Kengoのブログ

ボーカリスト、ボイストレーナー吉田研吾の独り言です。ネタです。ツッコミです。

自己肯定感

最近、心理とか生き方とかについて色々と勉強していて、


「自己肯定感」


っていうのがすごく大事なんだなと感じています。


表記通り、自分を肯定する感覚。


逆に言えば、


自分を否定してしまいがちだったり、

自分の価値が低い(価値がない)と感じてしまったり、

自分なんか・・と卑下してしまったり、

自信がなかったり、すぐ不安になったり、


そういった感覚が強いと、自己肯定感が低いということになります。

低いと、自分を守ろうと必死になってしまうんです。


例えば、


他人の目や評価を気にしすぎて自分を良く見せようと必死になったり、

自分がいかに優れているか、価値の高い人間かを必死に誇示してしまったり、

他人からうらやましいと思われそうなことをアピールしてしまったり、

他人を認められず批判的になったり、

やたらと他人にアドバイスをしたがったり、


などなど。


要は、色んなことが「他人軸」になってしまうんですよね。

自分で自分を認められてないから、なんとか他人に認めてもらおうとしちゃう。

他人から肯定してもらおうと必死になっちゃう。


だから、自分の価値になんとか他人が納得しそうな理由や裏付けを求めます。


お金を持ってるからすごい、

高価な物を持ってるからすごい、

見た目が良いからすごい、

地位や名誉や資格があるからすごい、

こんな経験や実績があるからすごい、

忙しいからすごい、

友人知人が多いからすごい、

人から慕われたり役に立ってるからすごい、

あんなことやこんなことが出来るからすごい、


など。

これって全部、その後に「でしょ?だからそんな自分を認めて!」って付くわけです。



でも、こういった物質的な価値観っていうのは、あくまでも「脆い」んです。

上には上がいるから。

自分よりちょっとでも優れてるように見える人がいると、簡単に崩れるんですよね。

「どうせ自分なんて・・」ってなるんです。


あと、他人って自分の思い通りにはならないんですよね。

人それぞれ色んな価値観や感じが方があるから。

どんなに「こう思ってほしい!」と思っても、なかなか簡単にそのようにはいかない。

当然ながら、全員から同じように(良いように)思ってもらうことなんて無理なわけです。


いずれにせよ、一番根底となる自分自身が「肯定」してないので、

どんなに物質的なもので満たそうとしても、

どんなに他人から認められても、

結局土台がないから崩れちゃうんですよね。



単純に、


他人から「こうしろ」と言われて行動するのと、

自分が心から「こうしたい」と思って行動するのって、


どっちが前向きか、どっちが生き生き出来るか、どっちが楽しいか、

って考えたら、当然後者ですよね。


他人軸になるっていうのは、他人の価値観に自分が合わせに行くということ。

だから、他人から「こうしろ」と言われて動くのと同じことなんです。

それでは弱いし脆いし辛いですよね。



そもそも、絶対的な「ダメ」なんてないんです。

これが出来なきゃダメもないし、

こうじゃなきゃダメも、こうあるべきもない。


相対的なものはありますよ。

この資格を取るためには、勉強しなきゃダメだし、何点以上取らなきゃダメ・・とかね。

そういう何かの対象があって、それに対してどうかっていう相対的なものなら。


その相対的な対象が自分にとってどうしても必要なことなら頑張ればいいけど、

気が進まなかったり、やろうと思ってもなかなか出来なかったり、

だからこそうまく行かなかったり、

そんな状態でもその対象に合わせに行く必要ありますかね?

そもそもそれ、本当に自分が欲してることなんですかね?


