2013年11月10日

日本版NSC審議入り「戦争司令部をつくる準備本格的に」

あなたの携帯電話がすべて盗聴されていたら。日本には、個人情報保護法があるから大丈夫なんてのんきにかまえていたらとんでもありません。
ドイツのメルケル首相がオバマ米大統領に厳重抗議。アメリカの情報機関から個人の携帯電話を盗聴されていた可能性が高いとして、説明を求めた。「事実であれば、重大な審議違反だ」と厳しい口調で詰め寄りました。
フランスの7千万超の市民の通話記録を不正に入手、オランド大統領が抗議。
さらに欧州、中南米、ブラジル、メキシコでも首脳へのスパイ行為が行われていた。また各国大使館や国連本部も監視下におくなど、アメリカは何かと言うと「テロとのたたかい」を名目に、世界中でやりたい放題の無法国。その情報機関を統括するのがNSC。
ところが、これを手本に国家安全保障会議(日本版NSC)をつくる法案の審議が10月25日から国会で始まりました。秘密保護法と一体で強引に通そうとねらっています。安倍政権は、国民の知る権利を奪いながら、権力による監視を一層つよめようとしています。
国家安全保障会議(日本版NSC)は世界各地の紛争に軍事介入を繰り返してきたアメリカ、イギリスにならい内閣総理大臣が、国家にあらゆる情報を集約・統制して外交、軍事政策をトップダウンで強力におし進める現代版の「大本営、戦争司令部」をつくろうとするものです。もともと国家安全保障会議(日本版NSC)をつくれと迫ったのはアメリカ国防省です。
平気で他国や個人の権利を侵害するアメリカと手を結んで、世界中で戦争するアメリカに自衛隊を参加させてはなりません。
憲法を権力者の都合のよいように解釈改憲していつか来た道に戻ろうと着々と準備をしていますが、世論調査は健全です。秘密保護法反対50%超、「慎重審議求める」82%(共同通信10/28)。
国家安全保障会議(日本版NSC)・秘密保護法案の二つの悪法を世論を盛り上げて一気につぶしましょう。(会代表 福田 勝夫) 

kenpo9 at 12:51|PermalinkComments(1)TrackBack(0)九条・発言 

2013年02月03日

憲法九条土浦の会うたごえ広場のご案内

2013年 今年もうたごえから
こころひとつに歌と交流のひと時を楽しみましょう

とき 2月16日(土)午後1時半〜3時半
ところ ワークヒル土浦 音楽室

ギター:橋本 実さん
ピアノ:嵯峨井 美千代さん

参加費:500円(ドリンク付き)

連絡先:福田029−831−6288 古沢029−824−6449

kenpo9 at 16:18|PermalinkComments(0)TrackBack(0)平和のうたごえ 

2012年07月23日

小笠原徹さんを偲ぶ会

小笠原徹さんを偲ぶ会は5月27日(日)土浦四川飯店・アルファで和やかに開かれました。小笠原さんは市民運動の草分けとして、平和運動、文化運動、住民運動に大きな役割を果たしてきました。憲法9条土浦の会の代表もその一つでした。小笠原さんは偉大な足跡を残しながら、飾らない姿で誰にも気さくに接し、小笠原さんの魅力にいつもひきつけれ、あこがれの的でした。

娘さんの岡本英子さんは父親の活動をあまり知らないので皆さんからお話を聞きたいと挨拶していました。自分の生き方を子どもに話さない父親の姿はなかなか格好良いものであると想像しながら聴いていました。最後にご子息の小笠原滋さんは親父の知らなかった生き方を皆さんから教えて頂き感謝しますと締めくくり、会は終了しました。

偲ぶ会は途中に思い出の歌を皆で歌うなど心に残る会となりました。

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2012年04月19日

小笠原徹さんの志をうけついで

筑波山と霞ヶ浦をこよなく愛し、戦前、戦後をはしりつづけてきた小笠原徹さんが86歳で永眠されました。謹んでお悔やみ申し上げます。

戦後まもなく家業の歯科医院を継ぎ、あうんの呼吸の奥様の多満子さんと二人三脚で、土浦で戦後はじめて誕生した平和運動、文化運動に奔走され、住民運動でもまとめ役として大きな役割を担ってきました。

県内ではじめての日中友好協会の設立、原水爆禁止世界大会への代表派遣、市議会議員1期、また県政を県民のために取り戻さなければと県議選に2度挑戦しました。「院長、よく身体が持ちましたね」とたずねると「市民の痛いところはすぐとりのぞかないとね」と笑顔でこたえました。住井すゑさんを師と仰ぎ、平和運動、女性運動にもエールをおくりました。

憲法9条にこだわり、8年前に発足した憲法九条土浦の会では、「この会は希望の持てる運動にしなければと、議論だけではなく、足を踏み出して行動しましょう」と、駅前での訴えはいつも心にしみる胸に落ちる話をされました。(福田 勝夫)



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2011年12月03日

報告 8・15終戦記念日を考える市民のつどい

戦後66周年をむかえる8月14日、土浦市民会館小ホールで毎年恒例の8.15終戦記念日を考える市民のつどいがひらかれました。

今年は東北三県・茨城、震災復興支援チャリテー上映会とし、ドキュメンタリー映画「無言館」を上映しました。この映画は戦没画学生鎮魂美術館が出来るまでの、様々な出来事を映画にしたものです。お盆にもかかわらずたくさんの方々においで頂きました。

この上映会を成功させようと、14団体、個人で実行委員会をつくり、ポスター、チケットの普及へ、市内の県立および私立高、全校へ訪問、懇談しました。土浦市、教育委員会、文化協会の後援依頼もはじめてでした。

