内村鑑三の信仰と伝道−公開日記から−

「内村鑑三の信仰と伝道」を公開日記を転載することで表します

お知らせ

(2016年4月28日更新)

 このブログは一つの冊子だけで構成されています。
 投稿は全て終わっています(2015年2月25日完了)。

 ホーム(目次)とカテゴリーをもとにお読みください。

 冊子を書いた動機は「はじめに」に書きました。

 編著者 今泉 芳夫(本名) 略歴
 連絡先 imaizumiy@air.ocn.ne.jp 

 コメントはお受けしますが、ブログには表示しません。ご了承願います。
 リンクフリーです。

(冊子について)
 冊子と書きましたが、現時点で冊子の形で印刷はしていません。
 B5 32行×40字で101枚(表紙含む)、左上閉じ、2分冊、で、印刷済みです。ご必要な方はメールください。 実費(残り2冊、送料込みで700円、送金手数料別)でおゆずりいたします。

 ホーム(目次)

目  次

お知らせ

はじめに         
序章 内村鑑三の略歴など
 1.内村鑑三の略歴 
 2.私と内村鑑三
 3.この冊子の構成について 
 4.内村鑑三の本の探し方
第一章 信仰から得られること
 1.勝利の生涯(1)
 2.勝利の生涯(2) 
 3.信仰で生き返る 
 4.信仰で力を得る
 5.信仰で日常が平安 
 6.信仰で身が守られる
 7.信仰で迫害も
第二章 信仰の特徴
 1.義
 2.救いは信じることで 
 3.罪を認めて神を仰ぎ見る
 4.聖霊がくだる
 5.神に召されて動く
 6.神への信頼
 7.神の審判
 8.来世
 9.再臨わかって聖書わかる
第三章 信徒のあり方
 1.信者は希望を語れ
 2.信仰は表白せよ
 3.伝道心あって本当の信仰
 4.信仰箇条より誠実、公平
 5.おのれよりおのが地方を愛せ
 6.他人の罪をになえ
 7.宗教のみに没頭するな
 8.内村の教会観
第四章 伝道の目的と方法 
 1.人を一人一人助けること
 2.日本人に良心を作る
 3.一人の真の信者を作れれば
 4.伝道は聖書を教えることで
 5.キリスト教の伝道は表白で
 6.伝道の秘訣は個人的接触
 7.最大の罪は改宗主義
 8.おれを見るなキリストを見よ
 9.なぜ内村に人が集まったか
第五章 伝道の難しい人と有望な人
 1.高等教育を受けた者
 2.思想・芸術の人
 3.近代人および武士道なき人
 4.田舎人など
第六章 伝道上の諸問題
 1.外国教会からの金銭的独立
 2.教会の内村攻撃
 3.内村の教会批判
 4.弟子との葛藤
 5.相談事を持ち込まれて 
 6.相談に答えて
 7.独立伝道のつらさ
第七章 その他の事
 1.高弟塚本虎二との訣別
 2.総掛かりで不健康に
 3.内村のやさしさ
 4.内村の経済状態
 5.友達を失うこと
第八章 伝道と治療は車の両輪?
おわりに
編著者略歴

はじめに

はじめに

 私は24才から内村鑑三の本を読みはじめた。そして、ほかの本での勉強とあわせてキリスト教を学んだ。20代の終りころには信仰の力を感じ、自分で自分をキリスト者だと認めることになった。そして、その後の人生では、信仰の力もあって、仕事などで世のなかに貢献することができたと思っている。
 しかし、いま、過去を振り返ると、私は、信仰や聖書のことを、人に伝えることは不十分であった。そこで、遅まきながら内村を紹介する冊子を作り、かつ、ネットで公開しようと思った。
 この冊子は、晩年の内村の公開日記から、信仰と伝道に関するものの転載が中心となっている。私は多数の日記から、内村をよく理解できそうなものを選択した。それだけで作ったものであるが、この冊子がひとつの契機となって、内村が、より多くの人に読まれ、また聖書が、より多くの人に読まれることを願っている。
 この冊子を作るきっかけの一つは、知人の中本邦夫氏のホームページ『コイノーニア』(無教会主義キリスト者の著作から)である。あるとき、ホームページはけっこう反響があると聞いた。それなら自分もと思った。
 この冊子は、当初、日記を少しだけ紹介し、軽くすませようと思っていた。ところが、内村研究の本をいろいろ読んでいくなか、新保裕司氏と富岡幸一郎氏の本に出会った。新保氏は「内村鑑三は……「近代日本の支柱」です」と言い、富岡氏は「内村と出会うことで、逆に日本を発見した」と言っていた。私は「そうなのか」と思い、それならもう少し力を入れようと思った。その結果、当初想定の何倍もの量となった。
 内村を研究する数人の非キリスト教の学者は、内村の本はキリスト教徒でなくても、問題なく読めると言っている。もちろん、キリスト教や聖書にうとい方は知らない用語に出会うと思うが、大意の把握には影響ないということだと思う。
 この冊子が内村というキリスト者のものだということにこだわらず、部分的にでも読んでいただければ幸いである。

2015年2月 今泉 芳夫



(注)文中の新保氏の発言は『内村鑑三』(別冊『環』18)の 6頁、富岡氏の発言は『日本の覚醒』の15頁


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1.内村鑑三の略歴

序章 内村鑑三の略歴など

1.内村鑑三の略歴

 内村鑑三 キリスト教伝道者、思想家

(誕生から学校卒業まで)
 江戸時代末期(1861)に高崎藩(群馬県)武士の長男として江戸で生まれる。 6才から12才までを高崎、石巻、高崎ですごし、その後、東京の英語学校を経て、17才で札幌農学校(北海道大学の前身)に入る。同校で水産学を専攻、アメリカ人クラークの影響でキリスト教徒となっていた 1年先輩の学生たちの導きで、キリスト教にであい信徒となった。

(就職から留学、帰国まで)
 農学校卒業(1881、明治14)後、北海道や東京で官庁の水産部門等で働く。この間、友人らと札幌独立教会を設立。24才で浅田タケと結婚、間もなく別居(後離婚)。その後、慈善事業を学ぶ等のため渡米(1884)。児童白痴院、アーマスト大学、ハートフォート神学校で過ごす。アーマスト大の時に学長シーリーの教えで「神を仰ぎ見る」信仰を身につけた。

(北越学館就職から万朝報退社まで)
 28才で帰国(1888)、新潟の北越学館の教師を振出しに幾つかの仕事をした。その後第一高等中学校(東大教養学部の前身)の嘱託教員となったが、数カ月後の1891年(明治24) 1月に、教育勅語奉読式で内村の礼が浅いことが問題となり、やがて全国的に強烈な批判が展開された。そのため、内村は教職追放、妻(加寿子)は心労で死去。内村は、大阪、熊本、京都、名古屋を転々としながら学校や教会で教師をし、また、著作活動もした。そして『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』など数冊を書いた。この間、1892年12月に岡田しづと結婚。
 1897年、黒岩涙香から招かれ万朝報(よろずちょうほう)の英文欄主筆となり、政治評論などで活躍。同社の客員の時、足尾鉱毒事件のため尽力、日露戦争に対して非戦論を唱えた。しかし、非戦論が社の方針とあわず1903年に退社。以後、表立った言論活動を終焉させた。

(『聖書之研究』の発行以降)
 内村は1900年(明治33、40才)に雑誌『聖書之研究』を発行し伝道をはじめた。そして、1903年に万朝報を退社してからは、他の仕事はせず伝道に専念した。その主目的は、聖書の福音を伝え民を癒すことで、亡くなるまで約30年間、諸教会と連携せずに続けた。この間、聖書研究会は自宅で、ごく少数を相手に行っていたが、1918年(大正7 )9月から1923年までは、会場を東京中心部に移し、数百人を集めて開催した。なお、1918年から約 1年半、諸氏とともに、再臨運動で東京、大阪など全国各地で講演会を開催した。そして、この運動がきっかけで『聖書之研究』の部数も増えた。また、排日法(1924)や宗教法案(1927) などで、自分の意見を新聞に投稿するなどした。1930年(昭和5)に70才(満69)で逝去。

(注)『聖書之研究』は、通常、毎月発行、48頁。内容は聖書講義やキリスト教関係の文章などで、内村ほか数名が書いていた。

(参考)
 1.勝利の生涯(1)
 2.勝利の生涯(2) 

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2.私と内村鑑三

2.私と内村鑑三

 私が内村の本を読んできた経過を述べておこう。

(24才〜30才頃まで)
 私は北海道大学を卒業して就職をした 1年目、24才のときに、同大学で教えていた松沢弘陽氏から、藤田若雄(1912〜1977)の「東京通信」を 1部もらった。そして継続読者となり、その誌上で内村を知り本を読むようになった。藤田は、内村主催の柏会(聖書研究会)にいた矢内原忠雄の集会出身である。
 内村は、おもに亀井勝一郎編『内村鑑三』で読んだ。これには、内村が若い時に書いた『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』とか、晩年に書いた「モーゼの十戒」などが収録されていた。なお、このとき、私はキリスト教徒ではなく、新約聖書だけはもっていたが、まだ、ほとんど読んでいなかった。
 その 2〜3 年後、矢内原の『内村鑑三とともに』を読んだ。これは、矢内原の、内村についての講演記録などを集めたものである。
 このようにして私は20代に、キリスト者何人かの本を読んだ。そこで、私は、知識の勉強では得られない「生きる力」を得たように感じた。

(30才頃〜60才頃まで)
 この時期、私は皆無に近いほど内村を読んでいない。理由は 2つあって、ひとつは内村から、ある程度のものを学んだためだと思っている。もうひとつは、私が内村の本を手放したためである。これは不要だからではない。私は、本土復帰(1972)した沖縄が本不足であると聞き、沖縄での古本バザーに、私にとって価値ある多くの本を、数回にわたって寄付した。

(60才頃〜)
 60才代前半のある日、私は東京神田の古本屋で、内村の本を低価格で数冊買った。その一冊が内村鑑三著作集第4巻『時評下』だった。私はこれで、内村の米国批判、日本の政治家批判、知識人批判などを読み、彼の物の見方に感心した。
 つぎは60才代後半である。私は宮沢賢治の勉強をしていたが、「雨ニモマケズ……」の詩のモデルが、内村の弟子の斉藤宗次郎だと知った。そこで斉藤の本を読んだが、その一冊が『恩師言 内村鑑三言行録』だった。
 つぎは70才頃である。私は、古本屋で内村の本を何冊か買ったが、その 1冊が著作集第21巻『書簡・日記4』だった。私はこれを愛読したが、内容が豊富で大変参考になった。
 やがて私は内村の本を終生の愛読書にしようと思い、著作集全21巻を買い求めた。

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3.この冊子の構成について

3.この冊子の構成について

⑴この冊子は、内村の公開日記(1918年 8月〜1930年 3月、58〜70才)から、信仰と伝道に関し、私が選択した日記と、私の若干のコメントが、主となっている。
 日記が書かれた目的は読者教育で、公開日記の性格上、つらいことと暗いことは書かなかったという。また、読者が楽しく読める部分を『聖書之研究』に作ることも考慮されていた。

⑵内村は同じテーマで何度も日記を書いている。私はその中から内村の特徴がよく出ているものをピックアップしようと努めた。

⑶日記の選択にあたっては、同じテーマのものを 2〜4 選んだ。いくつか読むと、内村の真意が、より良くわかると思ったからである。

⑷日記は『内村鑑三日記書簡全集』(教文館)から転載した。口語訳となっているためである。なお、私は、さらに、漢字をひら仮名にし、漢字を現代使用のものに取り替えた。徹底して読みやすくするためである。また、聖書の引用箇所は共同訳などの口語訳に入れ替えた。文語では読者が意味をつかみにくいと思ったためである。

⑸この冊子には日記以外からも転載した。内村をより良く知ってもらうためである。引用にあたって、読みにくい漢字などは書き換えた。

⑹引用文の多くには見出しを付けた。その際、内村の、日記には「日記」、日記以外の文章には「評論」、内村が他人に語った言葉には「談話」と付けた。また、見出しの括弧内の短文は、原文にはなく、筆者が便宜上つけた。日記の文末には、それが書かれた年月日をつけた。なお、年齢は数え年である。また、文中のすべての年齢も同じである。

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4.内村鑑三の本の探し方

4.内村鑑三の本の探し方

 内村鑑三が書いたもので、今、新刊として売られているのは、岩波文庫の、 慷召呂いにして基督信徒となりしか』、◆惴綫い悗虜蚤膂篳、デンマルク国の話』、『代表的日本人』、ぁ悒リスト信徒のなぐさめ』、ァ惱ゞ戯唾漫戞↓Α悒茱峙講演』、講談社学術文庫の、А悒リスト教問答』、教文館の、─悒蹈渊颪慮Φ罅戞↓『一日一生』くらいかと思う。なお、△鉢は「ワイド岩波文庫」としても売られている。
 このうち、 ↓◆↓、ぁ↓ァ↓内村が40才以下のときに書かれたものである。Α↓─↓は晩年に出版されている。ある学者は、最初に読むのは『後世への最大遺物』でよいが、内村の真髄は晩年にあると言っている。このこと自体の当否を私は判断できないが、内村の本を選ぶ場合の参考にしてもらいたい。
 なお、図書館でなら内村鑑三全集、内村鑑三著作集などが借りられる。ちなみに、公開日記は全集や日記書簡全集でないとみられない。
(追記)岩波文庫で『内村鑑三所感集』が販売されています。(2015年12月29日記)
(注)『デンマルク国の話』は、内村が53才時に刊行された。

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1.勝利の生涯⑴

第一章 信仰から得られること

 内村の信仰について語るには、まず、その特徴から入るべきであろう。しかし、内村が、信仰から得られるとしていることを先に紹介した方が、読者がより内村に近づきやすいと思った。そこで、「信仰から得られること」を第一章とし 7項目にわけてみておく。

1.勝利の生涯(1)

 内村はアメリカ留学から帰国して 2年半後、31才のとき、第一高等中学校不敬事件に巻き込まれ、苦難の生活をはじめた。それを乗り越えた後、40才で『聖書之研究』を発行し、独立伝道という、これまた苦難の生活をはじめた。そして、それを続けて70才で生涯を終えた。
 では、内村は、自身の生涯に満足したのであろうか。晩年になって「ああ、つまらない人生だった」というのでは、信仰に問題があったことにもなる。そこで、まず、67才のときに書かれた人生を総括した日記をみておく。

日記(神の恩恵により勝利の生涯であった)
 新暦を旧暦に数うれば、今日はわが誕生日である。今より66年前、文久元年(1861年)酉年の 2月14日に、自分はこの世に生まれ来たったのである。
 思えば不思議である。多くの敵と味方とを作って今日にいたった。岩倉具視、伊藤博文、大隈重信というような、神、キリスト、来世というがごとき事には全く没交渉の人らと同時代に、この世とこの国とにあり、彼らの無神、物質的傾向に対して戦い、とにもかくにも信仰を維持して今日にいたった。
 ずいぶん、おもしろい、つらい生涯であった。しかし神の恩恵により勝利の生涯であったことを信じて疑わない。たぶん彼らが忘れらるる後まで、日本は自分を記憶してくれるであろう。それはもちろん自分が彼らより偉かったからではない。神が彼らよりも自分に、より永久的なる事業を授けてくださったからである。
 日本国は彼らが植え付けた物質的文明のゆえに破滅に向かって進みつつある時に、神が自分をして唱えしめたまいしキリストの福音が、幾分なりと破滅の速度をゆるめつつあると信ずる。
 思えばじつに維新の青年政治家輩は乱暴なことをなしたのである。キリスト教抜きの西洋文明を日本に輸入して、毒消し無しの毒物を日本に輸入したのである。こんな人たちを維新の功労者として崇(あが)めし日本国民は、後にいたりてその不明を恥ずることであろう。かく言いて、自分が彼らに崇めてもらいたいというのではない。
 日本人は今や精神的に死んだ民である。その証拠には、今日今ごろ第52回帝国議会が開会中であるが、議会が有るか無いかを人が疑うほどに静かである。万事が党首によって決まるのであって、議論もなければ反対もない。世界歴史は今日までに、いまだかって、こんな議会のあったことをしるさない。しかし何びともこれを不思議と思わない。全国民が死的沈黙を守る。日本国に今や自由は絶えたのである。自由といえば主権者に対する謀叛とのみ思わしめしこれらの政治家が、この死的状態を招来したのである。
 しかし、これを救うの道はただひとつである。ふるいキリストの福音である。これをさえ説いておけば、これらのこの世の知者によりて国がひとたび滅びた後にでも、再び福音によりて国は起き上るであろう。そのときに、本当の維新が、わが愛するこの日本国に臨むであろう。
〔1927年(昭和 2年) 2月14日 67 才〕
(注)福音は、元々は「良い知らせ」のことであるが、内村は「神の愛を伝えるもの」と表現している。福音の解説は四章 9の文末参照
(コメント)この日記に 2つの解説を加えておこう。
 ひとつは、内村によれば、内村の最大の戦い相手は、日本の物質的文明であり、それを推進した人たちだった。内村の人生は、日常的には、外国宣教師などとのいさかいが多いが、真の相手は物質的文明とその推進者だったのである。
 つぎは、内村は、自身の説いた福音が、在世中、日本の物質的文明による破滅の速度をゆるめたと感じていたことである。そして、なお、後世においても、再び日本を復興させるときに役立つであろうと、確信めいた感じももっていた。

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2.勝利の生涯⑵

2.勝利の生涯(2)

 前節の内村の文章は構想をねって書いたものである。そこで、ここでは、内村が、やや楽に過去を振り返った日記を 2つ紹介しておこう。ここでも内村は、自分の人生は満足だったとしている。

日記(万事がことごとく働きて益をなした)
 第60回の誕生日である。シナ人のいわゆる還暦の祝日である。赤飯を炊いて内祝いをなした。過去を思うて、神に感謝した。多くの悲しいこと、つらいこと、たえがたいことがないではなかった。しかし万事がことごとく働きて益をなした。
 余はこの世に生まれて来たことを悔いない。キリストを信じて、世に勝つことができた。そうしてまた、教会や外国宣教師にたよらずしてキリストの福音をわが国にのべ伝えんとの、青年時代に立てし目的を、幾分なりとも達することができた。感謝である。満足である。人は、還暦に達して引退を語るも、自分にはそんな考えはすこしも起こらない。この歓喜(よろこび)の福音をゆだねられて、どうして黙っていられようか。義務ではない。歓喜である。何びとにも束縛せられず、何びとにも拘束せられずして、この福音を説くの楽しさよ。そのことにおいては、日本人五千万中、自分が最大幸福者であると信ずる。
〔1921年(大正10年) 3月24日 61 才〕
(コメント)ここに、「教会や外国宣教師にたよらずして」キリストの福音を述べ伝えた、とあるが、内村にとっては、外国宣教師からの金銭的独立は大きな問題だったのだ。

 つぎは、政治家松方正義の病気が重いことを知っての日記である。

日記(聖書を日本人の書とする努力は名誉であると信ずる)
 松方公、齢(よわい)90歳にして今やまさに死なんとしている。一門80人、いずれも実業に従事す。その富、巨万に達し、一人として独立伝道師と称するがごとき割りの悪い業につきし者なし。しかし余は公と同時代の日本人の一人として少しも公をうらやまない。もし公が今余に地位の交換を申し出らるるとも、余はもちろん、これに応じない。
 明治、大正の日本において、聖書を日本人の書となさんとて努力せしことは、日本銀行を設立せし以上の名誉であると信ずる。そして歴史は必ず余のこの確信を証明してくれるだろうと思う。公の危篤を痛むと同時に、余に今日この感なきあたわずである。
〔1924年(大正13年) 3月 1日 64才〕
(注)松方公は松方正義(1835〜1924)のこと、薩摩藩出身の政治家。首相、大蔵大臣を務めた。日清戦争後に金本位制を確立するなど財政金融分野で功績をあげた。子息たちの幾人かは実業界で高い地位についた。

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3.信仰で生き返る

3.信仰で生き返る

 内村は「信仰で力が得られる」といったことを、何度も言っている。ある日記では「信仰の人となると、力の本源に達する。希望が起こる。新たに力が加えらる」と書いている(二章 2中段参照)。
 この節では、劇的に人間が生き返った事例を 2つみておく。

|單沈蟻紊了例
 池田は内村の弟子の斉藤宗次郎を通して信仰に入った。

日記(池田正代、天父の国へ行く)
 昨日午後 2時35分、陸中水沢発、斉藤宗次郎よりの電報に、「オバ マサヨ シンコウノ ヨキタタカイオ オエテ ヘイワニ イマカエル」とあった。
 池田政代は貸座敷の女主人であったが、悔い改めて、キリストの忠実なる婢(しもめ)となった者である。じつにマグダリヤのマリヤそのままの婦人であった。もし余の東北伝道が彼女一人を天国に送る機会となったならば,余の労は充分に償われたのである。「はっきり言っておく。徴税人と娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」とイエスはパリサイの学者たちに言いたまいしが、池田正代もまた、彼女の卑しき身分をもってして、多くの学士、博士らがみることのできない栄光を認めて、天父の国へと行いたのである。栄光限りなく三位の神にあれである。
〔1923年(大正12年) 1月31日 63 才〕
(注)
⑴斉藤宗次郎(1877〜1968)は岩手県花巻の書店兼新聞取次店店主。20代から内村に師事。50才で廃業後は東京に出て、最晩年の内村を数年間補佐した。
⑵水沢は岩手県内陸部の南部の町、現在は奥州市の一部
⑶貸座敷は明治政府の公娼遊廓制度下の遊女屋の名称
⑷パリサイはイエスの時代のユダヤ主義の主流派、律法を厳守した。
⑸三位(さんみ)は神とキリストと聖霊のこと
⑹マグダリヤ(出身)のマリヤは、イエスに「七つの悪霊を追い出していただいた」女、その後、イエス一行に奉仕した(ルカ 8-3)。イエスが十字架で処刑された際、多くの弟子が逃げ去るなか、遠くから見守り、処刑後に彼の墓に出向いた女性たちのひとり。

