2016年07月24日

日中友好の旅に参加して

中国を旅行した友人の話や昔のガイドブックを読んで、中国旅行は怖い、最近の反日感情よりもトイレ事情が、とてつもなく怖いの思い込みで、旅行など考えられない状況でした。それを変えたのは上野の博物館で開催された兵馬俑展を見たことでした。紀元前、秦の始皇帝(前221年)の陶傭(陶器で作られた人や馬などの副葬品)のすごさ、偉大さ、王の権力のものすごさを見て、度肝を抜かれたというのが、正直な感想でした。この国の文化は日本文化の源でしょう。一度は中国の片隅なりと、見て見たいなと云う思いが湧いてきたのでした。

そんな折に、日中友好協会主催の上海、南京、蘇州の3都市巡りの旅行案内をいただいたのです。信頼できるツアーでした。

 上海空港からバスで走った道路が広い広い5車線。バスから延々と見える高層マンション群。最初から中国の広大さ、量的な多さに、圧倒されっぱなしの旅の始まりでした。3都市の感想は書き出したら、大変なことになってしまいますので、「全てが広大な建造物で、内容も立派で、素晴らしかった」ということで割愛します。

一番心配だった反日感情は感じられませんでした。反日感情が暴動化している等のメディア報道に、私も嵌められていたようです。史跡の見学中や商店での買い物など、皆ふつうに親切でしたね。一番心配だった、パーキングなどのトイレ事情も、怖いような程ではなかったです。一つだけ、苦情を言えば、食堂のビールがインチキジュースのような飲み物でべらぼうに高かったこと、くらいでしたかね。

日本文化のふるさとのような中国とは、仲良くしていきたいものです。また、日中友好協会の旅の案内があれば、別の都市も訪問したいと思いました。

                (女性 76歳)




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蘇州・南京・上海 4泊5日の旅を終えて

あの旅行から大分時間も経ち、少しずつ経験が整理され、記憶に刻み込まれていくなかで、心に「ズン」と強烈に訴えてくるのが、南京大虐殺の記念館にあった母と子の彫刻というか塑像です。あの母娘を初めて見た時、「今の今まで、平和に暮らしてきた私達が、どうしてこんな目に遭わなくてはならないの、誰のせい? この子は死んだ、否殺された、どうして殺されなければならないの」。悲しくて、悔しくてと言う、あの母の叫び声が今にも聞こえてきそうで、ずっと心に残っています。

日本からよその国に行き、その国の一般人を虫けらのように殺し、挙げ句の果てに斬首した頭を日本刀で串刺しした写真まで載せた新聞記事があったという事実、これは忘れてはならないと思います。

僕は思う、昭和の近代史において日本がしてきた多くの間違いをきちっと反省し、どんなに認めたくなくてもそれが事実である以上、その事を次世代にも教えて行かなくてはいけないのではないかと。

ありとあらゆる構造物が大きく、古きものも、新しきものも、全てのスケールが大きく、高速道路の植樹帯のほんのわずかの隙間から見えた、どこまでも広がる田園風景はこのぐらいの構造物を立てないことにはこの風景に飲まれてしまうからだ、と思いを新たにしました。

紙と火薬を発明したのも中国人であるという、それほど文明を発達させ、技術的にも秀でたものを中国の人たちは持っていた事も忘れてはいけないと思う。

今回のこの旅を機に、歴史の小さな一コマに惑わされることなく、隣の国「中国」ともっと交流を楽しみたいものです。

(横山 隆文)


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私のこだわり旅行、アジア平和の旅 蘇州 南京 上海へ

私の平和の旅は、ベトナム3回、タイ、カンボジア、台湾、韓国、そして中国3回です。中国への2回は、日中友好協会県南支部の呼びかけで参加しました。

今度の見学先は、特に南京大虐殺記念館に注目しました。それは、日本では「南京大虐殺はなかった。中国のでっちあげだ。日本軍はアジア解放のために重要な役割を果たした」と、一部の人たちが宣伝をしている。その間違いを確かめるためでもありました。はたしてどんな旅になるか。

5月8日一行19人は午前10時55分、成田から中国南方航空で飛び立った。日本との時差は3時間。初日は上海空港から専用車で蘇州へ。9日、蘇州運河めぐりと世界遺産留園(りゅうえん)観光、南京料理

を堪能した。10日、南京市内観光のあと、緊張しつつ南京大虐殺記念館へ向かった。

そこは新しく発見された遺骨も含めて、大規模追悼施設でもある。中国での正式名称は「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館」。1937年8月9日〜1938年1月約半年間、殺害された人々は15万〜19万人に達したといわれている。

日本海軍航空隊は1937年8月、長崎から出動し、直接東シナ海を渡り、南京に対して最初空爆を行った。

万人抗遺蹟は1万人をこえる、頭蓋骨墓地、その頭蓋骨にはクギを打ち込まれた。館内は行けども行けども

人骨の山が続く。ここに旧日本軍人の日記、生存者の証言、写真など、けしてつくりものでない歴史の事実が展示されている。会館の出口の手前で、私は日本政府にかわって心からお詫びをし、手を合わせた。

