KENNYの独り言

気ままなエッセイ

特攻1
大学1年か2年の頃の事を、終戦記念日前後のこの季節になると思い出す。
当時僕がやっていたアルバイトで、各界で活躍している方々で「オモチャ狩り裁判(モデルガン規制に対する反対運動)」に関連のあると思われる方々にインタビューをして回っていた。

その中のお一方が映画脚本家の直居欽哉さんだった。
座頭一ものなど任侠映画の脚本では当時第一人者だった直居さんへは、どのような経路でお会いできたかは思い出せないが、下北沢駅近くのご自宅にきちんとアポイントメントを入れてお伺いしたのだった。
若造の僕の話をちゃんと聞いていただき、僕たちの発行する機関誌への出稿も快くお引き受けいただいた後で、このような会話が交わされたのだった。

「君はまだ大学生だろう?どこのご出身?」
「鹿児島です!」と僕。
「へえ、で鹿児島は何処?」
「奄美です。多分ご存じないと思いますが、徳之島という島の出身です。」
そこへ何だか妙な空気が流れた。
何かが彼の身体の何処かを捉えたようだった。
しばしの沈黙…それから直居さんは静かに語り始めた。

僕は若い頃、特攻隊員でした。
我々は戦争末期、鹿児島の知覧から沖縄の戦線に加わる為に、徳之島を拠点にしていたのです。
ですから徳之島の事は知っています。
いや、知っているどころではありません。
僕が今こうして生きながらえているのも、徳之島の人々の篤い心があったからなのです。

ある時僕は特攻の命を受け知覧から飛び、一路徳之島を目指しました。
しかし、徳之島到着の直前僕の零戦はエンジントラブルを起こしました。
徳之島はすぐそこというところで海面に不時着したのです。
それからの記憶は全くありません。
気がついたらどこかの家の居間らしいところに寝かされていました。
どうやら僕は徳之島へ漂着し、その家の方々に救助され看病していただいたのでした。
聞くと三日三晩昏睡していたらしい、本当に奇跡的に僕の命が今あるのも徳之島の方々のお陰なのです。
だからこのようなタイミングで徳之島の人に会えるなんて思ってもみませんでした。
よかった、君に会えて本当によかった。
ありがとう。

もう37年も前の話だが、この季節必ず思い出す。
その後何度となくご自宅へお邪魔して色々なお話を伺った。
その中でも特に思い出される話。
直居先生のご長男は、ジャズギタリストの直居隆雄その人だった。
増尾良秋とはほぼ同期かな。
そのころちょうどニューヨーク留学から帰って音楽活動をスタートしたころだったと思うが、直居先生曰く「息子はニューヨークで笠井紀美子って娘と知り合ったらしく、こないだ家へつれて来たんだけど、ぶっ飛んでる子でね!」
そんなエピソードまでついでに思い出した次第。

しかし、最近特に昔話を思い出す事が多い。
俺もトシなのかな ^^)’
でもそんな話を書き記しておくのも悪くないんじゃないって気がしなくもない。

以上は3年前にフェイスブックに投稿したものだ。
で、今すこし調べてみたら直居先生の記録がとある方のブログに詳報されていた。
特攻2

以下がその記録である。

2007.5.17
鹿児島県奄美諸島の沖縄戦より
―日本軍機の徳之島飛行場利用状況―
(昭和20年4月6日)
・徳之島には特攻機18機、襲撃機10機、戦闘機6機がいたが、この日は空襲で出撃できず。
・第43振武隊長(機種は隼)今井光少尉が午後知覧を出撃して同島に不時着。
・第203海軍航空隊の制空隊の零戦1機が、空戦後の午後4時5分に不時着。
・第210海軍航空隊の制空隊の零戦1機(直居欽也中尉)は徳之島上空で空戦後、被弾のため徳之島付近海 中に不時着。漂流12時間の末、犬田布岬に泳ぎ着いて住民に救助される。
・神園望大尉は沖縄周辺偵察のため偵察機「彩雲」で鹿屋基地を発進したが、米戦闘機の銃撃を受け被弾しながらも徳之島の畑に着陸した。
・挺身飛行第2戦隊の輸送機4機が午後5時に福岡県板付飛行場を飛び立ち、午後7時に着陸。(徳之島へ通信機空輸のため)