 池田政代の、人間が生き返るほどの体験を、山本泰次郎の本からみておこう。

(池田政代の信仰告白)
(1906年、明治39年) 6月23日、水沢の池田政代が突然斉藤を訪れて来た。斉藤は驚いて彼女を迎えたが、その用件の趣きを聞いてさらに一層に驚き、かつおそれた。
 池田政代は斉藤の養母スミの姉で、彼の義理の伯母に当たる。彼女は全盲であった。……しかし政代は男まさりのシッカリ者で、妹竹代と共に、水沢の勝手町で山見楼なる貸座敷業を経営していた。 政代はそれまで宗教というものを信じたことはなかった。……しかるに近年、義理の甥に当たる花巻の斉藤の信仰生活ぶりを妹スミ夫婦から聞き、また世人の評判するのを伝え聞き、その信仰の力強いことや愛にあふれることなどに強く心をひかれ、或はこれこそまことの宗教ではあるまいか、と考えるに至った。そのうえ常日ごろ自分の醜業に良心の責めを覚えつつあり、ようやく老境に入ろうとする身の心細さや不安に耐えられず、ついに思い切って斉藤を訪ねる決心をしたのである。そして家人の止めるのを振り切って、甥の少年に手を引かれて、はるばる花巻に斉藤を訪れたのであった。
 彼女を迎えてその用件を聞いた斉藤は、余りの意外さに驚きつつも、彼女の誠実な熱心な態度に打たれ、直ちに質問に答えた。彼はまず日月星辰、森羅万象の整然たる運行と調和した現象とは、すべて唯一の創造主なる神の手になることから説き起こし、身辺の手近かな事実に及び、神の義と愛とを説いた。聞いていた彼女は、やがて長いキセルを下に置いてしまった。そして「ハハア、なるほど」ともらした。女丈夫の頑固一徹の壁の一角が崩れ落ちたのである。勢いを得た斉藤は、さらに鋭く罪のこと、キリストの十字架の贖(あがな)いのことを説いた。
 政代は翌日の安息日の集会に出席し、午後もまた斉藤にキリスト教の話を求めた。そして喜びにあふれつつ、斎藤の贈ったいちごを家づと(おみやげ)にして、手を引かれながら水沢へ帰っていった。
 この時以後、政代は熱心な求道者となった。斉藤もまた足繁く彼女を訪れて、聖書や内村の著書、雑誌などを読み聞かせ、求められるままに信仰について語った。彼女はやがて、ついに悔い改めて、信仰を告白し、自分自身で聖書を読むために初めて点字を習い始め、熱心に新約聖書を学び始めた。そして 5年の後、貸座敷業を廃業して人々を驚かせ、地方新聞の記事にさえなった。
 斉藤の喜びは実に大きく、言葉にも筆にも尽せぬほどであった。彼は一部始終を内村に報告し続け、内村もまた心から喜んで、「君の伝道の最大の収穫だ」と斉藤を励ました。
(山本泰次郎『内村鑑三とひとりの弟子』』162頁)
 
(注)
⑴十字架の贖い:神への罪から救うために、キリストが全人類に代わって十字架で死んだこと。贖い:お金や物を出して、罪の埋め合わせをすること。
⑵池田は貸座敷廃業後、旅館を開業、内村は東北旅行の際そこに宿泊している。

△△訥鮮人の事例

日記(死境入りした人が甦生)
 毎日、達する多数の年賀状のうちに、もっとも真剣なるものは朝鮮人よりきたる。左の一通のごとき、じつに日本人のうちにおいてはみることのできない真剣さ加減である。
「謹啓、内村先生、小生、新年のお祝いをいたします……小生、病中、先生の著書をみて一読するや、真信仰、真安慰をえたことの感謝は、なんら物質に類無しと切に感謝します。 死んだ霊が復活し、死に瀕した肉体がまったく甦生(そせい)をえたこと、そうしてこれ回想すれば、感謝の涙、自然と流れます。
 小生、10年前、ある親友の読了したる『聖書之研究』数冊をもつことになったのです。そして一読するや、良書であると思い、再び精読の必要を認め、家の書箱に深く蔵しました。
 1919年、小生、政治犯により入獄されて以来、不治の病にかかり、数次、死境に入りました。ゆえに、天を怨み、人を憤(いきどお)り、悲憤にたえずして自殺することまで図りました。そのとき、小生においてはまったく絶望ばかり、憤怨(ふんえん)ばかり、暗黒ばかりでありました。オー天の父よ、その時、絶望者をさえ救助する真理を、 7年前に書箱に蔵し置いたことを、なんじに感謝す。
 小生は『聖書之研究』と、ある親友の伝道によりて覚(さ)むることになり、小生の頑愚(がんぐ)なる眼から痛悔の涙が流れることを始めました。そうして昼夜10日間、痛悔の涙をもって日を暮らし夜を明かしました。そのうちに十字架救贖(きゅうしょく)の道理を覚(さと)り、十字架を仰瞻(ぎょうせん)することになりました。そのとき、小生の心霊はひとつの別世界に入ったように感じました。まことに絶望中の大希望、暗黒中の大光明、悲憤中の大欣喜(だいきんき)、愛の世界に入り、今日まで生きております。内村先生、小生現今、幸福に暮らすこと、まったく先生の恩恵と感謝します。……」
 心臓を切られるような深刻な手紙である。朝鮮人が日本人に対し、こんな深い感謝を表した例はいずこにあるか。余の名誉や、じつに大なりである。説くべきものは十字架贖罪(しょくざい)の道である。
〔1923年(大正12年) 1月 5日 63 才〕
(注)朝鮮人某氏について、「この人の名は金斗鎮。氏と信仰的交りのあった斉藤宗次郎によれば、氏は1919年、併合となった朝鮮で教職にあったが、独立運動に参加し東京に来て活動中捕えられ懲役 3年の刑をうけ入獄中病気となって入院、回復後斉藤氏の尽力もあり公判廷において無罪となった。」
(石原兵永『身近に接した内村鑑三(中)』)

 信仰によって人間が劇的に生き返るといった事例は数少ない。しかし、上記 2つの事例だけからでも信仰の力の偉大さがわかる。

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4.信仰で力を得る

4.信仰で力を得る

 劇的とまではいかないが、信仰から何らかの力を得たという人は多いと思う。ここでは、そういった事例 5つを、内村の日記からみておく。

(教徒の事例

日記(仏教徒の眼が開かれる)
 キリスト教の諸雑誌は、キリスト再臨のことに関し、余に反対なるに、真宗大谷派の機関雑誌『無尽灯』の、余ならびに再臨の信仰に対し、満腔(まんこう)の同情を表するをみるは不思議である。
 その 3月号において、広瀬南雄氏は、 3ページ半にわたる賛成同情の辞を連ねた。その一節にいわく、
「私は現在、内村氏およびその一派の人々が、キリスト教徒としての、かくのごとき信仰に対して、大なる嘆美と深き同情とを禁じえない者なることを、ここに告白する。そして私自身、氏らの信仰とその態度とより、少なからぬ啓発を受けて、長き間遑々乎(こうこうこ)たりし自己の心裡に一点の燎火を与えられ、自己の奉ずる宗教と経典とに対する新しき眼の開かれたることを深く感謝する。」
 これ、余が再臨の信仰に関し、今日までに受けたる最も暖かき同情の辞である。そうしてもっとも冷たき声がキリスト教のがわより聞こえて、もっとも暖かき声が仏教のがわより響くとは不思議である。
〔1919年(大正 8年) 4月 4日 59 才〕
(注)再臨は第二章の 9参照
(コメント)仏教徒が内村の説くキリストの福音によって力を得たというのは奇妙に聞こえるが、内村の日記には他の事例もある。

⊂学校教師の事例

日記(仕事が広げられ喜びが充満した教師)
 熊本県球磨(くま)川上流の某村の某より、左のごときハガキが達した。
「私は、いなかの小学校の教師をしている者です。かわいい子供の前に毎日立って、自分の不甲斐なさを悲しみつつ一日一日を送って来ました。
 ふとしたことから先生の雑誌に接し、大正12年の 9月号から本年(大正13年)の 1月号まで、今読んでしまいました。私には私としての目的が許され、私の仕事がひろげられているような喜びが充満して来ました。私は一生、小学校教師として自分の姿を見出そうと思いました。先生、この一文は、前後も何も考えず、喜びにまかせて書きつづって、私の心の救われつつあることをお告げいたします。」
 これはたしかに吉報である。日本の片いなかに、かかる人があるがゆえに、都に悪い悪い政治家があっても、日本の遠き将来に希望があるのである。
〔1924年(大正13年) 2月11日 64 才〕

F蘇揄嘆屬了例

日記(凛々しい信仰で力づけられる)
 今朝の『朝日新聞』に、徳富蘆花君の筆になる「平和と私」と題する一篇が載せてあった。その一節にいわく、
「数限りない力が私のなわ目を解き、愛の自由に入らせ、平和の旗を掲げしめる。一々が感謝である。
 中について、私はまず感謝すべき三人をもつ。三十年来、影のごとく身に添う私の妻。彼女の名は「愛」である。凛々(りり)しい信仰で遠ながら私に力づけてくださった内村鑑三先生。徹底した無抵抗で私を安心さしてくれる賀川豊彦後生。礼を言いたいにも幽明を隔つるが多い中に、それを現在にもつは、何という感謝であろう。」
 これは、余がこの世で受けた最大の名誉である。この際、蘆花君を同志とし味方としてもつことは、たしかに百万の味方をもつにひとしくある。
〔1924年(大正13年) 7月 9日 64 才〕
(注)徳富蘆花(1868〜1927)は小説家、作品は「不如帰」「自然と人生」など。トルストイの影響を受け人道主義に

ある地のある婦人の事例

日記(『聖書之研究』を読んで魂に夜が明ける)
 ある地のある婦人より、左のごとき感想が達した。
「私が『聖書之研究』を愛読いたすようになりましてから、かれこれ15年ほどになります……私は母の信仰により、10歳のときには小児洗礼を受け、18歳のときに信仰告白をいたしまして、○○日本基督教会の会員になりました。その後、『聖書之研究』を愛読いたす前までは、私の信仰は、なまぬるいものでありました。が、『研究』誌を読んでおりますうちにだんだんと私の信仰が変わってまいりました。今までのなまぬるい曖昧であったこと、神様に対して何とも申しわけないというようになりまして、私の魂に夜が明けまして、美しい太陽がのぼってまいりました。そして本当に十字架上のエス様を仰ぎ見ることができました。それ以来……」
と。以上は、自分にとり、ありがたい証明である。自分をもって「既成教会の破壊者なり」と言う神学博士の方々に、かかる実例を参考(に)してもらいたい。
〔1926年(大正15年)10月27日 66 才〕

イ△訐椎読者の事例

日記(家産を傾けた兄に生命を与えた青年読者)
 ある人が左の書を送ってくれた。
「謹啓 貴誌読者○○○○○儀、去る 8月26日午前 7時、召されました。行年29歳。彼は○○○大学在学当時、病を得て以来、きわめて弱身でございました。家産を傾けた彼の長兄とその家族とを具して上京しましたのは大正14年(1925年)でした。某所に細い給料で働き、よく一家をささえ、そして心から子供らを愛してくれました。
 彼は無言でした。彼の無言の説教はその兄に生命を与え、自らの病弱と戦ってついに召されました。最近は特に聖書研究に没頭して始終祈っていました。そしていつも「近ごろは非常に愉快だ」と言って、話は信仰のことのみでした。彼の残した書棚には先生や先生の周囲の方々の著書のみで充満しています。よい宝物を残してくれました。
 その兄と申しますのは拙者でございます。彼は私および私の一家のために最後まで苦しみ続けましたが、しかし喜んで愉快に犠牲になってくれました。今や、あざやかに私にもイエス様の十字架、復活がわかりました。彼に私を救う手引きをしてくださいました諸先生に厚く御礼申し上げます。彼の意思を継いで『聖書之研究』は私宛てお送り願います。まずはお知らせ申し上げます。 8月30日」
 なんとうるわしい手紙でないか。かかる報知を得て、わが萎(な)えたる心が生き返るのである。
〔1929年(昭和 4年) 9月24日 69才〕

(コメント)内村自身が信仰で力を得ている事例も日記に出てくるが、それは、この冊子の随所にみられるので、この節では省略した。

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5.信仰で日常が平安

5.信仰で日常が平安

 信仰で力を得ていても、もし、日々の生活で不安を感じることが多ければ、その価値は低くなるように思う。そこで、内村が日々平安を得ていたかどうかをさぐってみた。

日記(万事を神にまかせて平安が)
 うるわしき晩春の一日であった。雑誌の校正と明日の準備とに全日を費やした。
 国のためとか人類のためとかを思うときに、心に平安はない。万事を神にまかし奉り、自分はただ信仰によって義とせられんとして、自分に、神より出でて人のすべて思うところに過ぐる平安がある。
 かかる心の状態に帰りて、たえられぬは、社会改良運動、リバイバル運動、その他すべての騒々しき米国流の運動である。これらに引き込まれざるように、充分に注意せねばならぬ。
〔1923年(大正12年)5 月5 日 63 才〕

日記(「彼」と共にあること、それが本当の休養)
 午前は箒川(ほうきがわ、栃木県)の清流に臨みて身と心とを休め、午後 2時発、10時、柏木に帰った。これにてまず夏休みは半分済んだのである。相変わらず半休みにすぎず、休養の目的は達しなかった。
 休養は山においてあらず、海においてあらずである。そのことを知りながら、懲(こ)りも性(しょう)もなく、毎年夏休みを自己以外において求むるがゆえに、失望に終わるのである。「彼」と共にあること、「彼」の命じたもう事をなすこと、それが本当の休養である。山か海かにおいて暑さを避けざることを悪事のように思わしめたのは、主として外国人である。われらはこのことにおいても彼らにならうの必要は少しもない。
〔1924年(大正13年) 7月31日 64 才〕
(注)柏木は内村の自宅兼仕事場。東京新宿駅隣の大久保駅の西側。1907年以降在住。

日記(神に頼みて地獄にいながら天国の清涼を楽しめる)
 この世はすべて悪しくある。しかし神は善くある。そして彼に寄る者はすべて善くある。われら、神に寄り頼みて、悪しき世にありて善くあることができる。このことにつき、他(ひと)は他であり、自分は自分である。このことについてだけは、強いて努めて責任と恩恵を分かつことができない。
 地獄の火の中にありながら天国の清涼を楽しむことができるのが信仰の力である。まことにありがたいことである。されば吹けよ荒れよである。わが岩なる神のふところに抱(いだ)かれて、暴風荒れ狂う今日のこの世界にありて春ののどけさに常に極楽鳥のさえづる声を聞きながら、間断なき平安の生涯を送ることができる。
〔1928年(昭和 3年) 1月27日 68才〕

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6.信仰で身が守られる

6.信仰で身が守られる

 信仰から得られる「力」とか「平安」といったものは、得られれば意識できる。しかし、信仰から意識しにくいものが得られていることがある。それは、危険から未然に守られているといったことである。日記をみておこう。

日記(信仰は身を守り産を保つ)
 人は全体に、キリストを信ずれば立身もできず金もたまらずと言うが、キリストを信ぜずして、あるいは彼を離れて、落ちぶれ、また破産した者の実例はたくさんにある。
 信仰は霊魂を救うのみならず、身を守り産を保つ。信仰と幸福とは決して関係の無きことではない。自分のごとき、今日の平安あるは全く信仰のおかげであると言わざるをえない。
〔1927年(昭和 2年)11月 2日 67 才〕

日記(世が逼迫するなか、主を信じて顔色輝く)
 世はますます逼迫(ひっぱく)する。失業者の多きに驚く。また破産者も続々とある。病人は驚くばかりに多く、世相は晩秋の景色よりも悽愴(せいそう)である。しかしながら主を信じて聖霊を賜わりし者は、このうちにありて顔色輝き、希望、内にあふるるを見る。人の真の幸福はその健康またはもちものによるにあらず、その信仰によるをみる。今日、ある不幸なる若妻がその子をつれておとずれしをみて、この感を深くせしめられた。
〔1927年(昭和 2年)10月29日 67 才〕

日記(信仰なく事業に失敗、時すでに遅し)
「内村さんは聖書には明るかろう。しかし世間の事には暗い」と言いて、長の間、自分の言に耳を傾けざりし者が、ついにこの世の事業に失敗して援助を乞いに来る者がほとんど毎日のごとくにある。彼らは、信仰はこの世の事業には何の関係もなきことと思う。彼らは「事業は事業なり」と言いて、事業に従事するときには全然世間並みの道をとる。そして失敗するときには、時すでに遅しである。長の間、ばかにせられながら、後に援助の任に当たらしめらるる自分の不幸を嘆かざるをえない。
〔1927年(昭和 2年)10月28日 67 才〕
(コメント)これらの 3つの日記はいづれも1927年(昭和 2)のものである。この年、日本では銀行の取り付け騒ぎが起こるほどの不況となり、多くの人が破産、失業などに直面した。そんな中でも内村は信仰の働きをみていた。
 こういったことに関し、内村の息子佑之(ゆうし)の妻美代子は次のように書いている。
「(内村は)人事関係では、家の興亡などの判断も正確で、「あの家は危ないよ」とか、「あの店のやり方はわるい。つぶれるぞ」とか言われるような家はきっと滅びた。「神様は小指一本を動かすだけで、どんな大きなことでもされる。安心しておまかせするがいい」と常々言われていたが、実にその通りだった。」
(『晩年の父内村鑑三』92頁)

 つぎに失業や破産以外の事例(日記)をひとつあげておく。

日記(神にそむき、中年を過ぎて「われ、世に敗れたり」ともらす者多し)
 新聞広告によれば、島田清次郎という若い天才文学者は、『われ、世に敗れたり』という書を著わしたという。彼に対して深き同情なきあたわずである。自分の記憶するところによれば、彼は前に、『われ、すでに世に勝てり』という書を著わした人である。同じ人が最後の絶筆として、『われ、世に敗れたり』という書を書いたと聞いて、天才の運命のいかにはかなきかを思わざるをえない。そして同一の運命に終わり、また終わらんとしつつある文学者の、余の知人中に少なからざるを知る。
 血気さかんなる時にあたりて、神にそむき、師にそむき、聖書を捨て、信仰を去りて、「われ、すでに世に勝てり」と絶叫したりし才子、佳人(かじん)にして、中年を過ぐるや否や「われ、世に敗れたり」の感をもらす者はずいぶんと多い。彼らはいずれも自己の力を過信して自己に欺(あざむ)かれたのである。哲学者ニーチェがその最も著しき例であって、天才国の日本においては、小ニーチェは続々と現わるるのである。原抱一庵(はら・ほういつあん)のごとき、有島武郎のごとき、惜しむべき天才を持して同一の運命に終わりしは、惜みてもなお余りありである。そしてこれらの人々がその人生観を改めざる以上、かかる例はなお続々と現わるるに相違ない。
 人は何びとも自己の力によりて世に勝つことはできない。……キリストを信ずる者のみが、彼(キリスト)の力によりて、確実に世に勝つことができる。
〔1924年(大正14年)12月13日 64才〕
(注))島田清次郎(1899〜1930)は小説家。20才で書いた小説「地上」(新潮社)が爆発的なベストセラーに。その後、これが原因となって言動が高慢に、作品の質も低下していく。24才から精神を病み32才で病院で没した。
 原抱一庵(1866〜1904)は小説家、翻訳家。25才で出世作。35才でヒット作を出すが、高慢となり飲酒も深まる。39才で精神病院で孤独のうちに世を去る。
 有島武郎(1878〜1923)は小説家。札幌農学校卒。内村の影響も受けキリスト教徒に。その後、欧米留学などを経て信仰に懐疑が深まり、内村からも遠ざかる。1916年から本格的に作家活動に入り流行作家となる。最晩年は虚無的となり、1923年、46才で情死。

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7.信仰で迫害も

7.信仰で迫害も

 迫害は信仰の結果として受けるものである。好んで得るものではないが、信仰から来るものなので、ここで取りあげる。
 内村は、信仰に伴う迫害についての意識は明確である。

日記(十字架が心に照りて失望も落胆もなし)
 クリスチャンは人に馬鹿にされる者と決まっている。ことにキリスト教の教師にいたっては、パウロが言えるがごとくに、「世の屑(くず)、すべてのものの滓(かす)」のごとくに扱わるるのが普通である。ことにまた独立信者また無教会信者と来ては、世に馬鹿にされるのみならず、教会または牧師、宣教師、神学者にまで馬鹿にされる。まことにイエスが言いたまいしがごとくに、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(ルカ 9-58 )である。きつねや、たぬきのような人でも、世には入れられ教会には迎えらるるけれども、人の子と彼の弟子とは、この世とこの世の教会においては、枕するに所がないのである。
 しかしながら、ありがたいことには、社会や教会は馬鹿にしても、神は馬鹿にしたまわない。神の聖霊を注いで、独立信者の信仰を認めたもう。聖書がわかり、十字架が心に照り渡りて、いくら世人や教職に馬鹿にされても、失望もしなければ落胆もしない。営外に出でてイエスのそしりを負うとは、こういうことを言うのであろう。そして、こういう慰安(なぐさめ)があるから、無教会信者はやめられないのである。
〔1922年(大正11年) 9月29日 62 才〕
(注)無教会信者とはキリスト教信仰をもつが教会に所属しない人のこと。教会から離れた人もいれば、最初から教会に行かない人もいる。独立信者も同義と思われる。

日記(迫害や患難はイエスの焼き印)
 テモテ後書 3章12節に言う。「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」と。
 じつにその通りである。迫害を受けざることは、キリストの御父なるまことの神を敬わざる何よりもよき証拠である。世には迫害を避けてあるく、いわゆるキリスト信者がたくさんにある。キリスト信者とは、円満に幸福に一生を送る者であるとは、キリスト教会全体がその信者に教うるところである。
 されども聖書の教うるところは全く異なる。「あなたがたには世で苦難がある」である。迫害と患難、これが、信者が身に帯ぶる「イエスの焼き印」である。これなくして、教会が授くるいかなる名誉、特権も、人をクリスチャンとして認むる何の証拠にもならない。
〔1925年(大正14年) 1月 5日 65 才〕

