2005年09月

2005年09月29日

関東軍731部隊の真実と日本の戦争責任を考える講演会

医療団体連絡会議主催で、10月12日に「関東軍731舞台の真実と日本の戦争責任を考える」と題した講演会が開催されます。

「関東軍731部隊の真実と日本の戦争責任を考える」
〜中国から歴史学者が来日〜

歩 兵氏 中国社会科学院近代史研究所副所長
「旧日本軍による中国での化学兵器使用と今日の問題〜日中間の歴史認識にもふれて」

辛 培林氏 中国黒龍江省社会科学院歴史研究所研究員
「関東軍731部隊をめぐって〜中国における解明と課題」

高 暁嚥氏 中国黒龍江省社会科学院歴史研究所研究員
「中国における731部隊の遺棄毒ガス問題」

日時 10月12日(水)18:30〜
会場 平和と労働センター(全労連会館) 御茶の水駅下車
http://www5e.biglobe.ne.jp/~roudou/image/map_bw.jpg

参加費 500円

主催 医療団体連絡会議(日本生活協同組合連合会医療部会/日本患者同盟/全日本民主医療機関連合会/新日本医師協会/日本医療労働組合連合会/全国保険医団体連合会

連絡先 全国保険医団体連合会 TEL03-3375-5121



kenpo9 at 17:11|PermalinkComments(0)TrackBack(1)お知らせ 

2005年09月26日

「九条の会」有明講演会ビデオ上映会のお知らせ

九条の会有明講演会7月末に有明コロシアムでおこなわれた九条の会講演会のビデオ上映会を行います。個性ゆたかなお話と9500人の熱いおもいを共有し、つぎの行動の力にしていきます。

日 時  9月29日(木) 19時〜
会 場  土浦一中地区公民館視聴覚室
参加費  無料
連絡先  憲法九条土浦の会
小笠原徹  029−821−0176



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2005年09月24日

沖縄戦60年…証言

金城3沖縄戦60年・・・証言
6歳、地上戦の殺戮を見た

茨城沖縄県人会顧問  金城 圀弘






米兵に捕まる

1945年(昭和20年)6月13日8時ごろ島尻郡高嶺村(現・糸満市)簡易防空壕の目隠ししたトタン戸を米軍兵士が蹴り開けた。太陽の眩しい光が目に飛び込み恐怖に怯えた。壕から外に出るように手招きし銃口は我々に向けている。周囲を見渡すと火炎放射器が壕に向けて火を噴いていた。空爆で村の家屋は全焼、燃え残った木材とトタンで作った仮小屋にも火が放たれ見渡す限り煙と火炎が燃え上がっていた。
死人や負傷した日本兵、那覇、首里方面から逃れた人々が防空頭巾姿で死に絶えている。何百人という地獄絵が広がるところで、米軍兵士は一人だった。彼は腰の水筒を取り我々に水を飲むように勧めた。しかし、誰も手を出さないので、彼は自分が一口飲んで皆に勧めた。我先に水を飲んで後は大きな目で彼を見ているだけ、恐怖は消えない。艦砲射撃、爆弾の破片がビュンビュン飛び交う。彼は我々に水タンクの陰に避難するように誘導した。戦場でも捕虜の安全を確保する現実を実感した。銃を構えた彼に誘導されて50m程下の道路に出た。そこには50人前後の兵士が横になって休息していた。付近には弾薬が散乱し、パイン型手榴弾を見付けた親戚の7歳の男の子が安全ピンを抜き米軍めがけて投げようとした瞬間、私の兄が取り上げ崖下に投げ捨て大音響とともに爆発した。一瞬の出来事に休息していた米兵たちは銃口を我々に向けた。30m程の目の前では私たちの仮小屋が燃え盛っていた。祖母は兵士にそこへ行かせてと言い、兄と一緒に監視の兵士と見に行った。兄が注意をそらした瞬間、祖母は火中へ、兵士は火の中で飛び上がる祖母に銃弾を撃ち込んだ。捕虜となった我々は、警護されながら連行された。多くの死体を避けて歩いたが、その惨状は筆舌に尽くしがたい。『あの惨状は生涯、私の脳裏から消え去ることはない』。連行の途中、集落の随所で南部に向けた大砲射撃(米兵たちはランニング姿、チューインガムを噛みながら)を横目で見ながら30分程歩かされて着いた所には、何処そこから集められた捕虜住民が大勢いた。