直居先生が僕に40年前に語った事実がここに紛れもなく記載されていた。
すこしだけ込み上げるものがある。

僕の周りでたまに不思議なことが起こる。
ある事象を心に思うとそれが違う形で目の前に現れる、そんなシンクロ体験が先日あった。
もう30年前の話である。

僕が20歳から通う店に、新宿歌舞伎町のとあるジャズ・バーがある。
僕はそこのカウンターでフォア・ローゼスのオンザロックスを飲みながらジャズを聴く、というのが僕の日常の一つだった。数多くの友人をそこに連れて行った。

ある日(1985年頃)隣の客と映画の話になった。
ロバート・デ・ニーロ主演の“ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ”
彼曰く『このロッキンもいいけどあの映画の“モーの店”はいいよなあ!あんな店をここ新宿でやりたいんだよ』と。彼は自らをカルロスと名乗った…が、正真正銘の日本人である。
彼は僕が建築デザイナーと知らずにそんなことをいう。
僕は『建築デザインやるんだけど一緒にやりませんか?』過去の作品を示しながら話が盛り上がり、トントン拍子にその話は現実のものとなる。

新宿靖国通りに面した新宿駅からも5分という好立地なケンタッキー・フライドチキンの2階。
程なくしてそのバー“Wet Dream”は完成の日の目をみる。
そしてカルロス曰く『オープニングの日にオーナーが来るから対応よろしく』と。
僕はその日、最後に店にディスプレイしてもらおうとアルバム・ジャケット用の木製ケースを二つ用意し(オーナーへのプレゼントだ)、知人友人の綺麗所を数人伴ないオーナーの到着を待った。

そしてなんとそこへ登場したのが誰あろう、その頃一世を風靡していた漫才コンビB&Bの島田洋七氏だったのだ。これには心底驚いた…マジ驚いた。半端なく驚いた。
何故それほど驚いたかというと…
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その前年、僕はある有名人の自邸の設計担当としてその奥様とアレヤコレヤと打ち合わせを重ね、その方々の新宿区内の住宅を完成させたばかりだった。そして、その有名人とは…B&Bの島田洋八氏だったのである。
なんという偶然か!

これからが本題。
つい先日、鹿児島市加治屋町の行きつけのバーで、店主がこの映画“ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ”のエンリオ・モリコーネ作曲のメイン・テーマを流し始めたのである。
そこで久しぶりにこの映画のことを思い出し“モーの店”懐かしいなと思っていた。
そしたら、なななんとその翌日肉を焼いて食べながら見ていたテレビにご両人が登場するではないか!
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これにも至極驚愕した。
なんという偶然か。

その頃ご本人から聞いた話…毎月の給料は紙袋で現金でもらうねん、で、それはみんな家の押し入れにそのまま放り込んであんねん!いったいいくらあるかも俺知らんねん!
という事でした(大汗
僕は今更ながらにその頃の大スターお二人の仕事をさせていただいた事へ感謝する事に加えて、30年の時を経てここ鹿児島でこんな昔の事を昨日の事のように思い出させてくれる事件にも感謝するのみでありまするwww

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今年初めての更新。
画像は僕が30代の頃に使っていたセカンドハウスがあった、僕の第2の故郷八ヶ岳だ。
久しく行ってないなあ。
この季節は花々が咲き乱れ、空気は軽くどこまでも澄み渡り至福の時を味わえる。

さて近況などを…
先日結婚願望の強い20代後半の女性から訊かれた。
「男性に求められる最も大切な要素は何ですか?」
それに僕は応えた。
「生活力だよ!もちろん」
しばらく経って再び訊かれた。
「じゃあ女性に求められる最も大切な要素は何ですか?」
熟考の末僕は応えた。
「それはね、包容力だよ」