日記(信仰のために憎まれないようでは困る)
 この日、柏木は郷社、鎧(よろい)神社の祭礼で、にぎわった。みこしを家の塀に打ちつけられて、大きな穴を 3つ開けられた。たぶん、われらがヤソなるがゆえに、若者らに憎まるるがゆえであろう。巡査は 3人見ておったが、少しも乱暴を妨げようとしなかった。大正11年(1922年)の日本東京に、こんな事があろうとは思われないが、しかし、あったことは事実である。
 これを目撃しておりしわが家の主婦は言うた、「ありがたいことである。これは小なる迫害である。これがあるのが当然である。信仰のために憎まれないようでは困る。憎まれて幸いである。」と。この言を聞いて、余は安心した。彼女にこの心がある以上、少しばかりの損害は意を留むるには及ばない。ただ嘆ずべきは、かかる事をなしてはばからざる日本の社会である。
〔1922年(大正11年) 9月17日 62 才〕
(注)「わが家の主婦」は内村しづ(1874−1945)。鑑三は「ぼくの奥さんに、べつに取り所はないが、ぼとく共に、主義のために、今日まで 3度、餓死の決心をなした。それだけ、ほめてやってもらいたい」と語っている(家族小晩餐会、日記1924.12.23)。

 内村は迫害から得られるものも意識していた。

日記(敵と艱難、その一つとして余を益せざるものなし)
 余は余の生涯において、多くの苦しい目に会うた。しかし、そのひとつとして、余を益せざるものはなかった。多くの敵は起こりて余を苦しめた。しかし、そのひとりとして余を余の神に追いやらない者はなかった。敵と艱難とは、余が余の神に救われんがために必需(なくてはなら)ぬものである。「およそ鍛練というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(ヘブル12−11)
〔1919年(大正 8年) 8月 9日 59 才〕

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1.義

第二章 信仰の特徴

 内村の信仰の特徴だと筆者が感じたものを、公開日記から 9項目に別けて紹介する。

1.義

 キリスト教の信仰にとって大切なことといえば、誰でも愛をあげると思う。内村も愛を説いている。しかし、ここでは内村の特徴ということなので、義からはじめる。
 義とは正しい道といった意味である。内村は以下の日記で、「信者は神を憎むものと戦え」とか「悪魔と戦え」とか言っている。

日記(神と憎愛を共にしてこそ本当のしもべ)
 詩篇 139篇21節、「主よ、あなたを憎む者をわたしも憎み」について考えた。神と憎愛を共にしてこそ、彼の本当のしもべである。すべての人を愛すると称して、神とそのキリストを憎む者をも愛するは、彼にそむくと同然である。近代人にはこの明白なることがわからない。彼らは友人と憎愛を異にして、少しもはばからない。ゆえに彼らに本当の友人はない。よく憎む者のみ、よく愛することができる。すべての人を愛せんと欲する者は、何びとをも愛し得ざる者である。
〔1922年(大正11年) 8月29日 62 才〕

日記(クリスチャンの生涯は悪魔と戦うこと)
 聖書を読んでますます明白になることは、キリストの善き弟子たらんと欲すれば、単独の生涯を覚悟せざるべからずということである。クリスチャンの生涯は、今の教会信者が思うがごとき、社会の人望を博し多くの同志に囲まれながら安心喜楽の日月を送ることではない。実際的に悪魔と戦い、ある形において、ひとり十字架につけらるることである。「自分の家族の者が敵となる」とか、「私について来たいもの、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というがごとき主の言は、このことを意味するに相違ない。
〔1922年(大正11年)11月27日 62 才〕

日記(我らの説く福音には人を滅ぼす能力も)
 ルカ伝 2章34節について考えさせられた。「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ」とある。イエスが世に現われたまいしがゆえに、多くの人が滅びたとのことである。不思議であるが事実である。そのごとく、われらもまた真剣に福音を説いて、それがために多くの人が滅びるはやむをえない。福音は興(おこ)す能力であるのみならず、また滅ぼす能力である。
 このことを思うて、たえられぬほど悲しくなる。しかしながら事実なるをいかにせん。ひとたび福音を受けて、それがために滅びた者の多くあったことは、ひとり伝道師の罪ではない。福音そのものにこの活殺力があるのである。
〔1925年(大正14年)12月 3日 65 才〕
(注)福音についての解説は四章 9の文末参照

 義に関し、これら 3つの内容は重々しい。そこで、もうひとつ付け加えておく。これは内村が66才のときに、青年会婦人会の祈祷会で語ったものである。

談話(私は諸君が悪い事したら追求する)
 私は坊主は大嫌いである。日本は古くから儒者の道とお寺様のお情(なさ)けの道とあった。宗教と言えば坊主の務めで何でもかでも、お慈悲(おじひ)であった。この習慣が深くしみ込んでおったからキリスト教が伝わって来ても、その教える愛の何たるかを解せず、やはりお情(なさ)け教と思い、伝道者も又この態度をとった。それがために主従の道も立たず、礼儀は乱れて何ら好き実を結ぶことができなかった。
 イエスの教は愛のみではない。義である。この事をよく知らなければならない。私は諸君が悪い事をしたらどこまでも追求して止やまない。しかし、もしも悔改めた場合には直ちにゆるすのである。かくせざれば真正の関係が永続しないのである。
(1926.12.21 『恩師言』309 頁)

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2.救いは信じることで

2.救いは信じることで

 斉藤宗次郎の本に次の記事がある。
「昨日、教会の牧師さんが来て、「(内村)先生!信仰で救はれるのですか行によってですか」と問ふ。それは随分古い問題です。それは信仰とコモンセンスでわかる。……私(内村)の様な者は信仰によって救はるるといふのだ。」
(1928.1.12、『恩師言』)
 内村はいっかんして、救いは行いでなく信仰で、と言っている。日記を紹介しよう。

日記(道徳で自分を追い立てると宗教が重荷となる)
 行為(おこない)、行為、仕事、仕事と言いて、道徳をもって自分で自分を追い立つるがゆえに、ついに宗教が重荷となり、神が恐ろしくなるときに、十字架上のイエス様がわが霊眼に現われたまいて、「われを仰ぎ見よ」と言いたもうときに、言いがたき歓喜(よろこび)と平康(やすき)とがある。
 しかり、彼である。彼が、わが善行である。わが事業である。彼のうちに、わがすべてが蔵(かく)れあるのである。そうして愚かなる余はたびたび、このことを忘れる。余自身が、余のもっともきらうユニテリヤンとなるのである。善行をもって人を追い立てる教会信者となるのである。しかし、さいわいなるかな、余はついに元のイエス様に帰るのである。「キリストの内にいる者と認められるためです」(ピリピ3-9 )である。
〔1919年(大正 8年) 9月13日 59 才〕
(注)ユニテリアンはプロテスタントの一派。神の単一性を主張し、イエスの神性を否定する教義をもつ。

日記(イエスを信じること、それが信者の事業)
 病にかかるたびごとに思い出すは、ヨハネ伝 6章29節である。信者は何の事業をもなさずともよいのである。ただ神のつかわしし者を信ずればよいのである。イエスはわれらに代わりて万事をなしとげたもうた。ゆえに、彼を信ずること、そのことが、信者の工(わざ、事業)である。そう思うときに、心がらくになる。自分は元の信仰の人となる。直ちに能力(ちから)の本源に達する。希望が起こる。新たに能力が加えらる。さらにまた働きたくなる。われ弱きときに強しとの実験を新たにする。感謝である。
〔1920年(大正 9年)10月19日 60 才〕

日記(おのれを省みる時に堕落し、キリストを仰ぎ見る時に向上する)
 久しぶりにてエペソ書 2章 8節が心の耳に響いて、ありがたかった。「あなたがたは恵(めぐ)みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物(たまもの)です」と。わが義はわが外にあり。十字架につけられし神の子においてあり。わが内においてあらず。われは、おのれを省(かえり)みる時に堕落し、キリストを仰ぎ見る時に向上する。
 自分で自分を責むるほど愚かなることはない。自分が義であり得ようはずはない。自分は生まれながらにして、そして今なお不義である。わが義は、われならざるキリストにおいてある。そして彼はわれの不義なるにかかわらず、永久に義である。そして信仰によりて彼の義をわが義として神に認めらる。ふるい単純なる信仰である。パウロ、アウグスティヌス、ルーテルの信仰である。そして、ある意味において、源信、法然、親鸞の信仰である。人に絶対的安心を与うる信仰である。全宇宙がほろびても変わらざる信仰である。
〔1924年(大正13年) 8月11日 64才〕
(注)アウグスティヌス(354〜430)は北アフリカ生まれのキリスト教教父、著書は「告白」「神の国」など、源信(942 〜1017)は天台宗の僧、著書に「往生要集」
(コメント)筆者は、この日記で、「おのれを省みる時に堕落し、キリストを仰ぎ見る時に向上する」の部分に注目した。


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3.罪を認めて神を仰ぎ見る

3.罪を認めて神を仰ぎ見る

 内村は罪の意識の強い人である。そして、ある時から、自分のキリスト教は十字架教だと言いはじめた。日記をみておこう。

日記(神の恵みを仰ぐには罪の告白から)
 神の御恵(めぐ)みを仰ぐにあたって、まず第一に罪を告白(いいあら)わすの必要を感じた。自分の罪を認めずして、今日までにすでに自分に降(くだ)したまいし恩恵の程度を知ることができない。神はわれらの罪に順じてわれらを扱いたまわず、罪不相応の軽き罰を加え、罪不相応の恩恵を降したもう。
 自分の罪を認めて、神に恩恵の不足を訴えて、彼を恨みたてまつることができない。しかしながら、われら「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(汽茱魯1-9 )とあるがごとし。罪のいいあらわしをもって始まらざる祈祷は無効とみてさしつかえがない。
〔1925年(大正14年) 8月22日 65 才〕

日記(罪を許される道は、告白して仰ぎみること)
 夜は「罪の告白」について話した。告白だけで罪はゆるされず、また除かれないことを説いた。
 罪をゆるさるるの道はただひとつである。人の罪を担(にな)うて十字架に上りたまいし神の小羊を仰ぎ見ることである。そのことを知らないで、社会の前に罪を吐き出せば、それが消ゆると思うは大なるまちがいである。しかるに、かかる愚かなる思想がわが国文士の多数によっていだかるるは、はなはだ嘆ずべきことである。
〔1925年(大正14年) 6月21日 65才〕

日記(罪の自覚に出発せずしてキリストにいたれず)
 われらの間においてさえ十字架抜きのキリスト教が信ぜられ、また唱えらるるには驚く。他人は知らずとして内村のキリスト教は十字架中心のキリスト教である。
 人は罪の自覚に出発せずしてキリストにいたることはできない。これはキリストにありてはあまりに明白なる事実である。しかるに今やキリスト教会においてすら、この基礎的事実が強調せられない。ゆえに徹底したる強健なる信仰が起こらない。他は知らず、「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」(汽灰螢鵐2-2 )である。
〔1929年(昭和 4年) 1月29日 69 才〕

 つぎは内村が家族に語ったものを、内村美代子が『聖書之研究』に公表したものである。

談話(自分は悪い人でないと思っているうちは駄目)
 おまえたちはみんな、まだ罪の悔い改めをしていないから駄目なのだ。これはふしぎなことで、実に何とも言えない気持ちが起こって、その時から本当のクリスチャンになるのだ。
 自分はそんなにわるい人間じゃないなどと思っているうちはまだまだ駄目なので、自分には何のよいところもない、ただお恵(めぐ)みによって生きているのだと感じるようにならなければならない。そうすると本当の謙遜の心が生じて、人の罪を責めることができなくなるのだ。罪の悔い改めをした後も、腹も立てば癇癪(かんしゃく)も起こるけれど、その結果は前とは雲泥のちがいで、すぐに相手をゆるす気になる。決していつまでも腹を立てていたりはしない。
 ほかに言葉がないから罪の悔い改めというけれど、これは実は心理的革命なのだ。こればかりは親が子に教えるわけにゆかず、夫が妻に伝えるわけにはゆかぬことなのだ。みんながお祈りして、このお恵みにあずかるようにしなければいけない。
(卓上談話(34)『聖書之研究』1928.4、内村美代子『晩年の父内村鑑三』にも所収)
(コメント)ここで筆者は、「罪の悔い改め」をすると「すぐに相手の罪もゆるす気になる」に注目した。

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4.聖霊がくだる

4.聖霊がくだる

 内村の日記には「聖霊」が多く出てくる。でも、人によってはなじみのない言葉である。ある辞書によると、聖霊は「神の力を人格化したもので、信仰のある人に宿るもの」とある。これを頭において、つぎの日記を読んでいただきたい。

日記(若き友の聖霊降臨に喜ぶ)
 若き信仰の友のひとり、近ごろ聖霊の降臨に接し、その言い尽くされぬ歓喜を述ぶるを聞いて、36、7 年前の自分の実験を回想し、自身、新たに同じ恩恵にあずかりしがごとくに感じた。これを新たに生まるるの実験と言うのであろう。そうしてこの実験があって初めてクリスチャンとなるのである。これなくして、神学と聖書の研究といかに深きも、クリスチャンとなったのではない。ただ十字架を仰いで歓喜にあふるるの実験は、思い出すだに限りなくうれしくなる。
〔1921年(大正10年)12月20日 61才〕
(コメント)これによると、内村が聖霊の降臨を感じたのは25才頃のことで、アメリカ在住のときである。内村は17才でキリスト信者となったが、そのときから 7〜 8年は、少なくとも意識するほどの聖霊降臨はなかったようだ。

日記(キリストは聖霊をもってわれらの内に宿る)
「最も善きことは、神、われらと共にいましたもう事なり」という。そうして神はキリストをもって、われらと共にいましたまい、キリストは聖霊をもって、われらのうちに宿りたもう。神の子キリストは歴史的人物たるにとどまらず現在者であるというのが、聖書の教うるところであって、また、われらクリスチャンの実験するところである。
 じつにありがたい喜ばしいことである。キリストが今われと共にいましたもうという。このことありて、われは他に何物をも要求しない。友もいらない。賛成者もいらない。この世と教会とはわれらを嫌(いと)うも、少しも苦にはならない。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」とのキリストの言は、文字どおりに真理である。
 信仰は単に過去にたよることではない。また現世に処することである。キリストは今、この日本に、しかり、この柏木に、わが家に、わが霊にいましたもうと知りて、畏(おそ)れ多くもあり、また言い尽くされぬ感謝である。
〔1921年(大正10年) 7月 2日 61 才〕

日記(聖霊の助けなしに、信者たるの生涯を送ることができない)
 疲労と俗事とにて何事をもなし得ず、まことに無益なる一日であった。ただ昨日より聖霊の能力について考えさせられた。聖霊によらずして、信者はその義務、責任を果たすことができない。
 人の罪をゆるすということは決してたやすいことではない。ゆるさんと欲して、ゆるすことのできない場合がたくさんにある。かかる場合において、聖霊にゆるさしていただかなければならない。その他のことにおいても、信者は聖霊に助けていただかずして、信者たるの生涯を送ることができない。本当に祈ることさえ、できない。信者の実際生活において、その霊において聖霊に宿っていただくことほど大切なることはない。しかるに、信者と称するたいていの人たちは、かかることは彼らのとうてい考え及ばざることと見なし、ただ、ひとえに目前の苦痛よりまぬかれんとしている。じつに気の毒なる人たちである。
〔1925年(大正14年)9月28日 65才〕

 聖霊に関して、内村は日記で、「聖霊は信者全体の上に臨み」(1921.9.25 )、「聖霊ついにたしかにわが聖書研究会にくだり」(1925.12.23)と言っている。聖霊は個人にくだるだけでなく、信徒集団にもくだるというのが内村の考えである。

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5.神に召されて動く

5.神に召されて動く

 内村は自分の伝道事業に関し、「これは神の仕事で自分は神のもとで動いているだけ」といったことをなんども書いている。聖霊降臨と似たようなことであるが、若干ニュアンスが異なるので、「神に召されて動く」といった趣旨の日記を 3つみておく。

日記(『聖書之研究』は「彼」の機関である)
 雑誌 9月号が出た。毎月のとおり、祈祷をもってこれを発送した。まことに不完全なる雑誌である。されども神はこれを完全に用いたもうと信ずる。祈祷をもって書き、祈祷をもって校正し、祈祷をもって発送する。わが機関ではない。「彼」の機関である。「彼」がこれをもって、「彼」の聖意(みこころ)を読者に伝えたもうと信ずる。
〔1918年(大正 7年) 9月10日 58才〕

日記(伝道は神とキリストの事業)
 伝道は自分の事業でない。他人の事業である。ヨハネ伝 4章38節において主は言いたもうた、「わたしは、あなた方が少しも労力をかけなかったものを刈り取らせるために、あなた方を派遣しました。ほかの者たちが労苦し、あなた方はその労苦の益にあずかっているのです」と。「ほかの者たち」とは、神とキリストである。われらは雇われて(召されて)彼らの事業に入ったのである。ゆえに責任はいたって軽いのである。ただ忠実に働けばよいのである。心配は無用である。慰安の言である。
〔1924年(大正13年) 4月 7日 64 才〕

日記(神に徴発されて戦場にのぞむ)
 聖書においては言語に絶する安慰を得るが、いわゆるキリスト信者については言語に絶する苦難(なやみ)に接する。彼らに先生として仰がるるときが苦難の始めである。初めに崇拝せられ、その次に幾年となく疑われ、多くの者らにそむき去られ、きわめて少数の者らにのみ了解せらる。このことを思うて、幾度も伝道説教は止めたくなる。ただ「ある者」に強いられて、やむをえず伝道するのである。人類愛に励まされて伝道する者は、遠からずこれを廃するであろう。愛でも義務でもない。sheer compulsion(激しい強制)である。神に徴発されて、やむをえず戦場に臨むのである。
〔1927年(昭和 2年) 6月 3日 67 才〕

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6.神への信頼

6.神への信頼

 内村の日記を読みつづけていると、内村は極めて神への信頼心が強いことがわかる。これに関し、ある人は「内村は絶対的に神を信頼している」といったことを書いているが、筆者も同感である。また、暗黒の世が来ても神は信仰あるものを救ってくれる、といった気持ち、すなわち待望心も強い。

日記(神を信じて光明が暗黒よりも多いことがわかる)
 相変わらず、いやなことがある。人生の暗黒的半面を見て、生まれなかった方がはるかに幸いであったように思わるる時がある。しかしながら神を信じて、人生に対して、光明の、暗黒よりもはるかに多いことがわかる。そして暗黒もまた光明を増すの道であることを、今日まで幾回も実験した。やはり生まれたことは善いことであった。
〔1924年(大正13年) 1月19日 64才〕

日記(世界的暗黒は世界的光明の前兆)
 人類あって以来、全世界が今日ほど暗黒であったときはなかったと思う。今日までの暗黒は部分的であったが、今日のそれは全般的である。ヨーロッパが暗いのみならず、今日まで人類の希望をつなぎ来たりし米国までが暗くある。
 さらばキリスト教会はいかにというに、これまた混沌たる状態である。まことに「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」(イザヤ60-2前段)とあるはこのときである。されども、すぐその後に言う、「しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」(同60-2後段)と。
 人には何びとにも、たよることができない。されども光明近きにありである。世界的暗黒は世界的光明の前兆である。今は忍耐のときである。同時にまた希望のときである。遠からずして、最暗黒の欧州の真中より、大光明があがるであろう。
〔1923年(大正12年) 4月25日 63 才〕
(注)ヨーロッパは第一次大戦(1914〜1918) 後にインフレになった。フランスとベルギーは賠償金確保のため、1923年 1月ドイツのルール地方(鉄や石炭の産地)を占領した。

日記(われに永久に滅びざる世界がある)
(関東大)震災一周年である。粗食して、この日を記念した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」(マタイ21−18)を思い出した。
 しかし地震より大なるわざわいは米国の排日である。しかも前者を嘆く者は多くして後者を憂うる者は少ない。地震は財産を壊(こぼ)ちしにすぎずといえども、排日法は権利を奪うた。このままにして放棄し置けば、日本は国として滅ぶるのである。そのことを思うて憂慮にたえない。かかるときに、わが主の十字架を仰ぎ見る。世界と人類とはいかになり行くとも、われに永久に滅びざる世界がある。それは、神がその聖子をもって建てたまいし光の国である。これは地震または法律をもってして壊つことのできない世界である。米国は滅び、日本は滅びても、残るのはこの聖国(みくに)である。
〔1924年(大正13年) 9月 1日 64 才〕
(注)排日法は1924年にアメリカで施行された排日移民法のこと。同法で日本人のアメリカ移民が全面的に禁止されたため日本政府・国民は反発した。

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7.神の審判

7.神の審判

 あの世に入る時に審判を受けるといったことは、筆者は子どもの時、よく聞かされたが、大人になってからはあまり聞かない。内村は、しっかり、神の審判について語っている。

日記(神いますがゆえに正義は必ずなり不義は必ず敗る)
 人生ありがたいことは多くあるが、最もありがたいことは、神いましたもうということである。神いましたもうがゆえに、正義は必ずなり、不義は必ず敗(やぶ)る。善は必ず賞せられ悪は必ず罰せらる。
 政治家の政略のごとき、省(かえり)みるに足りない。神は厳格に公平でありたもう。余の短き生涯においてすら、ビスマルクや伊藤博文のごとき世界的大政治家と称せらるる人々の政略が、ぜんぜん失敗に終わるを目撃した。議会の決議のごとき、何の効力もない。神いましたもう。まことにまことにありがたいことである。
〔1926年(大正15年) 8月28日 66才〕

日記(未来の裁判では善い事のためにほめられる)
 コリント後書 5章10節の研究をもってこの日を始めた。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」
 ここに未来の裁判があることが明らかに示されてある。身にありてなしたる事はことごとく報いらるという。
 まことにありがたいことである。認められざる小なる親切も、そのときには報いらる。
 そのとき、たえがたき失望はことごとくいやさる。悪い事のために罰せられるばかりでない。善い事のために賞(ほ)めらる。キリストにさばかれるのであって、こんなありがたいことはない。
〔1927年(昭和 2年)11月26日 67 才〕
(コメント)ここで筆者は、神の審判のときには「小なる親切も……報いらる」注目した。

