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『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』ネタバレ長文感想&分析

『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』(以下『KUBO』)を見てきて、いろいろ考えたので書いておく。ネタバレは一切自重していないので、そこのところひとつよしなに。
公式サイト
物語の力に関しての物語であり、映画の力に関する映画だった。
映画の冒頭に語られる口上は、まさに主人公クボが物語を語るときに最初に語る口上だ。
そして、この映画自体とクボが語る英雄物語とほぼ一致している。
クボが語る物語。それはクボが母親から受け継いだ物語。それはクボの父親が、伝説の武具を手に入れ、義父である月の皇帝を倒す物語。
しかしその物語はいつも尻切れトンボで終わってしまう。なぜならクボはその物語の結末をしらない。それはクボの母親がその結末を語ることができないからだ。
そんなクボが祖父である月の皇帝に追われて、冒険の旅に出て伝説の武具を手に入れようとする。
この物語はクボが最後まで語れない物語の結末を手に入れるための物語でもある。
この入れ子構造によって、この映画はディレイニーが『アインシュタイン交点』で構築したものと同様の「メタ神話」としての構造を持つ。
「メタ神話」とは私の勝手な造語で、物語自体が神話的モチーフや神話的構造を持ちながら、同時に作中で「神話とは何だろうか。それは我々とどういう関係にあるのか。必要な物なのか。どう活かせばいいのか」等の問いが主要なテーマとして扱われる作品のことである。
最近だと、トム・ムーアの『ソング・オブ・ザ・シー』が同じような構造を持っていた。こちらの映画では、現代の主人公がハロウィーンの日に不思議な地下世界に迷い込み、冒険をする。そこで様々な神話を長い髪の毛として生やしている不思議な老人に出会うが、そこでこの映画自体が神話の一つであることが示唆される。
そして冒険から帰還したことにより、主人公は「愛する者との別れ。また、誰かを受け入れること」という、現世における切実な問題に、ある種の答えを手に入れる。それは万能な答えではないが、着実な一歩前進であるような答えを。
これは、神話における「冥界下り」のモチーフであり、一度異界に降りて冒険を終えた主人公が現世に帰ることによりヒーローとなる。ただ、この場合のヒーローとは、「妹の存在を受け入れることができる」というとても身近なものだが、しかし、これは神話の物語が現代にどんな意味を持てるかに真摯に向き合った結果である(同じような構造の物語として『オーバー・ザ・ガーデン・ウォール』がある。これについての分析はこちら)。
それに対して『KUBO』では、クボは一見もっと正統的な神話のヒーローとしての属性を付与されているようにも見える。
彼は片目である。もう片方の目は祖父である月の皇帝に取られてしまった。両目を取られると、彼は完全に人ではない「彼岸の存在」になってしまう。
これはクボが人と人ならざる者、此岸と彼岸の中間的存在であることを表しているし、片目であることにより、尋常ならざる魔力を得るというモチーフは北欧神話を始め、世界中にある。
そしてクボは三味線を弾き、物語を語る。それによって折り紙がヒーローや化け物の形に勝手に折られ、音楽と物語に合わせて、縦横無尽に駆け巡る(いつの時代か知らんが、紙のコストもそんなに低くないだろうに、と思ったが、魔法の力で再利用しているのであろう)。
これは、ギリシャ神話でやはり冥界下りするオルペウスを思い起こさせる。彼は音楽で神通力を発したと言われる。
その後の冒険でこの魔力は大いに活用されるが、それ以上にこの設定は、先述のメタ神話的構造をより本編に関わらせる。
神話や物語とは何かを問う物語で、武器になるのはまさに物語の力であり、映画の力なのだ。語りと音楽に合わせて、命の無いものが動き回り、人々を興奮させる様子は、まさにストップモーションアニメーションそのものである。つまりストップモーションアニメーション作品内で、ストップモーションアニメーションの隠喩が魔力として扱われているのである。
私はこういう作品が好きで、最近の良作だと『リトルウィッチアカデミア』においても、作中の魔術はアニメーションの技術自体の暗喩になっていた。また、トム・ムーアの別の作品、『ブレンダンとケルズの秘密』においては「絵を描く」ことに魅せられた主人公の「絵を見、そして絵を描く」という体験が魔術的アニメーションによって表現されていた。デフォルメされたアニメーションだからこそ発揮される魔術性は作中において「絵を描くことによる魔力」が本当に発動する場面で最高潮に達する。
