大橋建一ブログ

元新聞記者、前和歌山市長の大橋建一のブログです。

大橋建一のコラム(惰学記、余談独談)と活動日誌は2014(平成26)年4月28日以後、 ライブドアブログで発信いたします。当分の間、これまでの大橋建一ホームページ(http://www.ken-ohashi.jp/)は残していますので、古いコラムなどはそちらをご参照 くださいますようお願いします。

 ちょっと話が古くなってしまったが、真夏の高野山で毎年開催される「高野山夏期大学」(毎日新聞社・総本山金剛峯寺主催)に、今年初めて参加した。毎年、8月第1週の金曜日から3日間という日程で、8月第1週の土曜日に開催される和歌山市主催の夏祭りイベント「紀州ぶんだら節」と日程が重なるため、市長時代は行くことができなかった。

 戦前も戦前、1921(大正10)年に始まった「高野山涼風講座」が起源という夏期大学は、今年で実に93回目となる。配られた資料によれば、193839年に日中戦争、また4445年に第二次世界大戦のために中止された以外はずっと開催されており、講師陣も、戦前は喜田貞吉、内藤湖南、黒板勝美らの歴史学者、新渡戸稲造、菊池寛、直木三十五、折口信夫、吉川英治ら著名文化人がズラリ。戦後も美濃部亮吉、大山康晴、小林秀雄、大宅壮一、今東光、岡本太郎、有吉佐和子、松本清張、瀬戸内晴美(後の寂聴)、藤山愛一郎、千宗室、末川博、司馬遼太郎、梅原猛、羽仁五郎、高坂正尭、池坊保子*1ら挙げればキリがない。

その一方で、戦時体制が強まる1933年以後は、毎年のように軍部からの講師も招き、「非常時局と国防」「太平洋と各国海軍」「列強の軍備とわが国防」「極東問題の解剖」「支那事変を繞る最近の国際情勢」「大東亜戦争と歴史的使命」などをテーマに講演、軍部以外の講師の演題も「神国思想の展開」「非常時下に於ける健康医道を論ず」「世界経済新秩序の黎明」「共栄圏と科学」といった戦時体制を思想的に支えようとする内容のものが並んでいる。

 今回の夏季大学は音楽評論家で作詞家の湯川れい子さん、分子生物学者の福岡伸一・青学大教授、美術史家の佐々木丞平・京都国立博物館長、野球解説者の小久保裕紀・前侍ジャパン監督、女優でアンパンマンの声も演じる声優でもある戸田恵子さん、元あのねのねのタレント清水国明氏ら8人。私は2日目の午後から参加したので、小久保、戸田両氏と、最終日の添田隆昭・高野山真言宗宗務総長*2(蓮華定院住職)の計3人の講演を聞いた。

 小久保前監督は、自らの野球人生と、侍ジャパン監督として、特に今年のWBCでの活字にはできないような苦労話をユーモアあふれる語り口で話し、戸田恵子さんは、売れないアイドルから始まり、故野沢那智氏*3に助けられて劇団に入り、その後声優としてアンパンマンで鳴らし、三谷幸喜さん*4に起用され人気者になった波乱万丈の女優人生を明るく語った。添田宗務総長は弘法大師信仰について分かりやすく説教してくれた。実は前夜遅くまで毎日新聞社関係の人たちと飲んでいたので、最終日は、宿坊の朝のお勤めも1時間ほど遅刻、添田宗務総長のお説教は半分くらい寝ていた。添田さん、ごめんなさい。

戸田恵子さんの話に戻るが、彼女のアイドル時代の芸名は「あゆ朱美*5。「誰も知らないでしょう」と講演では自虐的に話したが、あゆ朱美、私はちゃんと記憶にありますよ。

 

*1 この注釈で、主だった講師の名前を列挙しようと思ったが、名のある人だけで200人を超しそうなので、残念ながら断念した。

*2 添田宗務総長は高野山蓮華定院の生まれ。和歌山大学附属中学で私の1年後輩だった。中学時代から下宿生活で、大阪府立北野高から京大に進学した。彼の母親は私の母の女子大時代の先輩で、英語が堪能。以前は外国人宿泊客に高野山の歴史などを英語で話していた。今98歳くらいだが、お元気である。

