けんさく。

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しばらく二次創作してたせいで、こっちのブログに書くことがないね

昔は「キャラクター小説は書けない」といって、実験的な小説ばかり書いてたが、二次創作することによって、「キャラクター動かせるじゃん」という感覚が掴めたのは、収穫だった。
では、なぜ相変わらず一次創作でキャラクター小説が書けないかというと、次の問題としてキャラクター造形ができない、ということになろうかと思う。
今までも、『Regular Show』のキャラをほぼ借りてキャラクター小説っぽいものを書いたことはあるので、既存のキャラクターを少しずらせば何とかなるのだろうか。
それを続けて、キャラクターのレパートリーが増えれば、その組み合わせによって自然にキャラクター造形ができるようになる(のでは?)
と、信じたいものだな。
ラノベっぽいもの書きたいなあ(と5年くらい言い続けてる)。

神話的構造をいかにして使うか ピーター・ジャクソン『ブレインデッド』

ゾンビ映画を終わらせた、と言われることもある『ブレインデッド』についてある面から語ろうと思う。
そのために、映画をオチまで語ってしまうことになる。ネタバレを避けたい人は残念だが、ここで回り右する必要がある。
ただし、物語上重要な点への言及は避けているし、ここで語られている程度のことを知ったところで、この映画の面白さはほとんど減らない。
というか血と内臓の出る映画が好きなら、2度3度と見るべき作品だということだけは、まず言っておこうと思う。
ブレインデッド [DVD]
ティモシー・バルム
パイオニアLDC
2002-02-22

冒頭、ピーター・ジャクソン本人が演じる男が、スカル島で原住民から逃げるシーンから始まる。
もちろん『キングコング』に出てくるスカル島のことであろう。ピーター・ジャクソンは自分でリメイクしたときにわざわざ原作ではカットされてしまったシーンまで再現した。それくらい彼は『キングコング』が好きなのだ。
そこから「ラット・モンキー」というネズミと猿の混ざったような生き物がニュージーランドに持ち込まれる。それが悲劇の始まりだ。
そんな折、母親の影響下から離れられない冴えない男ライオネルは、雑貨屋の娘パキータと運命的出会いをする。この出会いは占い師であるパキータの祖母によって占われ、その先には恐ろしい死の影があったものの、それを乗り越えれば二人は幸せなカップルになるはずなのだった。
予言で物語が始まる。2000年以上のギリシャなどでは非常に流行った形式だが、最近ではそれほど見かけるわけではないやり方である。
祖母は二人を守るためのお守りを授ける。月と十字を組み合わせたネックレス。
動物園でのデートまで付いて来た母親はラット・モンキーに噛まれてしまう。その日から母親の体はドロドロと崩れていき、死んでしまう。
ところが母親は死んだまま蘇り、生きるものの血を求めて彷徨い始め、女性看護師を殺してしまう。
女性看護師も生ける死体となり、ライオネルは二人を地下室に隠す。
母親は結局抜け出して見つかってしまい、墓地に埋められるのだが、もちろんライオネルは放っておけば彼女がまた墓地から這い出して問題を起こすことを知っている。そこで先んじて掘り返そうとするのだが、そこを不良グループに見つかって、リンチにあう。
そんな時に母親が地面の下から出て来て不良グループを惨殺、カンフー神父が出て来てゾンビどもを蹴散らすも、神父も結局ゾンビになる。
ライオネルはそれらを全部地下室に隠さなくてはいけなくなる。ゾンビたちにご飯をやって大人しくさせようとするライオネル。女性看護師のゾンビと神父のゾンビは恋に落ちてゾンビの赤ん坊を産む。ライオネルはこのゾンビ赤ちゃんまで面倒を見なくてはいけない。
そこへ遺産を狙う主人公のおじさんが現れて、地下に死体を隠していることに気づいてしまう(ゾンビだとは気づいていない)。そこで秘密をバラして欲しくなければ、遺産を半々としようや、と主人公と話し合って、地下にゾンビの眠る館で派手なパーティを始めてしまう。
ライオネルはパキータに言われて泣く泣くゾンビどもに毒を飲まして殺し切ろうとする。しかしなんとその薬は動物用興奮剤だったのだ。
こうしてゾンビたちは大暴れ。パーティの客は全員ゾンビになってしまう。 ライオネルはパキータを守るためにゾンビをバッタバッタとなぎ倒す。
そんな戦いの中でライオネルは自分を悩ますある記憶の謎、母親が自分にずっと嘘をついていたことに気づく。
ゾンビを全員倒した。しかしまだ母が残っている。そう思った瞬間、床を破壊して巨大なゾンビが姿を現す。巨大な乳房と膨らんだ腹と尻を持つ怪物、それはライオネルの母親の怪物化した姿だ。
戦いは屋根の上に移る。ライオネルは母親の裂けた腹の中に飲み込まれてしまう。そして母親はパキータまで殺そうとする。
その時、パキータを助けるためにライオネルは母親の腹を突き破って現れる。館と一緒に燃えて行く母親。その傍らでライオネルはパキータを連れて歩き去る。何回も自分を助けてくれたお守りも投げ捨てて。

