けんさく。

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東方の三博士(14)

去年の続き

空に打ち上げられたバダダハリダとホルミスダスとバルタザールの3人は下を見て驚きます。
なんど今まで3人がいたのは大きな鯨の背中に生えた森だったのです。
そして、バダダハリダが地団駄で掘り進めた穴、バルタザールとホルミスダスが落ちていた穴は、鯨の鼻の穴だったのです。
バダダハリダの地団駄で鯨の鼻がむずむずして大きなくしゃみが起こって三人は打ち上げられたのでしょう。
「いや違う、時間が巻き戻ったから打ちあがったのだ」
それを聞いた3人は口々に地の文に文句を言います。
その時、ホルミスダスは言いました。
「あの森の中から出られなかった理由がわかったぞ。みんなで移動しても、その下にある鯨も移動してしまうんだ。右へ行ったら鯨も右へ動く。左へ行ったら鯨も左へ動く。そうしたら、動いてないのと一緒じゃないか」
「なるほど、それはわかった」
バルタザールはその言葉に考えます。
「でも、このまま落ちたらまた森の中だ。そしたらまたどこへも行けなくなる。どうしよう」
心配そうなバルタザールにバダダハリダは何かを思いついたように人差し指を立てます。
「そう心配するな。考え方を変えるんだよ」
「考え方?」
「俺たちの旅の目的はなんだ?」
「旅を探すことだっけ? そうだよね? 違ったっけ? どうだっけ?」
「まあ、仮に旅を探すことだとしよう。そうしたら、あの鯨の上に乗っていったって旅はできる」
「どうやって? どこへも行けないのに」
「どこへだって行けるさ。鯨に乗ってな」
その言葉にバルタザールは目を見開きます。
「なるほど確かにそうだ! 僕たちが右へ行けば鯨も右へ行く。僕たちが左へ行けば鯨も左へ行く。そして僕たちがまっすぐ進めば鯨もまっすぐ進む」
バルタザールの言葉にバダダハリダが続けます。
「そう、僕らが動けば鯨も動き、鯨の上に生えている森も動く」
そしてさらにホルミスダスも続きました。
「僕たちは森の中は動けないかもしれないけど、森ごと旅をすればいいだけなんだ」
こうして3人は大きな鯨に乗って深い深い森の中にいながら、鯨と森ごと野を越え山を越えて、いくつもの街を訪れながら旅を続けたのです。
これが彼らの見つけた旅なのでしょうか?

(来年のクリスマスへ続く)





死体で遊べ 『骨』『オオカミの家』

クリストバル・レオンとホアキン・コシーニャの『骨』と『オオカミの家』を見てきた。https://www.imageforum.co.jp/theatre/movies/6510/
(公式サイトがhttpsの証明書のエラー起こしてたので、イメージフォーラムの方のサイトのリンクを貼る)。

どちらも最高だったので、考えたことを書いておく。『骨』についてはネタバレがどうのこうのという作品ではない気もするが、『オオカミの家』についてはオチまで書いてしまうので、ご注意をば。
見てない人は、とりあえず以下の短編を見て、彼らが最高だと分かってくれたら、すぐに映画館に向かえばいいと思う。
『Lucia』

