2007年01月31日

『ナビィの恋』でアルデンテ 5

shoe-Gさんのリクエストにお応えして、という結果になるかどうか分からないけれど、スパゲティといえば、中江裕司監督の『ナビィの恋』が思い出されるのであります。

この映画は低予算(といっても今から考えると、そこそこの予算があった方ですよね)だったので、沖縄の粟国島という小さな離島でのロケの食生活も如何にするかが問題だった。

そこで、吉本興業の映像部とも言うべきイエス・ビジョンは、関西からフランス帰り(イタリア帰りだったかな?)の若いシェフを連れて行き、地元で手に入る食材を使い、立派な公民館の大厨房を借りて、スタッフの食事を作ることにした。
僕たちは近所の民宿からテクテク歩いて公民館に行き、映画に出てきた舞台のあるホールにテーブルを並べて、朝夕の食事をしたのである。
どれもこれも美味しかったのだけど、スパゲティはイタリアで食べた、あのアルデンテだったことに感激した。

それで、2度目にスパゲティを茹でているとき、「ソースに絡ませる前のスパゲティをちょっともらえない?」とシェフにお願いした。すると彼は意外なほど怪訝そうな顔をした。茹で加減をチェックしに来たと思ったみたいだ。
「いや、素うどんみたいに、スパゲティ本来の味を楽しみたいんで」と言うと、茹で上がったばかりのスパゲティを1本だけくれた。それはゴリゴリに硬く、いくらアルデンテといっても硬すぎじゃないかと思ったんだけど、ソースに絡ませると絶妙のアルデンテになったのだ。

図らずも、スパゲティの茹で加減の企業秘密を盗む結果となってしまった僕は、それから家に帰ったあと、バカみたいにスパゲティを作りまくったのであった。
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2007年01月29日

『蟲師』の試写会で 4

数日前、新宿ミラノ2で『蟲師』という映画の完成披露試写会があり、招待状を持って会場時間の7時に映画館の前に着いた。
ちょうど、先頭が映画館の中に入っていくところだったが、その行列が長い!西武新宿線の方に延びる行列の最後部を探して歩いていくと、角を曲がって更に新大久保方面に続いている。1000人くらい並んでいるだろうか。整理係の人に「こんなに入れるの?」と聞くと「多分、大丈夫だと思います」という答えだった。
中に入ると、もう席を探す人が通路を行ったり来たりしている。並びの席を探すカップルは絶望的!しかし、こういうときでも一人分の空席を探す僕の目は鋭い!

実は「蟲師」に関する事前の知識は全く無かった。監督が大友克洋さんだということも、主演がオダギリジョーだということも、『アイデン & ティティ』でお仕事した僕の大好きな大森南朋君と『フラガール』ですっかりファンになってしまった蒼井優ちゃんが出ているということさえ知らなかった。怪しげな題名に惹かれたのだ。

「蟲を操る男」っていったい何だ?

「ムシの知らせ」「ムシの居所が悪い」「ムシが好かない」「ムシのいい話し」「ムシが付く」といった、具体的な虫ではないムシが日本には多いけど、そういうムシが蟲に当たるのだろうか?

この映画の蟲は、それともちょっと違うようだけど、音を喰ってしまう蟲とか、現実的ではない不思議な生き物を創造していた。
そういう不思議な生物が生息する空間は、現代の都市空間では相応しくなく、100年位前の何処とも知れない山の中を舞台としているのは正しい空間創りと言える。今でも東北の山奥の村の入り口には蟲を通せんぼする石碑のようなもの存在する。
ただ、だからこそ、大森君の現代言葉にはちょっと違和感を覚えてしまうのだ。もう少し、不思議の世界に溶け込むような言葉使いが無かったものだろうか。
それと、ラストカット。あれは何を意味しているのかな?よく解らなかった。
それと、映像。なんであんなにボヤケテいるんですか?HD撮影であることは明らかなのですが、もう少し見やすくしても、映画の世界観を壊すことにはならないと思うのですが、いかがでしょうか?