メタ神話がみんなこういう構造を持つわけではない。先述した『アインシュタイン交点』では、「地下迷宮に潜むミノタウロス」などの神話的難関を主人公が突破していく神話的物語でありながら、神話とは何かを考えるたびでもあった。ただ、その問い方は主人公たちが直接的に「神話とは何か」という議論をし始めてしまうタイプのものであった。これを私は「明示的メタフィクション」と呼んでみようと思う。
『アインシュタイン交点』においては、この旅がさらに、「神話とは何か」と問いながら作品を構想する作者自身の旅とオーヴァーラップするところが文句なしに面白いのだが、実験的であり、エンターテインメントとしては夾雑物が多いことも否めないと思う。
同様の明示的メタフィクションによるメタ神話はゼラズニーの短編集『キャメロット最後の守護者』収録の「心はつめたい墓場」などにもみられる。私は彼らはミシェル・ビュトールらと並ぶ、『若き芸術家の肖像』や『ユリシーズ』を真摯に受け止めたジョイスの後継者だと思っている。
ジョイスやビュトールは現代に生きる個人の神話とは何かを模索したが、主人公達が比喩的ではなく本当に神話的冒険に旅立つわけではなく、メタ神話とは言えなかった。ディレイニーやゼラズニーは実際に神話の旅に旅立ちながら神話とは何かを問い始めた。しかしその問いは直接的であるように見えることもあった。
それに対して、上記の『ソング・オブ・ザ・シー』や『ブレンダンとケルズの秘密』や『リトルウィッチアカデミア』や『KUBO』では、メタフィクション的要素をうまくエンターテインメント要素の後ろに隠しながら、伏流水として物語に反映させている。私はこれを「暗示的メタフィクション」と呼ぼうと思う。そこにおいて共通に見られる手法が「描くという行為、語るという行為、奏でるという行為、作品を作る行為、の持つ力の隠喩として作中の魔力を描く」というものだ(「書く」という行為について、ジョイスの『若き芸術家の肖像』がこの方向性の萌芽を持っていたと思ってもいいかもしれない)。
それによって、物語が我々にとってどんなに重要な物なのかを描こうとしているのだ。
これは、ジョイスやディレイニーらの系譜が、実験的作品ではなく、エンターテイメントとして根付いたのだと私は思っている。
実際上記の頭でっかちな知識がなくても、『KUBO』は文句なしに楽しい物語だ。
クボが三味線を奏でながら、聴衆に囲まれて、血沸き心躍る物語をアニメーション付きで語る導入部は文句なしに興奮する。
丁寧に描かれた中世から近世のどこかの時代と思われる日本の風景は、十分説得力を持つ。村民の服装も貴人の服装もどちらもとても自然で、Twitterでも指摘されていたが川本喜八郎の諸作を参考にしているのかもしれない。盆踊りの音楽が炭坑節なのは笑ってしまったが。近代化以前の盆踊りの音楽がどんなだったかなんて、日本人でも知らない(私も知らない)。
そういえば「盆」という言葉は出なかったようだが、「先祖が帰ってきて会話が出来る日の祭り」という設定は明らかに盆であり、その日に墓参りをして先祖と会話をし、出店の出るお祭りをして皆で踊り、最後には先祖を無事に彼岸に返すため灯篭流しをするなど、とても自然に描かれている。
そしてこれは先ほどの『ソング・オブ・ザ・シー』の物語の日がハロウィーンであったことを思い浮かばせる。ハロウィーンももともとは祖霊が帰ってくる日であり、盆もハロウィーンも結局は此岸と彼岸が近くなる日だ。
このようにこの映画は、日本の風習を丁寧に調べ、それを世界どこでも普遍的に通用するモチーフにすることがとてもうまい。
出色は「祖父や叔母にさらわれてしまうから」という理由で夕暮れには家に帰らなくてはいけない(神話や昔話における「禁止」のモチーフだ。これをやぶることによって主人公は不本意ながら冒険に出なくてはいけない)主人公が、死んでしまった父を想い、なぜ自分には来てくれないのか、話しかけてくれないのか、と思い悩みながら灯篭流しを眺めているうちに、黄昏時になってしまうシーンだ。風が吹き、灯篭が消える。川の向こうの闇の中から、叔母が「クボ、クボ、こっちにおいで」と呼び掛ける。
片目であることで彼岸と此岸の間の存在であることを運命づけられた主人公が「盆」「黄昏時」「村はずれの森のほとり」「墓場」「川のほとり」に川の向こう側から人ならざる彼岸の存在に呼びかけられる。演出が上手くて無茶苦茶怖いシーンだが、神話的モチーフの使い方組み合わせ方として額に入れて飾りたいほどうまい。唸るほかない。
ここからクボの三つの武具を手に入れる物語が始まる。猿とクワガタという奇妙な仲間を連れて。