『Luis』



それでは、『骨』と『オオカミの家』の話に入る。
この二つの作品はどちらもdiscovered footage、つまり「発表者とは別の人物が撮影した映像を発見した」という体裁の映像である。『フェイクドキュメンタリー「Q」』や『テレビ放送開始69年 このテープもってないですか?』や『The Backrooms』などの世界的なモキュメンタリーホラーのブームの中でも多用されている手法だ。なぜこの手法がよく使われるようになったかについては、メディアについての不信感の増大とか色々考えられるだろうが、今回は置いておく。
そもそもこの手法自体は映像表現よりも歴史が深く、『ドン・キホーテ』など枚挙に暇がないほどだ。元々は「これは実話なんだぞ」という偽書への権威づけに使われていたようだが、今は「作者(ということになっている人物)をフィクションの中に取り込んでしまう技法」として使われることも多いと思う。つまり「動画の撮影という行為自体が話のテーマに関わってくる」ということだ。
ここで急に告白するのだが、僕は物心ついた頃に『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の洗礼を受け、その後何度も何度も見続けたことから、何を見てもメタフィクションだと思ってしまう癖がついている。
なのでこの話もここからメタフィクションの話になる。
メタフィクションというと、筒井康隆の『脱走と追跡のサンバ』のように、作中で「フィクションとは何か?」と議論するような作品を思い浮かべる人もいるかもしれないが、それほど露骨ではない例も多い。私は勝手に「明示的メタフィクション」と「暗示的メタフィクション」と呼んだりしている。明示的メタフィクションはやもすると鑑賞者を冷めさせる効果を持ったりしてしまうが、暗示的メタフィクションは見ている時は気づかせず、後で「よく考えると、これは作品についての作品なんだ」と気づかせたりできる。私の好きな例だと『リトルウィッチアカデミア』が実はアニメ業界を描いているという監督がインタビューで答えてたりする(敵がピクセル魔獣と言いうおそらく手書きアニメの敵としてのCGを表している魔獣を使役したりする)。
discovered footageは「撮影」自体をテーマに絡めることにより、暗示的メタフィクションの道具になりうる手法である。『フェイクドキュメンタリー「Q」』なども「映像って存在がそもそも怖いよね」という「映像とは何か」を問うメタな作品になっていると私は考えている。「フィクションではない」という「ドキュメンタリー」を模したフィクションである「モキュメンタリー」が「メディアとは何か」を問う力を持つのはとても面白いし、実に自然なことなんだと思う。
ここから『骨』もまたメタフィクションである、という話をしていきたい。
『骨』は工事現場から発見されたフィルムを補修したということになっていて、その年代は1901年で、それが本当なら世界最初のコマ撮りアニメーションということになってしまう(実写部分を含まない世界初のアニメーション作品はおそらくエミール・コールの『ファンタスマゴリー』でこれは1908年、これに影響を受けた世界初のコマ撮りアニメーション作品はラディスラフ・スタレヴィッチの『美しいリュカニダ』でこれが1911年だ)。しかもそれは「死体を使ったコマ撮りアニメーション」という空前絶後なものだとまで言う(ちなみに前述の『美しいリュカニダ』は昆虫の死体を使ったと言われていたりする)。
その映像は、一人の女性が骨に呪術をかけて、二人の男性を呼び出すという降霊術的なものだ。映像の中ではその女性は人形として表現されているが、おそらくその映像の撮影者自身を表しているものと思われる。
つまり、映像の作者自体が作品内に登場しているわけだ。
女性(の人形)が骨に呪術をかけると、骨は動き出し、肉が部分的に復活する。ただ、それらは非常にぎこちない動きしかしないし、骨の繋ぎ方も無茶苦茶である。
このぎこちない動きの不気味さは(アリ・アスターが指摘するように)直ちに、ヤン・シュヴァンクマイエルやブラザーズ・クエイを思い出させる。
作品の中では女性の人形が糸のようなもので、肉片や骨を操っている様が描かれている。
私はこのシーンで「人形が人形使いをしているんだ」と気づいたのだ。
つまり、この作品は「ある種のコマ撮りアニメーションを撮影する様をコマ撮りアニメーションにした作品」と捉えられる。そう捉えれば、この作品は明らかにメタフィクション的要素を持つ。
ここで思い出されるのが、製作者の二人の「映画とは儀式やまじないや呪いのようなものだ」という証言だ(映画パンフレット8ページ)。
それも踏まえるとこの作品は「映画を儀式と捉えている制作者が、儀式としての映画を描いた」とも捉えられる。
ではなぜ死体なのか? これについては(ほぼ単なる感想になってしまうのだが)私としては「そう、そうなんだよ!」と言う強い納得感が実はあるのだ。
私は「ヤン・シュヴァンクマイエルのコマ撮りアニメーションは(性的ではない意味で)死体愛好的だ」とずっと考えていたからだ。
これについて初めて気づいたのが、ブラザーズ・クエイの『ストリート・オブ・クロコダイル』の原作のブルーノ・シュルツの小説『大鰐通り』を読んでいたときだった。ストーリーなんて何にも覚えていないが、とにかく少年時代に小物を集めている描写と、その子供部屋が世界に広がっていく妄想が印象的だったのだ。
私はそれを読んで「これは支配欲だ」と思った。次の瞬間、ヤン・シュヴァンクマイエルの作品の多くが完全に理解できたような気持ちになった。
例えば次の『自然誌(組曲)』(ダゲレオ出版の『シュヴァンクマイエルの不思議な世界』では『自然の歴史(組曲)』とタイトルを誤訳されている)。


