Kengoのブログ

ボーカリスト、ボイストレーナー吉田研吾の独り言です。ネタです。ツッコミです。

夏休みの宿題

ふと思ったんですけど、

「夏休みの宿題」ってちょっと理不尽な感じしますね。



「休み」と言っちゃっている以上、子供的には「オフ」なわけですよね。

普段、「学校がらみでやらなきゃいけないとされているあれやこれや」が、

オフになるから「休み」なわけですよね。



じゃあ、学校がらみでやらなきゃいけないとされていることを、

オフでもやらなきゃいけない感じになるのはどうなんだろう?っていう。




「夏休み」ではなく、「夏季学外学習期間」っていう呼称だったら

宿題やら課題やらが山ほど出る理由は分かるんですよ。

あくまでも「オフではない」っていうことなら。


もしくは、

「宿題はやってもやらなくてもいいけど、やっておくと学習のためにいいよ〜」

とか、

「休み明けに試験があるから、そのためにこれをやっとくといいよ〜」

くらいの、あくまで自主性に任せますスタンスだったら。




例えば会社から「休日にこれだけ仕事やって来い」って言われたら

それは時間外労働になるわけだから、

「休日」ではなく「在宅勤務」という扱いになるわけですよね。


それをもし在宅勤務扱いにしなかったら(サービス残業的な感じになったら)、

それはもうブラックだとか、

いわゆる一般的に「よろしくない」っていう話になるわけでしょ。




学校が「休日にこれだけ課題(宿題)をやって来い」っていうのは

半強制的に時間外学習(サービス残業的なこと)をさせてる

っていうことにはならないんだろうか。



そもそも「学習」と「勤務」は違う、

大人と子供は違うっていう話になるのかな。




それとも、


「休みっていうのは学校という機関が休みなだけであって、

学習する立場の人間が休んでいいということではない」


っていう解釈なのかな。



義務教育の「義務」は「教育を受ける義務」ではなく、

「教育の機会を与える義務」っていうのと似た感じで。




んー、だとしたらやっぱり「夏季学外学習期間」だよなぁ。

休みって言われたら、休んでいいじゃんって思っちゃうから。



まぁでも、それこそ「受ける側の義務」ではないから、

厳密に言えばやらない選択肢も与えられてることにはなるけど。




僕は大人になった今、

「やりたくないことはやらない」っていうことができるようになってきたけど、

今のマインドのまま小中高に戻ったとしても、

「宿題やりたくないからやらない」とか

「学校行きたくないから行かない」ができるほどの勇気はないかも。。

(まだまだその辺はいい子ちゃんマインド健在。)




それくらい、学校の持つ強制力というか圧力というか、

社会における「学校」という場所への「従うべき」感は、

すさまじい気がしてる。




だから個人的には、もし夏休みに課題を与えられるとしたら、



楽しかったこと、

おもしろかったこと、

嬉しかったこと、

挑戦してみたこと、

やりたかったこと、

おいしかったもの、



とかそういうのを

なんでもいいから夏休み明けにシェアしよう

(どんなことでも良し悪しでジャッジしない)

みたいなのがいいなー。




とか考えちゃった。

暑いけど嫌じゃない

僕はもともと夏が大嫌いでした。

単純に、暑いから。



よく、


「寒いのは厚着すれば防げるけど、暑いのは脱いでも暑いじゃん!」


って言ってましたし。

(夏嫌いな人って大体言うよねw)




でもここ数年かな、暑いのが平気になってきました。



最近なんか、連日ずっと暑いじゃないですか。

外に出ても、街中に人が少ないくらいに暑かったりしますよね。




でも僕平気なんです。

まぁ普通に「暑い」とは感じますけど、

それを「嫌だ」とは思わないんです。


暑いのは、「暑い」という事実であって、

それと自分が「嫌」と感じるかどうかは別問題。


・・ってなんとなく思ってるんだと思います。



だから暑い中普通に出かけたりウロウロしたりしてますが、

「暑いという事実」だけを感じてます。

嫌だとはそんなに思わない。




むしろ、

「このくらいカーッと来る日差しいいね!」とか思ってたり。


ちょっと日陰に入った時とか、

ちょっと風が吹いた時とか、

気持ち良いと感じる瞬間が多々あるし、


この季節だからこそ、重たい上着を着ることもなく、

軽装で身軽でいられる。


そして、飲み物とかアイスがおいしい!!