今、秘密保護法、安保関連法(戦争法)が施行され、憲法改正、とくに憲法九条をとりはずそうと改憲勢力は躍起となっている。歴史の事実を決してわすれてはならない。歴史をあともどりさせてはならない。

 (福田 勝夫



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選挙とマスコミの役割

今回の選挙で感じたことは、マスコミ本来の役割である、「権力を監視する」及び「民主主義の発展に寄与する」が退化していることである。具体的には、今回の選挙の争点である、「国の基本である立憲主義」、「戦争法」、「三分の二改憲」を、重大な争点である、と指摘する報道が少なかったことである。

とくに、NHKは顕著であった。NHKには、党首討論会などの論争を期待していた。ところが、ニュース特集で、各党党首の街頭演説を流しただけである。各党、言いたい放題である。これでは争点か浮き彫りにならない。結果、政権党の狡猾な戦略に乗ってしまった。つまり、政権党は、冒頭に述べた三つの争点が浮き彫りにならないような戦術をとったからである。戦争法のときは、そうそうたる論客の討論があり、争点が明確になった。実に面白かった。今回はそれがなかった。

NHKは、選挙中、毎週、世論調査の結果を繰り返し報道した。現政権の支持率が高い、との報道は、投票しても世の中は変わらないという効果(弊害)を生む。また、社会保障や景気に対して、憲法問題に対する関心が低いことを、比率で表して報道した。これは、争点を散漫にさせる効果(弊害)がある。両者を望む場合、前者が70%、後者が10%などと表現しない。なぜなら、平和があってこその社会保障であり景気である。もし、景気浮揚策に、「戦争特需(武器輸出や武器共同開発による経済振興)」の危険が潜んでいること、また、社会保障は、戦争の犠牲になることが浮き彫りになったら、なおさらである。マスコミは、このような問題点を深く、かつ鋭く指摘するのが役割であり、責任である。

最後に、これらの背景には、報道機関に対して、政権党から異常な恫喝があることを指摘しなければならない。

(高久 清)


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改悪阻止の本番は衆議院総選挙だ

昨年11月10日、東京九段の日本武道館で「今こそ憲法改正を! 武道館1万人大会」が開催された。安倍首相もビデオメッセージを寄せた極右イデオロギー集団・日本会議の精鋭1万人の大会である。「美しい日本の憲法をつくる国民の会」共同代表の櫻井よしこは3分弱の開会の辞のなかで「大規模な自然災害に対しても、緊急事態条項さえない現行憲法では、命は守り通せません。家庭のあり方も含めて問題点があることは強調しなければなりません」と述べた。同じ日の午前、安倍首相は衆議院予算委員会で「緊急事態条項」を改憲の具体的項目として挙げた。

参院選直後の7月11日午前、大手紙の元論説委員が電話をかけてきた。「改憲勢力が3分の2になったけど、9条に手を付けられるだろうか」。私は答えた。「公明党は、安保法制については集団的自衛権に《限定的》という形容詞をつけて党員・支持者を誤魔化せたが、9条改正は誤魔化しようがない。世論も大反対だ。安倍さんは安保法で9条を実質改憲したと思っている。彼の狙いは緊急事態条項だ。これなら《大災害》云々で公明党支持者を丸め込めると考えているのではないか」。

安倍首相は「任期中に改憲」が公約だ。日本会議も改憲できるのは安倍首相だけだと思っている。残る日数は2年。草の根の運動は日本会議が引き受け、慎重にそして強引に野党分断を策してくるだろう。だけど国民投票の壁は厚い。原発が争点となった鹿児島県知事選は脱原発派が勝利した。二の舞をしないために衆議院を解散し国民投票と同日選挙を考えているようだ。日本会議の動きも要警戒だ。

九条の会の役目は格段に大きくなった。ご奮闘を心から期待しています。

(二見 伸明)


 