本当に欲してるなら「自分軸」のはずだから、

生き生きするし、楽しいし、うまくいくはずなんです。



あと、一般の概念を対象にして相対的に考えると、


何歳で結婚してないとダメとか、

定職に就いて働いてないとダメとか、

職を変えすぎたらダメとか、

家事が出来ないとダメとか、

協調性がないとダメとか、

努力しなきゃダメとか、

苦労しなきゃダメとか、

あきらめちゃダメとか、

逃げちゃダメとか・・、


そういうもっともらしいこと色々言われてますけど、

それも全て「他人軸」なんですよね。

だから、そんな他人軸に合わせる必要ないんです。


一般概念ってもしかしたら多数の人が考えてることなのかもしれないし、

それが「素晴らしいこと」とされてるのかもしれないけど、

言っても結局は誰かの意見や価値観であり、

それがマジョリティだと思わされてるだけで、

あくまでも「相対的なもの」です。

それが絶対的な「正解」でもなければ、「善」でもないし「良し」でもない。



大事なのは、自分にとって何を相対的な対象としたいか。

それは自分で選んでいいんですよ。

何かに合わせる必要は全くないんです。



・・とは言っても、一般的に言われてることって気になるし、

他人からの評価も気になるし、

「他人から良く見られたい」という気持ちは誰にでもありますよね。

僕もそうですし。

厳密に言えば、僕も「かつては」そうでした。



個人的な話をすれば、最近は一般概念も他人の目も評価も気にならなくなってきました。

それより大事なのは自分自身が何をしたいか、どうしたいか、どうありたいか。

自分の人生だからね、きちんと自分の軸で動きたいなと思って。


僕自身にしっかりと自己肯定感が養われてるのかどうかは分からないですが、

言えるのは、僕は基本的に何があっても「大丈夫」だと思ってます。

何があっても、なんとでも出来るし、なんとでもしてもらえるし、なんとでもなると思ってます。

そういう意味では根拠のない自信はあるのかもしれないです。

だからあんまり先々のことは考えてないし、

だからこそ恐怖や不安はほぼないです。

ってことは、どうあれ楽しいってこと。



別に、人より優れたところが多いとは思ってないんですよ。

大富豪なわけでもないし、

たいそうな資格があるわけでもないし、

出来ないことも苦手なこともいっぱいあるし、

結構自堕落だし、

独り身だし、いい年だし(笑)。


僕よりすごい人なんていっぱいいるし、そんな人だらけだと思ってます。

でも、それでいいんです。

人は人、自分は自分だから。




で、自分がそう思えるようになったのはなんでかな〜って考えてみたんです。

ありがたいことに、「人」に恵まれてたのかなと思います。


自己肯定感は幼少期の育てられ方がだいぶ影響するらしいんです。

僕が親からずっと言われてきたことを思い返してみたら、


「なんでも恐れずやってみなさい」

「出来ないと思うから出来ない、出来ると思えば出来る」

「あなたなら大丈夫」



って、ことあるごとに言われてた印象があります。

考えてみたらこれって全て「肯定」なんですよね。

何かを心配されることはあっても、

「やめとけ」とか「どうせ無理」みたいな否定的なことは一度も言われたことがないです。


あと、基本的に「よそはよそ、うちはうち」精神だったので、

他人と比較してどうこう言われることもなかったです。



幼少期や学校に通っていた頃は、クラスメイトの中には僕に否定的なことを言って来た人もいました。

周りと比べて劣ってたりおかしなところがあれば、それを指摘されたり。

学校って特にそういう「周りと比べてどうか」っていうのがあらわにされる場所ですよね。


だから、人より優れたことをして(物質的なものに頼って)自分の価値を維持しようと、

他人から認められようと必死だったこともありました。

でも、両親を含めて自分の周りの近しい人たちには、否定的なことを言う人はいませんでした。

今でもそうです。

だから感謝の気持ちでいっぱいです。


思えば、認められたくて必死な時って、一番自分を否定していたのは

まぎれもない「自分自身」だったんだと思います。



だから僕も自分の周りの人に、


「ダメじゃないよ」

「大丈夫だよ」

「無理しなくていいんだよ」

「好きなこと、得意なこと、気が向くことをやってればいいんだよ」



って言い続けていきたいと思います。

それが事実だから。

夏休み

世間の夏休みももう終わりですねー。

(とっとと終わったらいい、そんなもんw)


「夏休みはあったんですか?」

とよく聞かれますが、ないっちゃないし、あったっちゃあった。


この日から何日間は夏休みだー!っていう形で休みを取ったわけではないので、

いわゆる、まとまって数日間連休があって何か特別なことした・・的なことはないです。



でも、レッスンがない日は必然的にお休みになるので、そういう日は普通にありましたよ。

一応軽く連休っぽいものもあったので、それが夏休みといえば夏休みかなっていう。


そんな連休があった日は見事に台風だ低気圧だなんだで雨ばっかりで、

基本的に家にこもってました。

(だったら晴れてたらアクティブにどっか出かけてたのかと言うとそういうわけでもない。)



