約が結ばれ、治外法権撤廃に成功した*7のである。

 さて、現代の不平等条約といえば、何といっても沖縄で米軍関係者が起こした事件で登場する「日米地位協定*8」である。すべての米軍関係者が沖縄で起こした事件について実質的に治外法権が認められる内容で、事件の度に協定改定の必要性が叫ばれるが、政府は運用見直しを求めるだけで、本気で改定を求める気は「さらさらない」ようだ。同じ戦敗国のドイツもイタリアも、大使館以外の土地管理権を取り戻しているというのに、である。陸奥のように、命がけ*9で条約改定に臨む政治家は、今の日本には一人もいないのか。                (写真の下に注釈があります)

陸奥と亮子

*1 陸奥は1877(明治10)年に起きた西南戦争に呼応して土佐グループが起こした立志社事件に関与したとして翌78年に逮捕・投獄された。

*2 陸奥は藩の重役であった父伊達千広が藩内抗争に敗れ幽閉されたことから脱藩、脱藩に至る経緯から考えても、陸奥は紀州藩に決して良い感情を持っていなかったと思われる。だが、維新直後、戊辰戦争に敗れた幕府方の兵が紀州藩に大挙逃げ込み、それをとがめた新政府側が、京都に滞在中の15代藩主徳川茂承を事実上の人質にして、紀州藩に15万両の上納と紀州以外の藩領(伊勢など約15万石)放棄を求めた際、陸奥は藩の家老らから話を聴き、新政府のボスだった岩倉具視と直談判して、要求を撤回させている。

*3 海難審判でドレーク船長は「ノルマントン号は貨物船なので、日本語が話せる乗客向けのスタッフはいない。船員は日本人に早くボートに乗り移るよう勧めたが、日本人は英語がわからず、船内に籠もって出ようとしなかったのでしかたなく日本人を置いてボートに移った」などと陳述、これを審判長の神戸駐在在日英国領事ジェームズ・ツループが認め、船長以下全員に無罪判決を下した。世論はこの判決に猛反発、井上馨外相は世論を抑えきれないと判断、ドレーク船長らを殺人罪で横浜英国領事裁判所に告訴、同裁判所判事のニコラス・ハンネンドレーク船長に禁固3カ月の有罪判決を下した。しかし死者への賠償金は認められなかった。(以上ウィキペディアによる)

*4 井上外相は条約改正実現のために、日本が欧米並みの国家に成長していることを列国に認めてもらおうとして鹿鳴館など欧化政策を進めていたが、ノルマントン号事件をきっかけに、「治外法権撤廃と引き換えに、外国人の内地雑居を認める」という案で列国と交渉しようとしていることが明るみに出て世論の反発を受け、辞任に追い込まれた。

*5 陸奥亮子(18561900)は旗本・金田蔀の妾の長女。ウィキペディアによると、維新後、東京・新橋の芸者となり、新橋で一、二を争う美貌の名妓だったが、身持ちは堅かったといわれる。1872(明治5)年2月、陸奥宗光の先妻蓮子が亡くなり、5月に17歳で宗光の後妻となった。宗光の投獄から特赦・渡欧時も留守を守り、先妻の子らを育て続けた。宗光が帰国し、政府に出仕した後は、社交界入りし、「鹿鳴館の華」と呼ばれた。米ワシントンで公使夫人として大活躍し、帰国後は病弱の宗光を支え、1897年、宗光の死を看取った後に1900815日死去した。

*6 ロシア皇太子ニコライは1891年(明治24年)、シベリア鉄道の極東地区起工式典に出席するため、ロシア帝国海軍の艦隊を率いてウラジオストクに向かう途中、日本を訪問、長崎と鹿児島に立ち寄った後に神戸に上陸、京都に向かった。511日昼過ぎ、京都から琵琶湖への観光の帰り道を津田三蔵巡査がサーベルで襲った。ニコライは頭蓋骨に裂傷を負ったが、命はとりとめた。津田は逮捕され、明治天皇も政府もロシアに対し、津田の厳罰を約束し、当時の刑法にあった日本の皇族に危害を加えた者は死刑とする規定を、外国皇族に適用することを求めたが、大審院(今の最高裁に当たる)院長の児島惟謙が強く反対し、結局津田は無期懲役となった。ニコライは後の日露戦争(190405)時のロシア皇帝ニコライ2世。第一次世界大戦中の1917年に起きたロシア革命後に権力を握ったボリシェビキに監禁され、187月、一家7人と従者ら4人の計11人が処刑された。

*7 関税自主権回復にはさらに陸奥死後の1911年までの長い時間を要し、この年ようやく列国との完全平等の条約が締結された。このため、条約改正は当時の小村寿太郎外相の功績とする評価も根強いが、実際には陸奥宗光の果たした役割が大きいことは論を待たない。