歴史の教訓を、映像で次の世代に伝えるのは大変ですが、親子で初めて参加した方は「全体がとても良かったです。一度、無言館をたずねてみたいです。」と語っていました。また「このような映画はじめてみました。お盆の帰省でとてもいい思い出ができました。来年も続けてください。」と激励されました。上映前に詩の朗読とギター、ハーモニカ演奏は感動をよびました。

救援募金もたくさん寄せられました。早速、福島県飯舘村、あしなが育英会の現地へ夫々3万円を送りました。九条の会「会報つなぐ」の紙面をお借りして、お礼と報告をさせていただきます。(福田勝夫)
 




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2011年12月02日

平泉と鳴子温泉郷を訪ねた秋の旅

憲法九条土浦の会は2,3年前から東北旅行を計画してきました。この度やっと機が熟し、「世界遺産の平泉と鳴子温泉郷を訪ねる秋の旅」を実現することが出来ました。以下にその感想と簡単な報告を記します。

10月27日(木)早朝、土浦を総勢20人で出発しました。秋晴れの東北道をバスは世界遺産の平泉へひた走り、途中の車窓からは安達太良山、その先の蔵王連峰が目を楽しませてくれました。しかし、わが故郷(栗原市)の栗駒山はその雄姿を見せてはくれませんでした(残念)。その後まもなく平泉に到着。
 
平泉は今から900年前、奥州藤原氏3代が100年に亘り浄土思想(争いのない清らかな国土をめざす思想)を国づくりに反映させ、戦いの無い世の中をめざし、平和を願って作られた国です。その中心が中尊寺と毛越寺ということになります。
  
この浄土思想は憲法九条の平和主義に通じる思想と考えられます。その意味でこの度の平泉の旅は私たちの会にふさわしい旅になったと思っています。ちなみに、毛越寺のガイドさんは九条の会の会員と言っておられました。 

宿泊は古来名湯と謳われた鳴子温泉です。元禄年間、芭蕉と曽良も泊った鳴子温泉で旅の疲れを取り翌日に備えました。

10月28日(金)は紅葉に映える鳴子峡を散策した後、帰路に着きました。帰路の途中、宮城県の海     岸線を走ることにしました。海岸に近付くにつれ、津波で泥に埋まった車や窓枠の無くなった二階造りの家が散見され、胸が痛みました。
  
旅行を振り返ると、この度の旅行はもう一方で平和の願いと鎮魂の祈りの旅だったように思います。最後に、参加いただいた皆様、ご協力いただいた皆様に感謝申し上げます。(真山策功)



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2011年12月01日

JCO臨界事故を忘れない。原子力事故をくりかえさせない。2011・9・30茨城集会に参加して

集会場である東海村にむかう車中で12年前テレビに映し出された臨界事故の青白い閃光をおもいだしました。土浦の病院でも事故時、東海村付近を通過した人が来院したら最優先で検査するよう指示があったのを覚えています。

集会場は「あの日を忘れない」そして東電福島第一原発事故に対する怒りでいっぱいでした。かすみがうら市長の挨拶のあと、伊東達也氏の「福島からの報告」がありました。 原発震災で福島がうけた被害の深刻さ、広がりは計り知れない、ふるさとを逃げ出さざるを得なかった10万人以上の人々は当分戻れない。除染をしなければ20年以上も帰れない所もあり、原発震災は人災で史上最悪の公害だと語った。

私が驚愕したのは安全神話を浸透させる子ども達への‘安全教育’でした。2004年福島の「原子力を考える日」のイベントで中学生が発表したのは「学校安全教室で学び、原子力は危険と思っていたが誤解だった。その固定観念を捨てることが大切。」「原発は100年使えるクリーンで最も安いエネルギー」、「原子力は富岡町の誇りです」など。彼らは真にそう確信したのでしょう。

そして飯舘村の女子高生が東電に「結婚した時、子どもが産めなかったら補償してくれますか」と涙しながら訴えたという話に怒りがフツフツしてきました。この集会の9項目アピールを皆と力をひとつにして国、東電に求めていかねばと強くおもいました。


 原発ノーこうべを上げて彼岸花
 隊列をくむかの如く彼岸花
(福田洋子)
      



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2011年11月29日

9・19さよなら原発集会に参加して

被爆国として苦しんできた日本が,原発によりこんなに苦しむ国になるなんて,多くの人が想像してはいなかったでしょう。 東日本大震災から半年を経た9月19日に,明治公園にて「9.19さよなら原発1000万人アクション」が行われました。私もいたたまれぬ思いで9条の会,年金者組合,新婦人の会の人達と総勢12名で土浦から参加しました。

比較的早い到着で会場の中央付近まで行くことが出来ました。日本全国から集まった労働者,民主団体,子供連れの家族など「怒」と書かれた旗や「脱原発」と書かれた思い思いのプラカードを持ち参加していました。福島からはバス4台で駆けつけた黄色のTシャツの人々が前のほうに座っています。

1時からオープニングコンサート,1時半から呼びかけ人等8人のアピールがありました。ルポライターの鎌田慧さんは「核と人類は共存できない。」来年3月24日の署名集約集会には,日比谷の野外公会堂に1000万人の署名を持ち寄ろうと呼びかけました。

続いて大江健三郎さんは,「原子力のエネルギーは荒廃と犠牲を伴います。我々が原発を推進する勢力に抵抗するには,民主主義の集会とデモしかない。頑張りましょう。」と挨拶しました。

次に内藤克人さん。「日本中から,世界の各国から集まって下さり有難うございます。」これは,今後の子孫の感謝の言葉であろうと思う。核武装するのではなく命のエネルギーが輝く国にしようではないですか。「さよなら原発,こんにちは命輝く国」その一歩を皆さんとともに歩み続けたい。と発言しました。
  
作家の落合恵子さんは,「あなたに会えて良かった。きっかけを考えると腹立たしい。しかしこの力を明日の力に変えたい。」ビートルズのイマジンと同じように想像して下さい。福島の子供たちの今を。スリーマイル島,チェルノブイリ,次は誰が犠牲になるのかを考えて生きていくのはいやだ。原発は命への,生きていく人に対する国家の犯罪です。憲法を持つ国の我々は決して許してはいけない。この犯罪に加担しないと約束しましょう。と呼びかけました。