僕にとって一番夏休みっぽい雰囲気だったのは、姪っ子甥っ子を預かった日かなー。

弟夫婦が二人してジャスティンビーバーの来日コンサートに行くから、

子供たちを預かってくれないかと。


そんなこんなで小4の姪っ子と小2の甥っ子を一日うちで預かりました。

一日中家にいても退屈しちゃうかなーと思って、

どっか出かけられそうな場所を色々考えてました。

近所に映画館があるから子供が楽しめる映画見に行ってもいいかなーとか、

としまえんとか行ってもいいかなーとか。



で、いざうちに2人が来てみたら、

「YouTube見たい!」

と。


うち、テレビでYouTubeが見られるので、大画面で見たいと。

ちなみにうちのテレビ、52インチありますw



で、なんか色々動画を見てたら、まー次から次へと色々見たがる。


「どっか行きたいとこある?」


と僕が話を振ってみるも、


「んー」


と、二人ともカラ返事。



しまいには僕の方がどっか行きたくなっちゃって、


「ねー、どっか行こーよー。おもちゃとか見に行かない?」


「んー、いいよーー。」


と、まるで大人と子供逆転の会話。



そこそこの時間になって来ちゃったので、

とりあえず近所の西友のおもちゃ売り場行きまして。


「好きなもの買ってあげるよ」


って言ったんだけど、特別すごく欲しいものがあったわけでもないようで、

反応鈍い。

子供喜ばせるって難しい。


一人一個ずつ好きなの買ってあげて、夕飯の買い出し。


「なんでも食べたいもの言って」


って言ったら、

寿司食いたいと言いながら一番高い刺身盛り合わせ(船盛り)をカゴに入れるちゃっかり者たち。


お菓子も好きなもの好きなだけ買っていいよって言ったんだけど、

すっげー吟味して一個ずつくらいしか買わない子たち。


遠慮しちゃってるのかな?とも思ったんだけど、

その割には一番たっけー船盛り買ったしな。


食に関しては貪欲なのかな?

・・うん、まぁ僕はそうだなw



考えてみたら僕も、

金額気にせずなんでも好きなもの買っていい

って言われても、欲しいものってないかも。


しいて言えば、おいしいもの好きなだけ食べたい。

あと、飛行機のファーストクラスとかホテルのスイートルームとかは経験してみたい。

物よりも経験なのかなー。(カッコいいこと言ってみる。)




で、家に帰ってからはボードゲームして、

テレビのバラエティとか見つつ食事の準備して、夕食。


刺身が1種類につき4切れずつ入ってるんですよ。

だから、一人1切れずつ食べたあとの残り一枚争奪戦。

本気でジャンケン。

もちろん僕も本気。



食後はアイスとかお菓子とかつまみつつ、

テレビとかYouTube見ながらグダグダ。



気付いたんだけど、僕、あんまり「子供に合わせる」ってことをしなかったかも。

同等な感じ。

なんなら僕も大きな子供。(40手前のクソじじぃですが。)


もちろんね、子供ってまだ自力じゃ生きていけないし、

秩序とかも分かってない部分も多いわけ。

だから、本人の生命と人間界の秩序に関わる部分だけは

こちらが気を付けて注意したりしたけど、

それ以外は本人の意思におまかせって感じだったな。

一人の人間というか。


だから僕も言いたいこと言うし、やりたいことやる。

あちらも同じ。

大人だけが我慢することもないでしょ。

子供だからって押さえつけて我慢させることもないし。

で、落としどころを見つける。

そうすると結構楽しいんですよね。


たぶんだけど、

もし僕が全てを子供に合わせようとしたり、

大人だからということで常に戒めたり何かを教えようとしてたら、

お互いに面白くない。


だから、

大人は大人で一人の人間、

子供も子供で一人の人間、

なんかちょっと違う人間同士。

そんな関係性を楽しんでみました。



思えば僕は小さい頃ほど、大人っぽいとかしっかりしてるとか言われて来ました。

でも大人になるほどに思考が自由になって行って、

それに伴って子供っぽくなっていく自分を実感してます。


ある意味ではわがままだし、

ある意味では奔放だし、

我慢したくないし、

嫌なことしたくないし、

人に甘えるし、

楽しいことだけしてたいし。


子供の頃とか若い頃はそういうのは許されないもんだと思って

ひたすら自分を戒めてきた気がするけど、

年とともに逆行するかのように「いーじゃんそれで」と思ってます。

その感じ、なんか好きなんですよね。

で、その方がなんだか不思議と色んなことがうまく行くんですよね。



そんな夏休み。

不安は単なる思考グセ

僕、最近はあんまり不安とか恐怖とかを持たないんですよ。

何があっても大概のことは大丈夫だと思ってるので。



でも、ふとした瞬間に、

ちょっとしたことに「不安」を感じてしまっていた自分に気付いたんです。


小さいことなんですよ。

しかも、別に案ずるようなことでもないんですよ。


昔の、いろいろ未熟だった頃だったらまだわかるけど、

(今でも未熟だけど、今よりもってことね)