*8 日米地位協定の正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第6条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」である。ウィキペディアによれば、この法律の第17条により、「合衆国の軍法に服するすべての者に対して、また米軍基地内において、合衆国の法令のすべての刑事及び懲戒の裁判権を日本国において行使する権利を有する」とされ、合衆国軍隊が第一次的裁判権を持つ。「統一軍事裁判法」に服する者には、日本で罪にならない犯罪でも同法で犯罪となるなら、米軍が専属的裁判権を行使する権利を有する。また裁判権が競合する場合でも、公務執行中の作為又は不作為から生ずる場合は、合衆国軍隊の構成員又は軍属に対して米軍が第一次的裁判権を有するとされる。

*9 陸奥は肺結核を患っていたが、英国との新通商航海条約締結に成功した1894716日の9日後、に日清戦争が勃発、翌95417日の下関条約(台湾、澎湖島、遼東半島の割譲)による講和、さらにその直後(23日)の露、仏、独三国干渉による遼東半島放棄まで外相として病を押して鋭い状況判断による的確な決断を下して我が国の危機を救った。そして日清戦争終結・三国干渉から24カ月後の97824日に陸奥は53年の生涯を閉じたのである。



1966年から1969年にかけて、デューク・エイセス*1が歌うにほんのうた」という叙情ご当地ソングシリーズが誕生した。原則各都道府県1曲ずつ(北海道3曲、東京、大阪、沖縄各2曲)、計52*2すべて永六輔作詞、いずみたく作曲で、彼ら2人が実際に各地を訪れて作品に仕上げたという。第1集から第4集まで、毎年LPが1枚ずつリリースされた。シングルカットされた曲も多く、「いい湯だな*3」(群馬)、「女ひとり」(京都)、「フェニックス・ハネムーン」(宮崎)、「筑波山麓合唱団*4」(茨城)などは、かなりヒットした。

その「筑波山麓合唱団」は、元々は1969年発売の第4集に収録された作品である。筑波山といえば茨城県の名峰で、この曲は「茨城の1曲」として作られたわけだが、「えっ、茨城はカエルだっぺどよ。違くね?*5」と、県民は大いに不満を持っているに違いない。

茨城県といえば、最近では「都道府県魅力度ランキング」で5年連続最下位という不名誉な記録を“達成”したことで知られる。今年はNHKの朝ドラ「ひよっこ」がヒットし、有村架純扮する主人公・谷田部みね子の出身地が茨城県だということで、好感度がアップするかと注目されていたが、結果は、最下位争いの常連だった群馬、栃木両県がそれぞれ41位、43位と少し順位を上げたのに、茨城は最下位を“死守”したのである。みね子の出身地とされた奥茨城村は茨城県北西部の架空の村*6で、ドラマが1964年から始まる設定とはいえ、余りに田舎のイメージが強く、かえってイメージダウンになったかも知れない。

カエルが主役だった筑波山麓は、1970年ごろから「筑波研究学園都市」として開発が進み、85年には国際科学技術博覧会(科学万博が)開かれ、交通網も整備され*787年にはつくば市が誕生。今や研究機関や企業が300近く集まる人口23万人の大都市になった。

というわけで、今は筑波山麓では歌詞*8に出てくるようなカエルの合唱は聴けない。

 

*1 デューク・エイセスは1955年に結成された男声四重唱のボーカルグループで、60年代に全盛期を迎えた。当時のメンバーは谷口安正、吉田一彦、谷道夫、真木野義孝(トップテナーからの順番)。その後メンバー交代を重ね、2017年末で活動を終えることになった。

*2 大阪と沖縄2曲目「チャウチャウ」と、「酒はあわもり」はシングル盤には入っているが、14集のLPには未収録である。

*3 「いい湯だな」は19662月、デューク・エイセスのシングル盤として「銀杏並木」(大阪)とのカップリングで発売され、同年リリースのLP1集に収録された。

*4 「筑波山麓合唱団」のシングル盤は、70年に「明日の故郷」(東京)とのカップリングで発売された。

*5 ネット上の茨城弁辞典の類によると、茨城弁で「だっぺどよ」は「~だそうだよ」、「違くね?」は「違っているよね?」という意味らしい。

*6 ドラマの奥茨城村は茨城県北西部、福島、栃木両県に隣接するあたりとされており、今の高萩市と大子町(だいごまち)周辺が想定されているようだ。

*7 20058月に東京・秋葉原と、つくば市のつくば駅を最短45分で結ぶ結ぶ新鉄道路線「つくばエクスプレス」が開通、また20104月に、つくば市の圏央道・つくば中央IC~つくばJCTが開通し、常磐自動車道と接続したことで、高速道路だけで東京都内まで行けるようになった。

