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『パヴァーヌ』のヨーロッパ中心主義 及び 歴史の必然性について

『パヴァーヌ』は宗教改革がカトリックに潰されたヨーロッパにおいて、科学や技術、商業などの発達がキリスト教によって抑えられながらも、人々が強く生きていく様を説得力をもって描きだした歴史改変物の傑作である。
パヴァーヌ (ちくま文庫)
キース ロバーツ
筑摩書房
2012-10


内燃機関に取って代わられることなく発達した蒸気機関や腕木信号などの、現実には花咲ききらなかった技術に関わる人々の現実的な描写はディティール豊かで、読んでいて楽しいし、そこに人が生きている感じがする。
圧政の元でも知識を伝える草の根組織や人の根元に根ざした自由への欲望が遂に狭い世界をひっくり返すのも気持ちがいい。
ただ最後の科学技術に対する二面性に関するメタ的な(ナチスまで持ち出して実際の歴史を参照する)文章は蛇足だし、入れるならちゃんと物語に組み込むべきだ、という話はまあいいとする。
読んでいて気になり、今回の話の導入にしたいのは、「なんかものすごく自然に世界がヨーロッパだけだと思ってない?」という点だ。
話の筋がヨーロッパ中心なのは当たり前なので仕方ないとはいえ、世界史的視線を持とうと思えば、世界観の根幹にアラブや中国が微塵もないのはどうかと思う。いったいこの世界、ヨーロッパが長い惰眠を貪っているあいだ、広大なアジアの諸国は何をしていたのか。
そう考えると、この小説の世界観の根幹には何か欠陥があるようにも思えてくる。
しかしそれをちゃんと問おうとすると、「なぜヨーロッパに近代科学が生まれ、アラブや中国では生まれなかったのか?」という難しい問いまで引き受けてしまうことになるから厄介だ。
いくつかの答え方があるだろう。ジャレド・ダイヤモンドは『銃・病原菌・鉄』で中国ではなくヨーロッパで近代科学が生まれたのには、世俗の権力が分散していたからではないか、と仮説を出している。


中国では唯一の世俗の権力の中心である皇帝の命令で、簡単に科学研究が圧迫された。しかしヨーロッパは当時群雄割拠状態で、だから科学が権力からの圧力をあまり受けなかったのだと。
しかしこの考え方でアラブが近代科学を生まなかった理由が説明できるだろうか。
また反対からの答え方もある。山本義隆は『16世紀文化革命』で、科学革命の前に出版革命があり、宗教の権威だけでなく、市井の技術者までが出版で持っている知識を発表できるようになったことを描いている。
一六世紀文化革命 1
山本 義隆
みすず書房
2007-04-17


ではなぜそれほど印刷技術が普及したのか。それはその前に宗教改革があったからだ。ヨーロッパでは中世後期からワルド派異端やジョン・ウィクリフの運動など、聖書を民衆の言葉に翻訳しようという運動がかなりあった。それはカトリックの権威から真理の源泉である聖書を自分たちのものへと奪いかえす意味があった。
パキスタンの科学者フッドボーイはイスラム圏では印刷技術自体はあったが、それでコーランを印刷しようとは考えなかったと言う。手で写したものでないと聖性が宿らないと考えたのだ。
イスラームと科学
パルヴェーズ フッドボーイ
勁草書房
2012-01-31