いまだにそこ不安になる?っていう。


言ってしまえば、

そんな心配しなくたって今はもう十分これもあるしあれもあるし・・・

っていう、満たされてる状態なのに。



それを人に話したら、


「え?なに言ってんの?(笑)」


って言われましたw


そう、

事情を知ってる人から見たら

笑っちゃうくらいなんてことないようなこと。



自分でも

「え?なんでそんなこと不安になってんの?」

って思えるくらいのこと。


それでも、不安に感じるんだな〜って実感しました。



そう考えるとね、不安っていうのは、


どんなに物があっても、

お金があっても、

技術や知識や経験があっても、

環境に恵まれてても、


そういうのに関係なく出てくるもんだなと。


「これがあれば安心」


なんて無いんだなと思いました。



ってことは、

不安なんて内から出てくる単なる自分の

「思考グセ」

でしかないわけ。



満たされてるし、

恵まれてるし、

自分でも「大丈夫」って分かってるはずなのに、


それでも勝手に出てきちゃう。


もうほんと、クセだよね。



もはや、

「こんなことでいちいち不安に思ってちゃいけない!」

とも思わないです。


クセっておもしろいな〜

っていう受け入れ態勢。


気付いてみるとおもしろいな〜

っていうむしろ笑える態勢。



だって、

今まで何か不安に思ってたことが

そのまま実現したことなんて今まで一度もないから。

多少それらしいことがあったとしても、

思ってるほど大したことにもならないし、

それこそ大概は「大丈夫」だから。


逆に、実際何かやばい状況になる時って、

自分の想定外のことの方がよっぽど起こる。

自分の乏しい頭で事前に思いつくくらいのことなんて

たかが知れてるわけ。


そもそも不安って「未来」のことだからね。

未来のことを100%予知できる力なんて自分にはないわけ。



だったらもう、リアルタイムで

「これマジやっべーぞ」

っていざなったら

「さぁどうするべ」

って考えれば別にいいやと。

その時もその時で大概は「大丈夫」だろうし。



だから不安が出てきたら、



ほー、これを不安に思うんだ。

で、それをふまえて自分はどうしたい?

それを拭い去るために必死に今何かする?

それして安心する?

安心するんだったら必死にやってみればいいけど。

でもどうせまたすぐ不安になるし、

やってもやっても満たされないし、

それでも、それ、する価値ある・・?

だったらもう、

そのままでいいんじゃない?

「今」、自分が「どうしたいか」

「今」、自分は「何してたら楽しいか」

でいいんじゃない?



ってしてしまえばいいやと思ってます。


とにかく、「今」が大事。ほんとに。

吹き替えで困ること

時間がある時は、洋画とか海外ドラマとかをよく見てます。


基本的に字幕で見ることが多いんですが、

たまに吹き替えで見てるとちょっとした困ることがまれに起こります。



例えば、主人公に姉がいて、

さらに「ネイサン」っていう名前の登場人物が別でいたりする場合。



主人公:「ねーさんを探してるんだ」



とか言った時にね、



え、それは


「姉さん」


なのか


「ネイサン」


なのか、


どっちなんだ?



ってなるから困る。

嫌いが好きになる

僕、最近本読むのが好きなので、ちょいちょい本屋さんに行きます。

で、今日はなんだかやけに直感がさえました。


普段本屋さんに行くと、なんとな〜くフラフラと店内を見回って、

気になるのを手に取ってみて読みたいなと思ったら買ってみたり、

前々からチェックしてて欲しかったのが売ってたら買ってみたり、

そんな感じです。


でも今日は、いつものようにフラフラと店内を見ていたら、

背表紙を見ただけで

「これ気になる!」

ってなり、中身をパラパラ見てみたら、

「これ欲しい!」

ってなりました。


あと、前々から欲しいなとは思ってたけどスッカリ忘れてた本が、

たまたま通りかかった棚の、たまたま目についたところにあって、

「あ!あ!これ欲しかったやつじゃん!」

ってなりました。


そんなこんなで一気に7冊もお買い上げ。



・・と、ここ最近はよく本を買ってるんですが、

僕はもともと読書がそんなに好きじゃありませんでした。

活字が苦手で。。

(かと言って漫画なら読むかと言われるとそうでもないんですが。)


今でも活字が得意なわけではないんです。



一般的にも本は読んだ方がいいって言うじゃないですか。

だから、ちゃんと活字の本を読むようにしようと努力してました。

こういう内容の本は読んでおいた方がいいかな・・と思うものを読もうと頑張ってました。


でもなかなか読み進まない。

途中で疲れちゃう。

だからやっぱり「本読むの嫌い」ってなってました。



でも、ふと気づいたら、気になる内容の本はドンドン読むんですよ。

あと、自分的に読みやすい文体や、文字の大きさや配置が読みやすい本だと、

ガンガン読むんですよ。



そっか、

「読書が嫌い」

なんじゃなくて、

自分の気が進まないことを無理矢理やろうと思ってたから嫌だったんだなと。


そもそも僕の中で本を読むという行為は、



・活字がしっかり詰まったものを読まなければいけない

(=漫画本や、挿絵が多かったり読みやすくされている本は内容が薄いから読んでも意味がない)


・人として知っておくべき教養、知っておいた方がいい知識の本を読まなければいけない

(=勉強とはそもそも面白いものではないんだから、興味がなくても知識をつけるべき)