さて、もしこの映画が好きなら、上の説明について「大切なことを一切語っていないじゃないか」と思うことだろう。
まあ、わざとそうしているので、もう少し待っててくれ。
これだけ細部を取り除いて外枠だけ見せることで分かることもある。それはこの作品の明らかな「神話性」だ。
有名な『千の顔を持つ英雄』と見比べたい人はそうしたらいいと思う。


主人公は母親への従属という苦境から始まって、女を得るために冒険をしなくてはいけない。
予言によってそれが語られ、苦境で主人公を守るはずのマジックアイテムが与えられる。
冒険と言っても、どこかへ旅立つわけではないが、主人公の家である豪華な屋敷自体が中世ヨーロッパ以前的な「世界」を表している。
地下は死の世界だ。
予言にあるように主人公は一度死と対峙しなくてはいけない。そして死を乗り越えることによって恋は成就する。
それは同時に一度死んで、生き返ることによって、主人公がヒーローになることを意味している。
また地下は母の胎内も意味し、主人公が一度母の胎内に戻って、生まれ直すことも意味しているのだろう。
これは世界の様々な地域でイニシエーション(社会への参入儀式、大人になるための儀式)として採用されている考え方で、我々人類がどうしてもそこへ至ってしまう思考の吹き溜まりの一つなのだろうと思う(「普遍的」という言葉の無意味なプラスイメージ少し嫌いなのでこういう言い方に)。
また主人公を束縛しようとし、飲み込んでしまう母親というモチーフは、ユングの言う「呑み込む太母」であろう。ユングは神話や童話などに出てくる「恐ろしい母」のイメージからこのモチーフを元型として取り出した。
私はフロイトにしろユングにしろ精神分析というものは心理学としては破綻しているし、治療理論としても民間医療程度のものだと思っている。しかし、作品の読み解きにとっては、これらの理論の影響を受けて作られた作品がある以上、重要であり続けるだろう。ルネッサンス期の絵を考えるために四体液説が相変わらず重要なことがあることと同じである。
また物語のクライマックスが地下室から屋根の上への上昇で行われていることは重要だ。
バフチーンは中世の世界観は静的で、下層に土があり上層に火があり、そして我々は中間の水と空気の世界に生きているという、階層的な世界観だったと指摘する。その上で、物語における運動は主に上昇と転落という垂直方向によって捉えられていた。
そしてさらに彼は、ルネッサンスにおいて人間を中心とした水平的な世界観が垂直的な世界観に取って代わり、世界は動的な生成変化に富んだものになった、と続けている。
いわゆる人文主義というやつだ。
ところが我々の世界観ってのはそんなに簡単にごっそり変わってしまうものではない。特に「上下の階層で世界を考える」というのはやはり人類の思考の癖のようなもので、後天的に矯正できるものかすら不明だ。
18世紀末から流行した「ゴシック」つまり「中世風」と銘打った物語では怪異が起こる古い館がモチーフとしてよく使われ、地下室や秘密の通路、そしてそびえる塔などが物語に配置される。
それは、水平的になってしまった時代になっていく時代に、上下の階層性を取り戻そうとする運動と見ることもできる。
閉ざされた館で理解不能な殺人事件が怒る推理小説はこの子孫と言える。様々な有名な物語に「見立てる」という行為も、儀式性を高めるだろう。前近代の神話的思考の怪物のような事件を近代科学の申し子を自認する探偵が解決することで悪魔祓いをする、といえば、逆説性が増して面白いかもしれない。
この時、隠された死の世界である地下室と天上へと繋がる塔を備えた館は閉ざされることで、世界の象徴となる。象徴化された世界で儀式的にヒーローを演じたのち、世界は開かれて、ヒーローは本当の世界に旅たっていくのだ。
『ブレインデッド』には隠すことのできない「ゴシック」性が現れている。 館に閉じこもっていた吸血鬼などの夜の怪物を、昼間の街中に解き放ったことがゾンビ映画の一つの革命だとしたら、ゾンビ映画を終わらせたと言われるこの映画の奇妙な後進性は批評性すら持つかもしれない(『死霊のはらわた』や『死霊のしたたり』などもゴシック性を持つ作品だが、『ブレインデッド』ほどではない)。