そういう、「いいな〜」と思う部分の方に気持ちが勝手にフォーカスされます。


だから結果として、それほど「暑い!」とも思ってないかも。




でも、暑かろうがなんだろうが、アウトドア的なのは苦手なんです。


海とか川とか山とか、

バーベキューとか、

野外イベントとか、

フェスとか、

花火大会とか、

テラス席とか、


いわゆる、ずーっと外にいてなんかするっていうのが苦手。

あと、人がワサワサしてる中にずーっといるのも苦手。

昼夜・気温に関わらず。




だから、

暑いの平気になったからと言ってアクティブになるかと言ったら、

そういうわけではない。

ワクワクの価値

先日、ちょっと久しぶりにセブンイレブンに買い物に行きまして。

店内ウロウロしてたら、なんだか楽しそうなものがいっぱいあるんですよ。


目新しいカップ麺とか、

セブン限定のお菓子とか、

おいしそうなアイスとか。



なんかワクワクしちゃって、

「楽しそー!」と思ったら値段も見ずにカゴにばんばん入れてました。




そしたらね、

それから1週間以上たった今でも、毎日ワクワクしてるんですよ。



あの時買ったカップ麺、おいしいって評判になってたし食べてみよう!とか、

あの時買ったお菓子がまだあるな〜、今日は何食べようかな〜とか、

あのアイスいつ食べようかな〜、もっとアイスの気分な日に食べようかな〜とか、



日々のちょっとした瞬間にワクワクするタイミングがいっぱいある。


これって、買った時に手放しにワクワクして買ったからだなと思うんです。



もし、


「これはちょっと高いからやめておこうかな…」

「買いすぎかな…もっと節約した方がいいかな…」


とか考えたり我慢してたら、

この何日越しのワクワクはなかった気がするんです。




もっと言ったら、

自分がワクワクすることに関して変に考えすぎたり我慢したりしないから、

ワクワクすることにかけるお金に困らない生活ができてるんだと思ってます。



その時のレシート捨てちゃったから何がいくらだったのかもよく分かんないし、

最終的な合計金額も覚えてないんだけど、

まぁせいぜいコンビニでお菓子買った程度の金額ですよ。



それでこんなにずーっとワクワクできるなら安いもんですよね。

(金額分かんないのに高いも安いもないんだけどw)




