いなば・紀伊は、1975年3月の新幹線博多開業のダイヤ改正で登場した東京口では最後の寝台特急・ブルートレインだった。いなばは人気列車だった出雲の補完輸送という位置付けで東京〜米子を結び、紀伊は東京〜名古屋を併結運転して紀伊勝浦までという設定だった。いなばは元々は東京〜大阪を結んでいた夜行急行銀河の一往復を米子行きに改めて特急昇格ということで、紀伊は急行から特急へそのまま昇格ということだった。とはいえ、新設の東京口ブルートレインだったのに、牽引機が浜松のEF58だったことも大きかった気もするけど、ヘッドマークが当初から掲げられずそのまま終わってしまったというのは残念だった。この頃は東京区のEF65以外は寝台特急のヘッドマークは掲示しないことになっており、いなば・紀伊はその流れの中で生まれて消えていった。紀伊はDF50の引退という流れの中で非公式に作成されたヘッドマークがあったけど、いなばは運転区間の延長で出雲に統合されてしまい、そんな機会もないままだった。いなばは1978年10月に出雲に統合されたので、イラストマークも作成されていない。

私にとっては、まずは乗り鉄としての遭遇から始まった。1977年の春休みに紀伊半島を一周する普通列車に名古屋から天王寺まで乗り通した。この列車には新宮からB寝台二両が連結されて、その寝台券をマルスで発券するために南紀という愛称がつけられていた。のちにはやたまに改称されるけど。まずはその旅の途上、紀勢本線三木里駅で上り特急紀伊4004レが私の乗った名古屋発天王寺行き普通列車921レとすれ違う。なにせ、ガラガラの各駅停車の車内だから、単線だけにすれ違う対向の列車はチェックしていた。そろそろ紀伊が来るなと思っていたので、カメラを構えて待っていた。上り特急紀伊4004レ1977年3月30日三木里駅にて。

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そして、走り去るスハネフ14の後ろ姿。これもモータードライブなんて高嶺の花だった時代に、手巻きで一発勝負というタイミングの撮影だったから、テールサインも流れる中で紀伊と読めるのが嬉しかった。上り特急紀伊4004レ。1977年3月30日三木里駅にて。

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この旅の後に東京に帰るために京都からいなばの座席車に乗った。14系寝台車で運転されていたいなば・紀伊だけど、いなばにはスハネフ14の一両をスハフ14に入れ替えて座席車一両を組み込んでいた時期があった。上りのいなばの京都発は22時31分発で東京着が6時25分だったから、関西から東京までの列車としては利用しやすかった。その上、在来線の東海道本線京都〜東京の間を特急列車の座席で乗るというのはその頃でも他にない感じもあって、楽しみだった。赤のボールペンのチェックは検札時のもの。事前に田町駅で指定席券を買ったことが分かる。

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京都駅の発車案内。東京行きの特急というのが往年の東海道本線の趣があって嬉しい感じだった。上り特急いなば2004レ。1977年3月31日京都駅にて。

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山陰本線経由だったからDD51に引かれて入線してくる。上り特急いなば2004レ。1977年3月31日京都駅にて。

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機関車は切り離されてEF58に変わるのだが、EF58が来るまで見ていた覚えがない。写真も撮ってないし。上り特急いなば2004レ。1977年3月31日京都駅にて。

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編成の真ん中に入るところにスハフ14が連結されていた。つまり、いなばの東京より先頭車。名古屋ではこの前に紀伊が連結される。ちゃんといなばの表示がされていた。側面のサボが寝台と同じものになっていたかは覚えていない。上り特急いなば2004レ。1977年3月31日京都駅にて。

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この時にはいつも寝台でもぐっすり眠れないくせに、名古屋での紀伊の連結も全く覚えていない。多分、その前の旅程で疲れていて余力がなかったのだろう。東京駅で降りたことしか覚えていない。

いなば・紀伊はそういう意味では、東京区受持の他の列車よりはちょっと地味に思えたけど、EF58の特急という点では東京口では唯一だったから、浜松区のトップナンバーや60号機といったEF58との組み合わせが後々楽しませてもらうようになっていくわけだった。この頃はEF58はいくらでも走っている感じでもあったから、そんなにありがたみを感じていなかったとも思う。