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2013年11月10日

日本版NSC審議入り「戦争司令部をつくる準備本格的に」

あなたの携帯電話がすべて盗聴されていたら。日本には、個人情報保護法があるから大丈夫なんてのんきにかまえていたらとんでもありません。
ドイツのメルケル首相がオバマ米大統領に厳重抗議。アメリカの情報機関から個人の携帯電話を盗聴されていた可能性が高いとして、説明を求めた。「事実であれば、重大な審議違反だ」と厳しい口調で詰め寄りました。
フランスの7千万超の市民の通話記録を不正に入手、オランド大統領が抗議。
さらに欧州、中南米、ブラジル、メキシコでも首脳へのスパイ行為が行われていた。また各国大使館や国連本部も監視下におくなど、アメリカは何かと言うと「テロとのたたかい」を名目に、世界中でやりたい放題の無法国。その情報機関を統括するのがNSC。
ところが、これを手本に国家安全保障会議(日本版NSC)をつくる法案の審議が10月25日から国会で始まりました。秘密保護法と一体で強引に通そうとねらっています。安倍政権は、国民の知る権利を奪いながら、権力による監視を一層つよめようとしています。
国家安全保障会議(日本版NSC)は世界各地の紛争に軍事介入を繰り返してきたアメリカ、イギリスにならい内閣総理大臣が、国家にあらゆる情報を集約・統制して外交、軍事政策をトップダウンで強力におし進める現代版の「大本営、戦争司令部」をつくろうとするものです。もともと国家安全保障会議(日本版NSC)をつくれと迫ったのはアメリカ国防省です。
平気で他国や個人の権利を侵害するアメリカと手を結んで、世界中で戦争するアメリカに自衛隊を参加させてはなりません。
憲法を権力者の都合のよいように解釈改憲していつか来た道に戻ろうと着々と準備をしていますが、世論調査は健全です。秘密保護法反対50%超、「慎重審議求める」82%(共同通信10/28)。
国家安全保障会議(日本版NSC)・秘密保護法案の二つの悪法を世論を盛り上げて一気につぶしましょう。(会代表 福田 勝夫) 

kenpo9 at 12:51|PermalinkComments(0)TrackBack(0)九条・発言 

2013年02月03日

憲法九条土浦の会うたごえ広場のご案内

2013年 今年もうたごえから
こころひとつに歌と交流のひと時を楽しみましょう

とき 2月16日(土)午後1時半〜3時半
ところ ワークヒル土浦 音楽室

ギター:橋本 実さん
ピアノ:嵯峨井 美千代さん

参加費:500円(ドリンク付き)

連絡先:福田029−831−6288 古沢029−824−6449

kenpo9 at 16:18|PermalinkComments(0)TrackBack(0)平和のうたごえ 

2012年07月23日

小笠原徹さんを偲ぶ会

小笠原徹さんを偲ぶ会は5月27日(日)土浦四川飯店・アルファで和やかに開かれました。小笠原さんは市民運動の草分けとして、平和運動、文化運動、住民運動に大きな役割を果たしてきました。憲法9条土浦の会の代表もその一つでした。小笠原さんは偉大な足跡を残しながら、飾らない姿で誰にも気さくに接し、小笠原さんの魅力にいつもひきつけれ、あこがれの的でした。

娘さんの岡本英子さんは父親の活動をあまり知らないので皆さんからお話を聞きたいと挨拶していました。自分の生き方を子どもに話さない父親の姿はなかなか格好良いものであると想像しながら聴いていました。最後にご子息の小笠原滋さんは親父の知らなかった生き方を皆さんから教えて頂き感謝しますと締めくくり、会は終了しました。

偲ぶ会は途中に思い出の歌を皆で歌うなど心に残る会となりました。

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2012年04月19日

小笠原徹さんの志をうけついで

筑波山と霞ヶ浦をこよなく愛し、戦前、戦後をはしりつづけてきた小笠原徹さんが86歳で永眠されました。謹んでお悔やみ申し上げます。

戦後まもなく家業の歯科医院を継ぎ、あうんの呼吸の奥様の多満子さんと二人三脚で、土浦で戦後はじめて誕生した平和運動、文化運動に奔走され、住民運動でもまとめ役として大きな役割を担ってきました。

県内ではじめての日中友好協会の設立、原水爆禁止世界大会への代表派遣、市議会議員1期、また県政を県民のために取り戻さなければと県議選に2度挑戦しました。「院長、よく身体が持ちましたね」とたずねると「市民の痛いところはすぐとりのぞかないとね」と笑顔でこたえました。住井すゑさんを師と仰ぎ、平和運動、女性運動にもエールをおくりました。

憲法9条にこだわり、8年前に発足した憲法九条土浦の会では、「この会は希望の持てる運動にしなければと、議論だけではなく、足を踏み出して行動しましょう」と、駅前での訴えはいつも心にしみる胸に落ちる話をされました。(福田 勝夫)



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2011年12月03日

報告 8・15終戦記念日を考える市民のつどい

戦後66周年をむかえる8月14日、土浦市民会館小ホールで毎年恒例の8.15終戦記念日を考える市民のつどいがひらかれました。

今年は東北三県・茨城、震災復興支援チャリテー上映会とし、ドキュメンタリー映画「無言館」を上映しました。この映画は戦没画学生鎮魂美術館が出来るまでの、様々な出来事を映画にしたものです。お盆にもかかわらずたくさんの方々においで頂きました。

この上映会を成功させようと、14団体、個人で実行委員会をつくり、ポスター、チケットの普及へ、市内の県立および私立高、全校へ訪問、懇談しました。土浦市、教育委員会、文化協会の後援依頼もはじめてでした。

歴史の教訓を、映像で次の世代に伝えるのは大変ですが、親子で初めて参加した方は「全体がとても良かったです。一度、無言館をたずねてみたいです。」と語っていました。また「このような映画はじめてみました。お盆の帰省でとてもいい思い出ができました。来年も続けてください。」と激励されました。上映前に詩の朗読とギター、ハーモニカ演奏は感動をよびました。

