2010年11月30日

第一次福島「見立て」ロケ終了 3

本日で渡辺文樹組の第一次福島ロケを終わり、明日は大井川鉄道ロケのため静岡に移動する。僕が担当するのはそこまでで、あとは清村君がカメラマンに昇格して12月後半、また福島に来る。

数年前、ナイト・シャマラン監督が来日した特別披露試写会のとき、一瀬プロデューサーと話をしたのだけど、一瀬さんが「日本人には見立てるという文化がある」と言っていた。盆栽を大自然に見立てる。明らかにミニチュア、着ぐるみと判るゴジラを本物の大きさに見立てる。そういう文化と才能があるので、ハリウッド・ゴジラは日本で受けなかったという分析だった。

今回の福島ロケは見立てっぱなし!
白河の廃ホテルの瓦礫をシルバー人材センターの人たちに片付けてもらい、アメリカ大使館内部、アメリカ軍キャンプ、潜水艦内部、北朝鮮招待所外観、屋上、受付、部屋、無線室、特閣内部、金正日の部屋、駅の司令室、信号所などに見立てて撮影した。福島の教育会館のホールでもアメリカ大使館内部、訓練キャンプ、特閣内部、ヘリコプター内部!、シルバーさん並ばせてぺリポート!に見立てて撮影した。

数十人に及ぶ配役は自衛隊コマンドと拉致被害者に扮する約10名は劇団ひまわりからきているけれど、その人たちはそれ以外にも数役に見立てられ、掃除していたシルバーさんも軍服を着て、北朝鮮の将校はじめ、兵隊、通信技師、駅務員、足りない分の自衛隊コマンドとして活躍した。

今日は旅館近くの線路を北朝鮮の鉄道に見立て、はずしたレールをコマンドと拉致被害者が運ぶシーンを撮影したけれど、レールが無いので鉄パイプをそれに見立てた。

監督の言いたいことはビシビシと伝わるのですが、いったい、どういう映画になるのでしょうか?ある意味、とても楽しみです。
また、久しぶりのキヤノンスクーピックを使った16ミリスタンダード撮影で、監督のアナーキーな部分も含めて、エネルギーにあふれた30年前に戻ったような、とても懐かしい香りのする体験でした。
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2010年11月24日

HALTANさんへ 3

助成金出して本当に良かった

ここだけ取り出すと美談ですが、製作途中でスポンサーが逃げるような映画を公金で救ってあげるのって、やはりそれは違うと思うなあ・・・。

そんな映画、もう作らなくていいんだよ。どうせ封切っても回収できんのかって・・・。

・・・「極限の低予算化」「撮影途中でスポンサーがトンヅラ」、、、

日本映画はやっぱり終わってる。

それはもう直ぐ外の人間にも誰にでも分かるようになる。今はまだうわべの「邦高洋低」で気づけない。

(追記)

上の高間さんのエントリ中に出てくるIF社(アイデアファクトリー)ってのも・・・一応はゲームの会社らしいですが・・・。こういう会社がなぜ映画に出資するのか私はいまだによく分からない。やはり「映画製作」の実績は会社の信用になるという感覚が「コンテンツ系」企業にはまだまだ根強いのかもしれない。尤も現在は恐らくそういう感覚で出資していた会社(具体的にはTVとかCMとかゲームとかやってたようなトコ)の大半が不況でもう殆ど手を引いたのでは?

・・・もちろん(不況はともかく)「クズ映画が減る」ので拙ブログ的には日本映画からのスポンサー撤退は良い事です。マジでもっともっと撤退した方がいいよ。「節税」感覚その他甘い見通しで映画に出資する会社が多過ぎる。ゲーム系だと昔はセガやアスキーも映画に手を出してたんだよ(確かアスキーは外国映画の配給だけだったかな)・・・ホント、1970年代以降は色んな会社が日本映画に出たり入ったりしてきた・・・そうした入退出の新陳代謝もいよいよ途絶えつつあるけどね・・・(2010-11-13■[無題]・・・やっぱり日本映画は無くなります。id:HALTAN:20101113:p1) 



