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小学生作文コンテスト テーマ「家族」優秀賞 『ぼくのおじいちゃん』

  ぼくのおじいちゃん
  4年2組 吉田聖馬
 
 ぼくのおじいちゃんの家はとっても遠いです。あんまりにも遠いので、飛行機をおりて、さらに車で一日くらいかかります。なのであまり行けませんが、かならず一年に一回は行っています。
 おじいちゃんの村へ行く道は、ぼくが学校へ行く道とはぜんぜん違うので、いつも車の窓から見ています。お父さんは「そんなものを見ててもおもしろくないだろ」といいますがそんなことありません。たしかにずっと見ていてもあんまり変わらないので、そのうちつまらなくなってしまいますが、それでもときどき窓から外を見るといつの間にかかんじが変わっていて、びっくりするのです。
 さいしょは町だったのが、そのうちにぽつぽつ生えてる木だけになり、さいごはなんにもなくなってしまうのです。なんにもなくなるとおじいちゃんの村です。
 おじいちゃんがおじいちゃんの土でできた家から出てきて、手をふってぼくらを読んでいるのがいつも見えました。
 おじいちゃんの村はあまり雨が降らないので、おいしいものがたくさんとれませんが、おじいちゃんは村で一番おいしいものをぼくらのために出してくれました。
 おじいちゃんの村で一番のごちそうはサバクアリクイです。なのでぼくらがついたその日は、サバクアリクイのステーキでパーティをします。
 でもぼくはサバクアリクイのステーキよりも、アリのみつのほうがずっと好きです。女王アリのためにおなかにパンパンにみつをためて透明になっているアリのお腹を歯でぷちゅっとつぶしてみつをすうと、とっても甘い味が口の中にひろがってしあわせになります。ぼくは皿いっぱいになって並んでいるアリをほとんどぼくだけで食べてしまっておじいちゃんにわらわれてしまいました。
 でも、こんなごちそうはめったに出ません。おじいちゃんの村は、すごく向こうに見える白い山までずっと岩ばっかりで、なんにもありません。生えている木も、地面にへばりついているトゲみたいな葉っぱのものだけで、とても食べられるものではありません。
 そんな村で一番働き者なのは人間じゃなくて、じつはアリです。アリたちは、そんなかたくて食べられない葉っぱを地面の下にあつめて、くさらせて、キノコを育てているのです。そしてそのキノコを食べて生きているのです。
 ぼくはおじいちゃんに、「おじいちゃんたちもアリを見習って生きていけばいいんじゃない?」と言ったことがありますが、おじいちゃんはただ笑っているだけでした。
 あつい昼のあいだ、人間はまどもない家の中でずっと昼寝をし、夕方になると起きてきて、夕焼けのほうに村からちょっと歩いたところにあるアリの巣をほり、キノコをちょっともらいます。ぼくは人間はなまけものだと思いました。そして「アリさんがかわいそうだ」と言いましたが、やっぱりおじいちゃんは笑っているだけでした。キノコを全部とってしまうと、アリがこまってしまうので、全部は取らないのだそうです。
 それでもぼくがなっとくできない顔をしていると、おじいちゃんは、「いつか自分たちもアリへ恩返しする」と言いました。そのときはどういうことか、ぼくには分かりませんでした。
 アリが育てたキノコだけじゃなく、アリも食べます。アリの巣はちょうど人が一人すわってるくらいの大きさに地面から盛り上がっていて(アリ塚と言うんだそうです)、まわりにいくつもいくつも、まるで小さなビルのならんだ小さな大都会みたいにならんでいます。その中でアリがたくさんはたらいています。その中に木の棒を入れると、たくさんアリがひっついてきます。それをプチプチ食べるのです。さいしょは口の中でもぞもぞするのが気持ちわるかったけど、ちょっとすっぱくておいしいのですぐになれました。
 巣の中に入れる棒は、家族一人一人違っていて、だれかのをかってに使うと怒られます。ぼくの棒も、一年に一回しか使わないのに、いつも大切にしまわれていて、ぼくが着くとおじいちゃんがわたしてくれるのです。
 そんな風に、おいしいものじゃなければ、はたらかなくても食べるものがとれるので、村の人たちはみんな本当になにもしません。一日中地べたに寝て、ずっと向こうに見える白い山に生えているという、神さまの葉っぱをくちゃくちゃかんでいるだけです。それをかんでいると、あつさが気にならなくなるんだそうです。