自分がワクワクすることや自分の気持ちは「プライスレス」です。

すなわち「値段がつけられないくらいに貴重」であり、

「値段は関係ない」ってこと。


だから、そこを値段で左右させちゃダメですよね。



「節約して安くしなきゃ」

でもなければ、逆に

「高くないとダメ」

でもない。




値段で左右するから、そこ(自分の気持ち)に


「値段がついちゃう」


んです。



それって、自分のワクワクを「限定する」行為になるわけ。

限定しちゃうから、ちゃんと満たされなかったり、長続きしなかったりする。


値段で決めると(他人軸だと)そうなっちゃう。


だから、その時の自分の気持ちに従うこと(自分軸)が大事なんですよね。





自分という人間が、

何ができるとか、何を持ってるとか、何をしてるとか、

物質的にとか社会的に考えてどの程度価値があるかどうかはとりあえずどうでもよくて、

「自分の気持ち」というものは値段がつけられないくらいに貴重なもの。


だから、その気持ちを持っている自分自身も貴重ってことになる。


それが、「自分自身を大事にする」ってことなのかなーと思います。


で、自分自身を大事にすると、ちゃんと満たされるし、

ワクワクが続いて楽しい。



ということで、コンビニお菓子レベルから、

我慢しないでワクワクするっていうことをしてみよ〜って推奨中w

「した方がいい」はどうせしない

例えば、


「〜〜をした方がいい(するべきだ)って分かってるんだけど、でも忙しくて…」


とか考えちゃうことありますよね。



周りにできてる人がいたとしても、


「あの人はこうだからできるんだ。(自分はできなくてもしょうがない)」


みたいに、いわゆる【できない理由】を探しちゃってみたり。




さらにそこから


「できない自分はダメだ。もっと頑張らないといけないのに…」


って自分を責めたり否定しだしちゃったり。




それって、ものごとを、


「〜した方がいい」

「〜すべき」


で考えてるとそうなっちゃうんですよね。



すなわち、「やりたい」じゃないってこと。

ちゃんと自分の意志(本心)で決めてないってこと。



「知行合一」っていう言葉があってね、

「考え」と「行動」は一致するはずらしいんです。

要は「分かってるけどできない」は、あり得ないんですって。




やろうやろうと思ってても、

どうせ後手後手に回っちゃうくらいなら、

どうせいつまでもやらないんだったら、


最初から「じゃあやらない」って決めちゃうと楽ですよ。



だって、いつまでもやらないでいられるってことは、

言うほど必要だと思ってないわけだし、

「やらなくても平気なもの」ってことだから。



本当に必要だと思ってるか、本当にやりたいと思ってりゃやるんですよ。

「お腹が空いたらご飯を食べる」んですよね。


だから、やってないってことはお腹が空いてない、

すなわち、その事項を本心では「欲してない」ってこと。



本心じゃないものに「そうした方がいい」「そうすべき」なんて

そもそも「無い」って僕は思ってます。




だったら最初から、

「やってもやらなくてもいい」

って思ってしまって、

「やるかどうかは自分の選択で決めていい」

ってすると、とても生産的。




昔だったら、



「できない理由を探すな!できる理由を探せ!」

「ダメだと思うならしのごの言わずにもっと頑張れ!」

「もっとハングリー精神を持て!」

「もっとやる気を出せ!」



って思ってたんですけど、今は全く思わなくなっちゃいましたね〜w



根本をちゃんと見つめれば、

根性論以外にいいやり方はもっといっぱいありますよ。

親友っていますか?

先日、生徒さんと話してる時、


「先生は、"親友"っていますか?」


って聞かれたんですよ。

で、僕は思わず、


「どっちでもいいと思ってる」


って答えました。


・・答えになってないですねw




いや、どっちでもいいっていうのは、

僕は言葉の意味にとらわれる気はないから、


「一般的に言われている"親友"と呼べる存在がいるかどうか、そんなのはどっちでもいい」


っていうことなんです。




何をもって「親友」とするかなんて、そもそも曖昧ですよね。

これ!って定義付けられるわけでもないし、

「友人」と「親友」の境目なんてよく分かんないし。



あと、自分がそう思ってても、相手も同様に思ってるとは限らない。

かと言って相手の本心がどうかなんて知りようがない。

双方の意識が同レベルで成り立たないと「親友」とは言わないのか?