日記(大審判のときに義とされるなら)
 新聞紙は、伯爵、芳川顕正氏の死去を報ず。伯は教育勅語発布当時の文部大臣として、伯の生涯は余のそれと関係なきものではない。
 余の主張は、勅語は謹んで守るべきものであって、拝むべきものではないというにあった。しかし日本国民は余のこの主張に少しも耳をかさずして、余をたたき伏せてしまった。
 しかし余の主張にも幾分かの真理はあったと思う。もし日本国民が教育勅語を実行するにあたって、これを崇拝するだけ熱心であったならば、彼らは今日のごとき道徳的混乱状態におちいらなかったであろう。
 しかし事はすでに過去の歴史と化した。今後は芳川伯も余と同じく、神の裁判を受けなければならない。そのとき、伯の正二位勲一等は何の用をもなさないのである。「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」とある。われら何びとといえども、その大審判のときに義とせらるるを得ば、この世の毀誉褒貶は少しも顧みるに足りないのである。
〔1920年(大正 9年) 1月10日 60 才〕

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8.来世

8.来世

 今日でも「あの世で会おう」と言って、葬儀のときに死者に語りかける人がいる。しかし、来世についての意識をはっきりもっている人は少ないと思う。内村は「来世」をしっかりもっている。自分の信仰を来世教ということがあるくらいである。
 内村の日記を丹念に読んでみると、内村にとって、来世信仰は力の源でもある。そういった視点で選んだ日記3つをあげておく。

日記(福音は人に天国の希望を与え平安に死なしむる)
 ある青年が、衛生会館における自分のロマ書の講義を聞き、平安に死んだその実状を、彼の姉なる人よりの手紙によって知り、大いに励まされ、力付けられた。自分もまた、かくのごとくにして死ぬことができると思えば、限りなき感謝である。もし福音にこの力がないならば、これを説くの必要ない。国家社会を善くなすための福音でない。天国の希望を与えて、人をして平安に死なしむるための福音である。よし一人なりとも、自分の説きし福音によりて、平安をもって死につきしを知りて、自分は無益に一生を送らざりしを知って、ありがたくってたまらない。
〔1928年(昭和 3年) 1月11日 68才〕
(コメント)内村の日記には、来世を描いて平穏に亡くなっていった人の事例がいくつもある。

日記(この世の不平を来世の希望で補充するのがクリスチャン)
 夜、家族の者に教えて言うた。
「われらクリスチャンに来世の希望なくば、われらはこの世の人らと多く異なるところはない。この世に不完全多きは知れ切ったことであって、これを見たればとて少しも驚くにたりない。
 この世の不平、不満足を来世の希望をもって補充するのがクリスチャンである。われらは日に日に天国の栄光を望んで、不満の内に感謝にあふるる生涯を送るべきである。信者のくちびるに常に賛美歌が絶えてはならない。人がわれらを侮辱したぐらいで、いら立つようでは、信者たるの甲斐はない……」
 かく語り合うて、われらは笑顔をもって寝についた。
〔1927年(昭和 2年) 8月13日 67才〕
(コメント)ここで内村は、来世観をもつことで、この世で絶望しても力を保てる、といったことを書いている。

評論(極楽浄土行きを願って、正直に立派に生きようと)
 日本の各家庭には家の礼拝所がある。そして家族たちは、毎日見えざる神々や人物と交わっている。また、真の日本人はみな来世における存在を信ずる。
 最近、私は石黒老子爵が、かれを尊敬する人々のグループを前にして、何気なく語った言葉に深く感動させられた。この80歳の老人は、すでに世を去ったかれの多くの友人たちの遺族の世話をするのに多忙であったが、かれは語ったという。「私がこの事をするのは来世で私の友人たちに会うときに、自分の申訳ができるようにするためである」と。
 石黒子爵はキリスト者なのではない。かれは古武士であり、純粋な日本人で、西洋に起ったいかなる宗教によっても不純にされぬ人間である。同じことを私の父も、キリスト者になる前から言っていた。
 真の日本人、この点については、キリストの宣教師に教えられずに、来世を信ずる。そして幾百万の日本の仏教徒は、かれらが明日あるいは来年を信ずる如くに、来世を信じている。「後生(ごしょう)」あるいは来世が、人生におけるかれらの主要な関心事なのである。かれらはすべて「極楽浄土」にゆきたいと願っている。そしてその目的のために、現世において正直に立派に生きようと試みるのである。
〔「米国人は日本人に宗教を教えうるか」(『インテリジェンサー』1926年11月、石原兵永訳『英文雑誌による内村鑑三の思想と信仰』〕
(注)石黒忠悳(ただのり、子爵、1845〜1941)は医者。1871年に軍に入り戦場で治療にあたる。後、軍医療部門の要職につき軍医学制度の基礎を築いた。退役後は日本赤十字社長、貴族員議員など
(コメント)ここで内村は、来世信仰が、この世での具体的行動となって現れることを、事例をもって示している。

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9.再臨わかって聖書わかる

9.再臨わかって聖書わかる

 内村は、しばしば、「再臨わかって聖書がわかる」、「再臨わかっキリスト教がわかる」といったことを言っている。
 といっても多くの人には再臨はわかりにくい。再臨は「キリストが、この世の終わりの日に再びこの世に現れる」といったことである。信仰的には、神への信頼待望、神の審判、そして来世といったことかと、筆者は思う。
 内村は「再臨わかって聖書がわかる」と言うが、聖書をさほど読まず、また、聖書のわからないところは、そのままにして読むような人には、実感は少ないと思う。しかし、聖書を深く勉強する人にとっては関心のあることだと思うので、日記4つを紹介しておく。

日記(キリストの再臨わからずしてキリスト教わからず)
 内外平穏、精力に余裕を生じ、聖書の研究以外に天然の研究に興味多し。何ゆえに、かかる平穏の生涯を初めより送り得なかったのであるか。いまにいたって不思議に思う。ひとつは、教会と関係したからであろう。他のひとつは、キリストの再臨がわからずして、キリスト教がわからなかったからであろう。もし初めより再臨がわかって、教会と関係しなかったならば、余の信仰的生涯は平和の連続であったろう。
〔1919年(大正 8年)11月 6日 59才〕

日記(再臨信仰いだいて、多くの神学書必要なきにいたれり)
 キリスト再臨の信仰をいだくを得て、聖書の意味が判明せし以来、多くの神学書を読むの必要なきにいたり、金と時間と精力との余裕が生じたれば、再び青年時代の科学熱を復興し、時々天然の研究に没頭し得るにいたりしは感謝のきわみである。
〔1919年(大正 年)11月 1日 59才〕

日記(聖書の本性を来世教と見て意味は一読瞭然)
 世につまらないものとて現世的キリスト教のごときはない。それは意味のないものである。聖書を現世的に解釈せんと欲するがゆえに、限りなき無益の注解が要(い)るのである。その本来の性たる来世教として見て、その意味は一読瞭然である。
〔1929年(昭和 4年) 5月20日 69才〕

日記(再臨除いてキリスト教が残るという人は聖書の神髄を知らない人)
 久し振りにてキリスト再臨の信仰の光をもって聖書を読み、時のうつるのを知らなかった。ロマ書 8章19節以下、ピリピ書 3章20・21節、コロサイ書 3章 3・4 節、ヘブル書 9章27・28節、いずれも、なんと希望にあふれる言葉でないか。これなくして聖書は神の言葉でない。これあればこそ、われらはすべてのものを捨てて、聖書にすがるのである。
 キリスト再臨はユダヤ思想であって、これを除いてキリスト教が残るのであるという人たちは、聖書の教えをその神髄において味おうたことのない人たちである。昔の大聖書学者たちは、たいてい熱心なる再臨信者であった。
〔1929年(昭和 4年) 5月 9日 69才〕

(参考)再臨について
 矢内原は、「再臨と言いますのは、この世に来られたキリストが、十字架につけられて死にました。 3日目に復活し、更に40日の間地上で弟子たちに現れたが、遂に天に昇られた。その天に昇ったキリストがもう一度地上に現れる、という信仰なのです。」と説明している。(『矢内原忠雄全集』15巻 508頁)
 また、ある辞書は、再臨を「十字架上で死に、復活昇天したキリストが、世界の終わりの日にふたたびこの世に栄光の姿を現し、審判を行い、救いを完成すること」と解説している。
 浅見仙作は「来世観念(即ち再臨待望)」と言っている(三章8下段参照)。浅見の再臨の内容は、神への信頼・待望、来世ということであろう。

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1.信者は希望を語れ

第三章 信徒のあり方

 筆者が公開日記を読んでつかんだ内村の信仰の特徴は、前章のとおりであるが、なお、丹念に読み直したことろ、特徴としてあげるべきものが幾つかあった。この章では、それらを、「信徒のあり方」といった視点で整理してみた。

1.信者は希望を語れ

 内村は関東大震災(1923.9.1)の 5日目(9.5)に、玄関の入口に「今は悲惨を語るべき時ではありません。希望を語るべき時であります。……」と張り出した。また、日ごろ、「信者は過去を振り向くな」「悲嘆の事を語るな」「前を望め」「未来を望め」などと言っていた。関連の日記3つをあげておく。

日記(過去を顧みるはこころよしからず)
 田村直臣君の牧する巣鴨教会設立50年記念感謝会の催しあり、自分も出席して一場の感想を述べた。明治初年の多くの生ける歴史に接して感慨無量であった。ただし過去を顧みるはキリスト信者の快(こころよ)しとせざるところである。パウロと同じく、われもまた「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(ピリピ 3:13・14)である。
 過去はどうあってもよい。善事はすべて未来においてある。われらの目前に、無限の希望を蔵する無限の未来が置かるるを思えば、過去を顧みるの必要はなくなる。自分は小なる預言者として、無限の未来を望みつつ一生を終わろうと思う。
〔1926年(大正15年) 4月 3日 66才〕
(注)田村直臣(1858〜1934)は日本基督教公会の牧師。留学中に米国で出版した『日本の花嫁』が、日本の女性を不当に低く評価したとして、教職の資格停止となる。その後、独立の巣鴨教会(東京)を設立し、苦学生育英事業、日曜学校など数多くの活動をした。内村とは親友といえるほど親しかった。

日記(喜びの福音は声を張り上げて語れ)
 沈黙は金であると言うが、金なる沈黙は絶対的沈黙にあらず、悪を語らざることである。不平を語らず、悲痛を語らず、ことに他人の悪事を語らず、人生の暗き反面については能(あた)うかぎり沈黙を守る。それが金の沈黙なのである。
 されども喜びの福音はこれを声を張り上げて語る。わが感謝と歓喜とはこれを語って、はばからず。これ悪事でない。善事である。
 世には沈黙の悪鬼がいる。いかなる場合にも語らず、沈黙を守るを能(のう)とし、語るを危険視し、他人をして語らしめて、自分は語るの危険を避けて黙する利益を収めんとする自己中心の沈黙家が多い。かかる沈黙は、金にもあらず、銀にもあらず、銅にもあらず、鉛にもあらず、泥である。味を失いたる塩である。
〔1928年(昭和 3年) 3月24日 68才〕

 つぎは「信者は楽観主義者である」という日記である。「希望を語れ」と「楽観主義者である」とは、ニュアンスが異なるが、双方とも神への深い信頼がベースとなっている。

日記(神の人は知恵ありて楽観主義者なり)
 世人はほとんどそのすべてが悲観主義者である。その医者も政治家も宗教家も、みんな悲観主義者である。「あぶない。駄目だ。これではいけない」と彼らは口をそろえて言う。されども、われら何びとも善くする道を知らない。彼らはただ、危険、堕落を叫ぶのみである。
 その点にいたると神の人はちがう。神の人は危険を知ると同時にこれを避くるの道を知る。彼は根本的楽観主義者である。彼は世に多くの悪事のあるを知るが、同時に、善事の悪事を超越しつつあるを知る。この世の知恵の常に消極的なるに代えて、神の知恵は常に積極的である。かくて神の人は世の人のうちにありて限りなき不快を感ずるのである。
〔1927年(昭和 2年) 8月20日 67才〕
(注)内村は雑誌『インテリジェンサー』で、「万物の、善なる根源的意志であり給う神を信ずる者は、悲観主義者ではあり得ない」(「一楽観主義者の告白」1926.3)、「私は徹底せる楽観主義者である。それは私が神を信ずるものだからである」(「神への信仰」1927.1)と書いている。
(『英文雑誌による内村鑑三の思想と信仰』)

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2.信仰は表白せよ

2.信仰は表白せよ

 内村は、信者が自分の信仰を、周囲や社会に向かって表白(表明)することを、極めて大切なこととしている。関連した日記と談話をみておこう。

日記(信仰の表白なくして信仰なし)
「もしなんじ、口にてイエスは主であると公(おおやけ)に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」との、ロマ書10章 9節の言について、終日考えた。心に信ずるは易(やす)し。難(かた)いのは、口に言い表わすことである。
 社会に立ちて、「われは主イエスを信ず」と表白し得る信者は、はなはだまれである。じつに信仰の表白は小事ではない。これなくしては、じつは信仰はないのである。「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」(マタイ10:32-33)とのイエスの言の、深き真理なることは、日本のごとき不信者国にありて覚(さと)らるるのである。
〔1919年(大正 8年) 3月11日 59才〕

日記(われは日本のクリスチャンなりと告白して戦え)
 日本人の多数は、キリスト教を信じて断然ひとり立って、「われは日本のクリスチャンなり」と言い得ないのである。彼らは、メソジストだとか、バプチストだとか、クリスチャンだとか、その他いろいろの外国人(主として米国人)の立てた教会に入って、その信仰を維持せんとするのである。そうして外国人の教会に入るを好まざる者は、自らクリスチャンと称するをはばかり、あるいは文化運動だとか、あるいは社会事業だとか称して、キリストの聖名(みな)を公表せずして、彼らの宗教生活を営まんと欲するのである。
 じつに意気地のない次第である。何ゆえに外国人に依頼することなくして、われは日本のクリスチャンなりと告白して、この不信の世と戦わざるか。余はこのことを思うて、時々憤慨にたえない。外国人の袖にすがらざればクリスチャンとして立つあたわざる日本人、キリストとその十字架を公表して、この不信の世に処するあたわざるキリスト信者は、日本人としても、またはクリスチャンとしても、価値の少ない者ではないか。日本においても、西洋におけるがごとく、勇者の時代はすでに過ぎ去ったのであるか?
〔1920年(大正 9年) 9月27日 60才〕

 つぎは内村が斉藤宗次郎らに語ったものである。

談話(信仰を世に明らかにするバプテスマをやってみては)
(聖書研究会)会員の精神が判るにはバプテスマを施(ほどこ)すとやってみたらどうかと思う。救わるるためのバプテスマではない。キリストに従う信仰を世に明らかにするためである。そうしたら半分以上は逃げてしまうであろう。
(1929.10. 5、『恩師言』)

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3.伝道心あって本当の信仰

3.伝道心あって本当の信仰

 内村は公開日記では、読者に向かって強く伝道を勧める発言をしていない。しかし、信仰にとって伝道心が大切なことをしばしば述べている。

日記(知識も信仰も受くるのみでは腐敗する)
 清水も、たまっていては駄目である。動き始めて用をなすのである。湖水の静けさはここに急流、瀑布(ばくふ)の音に変わる。かれなるは善し。これなるはさらに善し。ああ人もまた、いつまでも沈思黙考にのみふけってはならぬ。
 十和田湖が奥入瀬(おいらせ)川となりて動くがごとくに、ついには働き始めねばならぬ。知識も信仰も受くるのみでは腐敗をかもす。与えねばならぬ。与えんとせざる水にも人にも、ザンブとばかり飛び込んで親しまんとする気がおこらない。ああ果てしなき読書家、本食い虫、聖書道楽、彼らは受くるのみにて与えざるがゆえに、出口なき死海のごとくに、その水腐れて地と人とを毒す。しかるに十和田湖はさいわいである。彼は子之口(ねのぐち)に吐口を有す。
〔1920年(大正 9 年) 8月16日 60才〕

日記(伝道心なくして信仰の維持発展はかれず)
 夜、講堂において、世界伝道協賛会の例会を開いた。出席者30名。シナより喜ばしき音信を報告し、また今年より、わが内地における夏期伝道の開始をうながし、伝道心の振起を計った。
 わが(聖書)研究会の大欠点は、会員各自が自己修養にのみ熱中して伝道心に乏しきことである。かくては自己修養もおこなわれず、まことに嘆かわしき次第である。伝道は他人のためよりも自分のために必要である。これなくして、信仰の持続、発展を計ることはできない。
〔1924年(大正13年) 5月 8日 64才〕
(注)世界伝道協賛会は、内村らが1922年(大正11)に創設。毎月 1回開催。世界伝道のために祈り、献金を捧げた。献金は中国、台湾、南洋諸島などに送られた。

日記(慈善の快楽にとらわれて福音宣伝の義務を怠るな)
 市内に、ある紳士淑女を訪問して、聖書研究会を代表して、少しばかりの慈善を依託した。まことに楽しき役目であった。しかしながら注意すべきは、慈善の快楽に誘(いざな)われて福音宣伝の義務を怠ることである。
 奸悪(かんあく)なる現代は、慈善をほめはやして、福音を踏みつける。かかる場合において、慈善は大なる誘惑である。そして米国流のキリスト教が今日のごとく堕落したる理由のひとつは、この誘惑に負けたからである。われらは現代に逆らうためにだけでも、慈善よりも福音を重んずべきである。
〔1922年(大正11年) 9月19日 62才〕

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4.信仰箇条より誠実、公平

4.信仰箇条より誠実、公平

 内村は自分の信仰を十字架教、待望教、来世教などといった。贖罪(しょくざい)、再臨などを大切にしていた。しかし、内村は誠実、公平、愛などといった、人間としての基本を、より大事にしていた。関連する日記3つをみておこう。

日記(信仰箇条より誠実、公平)
 余はキリストの再臨を信ずると言う。しかしながら、再臨を信ぜざる者は善からずとは言わない。再臨を信ずる者、信ずると称する者のうちにも、多くの悪人と偽善者とがある。いまだ信ぜざる者のうちにも、多くの敬すべき愛すべき人がある。
 人の善悪は、彼が公表する信仰箇条によってはわからない。再臨しかり。贖罪しかり。神性しかりである。余は、しかり、余はこれを信ずる。されども、これを信ずるがゆえに特別の善人ではない。余は、余の公表する信仰箇条によって、余の善悪を判別してもらいたくない。余は誠実なるか、公平なるか、勇敢なるか、ことに国と人とを愛するか、余の価値は、これら普通の道徳標準によって定まるのである。
 余の同志は誰であるか。余の兄弟は誰であるか。必ずしも再臨を信ずる人ではない。その他の信仰箇条において余と公表を同じゅうする者ではない。主イエスが言いたまいしがごとくである。「…わたしの兄弟とはだれか……神の御心(みこころ)を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹……なのだ」(マルコ 3:33-35 )
 信仰箇条を結合の基礎とすればこそ、憎むべき厭(いと)うべき教会が出現するのである。真個の無教会主義は、信仰箇条によらずして、義と愛と光の上に立つところにおいてのみ、おこなわる。
〔1920年(大正 9年) 7月15日 60才〕

日記(クリスチャンでなくとも愛さえあればよい)
 この日、またまた特別に愛の必要を感じた。何があっても愛がなければ、クリスチャンではない。しかり、よしクリスチャンでなくとも、愛さえあればよい。世に冷酷無情のクリスチャンあるを見るとき、余はクリスチャンならざるクリスチャンとなりたく思う。
 クリスチャンたらざることは何でもない。されども愛なきことは死である。愛を得んためのキリスト教である。キリスト教によって愛を得ずして、キリスト教はなきと同然である。アア、ひとえに愛する者とならんことを。
〔1921年(大正10年) 5月28日 61才〕

日記(主義の人たるよりは信仰の人たるべき)
 余も一時は主義の人であった。すなわち自分が義(ただ)しいと信ずることは固くとって動かず、また他人にもこれを施(ほどこ)さんと努めた。しかるに神の恩恵により、余は徐々として、主義の人たるよりはむしろ信仰の人たるにいたった。今はただ神のひとり子を信ずるをもってわが義なりと信じ、自分の主義とてはほとんど無きにいたった。これは軟化でもまた退化でもない。聖化であると信ずる。
 主義の捕うるところとなりて、狭隘(きょうあい)また窮屈ならざるを得ない。わが主義を放棄して、神の義なるキリストをわが義となして、われは海の広きがごとくに広くあり得る。主義の人たるは悪くない。されども、さらに進んで信仰の人たるべきである。
〔1925年(大正14年) 5月 1日 65才〕

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5.おのれよりおのが地方を愛せ

5.おのれよりおのが地方を愛せ

 内村の信仰は、日本とか世界に向いている。自分が救われる以上に、社会が救われることの願いが、信仰の一部になっている。関連する日記をみておこう。

日記(おのれ自身よりおのが地方を愛せ)
 おのが地方よりも日本国を愛する者、おのが教会よりもキリストの福音を愛する者、その者が本当のクリスチャンである。しかも、そんなクリスチャンは寥々(りょうりょう)たること、雨夜の星よりもまれである。たいていのクリスチャンは、日本国よりも、おのが働き場所を愛し、キリストの福音よりも、おのが教会を愛する。かかる人は、じつは、おのが地方よりも、また、おのが教会よりも、おのれ自身を愛するのであって、つまり不信者であって、クリスチャンではないのである。
 世に、なさけないこととて、国のこと、福音のことを語るも、はなはだ冷淡であって、自己のこと、自己の属する団体のことを語る時にのみ熱心なる、いわゆるクリスチャンの饒多(じょうた)なることのごときはない。教会といい、クリスチャンといい、その千分の九百九十九までは自己中心主義の不信者であるように見える。
〔1920年(大正 9年)12月11日 60才〕

日記(神はわれら用いて国を救うと信ずる)
 ある洋行帰りの教友に左のごとくに語った。
「日本を善くする方法はいくらでもある。しかし、これをおこなうことができない。この政府、この政党、この新聞紙をもってしては、日本国のために何の善きこともなし得ない。いずれも第一に自己の利益を求むるものである。国のために自己を忘れるというがごとき政治家または新聞記者がいようとは思われない。
 今のところ、日本はその滅亡を待つまでである。しかし神は日本を愛したもう。そしてわれら小なりといえども神の聖意(みこころ)をなして置けば、神はその聖意に適(かな)う時に、必ず用いて、この国を救いたもうと信ずる。
 今日の日本において政治運動や社会運動に従事して、何の善きことのできようとも思わない。ただコツコツとひとり静かに働いて、永遠の岩の上に堅き事業を築き、神がこれを祝福したもう時を待つまでである。私の生涯の実験が私にこの知恵を与えてくれた」
と。善き勧告をなしたと思う。
〔1928年(昭和 3年) 4月 3日 68才〕