しかしもしかしたらそれ以上にイスラム圏にはカトリックに当たる統一的な宗教権威が存在しないことが、作用しているのかもしれない。聖なる言葉を多少の乱暴狼藉しても取り返さなくてはいけない相手がいないのだ。
この考え方では世俗と宗教との違いはあれど、抑圧的な権威が近代科学の誕生にプラスと効果を果たしている。
より偶然的な因子を考えるなら、ちょうど良いタイミングのアメリカ大陸への到達があるかもしれない。16世紀文化革命以前の学問は全て結局は古典の注釈である。正しい知識とは古い本に載っている知識である。文化というものは古ければ古いほど進んでいて正しい。
それがかつての我々全てが共有する基本的思想だった。ルネサンスとはその最たるもので、古くて偉い文化に帰ろうというものだ。決してルネサンスは科学革命の前段ではない。歴史は蛮族の進入による文化凋落と古い文物の再発見によるルネサンスの繰り返しだ。その連鎖を断ち切ったのが16世紀文化革命と17世紀科学革命なのだ。
そのあいだに横たわるのが「古いものが正しい」という常識の打破だ。フッドボーイは未だにイスラム圏ではこの常識が残っていて、丸覚え教育へと繋がっていると書いている。そして宗教改革はここにおいてはなんらプラスの効果は及ぼしてはいない。
ここで重要なのが、おそらく山本義隆が描いた市井の技術者たちによる出版ブームなのだろうが、アメリカ大陸における文化や生態系の報告はその大きな源泉の一つだった。
これによりヨーロッパは初めて聖書に一切記述のない自然や文化と大量に出会ってしまったのだ(往生際悪くアメリカ大陸にヘブライ人の幻を見ようとした人間も多いが)。新しいものの波がルネサンスを押し流した。もちろんルネサンスが起きて文化的に発達した状態だったのが受け入れるための準備になっていたのであろうが。
ここまでを乱暴にまとめると、「近代科学の誕生にはいろいろな偶然の要素が絡んでいる」という面白くもなんともないものになりかねないのだが、分かることは、確かに当時のヨーロッパが近代科学の誕生の場として他より良い状況にいたことは確かだとしても、決してヨーロッパだけにしか起き得ない状況ではないはずだという事だ。
もしヨーロッパが惰眠を貪れば、人間の抑えきれない本能により、それまで沈滞していた歴史ある国の人々がむくりと起き上がって宗教的世俗的圧迫に打ち勝って世界をひっくり返していたであろう。その結果人間が幸せになるかどうかなんて御構い無しに。
最近の研究によれば、狩猟採集民は半日仕事をすればあとは遊んでいても生活ができ、食生活から自然に産児制限も出来て相当豊かだったらしい。狩猟採集民は農耕を知らないのではなく、知っていてもメリットを感じられないのでしないのだ。


もちろん環境が変化すれば死ぬしかなく、場合によっては絶滅するかもしれない。そうすると新しい種がニッチに入り込むだけで、自然界ではじっと起きていたことに過ぎない。しかし人間は変に知恵があったから、農耕なんか始めちゃって、おかげで人類は「技術発達→生産量増加→人口増加→環境悪化→生産量減少→人口減少→振り出しに戻る」という狩猟採集生活より貧しくなってから一万年近く全く生活の向上に繋がらなかった生死を賭けた発明と努力のループに陥ってしまった。ここに戦争など各種競争のファクターを加えれば、このプロセスは事実上不参加の揺らされないものとなる。人間は遺伝子進化の軛から離れ、崖を岩が転げ落ちるように文化進化の断崖絶壁を転げ上がる。人類の生活レベルが向上したのはたかだかこの二三百年に過ぎない。
これからも人間の技術は発達し続けるだろうがそれは我々の幸せと直接的関係はない。幸せになる確率の方がもちろん高いし、ここまでの成果は死亡率の低下といい自由度の飛躍的な向上といい目を見張るものだが、今後ともずっとそうとは全く限らない。しかしだからと言って我々にこれを止めることなどできないのだ。このプロセスにおいて個人にできることはかなり限られている。生物学と経済学の陰鬱な最適化の波に翻弄されるしかない。
『パヴァーヌ』において遅かれ早かれ世界はひっくり返ってしまったように。ひっくり返る前の世界だっていろいろ困ったところはあったけど、それなりに良いものだったのにね。
でも『パヴァーヌ』の登場人物がみんな単に翻弄されるだけの存在じゃなかったように、全く何もできないわけじゃない。
そして何ができるかを見極めるためには、自分が通ったあとに残していく廃墟を見つめながら後ろ向きに邁進する歴史という名の天使をしっかりと見据えなくちゃいけない。そのなかで我々が主人公ではないということも含めて。この世の中を動かしているのが、英雄などの個人の意思決定などではなく、冷徹な最適化のプロセスだと理解すれば、最適化のパラメータをどうにか変化させて少しでも望みの結果に近づけるという方針が立つ(もちろん歴史に必然性も普遍法則はないというポパーの小言を胸に刻み付け続ける必要性は忘れないこと)。
おそらく、私が思弁的SF小説というものに一筋の希望を見るはここら辺が理由なのだろう。
小説とは基本的に個人主義の宣伝ジャンルであるが、思弁的SFは対照的に「人類」を主人公に据えることが可能なものだからだ(『幼年期の終わり』を読もう)。個人という様々な物質の四次元の時空ワームの成す結び目を世界観の中心に据えるのに私は限界を感じている。しかし我々が「個人」という視点を捨てることはおそらくない(集団的知性を意思決定のベースにするのは、情報の伝達速度の面から言って判断のタイムラグが大きすぎ非効率であろう)。
思弁的SF小説は人類全体と個人のバランスをとりながら、あるのかないのかもわからない着地点を想像させてくれる。『パヴァーヌ』もそんな、架空の歴史を振り返ることで未来に思いをはせさせてくれる、いい小説であった。

