――気をつけたまえ。この国は今、罠(わな)だらけだからな――


『流水プールデート』


なんでこの年にもなってこんなところに来なくてはいけないのか。屋内型複合温水プールのプールサイドに設置されたデッキチェアに腰かけてそう独りごちていると、遅れて更衣室から出てきた彼女が律儀に準備体操しながら
「いやね、あたしもね、行ってるスポーツクラブのプールにはときどき入ってるけど、こういうプールにはしばらく来てなかったから、久しぶりに来てみようというか」
「女友達とかと来てキャッキャウフフしてりゃいいじゃない」
「そんな友達いないし」
「じゃ一人で来いよ」
「わびしいじゃん」
「なんで俺が……」
「だってあんたいつも暇そうだし」
「暇じゃねえよ」
「えっ、あれって暇じゃなかったの?」
私は世間の無理解に思わずため息をついた。押し入れの中にこもって宇宙の行く末に思いをはせていたら突然携帯がなり、反論をする暇もあらばこそ待ち合わせの約束をさせられ久しぶりの陽光にくしゃみを二回、場所に着いたら水着とタオルを買わされ更衣室に放り込まれ、しぶしぶ着替えた後またしばらく待たされて、ようやく出てきたと思ったらこれだ。
私は私の日課が人類の未来にとってどれだけ意味深い物かをこの女という愚かなる生き物に説明することをあっさりとあきらめてのっそりと立ち上がると、どのプールに入ろうか少しの間思案した。ニューヨークの下水道に潜む鰐のような生白い体をあまり白日の下にさらし続けると不安になるのだ。間抜けなベニ―・プロフェインに間違えて撃たれそうだ。
「どこ行くの?」
「あっちの競泳プールで新しい泳ぎ方を発明しに」
「また?」
「またって!? 君とプールに来たのは初めてだし、新しい泳ぎを発明しようとするのも生まれて初めてだよ!」
「なんかあんたどこにいても新しいことをやろうとしているような気がして。図書館で新しい本の読み方を考えたり、喫茶店で新しいパフェを考えたり」
「ああ、そして必ず怒られたり追い出されたりするわな」
「その、何か新しいことをする、って考え方がもう古いってことは考えたりしないの?」
「むずしいことをいうね」
「こういうところに来たら、とりあえず流れるプールとか波のプールとか俗っぽいことをしなくちゃ駄目なの。分かる? この論理」
「心底俗人なのでよく分かりません」
などと言い合っているうちに流れに流され流れるプールの流れに流される事になる。本気で泳ぐには適さない構造になっているので仕方なくぷかぷか浮くしかない。
「何というか、今となってはどうやってこの設備を楽しめばいいのか思い出す事も困難だな」
「難しいこと考えるから駄目なんでしょ。あんたも私もこんなの見納めになるかもしれないんだから、無理やりにでも楽しんだら」
「見納め、て……近々死ぬ予定でもあるんかい」
「死ぬんだったらとっくの昔に死んでる。ていうかそういう縁起の悪いこと言わないの。そうじゃなくて、生きていたって二度とこういう類いの場所に来ないかもしんないわけでしょ」
「俺はそうかもね。君は結婚でもして子どもでも作れば嫌でもこういう場所に来なくちゃいけなくなるかも。それでああいうプールに足を浸して、ああやって他のお母さんと井戸端会議。いやそれとも井戸の中か?」
と幼児用の浅い、そしてなぜか床面の色がそこだけ他より明るい青になっている、三日月形の水溜りを指さして指摘する。
「想像することを脳が拒否する部類の事物ね。結婚する気ないし」
ライトブルーの幼児用プールの反対側に目をやると、そこそこの大きさのダークブルーの滑り台が屹立する。愚かな大衆が悲鳴を上げながら、喜んでその挽肉機に身を投じていく。
「これを何週かしたら、次はウォータースライダーね」