救援募金もたくさん寄せられました。早速、福島県飯舘村、あしなが育英会の現地へ夫々3万円を送りました。九条の会「会報つなぐ」の紙面をお借りして、お礼と報告をさせていただきます。(福田勝夫)
 




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2011年12月02日

平泉と鳴子温泉郷を訪ねた秋の旅

憲法九条土浦の会は2,3年前から東北旅行を計画してきました。この度やっと機が熟し、「世界遺産の平泉と鳴子温泉郷を訪ねる秋の旅」を実現することが出来ました。以下にその感想と簡単な報告を記します。

10月27日(木)早朝、土浦を総勢20人で出発しました。秋晴れの東北道をバスは世界遺産の平泉へひた走り、途中の車窓からは安達太良山、その先の蔵王連峰が目を楽しませてくれました。しかし、わが故郷(栗原市)の栗駒山はその雄姿を見せてはくれませんでした(残念)。その後まもなく平泉に到着。
 
平泉は今から900年前、奥州藤原氏3代が100年に亘り浄土思想(争いのない清らかな国土をめざす思想)を国づくりに反映させ、戦いの無い世の中をめざし、平和を願って作られた国です。その中心が中尊寺と毛越寺ということになります。
  
この浄土思想は憲法九条の平和主義に通じる思想と考えられます。その意味でこの度の平泉の旅は私たちの会にふさわしい旅になったと思っています。ちなみに、毛越寺のガイドさんは九条の会の会員と言っておられました。 

宿泊は古来名湯と謳われた鳴子温泉です。元禄年間、芭蕉と曽良も泊った鳴子温泉で旅の疲れを取り翌日に備えました。

10月28日(金)は紅葉に映える鳴子峡を散策した後、帰路に着きました。帰路の途中、宮城県の海     岸線を走ることにしました。海岸に近付くにつれ、津波で泥に埋まった車や窓枠の無くなった二階造りの家が散見され、胸が痛みました。
  
旅行を振り返ると、この度の旅行はもう一方で平和の願いと鎮魂の祈りの旅だったように思います。最後に、参加いただいた皆様、ご協力いただいた皆様に感謝申し上げます。(真山策功)



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2011年12月01日

JCO臨界事故を忘れない。原子力事故をくりかえさせない。2011・9・30茨城集会に参加して

集会場である東海村にむかう車中で12年前テレビに映し出された臨界事故の青白い閃光をおもいだしました。土浦の病院でも事故時、東海村付近を通過した人が来院したら最優先で検査するよう指示があったのを覚えています。

集会場は「あの日を忘れない」そして東電福島第一原発事故に対する怒りでいっぱいでした。かすみがうら市長の挨拶のあと、伊東達也氏の「福島からの報告」がありました。 原発震災で福島がうけた被害の深刻さ、広がりは計り知れない、ふるさとを逃げ出さざるを得なかった10万人以上の人々は当分戻れない。除染をしなければ20年以上も帰れない所もあり、原発震災は人災で史上最悪の公害だと語った。

私が驚愕したのは安全神話を浸透させる子ども達への‘安全教育’でした。2004年福島の「原子力を考える日」のイベントで中学生が発表したのは「学校安全教室で学び、原子力は危険と思っていたが誤解だった。その固定観念を捨てることが大切。」「原発は100年使えるクリーンで最も安いエネルギー」、「原子力は富岡町の誇りです」など。彼らは真にそう確信したのでしょう。

そして飯舘村の女子高生が東電に「結婚した時、子どもが産めなかったら補償してくれますか」と涙しながら訴えたという話に怒りがフツフツしてきました。この集会の9項目アピールを皆と力をひとつにして国、東電に求めていかねばと強くおもいました。


 原発ノーこうべを上げて彼岸花
 隊列をくむかの如く彼岸花
(福田洋子)
      



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2011年11月29日

9・19さよなら原発集会に参加して

被爆国として苦しんできた日本が,原発によりこんなに苦しむ国になるなんて,多くの人が想像してはいなかったでしょう。 東日本大震災から半年を経た9月19日に,明治公園にて「9.19さよなら原発1000万人アクション」が行われました。私もいたたまれぬ思いで9条の会,年金者組合,新婦人の会の人達と総勢12名で土浦から参加しました。

比較的早い到着で会場の中央付近まで行くことが出来ました。日本全国から集まった労働者,民主団体,子供連れの家族など「怒」と書かれた旗や「脱原発」と書かれた思い思いのプラカードを持ち参加していました。福島からはバス4台で駆けつけた黄色のTシャツの人々が前のほうに座っています。

1時からオープニングコンサート,1時半から呼びかけ人等8人のアピールがありました。ルポライターの鎌田慧さんは「核と人類は共存できない。」来年3月24日の署名集約集会には,日比谷の野外公会堂に1000万人の署名を持ち寄ろうと呼びかけました。

続いて大江健三郎さんは,「原子力のエネルギーは荒廃と犠牲を伴います。我々が原発を推進する勢力に抵抗するには,民主主義の集会とデモしかない。頑張りましょう。」と挨拶しました。