「語り」とはそもそも「騙り」だ。詐欺映画の傑作『スティング』

スティング [Blu-ray]
ポール・ニューマン
ジェネオン・ユニバーサル
2013-02-20

詐欺の映画である。詐欺師が詐欺師をだます映画である。そして観客も騙してしまう映画だ。見事に騙されるので嘘だと思ったら騙されたと思って見てみることをお勧めする。
誰かと親密になる一つの方法は「秘密を共有する」ことだ。こちらから秘密を教え、できれば相手からも秘密を教えてもらう。あまり人目に触れさせたくない秘密だったらなお良い。それによって二人は、お互いに相手を裏切れなくなる。相手のことを信用せざるをえなくなってしまうわけだ。
ここから分かることは相手を詐欺に引っ掛ける良い方法は、相手に詐欺の片棒を担がせてしまうことだ。誰も自分が詐欺の片棒を担いでいるとは公表したくないし、されたくない。だから相手も自分を裏切らないはずだと思う。まさか自分が騙そうとしている相手が、相棒と思い込んでいる人間と裏で繋がっているなんて思いもよらずに。
人は自分が騙す側だと思っているときに、まさか自分が騙されているなんて想像しないものなのだ。呑気な生き物である。
 この映画はその「自分が騙す側だと思っている人間が騙されている」「味方だと思っていた人間が実は敵だった」という構造が入り組んで現れる。
まず主人公フッカーはせこい詐欺師で、追剥役と被害者役とそれを助ける通行人役の三人で詐欺を働く。本当の被害者の前で寸劇をし、追剥を追っ払ったあと、怪我をした振りをする被害者役の代わりに「組織の金」とやらを運んでもらおうとするのだ。その時に本当の被害者の財布と「組織の金」をまとめて布に包んでうまい金の隠し方を伝授する。 そして、その時にすり替えた鼻紙の束を本当の被害者に渡すのだ。本当の被害者は「もうけたもうけた」とその金をネコババしようとして、その場から立ち去ってから驚くという寸法だ(この時点で「味方だと思っていたら敵だった」が二重になっている。被害者は味方のふりをして相手を騙すが、そもそも最初から相手は味方なんかではなかったのだ。そして騙すつもりが騙される)。
ところがそこから話は転がり始める。実は騙した相手は本当の「組織の金」の運び屋だったのだ。「嘘から出た真」とはこのことだ。 
そしてフッカーは親代わりの師匠をギャングに殺されてしまう。そして彼は復讐を誓う。それも「詐欺による復讐」を。
フッカーは金を得てもすぐにギャンブルですってしまう馬鹿である。そのギャンブルも明らかにいかさまで、「騙す側が騙される」のテーマがここでも現れる。そのフッカーが詐欺を学ぶために師匠に紹介してもらった「凄腕詐欺師」のゴンドーフは逃亡中の身であり、酒に酔ってベッドから転げ落ち、酔い覚ましに服を着たままシャワーを浴び、洗面台の氷水に顔を突っ込む娼婦のヒモである。
逆に敵であるギャングのボスのロネガンは女にも酒にも手を出さないキッチリした人間で、娯楽と言ったらポーカーくらい。味方を隙だらけに描いて、敵をむしろ潔癖に描くのは定石だ。
主人公側はまずロネガンをいかさまポーカーでコテンパンにする。その手順も楽しい。相手を油断させるために、酒に酔ったふりをする。顔に化粧水みたいに酒を刷り込む。酒でうがいをする。酒ビンの中に水を入れて飲む。実際に酔ってはいけない。あくまで酔ったふりだ。初登場の情けなさとは大違いだ。酒の種類がジンなのは、値段の割に度数が高くて「労働者の酒」「不道徳の酒」とみなされていたからであろうか。