・・とかね。いずれにせよ、よく分からないでしょ。



ってことは、「こうであったら親友」なんていう絶対的なものがないってこと。

そうなったら、これも「自分の解釈次第」ってこと。




僕としては、


ちょいちょい連絡取りたいな〜

ちょいちょい会って話したいな〜


と思うような友人はいるわけです。


で、実際ちょいちょい連絡取ってみたり、

会える時はちょいちょい会ってみたり。




それって単純に、

自分が連絡取りたい、会いたいっていう気持ちがわく、

すなわち相手に対して興味があって、

「親しくしていたいと思える友人」ってこと。


それを略して「親友」って言うならそうなのかもね。



僕がそう思ってたとしても、

相手がどう思ってるかなんて分かんないですよ。



あと、別に


頻繁に連絡取るとか、頻繁に会うとか、

相手のことを深く知ってるとか、

相手のためなら何でもしてあげたいと思えるとか、


そういうめんどくさい感情でもないですw




だから、


相手がどう思ってるかは分かんないし、

分かりやすく濃密な関係なわけでもない。



それを一般的に「親友」と言うかどうかなんて知らない。

自分の感情として「親友と言える仲である」かも分かんない。




「自分が興味があって親しくしていたいと思う友人はいる」

っていう事実はあります。

それだけ。



僕がそう思ってればそれでいいでしょ。

言葉として「親友」かどうかなんて、どうでもいいでしょ。


だから、「どっちでもいい」んです。



単純に、

「僕にとって親友と言える人がいるかどうか」

ということに興味がない(笑)。

地毛の髪色が・・

最後に美容院で髪をカラーしてもらってから1年以上たったので、

現在は完全に地毛状態です。


でも、なんだか髪色がほんのり明るいんですよね。




ちょっと気になったから、以前美容師さんに

「これって傷んでるんですか?」

って聞いたら、全然傷んでないって。



じゃあ、歳も歳になってきたから、

単純に年齢のせいなのかって聞いてみたら、

年齢とともに色んな意味で髪質が変わることはあるっちゃあると。


でも、僕のは悪いようにはなってないと。



なんならむしろ「十代の子の髪を触ってるようです」と言われ、

キューティクルだか天使の輪だかをほめられました(笑)。




もしや一気に白髪になりそうなんじゃないか、

はたまた、はげそうなんじゃないか…と思って聞いてみたところ、

どちらもその兆しは全くないと。




逆に、


プールによく入ってますか?

よく日に当たってますか?


と聞かれたけど、どちらもないんです。



プールなんてもう10年以上入ってないし、

基本的に普段から家にいる時間が長いので、

ちょっとご飯食べに出る時か、買い物行く時くらいしか日に当たらない(笑)。




結局、理由はよく分からないんです。


でも、今のこの髪色、結構気に入ってるんです。



カラーしてた時も、

あまり明るくしすぎず、

暗めのアッシュ系とかマット系みたいな感じにしたかったんですよね。



でもまぁ、カラーすると大概ちょっと明るめになって、

最初はそこそこ色が入っても、だんだん色が抜けて

すぐ赤茶色っぽくなっちゃうんですよね。



それが今、地毛でちょうど明るすぎず、

こげ茶っぽいというかカーキっぽい感じの色になってるから、

これって自分が前々からやりたかった色じゃね?!っていう。



「素の状態が、実は自分が一番欲しかった自分なんだよ」



とでも言われているような感覚。



なんか、実際そうなんだろうなと思う。




いろいろやってみても、なかなか自分の思い通りの自分にならない。

最初はいいけど、だんだん「やっぱり違う」「足りない」ってなっていく。

だからまたそれを上塗りしていく。

でもなかなかちゃんと満たされることはない。



思い切ってそれをやめてみて、自然な状態にしてみたら、

「あれ?もともとの自分ってこんなに良かったの?」

って気付く。

やめてみた時に、意外といい感じになってたりする。

そんな自分を気に入っちゃったりする。




・・っていう。


地毛の髪色から、そんなことまで考えてみたw

責めることの仕組み

もめ事とかケンカとか、人間関係のトラブルによくあるのって、

要するに

「責めること」

だと思うんですよ。



誰かから自分が責められる

自分が誰かを責める



っていう。



どちらもツライですよね。


人から責められるのはもちろんのこと、

自分が相手を責めるのもしんどい。




なんでしんどいかっていうと、どちらにせよ


「他人は自分の思い通りになんてならない」から。




相手から「あーしろこーしろ」「あーするべきこーするべき」って言われたって、

その人のお望み通りにするなんて難しいでしょ。



逆に、自分が相手を責めたところで、

他人を自分の理想通りに変えるなんて無理なんですよ。

他人は自分の思い通りにはならないんですよ。



そもそも自分は自分の人生を、他人はその人の人生を生きていて

自分と他人は「違う人間」であって、

価値観も好き嫌いも得手不得手も習性も性分も、

全く違うんだから。



それを「無理強い」しようとするからしんどい。

するのもされるのも。




それを少しでも軽減させる方法を僕は見つけましたよ。




それは、


「自分が自分自身を責めるのをやめること」


です。



他人から責められてしんどいのは、

そもそも自分で自分を責めてる部分があって、

それを他人からさらに上塗りされたから。



他人を責めるのは、

そもそも自分の中に「あーすべきこーすべき」があるから、

相手にも「だからオメーもやれよ」って求めちゃう。

で、他人がそうならないからしんどい。




これができない自分はダメだ

自分は人と比べて劣ってる

もっとこうあるべきだ



っていう責め。



それって全部、価値観の基準が「外側」なんですよね。

その価値観、誰が決めたことに従ってるの?


