2012年03月27日

《friends after 3.11》 4

ぼおおおっと生きているうちに東北の大震災から1年経ってしまった。
1月の小林政広監督作品と3月の松浦徹監督作品が流れてしまったのは、直接に震災の影響ではないけれど、一般的に映画が製作しづらくなっている状況になっているみたいだ。その代わり、僕の周りでは、どうしても震災に多少とも関連した仕事が多くなってきた。
前回のブログで書いたイルカちゃんの取材もそうだけど、松浦監督から「流れた作品の代わりにはならないけれど」と依頼された仕事も脱原発関連のドキュメンタリーだった。それは今、渋谷で公開している岩井俊二監督の《friends after 3.11》の第2弾。数人の監督がいろいろな人にインタビューして、岩井監督が最終的にそれをまとめるというスタイル。僕は松浦監督のほか、荻野欣士郎監督、カジワラノリコ監督のパートを撮影した。岩井監督は「取材対象者だけではなく、取材している人も必ず登場するように」という命令を出した。熊本の建築家・坂口恭平さんの取材にはレポーターとして松田美由紀さんが同行したのだが、そうでない場合は監督自ら画面に登場する。で、カメラマン1人に多いときでカメラが5台。その内、4台がロックウェルアイズ(岩井監督のプロダクション)所有のCanon EOS5Dで、残る1台が音声を録音するためにも必要な僕のPanasonic HMC155。三脚をガラガラと束にして持っていき、取材者向け、レポーター向け、ツーショットなどとアングルを決めて三脚に固定する。HMC155は録音部がいるときには全体がわかる引きサイズにして、録音部からの音声をラインでカメラに入れる。録音部がいないときにはカメラマイクが頼りなので、最も音が良く録れる位置に場所に置く。
イルカちゃんの7Dと同じく、5Dも何GBのカードを使っても12分しか連続して撮ることができない。それで監督やプロデューサーもカメラの分担を決めて手伝ってもらい、12分に近づくと一旦切って、またスタートさせた。前回はカメラが止まるのを待ってスタートボタンを押したので、話の途中で切れてしまうことがあった。12分を待たずに再スタートさせても、容量の無駄になるわけではないので、早くこの方法に気付くべきだった。その点155は楽だなぁ。16GBなら99分連続撮影ができるのだから。何で岩井監督がEOSに、それも7Dではなくて5Dにこだわるのか聞いてみると、レンズのミリ数と自分の感覚が合うというようなことを仰っていた。しかし噂によると、岩井監督がCanonに動画撮影ができるカメラを作らせたということになっており、その点を追求すると「いやあ、後ろの液晶画面でライブ映像が見られるのだから、これが記録できるようにならないの?と言っただけですよ」と謙遜なさっていた。
僕はかつて、5Dmark兇30pでしか撮れなかったとき、映画撮影には24pが必要だから改造してくれとお願いに行ったことがあったが「無理ですね」とあっさり断られてしまった。そしてその1ヵ月後、24pも撮れる7Dが登場したのである。ま、ここに岩井監督と僕との差というものがあるんでしょうね。
しかし、「friends after 3.11」とはよく言ったもので、実際、3.11以降、あるいは3.11があったからこそ、僕にも友達が増えている。岩井監督はじめ、何人もの新しいお付き合いが増えた。本職のドキュメンタリー監督であるイルカちゃんのお父さんも撮影に来る予定だと言っていた。その時には仕事としてギャラを出します、とも…。
2011年12月29日

イルカちゃんインタビュー 4

《JAZZ爺MEN》の宣伝になるからというので、半ば強制的に始めさせられたFacebookなのだが、宣伝ばかりではなく、人生が変わってきたような感じがする。そして最近、ARTIST IN JAPANというグループに勝手に登録されてしまった。その記事を読んでいると「12月25・26日に東京と郡山で撮影してくれる英語が話せるドキュメンタリーカメラマンを探してます」という募集があった。25日と言えばクリスマスだけど、もう年寄りにはあまり関係がない。

郡山に行くということは多分、原発事故関係だろうと思った。
東日本大震災があって、知り合いの中にはボランティアに行った人もいるけど、僕には車もないし、行動する資金もないし、義援金すら出していない。自分の能力を生かして役に立てるのはこれがチャンスかと思って応募してみた。
幸か不幸か、他に手を挙げた人もいないようで、とても喜ばれてメールで詳細を確認しあった。
監督はIlouka Billyという名の日本人とフランス人のハーフで、お祖父さんが郡山に住んでいるので、原発事故後の生活の変化などをインタビューしたいということだった。カメラはいつものPanasonic HMC155を持っていこうと言ったのだが、PAL方式は使えないので、EOS 7Dを持っていくからそれで25p撮影をして欲しいという返事が来た。