膝の骨折と手術で50日の入院をしたという澤地久恵さんは,今日は立って参加したいと洋服姿でお見えでした。人類は日本と言う実験場で原発を始めた。54基もの原発。この国は原発など持ってはいけない国なのです。危険なものは世界には必要ありません。暴走する核に対して,「にんげんのとりで」を築いて行きましょうと話されました。

ドイツ人のフーベルト・ヴァイガーさんは,フクシマの原発事故は世界を変えた。原発が計り知れない影響を与えることを明らかにした。政府も企業もなすべきことがないことを明らかにした。ドイツは,8基を廃止し,2022年までに原発を廃止することになった。「脱原発は政治的にやるかやらないかの問題」。民主主義のもとで反原発を訴えるとき,「半年前に起こったことは,二度と起こしてはいけない。」原子力のない世を実現するまで一緒に闘っていきましょうと述べられました。

道路渋滞でやっと駆けつけた山本太郎さん。今を生き続けるために原発を止めること。今出来る事,デモ,署名,何でも人々の力を出し合いやっていきましょうと言いながら,壇上から皆の写真を撮っていました。

福島から来たハイロアクションの武藤類子さんの静かな語りは心に残りました。「山は青く,水は清らかな福島。私たちは被曝者になりました。人と人の繋がりは引き裂かれていっている。事実は隠されている。国は子供を守らない。放射能のゴミは残るのだ。原発推進するグループがあり,私たちは捨てられたのだ。私たちを馬鹿にするな!命を奪うな!福島の子供を放射能から守ろう。私たちは静かに命を燃やす東北の鬼です。どうか福島を忘れないで下さい。」と。

集会の途中で,この集会には6万人が集まっていて千駄ヶ谷の駅まで道路は人でいっぱいですと言う報告があり,皆拍手喝采でした。デモ行進するのに公園出口まで行くのに1〜1.5時間かかる状況です。こんなに多数集まって「さよなら原発 命が大事」・「原発、再稼動させるな!」などとシュプレヒコールしながら歩いたのは何と40数年前のべ平連のデモ以来です。3つのコースのうち,私たちは新宿コースを歩きました。
  
上空を3機ものヘリコプターが飛び交った集会の様子は,帰宅後のNHKニュースでたったの30秒。翌日の朝日新聞は一面に10平方cm位の所に写真とちょっとした記事が載っただけ。他の新聞はもう少し大きく取り上げたということですが,非常に驚きました。今後どれほどの行動をすれば,NHKはとりあげるのだろうか?来年の3月24日には1000万人の署名と10万人以上のデモ行進をする必要があると思いました。一日も早いフクシマの,東北の復興を願うと同時に一刻も早い原発の廃止に出来る事をしていきましょう。(森泉弘子)


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2011年11月13日

憲法25条 私たちは願いは「安全・安心」

いま私たちのくらしが不安にさらされています。3月11日に突然襲いかかってきた巨大地震と予想もしなかった大津波による被害、それよりもさらに大きな不安は、いつ収束するのかわからない原発の被害、どこまで広がるのか判らない放射能被害です。

いま政府や電力会社の発表は信用されていません。九州電力玄海原発の運転再開をめぐる「やらせメール」問題に端を発して、電力各社の世論操作が明るみに出てしまいました。政府と電力会社が「安全神話」の宣伝のために膨大な資金を投入している事実も知れ渡ってしまいました。いまや「安全神話」を信じる国民はいませんが、すでに放出されてしまった放射能が何マイクロシーベルトなら健康上安全なのかについても、政府の発表や「原子力村」からの報告が信用されていないのです。このような不信感を生み出した責任はどこにあるのでしょうか。

憲法25条には「すべて国民は健康で文化的な生活を営む権利を有する」と書かれています。

これは太平洋戦争の悲劇の上に、政府に対して課せられた義務です。為政者の恣意的な判断によって、国民の健康やくらしの安全を奪ってはならないという義務を課したわけです。憲法九条の意味も、同じく戦争によって国民の安全と幸福を奪ってはならないという義務を背負ったわけです。

最近公開されたアメリカの秘密文書によると、原発について時の大統領アイゼンハワーに対して「日本人の中には原子力について間違った拒否反応がある。これを払拭するために原子力平和利用を広める必要がある」という提言がなされ、その後のアメリカの対日原子力戦略はそれを受け継いできました。アメリカの原子炉、核燃料の提供を受ける裏では核持ち込みが黙認され、非核3原則が破られてきたわけです。

日本政府はアメリカの政策を受け入れて、安全に目をつぶって利益を受けてきました。「原発は安上がりだ」という言い方、「原発がなければ産業が成り立たない」という言い分は、福島原発の事故によってもう破たんしてしまいました。核廃棄物処理の見通しさえも不透明な、未熟な技術が火山列島の活断層の近くにある現実は、国民の安全安心を守る責任をないがしろにしているというほかはありません。国民多数の要求は「生命の安全」であり、将来にわたる「安心」なのです。政府は国の責任で福島の除染をすると言いますが、あの広大な汚染地域をどうやって除染するつもりでしょうか。福島の人たちは疑念を持ちながらも故郷に帰りたいという気持ちを棄てることはないと思います。私たちはともかく東海第2原発の再稼動を止めるためにかんばるろうではありませんか。(井上仁志)

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2011年11月11日

映画「無言館」鑑賞 雑感

8月14日、土浦市民会館ホールにおいて上映された。暑い盆休み中にかかわらず、関心が高く、満席に近く盛況であった。

生まれが上田という縁もあって、帰郷の折、館設立間もなくの頃と2回訪れた。その後、大分ご無沙汰となっている。近頃、地元の方が無言館の行う慰霊祭をはじめとする諸行事に参集参拝されるようになり、村の生活に溶け込んでおられると、館長さんのお話、ありがたいことです。

