大橋建一ブログ

元新聞記者、前和歌山市長の大橋建一のブログです。

大橋建一のコラム(惰学記、余談独談)と活動日誌は2014(平成26)年4月28日以後、 ライブドアブログで発信いたします。当分の間、これまでの大橋建一ホームページ(http://www.ken-ohashi.jp/)は残していますので、古いコラムなどはそちらをご参照 くださいますようお願いします。

 少し遅くなってしまったが、9月初めに度重なった天変地異について書くことにする。

96日未明に北海道胆振地方で起きた地震は、苫小牧市に離接する厚真町で震度7を記録、台風21号による豪雨で緩んでいた地盤を直撃し、同町と周辺の山間部で山崩れが広範囲に発生、同町吉野では山すそに並ぶ多数の住宅を飲み込んだ。同町と苫小牧市との境にある北海道電力の基幹発電所・苫東厚真火力がストップしたことで北海道全域が約50時間にわたって停電する事態となったほか、50km以上離れた札幌市の清田区に大規模な液状化被害を招いた。亡くなった方は北海道全域で41人、うち36人が厚真町の住民だった。亡くなった方のご冥福を祈るとともに、被災した皆さんに心からお見舞い申し上げたい。

 北海道胆振地方の大きな被害に比べるのは申し訳ないが、大地震の前々日である94日、近畿もひどい目にあった。関西国際空港(以下「関空」)に甚大な被害*1を及ぼした台風21号のせいである。実は21号の約2週間前、823日にも台風20号が「強い*2」勢力で徳島県南部に上陸、紀伊水道から姫路市に抜けた。台風の中心が和歌山市のすぐ左側*3を通るので厳戒が呼びかけられたが、被害は大したことがなかった。しかし21号は20号とほぼ同じコースだったが、スケールが一回り違った。日本本土に上陸した台風としては25年ぶりに「非常に強い*4」勢力のまま上陸後、紀淡海峡の友が島で、57.4/秒(20号の時は52.3/秒)という、統計開始以来県内第1*5最大瞬間風速を記録した。

このため、和歌山県や大阪府南部の広範囲で停電が発生、和歌山市ではかなりの地域が復旧までに24時間以上を要した。ほとんどのコンビニや食堂・レストランが営業できなくなり、停電に加え、冠水、強風で大打撃を受けたオフィスや工場も少なくなかった。幸い我が家は、数分間の停電が2回あっただけだったが、J-comCA-TV)の基地局が停止し、テレビが午後1時過ぎから27時間全く映らなかった。ラジオでは関空の滑走路や第1ターミナルの冠水状況とかタンカー衝突による連絡橋のダメージの程度がよく分からず、テレビが復旧した5日午後4時過ぎにニュース映像を見て、初めて深刻な事態を知るに至った。

当初、再開のメドが立たなかった関空だが、14日にA滑走路と第1ターミナルの南半分(21日に北半分も)が再開、鉄道も18日始発からJR、南海とも平常運転に戻った*6

ただ、突貫工事での再開だけに、安全面に一抹の不安が残るのと、沈下が続く空港1期島*7の浮上策、水没した受電装置を安全な高所に移す*8などの抜本策は先送りだ。特に、タンカー衝突の影響が大きい連絡橋が不安材料で、撤去した橋桁部分は修理では済まず交換が必要だという。対面通行が解消され、マイカーが乗り入れられるのは来春以後になりそうで、孫たちが大荷物を抱えて来た時などに、車で迎えに行けないのはトホホである。

 

*1 関西空港の台風21号被害は、タンカーがぶつかって壊れた連絡橋のほか、第1ターミナルとA滑走路が特に甚大で、一時はほぼ全面的に冠水した。第1ターミナル地下に設置されていた受電装置も水没したため、10日以上もターミナルの停電が解消できなかった。連絡橋でも、道路橋より下に敷設されている鉄道橋のレールが約1週間水没してしまった。

*2 「強い台風」とは最大風速3344㍍/秒のものをいう。

*3 周知の通り、台風は進行方向の右側の方が勢力が強く、大きな被害をもたらす。今回は20号、21号とも、予報通り和歌山市の左を通ったので、台風の右側に位置した和歌山市はじめ県南部の海沿いや大阪府の西部・南部は大きな被害を受けた。

*4 「非常に強い台風」とは、最大風速4454㍍/秒のものをいう。それを上回る最大風速の台風は「猛烈な台風」と呼ぶ。

*5 これまでの瞬間最大風速第1位の記録は1961916日の第二室戸台風による56.7㍍/秒だった。私はこの時中学3年生で、和歌山市内の自宅にいたが、ものすごい風で、壁が左右にきしんでいたのを覚えている。