日記(国を救わんと欲して信仰に入りし人たち)
 今日は綱島佳吉君が尋(たず)ねてくれた。先日はまた海老名弾正(だんじょう)君夫婦が見舞うてくれた。信者の愛と言うよりも「武士に対する武士の礼」と言いたい。今やキリスト教信者はたくさんにあるが、まれなるは、日本武士の魂を失わざる信者である。これらのふるい友人はいずれも、自己の救われんことよりも、まず国を救わんと欲して信仰に入りし人たちである。それゆえに特別に貴いのである。そして国を救い得ざりしも、キリストに知られてその僕(しもべ)となるを得たのである。彼らに会うて、涙で胸が一杯になるを覚ゆ。
〔1929年(昭和 4年) 6月 7日 69才〕
(注)綱島と海老名夫婦が訪問したのは内村の病気見舞い。
 綱島佳吉(1860〜1936)は東京の番町教会牧師、民間外交使節として米国、朝鮮、イギリスなどに行く。
 海老名弾正(1856〜1937)は同志社卒業後、牧師に。1897年から本郷教会(東京)牧師。この時期、多くの聴衆を集める。また、言論活動で吉野作造らに影響を与える。強いナショナリズムと自由主義的神学で国士的キリスト者といわれた。

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6.他人の罪をになえ

6.他人の罪をになえ

 内村は、「信者は他人のことを思え」といった趣旨のことを、なんども言っている。ただ、その言い方はいろいろである。そこで、ここでは、「他人の罪をになえ」と「善を行え」の日記 2つを取りあげる。

日記(友のために命を捨つ、これより大いなる愛はなし)
 一友人の一身上に起こった出来事より、他(ひと)の罪を担(にな)うの、いかなる事であるかを実験的に教えられて、神に感謝する。
 人の罪を担うとは、彼の受くる恥辱を受け、彼の耐ゆるそしりに耐え、すべての点において、自らその罪を犯さざるに、彼と苦難(くるしみ)を共にすることである。これは最もつらいことであるが、しかし、かくなしてこそ、友の友たる義務を果たすことができる。そうして、イエスがわがためにこのことをなしてくださったと知って、じつに感謝にたえないのである。イエスは御自身、罪を知りたまわざりしに、わが罪のために恥(はずかし)められ、そしられ、そうしてついに殺されたもうたのである。
「人、その友のために生命(いのち)を捨つ。これより大いなる愛はなし」と彼が言いたまいしは、事実そのとおりである。このことを知らないで、この世のいわゆるキリスト信者輩が、義人と名誉を分かたんとのみ欲して、罪人と恥辱を共にするを忌(い)みきらうは、キリストの心を知らざるの最もはなはだしいものである。罪人の友たるの地位に置かれて初めてキリストの愛の深さが推し量らるるのである。
〔1922年(大正11年) 5月31日 62才〕
(注)内村はこれと似たことを1930.1.2の日記に書いている。

日記(善人は善をなさずにはいられない)
 罪のこの世にありて、善をなしても容易に報(むく)いられない。のみならず、多くの場合において、善をなすがゆえに身に災害を招くにいたる。もっとも安全なる道は――日本のごとき悪しき社会においてはことにしかりである――、もっとも安全なる道は、自ら進んで善をなさざることである。イエス様も、もし人を救わんと欲したまわなければ、十字架にかかりたまわなかったに相違ない。
 しかしながら、善人は善をなさずにはいられないのである。自ら身に損害を招くと知りても、懲(こ)りも性(しょう)もなく、善をなさんと努むるのである。そうして善をなすは無益でないのである。今は報償(むくい)は来たらない。今はかえって人に、ばかにされる。しかし、蒔(ま)きし善を収穫(かりと)る時は必ず来たるのである。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業(わざ)に常にはげみなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(汽灰螢鵐15-58 )とのパウロの言は、信者の生涯において、時々刻々忘るべからざるものである。
〔1921年(大正10年) 4月30日 61才〕

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7.宗教のみに没頭するな

7.宗教のみに没頭するな

 内村は、聖書のみに、宗教のみに没頭しすぎることを警戒していた。そして、聖書の勉強のかたわら、科学や哲学や自然の勉強をしていた。また、人の相談相手になって俗世間とかかわることの大切さも意識していた。日記3つをみておこう。

日記(聖書研究に高き感情は大禁物)
 聖書研究にもっとも必要なるものは、いわゆる乾燥せる識能である。高き感情は、この研究には大禁物である。そうして乾燥せる識能を養うにもっとも有効なるものは、厳密なる科学と哲学の研究である。
 自分は近ごろは毎朝、聖書のほかに、およそ 1時間あるいはそれ以上を、哲学書の精読に費やす。そうして、かくのごとくにして準備せられたる頭脳をもって(祈祷をもって準備せられたる心の他に)、聖書の研究に臨む時に、その意味が一層よくわかりて、感謝である。自分のもっともきらうものの一つは、聖書のみをもってする聖書の研究である。よし専門の学者たらんとするも、神が各自に賜いしすべての知識、ことに健全なる常識をもってこれに臨むは、もっとも必要である。
(コメント)ここで、筆者は、内村が「聖書のみをもってする聖書の研究」をきらうことに注目した。
〔1923年(大正12年) 5月25日 63才〕

日記(人生の事実に接して真理の深きを探りうる)
 毎年上半期には、いやな問題にて悩まされる。昨年は狂人と近代人とに悩まされ、精神病者は病院に入院し、近代人たちには研究会を去ってもらって事が済んだ。今年は他家の結婚問題に悩まされ、今なお、その後始末最中である。かくて余のごとき隠遁者(いんとんしゃ)もこの世のことを直接に示されて、不愉快なるにかかわらず、すこぶる有益である。
 書を読むのみが真理を知るの道ではない。善悪にかかわらず人生の事実に接して、真理の深きところを探ることができる。今日の日本人の心理状態を示されて痛嘆のいたりである。腹が立つ。しかしまた彼らをあわれまざるを得ない。
〔1925年(大正14年) 5月30日 65才〕
(注)ここで内村は、自分のことを隠遁者といっている。これは、内村が聖書の勉強のため自宅書斎にいることが多かったことを指していると思われれる。
 俗事に係わることから得られることについては、六章の 5、 6が参考となる。

日記(この世の問題に引き込まれて、聖書の味が強く感ぜらるる)
 久しくこの世の門に容喙(ようかい)して、わが霊魂が、塵(ちり)につきし感があったが、秋冷到来と同時に元の聖書に帰り来りて、清興(せいきょう)この上なしである。
 神の聖語を取り扱う時に、米国が何をなそうが、日本がいかになり行こうが、心配さらになしである。神の聖旨(みこころ)が必ずなると信ずれば、世界何事も可ならざるはなしである。しかし人間である以上は、たまにはこの世の問題に引き込まるるはやむを得ない。たぶん、この事あるがゆえに、聖書の味が一層強く感ぜらるるのであろう。
〔1924年(大正13年) 9月24日 64才〕
(注)
⑴容喙:横合いから差し出口をすること、清興:上品な楽しみ
⑵内村はこの年(1924)、アメリカの排日移民法を批判し、キリスト者との会合や新聞雑誌への投稿に時間をさいていた。
(コメント)内村は『万朝報』時代の仲間の山県五十雄や斯波貞吉などと、半定期的(とみられる)に「新聞記者晩餐会」(1895年開始)と称して会っていた。内村は「余にとりて、この会合は、余がこの世の事について学ぶ唯一の機会であれば、余はめったに欠席したことはない」と書いている(日記 1920.7.8)。

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8.内村の教会観

8.内村の教会観

 ここで内村の教会観を示しておこう。内村といえば無教会主義である。そのため、内村の教会観を知っておくことは大切である。

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日記(米国に教会を悪魔視するキリスト信者の一団が)
 米国宣教師某氏の訪問を受けた。氏は自身、無宗派主義者なりと言いて、現代の諸教会をきらうこと、はるかに余以上である。余が、余によって信仰を起こせし者の、教会に入るを妨げざるのみならず、かえってこれを喜ぶと言いしに対し、彼は、これ子供を悪魔の手にゆだぬるにひとしと言うた。激烈なる教会反対論者もあるかなと余は思うた。余をもって教会反対の張本人と見なす者はまちがっている。米国において、現在の教会を悪魔視するキリスト信者の一団あることを知って、余は非常に驚かされた。
〔1920年(大正 9年) 6月22日 60 才〕
(コメント)このように内村は何から何まで教会を拒否した人ではなかった。また、内村は長年の日記のなかで、内村以上の教会批判者がいることをなんどか書いている。

内村が教会にきびしい評価をくだす日記
 内村の日記には、教会と無教会に関する文章がたくさんある。それらを丁寧に読んでいくと、,砲かわらず、全体的には教会に対する評価はきびしい、と筆者はみる。次の日記は、それを示すもののひとつである。

日記(教会に入らざる者、その人はさいわいである)
 東京より来たりし、ある教会の牧師に、キリスト教界に関する善きこと、悪しきことをたくさんに聞かされて、わが心の神聖を維持することができなかった。
 余にとりて教会は大禁物である。これに関連して、余に善きことの臨みたる例はひとつもない。教会は独立しても、やはり教会である。教会に入らざる者、これを知らざる者、その人はさいわいである。主イエス・キリストの福音は、外国宣教師らによって輸入されし教会によって、いかに汚されしよ。いかに寛大なる心をもってこれに対しても、余は教会をキリストの宮として見ることはできない。心霊の平安を妨げ、兄弟の平和を乱し、福音の純潔を汚すものにして、今日の教会のごときはない。余はかく言いて、誤りなき事実を述べつつあると信ずる。
〔1921年(大正10年) 8月28日 61 才〕

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 内村は「福音と無教会主義とは関係のないものではない」(日記1927.9.1)と言っている。そのことが良く現れている文章を、内村の数多くの無教会主義に関する文章のなかから選んでみた。

評論(私の無教会主義は信仰唱導のための主義であった)
 私は無教会主義を唱えた。今より30年前、人がいまだこれを唱えざる時に唱えた。……
  私の無教会主義は主義のための主義でなかった。信仰のための主義であった。人の救わるるはその行為によらず信仰によるとの信仰の帰結として唱えたものである。ゆえに罪の悔い改めの経験なき者はとうていこれを解し得なかった。されどもこの貴き経験を持たせられし者は喜んでこれを迎えた。教会攻撃のための主義でなかった。信仰唱導のための主義であった。
 まず第一に十字架主義の信仰、しかる後にその結論としての無教会主義。十字架が第一主義であって、無教会主義は第二または第三主義であった。私が時に強く教会を撃ったのは、その信仰において福音の真理に合わざるものがあったゆえである。私は傲慢(ごうまん)無礼の米欧宣教師を憎んだが、いまだかつて教会そのものを憎んだことはないつもりである。……
 私はかく唱えて、教会と和睦せんと欲するのでない。私は教会や宣教師に好まれざることを好む。教会にきらわるるは、私の信仰の純真を守るがために必要である。私がもし今日まで教会と親しんだならば、私もまた彼らと共に信仰堕落の淵に沈んでいたであろう。
(「(無題)」1930年 1月、未発表のもので題名はなかった)

(参考1) 内村以外の無教会主義論をひとつみておく。
 浅見仙作は「無教会主義の特徴と信条」のなかで、次のように書いている。
「無教会と教会との間には信仰的には本質的な差異あり、その著しき差異は信仰を純粋に絶対的に把握するか否かにあり、我々が無教会主義を高調する理由は
(イ)現代教会の根本精神は神本位にあらずして、人本位なり、彼等は究極において神のことを思はず人のことを思う。
(ロ)現代の教会は真理そのものの故に真理を愛する。
(ハ)現代教会には信仰なし、信仰とは何か、罪人としての自分の絶対的地位を認識して、ただキリストイエスの功により絶対的無条件に神に依り頼むこと、それより他に真の信仰なし。
(ニ)現代教会は来世観念(即ち再臨待望)無し、現代教会は著しく現世主義者に属す。
(ホ)現代教会は貞潔を知らず、彼等は悪しき世と苟合(こうごう)す。
(ヘ)現代教会は信仰よりも制度たる教職、洗礼、その他の儀式又は教会規約、献金等々、人為的なものにのみ囚(とら)われおるゆえに、我等は信仰に依りてのみ義とせらるるパウロの信仰への復帰のために、無教会を主義とするものなり。」
(無教会史研究会編『無教会キリスト教信仰を生きた人びと』)
(注)
⑴浅見仙作(1868〜1953)は内村に師事した無教会キリスト者、札幌及び近郊で開拓農業や浴場業をしながら伝道を行った。「無教会主義の特徴と信条」は、浅見が治安当局の取り調べにあたって、書くよう求められた(1943.7.30 )。
⑵浅見と似たことを藤井武が個人誌『旧約と新約』(73号、1927)に書いている。浅見の(イ)〜(ホ)までは、藤井とほぼ同じ、藤井のものは『聖書之研究』(1927年 2月)にも掲載された。藤井については七章1中段参照

(参考2)
 1.外国教会からの金銭的独立
 2.教会の内村攻撃
 3.内村の教会批判

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1.人を一人一人助けること

第三章 伝道の目的と方法

 内村の伝道の目的と方法といったことについて、公開日記から9項目についてみておこう。

1.人を一人一人助けること

 内村は1900年(明治33、40才)に『聖書之研究』を発行した。以後、その継続に専念し、亡くなるまで続けた。発行の目的は伝道であるが、内村は創刊号で、「生かさんがため」「癒(いや)さんがため」「慰(なぐさ)むるため」「愛の宣伝のため」などと書いている。つぎの 4つの日記はそれを示している。

日記(自分の伝道は人情より始まった)
 今より27年前に自分の書いた『キリスト信徒のなぐさめ』の校正を終わり、今昔の感に耐えなかった。自分ははじめより、ヒューマニタリアンであり、贖罪(しょくざい)信者であったのである。自分の伝道なるものは決して社会改良または教会建設を目的として始まったものではない。少しなりとも人を助けたいという人情より始まったものである。
 余はもとより宗教家と称せらるべき者ではない。弱い情(なさ)けの人である。預言者エレミヤの小なる者である。「わたしの頭が大水の源となり、わたしの目が涙の源となればよいのに。そうすれば、夜も昼も私は泣こう、娘なるわが民の倒れた者のために」(エレミヤ 9-1)と叫ぶ質(たち)の者である。……
 宗教はもともと、深き情けであり、詩であり、歌である。これが教会と変じ、神学と化するときに、最も忌(い)むべきものとなるのである。ああ帰らんかな、 『なぐさめ』時代に!
〔1919年(大正 8年)2月22日 59才〕
(注)ここで筆者は、内村の伝道は「少しなりとも人を助けたいという人情より始まった」に注目した。

日記(人を一人一人助くること、それが自分の伝道の動機)
 ある若き未亡人より、彼女の信仰の闘いについて聞き、一同、強き感に打たれた。
 自分が同情するものにして、日本婦人特有の貞操を守りつつ、キリスト教的信仰に堅く歩む者のごときはない。……
 自分にとりては、伝道は、教会を作ることでなく、また国家をどうするということではない。自分の力の範囲において人を助くることである。そうして、かかる人たちが、自分の宣(の)ぶる福音によって、たとえ一人なりとも助かりしということを聞いて、自分は大なる慰安を感ずる。人を一人一人助くること、そのことが自分の仕事である。自分が伝道を思い立った主なる動機はこれであった。
〔1922年(大正11年) 3月22日 62 才〕
(コメント)内村が職業とした伝道の目的が、「人を一人一人助くること」と知って、筆者はいささか驚いたが、同時に、この積み重ねが、内村の語ること、書くことに力を与えたと思った。

日記(余の伝道は人を慰めんがためである)
 岐阜県のある読者より、近ごろ左の書面があった。
「謹啓、本日、 8月号『聖書之研究』読了仕(つかえ)り、ずいぶん感謝せられ申し候。
 私ら夫妻は若くして両人とも病床に横たわる奇(くす)しき境遇にこれあり候。かかるおり、先生の熱烈なる「ヨブ記の研究」を拝読できうるは、なんという力強き印象に候や。私は日々、厚き厚き感謝と祈りをささげおり候。
 私ら夫妻は、現在の肉体のまま救わるるや、また来世の霊体にて救わるるや、とにかく愛の神に救わるることを信じ、平安にいたしおり候。 9月号も早く願い上げ候」
 これを読んで余は思うた、余の伝道なるものは、かかる人を慰めんがためである。余は教勢拡張、教会建設を目的に伝道するのではない。もし、かかる人ひとりだに救われ、また慰めらるるならば、余の伝道は成功したのである。……「この小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人……」とイエスが言いたまいしその言が、余の伝道の第一の動機である。伝道と言うがゆえに、事が宗教家らしく聞こゆるのである。伝道ではない。霊水の分与である。
〔1920年(大正 9年) 8月28日 60 才〕

日記(小集会ができれば充分である)
 高知県の某地より、左のごとき通信があった。
「……常に、いなかにいる私どもに対し、この上なき喜ばしき福音をお伝えくださることを深く感謝いたします。当地は小さい村落で、幸か不幸か、はんさな教会や、それに関する何物もありませんので、ただ月々送られる貴誌(『聖書之研究』)によって一同が養われています。一週 3回づつ、同信6、7 名の者の家を廻り持ちで集会し、常に主と先生とが中心にて慰(なぐさ)まれています」
 余輩は他にも、かかる集会のあるを知っている。大教会は作り得ずといえども、かかる小集会ができれば充分である。初代エクレジャ(教会)なるものが、かかる集会でありしことは、新約聖書が明らかに示すところである。本誌は主として、かかる人たちを目的として発行せらるるものであって、余輩は教会の人たちにきらわるることを、かえって喜ぶものである。
〔1926年(大正15年) 8月 9日 66才〕

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2.日本人に良心を作る

2.日本人に良心を作る

 内村の伝道の主目的は、「人を一人一人助けること」であったが、第二の目的は、日本全体を良くしたい、であった。そして、その日本とは、当時の日本であり、また、将来の日本でもあった。そのことを示す日記をみておこう。

日記(聖書を日本人に教えて良心を作る)
 西洋人は、日本人は良心のなき国民であると言うが、良心は国民に先天的にあるものではない。神の聖言(みことば)が国民の心に入って、その良心となるのである。
 そうして自分は一生の事業として、時を得るも得ざるも、聖書を日本人に教えて、新たにその良心を作ることができる。しかし、長い徐(おそ)い仕事である。ユックリと心を構えてなすにあらざれば、成すあたわざる仕事である。
〔1922年(大正11年) 4月28日 62 才〕

日記(聖書を説いて日本に清潔、勇敢なる文士を産出せんと)
 自分が聖書を説くは、今日の場合においては愛国的義務である。英国に聖書があったからこそ、ジョンソンやカーライルのごとき人物が出たのである。そうして余は今日の日本において聖書を説いて、数百年後の日本に、同じようなる清潔、勇敢なる文士を産出せんと欲する。
 牧師や宣教師のなす事をなすは大なる恥辱である。しかしながらキリストのためにこれを忍ばなければならない。ただしジョンソンにならい、教会の供する米は一粒も食わず、宣教師の給するパンは一片もとらざるは必要である。
〔1922年(大正11年) 7月 5日 62 才〕
(注)ジョンソン(1709〜1784)はイギリスの詩人、小説家。18世紀文壇の重鎮。カーライル(1795〜1881)はイギリスの評論家、歴史家。物質主義に反対した。

日記(『ロマ書の研究』で福音はわが同胞の間に広がろう)
 久しく品切れであった『ロマ書の研究』の新版(第 6版)ができて、非常にうれしかった。なんと言うてもこの書はわが著書中の中堅である。これに対して自分はひとつの聖き誇りを禁じえない。明治、大正の日本において、神がこの著を作(な)すの光栄を、教会の人に与えずして、無教会信者の自分に下したまいしことを感謝せざるをえない。これは監督たり神学博士たるに数等まさるの光栄である。
 日本人は当分の間、この書によりて、キリストの福音の何たるかを学ぶであろう。大会堂を建てずとも、この書をのこしておけば、福音はおのずから、わが同胞の間にひろがるであろう。七百ページの大冊の新たにわが前に横たわるをみて、賛美の歌の新たにわが心の底よりあがるを覚ゆ。
〔1929年(昭和 4年) 5月27日 69 才〕
(注)『ロマ書の研究』は1924年に出版。聖書講演会での話をもとに書かれた。
(コメント)内村の伝道は世界にも向かっていた。1922年から献金の形でシナ伝道などをしていた。その後、西洋へのキリスト教の逆輸出といったことを考え、山縣五十雄らと、英文月刊雑誌『インテリジェンサー』(主筆内村、1926.3から 2年間)を発行し、世界に向かって発言した。

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3.一人の真の信者を作れれば

3.一人の真の信者を作れれば

 内村の伝道活動についてみると、講演には多くの人が集まり、『聖書之研究』も、この種の雑誌としては良く売れていた。しかし、内村は信者を作ることの難しさを、しばしば語っている。

日記(一人を義人となすは大宇宙を改造するだけの事業なり)
 われは今日の教会の、事業、事業と叫ぶその信仰に服することはできない。スコットランドの大思想家デビッド・ウルクハートいわく、「余にとりては、人一人は大宇宙なり」……と。まことに偉大なる言である。人一人を感化し、これを義の人となすは、大宇宙を改造するだけの事業である。とうてい人力をもってなすあたわず、全能の神のみ、よくこの事をなすことができる。イエスはよくこの事を知りたもうた。しかるに今日の伝道はいかに?人を塊団(マッス)として扱いつつある。大宇宙を塊団として改造せんとしつつある。狂か愚か?         〔1918年(大正 7年) 9月 5日 58 才〕