以上は私のブログに対するHALTANさんの反応ですが、『死にゆく妻との旅路』は「スポンサーがトンヅラ」したのではありません。製作幹事会社の経営が悪化して、製作現場に資金が流れなくなったのです。それは、他のいろいろな映画関係事業の資金繰りに失敗したためで、この映画の責任ではありません。この映画は作られなくてはいけない映画だったのです。だからこそ、朴木プロデューサーは必死に出資者を探し、それに応えてくれる会社や個人が現れたのです。決して「クズ映画」ではありません。おっしゃるとおり儲からないかもしれません。しかし、作られなくてはならない映画はあるのです。

ですから「公金で救われた」のは事実ですが、「トンヅラするような映画を公金で救った」という言い方はちょっと違いますね。「こういう映画を公金で助成できて良かった」と書くべきでしょう。

それから、「IF社」は「アイデアファクトリー」ではありません。勝手に注釈を入れないでください。イメージフィールド株式会社をぼかした表現です。

「高間さんともあろう人が、こんな低予算映画を」と言ってくれるのは嬉しくもありますが、私だからこそ!この作られるべき映画を完成に導けるのです。経済的状況がもっと良くなればそれに越したことはありませんが、私は充分に満足しています。
私は中高予算の娯楽作品も数多く撮ってきました。今、そのジャンルは私より10歳若い世代のカメラマンの活躍する場所になっています。還暦も過ぎた私の役割は、これからの若い監督の映画作りを技術面から支えることだと思っています。それが唯一、非力な私にできる日本映画のレベルアップなのです。そして、その監督が次にまた撮ることができれば(できればもう少し高予算の)またこの年寄りに仕事が来るかもしれないじゃないですか。ね。
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『JAZZ爺MEN』編集快調! 4

イメージフォーラムの授業があったので、福島ロケから東京に戻った。交代カメラマンを探すのに苦労したけれど、ギリギリで猪本雅三カメラマンを捕まえることができ、「すみません、今すぐ新幹線に乗って郡山に来てください。で、明日と明後日、僕の代わりをやってください」という無理な注文にも快く応じてくださって、更に白河の廃ホテルでの撮影が長引いて、郡山駅で3時間も待たせてしまったのだ。
猪本さんは大森一樹監督が「世界の猪本」と呼ぶカメラマンで、河瀬直美監督作品などで多くの国際映画祭参加作品を担当している。

東京に戻ったついでに『JAZZ爺MEN』の編集室に顔を出すと、映広スタジオの地下室で宮武由衣監督がファイナルカットプロと格闘していた。
宮武監督の編集方法は、一般的な、ザッと全体を繋いでから細部を吟味していく形ではなく、頭から1シーン1シーン厳密に完成させていく、完璧にしなければ次のシーンに進めないというタイプなので、かなりの集中力を必要とする。
しかし、この映画の完成を人一倍楽しみにしている映広の岩田会長は「気にしなくていいからね」と言いながら彼女の後ろに立つ。これが気にせずにいられるほど宮武監督に「鈍感力」は無いのだ。まして録音の瀬谷さんに「人がバレてんじゃないの!」(だからこれはNGカットなんだ!)とか「オレ、そういうカット嫌いなんだよなあ」とか「普通は川に入って撮るモンだよな」とかトンチンカンな雑音を発せられたのでは妨害以外のナニモノでもない。それよりも、このマイクの影をどうしてくれるんだ!

本庄の八百屋から出てきた商工会議所事務局長役の酒井敏也さんが、中山道を横断して、向かいの和菓子屋さんに入るシーンがある。朝一番の撮影だったので冬の太陽は低く、自分達の影が画面に入らないよう、カメラはローアングル、スタッフには全員しゃがんでもらった。テイク1はタイミング悪く車が2台も通過して、酒井さんがなかなか道路を渡れず、おまけに夏のシーンなのに正面からモコモコに着込んだオバサンの自転車がやってきた。なので「もう1回撮ろう!」。で、問題なくテイク2でOK。と思ったら、編集になって電柱やガラス戸や「どらQ」の幟にマイクの影が動いているのが発見された!