*6 政府、大阪府と運営会社の関西エアポート㈱の必死の作業で、97日に被害の少なかった第2ターミナルとB滑走路を使って一部国内線の運航を再開、翌8日には国際線も一部再開させた。被害の大きかった1ターミナル(南側のみ)とA滑走路も14日に再開した。連絡橋は7日に一部使用不能となった下り(空港行き)車線から上り車線に入るための臨時橋が開通、上り線を使った対面通行が可能となり、工事など関係車両やバスの運行が再開された。また、壊れた橋桁の撤去作業が12日から14日にかけて行われ、これによって、下を走る鉄道(JR、南海)の18日運転再開が可能になった。

*7 関西空港1期島は毎年7㌢㍍程度沈下が続いており、19949月の開港時に比べると34㍍も沈んでいるという。第1ターミナルなどの建造物はジャッキアップして沈下を防いでいるが、今回のような高潮高波や南海トラフ地震による大津波などに対しての不安は残る。

*8 私が市長をしていた20091111日、和歌山市で、観測史上最高となる1時間120㍉を超える雨が降り、市役所に近い小人町にある福祉交流施設「あいあいセンター」の地下にあった受電設備や駐車場が水没し、同センターが約半年間使用不能となる事態となった。今回、関空第1ターミナル地下受電設備の水没を聞いた時、まず連想したのが「あいあいセンター」のケースだった。本当なら、あいあいセンターは復旧工事の段階で、受電設備を高い所に移転させるべきなのだが、時間とコストが半端でないため、結局同じ場所で修理せざるを得なかった。第1ターミナルもたぶん同様で、また災害に遭えば大規模停電が繰り返されることになる。水害に弱い受電設備を地下に置くのは危険で、設計ミスといっても過言ではないと私は思うが、現実には多くのビルの受電設備が地下にある。

自然科学者でもあり、法律家で政治家でもあったドイツの代表的な文豪・ゲーテ(17491832)は戯曲「ファウスト」や「若きウェルテルの悩み」「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」などの小説で有名だが、詩人としても優れた才能を発揮した天才である。私も高校時代に文庫版の「ゲーテ詩集」を買って「恋心」を綴った詩を愛読した覚えがある。

童は見たり 野中のばら 清らに咲ける その色愛でつ 飽かず眺む 紅匂う野中のばら

 た折りて行かん 野中のばら た折らばた折れ思い出草に 君を刺さん紅匂う野中のばら

 童は折りぬ 野中のばら た折りてあわれ清らの色香 永遠にあせぬ 紅匂う野中のばら

――という近藤朔風(18801915)の訳詞*1で、日本でも知らない人がいない「野ばら」はゲーテが1770年ごろに書いたらしいが、出版されたのは1799年で、これに「歌曲の王」と呼ばれたシューベルト(17971828)が1815年に曲をつけた(出版は1821年という)

シューベルトと並んで有名なのはウエルナー(180033)の「野ばら」である。ウィキペディアによると、ドイツ人の音楽一家に生まれたウエルナーは、シューベルトに刺激されて、あのメロディーを生み出し、1829年初頭に自身が指揮する合唱団で初演した。すでにシューベルトの名曲があるのに「いい度胸だ」と、後世の人間は思いたくなるが、当時ベートーベンやシューマン、ブラームスをはじめ150人以上が「野ばら」に曲を付けていたのだという。その中で残ったのが、シューベルトとウエルナーの曲だったわけである。

 日本でもよく似た話がある。そう、北原白秋作詞の「砂山」だ。19226月に新潟を訪れた白秋は、新潟にちなんだ童謡の作詞を頼まれ、近郊の寄居浜で「砂山」の詞を書いて中山晋平に作曲を依頼、同年9月号の雑誌に発表した。山田耕筰は翌1923年に作曲し、27年に「山田耕筰童謡百曲集」に収めた。他に、成田為三、宮原禎次*2らが曲を付けている。

 

*1 近藤朔風は原詩に忠実な和訳をモットーとする訳詞家で、「野ばら」のほか「菩提樹」「ローレライ」も彼の訳詞である。歌いやすい歌詞で日本人に西洋歌曲への親しみを育んだ。なお、野ばらの原詩は

Sah einKnab' ein Röslein stehn, Röslein auf der Heiden, war so jung und morgenschön,lief er schnell,

esnah zu sehn,  sah's mit vielen Freuden. Röslein, Röslein, Röslein rot,  Röslein auf der Heiden.
Knabe sprach: "Ich breche dich,  Röslein auf der Heiden!" Röslein sprach:"Ich steche dich, dass du ewig
denkst an mich, und ich will's nicht leiden."  Röslein, Röslein, Röslein rot,  Röslein auf der Heiden.
Und der wilde Knabe brach  's Röslein aufder Heiden; Röslein wehrte sich und stach,  half ihm doch
kein Weh und Ach, musst' es eben leiden.  Röslein, Röslein, Röslein rot, Röslein auf derHeiden.
である。私はドイツ語が全く分からないので、センテンスの切れ目などが間違っていたらお許しいただきたい。