その女性はその事について随分真剣に考えていた。
そしてそれに付け加えて更に言おうとしたけれど、止めておいた。
その内容は…
僕が思うに女性に求められる最も大切な要素は…
1.想像力
2.デリカシー
3.優しさ
と言いたかった。
何故いい止まったかと言うと、その女性には少しづつ全てが欠けていた。
親切心がおせっかいになり兼ねないと思いいい止まったんだけど、やはりちゃんと言って差し上げるべきだったかなと今少し反省してしまった。
今後改めてこの事を伝える機会があればいいんだけどなw

女のいない
ヘミングウェイの短編小説集に“Men Without Women”という作品がある。
これに呼応したかどうかは分からないが村上春樹の短編集に“女のいない男たち”がある。
文藝春秋に去年4号続けて発表された作品に2作品を追加し6編の短編を集めて昨年4月に出版された短編小説集である。
画像はその中の“木野”という作品の1ページ…主人公木野がバーを始めるくだりのものだ。
僕はこの作品がとても気に入っていて、もう10回以上読み返している。(今もまた読んだばかりw)その度に違う印象を持つ、とても不思議な作品だ。
ネタバレになるので多くは書けないが、僕の好きなシーンは別れた妻と開店したバー“木野”でのシーン…二人でナパのジンファンデルを飲むくだり…

「何か飲む?」と木野は尋ねた。
「赤ワインがあれば、少し」
 木野はワイン・グラスを二つ出し、ナパのジンファンデルを注いだ。そして二人で黙ってそれを飲んだ。

秋の夜長、読む本にお困りの貴方に是非お薦めしたい一作である。
木野

ビザールのマッチ


76…そう1976年、僕は東京吉祥寺を目指した。
吉祥寺からアクセス至便な大学を受験し吉祥寺から3つ目の駅にある大学に入学した。(第一志望ではなかったが…)
吉祥寺はフォークの街だと思っていたら、当時既にジャズの街へと変貌を遂げていた。

SOMETIME、OUTBACK、西洋乞食、モア、ボニー&クライド、A&F、MEG、FAMILY、FIFTY…などなど多くのジャズの店が存在していた。
そんな中でも、ここぞという店が“FUNKY”だった。

地下一階から地上二階までというジャズ喫茶ファンキーは、その後吉祥寺パルコ出店に伴い近くに移転し業態を変えジャズバーになり今に至っている。
当時から鳴っていたパラゴンは今でも聴くことができる。

確か当初のファンキーが立ち退きで閉店したのが1979年ではなかったかと思う。
だからジャズ喫茶ファンキーに通ったのは多分2年間くらいだ。授業をサボりコーヒー一杯で3時間くらいをそこで過ごし、目の前にあった日活でロマンポルノ3本立てを観てまたファンキーに戻り2時間をすごす、何てことを日がな一日やっていた。

だからジャズ喫茶としてのファンキーがなくなってからは、もっぱらA&Fに通うことが多くなった。ファンキーもA&Fもいわゆるダンモ(モダンジャズの事w)の店なのだが、その頃からにわかに吉祥寺の街は徐々にフュージョンの香りがしてきたのだ。

当時はこのロックとジャズの融合音楽をクロスオーバーと呼んでいた。
サムタイムやファンキーと同じく、ジャズ酒場界の重鎮野口伊織氏の経営する“OUTBACK”もそんなフュージョン中心のジャズ喫茶で、ここへもよく足を運んだ。
隣には同じ系列のロック喫茶“赤毛とソバカス”があり、このふたつの店を行ったり来たりしていたものだ。
アウトバックも後年場所を変え、ジャズが流れるバーへと転換し今に至っている。

A&Fももうずいぶん前に閉店し(ここは従兄妹がアルバイトをしていた事を後年知る)現役のジャズ喫茶はジャズ評論家寺島靖国氏の経営する“MEG”くらいのものになってしまったのは、とても寂しい。
とは言え純粋なジャズ喫茶は東京中でももう何軒もないのではないかと思うのだが、定かではない。