捕虜収容所へ

近くの高台には米軍兵士らが休息しているのが見える。時たま砲弾が飛び交い、着弾の破片がくるかも知れない中を、東風平から西原方面に連れて行かされた場所は、畑の中に松杭に鉄条網で囲われた50崢の収容所であった。食事もいつ食べたか感じない精神状態で、大勢の捕虜が100人前後いた。栄養失調で目はギョロとして見るに忍びない姿は忘れない。
記憶にあるのは、何処から見つけたのか米軍の鉄兜に水と甘藷の茎が入ったのを食べたことが戦後初めての食事だった。捕虜になる前に直径5センチのイワシ缶詰を家族5人で食べただけだった。一晩その場で過ごし知念村の垣花に移送された。住宅は道路に面して雨戸は付いていないので、ジープが走り去ると砂塵が舞い上がり家に入る。夜になるとジープで乗り付けて女子を襲う場面があり、子供心には怖かった。若い女子は天井裏に上がって夜を過ごす戦後の状況だった。
そのうち食料の配給が貰えるようになり何カ月か人間らしい生活を送ったが、また移送が始まった。知念から上陸用舟艇(LST)で国頭あたりに到着した場所は山、海に面したカヨウという集落外れにテントが張られた収容所で、2〜300人が住んだ。砂浜で敷物はない。草を刈ってきて敷き詰めその上に牛馬の如く寝たが、2〜3日すると草が発酵してムンムンするので取り替えつつ生活した。

ねずみも喰う

とうとう食料の配給も少なく栄養失調とマラリア病で死人が毎日のように埋葬されていた。死人は血の気が引くと顔には真っ黒なシラミが出てくる。衛生面も非常に悪く明日の命さえ分からない極限状態が続いた。当時、小学校1年生で砂浜を手のひらで平らにして字を書く、その最初に教わったのがABCアルファベットだった。学校は小さく村民と避難民が2交代で教室を使用した。
家族がマラリアに感染し40度からの高熱にうなされフトンを何枚もかけ人が上に乗っても寒さでガタガタ震えていた。熱が下がると頭が割れるように痛み飯も苦く口に入れられない。栄養失調は日増しに酷くなり「ねずみ」や「かえる」も捕獲して食べていた。草も食べられる物は全部口に入れた。鉱物油(モービルオイルNo30-50)も食用として使用した。今思えば人間もマシーンとして生きてきたのだ。

やっと郷里へ

生き残った人だけが、郷里に近い糸満町に1971年(昭和46年)1月に帰った。糸満で海軍に従事していた父と再会し、家族6人一家のスタートだった。父もマラリアに感染していて一時生死をさまよっていたが、食料も得られるようになり、健康に向かって回復した。
与座の集落は弾薬が山積みになっていたため、村に入るのは出来なかった。そこで村民が米軍に弾薬の撤去作業を申し出て、住民一致協力して撤去した。4Tトラックに弾薬を積み込み湊川港からLSTで沖合10マイルの場所に投棄した。話によるとトラック千台を越えたという。1年間を要して完了したが、爆発などの事故もなく一人の怪我人もなかった。住民一致した作業は歴史に残る出来事である。
沖縄地上戦で沖縄14万人、県外7万人、米国1万5千人、他外国1万3千人の死者を「平和の礎」で追悼して世界に恒久平和を祈念している。合掌。
(「月刊おきなわの声」2005年7月1日に掲載、憲法九条土浦の会会報「つなぐ」第3号に転載)



kenpo9 at 13:56|PermalinkComments(1)TrackBack(0)九条・発言