25日は東京に住んでいる叔母さんにインタビューするというので、10時に赤坂の氷川神社で待ち合わせた。
やってきたのは22歳のの可愛い女の子とそのお母さん。Iloukaは日本語のイルカだったことが分かった。
叔母さんというのはお母さんのお姉さんで、旦那さんはイワンさん。5歳くらいの女の子も一緒に連れてきた。すごく国際的な家系だ。イワンさんもインタビューに加わることになり、女の子はイルカちゃんのお母さんが子守していた。3人は英語で話す。食品に含まれる放射能の心配が話の中心だった。面白かったのは、買った商品を3,800円で検査してくれるスーパーがあるという話だ。イワンが「買ってから?買う前じゃなくって!」と突っ込んでいた。

26日は東北新幹線で郡山まで行き、駅からタクシーで祖父母の家に。お祖父さんは元NHKの記者で、今でも毎朝、朝日新聞を隅から隅まで呼んでスクラップしている。お祖母さんは絵を描いている。イルカちゃんとは9年ぶりの再会である。

しかしこの日は2時に俳優の村本明久君の伝手で何人かの被災者が仮設住宅の集会所に集まってもらっているので、お祖父さんの車を借りて、まず駅の近くの仮設住宅に移動。行ってみると、村本君の知り合いの先生が一生懸命集めてくれて、ごった返す有様になっており、そこに僕が頼んだCMディレクターのご両親も加わって収拾がつかなくなってしまった。で、ご両親には頭を下げて待ってもらうことにして、仮設住宅で待たせているお年寄りを取材。狭い。四畳半2間にキッチンというのだけれど、本当に四畳半あるのだろうか。イルカちゃんがフランス語で質問して、お母さんが日本語に通訳し、お爺さんがそれに答えて、それをお母さんがフランス語に訳してイルカちゃんに伝え、イルカちゃんは考えて次の質問をするという段取りなので、時間ばかりかかる。

もう1軒の仮設住宅を訪問して集会所に戻ると3時過ぎになっていて、一人はもう帰らなければならないと言うのでその男性は諦め、富岡町から避難してきた図書館長と彼を受け入れた郡山の先生にインタビュー。隣の部屋の保育児童がうるさいけれどどうしようもない。図書館長は今は東京の息子の家に世話になっていて、4時の新幹線で帰らなければならない。学童保育の児童が次々やって来る。もう、その部屋も使えないので、ディレクターのご両親には寒空の下でインタビューすることを了解してもらった。自分の畑でとれた新鮮野菜を出すのがウリの店なのに、それができなくなったから他所から買わなければならず、採算が取れなくなったそうだ。

祖父母の御宅に帰る途中で陽は暮れて、夕食前にお祖父さんのインタビュー。政府の対応の悪さなどを話していた。
イルカちゃんは時差ボケと長旅の疲れで、お祖母さんのインタビューを翌朝に延ばすことにし、湯豆腐の夕食をいただいた。

お祖母さんの話が興味深かった。地震の直前、窓を見ていたら空が真っ黒になり「お父さん、なんか変だよ、何か起こるんじゃないかね」と言ったあと、裏山から田んぼにヌルヌルという感じで雪が下りてきて、しばらくしたらグラグラ揺れ出したという。原発事故の後、除染効果があるからひまわりを植えると良いと言われて、畑1枚ひまわり植えた農家もあったけれど、そのひまわりも家の庭のひまわりも実を付けずに黒く萎んだこと。いつもなら柿やナンテンの実まで食べに来るツグミやヒヨドリが全く見かけなかったことなど・・・。
どこかに引っ越そうという考えはないんですかという質問には、「もう歳だから、新しいところに行って馴れない生活をするのも難儀だからここで暮らすよ」
最後にパーソナルな質問だと言って「私が生まれてどうでしたか?」と聞くと「不思議なことがあったんだ。あんたのお母さんはフランスで出産のために入院して、私はここで絵を描いていたんだ。そしたらお腹がグッと動いて。後で聞いたらその時間にあんたが生まれたんだって」