 ぼくもおじいちゃんに言われてかんでみましたが、ただ苦いだけで、ものすごくまずくてとってもいやでした。でもおじいちゃんがしつこいのでずっとかんでいると、だんだんとおなかの中があったかくなってきて、元気になってきたような気がし、おじいちゃんに学校であったことを、はずかしいことやひみつのことまでいろいろとしゃべってしまいました。
 ぼくはおじいちゃんにわかる言葉でしゃべらなかったので、おじいちゃんにはわからなかったと思うのですけど、おじいちゃんはうれしそうに笑ってうなずきながらぼくの話をきいてくれました。
 でも、その葉っぱをかんでいる所をお母さんに見つかってとりあげられてしまい、それっきりでした。お母さんはその葉っぱのことでおじいちゃんにかなりおこっていましたが、お母さんはおじいちゃんの言葉があまりうまくないので、おじいちゃんはわからないふりをして知らない顔をしていました。
 ぼくたちが行くのはいつも雨がふらない季節のさいごのほうです。雨が振ると、土の道路がぐちゃぐちゃになるし、それまでなにもなかったところにいきなり川ができるので、とっても大変なんだそうです。だから、雨が降らないうちにいつもかえってしまいます。
 でも、前の前の年は雨がくるのがいつもより早くて、空にはあいかわらず雲ひとつないのに、砂をまいあげる風がなんだかしめっているような気がしたり、どこかとおいところから気のせいのようなゴロゴロというかみなりの音が聞こえてきたりしました。お父さんとお母さんはラジオを聞いて、急いでかえる準備をしたり、いつもは使わないえいせい電話で飛行機の予約をしたりしていました。
 ぼくははじめてのことでわくわくしていました。雨が降るとぜんぶ変わる、と前からおじいちゃんに言われていたからです。すこし高い丘に登ると、とおいところに真っ黒い雲がもくもくとわきあがっているのが見えました。ピカリと光るのも見えた気がしました。きっとあの下では雨がザンザン振りに振っていると思うと、なんだかあそこまで走って行きたくなりました。
 すると、いつのまにかおじいちゃんが後ろにいて、ぼくとおなじほうを見ていました。そしてぼくに見せたいものがあるからついてこい、といいます。
 ついていくと、村からアリの巣とは反対方向の、いままで来たことのない場所に、村の近くでは見たことがないような高い木が生えていました。
 その木は、ふつうは地面の下にあるはずの根っこがまるで校庭ののぼり棒みたいに地面の上につき出ていて、太いのだと人間くらいの大きさでした。おじいちゃんは、自分たちはこの根っこがぽきりと折れて歩きだして生まれたんだ、と言いました。だから、死んでかんぜんに地面に帰かえったあと、またこの根っこになるんだ、と言いました。
 ぼくはそういうものなのかな、と思いました。
 おじいちゃんは、その根っこをつかんで自分の体をもちあげると、こんどは上から手を伸ばして、ぼくの体を上にひきあげてくれます。そしてするすると、ビルくらいある高い木のてっぺんにぼくを連れてきてくれました。
 「子どものころ、おじいちゃんのおじいちゃんにここに連れてきてもらってから、ここがずっと好きなんだ」
 おじいちゃんはそう言いました。
 そこからだと、ずっとむこうでビカビカ光るかみなりが、もっとよく見えました。そしてだんだんとその雲がこちらに近づいてくるのも分かります。すごいいきおいです。雲の下はかすんでしまって、もうなんにも見えなくて、なんにもわからなくなっています。お父さんとお母さんが急いで逃げようとするのも分かります。
 でもぼくはなんだかうれしくなって、
 「うわあ!」
 と叫んでしまいました。
 すると、おじいちゃんはひとさし指と中指をくちびるに当て、「シュッ」といいます。しずかにして、という意味です。お父さんやお母さんにないしょでなにかおもしろいことをするときに、おじいちゃんはこれをします。
 ビカッ!!
 とおくで、でもいままでよりもずっと近くで、もう歩いていけそうな場所で青い光が走りました。すると、僕たちのまわりで、
 ビカビカッ!
 とつぜん幾つもの青い光がいくつも走ったのです。ぼくはびっくりしました。びっくりしていると、
 ゴロゴロゴロゴロ!!