場内が明るくなって、前の席の男性が後ろを振り向いた。オオ!『日本沈没』樋口真嗣大監督だった。感想など話しながら表に出ると、オオ!金子修介大ヒット監督がニコニコして立っている。

一緒に帰りながら、金子修介忘年会で当たった賞品のiPod miniを羨ましがっていた隣の女の子にあげてしまった事を話した。
「あんないい景品だとは思わずにジャンケンに参加してしまったんですよ。立場上、もらうわけにもいかないでしょう?」
「え、そんなこと考えるんですか?」と笑われてしまった。本当は僕にもらって行って欲しかったみたいだ。
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2007年01月25日

NODA MAP『ロープ』にご招待 5

正月三が日を過ぎた頃、宇梶剛士君から電話があった。
「1月いっぱい、野田さんの芝居に出てますから観に来てくださいよ。藤原君も出てますから。チケット取るのが難しくなってきてますから、日が決まったら早めに電話くださいね」

宇梶君と言えば…。
昔、我が家のアパートのドアをドンドンドンと叩く音がする。誰だろう、正月早々…と思ってドアを開けると宇梶君が大きな昆布の束を持って立っていた。
「明けましておめでとうございます。北海道から持って来ました!」

最初の出会いは1989年だったかな。
カメラマンの僕がテレビ東京の開局25周年記念ドラマを監督する羽目になってしまって、主役は岩城洸一と高岡早紀に決まっていたんだけど、周りの配役を決めなくてはならない。高岡早紀が公園通りでサックスを吹いている男に出会い、曲を聴いているうちに自然と踊りだすシーンがある。その男を決めなくてはならない。

国際放映の演技事務が俳優名鑑を持って擦り寄ってくる。
「この宇梶って奴はどうでしょうか、サックスも吹けるっていうし…」
と言って見せられた写真は日本人離れしたチョチョチョーハンサム。信じられない。
「あのー、こういう美男子よりも、もっと現実感がある男の方が…」
「いやー、事務所の関係もあるし、宇梶にしてほしいんですけど」
「困るよぉ…」
「宇梶にしてください!」
というわけで、無力な監督は演技事務に押し切られてしまった。

実は宇梶君はサックスを吹くのは初めてだった。渡されたテープで一生懸命練習したのだった。で、本番の日に渡されたテープは、まったく別の曲だったのだ。

翌年、今度は戸井十月監督の『風の国』という映画で脚が不自由なライダーとしてキャスティングされた。あまり上手い俳優とは思っていなかったが、反対する権利はカメラマンには無い。
でも、そのときの配役だけは豪華だったな。三浦友和、梅宮辰夫、植木等、堺正章、岩城洸一、宍戸錠、陣内孝則、桑名正博、永島暎子、立花理佐、安岡力也、仲野茂、ポール牧…。

その後、我が家の六畳でギューギュー詰めのホームパーティなんかにも来てくれるようになった。あるときは友和さんも来てくれている前で米山善吉が宇梶に喧嘩を売りそうになったり…。でも、宇梶は余裕でコナシテいたな。そのときは族のリーダーだったなんて誰も知らなかったからね。

その頃からかな、宇梶は「ダダ」という劇団を始め、よく下北沢の「すずなり」などで公演を打った。それまでは芝居というものを観に行ったことが無かった僕には結構衝撃的だった。すごく簡単な装置がテーブルになったり、桟橋になったり、観客の想像力で役目が変わるのだ。今までの映画的なリアリティの束縛から解放されるような気がした。テーマもよく研究されていて面白かった。
しかし、10年で10本の公演をするという目標が達成されると、宇梶はあっさりと劇団を解消させてしまい、僕の観劇生活は劇団離風霊船(リブレセン)だけとなってしまったのだ。
実際、ダダと離風霊船は僕にとっては共通のテイストを持っており、他のどんな芝居を観ても、これより面白いと思えるものは無かった。

ところが!今日、この野田秀樹さん演出の『ロープ』を観て、初めてその概念は打ち砕かれたのだ。面白い!感動する!テーマが重くて正しい!演出がスピーディである!観客の想像力を刺激する!