と思ってました。

それが僕を「読書嫌い」にさせてた理由だったんですね。

自分で勝手にハードル上げてたんですよね。



そこに気付いたので、


興味ない内容、

読みにくい文体、

小さい字がギッシリ、


っていう自分が苦手なものを無理矢理読むのはやめて、

純粋に気が進むものだけを選ぶようにしました。


あと、読み進めていってもあまりピンと来ない場合は、

途中ドンドン飛ばしてみたり、

もしくは途中で読むのを辞めちゃってみたり、

そういうのもOKにしてみました。


買ったはいいけどなかなか読む気にならない・・

そんなのもOKにしました。

いつか気が向いた時にでも読めばいいやっていう気軽な感じで。



そしたら、自分にとって本を読むという行為がずいぶんハードルが下がって、

気付いたらすっかり読書する人になってます。



そう考えると、

「これ苦手、これ苦痛」

って思ってる行為って、

もしかすると自分の中でハードルを上げすぎてることが結構あるのかも・・と思います。


「こうでなきゃいけない」


ってたいそうなことのように考えすぎてたり、

理想とするもの(最終形やゴール)がものすごく高い位置に設定されちゃってたり。


そうするとなかなか重い腰が上がらなくて行動に出られなかったり、

苦手意識が強くなっちゃったりしますよね。



だから、


「こうやっちゃってもいいんだ。なぁーんだ。」


って思えちゃえば、意外と色んなことに挑戦できるのかも。

ポケモンGO

もはや社会現象ですね、これは。


ゴケモン・ポー

あ、ポケモン・ゴー。



僕はというと、

まったくやってませんねー。



今思えばですね、

例えば自分が小学生くらいの頃に流行ってた、


・キン肉マン

アニメもまともに見たことないし、キン消し一個も持って無し。

「消し」っていうくせに消そうとするとキン肉マンの頭も紙の方も真っ黒になるという現象に「なんで?」と思ってたクチ。


・ビックリマン

シールの価値が分からないのでお菓子の方が食べられれば満足してた。

何気にあのチョコは結構好きだった。

試しに自分で一つ買ってみたら「ヘッドロココ」とか言うキラキラしたシールが出てきて何やら良いやつっぽいけど価値が分からないから速攻でどっかいっちゃったクチ。


・ジャンプ

発売日より早く買えたやつが英雄っぽい空気の中、読む気がない僕にとってそいつはただの平民だったクチ。



言っちゃえば、ガンダムもドラゴンボールもドラクエもミニ四駆も興味なかった。


そういうの、みんなが好きだから好きになろうともしたんですよね。

興味持てるなら持ちたいなとも思ったし、

輪に入りたいというか、共通の話題で盛り上がってみたいというか。


なんかちょっと自分がズレてる自覚はあったので、

一般と同じになりたいなっていう願望はずっとありましたね。


だから一度はそっちに寄せてみるんだけど、

まぁ興味なんてそんな簡単に変えられるもんじゃないですよね。


結局興味持てずじまいっていう。



でもそれで良かったんだと思います。

無理に頑張って好きでもないことやったところで、

周りに合わせたところで、

ずーっと苦痛続きになってたと思うんで。


自分が一番興味あったのは音楽くらいだったので、

ただひたすらそればっかりでした。

そしたらそういう仲間も増えたし、

そしたら居心地も良かったし。



小さいころは特に、

「みんながやってるから自分もやりたい」(溶け込まなきゃ)

っていうのがあったりするんですよね。


大人になるとそれが、

「みんながやってることは自分はやりたくない」(人と違うことしなきゃ)

になる人もいてみたりね。


(僕はどちらかというと大人になってからも前者のままでしたけど。)



一見するとこの二つは相反することのように見えるけど、

実はどちらも共通してるんですよね。


基準が「他人」になってるっていう。


「周りがどうだから自分はどう」っていう。



僕が今になって気付いてきたのは、


「周りや他人がどうあれ自分はどうしたいか」


でいいじゃんっていうところです。


周りと同じものに興味が持てなければ持てなくてもいいし、

たまたま同じものが好きだったらみんなと同じでもいい。


わざわざ人と違うことをするっていうことが自己の確立みたいに思ってる人もいますが、

それも違うからね。

人に目が行ってる時点で他人軸になってるってことだから。


大事なのは、軸が自分にあるかどうか。

本当に自分を満足させられるのはそこなんだっていう。



だから、ゴケモンポーも興味ないけど別にいいやと思ってます。



でも一応気になるから、やってる生徒さんの話は聞いたりしてます。

どうやらうちは、近隣になんだかのスポットがあるらしく、

部屋にいながらにしてアイテムが手に入ったりするみたいです。



あと、うちにもモンスターがいるのかどうかが気になったので、

チェックしてもらいました。


なんかものすごいのがいたら面白いんだけどな〜と思って。

よくわかんないけど、つえーのとかいたら面白いなと。



そしたらね、

いたの。



いたんだけどね、



image




なにこの小さい虫みたいの。


地味すぎるんですけど。

ポジティブかどうか

僕は何か行動する時に、


「ポジティブかどうか」


を基準にしてみてます。


ポジティブというと前向きっていう意味がありますが、

僕の中で「ポジティブかどうか」というのは、


・気分が乗ってるかどうか

・気が向いてるかどうか

・良い気分になるかどうか

・ワクワクするかどうか

・好きかどうか

・そうしたいかどうか

・ピンと来るかどうか


みたいな感じです。


だから何か行動をする時に、上記の気分にならなければ基本やりません。



例えば時間が出来た時に、

「せっかくまとまった時間が出来たから本でも読もうかな」

と思ったとします。


それがポジティブ(やりたいと思ってる)ならやります。


でもそれが、「本を読む時間を作らなきゃ」、「勉強しなきゃ」と、

どこか義務的に根底で思ってるとしたら、

それは


「勉強しないと成長しないからダメだ」

=成長しない人間はダメ、自分はそうなりたくない(なるのが怖い)