画学生の遺した絵を改めて解説を聞きながら目にすると私のような素人にも素晴らしく、深く強く胸を締め付けられる思いであった。学徒動員。赤紙招集令状が来る、軍靴高らかにジャリを打ち鳴らし、天皇陛下万歳を唱え、戦地に赴き戦場の露と消えゆく。アッと言う間もなく消えゆく命、それは明日かもしれないという状況下におかれた画学生が、このような絵を描き残している。

絵からは戦争のかけらさえ感じられない。描かれた絵は、両親、兄弟、友人、将来を誓い合った恋人、家の近くのふるさとの風景など、学生にとって身近に存在する大切な人であり自然である。万人に共通する画材といっても良いのではないだろううか。館主・窪島さんは、この仕事をはじめ今日まで、絵は無言であるが、何を語り伝えたかったのかいろいろ考えてきた。最近、「愛」であると思うようになった言われた。

描かれた絵の題材の共通性は生命(いのち)あるものである。戦争は命を否定することを考えれば、死を超えて描いたと言えるのではないか、とすれば、画学生が死を超えてわたくしたちに遺した絵は、生命の証(あかし)であり、それが「愛」なのであろう。ほかの表現を使えば生存権、人間愛、生命に対する畏敬の念等々、人によってとらえ方はいろいろあってよいと思う。

西の京にある国際平和ミュージアム名誉館長・安斎さんは、この映画のなかで当平和ミュージアムの戦争や原爆など展示を見学された方が、無言館の絵の一部が置かれている最後の展示室を訪れ、みなさんが一様にホッとする、安らぐ、と言われた。これは画学生の絵が、館主・窪島さん云う「愛」やさしく包んでくれるからでしょうか。


戦争終結と云う時、広島、長崎に核爆弾が投下された。放射線は無差別に人命を殺傷した。このような行為は、許されざる犯罪行為である。いまだに放射線の後遺症に悩む人が後を絶たない。このような大きな戦争の惨禍を残しながら、戦後日本国憲法は、第9条において、再び戦争を起こさないため「平和のため国際紛争の解決手段として戦争を放棄し、戦力の保持、交戦権は認めない。」とする平和憲法を制定した。憲法制定60有余年の今日まで、銃口を向けることもなく、向けられることもなく、一人の犠牲者もない。

画学生が描き潰した絵は、生命の証である愛は、平和であって初めて育むことができることを思えば、適当な表現が見当たらないが、強烈に「戦争はしないでください。平和を望みます。」と叫んでいるように思えてしかたながない。戦没画学生も9条を心待ちしていたのではないか。戦没画学生の遺志でもあると思い9条を守り平和を発展させたい。9条の会はじめ、核兵器禁止と平和を目指す運動などに多くの国民とともに平和に発信していきましょう。

不戦の誓いを新たに、戦没画学生のご冥福をお祈りします。合掌。(土屋 順一)



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2011年08月07日

6月3日 東京・下まちめぐりの旅

何十年かぶりで、谷中銀座を日暮里側から眺めて、昔とちっとも変っていないのでびっくりしました。下まち情緒あふれて子どものころにタイムスリップしたみたいでした。わたしもいろいろ戦跡めぐりをしていますが、どんなことがあっても戦争はさせてはいけないと、こころから思いました。

ぶらり旅には、11人が参加しました。日暮里駅を降りて、谷中の台地を通り、上野駅まで歩きました。緑がいっぱいで、これが東京かと思うほど落ち着いた街並みでした。幕末の上野の戦争で彰義隊の結集した寛永寺、加波山事件(1884年)関係者の墓、東京大空襲で焼け残ったスダジイなどがあり、歴史が重なる街でもありました。

東京大空襲で被災した沢山の人々が、上野の森や谷中の台地に避難してきました。上の写真の谷中名水の井戸水が、荒川区側から飛んでくる火の玉によりあちこちで起きた火災から、谷中の街を守ったそうです。戦火の犠牲者を供養するお地蔵様が各所に祭られ、戦火の跡なども大切に保存された街でした。

上野で昼食を兼ねて、根津・千駄木9条の会、谷中9条の会のみなさんと交流会を開きました。ぶらり旅の案内と説明など大変お世話になりました。再会を約束してお別れしました。(近藤 忍)



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2011年08月06日

龍ヶ崎9条の会・小森陽一先生の講演を聴いて

7月3日(日)、小森陽一先生の講演を龍ヶ崎に聞きに行きました。タイトルは「大震災・原発被曝そして平和憲法」でした。

私は講演を聞くまで、なぜアメリカが日本に原発を建設することを許したのか、その理由がわかりませんでした。1949年にソ連が核開発能力を獲得し、米ソの核開発競争が進む中、アメリカは核保有の優位性を保つため、原爆の原料となるウラン235を手に入れるために、日本にも原発を推進したそうです。

第五福竜丸の被曝が1954年3月1日。まだ誰もそれを知らない内に、中曽根康弘は1954年3月3日、突如「原子炉築造予算2億3500万円」を国会に提出し、可決されました。第五福竜丸が日本に帰港した後だったら可決されなかったでしょう。この予算額の2億3500万円というのも、ウラン235をもじったものらしいです。その予算でアメリカのGEに原発を発注しています。

もう1つ興味深かったのは「トモダチ作戦」について。生存への壁が72時間と言われながら、アメリカは「トモダチ作戦」のために、横須賀港に配置している原子力空母ジョージワシントンを出さず、韓国と軍事演習中だったカリフォルニア州サンディエゴ第7艦隊のドナルドレーガンを出したそうです。それは、自国の原発テロ対策の予行演習を行うためだったそうです。アメリカは原発から80kmを避難区域としていたため、米軍をその範囲に入れることはなく、また仙台空港の瓦礫を撤去することにより、民間空港でありながら、仙台空港を自由に使える状態にしたそうです。