友人にこれを見せたら「全く面白くない」と言われて困ったのだが、まあ確かに何が面白いのかわからない面はある。
私が考えるに、ここにあるのは「物を動かすのが楽しい」と言うめちゃくちゃ幼稚な快感である。
これは先ほど私がブルーノ・シュルツの短編を読んでいたときに感じた「子供の支配欲」とほぼ同じものだ。
上記の作品では単純に動かすだけになってしまっているが、例えば傑作『男のゲーム』などでは、シュヴァンクマイエルが、「人の形をした単なる物」に対して暴力的な支配欲を及ぼしている様が見ていて本当に楽しい。


そして、ここでシュヴァンクマイエルによって動かされているものは、ある意味で「死体」なのだと思う。
『自然誌(組曲)』では標本であるし、『男のゲーム』では粘土で作られた人体である。標本は普通の意味で「死体」であるし、粘土で作られた人体は生きている人間には不可能な仕方で乱暴に破壊される。
なぜ死体なのかと言えば、それは生きているものは思ったように動かないからだ。もちろん人体などを使ってコマ撮りアニメーションを作るのは不可能ではないが、それには配慮が必要で、支配を及ぼし切れる存在ではない。
シュヴァンクマイエルは圧政下のチェコスロバキアで、自由な内的生活を確保するためにこのような手法を使った、と言う解釈がある。シュヴァンクマイエルの世界は、彼が支配できる世界をどうにか作ろうとした結果だ、と。だからこそであろうが、彼の世界は(もちろん全てではないが)、どこか呑気で明るく乱暴で幼稚だったりするのだろう。
10年ほど前の私はこの自分の「発見」に狂喜した。「学生たちが映画を撮ろうとするが、完璧主義者の監督が自分の指示に従わない俳優に業をにやしてみんな殺してしまい、死体を使ったコマ撮りアニメーションを撮る」という短編を当時構想していたことを今でも覚えている(結局この作品は描かれることはなかった。ただ、少しズラして『Natural Historie』と言う作品に昇華された)
だから、私は『骨』を見たときに、「その手があったかあ!」と思ってしまったのだ。
「コマ撮りアニメーションが死体愛好的であることを、『死体を使ったコマ撮りアニメーションの撮影』をコマ撮りアニメーションで撮影することによって、撮影する」
こんな完璧なやり方があったのか、と映画館で唸ってしまった。
そして似たことをやっていながら、シュヴァンクマイエルとは全く別の緊張感を出していることにもとても驚いた。
シュヴァンクマイエルにおいて、「コマ撮りアニメーションの支配力」は子供の楽園のような世界を作り出す。それに対してクリストバル・レオンとホアキン・コシーニャの二人の世界において、この支配力は非常に追い詰められた世界における、最後の抵抗のように繰り出される。これは、現在まで続くチリの政治的な不安定性への、シュヴァンクマイエルの場合とはかなり異なる反応と見ることができるだろう(事前知識なしで見るだけでは『骨』の登場人物たちが実はチリの政治史における重要人物だと言うのはよくわからないだろう。この人たちがどんな人物たちなのかは作品の理解にとってかなり重要なので、ぜひパンフレットの新谷和輝氏の解説を読んでほしい)。
『骨』において、主人公の女性が、儀式を行なって死体に影響力を行使したのは(コマ撮りアニメーションを撮影したのは)、単に支配力を行使したいという幼児的な欲望の発散ではなく、彼女に強い圧力をかけている世界をなんとか変えようとしてのことだった。
しかしこう書いてみると、世界を変える手段として、コマ撮りアニメーション(に限らずアートの手法)はなんとも心許ない。
そんな心許なさ、そしてそんな心許ない手段が最後の手段だからこその必死さ、をこの作品は纏うことに成功している。おそらく、discovered footageという手法もまたそこに貢献していると思う。
主人公の女性は、死体を操る側であると同時に、彼女もまた死体なのだ。この映画ははるか以前に撮影された、世界を変えるための祈りでありまじないであるが、残念ながら世界は変わっていない。
軍事政権崩壊後、一時は安定してきたと思われたチリの政治は今も数々の矛盾に苦しんでいるという。