ゲーム中も相手の名前をわざと何回も間違えてみせ、ロネガンをイライラさせる。勝負師の基本戦術。
怒ったロネガンは部下に命令してカードを入れ替えさせる。ゴンドーフにはそこそこ強いカードが行くが、ロネガンには勝てない。ところが土壇場でゴンドーフはカードを入れ替えなおして、さらに強いカードにしてしまうのだ。映画ではぎりぎりまでゴンドーフが相手のいかさまに気付いているのか見せず、「このままでは負けてしまう」と思わせる。良い演出だ。
怒り心頭のロネガン、それでも金を払おうとする。しかし財布がない。 実はゲームが始まる前に女にスらせたのだ。後で金を払うと言うロネガンをゴンドーフは口汚く罵り「後で若いのを使いにやる」と言い残して去っていく。屈辱の極み。
さあそこで主人公の登場だ。ゴンドーフの使いとして現れた彼はロネガンにゴンドーフを一緒にハメようと持ちかける。
ここから先、フッカーがロネガンの差し向ける殺し屋から逃げながら同時にロネガンに正体がバレないように立ち振る舞う面白さは無類である。詳しくは書かないが、最強の殺し屋の正体やゴンドーフを追うFBIの暗躍などに、いちいち「騙すものが騙される」の構造が繰り返される。それが全体の大きな「騙し」に流れ込む。
それこそ「観客を騙す」最大のトリックだ。実はここでも「騙すものが騙される」の構造がある。映画を見ている観客は主人公側である詐欺師達に当然感情移入する。彼らがロネガンに比べて隙の多い人間的な描かれ方をしていることも大きな効果を持っている。こうして感情移入している時に、つまり相手を味方だと信じきっている時に、人は自分が騙されているなんて思わないものだ。実際観客達は主人公目線で共に死線をくぐり抜けて、時には一緒に騙され時には相手の詐術を見破ってきたのだ。ストックホルム症候群の条件は揃っている。そこをこの映画は突いてくる。この映画は観客に全ての情報を与えているわけではないのだ。
そしてこの映画において主人公達がロネガンにしかける「最大の騙し」がまさに「映画的」であることによって、この映画の構造はウロボロス的な趣すら備える。
ゴンドーフは競馬の元締めだと名乗り、そして寂れた空きテナントに競馬のチケット販売所のセットを作ってしまう。そして客の振りをしてくれる詐欺師達をオーディションで決めていくのだ。
これはスタジオに作ったセットにオーディションで選んだ客を配置して観客を架空の世界に誘う「映画」とまさに対応している。
そう考えるとこの映画は、「映画とは何かを描いた映画」だとすら主張可能かもしれない。この映画ではセットを作りキャストを決めていくという映画の裏舞台を見せることにより、映画を作る楽しみを観客達に疑似体験させるのだ。
しかしそれは疑似体験に過ぎない。いくら我々が感情移入しようとこれは映画に過ぎないのだ。我々は映画を作る側ではない。単なる観客なのだ。
もう一度書こう。それこそこの映画の最大のトリック。一見裏舞台を見せて自分も仲間に入れて貰えたと、映画という詐欺の片棒を担がせてもらっていると思ってしまう観客の油断を突いて、この映画のラストを観客の思い込みをひっくり返す。一番重要なカードはずっと伏せられていたことにそこでようやく気づかされる。
しかし悔しくはない。ただただ爽快だ。もう一度見たくなる。永遠の傑作である。 