さて結構語った。
これで『ブレインデッド』の面白さが説明できたであろうか。
いや、全然できてない。
『ブレインデッド』の面白さはこんなことではない。
じゃあ何かと言われたら、血と内臓のシャワー以外にありえない。ひたすら血・血・血! 内臓! 内臓! 内臓! である。
そして人体がゾンビによって、もしくは無情な芝刈り機によってバラバラになり串刺しにされ引きちぎられることの描写に対するアイディアである。
まさに悪趣味の極致だ。
それは徹底的なゴアシーン以外にも現れ、だんだんと崩れていく母親の傷口からピュッピュッと飛び出した膿をおっさんが食べてしまうシーンや、スープの中に崩れ落ちた自分の耳を食べてしまうシーンや、カンフー神父の意味不明な強さや、赤ちゃんゾンビをママさんに混じってお散歩させて(何でそんなことする必要があるのか全くわからんが、まあ面白そうだからやったってだけだろう)で袋に入れた赤ちゃんゾンビを地面や柱にガンガンぶつけておとなしくさせるシーンや、ゾンビ同士がセックスしてキスが激しすぎて唇が剥がれたるシーンや、墓場に立ち小便した男がゾンビにペニス捕まれ地面にガンガン腰をぶつけるシーンや、いっぺんに串刺しになったゾンビがセックスを始め串がズボズボ動くシーンとか、とにかく好きなシーンを語り始めたら止まらないほど一つ一つのシーンにアイディアが込められている。
特殊撮影は正直全て安っぽい。一つもリアルではない。ラットモンキーなどわざと違和感のあるストップモーションで行なっている。ギネスに載るほど流された血糊はメープルシロップだそうな。もうグッチョングッチョン。
しかし見ていて楽しい。サム・ライミが『死霊のはらわた』で切り開いた思わず笑っちゃうゴア描写、ホラーなのかコメディなのかよくわからん作品の極限だ。
この作品が面白い理由は、筋が神話的であることではなく、細部である、と私は言いたい。

もちろん、これまでの『ブレインデッド』評はみんなこの細部を褒めている。正しい。
なので私は別に「今までの『ブレインデッド』評は間違っている」という主張がしたくてこの評論を書きたかったわけではない。
ここまで来てこんなことを書くのは卑怯かもしれないが、実はこの評論の目的は『ブレインデッド』評ではないのだ。
『ブレインデッド』をわざと(私からみたら)間違った仕方で評論することで、「こういう風にも語れる」ということを説明するとともに、「こういう風に語ることで、面白さの根源に触れた気になっちゃう人っているよね(そして自分もそういう気になっちゃうこともあるよね)」ということが言いたかったのだ。
ちなみに主な批判対象としては例えば高山宏なんかが挙げられる。