「トモダチ作戦」に使ったお金は64億円。もし米軍が本当に日本のことを思っているなら、「思いやり予算」の1881億円x5年間を返還するのが本当ではないか、とおっしゃっていました。

「護憲派ですか改憲派ですか?」との問いに、先生は「活憲派です。」とおっしゃっていました。25条の生存権について、震災後よく耳にするようになりましたが、憲法を活かすことが大切だと思いました。ある質問に答えて、「国の命令で戦争に行かなくてはならないなら、それは主権在民ではない。『主権在民』と『平和的生存権』がない国の憲法には矛盾がある。」とおっしゃった言葉も心に残りました。

インターネットの普及などにより、草の根運動が広がりやすい環境ができたように感じます。9条の会は2004年にできたそうですが、先生の明るいキャラが示すように、この運動の先に明るい光が見えている気がしました。(中谷友美)



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2011年08月05日

8月の日々、神話を越えて

長論「橋のない川」の作者、住井すゑが日頃力説していた「平等は平和の原則。差別は戦争の原点」という至言は、正しく人間の歴史の流れを見通している。

1945年8月15日は、8月6日、8月9日とともに忘れてはならない8月の中の日々である。今まで生きてこられた私たちは、人の命の尊さを子孫に語りつづける使命を持っている事を心に刻みつけている。

人生80年といわれる今を支えているのは戦争が起こらないこと、食生活の安全、医療の向上がこれからも続くことであろう。

私が86歳を越えることができたのも憲法九条のお蔭であろう。九条は長寿を保証する要(かなめ)であり、九条こそ生命を守る文化である。

「九条は文化である」と語る住井すゑは「戦争は人間が起こすものであるから、止めさせることができる。しかし地震、風雨は自然現象であるから、人間の力では止められない」と説く。

さて、画家岡本太郎が原爆の炸裂する瞬間を描いた巨大壁画「明日の神話」(渋谷駅構内)は1954年第5福竜丸のビキニでの水爆実験による残忍な犠牲の後も度重なる核兵器実験に対し「怒りと警告」を発した歴史的作品である。

所詮「神話」は造り物、現代では「神話」を超えての人間の英知に頼ることこそ幸せと安全が保証される。「神話」につながるものは数多くの“虚構”に満ちている。「神話」や「寓話」は悪用されてはならない。

日本の政情先が見えずという報道が溢れているが、それよりも現代は人類の存続すら岐路にある。8月15日以来今日まで、民意どこ吹く風で軍事面を聖域としてきた政治家集団のもたらした結果である。このドサクサに乗じて大連立構想、憲法改悪、翼賛政治、更に天皇元首再現は九条抹消の鬼門となる。

九条は「日本の神話」を越えることができる。(小笠原 徹)



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2011年08月04日

3.11東日本大震災 その時・その後

3月11日、私は隣の高村家、ある会の資料作りをしていました。ゴォーという音と今まで経験したことのない揺れに二人は手を取り合っていました。

書庫の本や食器は落ち、大きな額が傾きながら落ちてきました。少し揺れが治まったので我が家に帰って見ると、食器や本が散乱し、リビングボードのコーヒー焼酎の瓶が落ちて割れ、茶色い液体が絨毯を汚していました。どこから手を付けて良いのか迷いながらも簡単に雑巾で焼酎を拭き取っていると、またすごい揺れが来て外に飛び出しました。庭には瓦の破片がいっぱいでした。

隣の公園の所から、我が家の2 階が大きく揺れ、瓦が崩れ落ちるのを近所の人々と見続けました。30代後半の奥様も私にしがみ付いて、怖くて家に入れないと震えていました。その夜は、石油ストーブと鍋に入れたあったおでんなどあるものを持ち寄って、南川さんも含め4人で高村家で過ごし大変心強かったです。

翌日の12日に、佐久にいる主人が帰ってきて、13 日には宇都宮から駆けつけた息子と、屋根にブルーシートを掛け、一時しのぎが出来るようになりました。2人のおかげで瓦も集積所に運び込むことが出来ましたが、一人ではどうしようもなかったでしょう。

少しだけほっとした15日に、ひたちなか市に住む娘一家が、放射能を避けるため避難してきました。3歳、5歳の男の子を外に出さず家の中で世話をするのは大変です。おやつには昆布などを食べさせ、甲状腺がんの予防にも心がけました。東北から避難している人々のお世話は出来ませんでしたが、3度の食事の世話で2週間はあっという間に過ぎました。

今回の地震・津波・原発事故は、第二次世界大戦と同じ規模の重大な出来事と言えるでしょう。福島、宮城、岩手の人たちの惨状を見ると、私たちの経験などたいしたことではなかったけれど、それでもやはり凄かったですね。丸2日間電気が通じず、3日後の夕方水道が使えるようになり、やっと正常な生活が戻って来ました。水な
し、電気なしの生活でしたが、こういう日のために購入しておいた、5年間の長期保存水、簡易トイレ(30回分)、満杯の冷蔵庫の食品、昔ながらの石油ストーブ、偶然にも震災直前に入れたガソリンなどが役に立ち、外出せずにすみました。私は、中1のとき伊勢湾台風による被害を受け、災害には敏感になっています。風呂の残り湯を取って置く習慣がありますが、これがトイレを流すのに役たちました。トイレにビニールの袋を掛け、固める粉(1リットル分処理できる)を振り掛けますが、これがないときは、紙オムツを小さく切って使用しても良いようです。