「ええ!? 恥ずかしくない?」
「何が?」
「いや、分からんなら別にいい」
確かにここまで来てみてあれこれ文句を垂れても仕方がない。私なりの楽しみ方を見つけるしかない。というわけで、物でも考えることにした。時は夏休みなどもう悠久の時の流れのはるか彼方に消え去り、天高く馬肥ゆる秋たけなわの平日昼前。さすがに混んではいないが、ジジババを中心に、就学前の幼児を連れたヤンママやその他様々な年齢層の自由人たちでそこそこ人もいる。しかし手足が伸ばせるだけの空間があればどこでも瞑想にふけることが出来るから大丈夫だ。いきなり天啓の如く般若心経の量子力学における相補性による解釈や高次元でのラングランズ・プログラムや巨大基数や超ひも理論等の問題におけるブレイクスル―が訪れて、思わず手足を振り回しても誰かに怪我を負わせる心配もないし、監視員に見とがめられても、足がつったかと思ったがそんなことはなかったぜ、と言い訳できる。大発見に興奮して思わず勃起してしまっても息を止めて二次体の素イデアルを数えればよい。
「というわけで。俺はこれから大層難しいことを考えるから話しかけないように」
「ハイハイ」
そういうわけで、私はできるだけ人ごみから離れて、目の前に山積する様々な重要事物、例えば、こういうレジャー施設であの競泳水着(恐らくさっき言ってたスポーツクラブで使っている物なのだろう)は少し色気がないのではなかろうかとか、しかしそれでもやはり女性の体は二十歳を越えて少し煮崩れてきてからからだ、などということを考えていたのだが、すると急に何か変だという感じが頭皮の奥からこみ上げてきた。こう見えても私は自分の違和感センサーには自信を持っている。シンプソンズの、ホーマーが市長のボディガードをする話で、『地球の静止する日』に出てくるゴートの登場するシーンの背景がなぜか『世紀の謎 空飛ぶ円盤地球に襲撃す』であることを見破ったこともある。そのセンサーが私に囁くのだ、何かがおかしい、と。
私は流水の噴出口の前で流されないように耐えていた彼女を見つけだすと、手を引いて水から上がらせた。
「どうしたの?」
と少し目を丸くして訊いてくる。違和感の正体を見極めようとしながら、「いや、別に大したことじゃないんだが」、と言葉を濁すと、
「なんだ、またうんこでも流れてたのかと思った」
と彼女が言う。
「いや、別に俺の勘違いならそれでいいんだけどて、うんこ? また? 前にうんこが流れてたことがあんの?」
「ここの開館の時にね。まだあたし小学生だったけどさ。家の近くにできた初めてのでかいプールだったから、列に並んで入って泳いでたら、ぷかぷか浮いてたの。もちろん犯人なんか分からないよ。そんで係員が来て先に網のついた長い棒で掬って、その後しばらくプールサイドで待ってたら水の入れ替えが終わったからもう入っていいよって言われて、最初は躊躇してたんだけど、だんだん他の人が入っていったから、まあいいかと思ってあたしも入ったんだけどさ。今考えると、ほんとにあの程度の処置でいいのかなと。まあ、でも、よく考えるとたくさんの人が入るプールなんて、中で何やっているか分かんないし、どんな病気の人がいるかも知ったこっちゃないけどさ」
知ったこっちゃない、の使い方が間違っているような気がするが、
「でも、だからこそ、これだけ大量の塩素を溶かして殺菌しているわけだろ」
「そのせいで変な臭いするけどね」
「加爾基 精液 栗ノ花だね」
「なにそれ?」
「林檎のアルバムだよ。カルキも栗の花も、精液の匂いと似ている物の代表だろ」
「そっか。どれもあんまり真面目に嗅いだ事がなかったから」
次嗅ぐ機会があったら注意しなさいとでも言えばいいのか。
「じゃあ、イカ臭い、ってのはなんなの?」