誰が決めたんだかよく分かんないような「外側」の基準で勝手に振り回されてるんです。

それでいて、それを自分で勝手にあてはめてるんです。



仮に明らかに何かの基準に従ってたとしても、

「それに従おう」って決めたのは自分ですよね。


どちらにせよ結果的にそれやってるの、

まぎれもない「自分」なんですよね。



結局自分で決めて自分でやってるんだから、

それを自覚すること。


それから、外側の基準にあてはめるのやめたらいい。

どこの基準も誰の基準も関係なく、基準を自分にしたらいい。




できない自分はダメ? それができなきゃダメなんて誰が決めたの?

なんでそんな他人が勝手に決めた基準にわざわざ合わせるの?



人と比べて劣ってる? 比べる基準を決めたのは誰?

なんでわざわざ全く別の人間である「他人」と比べる必要があるの?



もっとこうあるべき? なんで?そうあるとどうなるの?そうじゃなかったらなんなの?

地球上全員が絶対的に「こうあるべき」ことって一体なに?




・・って僕は思う。



そういうの全部取っ払ったら、自分を責めることなんてなくなるんですよ。



できなくてもいいでしょ。それが不得意なのが自分なんだから。

人より劣るところがあってもいいでしょ。人それぞれ違うようにできてるんだから。

そもそも絶対的に「こうあるべき」なんてないんだから、自分がどうしたいかでしょ。




外側の基準や、他人のお望みどおりになんてならなくていいんです。


価値基準は自分にする。

それありきで、どういう行動をするかも自分が決める。



自分の基準も行動も自分が決めていれば、

結果として他人の基準に合わせて動いたってしんどくないですよ。

「自分の選択で自分でそう決めた」って思えるから。




そうするとね、仮に他人から責められてもダメージが小さくて済むんですよ。



あなたはそれがいいと思ってるんですね。

それは「あなたの価値観」ですよね。

私のとは違うんですよー。

私がどうするかは私が決めることなんですよー。



って思えるから。



自分にそれを許すと、「他人は他人の基準で動いていい」って思えるから、

他人を責める気持ちも少なくなるんです。



自分は自分の価値基準で動く、

他人も他人の価値基準で動く。



もしそれが相容れなければ、

「相容れないんだ」という事実をただ認めればいい。



「責める」のではなく、

「自分の価値基準はこうなんだよー(無理強いはしないけどね)」

ってただ伝えればいい。




ということで、


自分が自分自身を責めるのをやめると、

他人から責められてもダメージ少ないし、

他人を責める気持ちも少なくなる。


っていう仕組みでした。

自己否定は苦しい

ニュース記事で、

「ジャネットジャクソン、うつとの激しい闘いに苦しんだ経験を告白」

というのを読みました。


子供の頃に抱えた劣等感や、人種差別・性差別によって

自尊心が低くなったそうです。



お兄さんのマイケルジャクソンも、うつと不安症を抱えていたとのこと。



マイケル自身が以前、


「この曲を聴けば僕の全てが分かる。これまでの曲の中で一番誠実で、自伝的な作品」


だと言っていた「Childhood」という曲の歌詞でも、



「誰も僕を分かってくれない。みんな僕を変わり者だと思ってる。

決めつける前に、もう少し分かろうとしてみて」



って言ってるんですよね。






あと、最近マライアキャリーも双極性障害だと告白していました。

彼女も、「自信がない」「自分を否定してしまう」「常におびえてた」って言っていました。




