大橋建一ブログ

元新聞記者、前和歌山市長の大橋建一のブログです。

大橋建一のコラム(惰学記、余談独談)と活動日誌は2014(平成26)年4月28日以後、 ライブドアブログで発信いたします。当分の間、これまでの大橋建一ホームページ(http://www.ken-ohashi.jp/)は残していますので、古いコラムなどはそちらをご参照 くださいますようお願いします。

 春の叙勲で旭日中綬章*1を受章した。和歌山市長を312年務めたことによる「地方自治功労」ということで、無事勤め上げて不祥事なく引退すれば、「順番に」いただけるもののようだが、受章できたことは素直にうれしい。在任中、様々な難題に直面したが、その時々に市民の皆様と、その代表である市議会に協力をいただき、幹部から若手まで多くの職員に一生懸命支えてもらって何とか対処できた結果であり、皆様に改めて感謝申し上げたい。そして、活動をサポートしてくれた後援会の方々と、もちろん妻を始め家族にも。

伝達式は511日に東京プリンスホテルで行われた。私たちは10日午前に和歌山を出発し、同ホテルで前々日に送ってあった妻の着物を受け取りチェックイン。この日も伝達式*2が行われており、ホテルの中はモーニング姿で勲章をぶら下げた男性と、色留袖などの正装をした女性たちでごった返していた。妻は翌朝の着付けとヘアセットの、私は写真撮影の、それぞれ予約の行列に並ぶ。周囲には受章記念品並べて売り込む業者がずらり。

さて伝達式当日の翌11日。6時半に朝食に行くと、レストランはすでに満員。腹ごしらえも早々に部屋に戻って、9時からは妻の着付けとヘアセットの時間。大きな部屋にずらり並んだ美容師さんと着付け師さんが流れ作業のように女性たちをさばいていたそうだ。

11時から伝達式。受章者は渡された紙に記された指定席に同伴者と並んで着席する。出席している総務省関係受章者*3全員の名前を司会者が読み上げた後、伝達役である高市早苗総務大臣の代理・赤間二郎総務副大臣から各章ごとの代表者に勲記*4と勲章が伝達される段取りだ。私は旭日中綬章の受章者代表として、妻と共に壇上に上がり伝達を受けた。

閉式後、弁当*5が全員に配られ、その場で昼食となるが、私たちは先に記念写真を撮影する*6ことにして、いったん離席、終わってから食事した。午後は天皇陛下に拝謁するため、バス18台に分乗して皇居に向かう。大手門から入り、一般参賀に使われる宮殿東庭に駐車、各都道府県で伝達を受け、拝謁だけ参加する総務省関係受章者や外務省など他省関係の人々と合流、700人を超す団体となって先着の厚生労働省関係者の拝謁終了を待つ。

この日は最高気温が29度に達する暑い日で、車中は冷房の効きが悪く、外に出るとカンカン照りという年寄りにはつらい待ち時間。約1時間後にバスを降り、豊明殿へ。ここで15分ほど立ったまま*7待っていると、天皇陛下が入室された。その途端最前列の1人がバタリ倒れるハプニング。すかさず陛下はその人に近寄り、「大丈夫ですか」。その後正面の演台に進み、短いお言葉を述べた後、元気な足取りで室内を一周、部屋の隅に並ぶ車椅子の受章者には特に目配りし、退出される前に、倒れた男性に再び「大丈夫ですか」と声をかけられた。その気配りには感動した。行事がすべて終わったのは午後5時前だった*8

 

*1 勲章には様々な種類がある。最高位は大勲位菊花章で、大勲位菊花章頸飾、大勲位菊花大綬章の2通りがある。菊花章頸飾は天皇陛下や来日した外国の君主らに、菊花大綬章は中曽根康弘元総理に叙勲されている(没後叙勲は除く)。次は桐花大綬章で、主に総理や衆参両院議長経験者が受章する。今回の春の叙勲では森喜朗元首相が受章した。次が旭日、瑞宝の各大綬章で、桐花、旭日、瑞宝の各大綬章が昔の勲一等に当たる。以下は旭日、瑞宝の各重光章(昔の勲二等)、各中綬章(昔の勲三等)、各小綬章(昔の勲四等)、各双光章(昔の勲五等)、各単光章(昔の勲六等)の順で、旭日章は「国家又ハ公共ニ対シ勲績アル者」、瑞宝章は国及び地方公共団体の公務または公共的な業務「ニ対シ積年ノ功労アル者」に授与するとされる。新聞では中綬章までが全国版に名前が掲載され、以下は各地域版に名簿が載る。これとは別に現在では皇室の女性だけが対象の宝冠章、戦後制定された文化勲章がある。