次に内藤克人さん。「日本中から,世界の各国から集まって下さり有難うございます。」これは,今後の子孫の感謝の言葉であろうと思う。核武装するのではなく命のエネルギーが輝く国にしようではないですか。「さよなら原発,こんにちは命輝く国」その一歩を皆さんとともに歩み続けたい。と発言しました。
  
作家の落合恵子さんは,「あなたに会えて良かった。きっかけを考えると腹立たしい。しかしこの力を明日の力に変えたい。」ビートルズのイマジンと同じように想像して下さい。福島の子供たちの今を。スリーマイル島,チェルノブイリ,次は誰が犠牲になるのかを考えて生きていくのはいやだ。原発は命への,生きていく人に対する国家の犯罪です。憲法を持つ国の我々は決して許してはいけない。この犯罪に加担しないと約束しましょう。と呼びかけました。

膝の骨折と手術で50日の入院をしたという澤地久恵さんは,今日は立って参加したいと洋服姿でお見えでした。人類は日本と言う実験場で原発を始めた。54基もの原発。この国は原発など持ってはいけない国なのです。危険なものは世界には必要ありません。暴走する核に対して,「にんげんのとりで」を築いて行きましょうと話されました。

ドイツ人のフーベルト・ヴァイガーさんは,フクシマの原発事故は世界を変えた。原発が計り知れない影響を与えることを明らかにした。政府も企業もなすべきことがないことを明らかにした。ドイツは,8基を廃止し,2022年までに原発を廃止することになった。「脱原発は政治的にやるかやらないかの問題」。民主主義のもとで反原発を訴えるとき,「半年前に起こったことは,二度と起こしてはいけない。」原子力のない世を実現するまで一緒に闘っていきましょうと述べられました。

道路渋滞でやっと駆けつけた山本太郎さん。今を生き続けるために原発を止めること。今出来る事,デモ,署名,何でも人々の力を出し合いやっていきましょうと言いながら,壇上から皆の写真を撮っていました。

福島から来たハイロアクションの武藤類子さんの静かな語りは心に残りました。「山は青く,水は清らかな福島。私たちは被曝者になりました。人と人の繋がりは引き裂かれていっている。事実は隠されている。国は子供を守らない。放射能のゴミは残るのだ。原発推進するグループがあり,私たちは捨てられたのだ。私たちを馬鹿にするな!命を奪うな!福島の子供を放射能から守ろう。私たちは静かに命を燃やす東北の鬼です。どうか福島を忘れないで下さい。」と。

集会の途中で,この集会には6万人が集まっていて千駄ヶ谷の駅まで道路は人でいっぱいですと言う報告があり,皆拍手喝采でした。デモ行進するのに公園出口まで行くのに1〜1.5時間かかる状況です。こんなに多数集まって「さよなら原発 命が大事」・「原発、再稼動させるな!」などとシュプレヒコールしながら歩いたのは何と40数年前のべ平連のデモ以来です。3つのコースのうち,私たちは新宿コースを歩きました。
  
上空を3機ものヘリコプターが飛び交った集会の様子は,帰宅後のNHKニュースでたったの30秒。翌日の朝日新聞は一面に10平方cm位の所に写真とちょっとした記事が載っただけ。他の新聞はもう少し大きく取り上げたということですが,非常に驚きました。今後どれほどの行動をすれば,NHKはとりあげるのだろうか?来年の3月24日には1000万人の署名と10万人以上のデモ行進をする必要があると思いました。一日も早いフクシマの,東北の復興を願うと同時に一刻も早い原発の廃止に出来る事をしていきましょう。(森泉弘子)


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2011年11月13日

憲法25条 私たちは願いは「安全・安心」

いま私たちのくらしが不安にさらされています。3月11日に突然襲いかかってきた巨大地震と予想もしなかった大津波による被害、それよりもさらに大きな不安は、いつ収束するのかわからない原発の被害、どこまで広がるのか判らない放射能被害です。

いま政府や電力会社の発表は信用されていません。九州電力玄海原発の運転再開をめぐる「やらせメール」問題に端を発して、電力各社の世論操作が明るみに出てしまいました。政府と電力会社が「安全神話」の宣伝のために膨大な資金を投入している事実も知れ渡ってしまいました。いまや「安全神話」を信じる国民はいませんが、すでに放出されてしまった放射能が何マイクロシーベルトなら健康上安全なのかについても、政府の発表や「原子力村」からの報告が信用されていないのです。このような不信感を生み出した責任はどこにあるのでしょうか。

憲法25条には「すべて国民は健康で文化的な生活を営む権利を有する」と書かれています。

これは太平洋戦争の悲劇の上に、政府に対して課せられた義務です。為政者の恣意的な判断によって、国民の健康やくらしの安全を奪ってはならないという義務を課したわけです。憲法九条の意味も、同じく戦争によって国民の安全と幸福を奪ってはならないという義務を背負ったわけです。