*3 野沢那智(19382010)は大学中退後、劇団に入ったが、生活のため洋画や海外テレビドラマの吹き替えのアルバイトをしていた。たまたま「0011ナポレオン・ソロ」のイリヤ・クリヤキン役(デビッド・マッカラム)の声をやったところ、このドラマが大当たりして人気が出た。67年から81年までTBSラジオの深夜番組「パック・イン・ミュージック」のパーソナリティーを白石冬美とともに務めた一方、63年には、自分の劇団「薔薇座」を設立、77年にアイドルとして限界を感じていた戸田恵子を研究生として入団させた。戸田は薔薇座で「ミュージックマン」「スィートチャリティ」などに出演し、まず舞台女優として花開いたが、生活のために洋画の吹き替えやアニメの声優をしていたら、アンパンマンに出会い、以来30年近く「声のアンパンマン」を演じ続けている。

*4 三谷幸喜(1961~)は日大芸術学部在学中に劇団「東京サンシャインボーイズ」を結成、テレビのバラエティー番組の構成やドラマの脚本を手掛けて名を知られるようになった。戸田恵子の舞台女優時代からのファンで、97年にフジテレビの連続ドラマ「総理と呼ばないで」の脚本を担当した時に、戸田を官邸事務所秘書係主任の役で起用するよう求めたという。

*5 戸田恵子は小学校5年生の頃からNHK名古屋放送児童劇団に入り、「中学生群像」に出演、歌も得意で、「ちびっこのど自慢」の東海地区チャンピオンにもなった。74年、16歳で上京、「あゆ朱美」の芸名でアイドル歌手デビューしたが、76年までに「ギターをひいてよ」など4枚のCDシングルを出したが、売れなかった。

 「中央フリーウェイ」はユーミンが19761120日にリリースした4枚目の、荒井由実としては最後*1のアルバム「14番目の月」に収録された曲だ。ハイ・ファイ・セット、庄野真代、大橋純子、今井美樹らがカバーしており、今も歌い継がれている。ウィキペディアによると、テレビではアルバム発売8カ月前のTBS系番組「セブンスターショー」で、かまやつひろしとユーミンが共演した時に、かまやつがこの曲を歌ったのが初見らしい。

したがって、ユーミンが「中央フリーウェイ」を作ったのは76年初頭より前だったことになる。曲の歌詞が「調布基地を追い越し」で始まっているのは、中央道・高井戸~調布間の開通が76518日で、曲ができた時は、調布が中央道の起点だったからである*2

 実は、中央道と私たち夫婦は半世紀近い縁がある。47年前の19705月、私たちは結婚して三鷹市新川の1Kの木造アパートに居を構えた*3。住んでいたのは1年足らずで、もちろん、そのアパートは既にないが、私たちの本籍地は今もそこである。アパートから南に少し行ったところに中央道・高井戸~調布間の予定ルートがあり、当時建設工事中だった。そのそばに銭湯があったので、「神田川」のように、2人でよく風呂に行き、工事現場も見た。この銭湯の近くにインターチェンジができる計画だったが、近隣住民の反対が強く、結局料金所だけが設けられ、高井戸~調布間には車の出入り口は設置されなかった。

 新聞社に就職してから13年余は関西に勤務していたので、中央道との縁は薄れたが、85年に東京に転勤してからは、川崎市麻生区にある妻の両親の墓参りの時や甲信地方にドライブ旅行する度に中央自動車道を使ったし、時には和歌山まで車で帰る際にも、東名を避けて中央道を走ったことがある。その度に、調布を過ぎると、この曲の2番の歌詞「右に見える競馬場*4 左はビール工場 この道は まるで滑走路」のフレーズが頭をよぎった。

 

*1 ユーミンは761129日に松任谷正隆と結婚、以後は松任谷由実として活動している。

*2 もっとも、歌詞に出てくる「調布基地は、73年には在日米軍から全面返還されているので、曲が生まれたのがそれより前ということも考えられる(中央道・調布~八王子間の開通は6712月)が、返還後も「調布基地」と言い慣らされていたとも考えられ、75年ごろ作られたと見るべきだろう。

*3 1970年当時、私は大学生として6年目で、東大闘争疲れというか、ふぬけた状態で、まだ卒業のメドさえ立っていなかった。結婚したことで、卒業して就職しようという気持ちが強くなり、それから1年は真面目な学生生活を送り、翌年7月にやっと卒業し、新聞社に就職することができた。