日記(弟子は多くありとも子は少ない)
 理学士大賀一郎、大連(満州)より来たり、 2年ぶりにて相会してうれしかった。……
 彼、大賀は、ふるい角筈(つのはず)12人組の唯一のレムナント(信仰的残存者)である。他の理学士、文学士らはことごとく余を離れたが、彼一人残っている。余にとりては貴き一人である。そうして彼一人を得んがためには、99人の背信者を出しても惜しくはない。「あなた方にはキリストにあって一万人の養育係がいるとしても、決して多くの父親はいないのです。キリスト・イエスにあって、わたしが、良いたよりを通してあなた方の父親となったのです。」とあるがごとく、弟子は多くありとも子は少ないのである。信仰と祈祷と苦痛をもって生みし信仰の子供は、値高き真珠よりも貴くある。
〔1919年(大正 8年)12月 4日 59 才〕
(注)角筈は内村の自宅兼仕事場、東京新宿駅の西、1899〜1907年まで在住
(コメント)大賀一郎(1883〜1965)は東大卒業後、名古屋の八高の教師になったが、先輩教師から嫌われ、それがもとで満州に渡り満鉄に勤めた。満州で事変が起こったのち、軍部への抗議として退社。帰国後は官に仕える事を辞し、私立大学などに勤め、貧乏をしながら伝道もした。古代の蓮の花を開花させたことで有名。内村の期待に応えた一人のように、筆者には思われる。

日記(一人の本当のクリスチャンを作り得ば)
 ダイヤモンドは 1個有せばたくさんである。 2個、 3個と有るはぜいたくである。そのごとく、クリスチャンは一人できればたくさんである。百人千人と作り得るはずのものではない。われわれが一生涯の間に一人の本当のクリスチャンを作り得ば、それで感謝、満足すべきである。何十人、何百人と作らんとするがゆえに、失望、落胆するのである。福音は広く唱えることができる。しかしクリスチャンは容易にできない。余の43年間の信仰的生涯の間においても、たぶん 3人以上のクリスチャンを作ることを許されたのではあるまいと信ずる。
 聖書学者、社会改良者、道徳家、宗教熱心家……これらは作るに難くない。しかしながらクリスチャン……キリストと共に十字架につけられて、彼と共によみがえりし者、自分は死して、キリストが代わって自分のうちに生きたもう者、これは、人が作らんと欲して作り得ざる者、ダンヤモンドよりも貴く、宇宙何ものよりも価高き者である。彼一人を作ることを許されて、伝道は大々的大成功と称すべきである。
〔1920年(大正 9年)12月28日 60 才〕
(コメント)ここで、内村は「余の43年間…において… 3人以上のクリスチャンを作ることを許されたのではあるまい」と書いている。この意味は、筆者には、多少の推測は別として、それ以上はわからない。内村があまり口にしない厳しい見方があったのだと思う。

 内村は、本当のクリスチャンが数少ないことを悲観ばかりしていたわけではない。つぎは、ある会合での談話である。
「ある人はその一人悔改めは社会改良には何の効がある、手緩いことであるなどと言っている。しかるに実際一人の悔改めた信者は極めて広い強い事業をなし感化を与えるものである。」
(1902.2.10 理想団有志晩餐会 斉藤宗次郎『恩師言』)

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4.伝道は聖書を教えることで

4.伝道は聖書を教えることで

 キリスト教一般の伝道の方法は何なのか。キリスト教界にうとい筆者にはわからない。ただ、内村の伝道方法は聖書を教えることが第一であった。そして、講演より雑誌を重視していた。

日記(聖書的伝道でなければ日本国教化の希望は絶無)
 ウォーターハウス老人、再度の訪問を受けた。若きチャプマン氏も共にあった。いかにして有効的に日本人を福音化し得るかという問題について討議した。「聖書を教うるによりて」と余は答うるのみであった。
 今日までの教会の伝道が多くの効果をあげざりし理由は、聖書以外のことにあまりに多くの注意を払ったからである。そうして近ごろ渡来の若き宣教師のうちに、このことにつき覚醒せし者あるをみるは、喜ぶべきことである。
 過去50年間、この国において試みられし政治的、社会的、文明的伝道に代うるに、聖書的伝道をもってするにあらざれば、日本国教化の希望は絶無と称せざるをえない。
[1922年(大正11年) 4月11日 62 才]
(注)ウォーターハウス老人は米国の有名な平信徒

日記(聖書の真理を伝うれば人も救われる)
 気候は寒からず暑からず、聴衆は少なからず多からず……完全に近き聖会(聖書講演会)であった。
 聖書の研究であって、いわゆる伝道でもなければ礼拝でもない。しかし驚くべき神の聖旨(みこころ)を学んで、われらはおのずから教えられ、また彼に近づきまつる。じつに限りなくうるわしきは聖書(みふみ)の研究である。われらは自分の学識や熱心や人格をもって、人を感化せんとしない。真理や美がこのことをなす。この真理をさえ忠実に伝うれば、われも化せられ他(ひと)も救わる。容易にして、簡単にして、有力なる伝道法である。
〔1922年(大正11年) 5月 7日 62才〕
(コメント)内村は、自分自身が聖書を重視したことに関し、他の日記で次のように書いている。「聖書を説くのは……キリストに現れたる神の愛を説くのである」(1920.5.30 )、「聖書は美国(うましぐに)である。ユダヤ人のみならず、すべて土地なき、産なき、地位なき者は、聖書をその国となすことができる。そして聖書は産物豊富なる国である。その住民となりて何ら不足するところはない」(1927.8.23 )

日記(旧約の預言者がわからずしてキリスト教はわからない)
 旧約の預言者がわからずして、キリストとキリスト教とはわからない。余の真剣の聖書の研究が、37年前、米国に流浪中、預言書の研究をもって始まりしことを、今にいたって神に感謝する。余と余の信仰を誤解する多くの日本人あるは、彼らが預言書によらずして直ちにキリスト教に入らんとするからである。
 キリスト御自身が預言者であった。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、アモス、ホセアらの精神に触れずして、キリストを解することはできない。世に、骨のない愛情のみのクリスチャン多きは、彼らがまじめに預言書を研究しないからである。読めよ、大いに読めよ、旧約の預言の書(ふみ)を。
〔1922年(大正11年) 5月30日 62 才〕
(注)預言者は神から示された事を公に語る人。預言者の言動の記録が預言書。イザヤ、エレミヤらは預言者。
(コメント)宗派によっては新約のみを重視する。内村は旧約も良く勉強した。若い時に、「私はキリストと使徒からはわが魂を救うすべを学び、預言者からは祖国を救うすべを学んだのである」と書いている(『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』)。

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5.キリスト教の伝道は表白で

5.キリスト教の伝道は表白で

 内村は伝道にあたって自分の信仰を表白(表明)することを重視した。ただ、このことは公開日記にはあまり出てこない。そのため、晩年の内村には、この意識が薄かったのかとも思ってみた。しかし、1917年(大正 6)に、「使徒行伝を読むに、使徒らの伝道には手段方法なるものはなかった。彼らは神の導きのままに働き、ただ、その信仰を述べるのみであつた」と書いている(「伝道の今昔」)。考えは変わっていない。まず、日記をひとつみておこう。

日記(信仰を告白したる結果、人々に教師として仰がれた)
 キリスト教界の人物のひとりとして、植村正久氏、小崎(こざき)弘道氏と並び称せらるるの苦しさよ。自分は元々そんな者ではない。自分はレベレンド(教師)ではない。自分はただひとりのイエスの弟子である。自分は教会を作らんとしてキリストを信じたのではない。自分ひとりが救われんと欲して信じたのである。そしてその信仰を告白したる結果として、多くの人々に教師として仰がるるにいたりしは、自分にとり不幸この上なしである。……何よりも教職たるを恐れかつ忌(い)みきらう者である。
〔1926年(大正15年) 8月11日 66才〕
(注)植村正久(1858〜1925)は牧師。1904年に東京神学社を設立、伝道者の養成と神学教育を行った。日本におけるプロテスタント教会の確立者。
 小崎弘道(1856〜1938)は牧師。1880年に諸氏らと東京基督教青年会を設立、会長に。1913〜1922年まで日本基督教会同盟の会長。日本プロテスタントの中心的指導者。
(コメント)この日記で筆者は、内村が教師として仰がれたのは、「信仰を告白したる結果」に注目した。

 つぎに、伝道と表白に関し、『一日一生』(1926)所収のものをみておく。

評論(キリスト教の伝道は表白で)
 キリスト教の伝道は表白であります。これは「なんじ、罪を悔い改めよ」というのではなくして、「われわが神の恩恵(めぐみ)によりてかく成るをえたり、われはなんじにこのことを知らせんと欲す」ということであります。そうして有力なる伝道はつねにかかる伝道であります。パウロの伝道がかかる伝道であったことは、彼が幾回となく彼の改信の実歴を彼の聴衆の前に述べたことが聖書に記してあるのでわかります。そうしてこのことはまた、彼の書簡が訓戒的でなくして、自己発表的であるのでもよくわかります。神学研究はいかにその蘊奥(うんおう)に達するとも、キリスト教の伝道師を作りません。世に示すべき心霊的実験の事実を持たないものは、伝道師として世に出てはならないと思います。
(内村鑑三『一日一生』の10月10日、初出は「予定の教義」1904)

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6.伝道の秘訣は個人的接触

6.伝道の秘訣は個人的接触

 内村の伝道方法の第一は『聖書之研究』の発行、第二は聖書講演である。しかし、一人一人を相手にした伝道も重視していた。日記を4つ見ておこう。

日記(手紙は善き伝道の機会)
 ほとんど全日を手紙書きに消費した。内国人に外国人に、学者に平人に、限りなく手紙を書かねばならぬ。しかも大なる喜びであると同時に、また善き伝道の機会である。手紙一本、葉書一枚、決してゆるがせにすべからずである。
〔1918年(大正 7年) 9月 9日 58才〕
(コメント)内村は他の日記で、「手紙を書いて一人に語るよりも、原稿を書いて万人に語るのまさるを思うことありといえども、また一人一人に語らねばならぬ場合がある」と書いている(1926.8.20)。

日記(旅人をもてなす伝道は効果が著しい)
 地方より来客多く、今日は15人の大家族である。これまた善き伝道である。高壇上の大伝道と共に、家庭内の小伝道がおこなわる。前者は余の受け持ちであって、後者は主婦の職責である。そうして旅人をねんごろにもてなす伝道は、容易でないと同時に、効果のいたって著しい伝道である。もし聖旨(みこころ)にかなわば、余自身も、大伝道をやめて小伝道につきたくある。
〔1921年(大正10年) 9月24日 61才〕

日記(行為による伝道は、高壇からの説教より有効ではないか)
 出入りの職人にわずかばかりの心付けをなし、これに加えて無抵抗主義の福音を説きしところ、「これ天下の真理なり」と言うて喜ぶを見て、自分もまた非常にうれしかった。かかる伝道の方が、高壇の上よりなす説教よりもはるかに有効であるまいかと思うた。
 今日まで、わが家でなした最も有効な伝道は下女伝道だった。彼らの多数が福音の歓喜をいだいてわが家を去った。下男下女に対し、行為をもって伝道し得ない者は、クリスチャンの名を冒すべからずであると思う。
〔1929年(昭和4年)4月24日 69才〕
(コメント)女中の伝道はついては第七章3下段参照

日記(パウロの伝道成功の秘訣は個人としての接触にあった)
 大なる興味と同情とをもって『使徒時代史』(マクギファト著)を読んだ。パウロの伝道成功の秘訣は、演説、説教においてあらずして、個人としての接触においてあったとの説に全然同意せざるを得ない。使徒行伝は伝道歴史であるがゆえに、公的行為についてしるすところが多くして、私的行為について述ぶるところが少ない。ゆえに、行伝のみによりて初代伝道のありさまを知らんと欲して、われらは大なる誤謬におちいるの危険がある。そして教会は全体にこの危険におちいったのである。米国宣教師が自分の早いころの伝道をあざけりて「火鉢伝道」と称せし、その伝道法が、パウロのおもなる伝道法であったのである。
〔1926年(大正15年) 6月15日 66才〕

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7.最大の罪は改宗主義

7.最大の罪は改宗主義

  伝道を仕事として取り組んだ内村であるが、信仰を強制することは厳しくいましめていた。内村は、ある時、「来る者をば力を尽して救うべし、自ら行きて世話するなかれ。磁石石の如くなるべし、引きつける者となれよ」(1904.7.22『恩師言』)と語っているが、これが終生の姿勢だったのではないか。日記をみておこう。

日記(伝道は人を救うこと、教会員を作ることにあらず)
 昨日の講演旅行(茨城県のある村落)にて、だいぶんに疲れた。宗教と聞けば、洗礼を授けられて教会に引き込まれるのではないかとの心配を村民にまで起こさせるようになした人たちは誰であるか。欧米宣教師に使役せられて、信者狩り集めに従事するわが国の職業的伝道師らではあるまいか。かくて彼らは自己も天国に入らず、また人々の前に天国の門を閉ざす者である。われらはこのことにつき、村人を責むるよりも、これらの浅慮なる伝道師らを責めざるを得ない。
 伝道は人を救うことであって、教会員を作ることではない。沃饒(よくじょう)なる神の畑を荒す者はこれらの職業的伝道師である。福音のために、日本国のために、これらの人々に反省を促(うなが)さざるを得ない。
〔1926年(大正15年) 9月25日 66才〕

日記(最大の罪悪は、要求なしに他人に宗教をすすむる事)
 最大の罪悪は要求されざるに、他人に自分の宗教をすすむることである。しかもこれ、米国人が憶面もなく、はばからずしてなすことである。そうして嘆ずべきことは、日本人のある者が、これら下劣な米国人にならい、彼らによって伝えられし自分の宗教を他人にすすめて、そのことを善きことと思うことである。彼らは、余輩が頼みもせざるに、雑誌を送り書籍を寄せて、余輩を彼らの宗教に引き入れんとする。余輩はもちろん、かかる書籍に眼をふれない。ただちに、くずかごの内に葬る。真理は真理自身が推薦する。米国の小宗教家らにならい、これをうるさく人に強いつくる必要は少しもない。
〔1921年(大正10年) 3月28日 61才〕

日記(人が信仰を起こすは神の大能による)
 信仰を感化と見る人の多きに驚く。彼らは、信仰を起こすも感化、維持するも感化であると思う。
 信仰は感化でない。造化である。人が信仰を起こすも、これを維持するも、造化の神の大能によるのである。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」(汽灰螢鵐5-17)とあるがごとし。
 人の供する境遇や、寄する同情ぐらいで、人がクリスチャンになると思うは大なるまちがいである。信仰はそんな安価のものでない。これは神の特別の聖旨(みわざ)である。人としては、ただ祈って求むるよりほかに道がないものである。感化感化と称して、感化、境遇によって人工的にクリスチャンを製造せんとする近代人の意見に対し、自分は反対せざるを得ない。
〔1925年(大正14年)12月26日 65才〕

(参考)内村は家族にも信仰を押しつけなかった。これについて、息子の内村佑之は次のように書いている。
「私は鑑三から、どんな宗教教育を受けて成長したのか。それは、多くの人が興味を抱く点と思うが、あれほど干渉がましく圧倒的であった鑑三の、このことに対する態度は存外に自由だったのである。私は鑑三から、かって一回も信仰不足をたしなめられたことはなく、また自分の事業を継げと強制されたこともなかった。……
 鑑三が、私の思春期までの間に課した掟は、日曜日には、日曜学校なり、キリスト教の集会なりに必ず出席せよとか、日曜日は安息日として聖く守り……であった。これらは普通のキリスト教家庭でも守られていることで、特別のものではない。……
 それにしても、鑑三が、このような小さな掟を守らせながら、もっと大きい信仰問題について、強制がましい態度をとらなかったのはなぜであろうか。私は、このような小さな掟は基礎教育だと鑑三が考えていたためだと思う。その上に本当の信仰が生まれるのだが、それは、神の聖旨と各人の人と為(な)りとの問題であって、人間の強制できない領域だと、彼は考えていたのであろう。」
(内村佑之『鑑三・野球・精神医学』96頁、内村美代子『晩年の父内村鑑三』77頁)
(注)内村佑之(1897〜1980)は精神科医、東京大学教授

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8.おれを見るなキリストを見よ

8.おれを見るなキリストを見よ

 内村は「おれを見るなキリストを見よ」といったことを何度も言っていた。この意味は、信仰、伝道、教会、無教会、牧師、宣教師などを考えるうえで、とても大切である。
 人は誰でも神に願うことがある。困ったときは「神さま」と心の中で言う。この時、神と人の間には誰もいない。しかし、どの宗教にも僧侶(中保者)がいる。僧侶は神と人の間に入る。問題は、僧侶の行動如何によっては、信仰にマイナス面がでることである。
 内村は、研究会に来る人や雑誌の読者が、内村を好きになったり、きらったりして、結果として、キリストへの信仰がとぎれてしまうことを警戒していた。

 まず、内村をきらって神を離れそうな人に向けた言葉である。

日記(なぜ直ちにキリスト・イエスに至らないのか)
 自分の人格や品性にあきたらずして自分を去る者多きを聞かされて、かかる人たちに対して気の毒の感にたえなかった。
 この国に、理想的人物をあさりてやまざる人の多きを嘆ぜざるをえない。何ゆえに直ちに、 神にして人なるキリスト・イエスにいたりて無上の満足を感じないのであるか。自分のごとき者を完全の人なりと思うてたより来たりしことが、その人たちの不覚ではないか。自分は自分の著書によりて自分の罪人なるを表白したるほか、自分の完全を表明した覚えはさらにない。ゆえに自分にたよる人には今日直ちに自分を去ってもらいたい。
[1926年(大正15年) 8月16日 66 才]
(コメント)内村の日頃の発言からすると、ここでの主題は「自分を去ってもらいたい」ではなく、「何ゆえに直ちにキリスト・イエスに」いたらないのかという部分かと、筆者は思う。

談話(主キリストのみが中心なり)
 私(内村)の周囲に集ったと思うては大間違い、中心は私でないことは言う必要はない。私を中心とすれば多くの失望を持ちて帰るならん。主キリストのみが中心なり。
(1906年(明治39)8月3日 柏崎夏期懇話会 『恩師言』)

 つぎは、内村を好きになって神から離れそうな人に向けた言葉である。

談話(おれを見るな、キリストを見よ)
 先生が絶えず御苦心なさったのではないかと思うことは、いつも「おれを見るな、キリストを見よ」という御態度だった。
(江原祝「内村先生の思い出(一)」内村鑑三全集月報23)
(注)江原祝(女、旧姓黒崎)は1917〜1918年にかけて約半年間、内村の家で過ごした後、江原万里と結婚、その後も内村の家に出入りしていた。

談話(内村という名を忘れて神を賛美せよ)
 諸君の談話の中に僕の名が沢山に含んであるが、私はこの会において諸君のこの希望を失望さしてやろう。
 私は只水を運ぶ桶たるに過ぎない。桶は無論用あるが、桶は人の渇(かわき)に向って直接に功あるものではない。私は運水の功が、あるいは有るであろう。しかし重ねて僕の名を明かに言う必要はない。僕を忘れて神を賛美せよ。……
 私は只諸君より先きに生れたということ、諸君より先きにキリスト教を信じたということ、諸君より多く戦った経験をもっているということ、この 3件は確かに所有する。それ故にこのようなときにはこうするがよい。このようなことに対してはこう切り抜けるべきだということを語ることは出来る。
 この他においては先生でも師でもない。諸君が角筈を去る時には、内村という名を全く忘れて神を賛美して帰るべきだ。
(1902年(明治35年)7月12日 角筈夏期講談会 『恩師言』)

 以上、教会とか牧師について考える場合の参考になると思い転載を多めにした。なお、内村は自分のことをヤソ坊主ということもあった。

 終わりに、短い日記をのせておく。内村の教会に対する考え方がでている。

日記(個人個人、独立してイエスの弟子の道を歩むべし)
 札幌より金沢常雄君の来訪あり、いかにしてもっとも有効的に北海道においてクリスチャンとしての使命を果たさんかとの問題について相談を受けた。
 結局、われらは教会制度を離れ、個人個人に独立し、信仰を養い、また相互に助け励(はげ)まし、なるべく静かにイエスの弟子たるの道を歩むべしとの議に一致した。
〔1926年(大正15年) 7月 7日 66 才〕
(注)金沢常雄(1892〜1958)は一高時代に内村の聖書研究集会に入門。内務省を辞したのち、時を経て、札幌独立教会などで牧師となる。その後、独立伝道者となった。
(コメント)筆者は、ここでのポイントは「個人個人に独立」と「相互に助け励まし」とみた。

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9.なぜ内村に人が集まったか

9.なぜ内村に人が集まったか

 ここで、内村の伝道が成功した理由のいったんを示しておこう。
 成功のほどを示すのは難しいが、 2つ数字をあげておく。
 1919年(大正 8年)、東京大手町での日曜ごとの聖書講演会は、毎回 600人ほどの聴衆があった。いっぽう、このとき、東京市の約 100の教会と説教所の平均出席者数は20人に満たなかったという。
 1919年の『聖書之研究』の発行部数は3500部だった。当時の人口は 5千 5百万人ほどで、これを考慮すると、この種の雑誌としては相当な数であった。
 内村の伝道が成功していたことに関し、 2つの日記を紹介しておく。双方とも、内村の語るところには生命や福音があったとしているが、これが伝道成功の主因であろう。

日記(内村の説くところに生命がある)
 わが聖書研究会婦人会員中の最年長者、吉川義子……永眠の報に接し、……告別の敬意を表した。彼女はうるわしき信仰の持ち主であった。……
 彼女は備後福山の人であって、20年以上の聖公会所属の信者であった。されども数年前に東京に移られてよりは、日曜ごとにわが集会に出席せられて、大なる満足を感ぜらるるように見受けた。われらは彼女を呼ぶに、「吉川のおばあさん」の名をもってした。
 余は一日、彼女に問うて言うた、「おばあさん、私の説くところと、あなたの教会の説くところと、その根本において違うところはありません。あなたはなぜ、あなたの教会に出席せずして私の集会に来られますか」と。時に彼女は笑みを含んで言うた、「先生、少し違います。教会の説くところに生命がありません。あなたは同じことを説かれますが、そのうちに生命があります」と。彼女は自分より 9歳の年長者であって、今年75歳であったと記憶する。天国の実在を信ずること、おのが故郷の実在を信ずるがごとく、常に歓喜をもって死について語られた。……
 聖公会の監督やその他の教職はわれを拒否するも、吉川老姉のごとき平信徒の、わが信仰に裏書きしてくれる者のありしを知って、わが志を強くせしこと幾ばくなりしかを知らない。
〔1926年(大正15年) 4月 9日 66 才〕
(注)聖公会はプロテスタントの一派、イングランド国教会の系統に属する。