あんなに注意して撮ったのに、テイク2でなぜこんなにアカラサマに出ているんだ!少ないとはいえ、10人近くのスタッフが見ていて誰も気が付かなかったのだ。あれだけ影が出ないように注意していたのだし、テイク1には影が無かったので、誰もが安心しきっていたのだ。
カメラを覗いている僕も、モニターを見ている監督も、人物に注意が集中しているので、意外に気が付かないものなのだ。マイクそのものが出るときにはそういう予感があるので、即座に「マイク!」と叫んでカメラをストップさせるのだが、マイク影は照明部や撮影助手が発見することが多い。でも、このときはみんな油断していたのだ。

ビデオで撮影する場合、普通はVEやスクリプターがモニターをチェックしていたり、撮ったカットを再生したりするものなのだが、今回はそういうスタッフがいないし、時間節約のため、問題ないと思われる限り、再生チェックもしなかったのだ。それがアダになった。
しかし、「監督、見てなかったんだ」って、そりゃ録音部の言う台詞ではないだろう。

俳優さんたちからは監督に応援の電話があったり、感動と賞賛のメールが来たりするそうで、清水章吾さんは自分のブログに紹介してくれたり、音楽監督の磯田健一郎さんはとうとう宣伝活動にまで乗り出したり、『JAZZ爺MEN』へのみんなの期待は高まるばかりなのである。笑いと涙の感動は、ゆっくりではあるけれど、順調に尺を伸ばしていますよ。
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2010年11月15日

『JAZZ爺MEN』撮影終了! 4

クランクインして1週間、昨日クランクアップして東京のアパートに戻ってきた。

普通だったら4週間はかかると思われる撮影を7日間で終わらせてしまったその勝因は、毎晩深夜までに及ぶ監督、助監督とのカット打合せではないかと思う。ABカメラでどういうカットが同時に撮れるか、同じ演技を何回してもらえば成立するか、細かく詰めて行った。
古来、日本ではフィルムが高かったので、監督が細かくカット割りした台本に添って、アップならアップ、フルサイズならフルサイズと、必要な部分だけ撮影し、それを繋げば編集完了!ほかの選択権無し!というスタイルだった。
しかし、デジタルでの撮影では、フィルム代、現像代を考える必要が無いので、一番のコストは「時間」だと考えた方が良い。1カット1カット細かく区切って撮影するよりも、必要なサイズ、必要なポジションをなるべく続けて撮った方が効率的なのだ。そうすれば、俳優のテンションも一定にできるし、労力も少なくて済む。
同じデジタルでも小型カメラの方が有利だ。カメラポジションの変更が早い。狭い部屋では大型カメラよりもずっと理想的な位置にカメラを置くことができる。

そんなわけで、予定表には「24時終了」と書いてあっても15時半に終わってしまったこともあった。「毎日こんなに早く終わっても、することが無いじゃないか!」という声も俳優からは上がった。

で、クライマックスの屋外ジャズコンサートのシーンも勝算が出てきたのだけれど、やはりカット数の多さには勝てず、準備は5時から、撮影は8時から始め、何カットか諦めたにもかかわらず、日が暮れてもデイシーンを撮る破目になってしまった。曇天が幸いし、時間が経過しても光線状態が変わらないのはラッキーだったけれど、さすがにライトが目立つようになってしまっては、カラコレでどれほど直せるものなのだろうか。

その慌ただしい撮影の中でも、俳優陣が感動の表情を見せてくれたことは敬服に値するものだと思う。皆が「世界の映画祭に行けるようになるといいね」と言ってくれたり、河原さぶさんなどは「これ、DVD作るの?冥土の土産に欲しいな」なんて言っていた。

井上順さんは今回の撮影のために、初めてアルトサックスの練習を始めたのだけれど、1時間でドレミファソラシドが出るようになり、下手ではあるけれど「ムーライトセレナーデ」をふけるようになったのだ。川原で病気の奥さん(岡まゆみさん)に吹いて聞かせるシーンでは、僕も感極まってパン棒を握る手が震えるので、カメラから手を離して撮影した。

宮武監督が自分でする編集が楽しみなのだけれど、今日から渡辺文樹監督の新作の撮影で福島に行かなければならず、本当に残念!
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2010年11月06日

感涙の『死に妻』初号試写 1

昨夜18時30分から五反田IMAGICAで『死にゆく妻との旅路』の初号試写が行なわれた。

この映画は昨年の8月2日にクランクインしたものの、8月10日には幹事会社からの入金がストップして早くも資金難に見舞われた。朴木浩美プロデューサーは親からの借金などで急場をしのぎ、文化庁からの助成金は幹事会社の借金返済に消えてしまうことを恐れて申請を取り下げざるを得なかった。
秋の1泊2日の実景ロケは塙監督のポケットマネーでやり繰りした。
1月の5日間の冬ロケは三浦友和さんからの○○で実現することができた。
そして、幹事会社を近年成長著しいIF社に変わってもらい、再度、文化庁に映画事業助成金を申請し、交付されることが決まった。