荒れ果てた奇妙な遺跡、沢山の剣が刺さった骸骨、湖の底、荒れ果てた城。この冒険自体が死のモチーフに溢れていることに注目してもいいだろう。やはりこの旅は冥界下りなのだろう。
この辺りの感想は他の人たちがたくさん語ってくれるだろうから簡潔にしよう。外国の方にとって日本の風景で印象に残るものの一つとして、猿と雪の組み合わせがあると聞くことがある。普通猿は南国のイメージだからだ。だから猿なのだろう。
あと武者のイメージとしてクワガタを持ってきたのも面白い。なるほど日本の武者の姿はクワガタに似ている気がする。
この奇妙なパーティの掛け合いはもっともっと見ていたかった。最初はクワガタのことを怪しんでいた猿がだんだんとクワガタを信頼していく様子もよかったし、片親のクボが「挟まれてご飯を食べるの初めて」というシーンもジンとくる。
二人が言い争いをするのを「また?」と言うクボはまさに親の喧嘩を見せられる子供だ。
雑魚寝から起きたときに、クワガタの脚が猿の上に被さっていた時のあの心の騒めきはなかなか忘れられないだろう。
アクションも良い。クワガタの弓矢も良いし、猿の剣劇も良い。敵の叔母の二刀流と鎖鎌も良い。ここはストップモーションアニメの華であり、そうそう言葉で語りつくせぬ部分なので、もしここまで読んでまた見ていないという人がいたら、絶対に劇場に足を運んでほしい。
で、大きなネタバレなのだが、猿はクボの母親が人形に自らの命を吹き込んだ姿であり、クワガタはクボの父親が敵の呪いで姿を変えられた姿である。
実は、三人の旅は、離れ離れになっていた家族の旅だったのだ。
そしてそのことが明らかになって、感動の再開、と思いきや、次の瞬間には二人とも命を奪われてしまう。
ここは数少ない不満点の一つで、ここのところもう少し盛り上げても良かったのでは、と思わないでもない。
しかしクボは母親が残したヒントを頼りに、最後の武具のありかを知る。それは彼らが育った、最初の村だ。
見ている者は、クボが村に行くシーンで鐘の音がいやに印象に残る演出をされていたことをここで思い出すことになる。
クボは月の皇帝に焼かれてしまい、村人は今は山に隠れている村に戻る。そして、すべての武具を手に入れて、晴れて英雄になれたはずのクボは、両親の仇である祖父、月の皇帝に最後の戦いを挑む。
月の皇帝は両目が見えていない。この意味はクボが片目であることと合わせると明らかだ。彼が夢の中で最初に現れた時の全景のアニメーションはまさに絶景だ。網膜に焼き付けよう。
しかし、伝説の武具を集めて英雄になったはずのクボは月の皇帝に勝てない。
そもそも月の皇帝は死なないのだ。勝てるはずがない。
そしてここが最高なのだ。
物語の強敵が不死者で、そいつをどう倒すかが物語上重要な要素になることは多いが、この映画での不死者の倒し方は特に面白かった。
ここで、この物語のテーマが再び顔を出すとは全く思っていなかった。
ここでクボは答えを出すのだ。
なぜ我々に物語が必要なのか。それは我々が死ぬからだ、と。
大切な者を失い、自分もいつか死ななくてはいけない。そんな受け入れがたいものを受け入れざるをえないからこそ、自分の人生に意味づけが必要なのだ。だから人は物語を聞くのであり、物語を語る。そしてそれを次の世代に受け継がせる。自分は死んでしまった人たちの物語を受け継いでいることのよって、喪失を受け入れることができるし、あとの世代に自分の物語を受け継がせることによって、自分の死にも意味づけができる。
クボが最初物語に結末がつけられなかったのは、彼や彼の母親が父親の死を受け入れられていなかったからだ。そしてだからこそクボは彼岸からの誘いを跳ねのけられない。
物語に結末をつけることを受け入れることにより、クボは死すべき生者たちの一員になることを選んだのだ。
「盆」とはまさに、祖先の物語を今一度思いだし、受け継ごうとする風習だ、とこの物語内部においてはとらえられるだろう。
戦いの中でそのことに気付いたクボは、とんでもないひっくり返しをする。
死すべきものだから物語が必要であり、不死者には物語は必要ではない。ならば、物語を注入してしまうことによって、不死者を死者にしてしまうのだ。
いやあ、映画館でものすごく興奮した。その手があったか、と唸ってしまった。
こうして、月の皇帝は片目が白内障で濁った、ただの老人にされてしまったのだ。
物語を何も持たないので自分が何者かもわからない老人に、おずおずと顔を出した村人たちが、彼がどんな人物だったかの物語(嘘)を吹き込む。
こんなんで大丈夫かと思う老人を、クボは「自分がついているから大丈夫だ」と安心させる。
こうしてクボは、両親の死を寂しく思いながらも受け入れ、川に灯篭を流す。

という感じなのだが、実は疑義がある。
例えば、最後の武具が最初の村にある、ということ。これは少々出来過ぎではないか?