*2 私は総務省関係の受章者だったが、中綬章以下の伝達は所管大臣がそれぞれ行うので、連休明けから約1週間、東京プリンスホテルは各省の伝達式が続いていた。なお、勲章の授与は各級ごとにルールが決まっており、大綬章までと文化勲章は宮中で天皇自らが受章者に直接授与する(親授式)。重光章は宮中で天皇臨席のもと内閣総理大臣が受章者に手交する。中綬章以下で東京での伝達式に出られない人は、各都道府県で知事から伝達を受ける。健康上の理由でこれにも出られない場合は、在住の各市町村から担当者が受章者の自宅まで直接持って行くようだ。

*3 総務省関係の受章者は649人(うち女性20人)で、東京での伝達式に出席したのは308人、配偶者は233人だった。

*4 勲記は賞状のようなもので、受章者の氏名、受章する勲章の名称、受章年月日、授与権者の名称等を表示して、国璽というハンコを押した証書である。

*5 ここで配られる弁当と、宮中との往復のバス以外は、旅費、宿泊費、美容院代などすべて自分持ちである。ただ、弁当は浅草今半のもので、なかなか豪華でおいしかった。

*6 勲章をつけ、夫婦で撮る記念写真(もちろん有料)は食事を終えてから並ぶとバスに間に合わなくなるので、食べる前に急いで撮影場所に行った。首尾よく並ばずに撮れた。

*7 豊明殿では、車椅子の出席者と、あらかじめ申し出て椅子に座ることを選んだ人以外は全員立って拝謁を待つことになっている。受章者は8列、配偶者は7列で並ぶが、私は4列目に入ってしまい、陛下の姿はほとんど見えなかった。

*8 拝謁終了後、豊明殿出口あたりでバスごとに集合写真を撮るので、またしばらくの時間待ちがあった。朝9時から着付けに行った妻はヘトヘトだったが、私は東京に住んでいる中学時代の友人との飲み会に出かけた。実は前夜も飲み会があり、さらに12日も新聞社の同期会があったので、それに出てから最終の飛行機で日付が変わる直前に帰宅した。

 布施明は私より1歳下の団塊世代歌手である。東京生まれの東京育ちで、ウィキペディアによれば「ザ・ピーナッツにあこがれて」歌手を目指したという。高校生だった1964年ごろ、日テレ系オーディション番組「ホイホイ・ミュージックスクール*1」に合格、ザ・ピーナッツが所属していた渡辺プロにスカウトされた。夢がかなえられたわけである。

 65年、イタリアの歌手ボビー・ソロのカンツォーネ「君に涙と微笑みを」のカバーでレコードデビュー、伸びのある甘い声が人気を呼び、66年の「おもいで」「霧の摩周湖」、67年の「恋」、68年の「愛の園」、704月の「愛は不死鳥」など着実にヒットを飛ばした。

 「そっとおやすみ」は「愛は不死鳥」の次のシングルで、707月に発売された。前作「愛は不死鳥」が川内康範作詞、平尾昌晃作曲で、シャウトするように歌い上げる「派手な」曲*2だったのに対し、「そっとおやすみ」の方はクニ河内*3作詞作曲のバラードで、一緒に住んでいた彼と別れた女の未練心を、あまり深刻でなく「そっと」歌っていた。

 71年から73年にかけては目立ったヒットはなかったが、カバー曲の「マイ・ウェイ」などで見事な歌唱力を披露し続けていた。67年以来の紅白歌合戦連続出場は続き、74年には「積木の部屋」のヒットで再び脚光を浴びるようになった。そして75年、当時注目され始めていた小椋佳作詞作曲の「シクラメンのかほり」を歌ってリリースしたところ、105万枚の大ヒット、レコード大賞や日本歌謡大賞など、75年度の賞レースを総なめにした。

 もう一つ、布施明といえば思い出すのは、ハリウッド女優オリビア・ハッセーとの結婚(80年)である。布施は米国に渡り歌手活動を続けたが芽が出ず、83年に息子が生まれて以後、日本での活動が主体になって、離れ離れの期間が増え、89年に破局、離婚した。

 知らなかったが、布施は2013年、65歳で「SHOW ME」の森川由加里と再婚していた。

 

*1 ホイホイ・ミュージックスクールは1962年から1965年まで日テレ系で放映されていた味の素提供の歌謡オーディション番組。司会は鈴木やすしと木の実ナナで、布施明のほか、三田明、望月浩、東山明美らがこのオーディションからプロになった。後の「あなた出番です」「スター誕生」の原点になった番組である。

*2 「愛は不死鳥」で紅白に出場した時、布施明は鳥の羽根をイメージした派手な衣装で登場したが、これがジュディ・オングの「魅せられて」の衣装に影響を与えたと思われる。さらに、後の紅白での美川憲一や小林幸子らの豪華衣装も、布施明の「愛は不死鳥」にルーツがあると言える。