流行語大賞が「絆」だそうだが、このインタビュー、絆を強く感じざるを得なかった。
2011年12月13日

新藤兼人賞上映会 4

今日、アスミック・エースの試写室で、新藤兼人賞金賞の《死にゆく妻との旅路》と銀賞の《エクレール・お菓子放浪記》の記念上映会が開かれた。

《死にゆく妻との旅路》はもう何回も見ているけれど、久しぶりにまた見てみようと思った。
故・宮島義勇カメラマンは「自分がやった作品は公開されて半年間は褒めろ。それ以上褒めていたらお前は馬鹿だ」と言っていた。つまり、作品を作るということにおいては監督と共犯なのだから批判はするな。しかし、公開が終わって数ヶ月も経てばいろいろ反省点が見えてくるはずだろう、と言いたかったんだと思う。そういう覚めた目で自分の映像を見てみると、「いいなあ、どうやって撮ったんだろう」という自画自賛じゃなくって、単なる健忘症なんですが、そう思うカットと、「どうしてもうちょっと丁寧なオペレートをしなかったんだろう」と思わざるを得ないカットがあった。時間が無かった、機材が無かった、条件が悪かった、いろいろ言い訳はできるけど、今自分に言いたいのは「もうちょっと落ち着いて考えろ!」だ。「今考えれば、ああすれば良かった、こうすれば良かったと思うじゃないか。だったらその時思い付け!」だ。反省…。

《エクレール・お菓子放浪記》は前から気になっていた作品だった。
実は《JAZZ爺MEN》の上映先を探していたとき、文化庁のS伯調査官から「シネマとうほく」の鳥居明夫さんに電話するように助言をもらった。さっそく電話してみたが、時期が悪かった。震災間もないときで、まだFAXも使えない、パソコンも使えないという状況だったのだ。
いろいろ調べてみると、《ふみ子の海》とこの《お菓子放浪記》を製作・上映して、そのときの大手の映画よりも良い観客動員をしていることを知った。その影には並々ならぬ努力と熱意があったと想像に難くない。しかし、なかなか見る機会が無いし、授賞式で近藤明夫にお会いしたら《サンクチュアリ》《ムルデカ》の藤由紀夫監督の先輩だといういうことが分かり、タダナラヌ縁を感じていたのである。

新藤兼人監督がおっしゃったように「後半が長い」とは感じなかった。ただ、題名にある「エクレール」は登場しないし、「お菓子放浪」もしない。戦中戦後を生き抜いた孤児の話だ。近頃、スイーツを題材にした映画が多いけれど、お菓子なんか無かった戦争中に、どう少年とお菓子の話が展開するのだろうという期待は裏切られた。でも、石田あゆみ「婆さん」が凄かった。林隆三「座長」が良かった。主人公の明夫少年の歌が本当に上手かった。後半、ジワジワと涙が出てきてハンカチを出してゴシゴシと顔を拭いた。
それにしても感心したのは、ローカル映画が豪華なことだ。大勢のエキストラ、これは石巻の人たちの協力があったからだろうと思うが、その大勢にその時代の衣装を着せている、それだけでも貧乏に慣れた僕には感心してしまうのだ。映画館のセットもオープンに建てて、その焼け跡も再現している。堂々たる映画だった。
予算を聞いたら1億2千万!うーん、《死にゆく妻との旅路》の約2倍、《JAZZ爺MEN》の12倍だ。その製作費を集めたということだけでも凄い!この「ダブル明夫」路線、次なる展開、頑張って欲しい!
2011年12月03日

連チャン授賞式 5

一昨日と昨日、授賞式で東京會舘通い。

一昨日12月1日は第56回「映画の日」で、永年勤続功労賞というものをいただいた。「40年以上の永きに亘って映画の仕事に携われ、今日の映画事業の進展に貢献され、なお映画界に於いて活躍されているその努力と功績は…」ということなんですが、ウチらは団塊の世代なので、66名も該当者が会場に並んでいるのだ。カメラマンは浜田毅、佐々木原保くんら4名、監督は後藤幸一さん1名。でも、中にはナントカカントカ株式会社不動産事業部なんていう人もいるんだけど、それも映画界と言えるのだろうか?
こういう賞があるということは助手の頃から知っていたけど、自分が貰うようになるとは想像できなかったな。Facebookにはたくさんの「おめでとう」メッセージをいただきました。お礼申し上げます。