 と、カミナリの音がすぐ近くでなっているみたいに聞こえてきます。すると、またあの青い光がまわりで、いくつも走り回ります。
 こんどはぼくにもなんだかわかりました。数えきれないほどの光る虫が、木の中から出てきて飛び回っています。
 「カミナリホタルはかみなりの子ども。ずっと木の中で寝ているが、かみなりがなると起きてきて、一緒にビカビカ光るんだ。そして急いで子ども作って、地面にたまごをうんで死んでしまう。雨の中で子どもは育って、雨がやむまえに急いでおとなになるんだ」
 おじいちゃんはそう教えてくれました。
 「さあ、早く帰らないと、大変なことになるぞ」
 けっきょく、僕らが家についたときにはもう前が見えないほど雨が振りはじめていて、ぼくはびしょぬれ。いそいでお父さんの車に乗って、村から離れました。
 どしゃぶりの大雨の中でかすんでいてもおじいちゃんが手を振って、ぼくらを見送っているのがぼくにはみえました。
 次の年、村へ行くと、おじいちゃんはすっかり変わっていました。ぼくのこともお父さんのことも分からないみたいでした。何を言っても、どこを見ているか分からない顔で、うれしそうに笑っているだけです。ご飯ももう自分では食べられなくなっていて、おばあちゃんやお父さんが食べさせました。ぼくもその手伝いをしました。でも、食べさせても、口の中からぽろぽろと食べかすが落ちてしまいます。お母さんはそれを見てすごく嫌な顔をしていました。
 おじいちゃんは、今までよりもさらに一日中なにもせずに、ただ笑っています。ある日かってにどこかへ行ってしまい、家族や村の人たちでさがしまわりました。おじいちゃんは、いくつもならんだアリの巣の中にまじってすわっていました。村のみんなはおじいちゃんの口の中を見ます。すると、ちょっとしかのこってない歯のすきまからアリがぞろぞろと出てきました。ぼくはおじいちゃんが食べようとしたアリだと思いました。でも違うのです。村の人たちはおじいちゃんの頭の中にアリが巣を作っていると言いました。
 ぼくはそのときはじめて知りました。ずっとアリを食べていると、食べたアリのいくつかが体の中で生きていくのだそうです。そしてそのアリの中の一匹が女王アリになると、ほかのアリに言うことを聞かせるために、しあわせを出します。そのしあわせが頭のなかにいっぱいになって、今おじいちゃんはとってもしあわせなんだそうです。
 そしてこれもはじめて知ったのですが、このアリの巣はじつはお墓だったのです。おじいちゃんはそのとき、おじいちゃんのお父さんや、おじいちゃんのお母さんや、おじいちゃんのお兄さんや、おじいちゃんのおじいちゃんにかこまれてすわっていたのでした。みんなこの村でアリを食べつづけ、頭の中がアリの出すしあわせでいっぱいになって、そこでアリ塚になったのです。この村の人たちはみんなそうなるのです。つぎはおじいちゃんの番なのでした。
 おじいちゃんはとってもしあわせそうでした。なんだかむかしのことを思い出しているみたいに、青い空を見上げていました。もしかしたら、おじいちゃんのお父さんや、おじいちゃんのお母さんや、おじいちゃんのお兄さんや、おじいちゃんのおじいちゃんのことを思い出しているのかもしれません。
 村の人たちはこのままにしておこうと、村に帰っていきました。お父さんとお母さんとおばあちゃんも帰っていきました。さいごにはぼく一人だけが、おじいちゃんを見ていました。
 太陽がひくくなって、空と地面が燃えているみたいに真っ赤になります。おじいさんの口や鼻や耳や目を、何匹ものアリが出たり入ったりするのが見えました。東の空が学校の花壇で育てているスミレみたいなこいむらさき色に変わっていきます。でもあのとき見た空のほうがずっときれいでした。たぶん、ずっとわすれません。
 きづくと、おじいちゃんはもうなんにも見ていませんでした。さわるとボロリとはしっこがくずれます。おじいちゃんは地面と一つになっていたのです。ぼくは家に帰りました。
 次の日、ぼくはぼくの棒をおじいちゃんの耳の穴の中に入れて、アリを食べました。とってもおいしかったです。
 もし先生がおじいちゃんの村に来たら、おじいちゃんのどこに棒を入れればたくさんアリがとれるか、おしえてあげようとおもいます。

無限次元超複素数電卓 Infinitenion