僕から見たら、ジャネットもマイケルもマライアも、

すごく特別で才能あふれてて素晴らしい人たちだと思うんです。


それでも、自分を否定したり、自尊心が低くなってしまったり、

常に不安を抱えていたりするんですね。



若い(幼い)頃から、

アメリカのショービジネスの第一線で活躍するという大きなプレッシャーもあるでしょうし、

彼らの場合は人種差別の問題もあったんだと思います。




まだまだ足りない

もっと努力しなきゃいけない

乗り越えられない自分が悪い

望まれる通りにふるまわなきゃ

本当はこんなことしたくないのに・・



・・そんな思いがずっとあったのかなと思うと、

なんだか切なくなります。



何かの基準に対して自分が追いつかないことで、

「自分が悪い」というところから「自己否定」が生まれてしまうんですね。




誰でも、本来の自分の気持ちや得手不得手に反することをし続けるのって、

すごくつらいことだと思います。



特に子供の頃に大人から


「これができなきゃダメ」

「これをやっちゃダメ」


と言われ続けたり。



例えばよくあるのだと、



成績が悪い苦手科目をしっかり勉強しなきゃいけない

苦手なスポーツをできるようにならなきゃいけない

苦手な食べ物でも食べなきゃいけない

苦手な人とでも仲良くしなきゃいけない



みたいな、いわゆる「苦手を克服しろ」っていうもの。



あと逆に、



室内で遊ぶのが好きなのに外で遊ばなきゃいけない

友達と遊びたいのに習い事や塾に行かなきゃいけない

ゲームをやりたいのにあまりやっちゃいけない

家族と一緒にいたいのに学校に行かなきゃいけない



みたいな、「好きなことでも我慢しろ」というもの。




こういうのって誰にでもあることだと思うし、

「そうするのが当たり前」とされてることかもしれないですが、


そんなに自分の純粋な「やりたい、やりたくない」を否定されて、

それに反する行動をし続けてれば、そりゃ自尊心も低くなりますよね。


結局それが「自己否定」になるんですよ。



だから、「そうするのが当たり前」と思ってしまうことって

すごく怖いことだなと僕は思うんです。



それが社会

それが成長

それが人としてすべきこと



・・いやいや、そんなことないでしょ。

そう思い込んでる人が多いだけだと思う。


じゃあ、「なんでそうする必要があるのか?」って考えたことあるんですかね。

「そういうもんだから」ではなく、ちゃんと自分の意見として答えられるんですかね。




確かに、ジャネットもマイケルもマライアも、

社会的には大きな成功を成し遂げましたよね。


相当「頑張った」と思います。



そのおかげで、リスナーである僕らが良い音楽に触れられているので、

ありがたいことではあります。


でも、当の本人たちがずっとつらい思いをし続けてるのって、

なんか解せないです。



否定があるからそれを補うために頑張って、

その結果「物質的な」成功をおさめることはできるんだと思います。

でもそこに、一番大事な「気持ち的な」成功(成幸)はあるんですかね?



物質的な成功をする意味って、

気持ち的な成幸を味わうためじゃないんですかね?


それがない成功ってなんだろう?って思っちゃいます。



物質的な成功

物質的な成長

物質的な安心



それらを求めることで、自分の気持ちを否定する、我慢する。


それで自尊心が低くなって、自信がなくなって、不安になって、自分を見失って、

それってなんかおかしくないですか?