アトピーの孫たちに食べさせる無農薬の畑の作物(ホーレン草、小松菜、ブロッコリー、春菊など)は、放射能の雨が降る前にすべて収穫し、新聞紙にくるんで冷蔵庫に保存して長期に亘り食べました。その後の土壌を心配していた時、作物や雑草に放射能を吸収させそれらを畑の隅に置き、畑に埋め込まないようにとの情報を得て実行しました。また、私はEM農法をかなり以前よりやっていて、これが放射能除去に大変効果があり、チェノブイリの近くの実験場で成果が出ているということなので、益々力を入れて取り組んでいる次第です。

あの時、私に出来ることはこの位でしたが、福島第一原発事故から70 日過ぎた今でも、修復に向かうどころか日毎に悪い情報が入ってきています。

食物による体内被曝量も、ホーレン草100gを一年間食べても大丈夫というようなデータでは落ち着いては居られません。多種多様な食品を、子供、大人が食べた時、蓄積された放射線量がどの位になるか、分析化学者だけでなく栄養学者、農学者なども含めた総合的な分析によるデータがほしいものです。

膨大な金をかけて作った原発が、一旦異常を起こすと莫大な費用がかかり、多くの生命に影響を与えます。反原発に向かって今からでも遅くはないので行動して行きたいと思います。(森泉弘子)

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2011年08月03日

大震災 14:46 そのとき

14 時46 分。隣人のM さんと我が家の炬燵で山の会の相談をしていました。「あ!地震よ!長い!おっきい!これは大地震だよ!」こもごも発する二人の声は、だんだん落ち着きの無い上ずった声になっていきました。

台所からガラガラガシャーンという、食器類が落ちて壊れる音が大きくなってき、座っている背後でテレビがグラングラン大揺れし出し、壁の40 号の大きな絵のワイヤーがはずれてぶらんと垂れ下がり、あちこちの絵や写真が落ちて壊れる音がして・・・恐怖でした。しかし、その後の福島原発のメルトダウンのニュースは更なる恐怖で、今も続いています。(高村登美子)

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2011年08月02日

若者の優しさに触れて

「東日本大震災の救援募金にご協力をお願いしま〜す」と声を張り上げて、帰宅を急ぐ通勤者に呼びかける。ちらっとこちらを見るがそのまま素通り。なかなか募金箱には近寄ってくれない。また「東日本大震災の救援募金にご協力をお願いしま〜す」と呼びかける。

すると、年の頃は高校生ぐらい。少し派手な作業服を崩して身にまとい、周りから疎まれそうな若者が4人近寄ってきた。それぞれ片手に小銭入れを持ち、冷やかしながら募金箱にコインを入れてくれた。

聞けば中学を卒業したばかりでニートをしているという。それなのに少ない小遣いから救援募金をしてくれた若者たち。この若者たちに本当の優しさを見た気がした。若者たちが安心して暮らせる社会を作りたいものである。(真山策功)

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2011年08月01日

大震災・原発事故に思う

約30年位前のことだが、校舎の外の建屋に灯油タンクが置かれていた。鍵をあけ、スイッチを押すと、ゴーと大きな音がして、暖風が各教室に送られた。

職員会議で、その作業を「日直当番がやる」と提案された。私はびっくりした。「こわい! 当番はやれません」と断った。「そんな事をするのだったら学校をやめるしかない」と一瞬思った。その後どうなったか、はっきり覚えていないが、私に当番は廻ってこなかった。今度の福島第一原子力発電所の事故で、なんだか30年前のことが
よみがえってきた。

「そんな事起こることない」と言い張ってきたことが起こった。核燃料が溶け出して、放射能をだし続ける現実に今生きている。毎日入ってくるニュースに心が揺れ、いつ来るかわからない余震に体も揺れている。

よく目にし、耳にする「安心、安全のまちづくり」という言葉をよく使う人達がいる。どうも嘘っぽくて、違和感を私はずっと持ち続けてきた。≪戦後、教室で憲法第2 章9 条の戦争放棄の項目を目にしたときは、安堵の胸をなでおろしたが・・・≫ これは私が戦時色に染まっている時代に生まれ、こどものときに体感した不安な日常生活によるものだ。そして現在、新たな不安が、予期されていた不安でも止められなかった不安を浴びることとなった。

私たちは、原爆の恐ろしさを身近に知り、世界中にそれを知らしめてきた。核廃絶の運動を進めてきた。その日本の国で起こった今回の事故、心の中が煮えくりかえり、心の中の整理がつかないでいる。(栗栖恵子)

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2011年07月04日

ボルネオでBC級戦犯として処刑された伯父の無念(3)

6.伯父と侵略戦争

1941年(昭16)12月8日、日本は米英軍に対して宣戦を布告しました。日本海軍は石油、鉄鋼、ゴムなどの資源を求めて、蘭領東印度のボルネオに侵略を始めたのです。

伯父高木利兵衛は、前述の野村ゴム園の職員だったので、商社を通じて、軍属・通訳(英語、蘭語、中国語、現地語)として、現地召集になったのです。そして、パンジェルマシンに駐留していた日本海軍陸戦隊の民政部所属となったのです。伯父はパンジェルマシンなどボルネオの事情に精通していたので、海軍の民政部にとってかけがえのない大変貴重な存在であったと思われます。

日本海軍が占領した直後は、比較的平穏な日々だったようです。しかし、連合軍の反撃攻勢が始まる2年目ごろから、蘭領ボルネオの静かな小都市パンジェルマシン(人口約10万人)でも、反日的な不穏な状況が強まったようです。

「秘録大東亜戦史蘭印編、昭28、富士苑」によれば、昭和18年末、このパンジェルマシンを恐怖のどん底にたたき落とした戦慄の事件がありました。それは、武装蜂起計画をととのえ、一挙に南ボルネオを奪還しようとした現地住民の抗日陰謀計画を、海軍特警隊(憲兵隊)が探知し、数回にわたり関係者200余名を検挙し、軍法会議の公判に付し、首謀者以下に対し死刑を宣告銃殺(一部軍刀での首切り)を執行したとあります。