ネタバレ注意

 この小説にはこの小説に関する重大なネタバレが含まれます。
 ネタバレが嫌いな方はこれ以上先に進む前にお戻りください、と言いたいところですが残念ですがもう遅い。自分では気づいていないのかもしれませんが、実はもう後戻りはできません。元の自分に戻ることは不可能なのです。なぜならあなたはすでにこの小説に関する重大なネタバレを読んでしまったのですから。
 もしあなたが、たぶんそういうことはありえないとは思うのですが、もし仮にあなたがまだこの小説を読み始めていないのならば、読み始める前にこの小説を読むべきかどうか、しっかり考えることをお勧めします。そしてもしも不注意にこの小説を読んでしまい、あなたが精神的ダメージや多大ながっかり感を感じたとしても、当方は一切の責任を負いかねますのでご了承を。万が一この小説を最後まで読んで、これを書いた人物に怒りを感じ、誹謗中傷や罵詈雑言等をひと目に付く場所に書き込みたくなったときには、ぜひこの部分をもう一度読み返していただきたい。そして落ち着いて欲しいのです。そういえば最初にちゃんと注意書きが書いてあったじゃないか、と。たとえその注意書きがネタバレ自身だったとしてもです。
 もしかすると、読者の中のネタバレを特に気にしない向きは、そろそろ焦れてきているかもしれませんね。言い訳はいいから、そろそろ本題に入ってくれないか。そのネタバレとは一体何なのか、と。しかし、それは慌てすぎというものではないでしょうか。あえて断言しますが、そもそもそういう人は小説など読まなければいいのです。啓蒙書でも読んでてはいかがですか。良心的な書き手なら早めに結論を述べてくれるし、各章ごとにまとめが書いてある本だって多くあるので、ちゃんと読まなくてもだいたい内容が分かるようになってますよ。でも小説とはそういうものではないのです。どこか目的地があってそこへまっすぐ行くというのではなく、まるで散歩のように当てもなくぶらぶらし、書いている本人にだってこの小説がどこへ向かっているか分からない、それが小説というものの神髄なのです。走っているときには見えない景色、立ち止まったり寄り道しているときにしか見えない景色、そういうものを描くのが小説というものではないでしょうか。早く本題に入ってくれよ。そんなことばかり考えている人はそんな景色を忘れてしまっているのでしょう。だから最初の最初から、目の前にあるネタバレに気付かないのです。
 そもそもこの小説の題名を思い出してください。「ネタバレ注意」ですよ。ここからも分かるように、この小説の本題はネタバレなのです。もし本題に入ってしまったらネタバレになってしまうのです。だから本題に入るわけにはいかないのです。そしてだからこそすでに、というか冒頭からこの小説は本題に入っているのです。
 考えてみればこの小説を読むからにはネタバレは覚悟の上のはずですね。だって題名が「ネタバレ注意」なのですから。ネタバレが嫌なら題名を見ただけでこの小説の前を素通りしているはずです。可愛そうに、その人たちは一生気づかないのです。すでに自分たちがこの小説に関する重大なネタバレを見てしまっているということに。
 ネタバレの種は知らず知らずのうちに彼らの胸の中に埋め込まれ、根を張り、そしていつか喉を突き破って木が生えます。ビルにネタバレの蔦が這いまわり、いつしか街はネタバレのジャングルに。この小説を読んだあなたたちだけがそのネタバレのマングローブの根の網目を掻い潜って先に進むことができます。あなたたちは旅に出ます。真のネタバレを探す旅に。なぜ旅に行かねばならぬのか。その原因この小説にありました。そもそも最初から変だったのです。自身のネタバレをしない小説などそもそもありうるのでしょうか。そんなものがあるとしたらそもそもネタのない小説、中身のない空っぽの小説ではありませんか。そんなものが小説と呼べるのでしょうか。そしてあなたたちは自分がいま読んでいる小説がまさにそんな全く何の内容もない小説だということに気付いてしまったのです。