もちろん『ブレインデッド』において神話的構造が何の役割も果たしていない、とは言わない。
良い背景になっていると思う。
この映画を見るにあたって、我々はストーリー上の「どうしてそうなるのか」をあまり気にせずに見ることができる。だから細部を見ることに集中して大笑いしたりびっくりしたりできるのだ。
これがうまくいかないこともある。
『スターウォーズ』はepisode4〜6の3部作なんかは神話的構造を入れることで、ストーリーを気にせず楽しめるようになっているが、『地獄の黙示録』は神話的構造があやふやになって、印象に残る断片の積み重ね以上の印象を受けづらくなっているように思える。「何でそうなるんだっけ?」が見ていて脳裏にチラつかざるを得ず、細部に集中しづらい。細部もものすごく面白いってわけじゃないし。
これは『スターウォーズ』が細部を描くことに集中した映画であるのに対して、『地獄の黙示録』は細部ではなく神話を正面切って描こうとしてしまったことにもよるのだろう。
我々は近代人なので、神話的世界観に全面的に生きることはとても難しく、神話を真正面から描こうとした作品は、言われているほどエンタメにはならない。
1960年代にディレイニーの『アインシュタイン交点』など神話的SFをいくつか書いたが、どれも「神話とは何かを考える作品に神話的構造が入っている」と言う「メタ神話」とでも呼ぶべき作品で、近代的自我の内省が強く現れ、とても神話とは言えず、多くの人にとって読みやすいものかどうかも不明だ。
神話的な作品としてあげられることもあるラテンアメリカ文学の諸作品も、神話というには万人受けする作品にはなっていない。
近代において本当の意味で神話的作品を書いたのはチュツオーラくらいだと思うが、あの作品も、近代人全員に受け入れられるものではないだろう。
神話的構造を入れれば作品ができるとか、作品が受けるとかいうのは、一体なんの根拠から言っているんだろう。そういう人はまず『地獄の黙示録』をちゃんと見て、失敗の理由を(撮影が難航したとか言う舞台裏の理由以外に)ちゃんと考えるべきだと思う。
もちろん『スターウォーズ』が(そのサーガの一部において)うまく行ってて、『地獄の黙示録』はうまく行っていない理由を「神話的構造を入れることがうまく行っていないから」と言う理由にして、神話的構造を入れれば面白くなると言う意見を守ろうとすることもできる。
しかし芸術作品というものは概ね非常に複雑であるので全体の大枠と細部を分離することはできない。大枠だけ決めて細部だけ埋めていく、なんて単純な作り方はできないのだ。細部を決めていく段階で、それはどうしても大枠に影響を与えてしまう。
神話的構造を使えば作品ができるなんて適当なことを言うが、全体の構造を知っていたって細部は埋められないし、埋めようとすれば神話的構造があやふやになったり歪んだりすることも多い。そこを神話的構造を崩さずうまく細部が決めれるなら、おそらくその人にとって神話的構造は必要不可欠なものではとっくになくなってる気もする。
ことほど左様に、小説を要素に分解したり構造を抽出したりして、どうやって書けばいいかを考えたり、なぜ面白いかを語ったりするのは難しいのだ。
ここでの一応の結論としては「神話的構造は、細部を描くことが目的の作品において、背景として物語として使えるなら便利だね」くらいのものだ。
例えば「主人公の成長を描きたい」という人がいたとして、そこに神話的構造がうまく当てはまるとは限らないぞ(挫折して復活する筋を「神話」と言って言い張れないこともないが、ちゃんと成長させたいなら挫折の前にどれだけの積み重ねをするかの方が大切。例えば『ブレインデッド』は神話的には生まれ変わって大人になってるかもしれないが、成長が描かれているわけでは決してない)。だったら、神話の様々な物語類型を覚えるより他に色々考えることがあると思う。