だからこの日は、100名近くの関係者の中に、文化庁から○○審議官と○○審査員が顔を見せた。

冒頭の挨拶で、朴木プロデューサーは苦難の多くは語らなかったが「私はプロデューサーとして名前を連ねていますが、本当のプロデューサーは塙幸成監督と三浦友和さんです」と言って会場の拍手を受けた。監督にとってもここまでの苦難の道が思い出され、すでに感涙状態となってしまった。

イマレコのシネマスコーププリントは、テストのときの若干の心配は杞憂に終わり、大した画質劣化も無く、スーパー35mmからのシネマスコープと堂々勝負できる画質を持っていたし、数年前には失望した色の出方も申し分なく改良されていた。フジフィルム販売会社のT地さんは「新ポジが貢献しているのではないか」と手前味噌を言っていたが、テストのときと現在との間には確かにポジの改良があったので、IMAGICAの技術向上と相俟って、良い相乗効果が出たのだろう。

技術者と若干の色修正打合せのあと、スタッフ約20名は駅の近所の居酒屋に移動した。すると既にそこには○○審議官と○○審査員が呑んでおり「いやー、語らずには帰れなかったんだ。出演者が2人だけだけど、風景がもう1人の出演者だったね。助成金出して本当に良かった」と本気で感動してくれたようだった。
録音技師の山方さんが「ダビングのとき、技術者が号泣していた」なんていうエピソードを披露したりして打ち上げの方も盛り上がり、時計を見るとナンと0時11分!「電車がなくなるから、先に帰ります」と飛び出した。貧乏カメラマンにタクシー代は無いのだ。

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2010年11月05日

『JAZZ爺MEN』本読み 5

11月3日、新宿の角筈市民センターの集会室を借りて、宮武由衣監督の映画『JAZZ爺MEN』の本読みが行なわれた。

この映画は埼玉県本庄市の商工会議所とフィルムコミッションが地域振興のために製作するものだが、依頼を受けた宮武監督のシナリオが面白いということで、低予算映画であるにも拘らず、井上順、河原さぶ、上田耕一、徳井優、ふくまつみ、宮下ともみ、川村亮介、水野神奈、黛英里佳、酒井敏也、岡まゆみ、清水章吾(敬称略)という実力俳優陣が参加してくれることになった。

町興しのため、ショッピングモールの支配人と商工会議所の事務局長が中学の音楽教師に頼んでジャズバンドを作ろうとするが、集まったのはピアニスト以外はド素人の高齢者ばかりで、自分勝手なことばかり言って練習が進まないというお話。

テーブルをコの字型に並べ、助監督がト書きを読み、俳優たちがセリフ部分を読んでいく。読んでいくと言っても棒読みではなく、すでに芝居になっている。だから聞いているだけでもかなり感動して、涙が出そうになる。それでもこの新人監督は更に注文をつけていくのだ。

製作費が1000万しかないので、駅前のホテルに泊まれるのは俳優だけ。それも半額に値切り倒して。スタッフは町の不動産屋が所有する空き家とマンションを借りて雑魚寝する。撮影期間は1週間。『死にゆく妻との旅路』同様、Panasonic HMC155を2台使って、効率良く撮影しなければならない。

もともとは早稲田大学大学院安藤研究室の学生が撮るはずだったのだが、2本も企画が頓挫してしまったので、急遽、卒業生で本庄では『精霊のモリ』という実績のある宮武由衣に白羽の矢が立てられたのである。それが6月のことで、何を撮ろうかという相談が来た。僕は『精霊のモリ』のときの森林の印象が強かったので、都会の引きこもり青年が森林ボランティアに来て、聾唖の少女と出会うような話はどうだと言ったのだけど、ストーリーが発展せず、地元も「森林なんてどうでもいいんだ!」と協力してくれないことがわかった。