昨日は「新藤兼人賞」の授賞式。これは独立プロ54社が加盟する日本映画製作者協会のプロデューサーが選ぶ賞で「この監督と仕事をしたい」「この監督に映画を撮らせたい」と思う新人監督に与えられる賞なのだ。この場合の新人監督という定義は長編映画3本までの監督を指すので、《死にゆく妻との旅路》で金賞をもらった塙幸成監督も、《エクレール・お菓子放浪記》で銀賞をもらった近藤明夫監督も、新人というよりもベテランと言った方がイメージに合うくらいなのだ。
新藤兼人賞とだから、トロフィーと賞金目録は新藤兼人監督から渡される。ナント100歳!孫の新藤風監督に車椅子を押してもらい、マイクを持ってもらって選評を話すのだが、ボケてません!内容を正確に覚えていて、的確なツッコミを入れてくる。《死にゆく妻との旅路》に関しては「ドキュメンタリーの手法を使っているが、自分もやってみたい。半分くらいは成功している」とおっしゃった。他人の映画を褒めたことがないと言われる新藤監督としては最大限の賛辞なのである。《お菓子放浪記》に関しては「後半が長い」とおっしゃって場内の笑いを誘った。「金賞の《死にゆく妻との旅路》は縦に進んでいくが、銀賞の《エクレール・お菓子放浪記》は横に進んでいく」というような分析も見せた。

脚本の山田耕大さんも加わって新藤監督と記念写真を撮ったのは家宝となるだろう。《JAZZ爺MEN》でお世話になった松竹の秋元編成局長はじめ、業界のいろいろな人とも久しぶりにお会いできたり、楽しいパーティが続いたのであった。

その後我々は国際フォーラムのレストランに移動して、塙監督の驕りで豪華な二次会を開いた。ふわふわの巨大オムレツなんぞを食べていると、なんとそこに三浦友和さんがドンペリを抱えて現れた!そして富山出身の朴木プロデューサーも絡んで《RAILWAYS》の話になり、富山映像祭の話になり、鈴木ラインプロデューサーの話から《6時間後に君は死ぬ》の話になって、その時の共同監督の高野和明さんの話になって最近のベストセラー『ジェノサイド』の話になった。友和さんは「10年に1本の傑作だ!映画化するにはハリウッドしか無い!」と手放しの褒めようだった。高野和明さんは映画監督になりたかった人で「映画監督になるには原作者になるしかない」ということで小説を書き始めたと言っていたが、『ジェノサイド』は映画化不可能な小説を目指したそうだと友和さんが言っていた。

ワインを10本くらい開けて、デザートにコーヒーまでご馳走になって、忘年会も塙監督の驕りでということになった。「賞金の100万円を使い果すんだ!」と叫んでいたが、残金が唯一《死にゆく妻との旅路》のギャラとなるそうなんで、監督、安いところにしましょうよ。
2011年10月18日

尾鷲の小アジ 3

台風の被害で一段と有名になってしまった三重県尾鷲(おわせ)から小アジが1箱届いた。

去る10月14日にBS-Japanでオンエアした《ふるさと発元気プロジェクト・「ありがとう」の気持ちで守る世界遺産熊野古道》の取材で尾鷲に行ったのは、幸運にも大雨と大雨の僅かな間隙。熊野古道の石畳が濡れて光っていた。そこを今回の主役である「夢古道おわせ」の伊東将志店長に歩いてもらい、とても素晴らしい画が撮れた。

尾鷲はヒノキの産地として有名だが、近年、間伐材が売れないので間伐ができない→木が密集して地面に陽が射さない→下草が生えない→地表が剥き出しになって雨で土が流れる→山林が崩壊したり土砂崩れが起きる。そもそも良いヒノキが育たない。

一方、市は見事にバカデカイ熊野古道センターを町外れに作り、古道客を呼び込もうとしたのだけれど、そこにはレストランも休憩設備もないので客は怒るし、リピーターがいない。そこで商工会議所は余った土地に古民家を移築してレストランを作り、「おかあちゃんのランチバイキング」として、地元の食材を使ったお袋料理を提供した。そしてその隣に、市が持て余している海洋深層水を使った温浴施設を建設した。
商工会議所の職員である伊東さんはそこの店長を志願し、地元でしか食べられていない低利用魚などを積極的にメニューに取り入れ、風呂には「世界遺産風呂」と称して樹齢80年のヒノキの間伐材の丸太を浮かべ、父の日、母の日、敬老の日には「ありがとう風呂」と称して、子供たちに感謝の言葉を樹齢20年のヒノキ丸太のスライス99枚に書かせて浮かべ、客に喜ばれている。

そして、伊東さんは「ありがとう風呂」を全国に広めようと努力し、その甲斐あって、今年の敬老の日には99ヶ所の温浴施設がこのイベントに参加した。ということは、男湯女湯あるから1ヶ所で198枚、99ヶ所で19602枚売れたわけだ。だから伊東さんは、1本200円にしかならないこの間伐材を1本1万円で買い取って、微力ながらも間伐に貢献している。