「汗臭さが汗の臭いではないように、イカ臭さも精液自体の臭いではなく、雑菌の出す物質の臭いだ」
「そうなんだ。でも、あんまりプールサイドでする話じゃないよね」
「先にうんこの話をし始めたのは君だろ。ってそうじゃなくて、ああ、俺はここで一体何をしていたんだっけ」
頭を掻き毟って雲脂を流れに落とす。その雲脂のふわふわと流れていくのを目で追い、人の世の無常に思いをはせ、人生はシャボン玉さ、と鴨長明の言葉を身に染み込ませていると、ふいに違和感の正体に気付く。分かってしまえば簡単なことだった。
「この流水プールは変だ」
「何が?」
「普通の流水プールは緩やかに曲がって、楕円形か陸上トラックのような形になっている筈だ」
「ま、普通そうね」
「だが見よ、このプールを。このプールはまるで白道の如くまっすぐに伸びているではないか」
「あ、ほんとだ」
せっかく芝居がけたのに拍子抜けだ。もっとMMRみたいなノリの方が乗りやすいであろうか。今後の課題を整理しながら私は、一仕事を終えた満足感を体中に湛えて、次はあの泡の出るお風呂にでも入るかな、と考えていると、横から横やりが入る。
「確かに変だよね。この建物そんなに大きくないのに、どうやったってこんな長い物を収納できない。大体これ、どっから始まって、どこまで行くの?」
私は驚いた。さすがは私の見込んだ女だけのことはある。さすがの私もその発想はなかった。確かにそれは一考に値する疑問だ。
「ローマにあるボロメオ・コルミの柱廊と同じようなものかもしれないな」
と私は意見を述べた。何それ? という顔を彼女がしたので、私はローマにある後期ルネサンスに作られたパラノーヴァ宮殿にある、40×40メートルほどしかない建物に、明らかに目測100メートル以上(正確な測量をした者はいない)の通廊が収められた奇跡の建築物について話してやった。すると彼女は眉根を寄せて明らかに疑うような顔をするので、嘘じゃない本当だ、というとますますあやしむ。しかしこれはいつものことだ。この前も、明石の蛸はむちゃむちゃ生きがいいので、昼網にかかったやつが魚屋の生け簀から逃げ出してアーケードを練り歩き、それを捕まえようと魚屋のおっさんが右往左往してもうたいへんな騒ぎなんだと教えてやったら、やはり白眼視された。すると元の青い眼に戻すのにいつも苦労する。ことほどさように、私の本当は彼女の嘘なのだ。
「で、どうやったらそんなことが可能なの」
あきれた顔のまま彼女が訊いてくるので、
「多分、柱や壁全部が、奥に行くにつれ一定の割合で小さくなっているんだ。そうすると遠近法がいわば加速されて、実際よりも奥行きが深く見える。後は、中を通る人間も一緒に小さくなっていく仕組みを作ればいい。ほら、ドラえもんに出てくるガリバートンネルみたいに」
と答えると、彼女はため息をつきながら目頭を揉み解している。心底愛想が尽きた、という風情だ。
「でもそれじゃさ、後ろを振り返ると、遠近法が逆になっちゃって、ものすごく大きな柱が並ぶことにならない?」
「うん、全くその通りだ。今日の君は何だか冴えてるね。後で褒美に角砂糖をやろう」
「いらんですよ。でもそういうことはここでは起こってないよね。それに、それって一方向にしか使えない原理じゃない? こういう両方に伸びているところには……ていうか、だとしたらここはどこ? あたしたち、かなりの距離を流されて泳いだよね。すると、あの更衣室への出入り口は? あの競泳プールや波の出るプールやちっちゃい子用の浅いプール、それにあのウォータースライダーは?」
「あの、泡の出るお風呂も忘れてくれるなよ。あれは、いいものだ」
「もしあの出口から出ていったとしたら、多分そこには今までと変わらない町があるんだとは思うけど、その世界はあたしたちがここに来る前にいた世界と同じなのかどうか……」