「本を読まないのは知識がつかなくてダメだ」

=知識のない人間はダメ、自分はそうなりたくない(なるのが怖い)


っていう、ネガティブな状態なんです。


もちろん、それでも行動するきっかけにはなりますし、

実際に自分のためになることもあるかもしれません。


だから否定はしませんが、

根底がネガティブな状態っていうのは、まぁ力が弱いし脆いと僕は思ってるんです。

だって、本当はやりたいと思ってないから。

義務感、恐怖感で動いてるだけだから。

実際に本を読んだところで進まないし頭に入らないし身にならない。


で、例えそうやって無理矢理身につけた知識があったところで、

それを生かしたいと思いますかね?イヤイヤだったのに?


最初はイヤイヤだったけど、いざやってみたらおもしろくなったっていうこともあると思います。

そしたらそれはそれでいいんです。

「おもしろくなった」んだから。


要は、好きなことにかける情熱の方がよっぽど力がありますよねっていうことです。



だから僕は、「本読みたい!」と思ったら読みます。

読んでも、もし「つまんない」と思ったら読み飛ばすか、やめちゃいます。

でも、「おもしろい」と思ったらこっちのもんです。

時間も忘れて読み続けます。

そうすると、しっかり頭に入ってるし、納得行ってるし、役立てられる自信があります。



気が向いたらやる、向かなければやらない。


そうすると、


行動力がなくなってしまうのではないか

成長しないのではないか


と思えるかもしれません。


でも、少しでも気分が向いてることなら、とにかくやってみるんです。

条件とか関係なしに。


これをやって意味があるんだろうか・・

お金かかっちゃうし・・

時間かかっちゃうし・・

結構大変そうだし・・


とか考えないんです。


その時気が向いててやりたいと思ってるなら、どうであれやるんです。

だから、行動力がなくなるわけじゃありません。

むしろ好き好んでやってるから動く動く。

そして、それがすごくいい経験になるし、身になるんです。



あと、成長に関していえば、何をもって「成長」とするかは人それぞれです。

なにも、好きでもないことが出来るようになることや、

めんどくさかったり苦痛なことをすることや、

自分にとって小難しいことが出来るようになることだけが「成長」だなんてことはありません。


新しい考え方が出来るようになることだって成長だし、

楽しいことが増えることだって、好きなことの知識が増えることだって成長、

それでいいと思うんです。


だから気が向くことだけやってても、十分成長にはなるので、

そこをいちいち気にしなくても勝手に成長するから大丈夫です。



よく、


待ち受け画面をこれにすると幸せになる

家具の配置はこうした方がいい


みたいな、運気に関する縁起みたいなことってありますよね。

それも僕は、それをすると自分がポジティブになる、

もしくは、それをしようとするとワクワクするなら良いと思うんです。


でも、


「幸せになるから」ということで好きでもない画像を待ち受けにした。

「運気が上がるから」ということで生活に不便だけど家具の配置を変えた。


としたら、

そもそもその行為自体が「幸せ」なのかって話なんです。

その時の自分の気持ちが幸せじゃないのに、いつか幸せ来ますかね?

そんな気分でいて運気なんて上がりますかね?

んー、それはない気がします。



それこそ、運気とかって色んな考え方があると思いますが、

僕は

「自分の気持ちが良ければ、運気はいくらでも良くなる」


逆に、

「自分の気持ちが良くなければ、いくら良いとされてることをしてもむしろ運気は悪くなる」

と思ってるんです。


だから、そういう縁起もので、

それで自分が気分がいいなら、ポジティブな気分になれるなら良いと思うんです。

でもそうじゃないなら、どんなに「良い」とされてるものでも、

それは自分には向いてなかったっていうことでいいと思います。




「財布は高い物を持ってた方がいいらしいよ」

本当に欲しいと思えばいくらお金を出してもそうするし、

ピンと来るものがなければ買わない。

逆に、安かったけど自分はこれが好きだからと思ったらそれにする。


「知人から何かのお誘いがあった」

行きたいなーと思ったら行くし、ビミョーだったらお断りします。

お付き合いだから・・とか考えません。(すいませんw)