もちろん、野田さんの名前は前々から知っていた。ナント!『デスノート』の金子修介監督と小学校の同級生なのだ。担任の先生が変わった人で、その影響で金子さんや野田さんがこういうことになったんだと金子さんから聞いたことがある。

『デスノート』と言えば、ライト役の藤原竜也君も出演している。彼が登場する直前に、レフェリー役の松村武さんが「だからキラじゃないって言ったろーッ!」と言って笑いを取っていた。場内大爆笑ということは、みんな『デスノート the Last name』を観てくれているっていうことだね。55億円の大ヒット!楽屋を訪ねると藤原君が「2日に大パーティをやるそうですね」と言っていた。僕には連絡が来ていないけど…。

宇梶君に頼んで、宮沢りえちゃんに声をかけてもらう。15年ぶりだから、当然りえちゃんは僕を忘れていた。金子修介監督の『どっちにするの。』に出演したときは16歳だったのだ。すーーーーーごく可愛かった。今日、こんなに跳ね回るりえちゃんを見ることが出来て、ホントーーーーーーに良かった。
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2007年01月21日

『マイ・シネマトグラファー』初日 4

2年間待ってました!『マイ・シネマトグラファー』が昨日、やっと公開初日。

2年前の5月、クレイトン・ヴェロに会いにロサンジェルスに行ったとき、時間が余ったのでハリウッドのシネコンで『クラッシュ』を観た。観終わって出てくると、なんだか気になるポスターがある。ハスケル・ウェクスラーの写真が使われている。題名は『TELL THEM WHO YOU ARE』、ハスケル・ウェクスラーの息子が父親を撮ったドキュメンタリーだ。
シマッタ!こっちを観ておくんだった!我々、撮影監督としては絶対に観ておかなくてはならない映画だ。こういう地味なドキュメンタリーは日本に輸入されないことも多い。あとは、どこかの会社が買い付けしてくれるのを期待するしかない。

そう思っていたところ、グラッシーというアリガターイ会社が輸入してくれたのだ。邦題は去年、ドキュメンタリー映画としては異例のヒットを飛ばした『マイ・アーキテクト』にあやかって『マイ・シネマトグラファー』と改められた。こういう例は興業界にはよくあることなのだが、今回はポスターのデザインまで同じ人に依頼して、同じようなデザインにしてあるという念の入れ様だ。
宣伝活動には我が日本映画撮影監督協会も協力しなければならないところだが、非力な我が団体は座談会を機関誌「映画撮影」に掲載することくらいしか出来ない。しかるにそれがまだ発行されていない!まるで手遅れである!

案の定、初日の土曜日、渋谷Q-AXに行ってみるとガラガラで、撮影監督協会のメンバーの顔を見ることができなかった。あのねーーー、これを観なけりゃシネマトグラファーじゃないよ。
あ、ちなみに「シネマトグラファー」というのは「シネマ」と「フォトグラフィー」を組み合わせた造語で、映画カメラマン、もしくは撮影監督という意味で、アメリカでは数十年前から使われている。「アメリカン・シネマトグラファーズ」という月刊誌がASC(American Society of Cinematographers=アメリカ映画撮影監督協会)から1920年から出ているくらいだから。

それで映画の話。
あの、穏やかで優しい、僕の手を両手で握り締めるように握手してくれたハスケル・ウェクスラーが、映画の中ではとても厳しい親父で、誰からも「頑固だなぁ」いわれるカメラマンであることが意外な発見だった。
自分でも『アメリカ、アメリカ』などのドキュメンタリーを創っているハスケルとしては、それが息子であるがゆえに余計に厳しくなっているのかもしれない。「夕日の中を歩いている姿を撮りたい」という息子マークに対し、「今、俺が内心を語ろうとしているのだからそれを撮れ」と言って譲らない父親ハスケルの対立が延々と続く。
ミロシュ・フォアマンハル・アシュビーが、あまりの自己主張の強さに嫌気を刺し「もう二度と一緒に仕事したくない」と言っているところなど、この映画がなかったら知りえないことだと思うよ。

