2011年12月29日

イルカちゃんインタビュー 4

《JAZZ爺MEN》の宣伝になるからというので、半ば強制的に始めさせられたFacebookなのだが、宣伝ばかりではなく、人生が変わってきたような感じがする。そして最近、ARTIST IN JAPANというグループに勝手に登録されてしまった。その記事を読んでいると「12月25・26日に東京と郡山で撮影してくれる英語が話せるドキュメンタリーカメラマンを探してます」という募集があった。25日と言えばクリスマスだけど、もう年寄りにはあまり関係がない。

郡山に行くということは多分、原発事故関係だろうと思った。
東日本大震災があって、知り合いの中にはボランティアに行った人もいるけど、僕には車もないし、行動する資金もないし、義援金すら出していない。自分の能力を生かして役に立てるのはこれがチャンスかと思って応募してみた。
幸か不幸か、他に手を挙げた人もいないようで、とても喜ばれてメールで詳細を確認しあった。
監督はIlouka Billyという名の日本人とフランス人のハーフで、お祖父さんが郡山に住んでいるので、原発事故後の生活の変化などをインタビューしたいということだった。カメラはいつものPanasonic HMC155を持っていこうと言ったのだが、PAL方式は使えないので、EOS 7Dを持っていくからそれで25p撮影をして欲しいという返事が来た。

25日は東京に住んでいる叔母さんにインタビューするというので、10時に赤坂の氷川神社で待ち合わせた。
やってきたのは22歳のの可愛い女の子とそのお母さん。Iloukaは日本語のイルカだったことが分かった。
叔母さんというのはお母さんのお姉さんで、旦那さんはイワンさん。5歳くらいの女の子も一緒に連れてきた。すごく国際的な家系だ。イワンさんもインタビューに加わることになり、女の子はイルカちゃんのお母さんが子守していた。3人は英語で話す。食品に含まれる放射能の心配が話の中心だった。面白かったのは、買った商品を3,800円で検査してくれるスーパーがあるという話だ。イワンが「買ってから?買う前じゃなくって!」と突っ込んでいた。

26日は東北新幹線で郡山まで行き、駅からタクシーで祖父母の家に。お祖父さんは元NHKの記者で、今でも毎朝、朝日新聞を隅から隅まで呼んでスクラップしている。お祖母さんは絵を描いている。イルカちゃんとは9年ぶりの再会である。

しかしこの日は2時に俳優の村本明久君の伝手で何人かの被災者が仮設住宅の集会所に集まってもらっているので、お祖父さんの車を借りて、まず駅の近くの仮設住宅に移動。行ってみると、村本君の知り合いの先生が一生懸命集めてくれて、ごった返す有様になっており、そこに僕が頼んだCMディレクターのご両親も加わって収拾がつかなくなってしまった。で、ご両親には頭を下げて待ってもらうことにして、仮設住宅で待たせているお年寄りを取材。狭い。四畳半2間にキッチンというのだけれど、本当に四畳半あるのだろうか。イルカちゃんがフランス語で質問して、お母さんが日本語に通訳し、お爺さんがそれに答えて、それをお母さんがフランス語に訳してイルカちゃんに伝え、イルカちゃんは考えて次の質問をするという段取りなので、時間ばかりかかる。

もう1軒の仮設住宅を訪問して集会所に戻ると3時過ぎになっていて、一人はもう帰らなければならないと言うのでその男性は諦め、富岡町から避難してきた図書館長と彼を受け入れた郡山の先生にインタビュー。隣の部屋の保育児童がうるさいけれどどうしようもない。図書館長は今は東京の息子の家に世話になっていて、4時の新幹線で帰らなければならない。学童保育の児童が次々やって来る。もう、その部屋も使えないので、ディレクターのご両親には寒空の下でインタビューすることを了解してもらった。自分の畑でとれた新鮮野菜を出すのがウリの店なのに、それができなくなったから他所から買わなければならず、採算が取れなくなったそうだ。

祖父母の御宅に帰る途中で陽は暮れて、夕食前にお祖父さんのインタビュー。政府の対応の悪さなどを話していた。
イルカちゃんは時差ボケと長旅の疲れで、お祖母さんのインタビューを翌朝に延ばすことにし、湯豆腐の夕食をいただいた。