この村に逃げ込んだ母親も、武具がここにあることには気づいていなかった。なのにその村に武具があるなんて、偶然が過ぎないだろうか。
こういうのを「ご都合主義」という。作者の指が見えてしまうとして、通常は忌避される。
この部分は、クボが最初の村に戻ってくる必要性から要請されたと考えられる。
なぜ、クボは最初の村に帰ってこなくてはいけなかったのだろう。
その部分を考えるために、「全域解釈」と「局所解釈」という概念を導入してみよう(※脚注)。
「全域解釈」とは作品のすべての要素を受け入れても成り立っている解釈である。それに対して「局所解釈」は作品の一部だけを読めば成り立っている解釈であり、場合によっては作品の他の部分を読んでしまうと、矛盾して成り立たなくなってしまうものも含んでいる。
実は『KUBO』には作中のあるシーンと矛盾するがゆえに全域解釈にはならないが、別の局所解釈があるように思える。
それは、この冒険の旅が一瞬の出来事であった、という解釈だ。
なぜそんなことが言えるかというと、クボが月の皇帝を倒すために三味線を持って歌物語を奏でた瞬間、川に浮いていた灯篭に火が付いたからだ。
これはクボが盆の日の黄昏に叔母たちに襲われたときに灯が消えた灯篭だ。川はずっと流れていなかったのだ。
これは時間が流れていなかったと解釈できるだろう。
そもそもこの物語の冒険が冥界下りと考えるなら、それが無時間の世界と考えてもそれほど不自然ではないのではないか。
何が言いたいかというと、平たく言ってしまえば「これって夢オチではないのか?」ということである。
「夢オチ」も三大がっかりオチの一つと数えられる存在なので、ご都合主義を脱しようとしてがっかりオチに帰着してしまうのではあまりうれしくない気もする。
しかしそうすることにより、この物語のもう一つの側面が見えてくる気がするのだ。
三つの武具を手に入れる冒険をあくまでクボの夢だと考えると、この物語は、父親の死、そして母親の死をクボがどう受け入れるかの物語ととらえることができる。
死んだはずの父親と母親がどうして冒険の中で生き返ったかと言えば、それは物語の中で一度、現実には起こり得なかった家族団欒を疑似体験して、その後両親の死も疑似体験するためである。
物語という形をとることによりクボは両親の死を受け入れることができるようになる。
それによりクボは最後に灯篭を流すシーンにおける精神状態に至ることができる。冒険が実際に起きたことと考えれば、盆に父親がクボに話しかけなかった理由は彼が生きていたからだと解釈できるし、夢だと解釈すれば、クボが父親の死を受け入れられていないからだと考えられるだろう。
もしあくまで冒険が夢だと考えるならば、思い切って超自然的な現象はすべて起きていなかったと考えることもできよう(これは村が焼かれていたこと、等のシーンと明らかに矛盾してしまうために、物語の全域解釈としては認められない)。
すると、この物語はクボが父親と母親の死を受け入れ、さらに両親を迫害した祖父を受け入れ、そしてクボの語る物語によって祖父も、クボを受け入れるようになる、そういう喪失された家族をどうにかそれなりの形で始め直そうという物語に考えることもできる。
それはまさに『ソング・オブ・ザ・シー』の主人公が神話的冒険の先に見つけたものが、母親の喪失を受け入れ、そして母親の喪失の原因となった妹を受け入れる、ということであったこととまさに対応する。
この映画もまた、神話的冒険を体験することが、身近な、だからこそ切実な問題と付き合うための一助となる現代的な物語だったと言えるかもしれないのだ。
私はこの解釈が正しい解釈だという気は全くない。冒険が実際に起こったという解釈では、村に戻ってくるのがこのままでは無理がある。夢だという解釈は、面白い点もあるけど、全体的には興ざめな点も多い。どちらも満足させられるように、作品をさらに練ることも可能だが、作品が分かりにくくなる可能性もある。
作品というものに最高の形が必ずしもあるわけではなく、大概がいくつかのトレードオフの中から、何かを選ばなくてはいけない。
というわけで、私はこの映画は今のこの形がとても良いと思っていて、多少の難点のある大域的解釈と見どころがある局所的解釈の合わせ技でこの作品を楽しむのが、自分としては今のところの最適解と思っているのである。
ここまで読んでいる人はもう最低でも一回は見てるはずなので、ぜひもう一回見ましょう。字幕と吹き替えはどっちもみよう! シャーリーズ・セロン姐さんも田中敦子姐さんもどっちもイイ!


(※脚注)「局所的解釈」とはいわば「誤読の自由」の精緻化である。「誤読の自由」と言ってしまえば、何でもありになってしまうが、実際にはどこまではその解釈で読めるのか、どこから誤読なのか、ということを指定する(指定しようとする)態度が必要なのだ。
こう考えれば例えば『ドグラマグラ』のような全域的解釈をそもそも持ってなさそうな作品や、『舞踏会に向かう三人の農夫』のようなぎりぎりで全域的解釈を裏切られるような作品の読書体験を説明しやすくなるし、私の「魅力的な局所的解釈が全域的解釈にならなかったら、そこを切り取って、それが全域的解釈になってしまうような作品を作ってしまう」という創作論も説明しやすくなる。
この解釈論はもともとは、ウンベルト・エーコの「理想的読者論」を理論的整合性の高い形にブラッシュアップしようとする過程で、数学における「層(sheaf)」の理論からの類推で得られたものである。もう少し、理屈っぽい言葉で詳しく説明したものを、数学同人誌『The Dark Side of Forcing』に書いて、コミケで売ろうかと計画している。