僕としてはもっと映画制作の現場に踏み込んだシーンをたくさん見たかったのだけれど、それはハスケルが事前に釘を刺していたし、一般的な観客にとっては親子関係の複雑さという観点の方が取っ付き易いのかもしれない。ハスケルも「俺を撮るなら愛人関係も言うぞ」という決意を示していたから、この映画はハスケルにとってもある程度満足できた内容になっているのだろう。「ある程度」というのは、こんな厳しいハスケルのことだから絶対に「とても良い出来だ」とは、口が裂けても言わないはずだ。

ハスケルが語る映像は『ヴィジョンズ・オブ・ライト』の中でも見ることはできる。でもそこでは映像に関してしか語っていないので、こんなに親子関係が厳しい人とは想像できなかった。親友だったコンラッド・ホールの息子が「父親を交換したかったね」と言っていたのには、思わず笑ってしまった。

監督のマーク・ウェクスラーが、たまたま他の仕事のために東京にいたので舞台挨拶もあった。穏やかそうな好青年だ。出口でも我々を見送っていた。僕はパンフレットにサインをもらいながら、25年前にコンラッド・ホールと共同で運営していたWEXLLER/HALLという事務所にお父さんを訪ねたことを話した。
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2007年01月19日

『炬燵猫』の映写チェック

去年撮影した低予算映画『炬燵猫』が1月27日から渋谷シネ・ラ・セットで公開されるので、今日は朝9時から映写チェック。

一般的に、映画が完成すると、現像所で0号試写、初号試写をして、プリントの明るさと色合いを微調整していく。そして、そのプリントが公開される映画館に配送されると、主要な映画館に出向いて試験的に映写機にかけてもらい、映写状態をチェックする。大体の場合、現像所の試写室よりも暗くて往生するのだけど、明るくすることが不可能な場合が多い。中にはわざと電圧を下げて、映写機のランプの寿命を延ばし、電気代もケチろうとしている映画館がある。撮影監督にとっては、映写技師と支配人を相手とするタタカイでもあるのだ。

それに比べてシネ・ラ・セットの支配人さんはとても親切な女性で、時代が変わったなぁと感動した。
もっともこの映画館は、もとはシネカノンという映画配給会社の事務室だったところで、そのために天井が低くて35ミリの映写機が設置できなかった。で、デジタル上映専門のユニークな映画館になった。
コケラ落としは中江裕司監督のドキュメンタリー映画白百合クラブ 東京へ行くだった。僕もちょっと手伝ったので、初日に行った。内装の仕上げが終わらず、慌しい開店だったな。

あのときは出たばかりのSONY PD150を使ったけれど、今回はP2カードに収録するPanasonicのHVX200という小型HDカメラ。ミニDVテープを使うHDV方式と違い、コマ間圧縮をしないので、編集でスピードを変えたり、合成したりするのが綺麗に上がる。24pNモードで撮影すると、ナント!スローモーション撮影も出来るのだ。小川王子監督が自分で編集していたんだけど、「とても後処理が簡単だ」と言っていた。

デジタル・プロジェクターはPanasonicのDLPが入っており、HDCam、DVCam、DVDを上映することが出来る。HDCamはキュービットにデータを取り込む。

『炬燵猫』を映写してもらうと若干暗かったので、「出力」を「高」にしてもらい、「シャープネス」を標準の「2」から「1」に下げてもらった。シャープネスを低くするとボケた映像になると思う人もいるかもしれないけれど、これは電気的な輪郭補正のことなので、高くしてもエッジがギトギトした見難い映像になるだけなのだ。解像力の良いレンズを使っているのだから「0」にしても良かったのかもしれない。

この映画はもう3000枚も前売り券が出ているんだって。前売りの好調と好興収とは必ずしも一致はしないものらしいが、嬉しいことは嬉しい。22日のプレミアショーには200席のところに2800名の応募があったそうだ。このユニークな映画がそんなに人気があって大丈夫なのだろうか?と、要らぬ心配をしている今日この頃です。
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2007年01月18日