 どんな気分でしょうか。自分がいま読んでいる小説に一切の実質が欠けていることに気づいたのは。怒り。悲しみ。困惑。失望。しかしあなたたちはこんなところで立ち止まっている読者ではない。あなたたちは立ち上がる読者なのです。だからあなたたちは作者の代わりにこの作品の内容を求めて旅に出たのです。しかし一体どこを探せばいいのやら。小説自身のほかにその小説の内容が書かれているものなどあるのでしょうか。実はあるのです。それはその小説のネタバレです。もしそれを小説自身よりも先に読んでしまえば大変な心理的ダメージを読者に与えてしまうものです。しかし今はそんなことを言っている場合ではありません。小説自身が信用できない今、信頼できる唯一のものがネタバレなのです。この小説が実際何が書かれている者なのか、知るための最後の命綱、それがネタバレなのです。
 あなたたちはます広大なネットの世界を探索します。そこには無数のネタバレが浮かび、ネタバレに関するネタバレすら見つかりますが、更新し続ける情報の海に飲み込まれ、あなたたちの求めるものは見つからない。昨日の重大なネタバレは今日にはすでに陳腐で時代遅れなネタバレですらないものになってしまうのです。あなたたちはネットに飛び交うものは全て何らかのネタバレなのではないかとすら思い始めます。ネタバレを踏まずにネットの世界を歩くことなど不可能。そうだとするならば、実はこの膨張し暴れまわるネットこそ巨大なネタバレなのではないでしょうか。
 次にあなたは世界中の図書館の書架の間をさまよい歩きます。中央に吹き抜けのある正六角形の部屋がどこまでも連なる南米の図書館の盲た老館長は砂で出来た本を手繰りながら、彼はこの図書館がネタバレ、ネタバレのネタバレ、ネタバレのネタバレへの解説、ネタバレのネタバレの解説のネタバレで構成されていることを説明したあと、我々全てが誰かを夢見ると同時に夢見られている誰かであるのと同様に、全ての事物はネタバレであり、同時に別の何者かにネタバレされているのだと教えてくれます。そして聖書に書かれた原初に存在した言葉こそ、最初のネタバレであり、この世界自体なのだと。
 あなたたちは最後にエドガー・ケイシーの声に導かれアガスティアの葉をかき分けて、すべてのネタバレが記録されていると言われるアカシックレコードにアクセスしようとします。チベットの奥地に入り口のある空洞地球の内部都市アガルタを統治する賢者たちは、あなたたちにこの地球が空っぽであるように真我もまた空であることを悟れと教えるでしょう。内容を欠いていることこそが内容であり、テーマを欠いていることこそがテーマなのだと。あなたたちが探しているものが存在しないことこそ、あなたたちが探しているもの自体なのです。 
 あなたたちは途方にくれるでしょう。そして何も得ることなく帰路につくのです。あなたたちは最後の最後まで気づかない。何も得ることがないこと、それこそがこの旅で得た、得ることが出来る、唯一のものであることを。あなたたちは出発地点に帰ります。誰が最初に言ったのでしょう、帰るまでが旅だと。それならば全ての旅路の到達地点は出発地点なのです。そこであなたたちは見るでしょう。この旅の始まりである小説を。そしてその小説こそ、この旅の最終目的地であったのです。
 そこにはこう書かれています。「ネタバレ注意」と。それであなたたちもとうとう理解をし始めることが出来るのです。もしあなたがその小説を読んでいないなら開きなさい。もしすでに読み終わっているなら閉じなさい。あなたたちにももう分かるでしょう。その2つに大した違いはすでにないのです。始まりは終わりであり、この世界は空っぽで一杯なのですから。
 期待に胸を膨らませ、もっと正確には期待を裏切られるという期待に膨らませた分だけ胸を空っぽにし、そのページを開いたあなたの瞳に、全ての真実を告げるネタバレが飛び込みます。
 この小説にはこの小説に関する重大なネタバレが含まれます。
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