*3 クニ河内は1940年生まれのミュージシャンで、NHK教育テレビ(Eテレ)の子供番組などに出演、CMソングや子供向けの歌を多数作曲しているほか研ナオコの曲の編曲などを担当した。

 1カ月前の話になって恐縮だが、WBC侍ジャパンを率いた小久保裕紀監督(以下裕紀さんと書かせてもらう)の母・利子さんが331日に亡くなった。私と同じ1946年生まれで、まだ70歳だった。葬儀の時の喪主あいさつで裕紀さん自身が語っていたが、昨年初冬から体調が悪化、医師からは年を越せないかもしれないと言われていたという。3月末まで頑張れたのは、裕紀さん率いる侍ジャパンの戦いを見守りたかったからだろう。大会が終わって、裕紀さんが帰国するのを待っていたかのように、彼女は息を引き取った。

裕紀さんは197110月に和歌山市郊外の加太で生まれたが、両親は1977年に離婚、裕紀さんと弟*12児とともに市中心部にあった実家に戻った。母は薬剤師として家計を支える一方、「父親不在の家庭で育つと、甘えた子供になるのではないか。厳しい監督の下で、強くたくましい子供に育ってほしい*2」という思いで、裕紀さんが小学校に入学してすぐに砂山少年野球クラブに入団させた。それが裕紀さんの野球人生のスタートとなった。

彼女は薬剤師仲間と1993年に「()第一薬局」を立ち上げた同薬局の大株主で、亡くなるまで同薬局チェーンの専務取締役を務めていた。市長時代、ホークスとジャイアンツの主力選手だった裕紀さんが和歌山に帰ってくる時はいつもパーティーや野球場*3で裕紀さんと利子さんにお目にかかっており、それをきっかけに、利子さんと私たち夫婦は親しくなり、共通の友人たちと一緒に何度も飲みに行ったり、カラオケに行ったりしていた。

私たちは数年前まで知らなかったが、利子さんは、今から十数年前に乳がんを患い、治癒したものの、8年前に転移が判明したのだそうだ。それでも一昨年までは比較的元気で、裕紀さんの現役時代は、年に何度か友人を連れて福岡のYAHOOドームまで応援に行っていた*4。しかし昨年初めごろから入退院を繰り返すようになり、げっそり痩せて飲み会に来る回数も減った。今年に入って何度目かの入院となったので、216日に見舞いに行くと、驚いたことに裕紀さんが付き添っていた。WBC本番の直前である。大会が終わるまで当分見舞いに来られないので、「もう会えないかも知れない」という思いで時間を作って付き添っていたようだ。大谷が出られなくなって大変ですね、などと話をした覚えがある。

ご存知のように、侍ジャパンは322日の準決勝で米国に敗れた。ガックリ気を落としているのでは、と心配になって、翌23日に、もう一度見舞いに行った。利子さんはかなり胸が苦しそうだったが、それでも思ったより元気で、「肩の荷が下りた。ホッとしている」「監督なんてするもんじゃない」と笑い、「きょう日本に帰ってくる」と話してくれた。

葬儀の日、利子さんが8年前、転移を知って書いたという参列者への感謝のメッセージを裕紀さんが読み上げ、言葉を詰まらせたので、私も涙があふれ出した。母は強しである。

 

*1 弟は2歳年下で、やはり野球少年だった。裕紀さんは県立星林高から青山学院に進み、甲子園に行けなかったが、弟は智辯和歌山高の一員として1年生から主戦投手で活躍し甲子園出場を果たしている。後に小久保がプロ入りしたと聞いた地元和歌山の人は、てっきり弟のことだと勘違いした人もいたほど、兄より弟の方が有名だったが、故障で野球を断念、つい最近まで腹話術の「いっこく堂」のマネジャーをしていた。

*2 裕紀さんの著書「一瞬に生きる」から引用した。

*3 何度か書いた通り、裕紀さんは巨人時代の2005年から毎年秋のシーズンオフに、和歌山市の学童野球大会の成績優秀4チームがナンバー1を決める大会を主催し、自ら試合を見て、選手たちを指導してきた。「小久保裕紀杯」と名付けたこの大会のため毎年シーズン終了後に里帰りしており、その時野球場でお会いしていた。

*4 「一瞬に生きる」の序章には、2012年、2000本安打を達成した小久保選手の名球会入りセレモニーが7月14日に開かれた時、利子さんがヤフードームまで出かけ、裕紀さんと一緒にグラウンドに立ったことが記され、「最高の親孝行ができたことで、ユニホームを脱ぐ決心ができた」と、裕紀さんの母への思いが書かれている。

↑このページのトップヘ