暇なのでアプリを作りました。
無限次元超複素数電卓 Infinitenion
複素数、四元数、八元数、十六元数……と任意の2^n元数の帰納極限である実数上無限次元の代数の演算をすることができる電卓です。
ただし、四元数は可換則が成り立たず、八元数は結合測が成り立ちません。
つまり、a(bc)と(ab)cは違う値になります。
すると、計算順序の曖昧さを防ぐために、大量の括弧が必要になってしまいます。
そこで、この電卓では逆ポーランド式の語順を採用しています。
1 + 1と書く代わりに1 1 +と書きます。これは「1に1を足す」と読めば、日本語の順序に似ています。
すると、a(bc)はa b c * *と書き「aに、bにcをかけたものをかける」と読み、(ab)cは「a b * c *」と書いて「aにbをかけたものに、cをかける」と読めばいいのです。これで計算順序を指定するのに括弧はいりません。
なのでこの電卓では1 2 +と書けば3に、1 2 + 3 *と書けば9になるわけです。
さらにE1で最初の虚数単位、つまり複素数のiを表します。なのでE1 E1 * = -1となります(E1 2 ^と書いてもいいです。「E1の2乗」と読みます)。さらにE2とE3は四元数のjとkを表します。E2 E3 * = E1、E3 E2 * = -1 E1 *となるどことが、可換則の破れです。
さらにE3 E10 + E6 E15 - * = 0は十六元数には零因子がある(E3 E10 +やE6 E15 -は零因子)ことを示しています。
ネットで調べると、百二十八元数には冪零元があるなどという、まことしやかな噂が書き込まれていますが、このアプリで少し調べてみると、この代数はいくら次元を大きくしても、冪零元はありえないことが分かると思います。
より詳しい使い方はアプリのヘルプを見てください。また超複素数に関する説明なども付属しているほか、私の自己満足によって四元数の発明者ハミルトンに関する小説が添付されていたりします。ぜひ読んでください。
どうやって、こんな無限次元の演算を実現しているか気になる人はケイリ-・ディクソン(Cayley-Dickson)の構成法について調べてみると分かると思います。肝は、複素数や四元数、八元数を得ベクトルではなく、再帰的に定義された「木」であると考えることです。
どうぞ遊んでくださいな。
そのうちIphone版も作ってみます。


カートゥーン版『銀河鉄道の夜』? 『Over The Garden Wall』

『Over the Garden Wall』は2人の奇妙な格好をした兄弟が森の中を歩いているシーンで唐突に始まる。弟のグレッグは陽気に歌など歌っている。兄のワートは何か不機嫌だ。2人共どこへ向かっているのだろうか。家に帰る途中なのだと本人達はいう。しかし、2人はそもそもそこがどこなのかも分かっていなさそうだ。
そんな2人に青い鳥が話しかける。道案内してやろうと。弟は素直に聞こうとするが、兄は鳥がしゃべるなんて変だと無視して行こうとする。そして木こりに道を聞こうとする。
しかしその木こりも様子が変だ。
どうやらこの森には「ビースト」という恐ろしい存在がいるようだ。もしかしたらこの木こりがビーストなのだろうか。木こりが持っているランプの燃料は森に迷い込んだ子どもたちの魂なのだろうか。
兄弟と青い鳥ベアトリスの「名もなき森」を抜け出るための奇妙な冒険が始まる。
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とにかくわからないことだらけで始まる話だ。題名の意味も分からない。キャラクターも初見で魅力的だとは言いかねる。
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ただ、背景の美しさにまず引き込まれる。昔からカートゥーンはキャラクターではなく背景美術で世界観を作る。背景美術の幅の広さがカートゥーンの幅の広さを作っている。とくに最近のカートゥーンはどれも背景が美しい。『アドベンチャー・タイム』のパステル画のような色彩、『スティーブン・ユニバース』の結晶質の空。そして『オーバー・ザ・ガーデン・ウォール』の絵葉書のような仄暗い森。まるで少し怖い絵本のようだ。
