大橋建一ブログ

元新聞記者、前和歌山市長の大橋建一のブログです。

大橋建一のコラム(惰学記、余談独談)と活動日誌は2014(平成26)年4月28日以後、 ライブドアブログで発信いたします。当分の間、これまでの大橋建一ホームページ(http://www.ken-ohashi.jp/)は残していますので、古いコラムなどはそちらをご参照 くださいますようお願いします。

 ♪ラメチャンタラ ギッチョンチョンデパイのパイのパイ パリコトバナナデ フライフライフライ♪という意味不明の歌詞で知られる「パイのパイのパイ」(といっても、私たちのより下の世代は聞いたことがない人が大半かもしれないが)は、1960年デビューの森山加代子(1942~)が翌615月にリリースした6枚目のシングル盤のA面曲であった。

彼女当時東芝レコード所属で、「月影のナポリ」「メロンの気持ち」「月影のキューバ」と、洋盤ポップスのカバー曲を出し、キングレコードのザ・ピーナッツと対抗していた。彼女はなぜか子どもたちに人気があったようで、低年齢層を狙った曲を61年に入って次々出すようになった。1月に「じんじろげ」という、呪文のような歌詞*1の曲(渡舟人作詞、中村八大作曲)を出した。これがチビッ子たちにバカウケしたため、4月にはソフィア・ローレンが歌った曲のカバーとなる「ズビズビズー*2」をリリース、続いて5月に「パイのパイのパイ」が発売された。61年前半の森山加代子は、言わば“呪文路線”だったわけだ。

 ウィキペディアによると、明治時代から軍歌や救世軍の街宣活動に使われていた米国の「ジョージア行進曲*3」のメロディーを大正時代の演歌師、添田さつきが一部改変、「ラメチャンタラ~」の囃子言葉を入れて、世相を風刺する歌詞をつけ、1918年に「東京節*4」として出したところ大流行、翌年には同じ曲に別の歌詞をつけた「平和節*5」発表した。

 初めて東京に来た「お上りさん」が、“繁栄”に驚きつつ、「何かおかしい」と感じる様子を皮肉交じりに歌った「東京節」は、「パイノパイノパイ」という曲名で歌い継がれ、古くはエノケン、都家かつ江、70年代以後では、植木等、なぎら健壱、ザ・ドリフターズ、あがた森魚らが歌詞を変えてカバーしている。森山加代子版は「東京節」らしさを残しつつ、作詞者の渡舟人が現代風だがあまり風刺のない、子供向けの歌詞*6に作り変えた。

 

*1 「じんじろげ」は歌い出しから♪ジンジロゲヤ ジンジロゲ ドレドンガラガッタ ホーレツラッパノ ツーレツ♪と、意味不明の歌詞が続く。諸説あるようだが、ネット上の「ケぺルさんのブログ」によると、ルーツがインドの民謡であることはほぼ間違いないようだ。「ヒラミヤバミヤ チヨイナダ ディーヤ」の部分は、ヒンズー語で「雨が降ってきた忽ち川と流れる」(Hila mil pari a jori nana diya)と解することができるという。この歌については、元演歌師の渋谷白涙が「大正67年(19178年)ごろボビーというインド人から教えられた自分の作品だ」として、1963年ごろ裁判に訴えたが、証拠不十分ということで主張は認められなかった。

*2 ウィキペディアによると、「ズビズビズー」は1960年にフランスで誕生した曲で、原題はZou BisouBisouZoo Be ZooBe Zoo」。フランス語のほか、英語、スペイン語、ハンガリー語などのバージョンが作られ、61年に映画女優のソフィア・ローレンが英語でカバー、世界的にヒットした。その歌詞に「Zoo Be Zoo Be Zoo means I love you」とあり、どうやら「ズビズビズー」は「I love you」という意味らしい。

*3 「ジョージア行進曲」は南北戦争末期の1864に北軍のシャーマン将軍が敢行した「海への進軍」を題材に「大きな古時計」の作曲者ヘンリー・クレイ・ワークが65に作曲した。

*4 「東京節」の1番の歌詞は以下の通り。
東京の中枢は丸の内 日比谷公園両議院 いきなかまえの帝劇に いかめし館は警視庁
諸官省ズラリ馬場先門 海上ビルディング東京駅ポッポと出る汽車どこへゆく 
ラメチャンタラ ギッチョンチョンデパイノパイノパイ パリコトパナナデ フライフライフライ