最近公開されたアメリカの秘密文書によると、原発について時の大統領アイゼンハワーに対して「日本人の中には原子力について間違った拒否反応がある。これを払拭するために原子力平和利用を広める必要がある」という提言がなされ、その後のアメリカの対日原子力戦略はそれを受け継いできました。アメリカの原子炉、核燃料の提供を受ける裏では核持ち込みが黙認され、非核3原則が破られてきたわけです。

日本政府はアメリカの政策を受け入れて、安全に目をつぶって利益を受けてきました。「原発は安上がりだ」という言い方、「原発がなければ産業が成り立たない」という言い分は、福島原発の事故によってもう破たんしてしまいました。核廃棄物処理の見通しさえも不透明な、未熟な技術が火山列島の活断層の近くにある現実は、国民の安全安心を守る責任をないがしろにしているというほかはありません。国民多数の要求は「生命の安全」であり、将来にわたる「安心」なのです。政府は国の責任で福島の除染をすると言いますが、あの広大な汚染地域をどうやって除染するつもりでしょうか。福島の人たちは疑念を持ちながらも故郷に帰りたいという気持ちを棄てることはないと思います。私たちはともかく東海第2原発の再稼動を止めるためにかんばるろうではありませんか。(井上仁志)

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2011年11月11日

映画「無言館」鑑賞 雑感

8月14日、土浦市民会館ホールにおいて上映された。暑い盆休み中にかかわらず、関心が高く、満席に近く盛況であった。

生まれが上田という縁もあって、帰郷の折、館設立間もなくの頃と2回訪れた。その後、大分ご無沙汰となっている。近頃、地元の方が無言館の行う慰霊祭をはじめとする諸行事に参集参拝されるようになり、村の生活に溶け込んでおられると、館長さんのお話、ありがたいことです。

画学生の遺した絵を改めて解説を聞きながら目にすると私のような素人にも素晴らしく、深く強く胸を締め付けられる思いであった。学徒動員。赤紙招集令状が来る、軍靴高らかにジャリを打ち鳴らし、天皇陛下万歳を唱え、戦地に赴き戦場の露と消えゆく。アッと言う間もなく消えゆく命、それは明日かもしれないという状況下におかれた画学生が、このような絵を描き残している。

絵からは戦争のかけらさえ感じられない。描かれた絵は、両親、兄弟、友人、将来を誓い合った恋人、家の近くのふるさとの風景など、学生にとって身近に存在する大切な人であり自然である。万人に共通する画材といっても良いのではないだろううか。館主・窪島さんは、この仕事をはじめ今日まで、絵は無言であるが、何を語り伝えたかったのかいろいろ考えてきた。最近、「愛」であると思うようになった言われた。

描かれた絵の題材の共通性は生命(いのち)あるものである。戦争は命を否定することを考えれば、死を超えて描いたと言えるのではないか、とすれば、画学生が死を超えてわたくしたちに遺した絵は、生命の証(あかし)であり、それが「愛」なのであろう。ほかの表現を使えば生存権、人間愛、生命に対する畏敬の念等々、人によってとらえ方はいろいろあってよいと思う。

西の京にある国際平和ミュージアム名誉館長・安斎さんは、この映画のなかで当平和ミュージアムの戦争や原爆など展示を見学された方が、無言館の絵の一部が置かれている最後の展示室を訪れ、みなさんが一様にホッとする、安らぐ、と言われた。これは画学生の絵が、館主・窪島さん云う「愛」やさしく包んでくれるからでしょうか。


戦争終結と云う時、広島、長崎に核爆弾が投下された。放射線は無差別に人命を殺傷した。このような行為は、許されざる犯罪行為である。いまだに放射線の後遺症に悩む人が後を絶たない。このような大きな戦争の惨禍を残しながら、戦後日本国憲法は、第9条において、再び戦争を起こさないため「平和のため国際紛争の解決手段として戦争を放棄し、戦力の保持、交戦権は認めない。」とする平和憲法を制定した。憲法制定60有余年の今日まで、銃口を向けることもなく、向けられることもなく、一人の犠牲者もない。

画学生が描き潰した絵は、生命の証である愛は、平和であって初めて育むことができることを思えば、適当な表現が見当たらないが、強烈に「戦争はしないでください。平和を望みます。」と叫んでいるように思えてしかたながない。戦没画学生も9条を心待ちしていたのではないか。戦没画学生の遺志でもあると思い9条を守り平和を発展させたい。9条の会はじめ、核兵器禁止と平和を目指す運動などに多くの国民とともに平和に発信していきましょう。

不戦の誓いを新たに、戦没画学生のご冥福をお祈りします。合掌。(土屋 順一)



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2011年08月07日

6月3日 東京・下まちめぐりの旅

何十年かぶりで、谷中銀座を日暮里側から眺めて、昔とちっとも変っていないのでびっくりしました。下まち情緒あふれて子どものころにタイムスリップしたみたいでした。わたしもいろいろ戦跡めぐりをしていますが、どんなことがあっても戦争はさせてはいけないと、こころから思いました。