僕はかねがね、間伐するくらいなら、なぜ初めからパラパラに苗を植えないのかなと疑問に思っていた。1.3mx1.3mに1本の割で植えるのだ。今回の取材でその謎が解けた。密植することで日当たりを少し悪くさせ、木の生長を抑制するのだ。そうすると密度の高い年輪ができ、強い柱になるというわけだ!関東大震災でも、尾鷲ヒノキの家だけは倒れなかったという。

尾鷲で育った伊東さんは尾鷲漁港の魚市場を遊び場にしていた。そこに取材に行くと、組合長も低利用魚を大量に買ってくれる伊東さんに感謝していた。そんなこんなで発泡スチロールのトロ箱1杯が送られてきたわけなのだが、さあ大変。中には体長12センチくらいの小さなアジが90匹以上入っていた。どうすんのこれ!とりあえず、10匹ずつビニール袋に小分けして冷凍庫へ。しかし、食べきれる訳もないから、松戸の両親のところへ30匹、東京国際女性映画祭の招待券とともに持っていった。それは唐揚げにして食べたそうだ。

で、ハラワタの取り方など電話で聞いて、僕は南蛮漬けを作ることにした。スーパーで買ってきた調理済みの小イワシを3枚におろしてマリネを作ったことはあったのだけれど、その時は少量の油で済んだから良かった。これが姿揚げになると多めの油が必要だから、それをどう捨てるか。まず、「固めるテンプル」を買いに行った。店員に「どこに置いてあるんですか?」と聞くと「アイヨ」と手渡してくれた。お徳用2箱セット!ウチで開けたら5袋ずつ入っているではないか!一生モノだ!

パソコンで簡単レシピを探して恐る恐る作ったけど、結構美味しく出来た。でも、随分あるな、10匹だったはずなのに。昨日たくさん食べて、今日も食べて、まだ残っている。玉ねぎスライスの下でどんどん増えているんじゃないだろうか。
2011年10月13日

イシバシ楽器店から 4

《JAZZ爺MEN》の東京公開が迫り、このところ毎日のようにポスターとチラシを持って歩き回っているのだが、今日は渋谷センター街のイシバシ楽器店に行ってきた。

去年の夏、早稲田本庄のプロデューサーから《精霊のモリ》を撮った教え子の宮武由衣監督に「ジャズを題材にした映画を500万で撮れ」という要請があった。しかし、宮武も僕もジャズに関しては門外漢と言ってもよいほど無知だった。楽器の名前もよくわからないという程度だ。

そこで、とにかく楽器を見ようということで入ったのが渋谷のイシバシ楽器店だった。エレベーターを2階で降りて、管楽器のショーケースを眺めてウロウロしていると、当然のこと、不審者に店員が寄ってくる。かなり恥ずかしかったが、ここで怯んでは先が無いので、思い切って映画の企画の話をした。するとその店員さんは、一般的にジャズに使われる管楽器、つまりサクソフォンとかトランペットとかトロンボーンをケースから出して、かなり丁寧に使い方を教えてくれた。サックスで音を出すにはリードという木片が必要だということ、マウスピースの取り付け方、指の使い方、アメセル・マークシックスというビンテージがあるということ・・・。「映画の制作にも協力しますよ」というありがたい言葉までいただいた。

しばらくすると宮武監督はアルトサックスを買うと言い出した。貧乏症の僕は「ナニも買う必要は無いんじゃないの」と言ったのだけど、監督は「自分で実際にやってみなければ脚本を書けない」と言うので、一番安い中国製の中古品と教本を買った。トランペットもサックスも、音を出すだけでも初心者には大変なことなのだ。そういうことが全てシナリオに反映されたのである。

また、主人公とその妻はジャズ喫茶で知り合ったということにしたいのだけど、ジャズ喫茶がどういうところだか知らないと自信が持てないというので、ネットで調べて道玄坂の上の方にあるジャズ喫茶にも行った。

音楽監督にはジャズに詳しいかもしれない、安くやらせることができるかもしれないという考えで、《ナビィの恋》《ホテル・ハイビスカス》の磯田健一郎氏に有無を言わせずやらせることにした。50万のギャラで「茶色の小瓶」のアレンジとオリジナルを書かせ、出演者の練習を指導させ、プレスコ用の音楽を録音させ、背景音楽を作曲させ、自費で相模湖から本庄まで来させ、自費でホテルに泊まらせ、演奏シーンの指導をさせ、果ては自費でサントラ盤CDを作らせ・・・。自分の取り分は撮影途中で無くなった。