*5 「平和節」は第一次世界大戦終結後の1919年に、戦勝気分が続く中で作られたもの。

 1番の歌詞は ♪めでたい めでたい おめでたい 戦争がすんでおめでたい 物価が高いのもおめでたい
花火をあげろ ハタ立てろ いざ祝へ みんな祝へ 天下太平 おめでたい日本が一番おめでたい
ニホンマイハタカイカラ パイノパイノパイ ナンキンマイやトンキンマイデ フライフライフライ

 2番の歌詞にはベルサイユ講和会議の出席者が盛り込まれている。 ♪世界の平和はどうなるか  
フランスパリーに集まって損はあるまい ウィルソン 冗談ばっかり ジョージさん 
何もくれない クレマンソー 灘万料理は西園寺  どんな御馳走ができるやら
ハナチャンタラベッピンサンデアイキョモノ  パリッ子トキョウソウデ フレーフレーフレー

*6 森山加代子バージョンの「パイのパイのパイ」の歌詞は以下の通り。 
1番>♪お山で育った山ざるが 東京の空に憧れて 出てきたまではよいけれど
電車に自動車 オートバイ ラッシュアワーの人の波これじゃあ本当に目が廻る
ラメチャンタラ ギッチョンチョンデ パイのパイのパイ パリコト パナナデ フライフライフライ♪ 
2番>♪カボチャが八百屋の店先で テレビを見ながら言いました もしもメロンに生まれたら
あたしもスターになれたのに それを思うと悲しくて知らず知らずに泣けるのよ (繰り返し)
3番>♪
ラーメン ぎょうざに 肉まんじゅう おしるこあんみつ ところてん クリームソーダにレモネード 
コーヒー 紅茶に アップルパイ みんなもらって よろこんで たべるところで目がさめた(繰り返し)

 今年から私が会長を仰せつかっている和歌山日仏協会は、毎年1115日のボージョレ・ヌーボー解禁日直後に和歌山日独、日瑞(スイス)*1両協会と共催でワインパーティーを開いてきた。今年は日仏修好160周年の節目の年でもあり、和歌山日仏協会として何か記念行事を催さなくてはと考えて、専門家による講演会を企画し、17日の土曜日、パーティーの前の時間にJR和歌山駅前の農協会館会議室を借りて約1時間の講演会を開催した。

 講師は東京にある日仏会館の理事長で、元学習院大学学長の福井憲彦・同大学名誉教授。いわばバリバリのフランスなど西洋近現代史の専門家である。実は私とは東京都立戸山高校の同級生で、東大の西洋史学科(ちなみに私は国史学科だった)から大学院に進み、フランスのパリ第一大学に留学の後、東大助手、東京経済大学助教授を経て学習院大学に移り、助教授、教授。2007年から7年間学長を務め、定年後日仏会館理事長に就任した。

福井理事長は講演会の前々日まで、日仏会館が日仏両国の文化に関する相互研究に功績のあった研究者を表彰するイベントである「第35回渋沢・クローデル賞*2のフランス側の表彰式に出席し、この講演のためにパリから急ぎ帰国し和歌山に来てくれたわけだ。

「マクロン―フランス―ヨーロッパ」と題した講演は、①昨年40歳の若さでフランス大統領に就任したマクロン大統領の経歴と、読書家で、しかも実体験を重んじる*3人柄に触れ、②かつての保守vs社共という政治構造を解体し、「右からも左からも」改革派を結集した「共和国前進」という政治集団を立ち上げ、守旧的な国家と社会を変えていこうと呼びかけて、超右派のルペンとの決選投票に勝ったものの、③難民問題や英国のEU離脱、トランプ米大統領の出現で揺れるヨーロッパの現状と、国内経済の不振で募る国民の不満を浴びて、支持率が2030%程度と低迷している現状を分かりやすく解説してくれた。

講演会は3協会のメンバーに限らず、一般の方にも聞いてもらえたら、と考えて報道機関にも催し案内をお願いしたのだが、残念ながらうまくいかず、参加者20人ちょっとにとどまり、ややもったいなかった。しかし、受講者はメモを取りながら熱心に聞いていた。

会場を変えて開催されたワインパーティーの方は、出席者が2倍に増えて大盛況で、もちろん福井理事長も参加、ボジョレーを飲みながらワイワイ楽しい時間を過ごすことができた。翌日は午前中、和歌山市内を見てもらおうと、紀三井寺と和歌山城を案内した。好天に恵まれたが、階段の昇り降りが続いて、70代の老人2にはさすがにきつかった。