画面に舞い飛ぶ朽葉の乱舞に見とれながら、謎を追いかけていくうちに、いつの間にか我々は話に引きこまれていく。まるで我々も「名もなき森」に迷い込んでしまったように。
この物語はそうそうは謎を解かせてはくれない。まず我々に与えられていくのは、それぞれのキャラクターの背景の一部だ。キャラクターをその行動と仕草で描いてくれるのもカートゥーンの良い所だ。見た目では地味に見えたキャラクターたちが活き活きと動き出す。
ワートは登場していきなり珍妙な「詩」めいたものを独りごちる奇妙な少年だ。何事にも消極的で、いつも流れに身を任せている。そして弟のことをはっきりと嫌っている。
グレッグは天真爛漫なトラブルメーカーだ。事態を良い方にも悪い方にも転がしていく。愛らしいが、他のキャラクターからはちゃんと疎まれている描写があるのが、作品としてのバランスを保っていて、いやらしく感じない。子どもの過度の子どもらしさとその無邪気な肯定は、ときに作品に暴力的な臭みを与える。
ベアトリスは、2人を助けてくれる人アデレードのところに案内しようとしてくれている青い鳥だが、かなりの毒舌家だ。ワートのことを自主性の欠片のないでくのぼうだと言ってはばからず、グレッグにはそんな兄を見習えと暴論を言う。酒場から追い出された際には店主を口汚く罵り、ろくな死に方をしないと呪ったりもしていた。
謎は一向には解けないが、これらのキャラクターの魅力に気付くことにより、話にますます引き込まれていく。そしてキャラクターの背景が見えてくることにより、謎が深まっていく構成も見事だ。
ワートは訪れた村で電話を借りようとする。では、これは現代の話なのか。しかし、その村はどうも現代の村とは思えない。18世紀以前のように見える。しかし別の場面では、19世紀ぽかったり、20世紀初めぽかったりする(外輪で動く蒸気船などがある)。音楽は全体的に20世紀はじめの雰囲気だ。だが、そもそも「名もなき森」の時代を考えることは無駄であろう。皆が訪れた村では骸骨になった死人が蘇り、南瓜の仮面を被って踊りを踊る。船の上では正装した蛙が楽器を演奏する(このシーンの蛙の歌はものすごく良い。本当に良いので聞いて欲しい)。
「名もなき森」はこの世ならぬ異界、それも「死の匂い」が濃厚な「彼岸」なのだ。そこでは様々な時代が入り混じっている。様々な時代の死者たちがいることを考えれば自然であろう。
しかしワートたちはもともとこの「名もなき森」にいたわけではないのだ。ワートは自分は高校生だという。グレッグは父親の違う弟だとか。ワートは様々な時代の建築様式に詳しく、それが話を解決するのに役だったりする(時代の異なる建築様式が混じっていることに気付いたのだ)。そしてクラリネットを吹き、サラという少女に恋をしているが、ジェイソン・ファンダーバーカーという何もかも彼よりすぐれている男に邪魔されている。ワートはどうやらほぼ現代の人間と見て良さそうだ。その彼がどうして、こんな奇妙な森に迷い込んだのか。
物語作者としての手腕は、謎を謎のままにしながら、どれだけ読者を惹きつけ続けられるかに現れる。自信がなければ謎をさっさと解き明かさざるを得ない。せめて少しずつ謎を解いて、読者に餌を与え続けないといけない。しかしこの作品では、謎はほとんど解けないまま、ふしぎな世界を旅し続ける。
謎はもちろん、背景美術の美しさ、キャラクターの魅力に自信があるからだ。最初は明らかに反目しあっていたワートとベアトリスが狭いとところに閉じ込められて、仕方なくお互いの来歴について語るうちに、だんだんと互いを理解し接近していくところなど、「定番だなあ」と思いながらも引きこまれ、ワートが好きな女の子についてベアトリスに語っている所を見ると、自然に胸が熱くなるのを感じる。
このままこの魅力的な世界観に浸っていたくなる。ワートはそんな元の世界の女の子ではなく、ベアトリスと暮らせばいいのにと、むちゃくちゃなことを考えたりもする。
しかし、そこに破局がもたらされる。ベアトリスは呪いで家族もろとも青い鳥にされてしまい、呪いを解く方法を探している。そのベアトリスの行動の謎が明かされて、物語は急に暗くなる。
ここら辺りは実際に見て欲しい。