お祖母さんの話が興味深かった。地震の直前、窓を見ていたら空が真っ黒になり「お父さん、なんか変だよ、何か起こるんじゃないかね」と言ったあと、裏山から田んぼにヌルヌルという感じで雪が下りてきて、しばらくしたらグラグラ揺れ出したという。原発事故の後、除染効果があるからひまわりを植えると良いと言われて、畑1枚ひまわり植えた農家もあったけれど、そのひまわりも家の庭のひまわりも実を付けずに黒く萎んだこと。いつもなら柿やナンテンの実まで食べに来るツグミやヒヨドリが全く見かけなかったことなど・・・。
どこかに引っ越そうという考えはないんですかという質問には、「もう歳だから、新しいところに行って馴れない生活をするのも難儀だからここで暮らすよ」
最後にパーソナルな質問だと言って「私が生まれてどうでしたか?」と聞くと「不思議なことがあったんだ。あんたのお母さんはフランスで出産のために入院して、私はここで絵を描いていたんだ。そしたらお腹がグッと動いて。後で聞いたらその時間にあんたが生まれたんだって」

流行語大賞が「絆」だそうだが、このインタビュー、絆を強く感じざるを得なかった。
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2011年12月13日

新藤兼人賞上映会 4

今日、アスミック・エースの試写室で、新藤兼人賞金賞の《死にゆく妻との旅路》と銀賞の《エクレール・お菓子放浪記》の記念上映会が開かれた。

《死にゆく妻との旅路》はもう何回も見ているけれど、久しぶりにまた見てみようと思った。
故・宮島義勇カメラマンは「自分がやった作品は公開されて半年間は褒めろ。それ以上褒めていたらお前は馬鹿だ」と言っていた。つまり、作品を作るということにおいては監督と共犯なのだから批判はするな。しかし、公開が終わって数ヶ月も経てばいろいろ反省点が見えてくるはずだろう、と言いたかったんだと思う。そういう覚めた目で自分の映像を見てみると、「いいなあ、どうやって撮ったんだろう」という自画自賛じゃなくって、単なる健忘症なんですが、そう思うカットと、「どうしてもうちょっと丁寧なオペレートをしなかったんだろう」と思わざるを得ないカットがあった。時間が無かった、機材が無かった、条件が悪かった、いろいろ言い訳はできるけど、今自分に言いたいのは「もうちょっと落ち着いて考えろ!」だ。「今考えれば、ああすれば良かった、こうすれば良かったと思うじゃないか。だったらその時思い付け!」だ。反省…。

《エクレール・お菓子放浪記》は前から気になっていた作品だった。
実は《JAZZ爺MEN》の上映先を探していたとき、文化庁のS伯調査官から「シネマとうほく」の鳥居明夫さんに電話するように助言をもらった。さっそく電話してみたが、時期が悪かった。震災間もないときで、まだFAXも使えない、パソコンも使えないという状況だったのだ。
いろいろ調べてみると、《ふみ子の海》とこの《お菓子放浪記》を製作・上映して、そのときの大手の映画よりも良い観客動員をしていることを知った。その影には並々ならぬ努力と熱意があったと想像に難くない。しかし、なかなか見る機会が無いし、授賞式で近藤明夫にお会いしたら《サンクチュアリ》《ムルデカ》の藤由紀夫監督の先輩だといういうことが分かり、タダナラヌ縁を感じていたのである。

新藤兼人監督がおっしゃったように「後半が長い」とは感じなかった。ただ、題名にある「エクレール」は登場しないし、「お菓子放浪」もしない。戦中戦後を生き抜いた孤児の話だ。近頃、スイーツを題材にした映画が多いけれど、お菓子なんか無かった戦争中に、どう少年とお菓子の話が展開するのだろうという期待は裏切られた。でも、石田あゆみ「婆さん」が凄かった。林隆三「座長」が良かった。主人公の明夫少年の歌が本当に上手かった。後半、ジワジワと涙が出てきてハンカチを出してゴシゴシと顔を拭いた。
それにしても感心したのは、ローカル映画が豪華なことだ。大勢のエキストラ、これは石巻の人たちの協力があったからだろうと思うが、その大勢にその時代の衣装を着せている、それだけでも貧乏に慣れた僕には感心してしまうのだ。映画館のセットもオープンに建てて、その焼け跡も再現している。堂々たる映画だった。
予算を聞いたら1億2千万!うーん、《死にゆく妻との旅路》の約2倍、《JAZZ爺MEN》の12倍だ。その製作費を集めたということだけでも凄い!この「ダブル明夫」路線、次なる展開、頑張って欲しい!
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2011年12月03日