ぶらり旅には、11人が参加しました。日暮里駅を降りて、谷中の台地を通り、上野駅まで歩きました。緑がいっぱいで、これが東京かと思うほど落ち着いた街並みでした。幕末の上野の戦争で彰義隊の結集した寛永寺、加波山事件(1884年)関係者の墓、東京大空襲で焼け残ったスダジイなどがあり、歴史が重なる街でもありました。

東京大空襲で被災した沢山の人々が、上野の森や谷中の台地に避難してきました。上の写真の谷中名水の井戸水が、荒川区側から飛んでくる火の玉によりあちこちで起きた火災から、谷中の街を守ったそうです。戦火の犠牲者を供養するお地蔵様が各所に祭られ、戦火の跡なども大切に保存された街でした。

上野で昼食を兼ねて、根津・千駄木9条の会、谷中9条の会のみなさんと交流会を開きました。ぶらり旅の案内と説明など大変お世話になりました。再会を約束してお別れしました。(近藤 忍)



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2011年08月06日

龍ヶ崎9条の会・小森陽一先生の講演を聴いて

7月3日(日)、小森陽一先生の講演を龍ヶ崎に聞きに行きました。タイトルは「大震災・原発被曝そして平和憲法」でした。

私は講演を聞くまで、なぜアメリカが日本に原発を建設することを許したのか、その理由がわかりませんでした。1949年にソ連が核開発能力を獲得し、米ソの核開発競争が進む中、アメリカは核保有の優位性を保つため、原爆の原料となるウラン235を手に入れるために、日本にも原発を推進したそうです。

第五福竜丸の被曝が1954年3月1日。まだ誰もそれを知らない内に、中曽根康弘は1954年3月3日、突如「原子炉築造予算2億3500万円」を国会に提出し、可決されました。第五福竜丸が日本に帰港した後だったら可決されなかったでしょう。この予算額の2億3500万円というのも、ウラン235をもじったものらしいです。その予算でアメリカのGEに原発を発注しています。

もう1つ興味深かったのは「トモダチ作戦」について。生存への壁が72時間と言われながら、アメリカは「トモダチ作戦」のために、横須賀港に配置している原子力空母ジョージワシントンを出さず、韓国と軍事演習中だったカリフォルニア州サンディエゴ第7艦隊のドナルドレーガンを出したそうです。それは、自国の原発テロ対策の予行演習を行うためだったそうです。アメリカは原発から80kmを避難区域としていたため、米軍をその範囲に入れることはなく、また仙台空港の瓦礫を撤去することにより、民間空港でありながら、仙台空港を自由に使える状態にしたそうです。

「トモダチ作戦」に使ったお金は64億円。もし米軍が本当に日本のことを思っているなら、「思いやり予算」の1881億円x5年間を返還するのが本当ではないか、とおっしゃっていました。

「護憲派ですか改憲派ですか?」との問いに、先生は「活憲派です。」とおっしゃっていました。25条の生存権について、震災後よく耳にするようになりましたが、憲法を活かすことが大切だと思いました。ある質問に答えて、「国の命令で戦争に行かなくてはならないなら、それは主権在民ではない。『主権在民』と『平和的生存権』がない国の憲法には矛盾がある。」とおっしゃった言葉も心に残りました。

インターネットの普及などにより、草の根運動が広がりやすい環境ができたように感じます。9条の会は2004年にできたそうですが、先生の明るいキャラが示すように、この運動の先に明るい光が見えている気がしました。(中谷友美)



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2011年08月05日

8月の日々、神話を越えて

長論「橋のない川」の作者、住井すゑが日頃力説していた「平等は平和の原則。差別は戦争の原点」という至言は、正しく人間の歴史の流れを見通している。

1945年8月15日は、8月6日、8月9日とともに忘れてはならない8月の中の日々である。今まで生きてこられた私たちは、人の命の尊さを子孫に語りつづける使命を持っている事を心に刻みつけている。

人生80年といわれる今を支えているのは戦争が起こらないこと、食生活の安全、医療の向上がこれからも続くことであろう。

私が86歳を越えることができたのも憲法九条のお蔭であろう。九条は長寿を保証する要(かなめ)であり、九条こそ生命を守る文化である。

「九条は文化である」と語る住井すゑは「戦争は人間が起こすものであるから、止めさせることができる。しかし地震、風雨は自然現象であるから、人間の力では止められない」と説く。

さて、画家岡本太郎が原爆の炸裂する瞬間を描いた巨大壁画「明日の神話」(渋谷駅構内)は1954年第5福竜丸のビキニでの水爆実験による残忍な犠牲の後も度重なる核兵器実験に対し「怒りと警告」を発した歴史的作品である。

所詮「神話」は造り物、現代では「神話」を超えての人間の英知に頼ることこそ幸せと安全が保証される。「神話」につながるものは数多くの“虚構”に満ちている。「神話」や「寓話」は悪用されてはならない。

日本の政情先が見えずという報道が溢れているが、それよりも現代は人類の存続すら岐路にある。8月15日以来今日まで、民意どこ吹く風で軍事面を聖域としてきた政治家集団のもたらした結果である。このドサクサに乗じて大連立構想、憲法改悪、翼賛政治、更に天皇元首再現は九条抹消の鬼門となる。