さて、『骨』についてあまりに長く書きすぎたので、『オオカミの家』について語る余力がなくなってきたしまったが、『骨』以上の傑作であるこの作品について全く語らないわけにもいかないので、もう一踏ん張りして書いてみる。
この作品にも「コマ撮りアニメーション=死物への支配力」という図式は当てはめられる。
またその支配力の行使が、社会からの暴力的な圧力(ここではコロニア・ディグニタの強い支配)へのか細い抵抗として行われることも同様である。
彼女は支配から逃げ込んだ小屋の中で、自分を守るために内的世界を小屋に投影する。そこに、どうにか外界から自分を守ることができる、安心できる世界を作ろうとする。ただそれはいつもオオカミの影に怯える不安な世界だ(これと同様の不安がこの二人の作品で「部屋」がモチーフになることが多い理由であろう)。それが、この作品の凄まじい光景だと考えることができる。
しかし、ここで描かれているのは、そのような暴力的な支配から逃げてきたはずの少女が、また他者に対して暴力的な支配を及ぼそうとする「暴力の再生産」の構図でもある。
彼女は匿った二匹の豚を「コマ撮りアニメーションの力」で人間に変える(ところで逃げたのは三匹の豚のはずだが、もう一匹はどこへ行ったのだろう。もしかしたら主人公自身かもしれない)。しかも、最終的には金髪碧眼のドイツ人に変えようとするのである。
これは、コロニア・ディグニタから逃げてきたはずの彼女が、コロニア・ディグニタのナチス的世界観をしっかり取り入れてしまっていることを表している。
そして、支配しようとしたものに反抗された彼女は、最後にはコロニア・ディグニタにドイツ語で助けを求める。そして「私はずっと君の中にいた」と言ってオオカミが彼女の中から現れる。豚にミルクを与える映像に被せられた「お前も育ててやろうか」という声には背筋が凍った。
コマ撮りアニメーションの支配力を暴力的な世界の支配力への抵抗として使っているアーティストの作品と考えると、ここにはやはり「抵抗としてのフィクションもまた暴力なのだ」というメタフィクション的な批評的メッセージが隠れていると見ることができそうである。
我々がアートに求める力の一つが「現状に対するオルタナティブなものへの想像力」だが、それがどれくらい現状から自由なのかはしっかり考える必要があるのだ。
そのような作品が「コロニア・ディグニタの独裁的指導者であるパウル・シェーファーの視点でものを考える」ことから作られた、というのは何重にも捻れていて興味深い。この作品は「支配からはそう簡単に逃げられない」ということを支配の側から描いている。それによって支配の恐ろしさを描いているわけだが、「支配からはそう簡単に逃げられない」というメッセージ自体はどこまでも真面目に取り合わなければいけない、独裁者からの恐ろしい挑戦状なのだ(だからこそパンフレットには臨床心理学者である松田英子氏の「トラウマがある人たちには観てほしくない」という正直な意見も書かれている)。

