素朴な例として佐伯祐三のエピソードを思い出してみよう。渡仏し自己のスタイルをやっとの思いで確立し、帰国した彼が、日本の風景を前にして「日本の風景は描けない」と絶望したという例の有名なエピソードである。フランスの風景ならうまく合った自分の表現スタイルが日本の風景を前にしてアヤフヤに浮いてみえる。あるいはフランス帰りの技法の前に日本の風景はまったく陰惨にいじけて見える。もちろん、ここで萎縮したのは、風景でも形式でもなく、ほんとうは佐伯の方だった。彼にそのスタイルを日本の風景に使うことをためらわせたもの、彼の想像力に「まった」をかけさせた感情の澱、その抵抗は選択可能な複数の形式に裂かれた主体以外のどこからも生じない。──あからさまにいえば、帰国した佐伯の視野に立ち塞がったのは、当時、圧倒的な影響力をもっていた岸田劉生ひきいる草土社流の風景画だったにちがいない。岸田の絵に表された高密度で迫真性のある風景に比べて、フランス帰りの佐伯の描く風景画は画布の表面上をただ絵筆が泳いでしまい、なんとも頼りなく見える。日本の風景を描くには劉生の画法こそがふさわしいのではないか?佐伯はたぶんそう自問せざるをえなかった。だから彼がたじろいたのは日本の風景そのものではない。岸田の絵に写された日本の風景──ギトギトとバタ臭い、と批判されたこともある──岸田の作り上げた日本の風景だった。<中略>
フランスと日本というよりは、いわばブラマンクと岸田の個性的なスタイルの間に翻弄された佐伯のあまりにナイーブな一例だとしても、明治以降、たえず繰りかえされてきた、日本固有の絵画の実現を巡る議論は、いずれも「日本民族固有の表現形式」というその架空の方向を指していたものの、実際は、日本画であれ洋画であれ、ある作品が用いている表現形式が観客に引き起こす感情的な齟齬からはじまって、そこに使われているメチエ、表現形式の恣意性、わざとらしさを指摘するという道筋をとることがほとんどだった。
たとえば地方色の議論がある。通常は固有色とされるローカルカラーという原語から変形的に翻訳された、この地方色という語の特殊な用法は、モチーフとなる絵画の風景の描かれ方が、自然であるかどうかの判定に用いられるときにもっともよく発揮された。知られた例でいえば、明治四十二(一九〇九)年の文展に発表された山脇信徳の『停留所の朝』を巡る応酬がある。この、印象派に感化された二十三歳の才気ある画家の絵が発表されたとき、その色彩と情景の新鮮さを讃える声に対して、「西洋臭くて日本の自然とはとても思えない」、「日本の自然そして日本人の感情を無視した新技法の誇張された表現」であるという石井柏亭をはじめとする多くの反発の声があがった。 すなわち、ここでも感情的な齟齬がはじめにくる。そして、その齟齬をもたらしたところの要因は、本来の日本の自然がもっているはずの固有の色彩感を、西洋最新技法によって、強引に変形、つまり翻訳したことにあるという批判が続く。けれど、この作為的な形式に抑圧されたところの、肝心の日本の固有色──つまり地方色は、そこでも、想像的に定位されているもの以上ではなかった。この感情的な違和感、齟齬感は、他の表現形式──もっと流布した形式によって描かれた風景とのズレによって意識されるにすぎない。たとえば高村光太郎は柏亭たちが「日本の固有色」として想定しているのは、実は、菱田春草からの、いわゆる朦朧体と呼ばれる曇天の白を基調とした色調であり、それに同化しようとした黒田清輝の洋画のような、流布した定型を指しているにすぎない、と批判している。(高村、一九一〇)。光太郎にとって、しょせんそれは生きた自然ではなく、すでに死んだ形式に見いだされるものでしかなかった。
シュールな日本 / 岡崎乾二郎 『現代日本文化論 (11)』(岩波書店)