横を見ると、彼女が小首を傾けて本気で悩みはじめている。いやはや、これだから文系は。
「実際に確かめてみよう」
そう私が言うと、彼女は顔をあげてこちらを見た。
「考えても無駄なことは考えない、悩まない。今はデータが少なすぎるしね。もうちょっと色々試してみることがあるだろ。もしそれで困ったことがあったら、そのときに考えたり悩んだりすればいい」
そういうと、彼女は朗らかに笑った。
「それもそうだね」
そして私の手を引いて勢いよく流れるプールに引きずり込んだ。水しぶきが上がり、監視員がこっちを睨む。それに、さっきあんな話をしたあとなのに、水に入ることになんの躊躇もなしか。
「なんで水に入るんだよ」
「だって流れて行く方が楽でしょ。多分」
「元の方向に戻らないの?」
「そんなことをしたら、今までの道程が無駄になっちゃうじゃん。それにそんなことをしたって、元の出口がどこかなんて分からないし。だったら、毒を食らわば皿までだよ」
と言ってまた笑う。まるで水中花だ。
というわけで、私は競泳プールから取ってきたビート板にしがみつき、なんとか浮きにしようとして、勢いよく浮かんできた板にアッパーカットを食らわされながら、また流れに身を任せる人生を再開した。そして私がビート板とは何をぶったたくための物であろうかと考えている間、彼女は冷静に周りの景色を観察していた。その結果分かったことは、やはり一定の間隔で景色がループしていること、そしてそのたびに出入り口があって、明らかに他の出入り口から入ってきた人間が、別の出口から出ていくこと、だけど、実は一つ一つのループは全く同じなわけではなく、ちょっとずつ差異を反復し続けている、例えば、監視員が次のループで良く似ているけどちょっと違う人になっていたり、飾りのココヤシがカナリーヤシに変わっていたり、BGMがヤードバーズの「Train Kept A Rolling」からシ―ナ&ロケッツの「レモンティー」に変わっていたりと微妙に変化している、なのに、このプールが変なことに気付いているのは彼女と私の二人だけ、さらにビート板とジャック・ケルアックはあまり関係がなさそうだ、ということだった。
ときどき水から上がって休憩しろというアナウンスに従いながら、しばらく直進を続け、一人カルネアデスの板ごっこにも飽き、このままではふやけてしまうなあ、と浦島太郎がしわしわの爺さんになってしまったことへの新解釈に挑戦していると、彼女が不意に立ち止まった。すでに漂流物と化していた私は彼女の背中に頭をぶつけてしまう。
「どうした?」
と彼女の前方を見ると、確かに様子がおかしい。人が何かざわざわしているし、どんどんプールサイドに上がっていく。あと、ビート板なら理解ができるが、なぜかサーフィン板を持っていたり乗っていたりする奴が何人かいる。と見る間に水位が上がっていき、今まで一定の流れだったのが、ある瞬間に急に逆流し始める。そして前方から大きなうねりがやってきた。突然のことに、何が起こったのか理解できない私たちは、踏ん張ろうにも足場がなく、すぐにバランスを失ってしまう。抱えていたビート板はスポーンと飛んでいってしまう。私は彼女に必死に手を伸ばす。一度は掴んだと思ったが、そのときひと際大きな波頭が二人を飲み込み、手が離れてしまう。なんとか彼女から目を離すまいとする。そして一瞬確かに目と目が合ったと思ったのだが、すぐに渦のような水の流れにもみくちゃにされ、どちらが上でどちらが下なのか分からなくなってしまう。大した深さじゃないのだから、底に足なり手なりつくはずだと思い手足を振り回すが、流れが速すぎて上手く捉えられない。