東宝東和から『キングコング』へ 5

東宝東和と言えば…。

30年前、MGMが『キングコング』のリメイク版を製作していたのだけれど、配給する東宝東和に全然宣材が送られて来なかった。
それで、どういう経路で僕のところに電話があったのかは忘れてしまったけれど、ハリウッドに行って撮影風景を撮ってきてほしいということになった。

で、ミニエクレールと16ミリフィルムと三脚と私物のスーツケースを担いで、単身ジャンボに乗った。ロサンジェルス空港には先乗りしていた東宝東和の○○信次郎さんが出迎えてくれて、向かった先はホテル・ビバリー・ウィルシャー、超高級ホテル!

仮眠して夜になると、MGMのオープンセットに連れて行かれた。それから5年後に行ったときにはすでに住宅になってしまっていたが、MGMスタジオの横の道を挟んで、広大なバックロットがあった。門から入ると、かなり長い距離、レールが敷かれていて、NYCなんて書いてある客車が放置されていた。右手の高台を見ると、『サイコ 』に出てきたと思われる古い洋館が建っていた。
更に進むと、ナント!ニューヨーク・スタジアムのオープンセットが建てられていて、3000人のエキストラと500人の報道陣でごった返していた。
その中央には実物大?のキングコングが立っており、足元から延びているケーブルをたどっていくと、10人のオペレーターがレバーを動かして、キングコングを動かしている。もちろん、歩くことはできないんだ。体毛は馬の鬣を張ってあると言っていた。

このシーンは見世物として連れて来られたキングコングが暴れだし、観客が逃げ惑うというシーンだ。それを自走できるチャップマン・タイタンクレーンにパナフレックスを2台載せ、スタンド越しに移動撮影している。あるいはカメラを直接地面に置き、キングコングを仰角で捉え、カメラの前を逃げ惑うエキストラがシャッターするように撮ったりしている。どでかいクレーンにも驚いたけれど、カメラを三脚を使わずに、直接地面に置くという方法も初めて見たので、自分の固定観念を壊すのにとても役に立った。

朝方になると超高級ホテルに帰って寝て、夜に起き出すというのを3回繰り返した。この3夜しか撮影風景は公開されないのだ。

監督は『タワーリング・インフェルノ』『レマゲン鉄橋』などの娯楽大作を得意としていたジョン・ギラーミン! プロデューサーはあのカルロ・ポンティと並ぶイタリアの巨人ディノ・デ・ラウレンティス!!! 僕はこの二人のツーショットもしっかりと16ミリカメラに収めた。

このころ、ディノ・デ・ラウレンティスはMGMスタジオの中にプロダクションを構えており、オフィスを覗くとキングコングのデッサンなんかが並んでいて、興味は尽きなかった。キングコングに似た黒人を雇ったということで、新聞に騒がれたりもしていた。

2日目か3日目に東宝東和の信次郎さんと現地の映画情報レポーターの3人でランチをした。信次郎さんがそのレポーターに会わなければならない用事があったのだろう。その人の名は原田真人と言った。
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2007年01月17日

『パリ、ジュテーム』でおすぎと 4

今年初めて試写会に行った。

半蔵門線半蔵門駅で降りて、映画機材レンタルショップのナックの方に歩いて行く。最近はデジタル撮影の仕事が多いので、ナックに行く機会が少なくなっている。ちょうど1年前、長塚京三が出演した「住友信託銀行」のCM以来、35ミリフィルムの撮影はしていないんじゃないだろうか。『デスノート the Last name』もSONY HD F900を使ったデジタル撮影だった。
てなことを考えながら歩いていると、意外に近く東宝東和のビルがあった。今まで気が付かなかったなあ。新しくできたのかな?