雑文 「エッチな小説を読ませてもらいま賞」受賞に感謝して

エッチな小説、というものはなんだかとても変で面白い。

試しに永田守弘氏の編纂した『官能小説用語表現辞典』(ちくま文庫) を開いてみると、「乳房」や「尻」の言い換えについて何ページも実例が挙げられている。普通の辞典というのはさまざまな事物について書かれているものだが、この辞典は数少ない事物に対していくつもいくつも言い換えが書かれている。それどころか同編者の『官能小説「絶頂」表現用語用例辞典』は絶頂表現のみを扱って一冊の辞典になっている。
このようなジャンルはなかなかないと思われる。そしてこれは「エッチ」に関する性質でも「小説」に関する性質でもないとも思える。
エッチな漫画やエッチな映像というものも世の中にあるが、あれらはなかなか直接的なものであり、しかも現実にはあり得ないほどに直接的な効果を発明していくことすらある。もちろん、規制などが理由で間接的な表現が発達することもあるが、規制がなくなると直接的な表現の方が主流になるような気がする(ここら辺は私は専門家ではないので印象論であるので、正確性は担保できないが)。
小説にはもちろん一つの物事をさまざまに言い換える技法がある。エッチな小説もその延長線であることは間違いない。しかし、なぜそれがこれほど発達するのだろうか。
エッチな小説を書いたことがある人なら分かってくれるのではないかと期待するが、他のジャンルの小説に比べて、「またこれか」と自分が書いていることについて思うことが非常に多く感じられる。書いてて飽きるのだ。
それはある意味ではSEXというものは大概、理性的に考えればそれほど面白くないものなのかもしれない。
エッチな漫画やエッチな映像はある意味ではその理性をそもそも経由せずに脳に働きかけることができる(これはエッチな漫画やエッチな映像を作ることが簡単であることを意味していない。理性を素通りして脳に直接働きかける作品を作るにも高い技術がいる)。
しかし、文章を読んでいる限り、我々はどうしても言語を通して理性を働かせなくてはいけない。エッチと理性というものの微妙な関係と考え合わせても、なんと不思議なジャンルであろうか(ちなみに『性欲の科学』という本によれば、男性は相手の肉体に興奮しやすい傾向がありエッチな映像を好む傾向があり、女性は相手との関係性に興奮しやすい傾向がありエッチな文章を好む傾向がある、とのことだ。あくまで傾向ではあるが)。

そしてこのことがまさに私がエッチな小説に強い興味を持つ理由であるのだ。

人工知能学者のマーヴィン・ミンスキーが提起した「心の社会」という概念がある。これは人間の心というものは、一枚岩ではなく、幾つものより単純なモジュールが合わさってある種の議会のようなものを作っている、という考え方である。
これにもう少し具体的な数式で色付けしたのがジョージ・エインズリーの「双曲割引理論」で伊藤計劃の『ハーモニー』の元ネタとなった理論である。
それによると、我々の脳内の議会の議員たちは、相当単純な仕組みでできていて、目の前にニンジンをぶら下げるとほとんど我慢できない。食べたら太ると思っていても、目の前にケーキがあると全く我慢できない。
ところが議員一人一人はそんな感じでも、議会全体ではもう少し理性的に働ける。食べたら太ると思っている議員に、健康診断の数値を気にしている議員や、服がキツくなったことを気にしている議員が協力する。
このようなある種の多数決システムによって、脳は目の前の誘惑に打ち勝つことができる。
しかし、通常は一枚岩になっているこの議会は、時に分裂して大混乱に陥ってしまう。
それが我々の心が千々に乱れる理由だ。
私はこのことをジョージ・エインズリーの『誘惑される意思 人はなぜ自滅的行動をするのか』読んだとき、とてもエロいと思った。
自分で自分の行動の理由が説明できる近代的な自我観がガラガラと崩れ去り、心のドロドロした内臓のようなものが見えるのはとてもエロいと思ったのだ。