それが殺りくの悪行と言われたパンジェルマシン事件です。その秘録によれば、刑場における目を覆うような死刑執行の惨劇を見た朝日新聞記者のなまなましい様子が記載されておりました。それは気分が悪くなるほどひどい虐殺だったのです。

7.敗戦直後の首実検

8月15日のあの玉音放送で、ボルネオのパンジェルマシンでは、いち早く敗戦態勢になりきったようです。それまで海軍特警隊(憲兵隊)が張切っていた反動が強かったのです。悪魔以上に恐ろしいものであった特警隊(憲兵隊)が無力になったので、その反動が不気味に現れたのです。敗戦3日目に日本海軍の民政部を通じて「パンジェルマシンから4km離れた地点に集合せよ」という通達があったのです。しかし、日本の軍・官・民の2000名は、28kmも離れたダナサラクの野村ゴム農園(商社で叔父たちの農園)へ逃げ込んだのです。

それから全員が、豪軍差し回しの軍用車に詰め込まれて、パンジェルマシンの高い金網張りのテニスコートに押し込まれたのです。そこでみじめな1週間を過ごし、海上2晩の行程でパリックパパンの急造された収容所に移されたのです。

その収容所では、入所早々から激しい重労働(道路工事、伐木製材など)です。監視役は、戦時中捕虜として日本へ送られていたオランダ軍のアンポン、メナド兵です。日本軍によって気合の入れ方などを骨身にこたえている兵隊なので、面白半分のビンタや蹴飛ばしがむやみに行われたようです。

終戦後、軍首脳部は身柄をすぐ拘束されたのです。戦勝国のオランダ側が探していたのは、パンジェルマシン事件の加害者だったのです。「集合!整列!」収容所での絶叫にも似た声が突き抜け、全員がすべてをかなぐり捨てて、庭に走り出し整列したのです。その前を、オランダ人の検事が数人の証人を連れてジロジロ睨みながら一人一人を見て回る首実検が行われたのです。

憎悪に燃える目が一人一人に据えられて、探す日本人が発見され、指差されると、その途端、その傍らに控えているアンポン兵らが飛びかかって引きずりだし、容疑者収容所へ連行されていったのです。特に狙われたものは、その場で見るに耐えられないリンチが加えられたのです。特警の兵曹長は、身動きならぬまで殴られ、その惨状は、全く筆舌につくしがたい程ひどかったそうです。

戦犯法廷が進むにつれて、首実検は激しさを加えたようです。50歳を超えていた軍属・通訳としての伯父も、その首実検で指さされたようです。

8.まとめ

伯父も遺書は書かれたようですが、戦犯死刑囚の遺稿集として刊行された「世紀の遺書」には見当たりませんでした。しかし、パンジェルマシンで処刑された海軍の嘱託であった長野県出身の金井駒人さん(42歳)は「(前略)おもえば自らこの仇にあたり得ざること誠に遺憾千万にて子供たちに申し訳ないと常々心に詫び居り候・・・何卒小生の最期まで日本人として立派にたたかい抜き通せしを固く信ぜられ度(後略)」とあります。こうした遺書を残してBC級戦犯として処刑されたのです。


伯父高木利兵衛は、56歳で生涯を閉じたわけです。ボルネオではゴム園経営に成功し発展させることが出来たのです。その成功は、ボルネオでの現地住民の皆さんなどの支援・協力があってのことだったと思うのです。そうしたボルネオの仲間たちが日本海軍特警隊によって拘束され、虐殺されるのを止めることが出来なかったことを、一番悔いておられたのではないかと思うのです。なぜなら伯父にとってボルネオは人生のすべてだったからであります。

戦前からボルネオで活躍し、成果をあげてきた在留日本人で生き残った人たちも、日本軍隊の侵略戦争によって終戦と同時にそのすべてを失い、前述のような苛酷な収容所生活を強いられたのです。

しかし、日本の政府は、終戦後65年間この侵略戦争をきちんと反省していないのです。そしてベトナム、イラク、アフガンなどへの侵略戦争で虐殺を続けてきたアメリカ軍に、沖縄をはじめとした日本各地に軍事基地を提供しています。更に従属的な日米安保条約によって、軍事力の強化も強いられており、大変危険なことであります。

更に我が国の中で、憲法9条を改悪して、世界の中で戦争が出来る国に変えていこうという動きが強まっています。これはストップしかないのです。戦争で平和を求めることは、絶対に出来ないことだからであります。         

以上
(中村恵一)



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2011年07月03日

ボルネオでBC級戦犯として処刑された伯父の無念(2)

3. 蘭領ボルネオでのBC 級戦犯裁判

オランダ裁判はほとんどが蘭領東印度(インドネシア)で行われており、民間人への犯罪が約半数を占めていました。次いで西欧民間人(ほとんどがオランダ人)が3分の1を占め、捕虜に対する犯罪は15.8%です。すなわち、民間抑留者への犯罪が主体だったのです。そして日本側の被告者は1,037 人、死刑は228 人と非常に多かっ
たのです。

蘭領ボルネオ(カリマンタン島)での裁判地はポンティアナック、パンジェルマシン、パリックパパンの3か所で行われ、被告者数は36 人、30 人、88 人であり、死刑は16 人、10 人、18 人でありました。海軍中将の醍醐忠重はポンティアナック、伯父(軍属・通訳)の高木利兵衛はパンジェルマシンで裁かれ、死刑を言い渡されたのです。(注:2と3は、林博史:BC 級戦犯裁判、岩波新書、2005 年)

4. ボルネオ島における伯父の活動

伯父高木利兵衛は、長野県上田市の県立小県蚕業学校を、朝晩自家の養蚕を手伝いながら、片道8Kmを歩いて通い、1913 年(大正2年)21 歳で卒業したのです。同級生に浦里村村長や県議等を勤めた宮下周がいます。