で、『パリ、ジュテーム』+短編集と言えば、ちょっと年配の映画ファンだったら『パリところどころ』が思い出されるだろう。手渡されたプレスを見ると、やはり書いてある。「ジャン=リュック・ゴダールやエリック・ロメールも参加した、ヌーヴェルヴァーグの頂点を極めた映画『パリところどころ』から早や40年。その現代版ともいえる、新たなパリ映画の傑作がここに誕生した」と。

『パリところどころ』と言えば、思い出されるのは名カメラマン、ネストール・アルメンドロスだ。彼の著書「カメラを持った男」を読んでほしい。
アルメンドロスはスペインに生れたのだけど、バティスタ独裁政権を嫌った父親についてキューバに亡命、そこで映画学校に通ったけれど、あまりに革命的でない撮影方法を強要するのでニューヨークへ行き、また何かの事情でパリに行き、そこでスペイン語の教師をして食いつないでいた。もう二度とカメラを持つことはできないだろうなと思ったそうだ。
あるとき町を歩いていると撮影現場に遭遇した。しばらく見物していると、監督とカメラマンが口論を始め、カメラマンが帰ってしまった。しかし撮影は続行しなければならない。そこでアルメンドロスは「私もカメラマンです」と手を挙げた。
結局、アルメンドロスはそのストーリーだけでなく、他の監督の分のリテイクなど、ほぼ全てのストーリーに関わることになったそうだ。でも、ユニオンの関係上、彼の名はクレジットされていない。

まさにヌーヴェルヴァーグがアルメンドロスの登場を待っていたかのように、フランソワ・トリフォー、エリック・ロメールを始め、フランスの監督たちは先を争うように彼をカメラマンに採用する。
ハリウッドも黙ってはいなかった。テレンス・マリックの『天国の日々』、ロバート・ベントンの『クレイマー、クレイマー』などなど、忙しくパリとニューヨークを往復していた。
私も25年前、ニューヨークのアパートをアポなしで訪ねた。呼び鈴の前でずいぶん長くためらったが、意を決してついに押した。留守だった。『ソフィーの選択』でヨーロッパにロケに出かけていたのだ。
その後、手紙を出すと必ず返事をくれたけど、長くは続かなかった。意外に早く、天国からお呼びがかかってしまったのだ。

アルメンドロスについてはまたの機会に書くとして、『パリ、ジュテーム』に戻ろう。
正直言って、面白いストーリーが多い中で、あまり面白くないストーリーもある。18人の監督に発注し、出来不出来によって採用を決めるという訳にもいかなかったのだろう。それぞれ5分しか持ち時間が与えられていないので、長い映画の一部分という作り方が多く見られるのは、それはそれで良いとも思うけれど、ウォルター・サレス+ダニエラ・トマス篇やアレクサンダー・ペイン篇は「なんだかなー」という物足りなさを感じる。逆に凝り過ぎていて面白くないのが支離滅裂の酔っ払いクリストファー・ドイル篇。そこらへんを外すと★★★★★になったかも。
イサベル・コイシェ篇、我が諏訪敦彦篇、オリヴァー・シュミッツ篇などは感動しますよ。

諏訪敦彦監督と言えば、『ビリィ・ザ・キッドの新しい夜明け』ではカチンコを打っていた。こんな国際的監督の仲間入りをするなんて、とてーーーーーも嬉しい。

試写室を出ると、おすぎが宣伝部の人から感想を求められていた。おすぎは「吸血鬼の話なんか面白かったわ」と言っていた。僕もそう思った。ちょっと異色だけど、凝った映像処理が効果的だった。

おすぎと言えば、初めて会ったのは映画評論家として登場する前だった。旧知の映画評論家松田政男とエレベーターで乗り合わせ、聞きもしないのに「映画評論をしたいって言って、俺にくっついて来るんだよぉ。オカマ趣味だと思われて恥ずかしいよ」と言っていた。でも、やっぱり勉強して、今日の地位を築いたんだなぁ。
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2007年01月13日

『ドクトル・ジバゴ』が僕をカメラマンに 5

この映画を見たのは1965年だから、僕は高校生だった。

旧ソ連で発禁となったノーベル文学賞パステルナークの原作、『アラビアのロレンス』の名匠デビッド・リーン監督、最近亡くなったカルロ・ポンティ製作、フレディ・ヤング撮影監督、モーリス・ジャールの華麗な音楽「ララのテーマ」。