あなたの時間

 ニュートンはこの世界には「絶対時間」という唯一の時計があれば済むと考えていた。嗚呼、なんと牧歌的な時代であったことか。
 アインシュタインの相対性理論がそれを打ち砕いた。特殊相対性理論によれば異なる速度で等速直線運動している二つの物体の時間の流れは、どこかで時計を合わせたとしても、ずれ続ける。二つの座標系で時間の流れが違うからだ。同様に、何かが同時に起こるかどうかも、観測者がどのような運動をしているかで変わってしまう。つまり、ある者にとって同時に起きたものが、他の者には同時に起きない。さらに一般相対性理論においては、物質の存在が時空を歪め、時間の流れも変える。この効果を計算に入れないと、人工衛星の時計を合わせることもできず、自分の位置を知ることも不可能である。また同じ惑星にいても、少し離れれば、標高や地殻の成分によって時間の進む方は変わる。
 ディラックは特殊相対性理論と量子力学を結びつけるために、粒子一つ一つが固有の時間を持つ「多時間理論」を提唱した。朝永振一郎はそれをさらに発展させた空間のすべての点が固有の時間を持つ「超多時間理論」により、場の理論の特殊相対論化を成し遂げ、ノーベル賞を受賞した。量子力学によれば、空間のすべての点は対生成しては対消滅している粒子・反粒子によって沸き立っている。それらがすべて固有の時間を持っている。この世界は遍在する時計によって埋め尽くされているようなものだ。
 その後一般相対性理論の量子化と共に、問題はさらに複雑化し、混沌の態を成しはじめたことは言うまでもない。
 必然的な帰結として、我々も異なる時計に従って生きていくことしかない。一時的に時計を合わせることはできるから、生まれたばかりの赤子と母親、付き合い始めたばかりの恋人たち、共に難所を乗り越えようとするチームは積極的に時計を合わせはするものの、徐々にずれていってしまうのは如何ともしがたい。
 それはこの世の構造的に仕方のないことなのだ。
 我々が不変だと思っているものこそうつろいやすく、光速度など本当に不変である者は我々の実感からはあまりに遠く、仰ぎ見るほかない。
 朝起きて時計を見る。十分に寝られた。いつも肌身離さず持っている時計は自分からずれていかないので安心だ。ただ機械的なずれが起きていないか、複数の時計でチェックする必要はあるが。
 もしすべての時計がずれていたらどうだろう? そういう疑問に悩まされた日々もあったが、もし量子力学により決まっている原子のスペクトル線によって時間を図る時計が一斉にずれているということは、それは私にも影響を与えている可能性が高く、それなら時間はずれていないと考えるべきだと得心した。
 得心するほかないのだ。
 ベッドから降りて、洗面台で歯ブラシをとる。分かり切ってることだが、いつもの癖で毛の感触を確かめてしまう。まだ湿っている。ここでは時間の流れが私の他の生活圏に対してひどく遅い。ではなぜ歯磨き粉の減りは遅くならないのか。そんなことを考えながら、歯ブラシを口に突っ込んで動かす。それだけで歯ブラシと右腕の時間の進みが遅くなる。右腕と左腕の年齢を合わせるために、定期的に左腕でも歯を磨く。
 冷蔵庫を開ける。異臭がする。何かが腐っているのだ。様々な場所から集まってきた食材たちは、生まれた時間も様々で、記載された製造年月日や消費期限を見ても、大した情報は得られない。冷蔵庫の中に巨大質量をぶち込んで時間の流れを遅くすることも考えたが、ちょっとした事故が起こり冷蔵庫の中が大変なことになったので、それ以降やっていない。
 匂いでだめそうなものは廃棄し、そこそこマシに思える牛乳と冷凍ブレックファーストを取り出す。絶対零度近くまで冷やされスタニュコビッチ効果でぷかぷか浮いているそれをトングで取り出し、電磁調理器に入れる。調理時間を使って、レポートを読む。彼女の目撃情報だ。
 彼女が私たちの前に現れる前に、どこから来たのか、どこで何をしていたのか。
 それこそが彼女の未来なのだ。
 最初は噂だった。「どこそこにいたでしょ」、「どこそこで見たよ。何してたの?」。自分の分身がどこかで目撃されているという情報に、彼女はひどくおびえた。私は別々の場所での時系列も定かでない目撃情報なんか無視しろと彼女をなだめた。
 しかし、それがミンコフスキー空間内の光円錐をこちらに向かって近づいていることは明らかだった。
 目撃された彼女は、全く言葉が通じず、他人が見えてはいるものの、何にも触ろうとせず、まるで違う時間の流れの中に生きているようだったという。
 他者との一切のコミュニケーションを絶っていた。にもかかわらず、その表情はとても悲し気だったという。
 あの時の彼女の取り乱し方を思い出すと、今でも心が痛む。私は彼女の人生の転機に何もしてやれなかった。もっとしてあげられたことがあったはずだ。
 ふとレポートから顔をあげる。どれだけの時間がたっただろうか。自分の時計を見ても大した時間はたっていないようだ。しかし、電磁調理器の中の冷凍食品は温められた後長い時間放置されすぎて、新しい生物圏が繁栄してしまっている。どんな殺菌技術でも全ての影の生物圏を除去することは不可能なので仕方がない。焼却箱に突っ込んで、簡易食を口に詰め込みながら出勤する。
 様々なものが亜光速で行きかう。時々事故は起こるが、それ以外の時はほとんど互いに無関心だ。