希望を失ったワートはだんだんと弱っていき、グレッグはそんな兄を救おうと、一人懸命に頑張る。そんなグレッグが夢のなかで「クラウドシティ」と呼ばれる天界に向かうシーンはこの作品の転機だ。ウォルト・ディズニーがミッキー以前に作って、フェリックス・ザ・キャットをパクったキャラクターを出して怒られた実写とアニメーションの合成シリーズ「アリス・コメディ」へのオマージュにあふれたシーンの連続はクラシックカートゥーンマニアにはたまらないものがある。
天界でグレッグは自分が救われる代わりに、兄を救うためにグレッグは大きな決断をする。
そしてそんなグレッグを救うためにワートにもまた危機が訪れる。グレッグを探し必死に森を走るワート。やはり2人を探すベアトリス。ワートは川に落ちてしまう。薄れゆく意識の中彼は夢を見る。「名もなき森」に来る前の、元の世界の夢を。
そこで初めて、ワートとグラッグがなぜ、「名もなき森」に迷うことになったかが描かれるのだ。
ワートとグレッグはおそらく80年台くらいのアメリカに住んでいて(ここで音楽も20世紀後半風になるのが最高にグッとくる)、ハロウィーンの仮装をして、町を歩いていたのだ。2人の妙な格好は仮装だったのだ(象と、おそらくドワーフ人形)。ここで幾つもの謎が解ける。ワートが恋をしているサラや、恋のライバルジェイソン・ファンダーバーカーも出てくる。グレッグがいつも釣れている蛙はこのときに捕まえたものであることも分かる。
そしてハロウィーンの肝試しに訪れた墓場で、2人は墓場の壁を乗り越えて、向こう側へと行ってしまう。そこで、彼らは川に落ちてしまうのだ。
そして行き着いた先が「名もなき森」なのだ。

なんだかこの作品、まるでいきなり銀河鉄道の中で始まる『銀河鉄道の夜』のような作品なのだ。ある程度進んでから、初めてなぜ銀河鉄道に乗ったのかの理由が回想で語られる。見事な構成。だが、仕掛けはこれだけではない。

川へ落ちたところで、この回想の役割も兼ねた夢は終わり、ワートは再び「名もなき森」で目覚め、グレッグを救うために走りだす。クライマックスへ向けて。
ここから分かることは、「名もなき森」とは生と死の狭間の世界なのだ。題名の『Over The Garden Wall』(壁の向こう)とは、この2人が乗り越えた墓場の壁のことを意味するとともに、生と死を分かつ壁を意味するのであろう。この作品全体が長い臨死体験を描いたものとして考えられる。
そこまでは良いが、この作品のものすごいところとして、一種の夢である臨死体験の中に入れ子に夢(グレッグの昇天)や臨死体験(ワートの回想)が描かれることだ。そう、川に落ちたワートが見たハロウィンの夢は、臨死体験をすることになった理由を回想していると同時に、臨死体験の中で臨死体験をして見ている夢でもあるのだ。このような多重構造を持ち込みながら、視聴者にほとんど気づかせないところはさすがの手際だ。
この作品の大枠は長い歴史を持つものである。死後の世界、地下世界に潜って、一度死んで生き返ることにより、主人公は本当の英雄になることができる。冥界下りの類型の一つだ。『銀河鉄道の夜』もその系譜の作品である。
回想において、ワートは異父兄弟のグレッグを疎ましく思い、ほとんどコミュニケーションを放棄している。そして、好きな娘と話すことさえ困難なほどシャイであり、ジェイソン・ファンダーバーカーに異様に引け目を感じている(サラは明らかにジェイソンを煙たがり、ワートに好意を抱いているにもかかわらず。というかワートはラノベの主人公かってくらいもてている気もする)。
それは「名もなき森」の中でも変わらない。しかしそんな中でも旅の中でワートは段々と自主性を発揮し、馬で駆けベアトリスを救い、機知を発揮して問題を解決し、見事な演奏も披露した。これは正に冥界下りの中で、主人公が英雄へと変貌していく物語だ。
しかし、物語の定石に則って、成長を見せ始めたワートを森はどん底に陥れる。ベアトリスに裏切られたワートは、森をあてど無くさまよい希望を失っていく。そして最後にグレッグも失ったとき、ワートには何も残らない。そんな状態でワートは川に落ちるのだ。
そこで、全てのひっくり返りが起こる。

映画とテレビ作品は普通に思われている以上に、実は文法から異なっている。映画とは灯りが暗くなるときに一度日常との繋がりを断ち切った向う側にある、全ての論理がひっくり返りうる「ハレ」の世界だ。