*2 成田為三(18931945)は山田耕筰に師事し、1916年に「浜辺の歌」を作曲している。宮原禎次(18991976)も山田耕筰に師事した作曲家。なお、北原白秋は1885年生まれ、1942年没、中山晋平は1887年生まれ、1952年没、山田耕筰は1886年生まれ、1965年没。

  中国以外の世界の動物園の中で、最も多くのパンダ繁殖に成功している和歌山県の「白浜アドベンチャーワールド」に、今夏の814日、またまたパンダの赤ちゃんが生まれたことを、関西地域以外にお住まいの方で、知っている人はどれくらいいるのだろうか?

 赤ちゃんの母親は、既に梅浜・永浜、海浜・陽浜、優浜、桜浜・桃浜、結浜の8*1の子を産んでいる「子育て名人」の良浜(200096日生まれ)。父は、この8頭に加え、梅梅(1994831日中国生まれ*2081015日死去)との間に生まれた雄浜、秋浜・隆浜、幸浜、愛浜・明浜の6*3を併せて14頭の父という「艶福家」の永明(92914日中国生まれ)である。なお、梅梅の産んだ6頭と良浜の子のうち桜浜・桃浜、結浜を除く5頭の計11頭は順次中国に旅立ち、今白浜にいるのは赤ちゃんを含め6頭である。

赤ちゃんパンダがわずか75㌘という未熟児状態*4で生まれ、最初は自力で母乳を飲むことができず呼吸も弱かったことなどから、順調に育つかどうか不安視されていたため、アドベンチャーワールド側からマスコミに対し「温かく見守ってほしい。報道は慎重に」といった注文がついていたのではないかと思われるのと、誕生の日がお盆休みの最中で、翌日が平成最後の終戦記念日ということも影響したのか、極めて地味な報道ぶりだった。

しかし、よく考えてみると、これが仮に東京・上野動物園のパンダの出産だったら、いくらお盆でも、生死の境をさまよっていても、マスコミは「がんばれ赤ちゃんパンダ」の大合唱になっていたのではないだろうか。事実、6年前の1275日に上野のリーリー(力力)とシンシン(真真)の間に生まれた雄の赤ちゃんが6日後に死んだ時は連日大騒ぎだったと思う。また、昨年612日に上野でシャンシャン(香香)が誕生した時のフィーバーぶりは記憶に新しいところで、今回の出産報道ぶりとの余りの違いに驚かされる。

 確かに、上野は過去繁殖に成功したことがなく、シャンシャンが初めて無事生まれ育った赤ちゃんだったのに対し、白浜は今回無事育てば15頭目の繁殖成功となり、ほぼ隔年の割合でパンダが誕生しているわけだから、今さらニュースとは言えないという考え方もありうる。とはいえ、何頭目であろうが赤ちゃんパンダは可愛くて、多くの人が見に行きたいと思う「動物園の大スター」である。それなのに、現状では、全国ニュースで伝えられたのは、いつ生まれたのかだけで、その後の成育状況は、アドベンチャーワールド側が報道リリース*5をしているのに、新聞では各紙の和歌山版、テレビでは関西ローカルニュースでしか報じられていないように思える。全国的にみると、多くの人たちが、赤ちゃんパンダが無事育っているか、今の状態はどんなで、いつごろ見られそうか、といった知りたい情報を知らないままなのではないだろうか。上野と白浜、何とかならぬかこの報道格差。

 

*1 8頭のうち中点(・)でつないだ2頭は双子である。パンダの赤ちゃんは50%の確率で双子だという。野生の状態ではうち1頭だけが母親に育てられ、あとの1頭は死んでしまうケースが多い。白浜では後に出てくる梅梅の子も含め5組の双子を2頭とも無事育て上げたが、梅梅の子で幸浜の双子の弟は誕生翌日に死亡、良浜の子の優浜と今回生まれた赤ちゃんパンダの双子のもう一方は死産だった。

*2 梅梅は良浜を孕んだ状態で20007月に来日した。永明は母子と夫婦だったことになる。

*3 誕生の1日後に死んだ幸浜の双子の弟も梅梅の産んだ子にはカウントされており、厳密には7頭だが、ここでは6頭としておく。

*4 一般的にパンダの赤ちゃんは小さく、出産直後は約150㌘前後だが、今回の赤ちゃんはその半分だった。ちなみに、シャンシャンの出産2日後の体重は147㌘だった。

*5 91日のプレスリリースによると、赤ちゃんパンダの体重は321.8㌘(前日比+45.0㌘)。この日1日の授乳量が初めて100㍉㍑を超えた。母親の良浜のお腹の上で踏ん張り、上手に母乳を飲めるほど手足の力がついてきたという。

 

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