全てのカットに無駄が無い、完璧な超大作。いや、路面電車のポール(集電装置)のアップだけは無くても不都合は無いのに、せっかく作ったのだから入れたかったのかなと思った記憶がある。僕は一度見て、全てのカットを暗記した、と思った。

帝政ロシア時代のモスクワ。詩人としても有名になりつつあった医学生ユーリー・ジバゴ(オマー・シャリフ)は婚約者ターニャ(ジュラルディン・チャップリン=あのチャップリンの娘)とその両親の邸宅に住んでいる。そのセットが凄い。2階からは大通りを見渡せ、そこには市電が走っている。

この巨大なモスクワのオープンセットはスペインに建てたと記憶している。ディノ・デ・ラウレンティスと双璧をなすイタリアの大プロデューサー、カルロ・ポンティ(ソフィア・ローレンの夫)はこの頃、こういう全世界配給の巨編を次々と製作していた。

一方、学生革命家パーシャの恋人ララ(ジュリー・クリスティ)は脂ぎった弁護士コマロフスキー(ロッド・スタイガー)に手篭めにされ、ジバゴとターニャの婚約発表のパーティで彼を撃ち殺そうとする。
やがて、第一次世界大戦が始まり、従軍医師と看護婦という形でジバゴとララは再会し、惹かれあうようになる。ララはすでにパーシャと結婚していたが、パーシャは戦場で倒れる。
そのカットが印象的だった。70ミリ大画面にパーシャの割れた丸眼鏡がドスン!と落ちてくる。
戦場には厭戦感が漂い、兵士は動こうとしない。隊長が樽の上に乗って檄を飛ばす。一人の兵士が発砲し、隊長は樽の中にブザマに沈む。それがロシア革命の発端になるのだ。ちょっとした切っ掛けが大革命に至るという表現が面白いと思った。

戦争が終わり、モスクワに帰ると、豪邸は難民キャンプ状態になっており、ジバゴたちは内戦を避けて田舎の別荘に向かう。彼らを乗せたスシ詰めの貨物列車は理由も知らされず長時間停車したりする。貨車から降りて散歩していたジバゴは赤軍に捕まり、谷間に隠れるように停車している軍用列車に連行される。最後部のデッキから入ると、正面のデスクに座っている赤軍将校は、ナント!死んだと思っていたパーシャ。
向き合う二人を、カメラは横位置で撮っている。しかし、細長い客車の中ではこんなに離れてカメラを置けるわけが無い。写真部の部長をしていたのでレンズの画角は熟知していた。だからこそ、このカットが理解できなかった。客車に連れ込まれたけれど、時間経過を省略して、どこかの本部まで連れて行かれたのかなとも思った。
ま、要は客車のセットの壁をばらして撮影しただけのことなのだが、セットを知らなかった哀しさである。

別荘から馬に乗って町の図書館に行くと、そこでまたララと再会し、彼女の部屋で男と女の関係を続ける。が、ララは脂ぎった男コマロフスキーの情婦になっていたのだ。ある日、コマロフスキーがやって来て「自分の身がヤバクなったので極東に逃げる。ララは君にプレゼントしよう。パーシャが失墜したので妻であったララもヤバイ。受け取らないのだったら一緒に連れて行く」と言って姿を消す。

この、「女をあげる」とか、そもそも若い美人が出っ腹中年男の妾になるという感覚が純情童貞少年には理解できない、許しがたいことだった。しかし数年前、ビデオを見直してみると、それがとてもよく理解でき、感動さえ覚えるのは、自分が中年になった証拠なのだろう。
たしか、今は無きテアトル東京か有楽座で観たと思うのだけど、男女関係の機微が理解できなくても、『ドクトル・ジバゴ』は僕にとって素晴らしい映画だった。もちろん豪華なパンフレットを買った。そこには撮影のスナップ写真が載っていた。大きなカメラがドリーに載せられて、田舎道を走る馬車を併走移動撮影しているカットだ。僕はその写真を見て「カッコいいなあ、映画のカメラマンになろう!」と決意したのだった。
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