*8 「筑波山麓合唱団」の歌詞は以下の通り。
♪筑波山麓男声合唱団 マウントツクバのフロッグコーラス
コンダクターはガマガエル ガマはガマでも四六のガマ
セカンドテナーはアマガエル ケロケケケケケケケケ ケロケロケロケロ
ベースはガマガエル グワグワグワ グワグワグワ グワグワグワ グワグワグワ
バリトンはトノサマガエル ゲーゲーケロケロ ゲーゲーケロケロ
テナーはカジカ ケケケ ケロケロケー ケケケ ケロケロケー ケケケ ケロケロ…… ケーケーケー
筑波山麓男声合唱団 マウントツクバのフロッグコーラス
コンダクターはガマガエル ガマはガマでも四六のガマ

 

 台風21号による暴風雨の中、22日に行われた衆院総選挙は、公示前に284議席だった自民党が±0で、連立与党と、それ以外の党派の勢力比もほぼ変わらない*1結果に終わった。とはいえ、民進党が事実上崩壊して改憲派の希望の党と護憲派の立憲民主党が誕生したのと、共産党の議席減(2112)により、野党側にも改憲派が増え、与党では改憲に慎重な公明党が議席を減らしたことで、来年にも衆参両院の2/3以上の賛成で憲法改正を発議という安倍首相の目論見が現実味を帯びてきた。何と申しましょうか*2……である。

元々今回の解散・総選挙は、安倍首相が、「もりかけ疑惑*3」でジリ貧になるのを嫌って、都議選以後離党者相次ぐ民進党の前原誠司・新代表就任直後に、同党のスターだった山尾志桜里議員*4の不倫疑惑があの週刊文春に報じられ、さらにイメージダウンしたのを見て、「今なら勝てる。チャンスだ」と思いついた「衝動解散」で、大義名分など何もなかった。

 「敵失」に乗じた解散作戦だったが、都議選大勝の勢いに乗った小池百合子都知事が、小池新党への民進党の「合流」案を示して前原民進党代表を抱き込み、「希望の党」を立ち上げて小池氏自ら代表に就任することを発表したことで、雲行きが激変した。マスコミの報道は小池新党一色となり、首相周辺は一時「これはヤバいかも」と緊張感を高めた。

 そのムードをぶち壊したのも小池都知事だった。当初からの予定だったのか、マスコミや与党筋からの「民進党を丸抱えするなら、民進党が看板を掛け替えただけの党ではないか」という批判を受けての苦し紛れだったのかは定かでないが、「全員受け入れはさらさらにない。考え方の異なる人は排除します」と、「上から目線」の排除論を振りかざし、「政策協定書」なる「踏み絵」を民進党の立候補予定者に踏ませたあげく、何人もの新人候補が民進党で立候補する予定だった選挙区からの『国替え』を強いられた。都知事選、都議選と圧勝が続き、驕りがあったのか、それとも地金が出たのか。気の毒な前原代表は、「名を捨て実を取る」はずが、振り込め詐欺に引っかかったみたいに、「実」も捨ててしまった。

 こうした小池氏の動きが報道されると、多くの市民が一気に引いた。「なにサマのつもりだ」という声が強まり、『政策合意なき合流』を批判していたマスコミも、いい加減なもので、『排除』で希望が失望に変わったなどと批判の矢を小池氏に浴びせた。枝野幸男・元官房長官が排除された民進党候補の受け皿として「立憲民主党」を結党、こちらは同情票と、安倍首相に批判的な反改憲派市民の期待を集めて野党第1党に躍進したが、希望の党は失速、政権交代はおろか、「立憲」の後塵を拝する惨敗となった。特に小池知事のおひざ元・東京で、腹心の若狭勝候補が落選、比例復活も併せ4人しか当選させられなかった。今後の都政運営にも影響を及ぼす「小池さん大失敗の巻」である。世間をナメたらアカンぜよ。

 

*1 与党は自民284(±0)、公明29-6)、それ以外は立憲55+40)、希望50-7)、共産12-9)、維新11(-3)、社民2(±0)無所属22=与党系1、野党系21-22)。定数が減ったのと、解散後の混乱で、公示前の無所属44人は内訳がはっきりしない。いずれにせよ、与党とそれ以外の議席数の比率はあまり変わっていないにもかかわらず、自民党が大勝した印象が強い。

*2 「何と申しましょうか」は1950年代のプロ野球解説者・小西得郎氏(18961977)が実況開設で多用したセリフである。

*3 ご存知、森友学園、加計学園にまつわる様々な疑惑を総称して「もりかけ疑惑」という。そば(蕎麦)になぞらえた造語だが、こういう言葉を思いつく人のセンスに感嘆する。

*4 不倫疑惑で民進党を離党した山尾志桜里さん自身は愛知7区で無所属出馬、834票差で自民党候補を破り、当選した。

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