九条は「日本の神話」を越えることができる。(小笠原 徹)



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2011年08月04日

3.11東日本大震災 その時・その後

3月11日、私は隣の高村家、ある会の資料作りをしていました。ゴォーという音と今まで経験したことのない揺れに二人は手を取り合っていました。

書庫の本や食器は落ち、大きな額が傾きながら落ちてきました。少し揺れが治まったので我が家に帰って見ると、食器や本が散乱し、リビングボードのコーヒー焼酎の瓶が落ちて割れ、茶色い液体が絨毯を汚していました。どこから手を付けて良いのか迷いながらも簡単に雑巾で焼酎を拭き取っていると、またすごい揺れが来て外に飛び出しました。庭には瓦の破片がいっぱいでした。

隣の公園の所から、我が家の2 階が大きく揺れ、瓦が崩れ落ちるのを近所の人々と見続けました。30代後半の奥様も私にしがみ付いて、怖くて家に入れないと震えていました。その夜は、石油ストーブと鍋に入れたあったおでんなどあるものを持ち寄って、南川さんも含め4人で高村家で過ごし大変心強かったです。

翌日の12日に、佐久にいる主人が帰ってきて、13 日には宇都宮から駆けつけた息子と、屋根にブルーシートを掛け、一時しのぎが出来るようになりました。2人のおかげで瓦も集積所に運び込むことが出来ましたが、一人ではどうしようもなかったでしょう。

少しだけほっとした15日に、ひたちなか市に住む娘一家が、放射能を避けるため避難してきました。3歳、5歳の男の子を外に出さず家の中で世話をするのは大変です。おやつには昆布などを食べさせ、甲状腺がんの予防にも心がけました。東北から避難している人々のお世話は出来ませんでしたが、3度の食事の世話で2週間はあっという間に過ぎました。

今回の地震・津波・原発事故は、第二次世界大戦と同じ規模の重大な出来事と言えるでしょう。福島、宮城、岩手の人たちの惨状を見ると、私たちの経験などたいしたことではなかったけれど、それでもやはり凄かったですね。丸2日間電気が通じず、3日後の夕方水道が使えるようになり、やっと正常な生活が戻って来ました。水な
し、電気なしの生活でしたが、こういう日のために購入しておいた、5年間の長期保存水、簡易トイレ(30回分)、満杯の冷蔵庫の食品、昔ながらの石油ストーブ、偶然にも震災直前に入れたガソリンなどが役に立ち、外出せずにすみました。私は、中1のとき伊勢湾台風による被害を受け、災害には敏感になっています。風呂の残り湯を取って置く習慣がありますが、これがトイレを流すのに役たちました。トイレにビニールの袋を掛け、固める粉(1リットル分処理できる)を振り掛けますが、これがないときは、紙オムツを小さく切って使用しても良いようです。

アトピーの孫たちに食べさせる無農薬の畑の作物(ホーレン草、小松菜、ブロッコリー、春菊など)は、放射能の雨が降る前にすべて収穫し、新聞紙にくるんで冷蔵庫に保存して長期に亘り食べました。その後の土壌を心配していた時、作物や雑草に放射能を吸収させそれらを畑の隅に置き、畑に埋め込まないようにとの情報を得て実行しました。また、私はEM農法をかなり以前よりやっていて、これが放射能除去に大変効果があり、チェノブイリの近くの実験場で成果が出ているということなので、益々力を入れて取り組んでいる次第です。

あの時、私に出来ることはこの位でしたが、福島第一原発事故から70 日過ぎた今でも、修復に向かうどころか日毎に悪い情報が入ってきています。

食物による体内被曝量も、ホーレン草100gを一年間食べても大丈夫というようなデータでは落ち着いては居られません。多種多様な食品を、子供、大人が食べた時、蓄積された放射線量がどの位になるか、分析化学者だけでなく栄養学者、農学者なども含めた総合的な分析によるデータがほしいものです。

膨大な金をかけて作った原発が、一旦異常を起こすと莫大な費用がかかり、多くの生命に影響を与えます。反原発に向かって今からでも遅くはないので行動して行きたいと思います。(森泉弘子)

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2011年08月03日

大震災 14:46 そのとき

14 時46 分。隣人のM さんと我が家の炬燵で山の会の相談をしていました。「あ!地震よ!長い!おっきい!これは大地震だよ!」こもごも発する二人の声は、だんだん落ち着きの無い上ずった声になっていきました。

台所からガラガラガシャーンという、食器類が落ちて壊れる音が大きくなってき、座っている背後でテレビがグラングラン大揺れし出し、壁の40 号の大きな絵のワイヤーがはずれてぶらんと垂れ下がり、あちこちの絵や写真が落ちて壊れる音がして・・・恐怖でした。しかし、その後の福島原発のメルトダウンのニュースは更なる恐怖で、今も続いています。(高村登美子)

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