 お互い別々の時間に生きていれば仕方がない。
 時空が非常に歪んでいる場所では時間と空間を分けることが意味をなさず、泡立ちループし、ブラックホールの事象の地平面の内部のように時間が空間化され空間が時間化され、虚数時間から新しい宇宙が生まれてしまう。
 そんな状態で不特定多数の人間と自分の時間を比べようとしても、無力感に飲み込まれるだけだ。
 だから、出勤して仕事、とは言っても非常に孤独な作業だ。家で仕事をしてもいいのだが、気分を変えるために別に仕事場を作っただけ。
 どこかから届いた書類を処理し、組み合わせて新しい書類に加工し、またどこかへ送る。いつの時代に存在したのか分からない会社組織の決算報告。ほとんどは聞いたこともない会社との取引がいろいろと書いてある。
 そもそも自分が所属している会社に対しての認識だってあまり変わらない。いつどこで存在したものなのか全く分からない。今まで出会った人間でこの会社のことを知っている人間に会ったことはない。
 唯一の例外を除いて。
 それが彼女だった。
 彼女が現れて、取引先の会社の人間だと名乗ったとき、時間が止まったと思った。
 それは何も彼女に見とれていたわけではなく、単純にびっくりしたのだ。そんなものが存在するとは思っていなかったので、当然現れるとも思っていなかったのだ。
 一人用に借りた狭い仕事場にもう一つ机を持ち込んで、二人用の時計をそこに用意して、お互いの持っている情報を突き合せた。今まで一人ではなんの意味も持たなかった情報群が、他の時間からやってきた彼女のもたらしたものによって、全く違う角度から光を当てられた。最初は全く違うものについて語っていると思われたそれぞれの書類に、共通点が見つけられ、お互いがお互いの足りないピースとなっていった。
 仕事が楽しかった。
 自然に一緒にいる時間も長くなった。離れている間に時間がずれていってしまうことが仕事上面倒だったこともあるが、一緒に仕事をし同じ時間を共有することが何より心地よかったのだ。
 彼女はどこか私に似ているように感じられた。考え方も、物の感じ方もどこか共通していた。
 他人のような気がしなかった。
 私たちは一緒に暮らすようになった。
 今でもこの狭い部屋に机が二つある。あの頃の名残だ。しかし、その机も今はほこりをかぶって、時間の流れを視覚化してくれている。
 一度合わさったかに思えた時間もいつかは別れ、そしてほとんど二度と出会うことはない。そんなことわかっていたはずだ。なのに相変わらず私は彼女の影を追いかけ続けている。
 一緒に暮らし始めた頃、私たちはお互いの過去をよく語り合った。
 陳腐な話も懸命に聞いて、根掘り葉掘り細部を質問した。
 私の平凡な人生。コールドスリープした母親の胎内から62年かけて生まれた時には、すでに父親の死後(彼の時間で)数百年経っていた。私は眠り続ける母親の傍で大きくなっていったが、次第に二人の時間がずれ、結局私は母親が起きるのを見ることはなかった。
 そんな私にとって彼女の話は信じがたかった。ずっと作り話だと思っていた。
 それは神話だった。
 宇宙のあらゆる方角から一転に光が集まって、双子の子どもが生まれた。その双子の片割れがお前だ、と彼女は育ての親から聞いたという。
 その双子の片割れはどこへ行ったのかと聞くと、あとから考えてみると彼女によく似ていたという女がどこからともなく現れ、抱きかかえてどこへともなく消えてしまったという。
 そこから先は、しばらくは育ての親が彼女を育て、独り立ちしてからは、いくつかの会社組織を渡り歩くどこにでもある普通の人生を生きることになった。
 「作ってない?」
 「とりあえず私は作ってない。私にこの話をした人が作ってるのかもしれない。でもなんのために? わからない。でも過去のことなんてわからないことばかりだし、作られた話と作られていない話を見分ける術も私たちにはない」
 過去を共有することで、私たちはより強固な関係でつながれた気がしていた。
 にも関わらず、未来のことはあまり語り合わなかったと、今考えると気づかされる。あまりに茫洋としていたし、語る必要性も感じていなかったのかもしれない。二人でいることだけは確かに思えたから。それでよかった。それで幸せだった。そんな幸せな未来を感じられるだけで、今幸せだったし、これまでの過去もすべて意味のあるものに思えたのだ。
 宇宙のどこかにあるはずの本社に向けここで仕事を続ける旨の連絡をして、彼女は私の傍に残った。連絡が帰ってくるとは二人とも思っていないし、そんなことはどうでもよかった。
 ここでないどこか、今でないいつか、などどうでもよかった。
 ずっと二人の時間が続いていくとだけ考えていた。
 おそらくその時から私たちは、ずれ始めていたのだ。私の一方的な思いばかりで、彼女が何を考えていたのか、実はほとんどわかっていなかったような気がする。
 ふと吸い込まれるような宇宙の虚空を見つめ、ぼうっと放心しているあの表情の意味は何だったのか。過去への郷愁か、未来への不安か。我々から遠ざかる赤い光が暖かいのはなぜか。我々に近づいてくる青い光が不吉なのはなぜか。
 だんだんと彼女がそんな表情をすることが多くなっていった頃、あれが現れたのだ。