ジャズ喫茶今は昔…というおはなしでした。

18年間過ごした徳之島を離れて40年が経とうとしている。徳之島高校を卒業して僕は東京の大学に進学しそのまま彼の地に居ついてしまった。今は鹿児島市に住み5年という月日が流れた。
僕が暮らしていた当時の徳之島町はテレビの民放が視聴できず、NHKだけしか見ることができなくて、情報源は学校の図書室か本屋さんで立ち読みする本や雑誌くらいのものだった。そんななか当時の雑誌“ラジオの製作”でBCLを知り感度の良いラジオを手に入れ、毎夜チューニングのツマミを回しながら海外から流れてくる短波放送でかかる音楽を聴き始めた。
当初は短波放送を聴いていたのだが、ある日の深夜AM放送に切替えてツマミを回していたら昼間は全く入らないラジオ局の放送が鮮明にしかも複数局入ることが分かった。多分中学1年生くらいだったと思う。
“オールナイトニッポン”“セイヤング”“パックインミュージック”といった深夜放送を地方局の電波ではなく、東京のキー局からの電波で直接聴くことができたのである。多分それは日中の電波環境と違い、深夜になればそれがクリアになりより遠くまで中波が届いたのもだと考えられるのだが、定かではない。
しかしどのラジオでも聴けるわけではない。当時の高感度ラジオでしか聴けないのである。それをなんとか手に入れ、その後はほぼ毎晩のように深夜放送を聴き、都会の様々な情報を貪るように入手していた。音楽や映画はたまたサブカルの新鮮な情報は、成長期の僕にとってまさに宝だと今改めて思える。
そんな環境で得た情報を携え上京した島育ちの少年としての僕は、その後とても驚くことになる。何故かといえば、僕の周りの友人たちの中で僕が一番のその手の情報通だったからだ。
都会の少年達は有り余る情報の中で嗜好が多様化するが、一方情報が枯渇しそれ故に情報に飢えた島の少年としての僕は、深夜放送からの情報を元に本や雑誌でどこまでも深く貪欲に知識を収得していたのだ。
今の時代は、日本のみならずどこにいたってネット環境さえあればいち早く詳細な情報が手に入る。僕が島で過ごした時とは、こと情報という観点からいうと天と地くらいの差がある今の時代、何に興味を持つかどんな志しで生きるかが真に問われる時代なのではないかと改めて思う。
島を思う時、今の島の少年達は都会とそう違わぬ情報の中に溺れず己の嗜好を磨き続けているのかと、少し気になる。
徳之島3

ビザール

今ではすっかり姿を消したジャズ喫茶なるものをご存知の方は、もうそう多くはないのではないだろうか。
僕が上京した1976年当時、その業態の空間は東京西部を中心に数多く存在し若者たちに愛用されていた。
モダンジャズが大音量で流れる店内は、紫煙の中腕組みをして音に没頭する者、思索に耽る者、読書に没頭する者、会話を禁止されている店内はとてもフレンドリーだとは言い難い環境が通例だった。
どういうわけか昨日、僕のジャズ喫茶体験を少しずつ語りたいと唐突に思いついた。

先ずは初体験から。
僕が初めてアルバイトをした会社、モデルガン・メーカーMGCの社長に半ば強引に連れて行ってもらったのが新宿の“ビザール”であった。
新宿歌舞伎町にほど近いところにあったその店は、通りからダイレクトに地下の階段を降りたまるで穴倉のような店だった。
そこでかかっていた音は未だに鮮明に覚えている。
ジョン・コルトレーンの“Love Supreme”(邦題:至上の愛)
ビザールのマッチ

その社長は、店の入り口付近を通った時に、外に置かれた小さなスピーカーから流れる店内の音をチェックして入店したのだ。
彼の嗜好する音だった訳だ。
しかし僕もこのアルバムは知っていたけれど、何とも難解な音には到底ついていけないなと思っていたアルバムだった。
後に知ることになる訳だが、彼はコルトレーン研究ではその業界では有名な人物で、コルトレーンが亡くなった時に糸居五郎のラジオ番組で追悼文を読み上げたと言う経験まであったという。

その後は何度となくその社長に、DIGやDUG・木馬やNALUといったいわゆる名店を連れまわされたのだった。
その時僕は18歳、ジャズ喫茶に開眼した瞬間の想い出である。

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