結果的に磯田氏は別の楽器店とコネがあったため、イシバシ楽器店にはその後お世話になることはなかったのだが、僕としては映画《JAZZ爺MEN》はイシバシ楽器店のエレベーターを降りた時から始まったという思いが強いので、今日、イシバシ楽器店を訪ね、ポスターとチラシと招待券を渡し、お礼を言って帰ってきたのである。

宣伝予算が全く無いこの映画には、無償でポスター貼りなどをしてくれている応援団が何人もいる。数シーンにチョコっと出演もしてくれているマイミクのS.Y.さん、《薄れゆく記憶の中で》の制作スタッフで、今は出版社に務めているR.K.さんと彼の仲間たち、照明のA.S.さん・・・。それから横浜の上映館を紹介してくれたN監督、京都の映画館を紹介してくれたM監督、新潟の映画館を紹介してくれたI監督、はままつ映画祭参加のきっかけを作ってくれたナースのSさん、快くポスターを貼ってくれた浪漫坊、海森の店長、東京工芸大学のT先生・・・。ありがとうございます。
2011年09月27日

古湯映画祭にご招待 5

第28回だというのに、「古湯映画祭」を知らなかった。
映画祭にカメラマンが招待されるということは全くと言ってよいほど有り得ないことなので、関心が薄れてしまうというのが事実なのだ。

同じ九州には有名な「湯布院映画祭」があるけれど、映画祭が始まる前の昔に湯布院温泉に行ったことはあるが、映画祭には行ったことがない。僕がずっと撮ってきた金子修介監督の映画はこの映画祭とは相性が合わなかったらしく、金子作品が湯布院で上映されたことは長い間なかったのである。
上映されたとしても、招待されるのは3人で、通常、監督/俳優/脚本家/プロデューサーの順で優先されるので、「自腹で来てください」と言われても、九州までの旅費と宿泊費を捻出できるほど恵まれた経済的状況にはないところが寂しいところなのだ。

ところが今回はスタッフを招待したいという方針だったので、温泉に浸かれるという誘惑も後押しして、2ヶ月も前からこの日が来るのを楽しみにしていた。
3日間の開催日の初日第1回目の上映が宮武由衣監督の《JAZZ爺MEN》で、第2回目の上映が塙幸成監督の《死にゆく妻との旅路》! ナント、私メの撮影作品が連続上映されるのでありました!
3回目の上映は、企画から完成まで6年かかったという恵那の地域映画《ふるさとがえり》で、そのあと、その林弘樹監督を中央に据え、両脇を塙・宮武監督、さらにその脇を山田耕大シナリオライター、私メ撮影監督、桑原啓子プロデューサーが固めるというステージでシンポジウムが行なわれました。
メンバーはそれぞれ仕事上のつながりがあったので、最初から何も心配していなかったのですが、林監督だけが誰とも初対面だったので、上手く話が運ぶかどうか心配でした。ところがやはり、知らない土地で全人口5万6千人を巻き込んで自主映画を撮っただけのことはあって、とても親しみやすく気配りも行き届くという素晴らしい人でした。
時間が1時間しか無かったので、全員一言ずつ発言して観客とのQ&Aに移りましたが、積極的なツッコミもあり、熱気を感じました。この会場は前半分がゴザ敷きで、その一番前に陣取っていたYAS.さんという《つづく》のカメラマンが「3本ともシネスコなのはどういう意味ですか?」という質問をして、それからしばし技術的な問答が続いたので、一般観客にはちょっと退屈させてしまったかもしれません。

シンポジウムが終わると旅館に引き上げ、速攻、温泉に入ったのは言うまでもありません。ちょっとぬるめのアルカリ泉で、何時間でも入っていられそうですが、それを振り切って夕食会場へ。映画祭顧問の西村某氏が佐賀の地酒をあれこれと持ってこさせているうちに、後片付け終わった実行委員たちがドドッと乱入し、広間はラッシュ状態!一頻り飲んだあと、ゲストを拉致して二次会会場に出ていきましたが、既に酔ってしまった私メはスルリとかわして貸切露天風呂へ。山の空気が美味しくて、何度も深呼吸してしまった。

今回は1泊2日の招待だったので、自分が撮影した映画を会場で見ることができなかった。一緒に見て、観客の反応を直に感じることができれば良かったのにと思う。どうせ暇なのだから、飽きるほど新幹線に乗って前日入りしたかったのだが、変更が許されなかった。

《JAZZ爺MEN》は10月15日から那覇の中江裕司監督が経営する桜坂劇場で上映。そちらは既に沖縄に住み着いている河原さぶさんが仕切っていて、「ちゃんとやるから来ないでくれ」と言われている。行ったらマズイ理由でもあるのだろうか?遊びに行きたいと思っていたけれど、9月末には収入が無いということに気がついた。
2011年08月24日

《JAZZ爺MEN》いよいよ東京公開! 5

これまで、製作地元の本庄で8週間のロングランを終えた《JAZZ爺MEN》ですが、ようやく待ちに待った東京公開が決まりました。

10月29日(土)から11月4日(金)までの1週間、ヒューマントラストシネマ渋谷で朝1回だけのモーニングショーです!!!