でも、自分がやりたいことなら自らガンガン赴くし、誘います。


「こういうの食べた方が体にいいよ」

好きなら食べるし、嫌いなら食べません。

それほど好きじゃなくても、体にいいのか!ってワクワクできれば食べます。

いくら体によくても、自分がウゲーってなるなら食べません。



・・と、僕はこんなスタンスで生きてます。


おかげさまで、楽しい毎日を送れてますよ。

言ってしまえば、そういうスタンスにしてからドンドン色んなことが良い方向に行くようになりました。


「自分がポジティブかどうか」っていう、

見ようによってはちょっと危なっかしく見えるやり方で生きてますが、

それでも全然大丈夫なんですよってことが言いたかったんです。

心のままに

ブログに日常のことを書こうかな〜と思うんですが、要は大体毎日レッスンなんですよね。

レッスンではいろんな人に会っていろんなことがあるけど、

こんな生徒さんが来てこんなことやって・・っていうのは、さすがにプライベートなことだからね。



かと言って、今日食べたものとか書いたところで別におもしろくもないし。。


僕は日々何してるだろう。

YouTube見たり、テレビ見たり、本読んだり、家事したり。


んー、ネタにならない・・w



あとは、よくいろんなことを考えたりしてます。

それこそ生徒さんの話を色々聞いて、その人にとってベストな状態になるのはどうしたらいいかな〜っていうのを考えます。

そのために、レッスン以外の時間を使って学んだり考えたりしてます。


日常的にやってることってそれも大きいかも。

それならネタになるかな。



最近生徒さんともよく話すのは、「心のままに」っていうテーマ。

「心のままに」じゃない状態っていうのは、



〜〜すべき

〜〜しなきゃ

〜〜した方がいい

〜〜はダメなこと




みたいな状態で行動しちゃうこと。

それって自分の心に従ってないんだよね。


自分の心の向かってる方向と違うことをしちゃうことになるわけです。

結局その行動は自分の奥底で納得してないわけ。


そうするとどうなるかっていうと、

気付かないうちに自分の中でチグハグが起きてるから、



自信がなくなる。

イライラする。

不満が多くなる。

不安になる。




そうすると、自分の中で誤作動が起きてくる。

例えば、



体調を崩す。

精神を病む。

他人を傷つける。

何かに過剰に依存する。




など。


なーんも良いことないの。うまくいかないの。


じゃあ逆に心のままに動けば、



体が元気。

心が元気。

他人に優しくなる。

自分で選んで行動する。




ってなる。


「心のままに」って一見すると、



嫌なことから逃げていて成長がない

甘ったれてる

わがまま

人としておかしい




って思えちゃうかもしれないんだけど、

それを気にして「素晴らしい人」になろうと頑張った結果が、


病気になったりヘコんだり他人を傷つけたり依存したり・・・


ってなるんだったら、それって目指してたことの逆になってるよね。


不思議ですよね。


一般的に人として「良い」とされていること、

例えば、



成長

協調

忍耐

努力




を意識すればするほど、結果が逆の方になっていくっていう。

僕はそこに気付いちゃったんです。


幸せになりたいとか、成功したいとか、良い人間になりたいとか、


人それぞれ自分にとって「こうなったらベスト」なことってあると思うんです。


だったらそのためには「心のままに」行動しましょって話なんです。

だから生徒さんにもそういう話してます。



昔の自分のブログ読んでると、

街中でこんなおかしなことがありましたーみたいなおもしろネタが結構多くて、

自分でも読み返して結構楽しんでたりするんですが(←幸せな人)、

最近は僕まじめになっちゃったみたいですw


だからこういう「気付きネタ」みたいのが増えてきたけど、

まぁいっか。

おいしいもの

なんか、おいしいものをウワーっと食べたくなって、ビュッフェ行きました。

で、さんざん食べた後に、おいしいソフトクリーム食べました。

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クレミアソフトっていうソフトクリームです。

生クリームの味がしっかりして、とにかく濃厚なんです。

で、コーンの部分がラングドシャ(白い恋人っぽいクッキー的なやつ)になってるんです。


僕はこの「ラングドシャ」っていうのは、ずっと「ラングド社」だと思ってました。

ラングド社製の・・みたいな。

違うよと。



カラオケも行って来ました。

アーティストの生徒さんの曲でカラオケに入ってるのは歌ってみたり。

レッスンでやってたりするとね、覚えちゃうからね。



夜は鉄板焼き食べに行きまして。

そしたら、「鉄板たこ焼き」なるものがありまして。

たこ焼き好きとしては食べておかねば!ということで、食べました。


めちゃくちゃおいしかったんですよ。

トロ〜っとしてて。


写真も撮ったんですよ。


でもね、


なんかね、


僕が撮った写真がね、ビミョーなんですよ。。



パッと見、なんだか分かりにくいというか。



いや、これが鉄板たこ焼きなんですよ。

おいしいんですよ。

僕の写真の撮り方が悪かっただけなんですよ。


でも、写真だとなんか臓器っぽいというか。



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ほら。。

短冊

七夕シーズンということで、近所の街中には短冊の飾られた笹がたくさん飾られています。

たくさんの願い事があるな〜と思いながら見てたら、ちょっと気になるものがありました。


「子供がピアノを楽しく弾けるようになりますように」


と。

きっと小さいお子さんを持つ親御さんなんでしょうね。

その子にピアノを習わせてるんでしょうね。


結果として、「ピアノを楽しく弾ける」っていう事実自体は素晴らしいことだなと思うんです。

僕も自分がピアノ弾けて良かったなと思いますし、楽しんでやってるので。

(ちなみに僕の場合は自らピアノやりたいと言い始めたクチです。)