テレビはいくら非日常を描いても、それは日常に寄り添い、例え日常の論理とは異なっても、一定の論理の通用する「ケ」の世界だ。
「名もなき森」の世界も、非日常のようでいて、一定の論理が存在する「ケ」の世界なのだ。主人公たちはその「ケ」の世界を「水平」に動いていく。
主人公たちの目的は「帰還」もしくは「脱出」であるはずだが、その意識はかなり希薄だ。アデレードに会うという希望もあるにはあるが、あまり強くは打ち出されない。あてどもなくさまよっていると言ったほうが的を射ている。
それはまさに「ケ」の世界のありようだ。我々が日常感じている、どこかここでない場所へ行きたいが、どこへ行けば良いのかは皆目見当がつかないのと同じだ。
そういう意味で、この作品は優れてテレビ作品である。長編化したものも存在するが、やはり15分一本のフォーマットで少しずつ見るべき作品だ。
そしてこの異世界の日常に長く付き合い続けた末に出会う、二つの強烈な非日常。一つは「グレッグの天界への昇天」であり、もう一つは「ワートの川への転落」である。
どちらも、これまでの水平移動に対して、垂直の運動を含んでいる。水平と垂直の運動感覚は、我々の体に染み付いていて、しかもおそらく人類にかなり普遍的なものだ。多くの物語において、垂直運動が起こるのは、物語が大きく動くときであり、それはそれらの運動が状況の大きな変化をもたらすことを、我々が肉体的に理解することができるからだ。『ルパン三世 カリオストロの城』やティム・バートン版『バットマン』などのクライマックスでの塔の上昇が分かりやすい例だろうか。
そしてこれらは、聖俗の感覚や、此岸と彼岸の感覚と結びついている。
グレッグの天界は正に天国であり、これもまた死後の世界だ。ワートの川への転落は地獄をイメージさせる。水への落下が死の世界、地下世界への入り口になるのは、最近だと『ソング・オブ・ザ・シー』の井戸への落下がある。
グレッグの天界は、まさに「ハレ」の世界、論理が全てひっくり返ったカーニバルの世界を表現している。この天界と比べたら、「名もなき森」の世界はどこまでも日常的だ。
そして、上昇の後に転落。ワートが川へ転落して見る世界は、普通のアメリカの町だ。
しかし、ここまでこの作品に付き合った人間にはそれはただの町には見えない。非日常を日常として享受することを覚えた私たちには、その町はとても非日常的に見える。
なんというか、感覚的な言葉で語ると、グレッグの天界のときに感じたと同じように「何が起こるか分からなくて、ドキドキする」のだ。
この、「普通の世界を見る時の非日常感」こそ、この作品のハイライトだ。そして、それをハロウィーンの日に設定したのも、定番とはいえ、実に上手く効いている。ハロウィーンとは、精霊が地下世界からこちらの世界へ侵蝕してくる日であり、日常と非日常がひっくり返る「ハレ」の日である。決して、派手なハロウィーンが描かれるわけではないが、そのような日だからこそ、お祭りのような(実際お祭りなのだが)ドキドキ感を我々に感じさせる。(ちなみに『ソング・オブ・ザ・シー』もハロウィーンの日が舞台で、それはもちろん背景としては重要なのだが、モチーフとしてはあまり活かせていなかった印象がある。)
そして、この回想はなぜ彼らが「名もなき森」に来たかを説明するためにあるのだが、それ以上の意味がある。
サラが登場したり、ジェイソン・ファンダーバーカーが登場したり(彼の登場がこの作品で一番笑えるところなので、ぜひ期待して欲しい。「お前かい!」と誰もが驚くので。ワートくんはどれだけ自分に自身がないのかと泣けてくる)と伏線が次々と回収されることによって感じるカタルシスにごまかされてしまいがちだが、この回想があることによって、つまり、この作品が長い臨死体験であることが明らかにされることによって、初めて「名もなき森」をどう脱出すればいいかが分かるのだ。
単に目覚めればいいのだ。
そのためには森を克服しなくてはいけない。森を倒す、つまり森の主であるビースト、人々の魂を森に縛り付ける魔物を対決しなくてはいけないのだ。
これまでは、主人公たちは全く希望を持てないまま水平移動を繰り返していた。それが主人公をどんどん追い詰めていく。ここで垂直移動が加わることによって、初めて主人公が希望を持てる。彼らはそれが希望であるということには気づいていないだろうが。