そこで落ち着いて冷静に行動しようと思い、波は基本線形微分方程式だが、しかし浅い水路ではソリトン解を持つような非線形方程式になるはずで、それは佐藤理論で無限に作れるが、一つ一つを解くのは別問題なのか、と考えていこうとするが、手が離れてしまった直後の彼女の顔、驚いているような固まってしまったような、何とも言えない顔が瞼の裏でフラッシュバックすると、どうにも冷静でいられなくなって、箱玉系のソリトンは今は関係ないだろうと自分に怒りながら考えていると、気付いたらプールサイドに半ば身を乗り出して、金魚のように口をパクパクさせている自分に気がついた。もしかしたら今必要なのはむしろナヴィエ・ストークスだったかも、などと考えながら息を整える。どのくらい流されたのかも良く分からない。とりあえず水の中から這い出ようとすると、爪がいくつか剥がれていることに気付く。なんとか何かを掴もうとしていた時にできた傷だろう。しかし、体全体の間隔が不思議に麻痺して痛みを感じない。妙に重い体を引きずって監視員のところまで行き、今あったことの説明を聞き出そうとする。
「ポロロッカです」
「ポロロッカ?」
そう聞きなおすと、監視員は「知りませんか? 有名ですよ」とさも当然の如く、そして私のことを何か可哀そうなものを見るように見ていう。爪が割れていなければ、抜き手で内臓を引きずり出すところだ。
「ポロロッカってどういうことだ」
「だから、月と太陽の引力が合わさった時に、一時的に流れが逆流するんですよ。さらにそれと雨季が重なると特に大きな波が起こるんで、最近じゃサーファーが集まってきたりして、いい観光資源にもなってるんですよね」
「んなこた知っとるわ。だからなんでそんなもんがここで起こるんだよ? あれってアマゾンのはずだろ?」
監視員は、質問の意味が分からない、という顔をする。
「いや、まあ、そんなことはどうでもいい。それより今の大波で俺の連れが巻き込まれたんだが、どうしてくれるんだよ」
「注意勧告は場内アナウンスでちゃんとしましたよ。出入り口に張り紙もしておきましたし」
「だから俺はそんなことを言っているんじゃなくて」
「だったら場内アナウンスで呼び出しますか?」
思わず相手の襟首をつかみそうになるが、良く見たら、良く見なくても、相手に襟首はない。変わりに相手の首に掛かっているホイッスルの紐を掴むも
「吹きたいんですか?」
と訊かれ、
「吹くか!」
と答えるのみに終わる。監視員にカラーとネクタイの着用を義務付けるべきだ。
落ち着こう。深呼吸一つ。こいつに何を言ったって無駄だ。こいつに頼んでアナウンスするのもしかたがない。どうやってこの場所を説明しろというんだ、ここがどのループなのかも分からないのに。それにもし私の考えが正しければ、たとえ彼女と再会できてもどうやってそれが私とずっと一緒にいた彼女だと見分けるのだろうか。目印でもつけておけばよかったか、いやそれも無駄か。
とにかく動こう。私は監視員と問答するのを切り上げて歩き出した。とりあえず上流側に歩く。多分だが彼女の方がたくさん流されたはずだ。彼女の方が軽いし、私は相当もがいたし。彼女はイメージ的に、あまりもがいたりしない。
彼女の名前をときどき叫びながらプール脇を歩く。走ると監視員に怒られる。幾ループも歩き続ける。プールサイドをこれだけ長距離ウォーキングする奴はそういない。ときどき変な目で見られるが気にもしていられない。焦って足が速くなる。あまり急ぎ過ぎると両足が床から離れてしまいロス・オブ・コンタクトで走っているとみなされて監視員に注意されてしまう。それでも少しでも早く歩かなければ。手を離した瞬間と水中花が脳裏にサブリミナル。
おかしい。