 部屋に帰ってきた私は、無意味にしか思えない作業に一日従事していた疲れで、服も脱がずに寝床に突っ伏した。まるですべての筋肉が綿になってしまったようだが、意識は濁りながらも決して眠りに付こうとしてくれない。目をつむっているせいか、物音や匂いに妙に敏感になっているのを感じる。温度や湿度の変化で建材がきしむ音は、彼女の足音の木霊に聞こえる。彼女の匂いがする。どこか時間の流れの遅い場所があって、そこに彼女の残り香が拡散せずに残っているのか。いや、以前も探したが見つからなかったし、むしろ探すことは、痕跡を消してしまうことにつながりかねないと結論付けたではないか。
 頼む、眠らせてくれ。自分で自分に詮無い頼み事をする。
 寝返りを打って、今朝読みかけたレポートの続きを読む。
 あの時ここへ彼女が現れるまでの軌跡、それを逆にたどることが彼女の未来を知ることだ。
 過去に遡れば遡るほど、情報は不確かになり、順序も定かではなくなる。そしてそもそも情報自体がまばらになり、消えてしまった残り香のように雲散霧消する。
 過去とはそういう物だ。
 しかし、未来よりずっとましだ、とも思う。彼女が未来へと去って行ってしまっていたら、私にはどうしようもなかったであろう。
 彼女が過去へ向けて去ってくれたおかげで、これら過去からやってきた雑多なデータが意味を持って私の前に立ち上がってくる。あの頃彼女と一緒に仕事をしていた時の感動が、少しだけよみがえる。
 彼女は、私たちの生活圏までそれが接近してきたとき、すでに覚悟を決めていた。言葉数が少なくなり、やりかけの仕事を急いで終わらせていった。
 「あなた」
 ある日、彼女は決意を込めた表情で私に話し始めた。
 「自分でもどうしてそうなるのか全く分からない。でも行かなくてはいけないみたいなの。未来が過去からやってきてしまったの」
 私には何のことか全くわからなかった。
 なぜ行きたくもないところへ行かなくてはいけないのか。なぜそんなことが決まっているのか。
 過去から未来への時間とは所詮幻なのか。
 「あなたのことは忘れない、って約束すらしていいのかどうか分からない。でも今、そう今、今という言葉が何を意味しているのか全く分からないんだけどこの今、この世界にただ一つ存在するのに絶対に手に入らないこの今の今」
 彼女は泣き始めていた。自分が何を言っているのか分からなくなっても、ひたすら「今」と続けていた。私は彼女を抱きしめることしかできなかった。
 「今、あなたを愛していることだけは本当。今は本当なの。今は本当なことはずっと本当よね。いつかそうじゃなくなっても、今は本当なことだけはずっと本当よね」
 何も答えられなかった。問いの意味すら理解できなかった。結び合わされた世界が解けていった。すべてが意味を失い、ガラガラと崩れていった。
 世界の意味を支えていたのは、過去を素材にしたあいまいな未来への物語だった。それが消えうせたとき、世界には彼女が言う今だけが残った。しかし、その今は目の前で現れては消える印象の束にすぎず、過去は目の裏に現れては消える心象の泡にすぎなかった。過去がなければ境目すらわかない今が、私の目の前をひたすら通り過ぎて行った。
 いつの間にか私も泣いていた。
 今、私は再び過去を素材に未来の物語を作ろうとしているのか。この世界の意味を回復しようとしているのか。
 私は気づき始めている。あの時現れた彼女の分身がどこから来たのか。彼女がどこへ向かったのか。
 私は気づく。あの不思議な彼女の目撃例は、過去に遡るとだんだんとお腹が大きくなっていくことに。妊娠しているのだ。
 これはつまり、あのとき彼女は私との子供を身ごもっていたということだ。私はまた泣きそうになる。
 どうにか時系列に並べた目撃例は途切れ途切れになりながら、聞いたことだけはある地名に向かっていく。彼女の故郷。彼女が拾われた場所。
 そしてそこから先は、不鮮明すぎて追うことができない。分かることは、お腹の大きな妊婦として目撃されていた彼女が、急に痩せてしまっていることだ。
 これ以上は無理だ。
 しかし、私は理解できた。私が理解できるだけの軌跡を残してくれたことを、彼女に強く感謝した。
 彼女の過去へ向けての旅が、その後どう続いたのかはわからない。私でなくって全く構わない。彼女が誰か、短い間でもいいから同じ時間を進む仲間を見つけて、幸せを共有してほしい。
 私は思い出す。彼女との別れを。
 あの日、ベッドから抜け出した彼女は、ドアから外に走り出した。気づいた私が追いかけた時には、彼女は彼女と瓜二つで同じ服装の人影と対面していた。
 二人は同時に手を伸ばした。
 「やめろ!」
 私の声で彼女が振り返る。彼女の分身も振り返った気がした。しかしそれは違う。時間の流れが逆な者が私の言葉を意味のあるものとして聞けたはずがない。
 彼女は言った。
 「私は確信してる。あなたに出会うために私は生まれた。だからこそ、あなたに出会うために私は行くの」
 二つの肉体は、両方とも私を見たまま、完全に重なり合った。
 凄まじい光が放出されて、私は吹き飛ばされた。
 気づくと私は病院のベッドにいた。
 原因不明の事故により、粒子反粒子消滅が起きて、大量のエネルギーが解放されたと説明を受けた。
 そういう言い方もあるかもしれない。
 しかし私はもっと的確な言葉を知っている。
 彼女は自分の質量の二倍のエネルギーを放出することにより、負の質量を手に入れ、過去に向けて自分の時間を逆進させたのだ。
 彼女の分身の目撃例を過去に向けて遡っていくのは、まさに彼女の旅を彼女の時間に沿って追いかけていくことだった。