*4 東京競馬場で行われるレースに「フリーウェイステークス」というのがある。重賞ではなく、準オープンクラスの特別レースだが、1998年以来毎5月に開催されており、今年で20回目である。98年の初回(1600㍍)以外は1400㍍で行われている。ネーミングはもちろんユーミンの曲にちなんだものだ。

 

※なお、中央フリーウェイ(荒井由実作詞作曲)の歌詞は次の通りである。

中央フリーウェイ 調布基地を追い越し 山に向かって行けば 

たそがれが フロントグラスを 染めて広がる

中央フリーウェイ 片手で持つハンドル 片手で肩を抱いて

愛してるって 言っても聞こえない 風が強くて

町の灯が やがてまたたきだす 二人して 流星になったみたい

中央フリーウェイ 右に見える競馬場 左はビール工場

この道は まるで滑走路 夜空に続く

中央フリーウェイ 初めて会った頃は 毎日ドライブしたのに

このごろは ちょっと冷たいね 送りもせずに

 ロンドンで開催された2017世界陸上選手権は、いろいろな意味でドラマチックな大会となった。短距離の王者ウサイン・ボルト(ジャマイカ)=大会当時30*1=がこの大会を最後に引退するということで、開会前から盛り上がっていたが、彼の個人としての最終レースとなった男子100㍍決勝は、ボルト得意の後半の追い上げが一歩届かず9953位に終わり、米国のジャスティン・ガトリン(35)99212年ぶりの優勝。2位はゴール直前までトップだった同じ米国のクリスチャン・コールマン(21)994だった。

 この大会を独占中継したTBSMBS系列の男子100㍍の実況放送がひどかった。「勝ったのはガトリン」と伝えたのは、レースが終わってから10秒以上過ぎた後で、記録表示ボードに結果が出て初めてガトリン優勝に気づいたようなのだ。スタート時から、4レーンのボルトと、隣の5レーンのコールマンにばかり気を取られ、「ボルトか、コールマンか」と叫び続けて、8レーンのガトリンは一度もアナウンサーから名が出なかったのである。

 気づかず実況放送したアナウンサーは、あのビデオが流れる度に今後ずっと冷や汗をかき続けるはずなので、あまり責めるのも気の毒だが、プロとしてはあってはならないミスには違いない。TBS側はすぐに「まずい」と思ったようで、今インターネットでTBSの世界陸上のページを開き、男子100㍍決勝のビデオを再生すると、ゴールの直後から、「勝ったのはガトリン」とアナウンサーが告げるまでの10秒以上が上手にカットされている。

さて、世界陸上で個人的にうれしかったのは、男子50㌔競歩である。といっても、マスコミが大騒ぎした日本の荒井宇宙、小林快による「銀銅フィニッシュ」ではなく、その2人を8分以上も引き離して金メダルに輝いたフランスのヨアン・デイニズのことである。

デイニズは、リオデジャネイロ五輪では2位集団にいながら、スタートから2時間44分で路上に倒れて漏らすアクシデントがあったが、トイレに行って“復活”し、追い上げて8位入賞だった。今回のレースでも、序盤にトイレに行くなど心配させたが、短時間でレースに戻り、以後はぶっちぎりの「歩」で、3時間3311秒の大会記録で優勝した。

元々デイニズはこの種目の世界記録(3時間3233秒)保持者で、実力はあるのだが、オリンピックや世界選手権では勝ち運に恵まれず、10年前の2007世界陸上での銀メダルが最高だった。実はその2007世界陸上は大阪で開催され、フランス選手団の25*2は和歌山で事前合宿したのである。10年前、私はフランス選手団の歓迎行事などで大忙しだった覚えがあるが、そのメンバーの1人が10年越しの念願である金メダルをロンドンで獲得したことは、我々にとっても喜ばしい話である。38歳のデイニズには3年後の東京五輪に来日して和歌山で合宿し、50㌔競歩で日本の荒井、小林らと再び覇を競ってほしい。

 

*1 ウサイン・ボルトは1986821日生まれだから大会終了後に31歳を迎えたことになる。ロンドン世界陸上の男子4×100㍍リレーでは、ジャマイカチームのアンカーで出場したが、レース途中に足を痛め痛恨の棄権となり、お蔭で日本は銅メダルを獲得できた。

*2 2007世界陸上大阪大会のフランス選手団は26人いたらしいが、男子1500㍍のバラ・メディは他府県で合宿しており、和歌山県営紀三井寺競技場で練習し、ガーデンホテル紀三井寺はやしで合宿したのは25人だった。

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