 さて、福井理事長が帰京した翌日、仏ルノーと日産自、三菱自3社の会長カルロス・ゴーンが報酬の過少申告容疑で東京地検特捜部に逮捕された。日仏両国にとって衝撃のニュースである。これが講演会の後だったら、お話の内容も全く変わっていたかもしれない。

 

*1 和歌山日瑞協会は今年正式に発足したので、昨年までのワインパーティーは日独・日仏両協会主催で行われていた。

*2 日仏会館は1924年に当時のポール・クローデル駐日フランス大使(劇作家で詩人でもあった)と実業家の渋沢栄一の力で設立された。60周年に当たる1984年に同会館が2人を記念して、日仏両国において、相手国の文化に関する優れた研究成果(著作や翻訳書)に対して贈られる「渋沢・クローデル賞」を創設した。

*3 エマニュエル・マクロン大統領はフランス北部のアミアン出身。16歳で単身パリのリセ高校に入り、ナンテール大学で思想家ポール・リクールから哲学を学んだ。その後国立行政学院に入り、財務監督局、ロスチャイルド銀行を経て2012年にオランド大統領府に入府、14年経済大臣、16年に辞任し社会党を離脱、大統領を目指す活動を始めた。

 今年は著名な芸能人の訃報が多く伝えられた年だった。中でも516日、63歳になったばかり(1955413日生まれ)で死去した西城秀樹は、テレビドラマ「寺内貫太郎一家*1」で共演し、今年9月に死去した樹木希林とともに、テレビのワイドショーで、多くのエピソードを交え、長時間にわたって報じられた。西城秀樹といえば「YOUNG MANY.M.C.A.)」や「傷だらけのローラ」を思い浮かべる人が多いだろうが、私はデビュー約2年後の74225日にリリースされた8枚目のシングル「薔薇の鎖」が思い出深い。

ご存知の通り西城秀樹は郷ひろみ、野口五郎*2と並ぶ「新御三家」の1人で、723月に「恋する季節」でレコードデビューした。郷は729月のデビュー曲「男の子女の子」が大ヒットしたのに対し、野口はデビューの715月に出した演歌「博多みれん」が大コケだったものの、ポップス路線に軌道修正しての2曲目「青いリンゴ」でスターダムに上った。ところが西城は4曲目*3までは郷や野口の後塵を拝し続け、5曲目の「情熱の嵐」(735月)でようやく2人に肩を並べた。以後は「ちぎれた愛」「愛の十字架」と順調にヒットを重ねてベスト10番組の常連になり、次にリリースしたのが「薔薇の鎖」だった。

「薔薇の鎖」(たかたかし作詞、鈴木邦彦作曲)は、スタンドマイクを持ち上げたり倒したり、足で蹴るかと思えば逆さにするといった「スタンドマイクアクション」が取り入れられた最初の曲で、このアクションが当時の若者たち強いインパクトを与えた。のちの矢沢永吉や大友康平らのマイクアクションも、元をたどれば「薔薇の鎖」に行きつく。今もお騒がせの川崎麻世も、西城のアテ振り*4から見い出されて芸能界入りしたのである。

03年、西城は韓国公演中に脳梗塞を発症、11年に再発したが、苦しい闘病・リハビリを繰り返し、3度目の発作で死去するまで、不自由な体を押してステージに立ち続けた。

 

*1 「寺内貫太郎一家」は1974年から75年にかけてTBSテレビ系列で放映された向田邦子脚本、久世光彦プロデュースの人気ドラマ。何かというと怒ってちゃぶ台をひっくり返す頑固親父役の小林亜星を中心とするホームドラマで、西城秀樹、樹木希林(悠木千帆)のほか、加藤治子、浅田美代子、梶芽衣子らが出演していた。

*2 郷ひろみは195510月生まれ、野口五郎は562月生まれなので、わずかの差だが、西城秀樹は3人の中で最年長である。

*3 西城の2曲目は「恋の約束」、3曲目は「チャンスは一度」でいずれもオリコン1820位の小ヒットに終わった。

*4 70年代半ば、大阪よみうりテレビ発のバラエティー番組「テレビ!テレビ」(横山プリン、キャシー司会)に「パクパクコンテスト」というコーナーがあり、素人だった川崎真世はじめ、松原秀樹草川祐馬らが西城秀樹のスタンドマイクアクションをコピーして優勝プロにスカウトされた。

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