ただ、「楽しく弾けるようになりますように」ってことは、

その子はたぶん今は楽しく弾けてないんでしょうね。



なんでもそうなんだけど、嫌だなと思いながらやってることって、


・やる目的自体がそもそも向いてない or 好きじゃない

・方法が合ってない


そのどっちかだと思うんですね。


その子が今ピアノを楽しく弾けてないなら、


・本人は大して好きでもないのに親に無理矢理習わされてる

・先生が合ってない、指導法や弾く曲が合わない、練習の仕方が合わない


の、どっちか。



とりあえず、習ってる先生が合ってない場合もあるから、まずは先生を変えてあげてほしいかなー。

それで楽しくできるようになればピアノが好きになれるかもしれないし。


それでも楽しく弾けないなら、もうピアノに執着しなくていいじゃんと思う。

その子がやりたいなと思えることが向いてることで、その方が生きるんだし。

純粋に興味があることとか、やりたいと思えることをやらせてあげてほしいなと。

好きで、向いてること生かしていける方が楽しいじゃん。



「今は大変かもしれないけど、やっておけばゆくゆくは絶対よかったと思えるから」


ってことでやってるのかな。


僕はこの、

「ゆくゆくは」

「絶対良い」

がネックだと思ってます。


「ゆくゆく」というのは要は未来のこと。

未来のことが分かる人なんていますかね。

絶対その通りになることなんて、ありますかね。

誰にも知りえない、よく分かりもしない未来のことにとらわれて、

大切な「今」の時間を嫌なことにしてしまう必要、ありますかね。


あと、「誰にとっても絶対良い」ことなんて、ありますかね。

この世の中って「相対」の世界なので、「絶対」なものってないんですよね。何一つ。

だから、何が「良い」のかは、人それぞれ違うんですよね。

存在するのは、あくまでも「その人にとって」良いか悪いか。


「ピアノやっておけば万人が幸せ」なんてことはないです。

無理矢理ピアノ習わされたせいで嫌いになったっていう話もよく聞きますしね。


だったら、「その人にとって何が良いか」を探すことの方がよっぽどよくないですかね?



なんかね、大人になってから


「やりたいことが分からない」

「自分には何が向いてるのか分からない」


って言ってる人っていっぱいいるんです。


結果、頑張って嫌なことしてる。

向いてないことしてる。

それでストレスたまったり、病んだりしちゃう。



それって、


「今は嫌でもこれをやっておけばゆくゆく良いから」

「こうした方が良いから」


という一般的な固定概念のもとで、

よく分かりもしない未来のために、

万人にとって絶対的に良いことだと思わされて、

無理矢理やってきた(やらされてきた)ことの代償だと思うんです。


そこの裏には、

「自分がやりたいかやりたくないかは大事じゃない。大事なのは何を"した方がいい"かだ」

「今は大事じゃない。大事なのは未来だ」

っていうのが隠れてるわけですよ。

あくまで「一般的な概念」や「未来」が大事っていうことになってるから。


それじゃあ〜やりたいことが分からなくもなりますよね。


それに、

「いつか来るであろう未来の幸せのために、今は嫌な思いをしておこう」

って思いながらずーっと過ごしてるので、

その「今」の連続だから、結果ずっと「嫌な思い」っていう。

気付いたら、「いつか来るであろう未来の幸せ」はいつ来るの?っていう状態。



本人の幸せ=一般的に言われてる幸せ


のはずがないんですよ。

人は一人一人いろんな価値観、考え、好み、向き不向きがあるんだから。

それを一つの枠にはめようとするからおかしなことになるんです。


本人の幸せ=その人が本当に好きなこと、向いてること、求めてることができること


なんじゃないのかなー。



じゃあ人にとって一番必要なのは、その人が


何が好きか、

何が向いてるか、

何を求めているのか、


をちゃんと「知ること」ですよね。



だから、良かれと思ってピアノを習わせてても、

もし本人が嫌々やってるとしたら、結果として

「やりたいことが分からない大人」

への道まっしぐらです。



それなら、


「ピアノを楽しく弾けるようになりますように」


じゃなくて、


「本人が楽しいと思えることを心置きなく精一杯できますように」


って僕なら願いたいかな。
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