で、ウニクス上里というショッピングモールで定期コンサートを開いている社会人ジャズバンドを取材し、その指導者の話から『神泉中学★音楽部』というシナリオを宮武監督は3日で書いた。これがかなり感動的なストーリーで、西岡徳馬さん始め、出演したいという俳優さんも続出したのだけど、しかしこれは500万という当時の予算ではどうやっても実現不可能だという結論になった。

で、もっと音楽シーンを少なくして、しかもジャズの話にしてくれという無理難題を押し付けられ、悩んだ挙句に2日で書いたのが『JAZZ爺MEN』なのだ。機材車を借りる予算も無いので某プロダクションの阿久根社長に相談すると「只で貸してあげるよ」というありがたいお言葉。「じゃ、ついでに製作資金の足りない分を」「あ、出資集めてあげるよ」ということで、計1000万となったのである。

こういう自主映画にとって幸運なのは、すでに2月公開する映画館が決まっていることで、それも300席もあるシネコンの大型スクリーンなのだ。キネコする予算もないので、ブルーレイに焼いてDLP上映する。シネマスコープのテスト試写の結果も良かったので楽しみだ。願わくば、本庄と川越だけでなく、埼玉全県、日本全国へと広がっていくことを!
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2010年11月02日

東京国際映画祭クロージング 3

イモだった。立食パーティの丸テーブルの中央の皿に盛ってあるのはアーモンドスライスがこびり付いた大学イモだった。
普通は料理が並べられる角テーブルにはオードブルの小皿が並べられていたのだが、スポンサーであるTOYOTA重役の、自社PRが延々と続く乾杯の挨拶が終わる頃にはほとんど食い尽くされていた。チョコレート菓子が1個残っていたので手に取ると、小さな丸いケーキが半月状にカットされて中身が見えている。「なんか変だなー」と考えていると、隣りで食べている女性が「それ、私のかじりかけ」だって。なんて行儀悪い人だろう。とりあえず唾つけておこうという考えなんだろうか。さもしい。

そのうちメインの料理が運ばれてくるだろうと待っていたが、ついにそれを見ることはなかった。そう言えば「立食パーティ」とは書いてなかったな。「感謝の夕べ」だった。食事ができると思った貧乏人の勘違いだったのだ。貧乏人は誰も手をつけないイモを食ってお腹を満たした。

この会場に来る途中、前を歩いていたのが脚本家の高山由紀子さんで、久しぶりにお会いした。僕のデビュー作『月山』の脚本を書いた人で、「盛岡映画祭で僕の噂をしてたんだって?」と言うと「あの時、偉そうにしてたから、経験豊かな人だと思ったら、初心者だったんじゃない。損しちゃった」と返されてしまった。33年前の話だ。

会場には懐かしい顔が。
今は公式プログラムの制作に当たっている小出幸子さんの付き合いも古い。「ぴあ編集部のときからだっけ?」「いえ、シティーロードです、商売ガタキの」

1週間ぶりの人たちも。
原田眞人監督御夫妻、河野通和新潮社編集長と村上典吏子プロデューサーの御夫妻。
背中をつつかれて振り向くと、授賞式では98歳の新藤兼人監督の車椅子を押していた新藤風監督のにこやかな顔。「自分の監督作は?」「おじいちゃんの面倒見なけりゃだから、ちょっと無理」。
釜山映画祭ではグランプリを取った教え子のエドモンド、マレーシア人。まだ料理を待っている。
サングラス掛けて、どこの親分さんかと思うと千野皓司監督。
東宝映画の富山省吾さんは4月で社長を退いたそうだ。「社長の次は会長じゃないの?」「貧乏会社に会長なんてあるわけないじゃないですか。築地のアカデミー賞協会に行っていますよ」。
東宝社長の高井英幸さんは「高間君、久しぶりじゃないか。ちっとも変わらないねぇ」「ナニ言ってるんですか、1週間前エスカレーターのところで会ったばかりじゃないですか」

なんて言いながらバス停で渋谷行きのバスを待っていると、行きのバスでも一緒になった女性映画祭ディレクターの大竹洋子さん、それに映画ジャーナリストの野島孝一さんと一緒になり、最後部の座席に並んで座った。大竹さんが「審査員が揃いましたね」と言った。そうそう、この3人は某外国語映画賞の選考委員だったのだ。揃いも揃って貧乏だね。タクシーくらい乗れよ。でも、いいのだ!東京国際映画祭はエコ映画祭なのだから!
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