僕としてはもっとたくさんの回数、たくさんの映画館、たくさんの日数でやってもらって、多くの人にこの映画の感動を分かち合いたいという気持ちがあるのですが、現実はキビシーーーのです。普通の映画は製作費と同額くらいのP&A、つまり、プリント費と宣伝費を用意してあるものなんですが、《JAZZ爺MEN》では製作費だけでも足りないくらいの予算なので、配給会社を頼むこともできないのです。
で、私の40年の歴史的人的財産を駆使して、いろいろな人に会って、話をして、DVDを見てもらって、アドバイスをもらい、また別の人を紹介してもらい、というふうに上映をお願いして回ったのですが、宣伝にお金をかけられないと観客動員が見込めないからという理由から、上映しようというところは都内では現れませんでした。「蛇の道はへび」と言いますか「もちは餅屋」と言いますか、その道にはその道の伝手とノウハウを持った専門家が本当に必要だということを痛感します。

そんなとき、助け舟を出してくれたのがヒューマントラストホールディングスという大手の人材派遣会社で、試写会を見て感動した代表取締役が「冠を買っている」東京テアトル(ヒューマントラストシネマ有楽町やテアトル〇〇という劇場を持つ会社)に強力なプッシュをしてくれたのです。
映画が大好きで《JAZZ爺MEN》をとても気に入ってくれたその代表取締役と私が知り合いだったこと、宮武由衣監督がヒューマントラストシネマ・脚本コンテストで入賞したことがあることが幸いしました。

それでも1週間。それでもモーニングショーです。ここは是非とも連日、入りきれない人が押しかけて、「その判断は甘かった」という、嬉しい誤算を招きたいと切望しています。いやぁ、そうなるんじゃないかなぁ・・・。だって、今年観た邦画の中では一番面白いし、感動するもの!ハンカチ持って行きなさいよ。彼女が泣き出したら、そっと手渡してあげるんですよ。いや、タオルの方がいいかな。そのタオルの端を自分も使って・・・

先日、ホームページにアップするため、本庄公開でのアンケートを集計したのですが、6歳の女の子から80歳のお爺ちゃんお婆ちゃんまで、文字通り、感動の嵐です。読んでいるだけでも泣けてきます。
プロデューサーは予告篇を見るだけでも泣けてくると言ってました。その予告編は公式ホームページhttp://jazzgmen.com でもYou Tubeでも見ることができます。もうすぐ、私が始めたFacebookでも見られるようにします。

それから、東京公開の直前、10月25日の3時から東京国際女性映画祭http://tiwff.comで上映されます。会場は麹町のセルバンテス文化センターhttp://www.cervantes.jpです。

こちらの前売り券は
チケットぴあ:0570-02-9999/岩波ホール:03-3262-5252 で扱っています。「早期に販売終了することもあります」って東京国際女性映画際のチラシに書いてありますよ。

その前に、本庄のユナイテッドシネマ・ウニクス上里(このショッピングモールでロケしました)で9月10日から2週間、アンコールロードショーをすることになりました。待ちきれない方は高崎線に乗って、こちらの方にどうぞ。
2011年08月03日

バジルと金目鯛 3

昨日は横浜美術館でトリエンナーレの展示レイアウトをする横尾忠則さんを撮影していたのだが、老眼鏡を忘れて大変だった。フィルムのカメラの場合はルーペの視度調節をすれば良いのでメガネは要らないのだが、デジタルカメラとなって、液晶モニターを使うものだから、老眼鏡のお世話にならなければ、どこにフォーカスが合っているのだかボケボケ映像を見ているばかりなのである。かろうじて右下に表示される距離表示と横尾さんまでの目測距離とを見比べて、なんとかフォーカスリングを回したのである。
この前の九州ロケでは三脚とバッテリーチャージャーを忘れて大慌てしたばかりなのに。普段は助手に頼っているので、いつになっても独り立ちできないのか、ボケが進んでいるのか・・・。

