けんさく。

けんさく。が、いろいろ趣味のことをやるページです。

Facebookって何をすればいいんだろうか

6月から空手教室を再開するにあたって、Facebookで宣伝ページでも作ろうかと思っている。
以前なんかで作らなくちゃいけなくてFacebookのページは作ってあるのだが、特に使い道もないのでずっとほったらかしになっていた。
どうもFacebookの地元密着な感じが性に合わなかったようなのだが、空手教室の宣伝なら地元密着な感じが最適である。Twitterで地元のことを宣伝しても、地元の人が見ていない。
しかし、Twitterとかに比べると、異様に設定項目が多い。ううむ、よくわからんぞ。
みんなこんな面倒なことをやっているのだろうか? react nativeとかFacebookの技術自体は割と好きだったりするのだが、Facebook自体はなぜこんなにも体が拒否するのだろうか。
探究の日々は続く

足の踏み場

気付いたら足の踏み場が部屋のどこにもなくなっていた。
もう少し早く気づいていられれば良かったかもしれないが、私がそれに気付いたのは足を踏み下ろそうとしたその瞬間だった。
しかし、足の踏み場がなければ足を踏み下ろすことはできない。これは真上に大量の小石を投げたらその直後に大変なことになることくらいに当たり前な話である。
私の両足は結局どこにも着地点を見出せぬまま宙に浮かんだままだ。
これではどうしようもない。その場にいることも、移動することも不可能だ。ちょっとした板挟みだ。
椅子にでも座っていれば人心地もつけたかもしれない。しかし、椅子は部屋の反対側であり、今や世界の反対側くらい遠く感じられる。
この状態で次の一手、いや次の一足を考えないと言えないのだ。一足飛びの思考は禁物だ。地に足のついた思考こそ今必要なものだ。
私は懸命に思い出す。足の踏み場を最後に見たのは一体どこだったか。
どこかの引き出しに入れてそのままだろうか。ポケットに入れたまま洗濯でもしてしまったのであろうか。私は実際この手のミスを始終おかしてばかりだ。
家の中にあってくれれば幾分ましな方で、もし外で落としてしまっていては万事休すだ。
まだ足の踏み場があったときにしっかり部屋の片付けをしておけば良かった。そうすれば足の踏み場を確保し続けることができたであろう。足の踏み場がなくなってしまうと部屋の掃除すら不可能になる。これは実際ちょっとした罠だ。世界はこの手の罠で一杯であり、不親切極まりないことに誰もそのことを教えてくれない。
結局引き出しにしても洗濯機にしても、足の踏み場がなければ確認に行けない。つまり足の踏み場をどこで失えたかを確認することは、足の踏み場を確保したあとにしなくては行けない、ということだ。人間は頭でっかちなのでどうしても確認を行動より前に持っていこうとしたがる悪い癖がある。しかしまずは行動なのだ。
というわけで私は特に何の計画もなく足の踏み場を探して旅に出たのだった。
バラナシの混沌とした雑踏に佇む波羅門と、永遠に続く輪廻や小宇宙なる自我と大宇宙との合一について語り合った。彼はもう何十年とそこに立ち続けて一度も足を上げていないという。
ブエノスアイレスの図書館で盲目の図書館長と、この世に一冊だけ存在する自分のためだけの自分だけが読める本や宇宙全てを包含する終わりも始まりもない本について語り合った。彼は自分が移動するのではなく世界が自分の周囲を移動すると主張して憚らなかった。
結局どこにも足の踏み場はなかった。私の足はどこでも宙ぶらりんのままだった。夜空を見上げていると、どうしようもない空っぽ感が胸に満ち溢れた。遠い遠い宇宙のどこかの惑星には、足の踏み場があるのだろうか。それともこの膨張し続ける宇宙のどこにも足の踏み場はないのだろうか。足の踏み場もないまま、この宇宙はどこまでも広がって死ぬのか、それともまた収縮に転じて一点に潰れるのか。
何も得られぬまま私の旅は終わろうとしていた。気づけば始まりの場所、部屋の中の、足の踏み場がないと私が気付いた場所だ。
青い鳥は青い鳥を探し始めた場所にいた。しかしここに足の踏み場がないのは確認済みだ。もう探していない場所なんて世界のどこにもない。
私はじっと足の裏を見た。人生について思い悩むときにじっと手のひらを見る人がいるとは聞くが、じっと足の裏を見る人は珍しいのではあるまいか。もう長いこと足の踏み場と触れていないせいで、そこは奇妙に柔らかくなってしまった。
なぜ人はじっと手のひらを見るのか。きっと手相を見ているのだろう。人は意味のない模様に意味を見出す。例えそれが偶然の産物に過ぎないものであろうと、何の道標もないよりはましということなのか。
足の上らにも似たような模様がある。足相というのかどうかは知らないが。もしかして、何かが見えてくるだろうか。そう思ってその模様を目で追いかけていたとき、何かが心の中を走り抜けた。何か、思いつきの種のようなものが。
そう、まだ探していない場所があったのだ。青い鳥と一緒だ。それはずっとここにあったのだ。
それは足の裏だった。
足の踏み場がなければ足はずっと宙に浮いたままであり、足の裏はどこにも接していない。
そしてそここそが足の踏み場なのだ。
ここで気をつけなければいけないのが、足の裏同士を合わせてもダメだということだ。
右足で左の足の裏を踏めば、右の足の裏はもう自由ではない。そうすれば左の足の踏み場がなくなってしまう。
左足から初めても同様だ。左足で右の足の裏を踏めば、左の足の裏はもう自由ではない。すると右の足の踏み場がなくなってしまう。
つまりあくまで右の足で右の足の裏を踏んで、左の足で左の足の裏を踏まなくてはいけないのだ。
そんなことが可能なのだろうか、と思うかもしれない。
それは、実は数学が可能にするのだ。
『ウルトラマンA』23話でTACが開発したマシンが「メビウスの輪」を応用して異次元へと向かったことを覚えておいでの方も多いであろう。
要はそういうことなのだ。
足の裏を剥がして代わりにメビウスの輪を貼り付けることにより、私は足の裏で足の裏自身を踏むことを可能にした(数学が多少できる人はメビウスの輪の境界が円と同相であることを付言すれば納得してくれることだろうと思う)。
このようにメビウスの話を曲面に付け加えたものを数学ではクロスキャップという。トポロジカルには私は、ドーナツのようなトーラスにクロスキャップを二つ付け加えた向きつけ不可能局面になったわけだ。
これで、私の部屋には足の踏み場は相変わらずないが、私には足の踏み場はあることになった。これで万事解決である。
完全に満足して、今日も私は部屋の空中に浮き続けているのである。