日記(内村の講壇からは福音が説かれている)
 ある友人が、雑誌『虹』 9月号に載せられたる渡辺善太君の自分に関する批評を示してくれた。それは左のごとし。
「私はさきに、「なぜ内村鑑三氏の集会にはあんなに人が集まるだろう?」という質問をたびたび受けた。私自身としては、内村派でもないし、内村氏の弟子でもないし、その集会に常に出席する者でもないし、その私宅を常に訪問する者でもない。しかし、わずか 2、 3回のその集会への出席と、数年前、箱根で同氏と森戸辰男氏と私とが講演をした当時の知識と、 3、 4度の個人的談話の経験からで考えると、同氏の講壇からは「福音」が説かれるからだと答えたい。「恩寵(おんちょう)」(神のめぐみ)が教えられるからだと言いたい。
 もちろん、そこには、人の言うごとく、同氏一流の詩もあり、自然科学もあり、俗化に対する挑戦もあり、慷慨も悲憤もあるが、ようするに、それらのものはお刺身のつまにすぎない。ただ風袋(入れ物)にすぎない。中身は「福音」である。人の魂が本当に謙虚になったときにのみ与えられる「福音」であり、それのみから流れ出づる「恩寵」である。
 キリスト教界のいわゆる大先輩が、あるいは落伍し、あるいは凋落した今日、ひとり同氏がなお日曜ごとに五百の聴衆を引きつけていることは、われわれ後進の青二才には大なる教訓である。」
 これはまことにありがたい批評である。わが国キリスト教界の教師にして、こんなに善く自分をみてくれた者の他にあるを知らない。じつに渡辺君が言うとおり、自分はイエス・キリストの恩恵の福音を説いてきたつもりである。その他は付けたりである。有っても無くってもよいことである。そして、よしひとりなりとも、自分の所説の真髄を看破してくれた者のあることを感謝する。
〔1928年(昭和 3年) 9月27日 68 才〕
(注)渡辺善太(1885〜1978)は聖書学者、神学者

(参考)福音について
 内村は「福音は罪人のための福音なり、弱者のための福音なり」と言う。
 福音は、神が伝える罪のゆるしの言葉と、弱者救済のなぐさめ、癒し(いやし)の言葉などからなっている。福音の内容の多くは、第一章「信仰から得られること」、第二章「信仰の特徴」のなかに出ている。

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1.高等教育を受けた者

第五章 伝道の難しい人と有望な人

 内村の日記には伝道者の立場からみた人の評価がでてくる。ここでは、それを、伝道の難しい人と有望な人としてあつかうことにした。
 筆者は内村が1900年に書いた「好ましからず人物」という文章をくり返し読んできた。その冒頭に、「政治家なり。新聞記者なり。小説家なり。僧侶なり。牧師なり。伝道師なり。すべて消費して、製作せざる者、すべて語って、働かざる者、進軍を吹奏して、みずから進んで敵に当たらざる者、彼らはみな好ましからざる人物にして、彼らの増殖は国家の不幸にして、その幸福にあらず。その衰亡の兆にして、振興の侯にあらず。」とある。これは、公開日記開始の時より18年前のものである。しかし、内村の考えは、その後も変わっていないようだ。

1.高等教育を受けた者

 伝道の難しい人として内村が指摘するのは、高等教育を受けた者である。

日記(キリスト教に導くに困難なる人は高等教育を受けた者)
 余の信ずるキリスト教に導くに、もっとも困難なる人は、偶像信者でもなければまた無神論者でもない。いわゆる近代の高等教育を受けたる者である。
 キリストの福音を解するに難き人にして、半西洋化されたる東洋人のごときはない。彼は自分で自分の信仰を作って、これをキリスト教と称するのである。そうして、たまたまその誤謬を正さるるや、大なる迫害を受くるごとくに感ずる。
 じつに人の霊魂を滅ぼすものにして近代の西洋文学のごときはない。ことに乱暴なるは北欧文学である。これを信仰上の過激思想(ボルシェヴィズム)と称してよかろう。キリスト教の敵にして、これより嫌(いと)うべきものはない。これは聖書にいわゆる不法の霊である。にせキリストの精神である。現下の福音宣伝者を苦しめるものにして、この霊、この精神のごときはない。
〔1919年(大正 8年) 3月12日 59 才〕
(コメント)内村は女優の松井須磨子が、恋人の跡を追って自殺した報道を受け、「じつに忌(い)むべきは北欧文学である。いたずらに情の強きを貴び、意志の清浄なるを問わない。深刻であるといえば深刻である。しかし、神聖でない。」と書いた(日記1919.1.6)。松井は北欧文学を演じていた。

日記(余自身は富める者の教師ではない)
 終日、ルカ伝 6章20節「貧しい人々は幸いである、神の国はあなた方のものである」について考えた。文字どおりに真理である。金銭に貧しき者、知識に貧しき者、道徳に貧しき者、すべてさいわいである。神の国はすなわち彼らのものであるからである。これに反して、富める者の天国に入るは、らくだが針の穴を通るよりも難くある。貴族、富豪、学士、博士、わが心に何のやましきところあるなしと誇る、この世の聖人、君子、彼らの天国に入るは、じつにらくだが針の穴を通るよりも難くある。
 余自身はとうてい「富める者」の教師でないことを悟った。ことに高等教育を受けたりと称する男と女とがいやになった。彼らのうち幾人が、今日まで、余を失望せしめたかわからない。彼らはとうていイエスのはずかしめを負いて営外に出ることはできない(ヘブル13-13 )。「貧しい人々は幸いである」、じつにそのとおりである。
〔1919年(大正 8年) 3月28日 59 才〕
(コメント)ここで、神の国に入るのが難しい人として、貴族、富豪があげられている。

日記(頼むに足らざるは俊才なり)
『新小説』 3月号に、左の記事がみえたと、京都の友人某より知らせて来た。
「内村先生の門下には多くの俊才が集まったにかかわらず、ほとんどすべての俊才は先生を捨て去った……」
と。 それは事実である。悲しむべき、情けなき事実である。しかし俊才らは、余が招きて集まって来たのではない。自ら余を慕うて(慕うと称して)来たったのである。そうしてついに余を捨て去ったのである。そうして彼ら俊才は、余を捨て去ると同時に、たいていの場合にはキリストを捨て去ったのである。
 じつに頼むに足らざるはこれらの俊才である。しかり、文学士、法学士等の俊才は、ほとんどすべてが余を捨て去った。しかし幸いにして余を捨て去らざる鈍才が少なくない。彼らの多数は、学者でもなければ読書家でもない。あるいは百姓である。あるいは町人である。あるいは職人である。彼らは10年、20年、30年と、余と共に信仰の生涯を送り来たって変わらない。ゆえに余は失望しない。余は俊才の先生でない。ゆえに、余はいまだかって一回も、彼らに、余のもとに来たるべく勧めたことはないつもりである。俊才は決して余の所に来たるべからずである。また今なお残る俊才も、なるべく早く余を捨て去るべきである。
 余は俊才を求めない。かえって彼らを嫌(いと)う。彼らは遅かれ早かれ、余と離るべき者である。ゆえに、彼らにとりもっとも好きことは、断じて余の門下に来たらざることである。その次に好きことは、一日も早く余を捨て去ることである。オー俊才よ、来るなかれ。オー俊才よ、早くされよ!!
〔1921年(大正10年) 3月14日 61 才〕
(注)学士(文学士、法学士など)は大学を出た人のことであるが、この時代には、帝国大学出身者のみを学士と呼んでいた人もおり、内村もそうしていたようだ。

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2.思想・芸術の人

2.思想・芸術の人

 内村は、思想の人や芸術の人たちを伝道の難しい人といっている。

日記(背教者の多くは思想または芸術の人)
 久しぶりにて、ウードワード著『軟体動物学摘要』を開いてみて、おもしろかった。博物学研究は、平均せる判断力を養成するためにもっとも必要である。単に、かたつむりや、なめくじについて知るばかりではない。これを知るの道がまた宇宙の真理を探るの道として非常に貴いのである。
 思うに近代人の多数は数学と博物学には趣味をもたないであろう。彼らは事実(ファクト)よりも想像(ファンシー)を愛するがゆえに、突飛の説を唱えて、はばからないのである。
 余は今にいたりて思う、自今、聖書研究会の会員を選むにあたって、簡単なる数学ならびに博物学の試験をおこなうならば、今日までのごとくに多数の背教者を産出せずして済むであろうと。背教者といえば、十中の八、九は思想または芸術の人である。理学または実行の人のうちにはいたって少ない。口の人なる法律家と、筆の人なる文学者は、信仰の事実を知るにはもっとも不適当なる人たちである。
〔1924年(大正13年)1 月22日 64 才〕
(注)
⑴聖書研究会の会員は、毎日曜日の聖書講演会に確実に出席できた。会員になるための面接もあった。
⑵背教者とは信仰を棄てた人のこと。内村は背教者を責めがちだが、「背教者となりたればとて、悪人となったのではあるまい」(日記1923.5.12)とも書いている

日記(理想の人、読書の人、芸術の人には十字架の福音はわからない)
 今日もまた終日、魚のことについて読んだ。神学や文学を読むよりもはるかに健全である。ことにたえられぬは、芸術趣味のヒステリー的感想である。そして、かかる感想にふける者が、わが聖書研究会会員中にあるにいたっては実に嘆息にたえない。
 キリストの福音は凡人の常識にもっとも強く訴うるものである。毎日よく忠実にその職務に励む者のみ、これを解することができる。理想の人、読書の人、芸術の人には、十字架の福音はとうてい、わからない。余のごときは凡人の教師をもって自ら任ずる者である。ゆえに天才肌の人の、余のもとに来たらざらんことを望む。しかるに、断わっても断わっても、才媛、俊才の類の集(つど)い来たるは、余の不幸この上なしである。いかにして彼らを追い払わんかと、毎日苦心する次第である。
〔1924年(大正13年)12月 9日 64 才〕

(参考)内村と似たことを技術評論家の星野芳郎(1922〜2007)が言っている。
「現場を離れていろいろ議論するのはナンセンス、だから僕は文化人とはつき合わないんです。また大学の教師ともつき合っていないのです。社会科学系の学者の現場感覚のなさは、ほとんに言語に絶するものがある。左翼、右翼を問わずです。文字の上だけで、いろいろ思想を組み立てられるのですが、こういうのは狂信になりやすい。事実感覚がないからです。文化人の発想は、事実感覚に非常に乏しく、文字から文字へ、概念から概念へです。」(現代技術史研究会『技術史研究』71号 1997 8頁)
「ジャーナリスト、評論家、大学教授などはダメです。かなりいいこと言っている大学教授でも、現場感覚がぜんぜんない」(同73号 2001 43頁)

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3.近代人および武士道なき人

3.近代人および武士道なき人

 内村は伝道の難しい人のことを、近代人とか武士道なき人、と言っている。この 2つは内村を理解するうえでとても大切である。まず、意味をみておこう。

 近代人について、内村は次のように書いている。
「日本においては、近代人といえば、はなはだ悪い者である。自己中心で、主観的で、何事も自己本位に解釈し、神をも人をも、自己の意見を達成せんがために利用し、そして人生を最大限度に楽しまんと欲する者、これを称して近代人という。
 日本において近代人といえば、日本人にもあらず西洋人にもあらず、特性なき一種の無形人種である。日本人の意気もなく、西洋人の道徳もなく、ただ自己の意見を押し通すをもって特徴となす。彼らは、束縛はすべての形においてこれを厭(いと)う。彼らはただ一事においてのみ勇敢である。すなわち恋愛問題においてのみ熱心である。熱烈なる愛国心なく、冷静なる研究心なく、何事も道楽気分をもってこれに当たる。私は告白してはばからない、私は日本の近代人とは何のあずかるところがないと。」
(「近代主義と基督教」1927)

 武士道については次のとおりである。
「聞く、真の武士道は敵に勝つの道にあらず、人に対し自己を持(じ)するの道なりと。清廉、潔白、寛忍、宥恕(ゆうじょ)、勝つも立派に勝ち、負けるも立派に負くるの道なりという。」
(「武士道と宣教師」1908)
「われらは人生のたいていの問題は武士道をもって解決する。正直なる事、高潔なる事寛大なる事、約束を守る事、借金せざる事、逃げる敵を追わざる事、人の窮境におちいるを見て喜ばざる事、これらの事についてキリスト教をわずらわすの必要はない。われらは祖先伝来の武士道により、これらの問題を解決して誤らないのである。
 されども、神の義につき、未来の審判につき、そしてこれに対する道につき、武士道は教うるところが無い。そしてこれらの重要なる問題に逢着(ほうちゃく)して、われらはキリスト教の教示を仰がざるを得ないのである。」
(「武士道と基督教」1918)

 これらのことを頭において、まず、つぎの 2つの日記を読んでいただきたい。

日記(ふるい日本人は貴い、彼は道を知る)
 帝大の小野塚博士に夕食に招かれ、そこにて、博士の岳父、石黒忠悳(ただのり)翁に面会するをえて、うれしかった。79歳の老日本武士であって、わが生みの父に会うような心地がした。
 今になって、ふるい日本人の貴いことがわかる。彼は道を知る。その点において、近代人と全然異なる。ふるい日本人と、新しい、いわゆるキリスト信者の日本人と、二者いずれに余は近いかというに、余はふるい日本人に近いと断言する。
 日本人特有の道をわきまえざる近代人は、信者であろうが、不信者であろうが、余の何のかかわりなき者である。そしてふるい日本人が絶えるときに日本国は滅ぶるのであると、余は固く信ずる。
〔1923年(大正12年)12月22日 63 才〕
(注)小野塚喜平次(1870〜1944)は東大の政治学教授、のち総長。石黒忠悳は二章 9下段参照

日記(近代人に導かるる青年はわざわいなるかな)
 引き続き近代人に心の平安を妨げらる。彼らの心理状態に、余のとうてい解し得ざるものがある。彼らに日本の武士道もなければ西洋の紳士道もない。彼らごとき者に導かるるわが国の青年はわざわいなるかなである。彼らに対しては、「かまわないでくれ」と言うよりほかに道がないのである。
〔1924年(大正13年) 4月 7日 64 才〕
(注)内村は「道を知る」方法が武士道か紳士道か他のものかは問うていない。

 内村は武士道なき人、すなわち、よき行動基準のない人に、キリスト教を伝えるのは、とても困難だと思っていた。そして、漢学を歓迎していた。日記を 2つあげておく。

日記(漢学復興の計画を聞いて喜ぶ)
 政府に漢学復興の計画ありとのことを聞いて喜んだ。今や洋学、漢学の別を論ずべきときではない。普通道徳の復興を計るべきときである。退治すべきは近代人と近代思想とである。幾分にてもこの目的を達し得べくんば、儒教、漢学はなはだ結構である。たえられぬは、公義公徳皆無の近代人である。
〔1924年(大正13年) 4月30日 64 才〕

日記(孟子に学ぶ)
 孟子に左の言を読んで感じた。
「城郭全からず、兵甲多からざるは、国の災いにあらざるなり。田野ひらけず、貨財あつまらざるは、国の害にあらざるなり。上に礼なく、下に礼なければ、賊民興りて、ほろぶること日なけん」
 偉大なる言である。聖書の教えを待つまでもない。二千二百年前の東洋にこの教えがあった。しかるにこれを顧みずして今日にいたったのである。「賊民興りてほろぶること日なけん」の言を読んで、わが国の将来が憂慮にたえない。
〔1926年(大正15年)10月22日 66 才〕

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4.田舎人など

4.田舎人など

 内村の「伝道の有望な人」をみておこう。といっても、これは前 3節に書かれている。それによると、有望な人は、金銭に貧しき者、知識に貧しき者、道徳に貧しき者、百姓、町人、職人、理学または実行の人、そしてふるい日本人である。これを頭において次の 3つの日記をみてほしい。

日記(木曽の山中、熱烈なる信仰が起こりつつある)
 木曽(長野県)の風景はよかった。しかしながら神が召したまいしその子供はさらに善かった。木曽の山中また熱烈なる信仰が起こりつつある、しかり、すでに起こって、良き実を結びつつある。都会にありて、学者はあざけりまた捨てつつあるときに、学者よりもはるかに貴き木曽山中の素朴の民らは、喜んで福音を迎え、戦ってこれを守りつつある。このことを実際に目撃して、われらの心は非常に強められた。
 余が都会において聖書を講ずるは、特に都会人士をわが友として迎えんがためではない。これら素朴の、山中僻地の信者に代わり、彼らの代表者となりて都会に道を伝うるのである。余自身が、いなか者である。都会人士の反対、離叛のごとき、余のかえって歓迎するところである。
〔1920年(大正 9年) 9月 4日 60 才〕

日記(なすべきは田舎伝道)
 朝 9時、(東京)両国駅を発し、千葉県山武郡鳴浜村に行いた。その地の教友、海保竹松長男隆治の結婚式につらならんためであった。素封家をもってみらるるこの家の結婚式としては、もっとも質素なるものであった。……
 明治30年、余が初めてこの村に伝道し、宍戸元平君と畦上とが余の後を受けて働き、かくて、パウロが植え、アポロが灌漑(みずそそい)で、ここに信仰の実の確実に結ばるるをみたのである。
 なすべきはいなか伝道である。都会伝道よりははるかに有望である。余の説教を母のふところにありて聞きし嬰児が、今や良きキリスト教青年となりて、妻を迎え、新たにクリスチャン・ホームを作るを目撃して、余は感慨無量であった。
〔1921年(大正10年) 5月10日 61 才〕
(注)
⑴海保竹松は1902年(明治35)の角筈夏期講談会を受講、その後も内村と交流を続けた。山武郡鳴浜村は千葉県の東部海岸(九十九里浜)地域、現在は山武市
⑵パウロはイエスの死後に多大な活動をした使徒・伝道者、アポロは一時期パウロと活動をともにした使徒

日記(真の信者は純平民のうちに多い)
 近ごろ、またまた切実に感ずることは、真の信者の、上流階級または知識階級にはなはだ乏しくして、かえって中流以下の純平民のうちに多きことである。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。…」の有名なるパウロの言は、今日なお、そのまま事実である。
 近ごろ世を去りし、わが聖書研究会員北沢政高君のごとき、その好き実例である。身は逓信省の小官吏でありながら、じつに立派な生涯を送り、立派な死をとげた。信仰維持のためにはいかなる犠牲を払うもいとわず、また隠れて多くの効果ある伝道をなした。しかも、ろくに小学教育をも受けず、正直のほかに何のとりえもない人のようにみえた。彼は今天父の家において輝いているであろう。われらは地上にありて、彼のごとき者を信仰の友として持ちしことを誇りとする。
〔1929年(昭和 4年) 5月31日 69 才〕
(コメント)北沢政高は内村が設立に関与し支援し続けた札幌独立教会の会員。内村は石原兵永に「北沢のようなのが一人でも、あの様に死んで呉れたかと思えば、彼一人のために働いたと思うても、それだけで十分だ。エライ奴だよ。黙まーっていて、あれはほんとの隠れた真珠だ」と語った。
(石原兵永『身近に接した内村鑑三(下)』)

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1.外国教会からの金銭的独立

第六章 伝道上の諸問題

 この章では、内村が伝道にあたって直面した教会との対立、弟子との対立などの諸問題を取りあげる。

1.外国教会からの金銭的独立

 内村は伝道にあたり外国教会から金銭的援助を受けないことについて、厳格かつ徹底していた。宗教、ましてキリスト教に理解のうすい日本で、外国教会からの援助なしにキリスト教の伝道をすることは、とても困難だった。しかし、内村は自分の方針をつらぬいた。
 なぜなのか。拒否をしなければ内村の伝道方針を徹底できないと考えたためであろう。
  伝道に限らず多くの仕事には受けてはいけない援助がある。俗な例だが、業界を取り締まる役人が、業者から接待を受けていては、仕事にならないのである。
 日記と談話 4つを紹介する。

  最初は、内村と新島襄(じょう)とのやりとりが書かれた日記である。外国教会から金銭的に独立することによって直面する問題が書かれている。

日記(日本人に福音を伝うるに外国人の補給は恥辱なり)
 今より33年前、明治の21年(1888年)、余が米国より帰って早々、余は当時東京滞在中の故新島襄君を訪問し、わが国にキリスト教を伝うるにあたって外国人の補給を受くるの非と害とについて切言した。時に新島君は愁然として余に告げて言うた、「君は実にわが国キリスト教界の伯夷(はくい)、叔斉(しゅくせい)なり」と。余は、君が、いかなる意味にて、余に対してこの言を発せられたのであるか、今にいたるも知らない。しかしながら、君のこの一言が深く余の耳底に沈み、今にいたるも忘れることのできないのは事実である。
 余は近ごろ、余の生みの父が余に残しくれし、ふるき日本とじの『史記』を取りだし、その伯夷列伝を通読して、新島君のかの一言を再び思い出さざるをえなかった。伯夷、叔斉は、周(中国の古代王朝)の粟を食うを恥とし、首陽山に隠れ、わらびを採りてこれを食い、ついに餓死したという。……
 伯夷、叔斉が周の粟を食わざりしがごとくに、余が外国宣教師のパンを食わざりしことは確かである。(余は自分の力によらず、神の恩恵によりて、このことをなし得たのである)。しかしながら、その他の点においては、余は、伯夷とぜんぜん生涯を異にした。余に、山に隠るるの必要はなかった。余はまた、わらびを食うて生活するに及ばなかった。
……
 かくのごとくにして、新島君の余に関する観察は、単に小部分的に適中するにすぎなかった。
 日本国にありて日本人に神の福音を伝うるにあたって、外国人の補給を受くるは恥辱である。余輩は、伯夷、叔斉の言を聞かずして、ヘブル書記者の勇敢なる言に耳を傾けて、キリストのため、また国のために独立を維持すべきであると思う。いわく、「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう」」(ヘブル13: 5-6)
〔1921年(大正10年) 9月27日 61 才〕
(注)新島襄(1843〜1890)はキリスト教教育家、安中藩(群馬県)武士の長男。江戸末期にアメリカ留学、アーマスト大学で学ぶ。アメリカ海外伝道委員会に日本にキリスト教主義学校の設立を訴え、その支持を得る。帰国後、同志社英学校、女学校を開校。新島は米国滞在時に、内村にアーマスト大学入学を勧め紹介した。