伊那谷で養蚕教師として2年間過ごします。その後、伯父は大きな夢を持っておりましたので、大阪の商事会社が経営する蘭領東印度のボルネオの野村農園に勤務することにしたのです。

しかし、その農園の経営が思わしくなく、その土地を任されてゴム園経営をすることになったわけです。やがて経営が軌道に乗りボルネオ最大のゴム園となったわけです。家族として長男、次男、三男が生まれました。しかし、満州事変など社会情勢が不安定になって来たので、長男が四年生の時1935 年(昭10)、古里に家(通称南洋の
家)を建てて、家族は引き揚げたのです。(注:この項は、遺児の長男南越氏の話による)

5. 戦前におけるボルネオ在留日本人の活動

太平洋戦争が始まる前の1940 年(昭15)当時、蘭領東印度のボルネオ島における人口は約400万人、うち在留日本人は約400 人でありました。パンジェルマシン市はパトリ川の河口から60劼涼賄世砲△蝓⊃邑は68,000 人、そのうち白人(主はオランダ人)が1,000 人、中国人が5,000 人、現地人(主体はマレー人とジャパ人)が60,000 人余です。原住民のダイヤ族は奥地に追われていたとのことです。

在留日本人は、市内外にわずか120 名余だったようです。数としては非常に少ない日本人が、この地に絶大な産業上の実勢力を築き上げておりました。パトリ川流域の大平原は年産4万トンのゴム(蘭印全生産額の約1割)を生産しており、ゴム園の6割が日本人経営だったのです。当時、日本人経営のゴム園は野村殖産をはじめとする12農園、その租借面積2万ha、投下資本2,000 万円、現地住民労働者が約2,000 人、そのうち野村ゴム園は投下資本1,600 万円、年産2,500 トン、租借面積7,000ha の大農園を経営するとともに、ゴムの精製工場をパンジェルマシン市以外の200km の奥地まで数か所設立、パンジェル港から輸出するゴム精製品の約5割
を占め、税関構内に特別倉庫の設立を許されるという特典を得ていたのです。

このような大資本進出の基礎として、裸一貫でこの処女地に1909 年(明治42 年)ゴム農園(わずか32ha)の草分けをした金子久松(長崎県出身)、続いて井上源一郎(福岡県出身)が乗り出し、邦人のゴム園経営が続出したようです。

また、パンジェルマシンの市内でも歯医者の正源寺寛吾(熊本県出身で在留30 年、ゴム園も経営する60 歳)。また百貨店式の雑貨店「トコアベ」(阿部商店)の店主安部正春(横浜市出身、在留20 年余38 歳)。タカラ洋行の店主伊地知國男(鹿児島県出身、在留3年30 歳)がおられ、ただ2軒の邦人商店ですが、華僑(中国人)の店を尻目にかけて、土民(現地住民)の大衆的支持を受け、頼もしい存在であったようです。このように、パンジェルマシン市内外の在留日本人120 余名は、一人ひとりが目を見張るような活躍をされていたのです。しかし、終戦と同時に在留日本人は、敗戦国の国民となってしまったのです。(注:渋川環樹:蘭印踏破行、1941 年(昭16)、有光社による)
(中村恵一)





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2011年07月02日

ボルネオでBC級戦犯として処刑された伯父の無念(1)

中村恵一さんの伯父・高木利兵衛さんは、戦前ボルネオでゴム園経営、ボルネオ最大のゴム園を経営していました。太平洋戦争がはじまると、ボルネオ島の現地軍属・通訳として召集され、1948 年(昭23)12 月13 日、パンジェルマシンでBC 級戦犯として処刑されました。戦争に巻き込まれた市民の無念さが時を超えて私たちに伝わってきます。中村さんは、戦争中、特攻兵器「人間魚雷回天」の搭乗員として訓練を受けながら戦後を迎えられ、現在、乙戸南にお住まいです。(編集部)

1. はじめに

私の母は、南洋(ボルネオ島)でゴム園経営に従事していた伯父(母の兄)を大変尊敬し誇りに思っておりました。その伯父は太平洋戦争がはじまると、ボルネオ島の現地軍属・通訳として召集され、1948 年(昭23)12 月13日、パンジェルマシンでBC 級戦犯として処刑されたのです。

伯父の最期は56 歳でした。故国日本に3人の子供たちを帰し、好きで愛して30 年余を過ごしたボルネオ島が人生のすべてだったと思うのです。その伯父の無念さや心の葛藤を思うとじっとしておれなかったのです。

そこで伯父が活動したボルネオ島(主としてパンジェルマシン)について、戦前の姿、侵略戦争末期の状況、戦犯の遺書などについて、国会図書館などに通って調べてみました。その要点を報告させていただきます。

2. A 級とBC 級戦争犯罪

第2次世界大戦後に行われた戦犯裁判には大きく言って2つの種類がありました。1つはドイツのニュルンベルグ裁判と東京裁判(極東軍事裁判)です。これらは「平和に対する罪」(A 級戦争犯罪)を含む戦争犯罪を裁いたもので、主に政府や軍の指導者が対象となりました。そこで裁かれた被告たちは一般にA級戦犯(主要戦犯)と呼ばれています。ニュルンベルグ裁判は英米仏ソの4カ国から、東京裁判は11 カ国から裁判官が出る国際法廷だったのです。

もう1つは「通例の戦争犯罪」(B 級戦争犯罪)と「人道に対する罪」(C 級戦争犯罪)を裁いた、いわゆるBC 級戦犯裁判です。こちらは、個々の残虐行為に関した者(命令者から実行者まで)を裁いたのです。日本に対しては連合国の中の米・英・仏・蘭・豪・中・比の7カ国で、それぞれ裁判が行われました。東京裁判は被告28 人、死刑
7人、BC 級裁判は被告5,700 人、死刑934人だったのです。(中村恵一)


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