もちろんある種の似た構造の物語が連綿と語られ続けている歴史は実際にあるし、ある種のモチーフが少しずつ姿を変えながら存続していることも確かだ。
その伝統を様々な作品を横断的に語ることで浮かび上がらせるのはとても面白いし、作品に対して多くのことを教えてくれる。
実際今回も、この文章を書くことによって、この映画の強いゴシック性などが発見されたりした。
その他にも。「愛の庭」や「月の言語」などのモチーフが昔から語られ続けて、今に繋がっていることを発見することはとても面白いし、自分もそのモチーフを使ってみたいと思う。
しかし、それは作品の面白さを説明するにはとても迂遠な方法だということも理解しなくてはいけない。広く浅いのだ。作品が作られた環境を少しでも明らかにしているだけでかなり意味はあるが、満足すべきほどではない。
例えば高山宏なんかはこういう雑な語りを始終する。
『勝手に改蔵』が文学におけるパラドックス愛好の歴史を引き継いでいると主張して、何を説明したことになるのか私には全くわからん。
『フィフス・エレメント』が薔薇十字がどうのこうのと言ってたらしいが、あんなもの「第五元素」じゃなくて「ヒョンヒョロ」でも何の違いもないのに何を言っているやら。
インターネット以前なら、その作品が作られた影響関係をそこから類推することもできたであろうが、今はそんな「厨二」なモチーフは表面的にはいくらでも調べられる。そしてみんな表面的に作品に使う。それが作品の面白さに強く作用しているわけではない。
高山宏の物言いはまるで「伝統に接続しているからこの作品は偉い」と面白さを伝統で正当化しているみたいに見えるが、面白さは伝統で正当化する必要などない。もし伝統で説明できるならもちろんすごく嬉しいだろう。しかし上の例はどちらも伝統で面白さが説明できる例ではない。
さらに伝統にこだわると、伝統のさらに向こう側にあるものを見失うことにもなりかねない。先ほど、クライマックスの上下運動の話をしたが、あれはそもそも神話とかゴシックとは別に語ることも可能ではないかと思っている。
中世的な怪しい世界観と何の関係もなく、上下運動は物語的快感をもたらすからだ。
クライマックスにおいて塔に登っていく作品は多い。『ルパン三世 カリオストロの城』でもいいし、それの元ネタであろう東映動画の『長靴をはいた猫』 でもいい。クライマックスは戦いながら塔に登っていき、そして最後は塔から落下する。塔が崩れてくれるともっといい(ちなみに『カリオストロ』では死の世界である地下も出てくるからますますいい)。『ブレインデッド』ではあっさりだった上昇運動がこれでもかと描かれて、映像的快感に満ち満ちている。
これは別に積極的に世界の縮図としての館を志向しているわけではないし、中世的世界観を志向しているわけでもない。そこにあるのは単に上昇と落下のもたらす映像的快感だけだ。最後の破壊によるカタルシスも同様だ。
『長靴をはいた猫』には「試練を乗り越えて大人になる」というイニシエーション的モチーフがあるが、『カリオストロの城』にはそれすらない。
ここで言いたいことは、中世以来の世界観よりも始原的な我々の感覚のようなものがあるのかもしれないのであって、別に中世以来の伝統とかゴシックとかの理由で、宮崎駿はこのモチーフを選んだとは必ずしも言えないかもしれない、という話だ。
ただ「似た作品がたくさんある」というだけでなく、「それに何の意味があるのか」を問わないといけない。もし影響関係や伝播の事実が確かめられるなら、なぜその時代それらの人物にそのモチーフや構造が受容されたのかを考えなくちゃいけないし、もし影響関係や伝播の事実がなければ、そこには人類共通のある種の考え方の癖のようなものがあるのかもしれない。心理学等の学問と協力すれば面白いことがわかるかもしれない。
「神話的構造を持つ作品がたくさんある」なんて浅い議論は、そのままでは大した意味を持たず、個別の作品の深い議論をすると結局面白さの理由にはほとんど繋がらなかったりするが、より広い視野を持ち、どこかで深い議論(それは作品個別に関するそれとは限らない)につなげていく意識を持ち続ければ、何か鉱脈を発見することも可能かもしれない。
 
以前はもっと派手な結論を言って終わりにしていた覚えがあるのだが、最近「わからん。何もわからん」とか「難しい難しい」とかばかり言ってる気がする。
とりあえず、小さなものとはいえ実践的な結論を一つ出せたことと、「きっとここにはまだまだ面白い謎があるはずだ」と「ここ掘れワンワン」のポチみたいな行為をしたことで満足し、筆を置くことにする。 

三か月ほど無職でした

7月から再就職が決まりましたけど、三か月ほど無職でした。
その間小説書いたりアプリ作ってたりしたわけですけど、なんというか仕事してた頃と比べて趣味の方の生産スピードが上がった実感はあまりありませんでした。
それはもちろん前の仕事がそんなに忙しくなかった、というのが大きいと思います。仕事をしながら普通に趣味はしてた。
多分その時に趣味に当ててた時間が普通にちょうどよい時間だった、ということなのでしょう。
それ以上の時間を当てても、成果物が増えるわけではない。
これが単純作業だったら時間を掛ければその分成果物が増えるのが普通なのでしょうが、知能労働ではそうもいかない、という点が実感できたのはちょっと面白かったです。
今思うと無職の間にもうちょっと旅行しておけばよかったな。でも貯金が減っていくの正直不安だったので。
予想では半年くらい無職やってるつもりだったんだけどな。「ちゃんと仕事探してまっせえ」的な感じで面接は受けに行ってたけど、空手とか小説とか変なアプリとかそんなことばっかり書いてある履歴書持って、夢みたいなことばかり喋ってたら、話は盛り上がるんだけど、毎回「今回は見送り」みたいな感じで、そりゃそうだろうな、と思ってた。
まさか就職できるとは……
ちなみにこれからやる仕事もよくわからん仕事なんで、面白そうな話ができて、守秘義務とかに違反しなさそうだったら、またブログやツイッターで書こうかと思ってます。
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