給料未払いの件で労基署に行った話

そういえば、未払い賃金の件で事情聴取を受けに労基署に行ってきた。超面白かったし、行ったことない人ももしかしたら多いのかもしれないので、備忘録として書いておこう。
どういうことかというと、前の会社が潰れたんで、給料の一部が貰えてない。それが限度額を超えると、国の制度で税金から八割保証される。その話をとある大学院生にしたら、世間知らずの大学院生らしく「ぼろ儲けじゃん、嘘の会社作って潰せばいいじゃん」と言い始めたが、無論そんな簡単な話じゃない。
実態もないのにこの制度を悪用すれば、倍の金額を国に収めなくてはいけなくなり、しかも詐欺罪に問われる。そしてもちろん、ちゃんとした審査がある。その審査のための事情聴取が面白かった。
例えば、僕がどこで働いていたのか、電話番号は何か、会社の場所はどこか、電話番号は何か。
この書類は見覚えあるか、どこで手渡されたものか、など一見給料の未払いと関係が薄そうな話を徹底的に聞いて、聴取書に書く。
しかも、
私は、2019年11月より
 株式会社ぺあのしすてむ
 住所 〒470-0214 愛知県みよし市明知町平成24番地
 電話 0561-32-8087
で働き始め
みたいな別行立て形式で書くのだ。
そのウェイトの置き方が「なるほど、これを複数人から聞いて事実関係に矛盾がないかを確かめて、事業の実在性を確認してるのか!」って思えてすごく面白かった(本当にそうなのかは知らん)。 そしてもう一つ面白かった質問は「社長は愛知県の最低賃金が○○円なのを知っていたでしょうか?」って質問である。
意図が分からなくて「あの性格なら知ってると思いますけど」って答えたら、その後給料の金額の話で「給与明細ではこれだけ払うことになってますけど、払われていませんね。愛知県の最低賃金ではこれだけ払わなくてはいけないのに、払われていませんね」と一円も貰ってないんだから当たり前なことを聞き始める。
そこまで聞かれてようやく、
(そうか、社長が「最低賃金を知りながらそれを払っていない」ということを確認してるのか!)と気づいた。そして(あの答えでよかったのか?)と後から少し思ったのが印象的だった。
あまり意識してなかったが、社長は払わなくてはいけない給料を払っていないので、罪に問われる可能性があるのだ。最後の方で「社長を罪に問う意思はあるか?」とも聞かれた。実際問題恩義を感じてるくらいなので、はっきり「ない」と答えた。

小説でもなんでもいいけど、なんらかの物語芸術をやってると、この手のイベントが興味深くて仕方がない。それぞれの業界の慣習にはその業界なりの意味があり、その業界なりの合理性を持つ。それが垣間見えたのが、とても面白かった。

あと、皆さんの税金から40万強ほどもらうので、よろしくお願いします。助かります。
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