そんなの成功でも成長でも安心でもないんじゃないかな。



もう、自分の「苦手」「嫌い」「やりたくない」を

否定するのやめようよ、と思ってます。


苦手でも、嫌いでも、やりたくなくても、

それはとっても大切で、ちゃんと尊重すべき自分の感情なんだから。

迷惑かけてもいい

僕はずっと、


「人様に迷惑をかけてはいけない」


っていうのが強くありました。

なんでだかよく分かんないんだけど。


なんなら、

「人様に迷惑さえかけなければ何したっていい」

とも思ってました。



だから逆に、

誰かから自分に対して迷惑がかかるようなことをされると、

めちゃくちゃイラっとしてました。


人様に迷惑がかかること=悪

だと思ってたから、

僕に対して迷惑をかける人=悪人

っていう解釈なわけです。




でも最近、ちょっと考え方が変わってきました。

極論を言えば、

「迷惑をかけてもいい」

と思えるようになったっていうことです。



なんでかって言うと、

「人によって感じ方、捉え方はさまざま」

だから。


要は、


「迷惑と感じるかどうかはその人次第」


っていうことに気付いたんです。



そうである以上、


「人に絶対迷惑をかけないようにすることは不可能」


っていうことにも気付きました。


だって、こちらがどういう言動をとったとしても、

それに対してどう感じるかは、感じる側次第だから。


その人が何をもってして迷惑と感じるかなんて、

こちらが100%分かることはありえないんですよね。



これは迷惑になっちゃうかな・・・

って気にしたところで、知りえない。



こちらが「迷惑になっちゃうかも…」と思うようなことでも

あちらにとってはなんてこともなかったり、


こちらがなんともないことだと思ってやってることでも

あちらにとっては迷惑ととらえられてしまったり。


そんなこともあるわけです。




もっと言ったら、

そういう「迷惑をかけないように」と、やたら気にした言動を

「うっとうしい」と感じる人もいるわけです。


その人にとってみたら、

迷惑かどうかを考えてする言動自体が迷惑ってことになります。



最近僕は割とこう感じるタイプになっちゃいました。


基本的に僕は「自分がこうしたい」っていう素直な気持ちで行動したいし、

人様にもそうしていただきたいと思っているので、

「迷惑かかるかな…」と思いながら行動しないでほしいんです。


何かをされて迷惑と感じるかどうかは僕が決めることだから、

あなたがいちいちそんなこと気にしなくていい


って思っちゃいます。




あと、以前の僕のように「迷惑をかけちゃいけない」って強く思っていると、

他人の言動に厳しくなるんです。


「こうすべきだ」

「ああするのはおかしい」


みたいに、人の言動のちょっとしたことが目についてイライラしたり、

正義感振りかざして世直ししたくなったり。


自分がいつもそんな状態でいたら、

むしろそれこそが、誰かしらに何かしらの迷惑がかかる可能性もありますよね。




一般的に言われている「迷惑行為」というもの。

「これに関しては誰でも迷惑と感じるんじゃないの?」と

思われるかもしれません。


例えば電車の中で携帯で通話している人を見てイラっとするとか。


でも、それもちょっと考えてみて欲しいんです。

それってほんとに迷惑に感じてますか?


「音が耳障りでうるさい」と本気で感じるなら確かに迷惑です。

でも、小さい声で遠慮がちに話してても迷惑ですかね?

友人同士でガッツリおしゃべりしてる人の声の方が大きかったりしないですか?



だから多くの場合は、

「違反行為をしている(ルールを守らない)ということが鼻につく」

っていうことだと思うんです。

それって行為自体に迷惑しているわけじゃないですよね。



結構このパターン多いと思いますよ。

行為が迷惑だから嫌と感じるわけじゃなく、

「ルールを違反してる事実が自分的に許せない」

「みんな我慢してるんだから守るべき」

って思ってるからイラつくっていうね。



僕は別にルール違反を推奨しているわけではなくて、

行為自体に実際に迷惑だと感じるのと、

ルール違反という事実を責めたくなるのっていうのは

感情として別物だよって言いたいんです。




もう一つ、これまた大事なポイント。



人って普通に生きてれば、

自分が何かをすることで誰かに何かお手数をかけることがあったり、

お気遣いいただくことがあったり、

何かを頼んでお手間をとらせることがあったりしますよね。


そういう手数、手間、気遣い、ご足労みたいなこと

全てが「迷惑」になるとは限らないんですよ。



あちらは意外となんとも思ってない場合もあるし、

なんなら、


「お役に立ててなにより」

「協力できて嬉しい」

「頼ってもらえて嬉しい」


って

かえって喜んでやってくれる場合もある。



ね。

これ、前回話した「Do≠Be」の話と同じこと。


手数をかける=迷惑をかける


ではないんです。


これがイコールだと(Do=Beだと)思っちゃってる人、

多くないですか??


たぶん僕もそれがあったから、

ずっと「迷惑かけちゃダメ」って思ってたんだと思います。




僕は基本的に、人様に良きようにしようと思ってます。

常に、自分も相手も気分のいい状態にしておきたいと思ってます。

だから、できれば相手が迷惑だと思うようなことはしたくないです。


でも、どうすればその人にとって良きようになるか、

どうすれば迷惑にならないかを、

完全に知ることはできません。(知ろうとすることはできるけど。)


ましてや、人類全員に対してそんなことできません。


良きようにしようが迷惑かけないようにしようが、

お手数をかけちゃう時はかけちゃうわけだし、

それをお相手がどう捉えるかは捉える人の自由。



だったら、自分がやりたいようにやればいいや。

自然体の自分で行動しますけどよろしくお願いしますっていう感じ。


そういう意味で「迷惑かけてもいい」っていう判断です。



そう考えるようになったら、

「こうあるべき」がなくなるから寛容になれるし、

ゆとりができるからむしろ低姿勢になれるし、

人様にやっていただいたことに心から感謝の気持ちがわくようになります。



だから、一見危うい考え方のように感じられるかもしれませんが、

「迷惑かけてもいい」

って何気にすごいですよ。

DoとBeの大事な話

最近、ビジネスやら心理やら色んなところで割と見かけるようになった

「Do」とか「Be」とかっていうワード。


これの意味が分かると、色んなことが納得できるようになるので、

僕もすごく重要なことだと思ってるんです。



「Do」っていうのは、

・行動、行為
・する、やる
・やり方
・物理的なもの


「Be」っていうのは、

・気持ち、状態
・なる、である
・あり方、感じ方
・心理(精神)的なもの


みたいな感じですかね。



例えば、

「病気になったりケガをすることは悪いこと、不幸なこと」

っていう解釈ありませんか?