連チャン授賞式 5

一昨日と昨日、授賞式で東京會舘通い。

一昨日12月1日は第56回「映画の日」で、永年勤続功労賞というものをいただいた。「40年以上の永きに亘って映画の仕事に携われ、今日の映画事業の進展に貢献され、なお映画界に於いて活躍されているその努力と功績は…」ということなんですが、ウチらは団塊の世代なので、66名も該当者が会場に並んでいるのだ。カメラマンは浜田毅、佐々木原保くんら4名、監督は後藤幸一さん1名。でも、中にはナントカカントカ株式会社不動産事業部なんていう人もいるんだけど、それも映画界と言えるのだろうか?
こういう賞があるということは助手の頃から知っていたけど、自分が貰うようになるとは想像できなかったな。Facebookにはたくさんの「おめでとう」メッセージをいただきました。お礼申し上げます。

昨日は「新藤兼人賞」の授賞式。これは独立プロ54社が加盟する日本映画製作者協会のプロデューサーが選ぶ賞で「この監督と仕事をしたい」「この監督に映画を撮らせたい」と思う新人監督に与えられる賞なのだ。この場合の新人監督という定義は長編映画3本までの監督を指すので、《死にゆく妻との旅路》で金賞をもらった塙幸成監督も、《エクレール・お菓子放浪記》で銀賞をもらった近藤明夫監督も、新人というよりもベテランと言った方がイメージに合うくらいなのだ。
新藤兼人賞とだから、トロフィーと賞金目録は新藤兼人監督から渡される。ナント100歳!孫の新藤風監督に車椅子を押してもらい、マイクを持ってもらって選評を話すのだが、ボケてません!内容を正確に覚えていて、的確なツッコミを入れてくる。《死にゆく妻との旅路》に関しては「ドキュメンタリーの手法を使っているが、自分もやってみたい。半分くらいは成功している」とおっしゃった。他人の映画を褒めたことがないと言われる新藤監督としては最大限の賛辞なのである。《お菓子放浪記》に関しては「後半が長い」とおっしゃって場内の笑いを誘った。「金賞の《死にゆく妻との旅路》は縦に進んでいくが、銀賞の《エクレール・お菓子放浪記》は横に進んでいく」というような分析も見せた。

脚本の山田耕大さんも加わって新藤監督と記念写真を撮ったのは家宝となるだろう。《JAZZ爺MEN》でお世話になった松竹の秋元編成局長はじめ、業界のいろいろな人とも久しぶりにお会いできたり、楽しいパーティが続いたのであった。

その後我々は国際フォーラムのレストランに移動して、塙監督の驕りで豪華な二次会を開いた。ふわふわの巨大オムレツなんぞを食べていると、なんとそこに三浦友和さんがドンペリを抱えて現れた!そして富山出身の朴木プロデューサーも絡んで《RAILWAYS》の話になり、富山映像祭の話になり、鈴木ラインプロデューサーの話から《6時間後に君は死ぬ》の話になって、その時の共同監督の高野和明さんの話になって最近のベストセラー『ジェノサイド』の話になった。友和さんは「10年に1本の傑作だ!映画化するにはハリウッドしか無い!」と手放しの褒めようだった。高野和明さんは映画監督になりたかった人で「映画監督になるには原作者になるしかない」ということで小説を書き始めたと言っていたが、『ジェノサイド』は映画化不可能な小説を目指したそうだと友和さんが言っていた。

ワインを10本くらい開けて、デザートにコーヒーまでご馳走になって、忘年会も塙監督の驕りでということになった。「賞金の100万円を使い果すんだ!」と叫んでいたが、残金が唯一《死にゆく妻との旅路》のギャラとなるそうなんで、監督、安いところにしましょうよ。
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