ここの流れはあまりに自然なので、ここ以前で主人公たちには帰る手段がなく、これ以降には非常に単純な帰る手段があることに気づきにくいくらいだ。そこら辺は本当によく出来ている。ここでもおそらくハロウィーンであることが聞いてくるのだ。ハロウィーンだからこそ、森の主と対決する、という象徴的行為だけで、現世に帰って来れるということに納得できるのだ。
でも、ここで流れが大きく変わっていることは誰もが感じる。今まで何の目的もなく、ビーストに怯えながら森をさまよっていたのが、ここでグレッグを救うため、そして自分たちのホームに帰るために、ビーストと対決する、というのに一気に反転するのだ。
これは燃える。
そこにさらに一言付け加えるならば、注目して欲しいのは、これが臨死体験の中での臨死体験をきっかけに起きていることだ。
普通の神話なら、この世界から、あちらの世界、死後の世界に降りて行って、擬似的な死を経験して、英雄になってこちらの世界に帰ってくる。
しかしこの作品においては、あちらの世界、死後の世界を一度日常化し、そして臨死体験の中での臨死体験、そこで見るのは実際には「こちらの世界」なのだが、非日常化したこちらの世界において、ワートは「弟を救い、ホームに戻る」という自分の使命を見つけ直し、そして英雄として、あちらの世界に帰っていく。
臨死体験の入れ子という、一見奇抜な構成を、何の不自然さや奇を衒った感じを出さずに、活かしきるのはすごいとしか言いようがない。
細かいところはぜひ前情報無しで見て欲しい。そして何回も見て欲しい。細かい伏線の貼らせた作品なので、繰り返しみると思わぬ発見があってますます楽しくなる。
最初はあんなに情けなかったワートが主人公として成長したことを強く感じるはずだ。
また、単に騒がしい子どもに見えたグレッグの思わぬ負い目に心をグサリと刺されるかもしれない。
そして、初めてワートがグレッグに向き合い、グレッグの遊びに参加して、グレッグのために何かをしてあげた行為に感動して「完璧な名前だ!」と同意するだろう。
そういえば『ソング・オブ・ザ・シー』も妹という邪魔な家族をどう受け入れるかの物語だった。普遍的なテーマなのだろう。
この物語においては、ワートはグレッグという受け入れられなかった家族を受け入れることにより、同時にジェイソン・ファンダーバーカーの「名前の呪い」も克服する。ワートは、ジェイソン・ファンダーバーカー自身というより、脳内に生み出したジェイソン・ファンダーバーカーに負けていた、いわばジェイソン・ファンダーバーカーの「名前」に負けていたのだが、それをワートは「名付け」によって、その魔術に打ち勝つのだ(少し呪術的な思考法が響いているのかもしれない)。ここにも彼の成長が感じられる。

でも、ワート君にはぜひ童貞キモポエマーとして空回りしつつ生き続けて欲しいとも思う。ちなみにトランペット演奏付きの詩を録音したカセットは実際に売っていた。『For Sara』という題名で検索すると出てくるかも。
あと二次創作では、ビースト・ワート(角が生えビースト化したワート君)が人気だ。アイス・フィン、ビッパー(ビルに乗り移られたディッパー、と並んで「闇堕ち三銃士」だなんて呼ばれてる。

まとめてみると、この作品は、少年が「死後の世界」に行きかけて戻ってくると、少し世界が違って見えるようになる、という点でやはり『銀河鉄道の夜』を思い出させるものだ。「あちらの世界」の静かな奇妙さなども共通点があるだろう。自己犠牲の精神の美しさが語られるところも似ている。
しかし、そこはアメリカ。自己犠牲で他人のために死ぬなんてことを簡単に認めたりはしない。ジョバンニが彼岸へのあこがれに身を焦がされながら、カンパネルラを見送るしか無かったのと対照的に、ワートは自分のために命を捨てようとした弟を救うために、自らも身を挺して戦う。それによって、二人共生還するのだ。
うーん、アメリカだなあ、とは思うけど、別にばかにしてるわけではない。爽やかで、娯楽として完成されていて、とっても良いのである。
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