もちろん病気やケガって痛かったり苦しかったりするから、

嬉しいものではないですけどね。


ただ、それってイコール「悪い」「不幸」になるでしょうか?



痛いのが悪いことだったら、運動して筋肉痛になるのも悪いことだし、

苦しいのが不幸だったら、マラソンや登山なんかも不幸になりますよね。



あと、病気やケガをすると、治療だなんだでお金がかかったり、

面倒なことや不便なことも増えます。



でも、お金がかかると不幸なんでしょうか?

面倒なことや不便なことって、悪いことでしょうか?



望んですることと、望まずにすることっていう違いはあります。


でも、言ってしまえばそれだけの違いですよね。

望まずにすることだから悪い、不幸とは限らないですよね。




こうやって見てみると分かるように、


病気にかかる、ケガをする、お金がかかる、面倒、不便っていうのは「物理的な事実(Do)」で、

悪いと感じる、不幸だと感じるっていうのは「気持ちのあり方(Be)」なんです。



ついつい、

「Do」=「Be」

だと思ってしまいがちですが、必ずしもそうとは限らないんですよ。

全くの別物です。



有名な言葉に、

「障害は不便である。しかし不幸ではない」

というものがありますが、これもそうですね。


不便っていう物理的な事実(Do)と、

不幸っていう気持ちのあり方(Be)は

全くの別物です。



Do=Be、すなわち不便なことを不幸だと感じるから不幸なんです。

Do≠Be、すなわち別物だと思ってれば、


「不便はただ物理的に不便だという事実があるだけであって、

それが自分の気持ちにどうかかわるかとは関係ない」


っていうことが分かるはずです。




逆に言えば、「お金があれば幸福」「結婚すれば幸福」っていうのも、

Do=Beという考え方です。


お金があるということや、婚姻関係があるという物理的事実と、

その人が幸福と感じるかどうかっていうのは別物です。


それが本当にイコールなんだったら、

お金持ちの人や結婚してる人は、

無条件で全員幸福であるっていうことになります。


そんなはずないですよね。




歌をやっている人でよくあるのは、

「プロになること、メジャーデビューすること」=「自分が幸福になれる」

って思ってるパターン。

これもDo=Beの思い込みです。


じゃあ、有名アーティストが精神を病んだり、

自殺してしまったりすることがあるのはどうしてでしょうか?



カレン・カーペンターは、精神的な問題から拒食症になり、

それが原因で亡くなっています。


カレンさんの母親は、彼女が亡くなったことを、


「今でも分からないんです。

あの子は他の誰もがうらやむもの全てを手に入れてたのに。」


って言っていました。




ついつい、一般的に良いとされている「Do」を欲しがってしまいますよね。

それが自分の「Be」を良くすると思い込んでるから。


逆に一般的に悪いとされている「Do」は、

自分の「Be」を不幸にすると思い込んでるから嫌なものとしてしまいがち。



人それぞれ感じ方って本当にさまざまなんです。

みんな「こうしたら(Do)こうなる(Be)」なんていう単純なものじゃないんです。



だから、一般に蔓延している「Do=Be」な考え方によって

短絡的にやたら「Do」にばかり着目してしまうのではなく、

自分にとっての「Be」にちゃんと向き合うことが大事なんじゃないかなと

僕は思ってます。
Profile

Kengo

ボイストレーナー、カウンセラーです

ボイストレーナー、カウンセラーやってます。
レッスン、セッションにご興味ある方は、こちらのワイドボイスのホームページをご覧下さい。

counter
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最新コメント
LINE読者登録QRコード
LINE読者登録QRコード
月別
記事検索
QRコード
QRコード
Twitter プロフィール
Kengoのツイッター
  • ライブドアブログ