生い立ち[編集]
宮城県仙台市生まれ。麹町小学校から麹町中学校へ進学。中学在学中、当時世間を席巻していた学園闘争の影響を受け、「麹町中全共闘」を校内に結成。機関紙「砦」の発行やビラ配り、大学生ML派による集会への参加等、積極的な運動を行っていた。そうした学生運動をしていた事実について中学校での内申書に書かれ、高校受験の面接では面接官からの質問が思想にまつわるものに集中。受験した全日制高校は全て不合格であったため、東京都立新宿高等学校定時制に進学した(のちに同校を中退)。
なお、自身が学生運動をしていた経歴が内申書に書かれたために全日制高校に入学できず、学習権が侵害されたとして千代田区と東京都を相手どり、国家賠償法に基づき、損害賠償請求訴訟を起こした。一審・東京地裁は慰謝料請求を認めたが、二審・東京高裁は内申書を執筆した教員の裁量を認め、保坂側が敗訴。最高裁判所に上告したが、最高裁は単に経歴を記載したにすぎず「思想、信条そのものを記載したものではないことは明らか」として上告を棄却した。なお、この判例は公務員試験や大学における憲法の講義で紹介されるケースが多い(麹町中学校内申書事件)。
教育ジャーナリスト[編集]
その後、教育ジャーナリストに転じ、管理教育の打破を主張。また、若者が自由に出入りできるフリースペース「青生舎」を1976年から1996年まで運営し、ミニコミ誌「学校解放新聞」を発刊。1980年代の反管理教育の潮流を作り、知名度を上げた。教育ジャーナリスト時代、飲酒により退学処分を受け、学校を提訴し係争中だった西原理恵子を取材している。西原とはその後、カット描きの仕事を紹介するなど交友が続いた。また、日本公文教育研究会が提唱する公文式にも否定的であり、公文式の手法を批判する本も執筆している。
衆議院議員[編集]
1996年、社会民主党党首の土井たか子に請われ、社民党公認で第41回衆議院議員総選挙に東京22区から出馬。新進党の伊藤達也や旧民主党の山花貞夫らに破れ東京22区では得票数5位で落選したが、重複立候補していた比例東京ブロックで復活し、初当選した。なお小選挙区での得票率はわずか5.89%であり、供託金は没収された。なおこの選挙をきっかけに、小選挙区での得票率が著しく低い候補者の比例復活の制限が主張されるようになり、公職選挙法改正により小選挙区での得票率が有効票数の1割を下回った場合は、比例での復活ができなくなった[1]。(つづく)
保坂展人
- 生年月日:1955年11月26日(60歳)
- 出身地:仙台市
保坂 展人は、日本の政治家、教育ジャーナリスト。東京都世田谷区長。 衆議院議員、社会民主党副幹事長、総務省顧問等を歴任。Wikipedia