これは私の個人的な感覚なのだが、「笑い」と「恐怖」と「エッチ」には何らかの関係を感じている。
それはどれも「本来モノとして扱わないことになっている人間をモノとして扱っている」という点である。
モンティ・パイソンで私が好きなギャグに「突入する警官が気をつけした仲間の一人を棒にしてドアを突き破る」というもので、これはまさに人体をモノにしている。また、モンティ・パイソンでピクニック中の人たちの体が次々と破壊されるギャグもあるが、これは笑いとスプラッタの親近性を表している。ちなみに私はスプラッタ映画で人体がアクロバティックに破壊されると笑ってしまうことがある。
これが「笑える」のはこの人体に感情移入がされていないからだが、もし感情移入していたらこれは「恐怖」になるだろう。ただし、笑いにしても恐怖にしても、「モノにする側」と「モノにされる側」には特別な関係は持ち込まれていない。
ここに濃密な関係を持ち込むと、エッチが立ち上がる。
エッチとは、自分の体が自分のコントロールを離れて、自分以外の存在によって影響される「モノ」にされることであるし、相手の体を自分のコントロール下において「モノ」にすることである。普段は意識しない自分の人体が自分のコントロールを離れることによって意識されて、困惑せざるを得なくなるのは、このうえなくエッチである。
これは、先ほども書いた「自分が自分のコントロールしている」という近代的自我感と相性が良くなく、人権との相性もあまり良くない(笑いも恐怖も素朴に扱えば容易に人権と抵触する)。
もちろん「だから人権をやめよう」という話にはならないし、むしろ「だから人権とエッチの関係については非常に慎重に考えなくてはいけない」という話なのだが、エッチというものには、とても我々に近いものでありながら、どこかうまく理屈に収まらない部分がある。

私にとって「エッチな小説」はエッチのそういう部分を描くのにとても適していると思えて、とても面白いのだ。
最終的には理性をなくしたいのに、その過程でどうしても理性を通過せざるを得ないジャンルを選択するのはなぜか。理性を迂回することができるジャンルも存在するのに。
それは単に理性をなくしたいのではなく、理性が無化されていく経過を楽しみたいからである。脳の議会が揺さぶられ分裂し、心が惑乱する様を見たいのだ。
そのために私は、エッチな描写と理性を刺激する描写を混ぜたくなる。もっと混乱してほしい。混乱し続けてほしい。
そんなことを考えながらエッチな小説を書いています(普通のエッチな小説も書きます)。

追記:
もう一つ、エッチについて気になっていることは、「エッチなことをほぼエンタメでしか知らない」ということである。
どうも人類という生き物は公衆の場でエッチな話をすることを嫌がるらしい。そしてこれは割と普遍的な傾向であると言われている(だからこそ急にエッチな話をすることを「あなたにこんな話をするくらいあなたのことを親密に考えています」というシグナルに使って私を驚かせる人もいたりする)。
その結果、我々はエッチを自分のものとポルノでしか知らない(もちろん科学的な研究やアンケート調査などもされているが、その正確性は正直謎だと思っている)。
例えば我々はエッチ以外の人生の多くの部分を、自分のものだけでなく、家族や友人のものでもある程度知っている。だから人生について複数のサンプルから語れる。面白くない人生を見たければ、幾つでも見つかる。
しかし、世の中で見つかるエッチというものは、どうもある程度面白さを追求したものしかない。
これは、性的少数者の問題なんかでも色々と困った問題を提起している気がする(問題を感じているからこそ自分の性的生活について語らなくてはいけない立場になったにも関わらず、性的生活について語ることで反感を抱かれたり、興味本位の視線に晒されたりする。単にちゃんとそこにいる人間に対して然るべき敬意を払えという話でしかないのに、いつも話がよくわからない横道に逸れる)。
問題解決としては「我々人類が性的な話題について話すことに関する生得的なバイアスを乗り越える」なのだろうが、そんなことが我々が生きている間に実現するわけはない。
果たして、我々はこんな偏ったサンプルでエッチを語れるのか?
わからん……


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