 そして彼女が彼女の故郷で産み落とした娘。私と彼女の娘。彼女の手を離れてすぐに、過去に向けてその小さな質量の二倍のエネルギーを放つことにより、正の質量を取り戻して私たちと同じ向きに時間を取り直した娘。
 それもまた彼女自身なのだ。
 彼女は彼女の母親であり、私は彼女の父親であったのだ。
 全く意味がわからないかもしれない。私にだってわからない。なぜ彼女が不思議な輪廻の輪に囚われてしまったのか。なぜその鎖のつなぎ目を私が担うことになったのか。
 しかし、この無数の時間が縒り合わされた世界で、意味のわかるものの方があまりに希少なのだ。考えられるありとあらゆる私たちの人生の経路の干渉を積分した結果がこれなら、それを認めざるを得ない。
 今の私にはただ、私と彼女が量子的に絡み合ったあの瞬間の今を、言祝ぐ以外のことしかできないのだ。

(終)
この作品は次のAndroidアプリのコラボ作品として作ったものである。
あなたの時間
このアプリは午前午後12時間 1時間60分 1分60秒 以外の時間制を自分で作れる。
これがあれば、いつフランス革命が起こって、理性を崇める山岳派が恐怖政治を敷いても、これで十進化時間の時計を見せれば、反革命派ではないと納得してもらえて安心である。
初めてKotlinを使ってみたが、コトリン島に行ってみたくなった。

最後尾札

 皆さんは最後尾札を持っていますか? 最後尾札とは一体なにか、と思った方は別になんの問題はありません。持ったことくらいならあるけど、という方も大丈夫です。
 今現に持っている方に話しかけています。あなたの前には列が続いているはずですね。その列を決して見失わないようにしてください。
 最後尾札とはそもそも持っている人が列の最後尾であることを示す札です。長い列になると、途中で折れ曲がったり一時的に分断されたりで、どこが最後尾か分かりにくくなってしまいがちです。列に並んだと思っていたら、実は並んでいなかった、となればそれは悲劇以外の何ものでもありません。
 だからこそ、最後尾の人がしっかり最後尾札を受け継ぎ、それを自分より後ろに並んだ人へと受け渡していくことが必要なのです。
 もし、最後尾札を持った人が迷子になってしまったら列はどうなってしまうのでしょうか。人々はもうどこから列に並べばいいのか分からなくなり、すでに列に並んだ人も、自分が正しい列に並んでいるのか確信が持てなくなってしまいます。列は次第に野放図に伸び始め、枝分かれを繰り返しながらのたうち回り、首をいくら切っても二つに再生する人喰いの化け物となって、毒の息で大地を汚しながら人里を遅い始めてしまうのです。
 そこまでは皆が知っている悲しい物語。しかし、この物語には知られざる側面があります。
 迷子になった最後尾札を持った人は、どこへ行ってしまったのでしょうか。
 あれは霧の深い日でした。私は最後尾札をできる限り目立つように捧げ持ちながら、懸命に前の人の後ろについて行っていたつもりでした。
 しかし、あまりに霧が深かったので、前の人の背中までしか見えません。私はそれを列の前の人だと信じ込んでいたのです。
 さっきからずっと私が最後尾札を持っているのに、なぜ誰も私の後ろに並ばないのだろう。そう疑問に思い始めた頃、光が差し込み、俄かに霧が晴れ始めました。
 そこは見たこともない場所でした。建物から別の建物が生えたようにごちゃごちゃした街を人々が乱雑に歩き回っています。食べ物を売っている店の前には人だかりができ、我先に売り物を受け取ろうとしていますが、誰も並ぼうとはしていません。
 なぜ並ばないのか。並べばもっと円滑にことが進むはずなのに。そう思って見ていた私はとんでもないことに気づきました。
 彼らは皆、最後尾札を持っていたのです。そして最後尾札を持って、列に並ぶわけでもなく、てんでばらばらに歩き回っていたのです。
 そして、もう一つ、とんでもないことに気がつきました。
 私の前を歩いていた人、その人もまた、最後尾札を持っていたのです。
 ここはどこなんだ。私を列の一番後ろに返してくれ。私は身も世もなく泣き叫びながら、そう言いました。
 私の耳元へ誰かが囁きます。
 ここは自分の役割を全うできなかった列の最後尾だけが行く地獄の入り口。しかし、俺たちは地獄へ行くことすらままならない。なぜなら地獄へ向かうための列を作ることもできないからだ。いつしか地獄へもいけない列の最後尾がここにたまり、住み着き始め、街を作り始めた。どこかに俺たちの行くべき場所へと繋がる列の最後尾があると信じ続けてな。とりあえずここで生きていきな。慣れれば楽しいぜ。時々何を間違えたかふらりと迷い込む、「ここは列の最後尾ではありません」札を持った奴を全員で叩きのめすのが俺たちの一番の生きがいさ。
 そうして、私はここで生きています。もうどこかに辿り着くことを夢見ることも諦めました。人を押しのけて前へ進むことの甘美な快感を覚えてしまった今となっては、秩序の中に戻っていくこともできません。見つけた偽最後尾をいたぶることを当たり前に受け入れていることに気づいた時は、さすがに震え戦きました。しかし、だからといって今更生き方を変えるわけにはいかないのです。
 みなさんには、どうかこうなって欲しくない、と思います。だから、もし最後尾札を持った時は、絶対によそ見をせず、しっかり自分が並んでいる列を見張っていてください。
 人生とは、間違った列に並んでしまうくらい些細なことで、台無しになってしまうものなのです。
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