今日はアトリエでの取材風景が撮影不許可となって、のんびりとした1日を送ることができた。

ゆっくり寝坊して、起きたら洗濯機を回して、ベランダのゴーヤとバジルの鉢に水をやる。
レトロアパートのクーラーは10年以上前から壊れているので、今年は緑のカーテンを、ということで、近所の花屋でゴーヤの苗を4本買った。「4本も植えたらゴーヤがゴロゴロ成って、処理に困りますよ」と照明部の松っちゃんは言っていたけれど、花はたくさん咲いてもすぐに落ちてしまい、現在小さいのが1本しか実が成っていない。

バジルは以前、埼玉に広い畑を持っていたときに女房が植えたことがあったけれど、うまく育たなかった。
前作、喜多一郎監督の『シェアハウス』では主人公の吉行和子さんがハーブを色々とベランダで育てているという設定だったので、使い終わった小道具のバジルを1鉢もらってきた。それを玄関の下駄箱の上に置いておくと、バジルのい〜い香りが部屋中に漂ってくる。

その後、イメージフィールドからの帰り、新宿御苑近くの花屋で大量に苗を売っているのに遭遇した。1鉢なんと100円!即決2鉢買って、計3鉢ベランダに並べた。後から買った方はぐんぐん伸びている。1週間の九州ロケから帰ってきたときは萎れてしまったけれど、水をやったらまた元気になった。
時々葉っぱをちぎってはサラダや冷やしトマトにふりかけていたけれど、今日は一番伸びた茎を大胆に半分に切り、昼食に「バジル多め入りのスパゲティ」を作った。枝の部分はオリーブオイルに漬け込んだ。
ニンニクのみじん切りと鷹の爪をオリーブオイルで温め、ベーコンと舞茸とみじん切りのバジルを炒め、そこにアルデンテの1.4ミリスパゲティをからめる。安い赤ワインなんか飲んで、昼から優雅な気分!

寝転んでテレビの旅チャンネルなんか見て、夕食はーーーっと。
そうだ、オーケーで50%引き(225円!)で買った立派な金目鯛の頭があった。あれを煮付けにしよう。

専用の道具で鱗を取り、お湯で洗って鍋に入れ、酒、味醂、水を1カップずつ、三温糖を大匙2杯入れて火にかけ、落し蓋をする。煮立ったところでアクを取って醤油をたらす。今日はこの醤油加減が奇跡的に上手くいって、今までで最高の味になった。
金目のアラ煮には日本酒でしょう!冷蔵庫には「菊水の辛口」の小瓶が冷やしてあった。某国際映画祭の関係者から1ダース送られてきたものだ。酒が弱い私なので、照明の上保さんにお裾分けしてもまだまだ楽しめるぞ。味噌をつけたキュウリを齧りながら、ロケ弁では味わうことができないゆったりとした夕食!

でも、このゆったりがいつまで続くのかが怖い。先日、劇映画のスケジュールの問い合わせがあったが、「結論出るまで2〜3日待ってください」と言われたきり、もう5日になるのだ。
2011年07月26日

横尾忠則さんのブログに! 4

ある人に「高間さんの写真が横尾忠則のブログに載ってるよ」と言われて、公式ブログを開いてみると、いましたいました、愛機HMC155を構える私メの勇姿(?)が!
横に立つのは中村高寛(たかゆき)監督。ドキュメンタリー映画『ヨコハマメリー』の監督である。
その後ろで首だけ見えるのがこの映画のプロデューサー、矢口義文氏。若いときから横尾さんとは知り合いだったので、今でも時々パシリ扱いされる。

で、こういうスタッフで今、横尾忠則さんのドキュメンタリー映画を撮影しているのだ。
この日は岡山美術館で横尾忠則展を開催すると同時に、公開制作をしていた。つまり、朝から夕方まで、何時間もずっと見続けている観客の前で2枚の大作を描いているのだ。そして気が向くと、デジタルカメラでこのような写真を撮っていらっしゃる。
僕が横から横尾さんの描いている表情を撮っていると「隅っこで横からコソコソ撮っていてもダメだよ。正面から堂々と撮りなさい。カメラマンが遠慮していちゃしょうがないでしょ!絵は刻々と変わっていくんだから」。
表情が撮りたかったので横にいたんだけど、横尾さんのお墨付きができたので、観客の迷惑を顧みず、横尾さんの後ろから絵の正面を撮影することにした。
しばらくすると「観客も撮らないと、こういう場所で公開制作していることがわからないよ」。
「撮ってますよ、ご心配なく」と言うかわりに「ハイハイ」と答えた。気にしてくれてありがたいことです。

ここまで書いて、迎えがきました。今日は横尾さんと田原聡一郎さんとの対談風景を撮らなければ。