 つぎの3つの日記・談話には、外国教会から援助を受けることのマイナス面が強く語られている。内村には外国宣教師との交流も少しあったが、そのいっぽうで、外国宣教師の侵略性といった側面まで意識していた。

日記(独立なしでは拝金宗に引き込まれる)
 ハーバード大学植物学教授A・B・シーモーア氏より信仰の手紙をもらって、うれしかった。神学の教授ではない。……彼がわざわざ書を余に寄せて、「君の恐ろしき独立のほか、すべてにおいて深き同情を君に寄す」と言い来たったのである。
 彼は「恐ろしき独立」という。しかしながら、この独立なくして、余は米国人の恐ろしき異端と拝金宗に引き込まれてしまうのである。
 恐ろしいものは余の独立ではない。ハーバード、エール、シカゴ大学等の神学である。そのうちに浸りいる米国のキリスト信者らをして、余に近寄らしめざらんがために、余は「恐ろしき独立」を維持しつつあるのである。余はシーモーア君がこのことを了解せられんことを望む。
[1921年(大正10年) 7月 1日 61 才]
(コメント)この日記で筆者が注目したのは、「独立なくして、余は米国人の恐ろしき異端と拝金宗に引き込まれてしまう」である。

談話(宣教師は心を奪っている)
 宣教師は伝道をしているから何も危ないことはないと日本人は思うているけれど、なるほど、土地は奪って行かないけれど人心を奪っている、即ちいたる所に忍耐強き活動をして人心を感動せしめ信用をかっている。
 (1922年(大正11)8月26日 『聖書之研究』読者会 『恩師言』)

日記(欧州人のキリスト教伝道は、半ば国土略奪的であった)
 欧州人のキリスト教伝道なるものは、半ば国土略奪であることは、ウガンダの場合をもっても充分証明せらる。英国の監督を戴(いただ)くようでは、とうてい完全なる伝道はおこなわれない。外国宣教師に全然たよらざるわが伝道法が、やはり完全なるものであると思う。
〔1923年(大正12年)12月14日 63才〕

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2.教会の内村攻撃

2.教会の内村攻撃

 内村の日記をみると、内村と教会側、即ち宣教師や牧師など(以下教会とする)との闘争はすさまじいものがある。筆者はそれを読みながら、両者が激しく争ったのは、俗っぽくいうと、業界内の競争の側面が強いと思った。内村と教会は、キリスト教信者とキリスト教に関心をもちそうな人々という狭い市場をめぐって、取り合いをしたのである。教会の一部の人は、内村にたくさんの人を取られては、自分たち(教会)はつぶれてしまうとまで言っていた。以下の日記は、こういったことを念頭におけば理解しやすいと思う。

 はじめの 2つは「内村は伝道の邪魔をする」といった批判である。

日記(余に既成教会を撲滅する目的ありと公言する者あり)
 教会の先輩をもって自ら任ずる人で、余は無教会信者であって既成教会を撲滅するをもって目的とすると公言する者あるを知って驚く。余は無教会信者であるが、教会の撲滅を目的とする者でないことは、言わずして明らかである。そのことは、余と親交ある教会の人たちがよく知るところである。余は今日といえども教会の依頼を受けて説教する。また余の著書を教会の教師たちに贈りて、その伝道を助けんとする。そのことは余にとり少しも矛盾でない。無教会は、教会に関する余の立場である。……
 無教会信者たりといえどもキリストに従わんと欲する者は、他人の教会を撲滅せんとするような、そんなことはできないのである。
[1925 年(大正14年) 5月16日 65 才〕

日記(内村は伝道の邪魔をする)
 ある米国宣教師の自分に関する批評がおもしろい。いわく、「内村さんの信仰は正しいが、彼は伝道の邪魔をする」と。しかし、もし信仰が正しいならば、邪魔をされる宣教師と教会とが正しくないのではないか。もし信仰が正しくあれば、大教会が自分ごとき者に邪魔されようはずがない。自分は単独で立ち、多くの教会または伝道団に反対されるが、彼らに邪魔されるとは思わない。彼らの随分と思い切ったる反対あるにかかわらず、自分の伝道は予想以上に発展する。信仰が正しき以上は、他人の邪魔、反対はかえって利益であって、妨害でない。自分は、教会ならびに宣教師にこの簡単なる理由がわからないことがわからない。
〔1929年(昭和 4年) 1月16日 69 才〕

 つぎの 2つは「内村の書いたものは読むな」といった批判である。

日記(内村は聖書を大いに誤っている)
 台湾某地に、明治大学出身の「学識高大」の某教会伝道師、台湾人某氏というがある。その人がその付近にいる本誌読者の一人に語りしことは左の通りであったという。
「ハーそれだからいけない。あの人の雑誌を私も昨年まで読んでいたが、どうしてもいけないから廃読してしまった。あの人は聖書を大いに誤っている者である。教会に排斥された結果、あの人は無教会という異説を立てたものである。あの人の説は実に冒瀆(ぼうとく)がはなはだしい。聖書によると、古来、教会はあったものである。内村はその旨にそむいている。それは内村がもと、教会と衝突したために基づく。決してあの人の説を信じてはならない。」
と。そしてなおたくさんに自分を攻撃したとのことである。
 朝鮮においても、同じ攻撃を加うる宣教師ならびに伝道師がたくさんあると、朝鮮人某氏より聞いた。
 今にいたって、自分で自分を弁護しない。ただ幾たびか本誌で言うたように、教会の信者たちはなるべくこの雑誌を読まざるよう、自分より彼らに勧告する。『聖書之研究』は主として教会外の人に聖書知識を供給するをもって目的とする。ゆえに教会の人たちにはなるべく読んでもらいたくない。教会に排斥さるることは、自分のもっとも幸福とするところである。
〔1926年(大正15年)10月28日 66 才〕

日記(聖公会の牧師が内村に誹謗の毒矢を放つ)
 関西にある聖公会の教師にして、自分の同情者なる某君よりの書面にいわく、「私が伊勢桑名にいます間に実に苦しい思いをしました。同地にありし三教会の一を司牧せられし某氏は、私が先生の御著書ならびに雑誌を熱心に読んでいることを知られて、もっとも熱心に先生に対し誹謗の毒矢を放たれるのでした。そのありさまはあたかも「これほど仮面をはいでも、まだ彼の正体が分からぬか」と言わぬばかり、実にあのくらい情けなく思ったことはありませんでした……」
と。たぶん、こんなことが常にあちこちにおこなわるるのであって、まことに、やむをえぬ次第である。これが目下のわが国のキリスト教界の状態であって、それゆえに教会はいたる所に振るわないのである。
〔1928年(昭和 3年) 8月30日 68 才〕
(コメント)内村は、教会の内村批判は、教義如何でやってほしいと思っていたようだ。

 内村への批判はキリスト教関係者以外からも激しかったという。ただ、公開日記では、雑誌『日本主義』(岩野泡鳴主幹)に「余の愚鈍をあざける同氏の断片語が載っていた」(1919.12.6 )とか、『婦人公論』に千葉亀雄の「自分をあざける論文がのっている」(1923.12.10)とか、幾つかあるが、あまり目立ったものはみられない。

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3.内村の教会批判

3.内村の教会批判

 内村の教会批判は、ほとんどが反撃だったという。批判は多岐にわたり、教会関係者の人格批判といったものも多いが、ここでは基本的なことが書かれている日記を中心に紹介しよう。

日記(教会は神と聖書を尊ばず、安息日も厳守せず)
 余が今度、関西に行きて感じたることのひとつは、教会が、無教会主義のゆえをもって、余を憎むことのはなはだしいことである。そうしてその教会のいかなるものであるかを見るに、彼らは信仰において浅薄である。行為において放埒(ほうらつ)である。彼らは、余が神と聖書とを尊ぶ程度において、これを尊ばない。彼らは、余が安息日を厳守する程度において、これを守らない。彼らは世俗的である。佚楽(いつらく)的である。彼らは教会のことに熱心なるだけであって、神と正義と福音とのことにはいたって冷淡である。彼らが余を憎むは無理ならぬことである。余は彼らに憎まるることをもって大なる不幸であるとは思わない。
〔1918年(大正 7年)10月19日 58才〕
(注)放埒:勝手気ままに振る舞うこと、佚楽:遊び楽しむこと

日記(宣教師の布教不振は、欧米文化導入と人種的偏見にありとの指摘が)
『信濃毎日新聞』の報ずるところによれば、過日、ニューヨークのフォスディック博士が、軽井沢において、滞在の外国宣教師らに向かってなした演説のうちに、左のごとき言があったとのことである。
「諸君は、日本布教の大志を抱いて、各その郷関を出た時の、その意気や非常のものであった。しかし現に布教の状態を見るに、成績、はなはだ上がっていない。これはひっきょう何が原因であろう。
 諸君は欧米の新文化を日本に伝うることにのみ没頭して、真にイエスの意を伝うることに努力をもちいずしていはしまいか。これもひとつの原因であろう。また諸君が欧米の諸学校等において、黒人等、異人種に対する教師の態度が異なるがごとく、布教の対象たる黄人種に人種的偏見をもって接する結果も一原因であると思う。イエスは東洋人でないか……われわれは常にグレートアメリカン(大米国人)だなんどと言うて威張っているが、そもそも、それが布教上によろしくない……」
と。もし、フ博士がはたしてかかる勇敢なる言を宣教師らの前において吐いたとすれば、彼は確かに偉人である。余もまたヒヤヒヤと言いて彼の言に応ぜざるを得ない。そうして、宣教師よりもさらに責むべきは、これら無能の宣教師らに随従して、その補給を受けながら、わが国同胞に布教しつつある日本人である。これ恥辱の上の恥辱である。「イエスは東洋人でないか」、しかり、彼は東洋人である。今や信仰のことにおいては、東洋人が、西洋人ことに信仰的に劣等なる米国人に布教を受くべき時代でない。
〔1921年(大正10年) 9月 2日 61才〕
(注)「イエスは東洋人」とあるが、イエスは北パレスチナのベツレヘムの生まれであり、同地はアジアの西端に位置する。

日記(米英宣教師の信者への傲慢無礼な態度への対処法を協議)
 夜、今井館聖書講堂において同志の茶話会が催され、談、米英宣教師のわれら日本のキリスト信者に対する傲慢無礼の態度におよび、これに処するひとつの道として、彼らと語る場合になるべく英語を用いざることを提議した。余は左の決議案を提出して、一同の賛成を求めた。
「われらは、わが国に 3年以上滞在する米英人に対して英語を用いざることを約す」
と。そして出席者大多数の賛成をえて愉快であった。
 欧州大陸人は米英人と異なり、大体に謙遜であり、われらと語るになるべくわれらの国語をもってする。余の知る独、仏、瑞(スイス)の宣教師は、努めて日本語をもってわれらと語る。米英宣教師はしからず。彼らは幾年日本に在留するも、なるべく日本語を用いざらんと欲し、われらに課するに彼らの国語をもってし、われらがこれを語り得ざるを、われらの大なる恥辱なるがごとくにみなす。彼らは、われらがことさらに日本語をもって話し掛くるをもって、彼らに対する大なる無礼であるかのごとくに思う。かかる次第であれば、われらは彼らと対する場合に彼らの国語を用いざることを主張し、日本にありては日本語を用いるは、彼らにとり、人間としての普通の礼儀であることを知らしむべきである。
 事は小事なるがごとくにみえて、決して小事でない。日本のキリスト信者が米英宣教師に対するときに断然英語を用いざるにいたりて、教界の風儀が一変すると信ずる。これ日本キリスト教独立の第一歩であって、もっとも大切なる一歩である。
〔1927年(昭和 2年) 6月23日 67 才〕
(注)今井館聖書講堂は内村の柏木の敷地内にあった。大阪の香料商今井樟太郎の遺族の寄付金で建てられた。
(コメント)この日記につながる話が武田清子(思想史家)の本にでていた。
 要約すると、内村は、アメリカの老婦人宣教師(日本で40年以上働く)のフランシス・パミリー(滋賀県近江八幡在住)と、英米人のセクト主義に関して論争となった。両者でなんどか手紙を交換したが、内村は1927年12月 6日に、「あなたが生涯をささげて日本で働く宣教師だというのであるならば、あなたの日本に対する真実な愛の証明として、私の英語と同じくらい上手な日本語で手紙が書けるはずだ。日本語で手紙をよこしなさい」と書き送ったという。
(武田清子『峻烈な洞察と寛容』)

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4.弟子との葛藤

4.弟子との葛藤

 内村は弟子についてしばしば不満を述べている。内村は宣教師との戦いでは戦闘的な感じがするが、弟子との葛藤では悲しみがただよっている。日記を 2つみておこう。

日記(弟子を失うはつらくある)
 人生もっともつらいことは、子を育てて、その子のそむくところとなることである。これに類してつらいことは、弟子を教えて、その去るところとなることである。
 幸いにして第一の不幸には会わないが、第二の不幸には幾たびも会うた。そして幾たび会うても、つらさは少しも減じない。
 子は幾人有っても、その一人を失うは、一子を失うがごとくに、つらくあるがごとくに、弟子は幾人有っても、その一人を失うは、一人弟子を失うがごとくに、つらくある。しかし、これまた人間通有の経験であって、自分ばかりが、まぬかるることはできない。そしてまた人間の経験は神ご自身の御経験である。
「天よ、聞け、地よ、耳を向けよ。エホバご自身が話されたからである。「わたしは子らを養い、そして育てた。しかし彼らはわたしに反抗した。牛はその買い主を、ろばはその持ち主の飼い葉おけをよく知っている。しかし、イスラエルは知らず、わたしの民は理解ある振る舞いをしなかった」」(イザヤ1-2 )
とある。そして、われらに臨みしつらき経験により、幾分なりとも神の御心を推察し奉ることができると知りて、わが痛みの無益ならぬを知る。そして、われ自身が彼にそむきまつりし者の一人でありしを知りて、われは、われにそむきし者をことごとく、ゆるさねばならぬことを悟る。かくして、神を信じて、すべてのつらいことが感謝に終わるは実に感謝すべきことである。
〔1926年(大正15年) 4月27日 66 才〕

日記(「弟子を作りませんでした」と言いてイエスの歓迎をこうむりたい)
 終生、ひとりの弟子をも持たないことについて考えた。エレミヤにバルク一人ありしのみ。エリヤはただ一人のエリシヤを残した。まして余においておや。
 忠実にイエスの福音を唱えれば、それで余の責務は済むのである。教会も団体も弟子もあったものではない。それは教会信者の求むるところである。自分はイエス様の前に立ちて、「私はひとりの弟子も作りませんでした」と言いて、彼の御歓迎をこうむろうと思う。
〔1922年(大正11年) 6月20日 62才〕

 内村は、弟子との葛藤で、なぜ、悲しみが大きく、かつ、悲しみの回数が多かったのか。筆者は次の 2つのことに気づいた。
…鏤劼了愼海貿心だったため
 内村は矢内原らの青年に次のように語っている。1911年頃である。
「諸君が来ることは、私に取って大問題である。私はともかく諸君の霊魂上の父である。故に諸君が私の伝へる福音によって信仰を堅くして行けば私に取りて之より大なる喜悦はないが、それと同時に、若し諸君が信仰の道を離れ神を忘れるやうになれば、私の苦痛は実に身を切られる思ひがするのである。私はその苦痛を一生忘れることが出来ない。諸君は私を怖いと言うが、私の方にも言ひ分がある。」
(矢内原忠雄「続余の尊敬する人物」『矢内原忠雄全集』24巻)
高学歴者が集まったため
 内村の所には、一高、東大などの学生たちが集まったが、彼らの多くは内村から去り、信仰からも離れた。
(注)矢内原忠雄(1893〜1961)は東大教授、のち総長。学生時代に内村の柏会に入会。1937年、論文「国家の理想」が発禁処分に。同年、東大教授を辞職、野に下るが戦後復活。
(参考)弟子関連の日記は「おわりに」にひとつのせた。

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5 相談事を持ち込まれて

5 相談事を持ち込まれて

 内村は悩み事の相談を数多く受けていた。週の幾日かを面会日として指定したこともあった。内村は、相談に時間を取られると聖書の勉強の時間が減ってしまうので、できればさけたかった。しかし、俗事に係わることも伝道者としての努めという考えもあり、終生、来る者の相談にのっていた。ところが、最晩年には、『聖書之研究』の部数が増えるにつれて来会者などが多くなり、手に余るといって悲鳴をあげていた。
 筆者は公開日記を読み進めて、内村が相談に多大な時間を費やしていたことを知った。そして、それによって彼が民衆と共に歩めたのだと思った。以下、日記を 3つみておく。

日記(来訪者17人、二、三の大問題を持ち込まれる)
 来訪者17人という近ごろになき大取り込みの日であった。 2、 3の大問題を持ち込まれ、その解決に頭と心を悩まされた。……余に福音の大真理を尋ねんために訪(おとな)い来たる者はめったにない。たいていは、嫁(とつ)ぐ事と娶(めと)る事と、食う事と飲む事とにかかわる問題を携えて来たる。しかし、これまた信仰的生活に全然関係ない事でなければ、自分としても全然これを避くることができない。困難なる世なるかな。
〔1922年(大正11年) 4月29日 62 才〕
(コメント)他の日記をみても一日来訪者17人というのはない。この日は例外的に多かったようだ。

日記(日本青年の最大問題は結婚)
 今日もまた、ある青年の訪問を受けた。用事の趣きは?と聞けば、例によって例のとおり結婚問題である。じつにいやになってしまう。今や日本青年の最大問題といえば、この問題である。国家、人類、神、霊魂、救い、真理というような大問題をもって訪問する者はほとんどない。その点においては朝鮮人の方が、日本人よりはるかに上である。
 日本においては今や青年の問題といえば恋愛問題、大人の問題といえば事業問題、じつは金儲け問題である。そしてこれみな、忠君愛国道徳をもって教育され来たりし国民の状態であると知って、怪訝(かいが)にたえない。
〔1923年(大正12年) 1月19日 63 才〕
(コメント)内村は相談の内容をあまり日記に書いていない。プライバシー尊重のためだと思う。ただ、「事業問題、じつは金儲け問題」には、就職や転職に関する相談も含まれていたようだ。

日記(自分は聖書学徒であって結婚媒酌人にあらず)
 この日、 8人の訪問客があった。そのうち 8人までが結婚問題をもたらして来た。自分は聖書学徒であって結婚媒介人にあらずと、いくら断わっても、彼らは承知しない。彼らは結婚にあまりに熱心であって、他人の困るを顧(かえりみ)るの余裕を持たない。自分はただ事の善悪を判断することができる。その他を知らない。そして自分がまとめ得た結婚はいまだかって一度もない。
 近着の百科全書にミルトン小伝を読んで、彼が大詩人でありしがゆえに、この世の事についてもっとも拙劣であったとのことを知って、大いに自己をなぐさめた。詩人、哲学者、預言者らがこの世の事に拙劣なるは当然である。この世の事に巧妙なる宗教家たちには、ミルトン、プラトン、イザヤらの心はわからない。俗人に馬鹿にされる者でなければ、神の高い深いことはわからない。しかるに、天の事を語るべき使命を授けられたる者を捕えて地の事をおこなわしめんとするこの世の人らの浅ましさに驚く。されども彼らは地の事に一生懸命なのである。ゆえに強く彼らを責めない。
〔1926年(大正15年) 3月30日 66 才〕
(注)ミルトン(1608〜1674)はイギリスの詩人、キリスト教的な情熱をもった詩風。叙事詩『失楽園』など
(コメント)内村は結婚式や葬儀での頼まれ事をいやがってもいた。

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6.相談に答えて

6.相談に答えて

 内村は、多数の相談者を相手に何を語ったのだろうか。日記には、相談の内容はあまり書かれてなく、まして、アドバイスの内容となるとほんんどない。その少ない中から 3つの日記をみておこう。

日記(征服しようとせず奉仕せんとせよ)
 生涯の方針に迷う、ある若い人に言うて聞かした、
「世を征服しようと思うてはいけません。これに奉仕せんとしなさい。そうすればアナタの運命が開けます。成功これ征服と思うから、人生はつらく思われるのであります。成功これ奉仕と知れば、何びとも成功し得られるのであります。アナタもまた多くの近代人と同じく近代思想に毒せられて、他を征服して御自分に幸福を求めんと欲しておられたのではありませんか」
と。彼はこれによって、だいぶんに覚(さと)ったらしく、喜んで帰って行った。自分も人に説教して、また大いに覚らしめられた。
〔1928年(昭和 3年) 3月 7日 68才〕
(コメント)近代人については五章 3参照

日記(正義第一、政略はその後)
 朝より訪問客多く、面会にてほとんど何事もなしえなかった。いずれも援助をもとむる人のみであった。そのうちには某政党所属某代議士の家族の人があった。自分は彼女に告げて言うた、
「正義第一です。政略はその後のことです。家をととのうるも国を治むるも道はひとつであります。政略を第一とし、しかる後にこれに正義の美名を附せんとするがゆえに、万事が齟齬するのです。思い切って正義をおこなってごらんなさい。善き方法はおのずから示されます。おわかりになりましたか?」
と。……
 その他、すべてかくのごとしである。かくて、座して生きた社会学の研究ができて、それだけ幸いである。
〔1928年(昭和 3年) 7月17日 68 才〕
(注)ここで内村は、いやいやながら受けている相談によって、結果として自分の目が社会に開けているとしている。

日記(利害問題をもたらす人に預言者の言をもって答える)
 大なるインテレストをもってエゼキエル書の復習を続けつつある。ふるい預言が新しい意味をもってわが心を動かす。その宇宙的感化の下にある間に、この世の小人たちが小なる自己の利害問題をもたらしてわがもとを訪(おとな)う。彼らに預言者の言をもって答うれば、彼らはただ驚いて帰って行く。エレミヤやエゼキエルは今の日本にはあまりに偉大であって、彼らにとうてい、わからない。
〔1925年(大正14年)11月21日 65才〕
(コメント)筆者には「預言者の言をもって答うれば」の意味はつかめない。多分、「大きく生きなさい」といったことだと思う。

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