彼女が見つからない。もうかなり歩いてきた。来る時はゆっくりだったから、明らかにそれより多くのループを越えたはずだ。さすがにここまで流されてきたということはないだろう。それでは、いつの間にかすれ違ってしまったのか。しっかり見ていたし、自分で恥ずかしいほど大きな声で彼女を読んでいたし、それに彼女も私を探している筈なので、それはあり得ないと考えたい。もしかしたら前提が間違っていたとしたら。何らかの非線形性の現れとして、実は私は彼女より大きく流されたのだろうか。分からない。しかし立ち止まってしまうわけにはいかないような気がした。主に精神衛生上の理由でだが。だから私は回れ右して歩き続けた。
ずっと。
そう、ずっと。
どれくらい歩き続けたのか、途中から数えるのが億劫になってしまった。普段の思考習慣からいえば「有限」と「ほとんど無い」は同じ意味なので、物を数え るのに慣れていないのだ。人工的な常夏の陽気の中、ただひたすら彼女を求め続ける。日の光の下を彷徨するには白すぎる表皮の上に汗が流れおちた。何かを考 えようとするたびに、今は考えている場合じゃないという本能に邪魔をされていらいらした私は、剥がれてそりかえった指の爪を全部歯で噛みちぎってしまっ た。暑いのか寒いのか分からなくて風邪をひきそうなので、監視員に頼みこんで持ってきてもらったタオルで肩を包み、ついでにぶんどったプールを掻き混ぜる 棒を杖にして、何だか荒野の預言者にでもなった気分だ。そうしてひたすら川の下流へと向かう。
歩いているうちに、私はいくつかの奇妙なことに気付きはじめた。まずこの流れは、厳密にまっすぐなわけではないということ。ところどころ微妙に湾曲して いるし、場所によっては蛇行していることもある。そしてそれは自然の浸食作用によって起こっているのだ。つまり、まっすぐな川の流れが、何かのきっかけで 少しゆがむと、次第に外側が削り取られ、湾曲するのだ。そして蛇行がきつくなりすぎると、水のまっすぐに流れようとする性質が勝って、ショートカットが起 こり、三日月湖が残される。それが幼児用の浅い、三日月型のプールだ。恐らくこのプール設備自体がこの流れに沿って作られた物なのだろう。川は文明の母 だ。悠久の地形輪廻から見たら短い一瞬の間、比較的流れが安定していた時期に、水を求めて作られた集落が次第に発展して今の姿になったのだ。しかしどんな に科学技術が発展しても自然の気まぐれは抑えられない。私は途中で流れから離れたところにあるさびれた施設群を発見した。崩れ落ちたデッキチェア、ぼろぼ ろに腐ったパラソル、ひび割れた樹脂製の床材、荒れ果てたフェイクのヤシ林。スペインの姉妹都市から送られてきた帆船の大きな模型はまるで幽霊船のように 朽ちてしまっている。奇跡的に無事な監視台には、コースロープをぐるぐる巻きにされた白骨死体が座っていた。きっと水量の減少に集団パニックを起こした客 に襲われた哀れな監視員であろう。神への生贄のつもりだったのかもしれない。ばきばきに折られたビート板が床に積み上げられ、火を付けようとした後もあ る。散乱する浮き輪やビーチボールの残骸が彼らの混乱の深さを語っている。自然の残酷さ、そして人の愚かさよ。何かを蹴っ飛ばしたので足元を見ると、監視 員のホイッスルだ。持ち上げると最後に残った紐の一筋が塵となって風に飛ばされた。灰は灰に、塵は塵に。持ち上げてためしに吹いてみると、気が抜けたよう な音ならぬ音を発した。
別の場所では、目の前で激しい干ばつが人々に襲いかかるのも見た。そこでは水が急激に蒸発し、水中の塩素濃度が異常に高くなってしまって、人々は漂白さ れ真っ白な影となり、そこそこの広さの溝一杯にうごめいていた。彼らは私も引きずり込もうと薄黄緑色の薄気味悪い蒸気を発する白い腕で、私の足首を掴もう とするので、杖で何回も打ち払わなくてはいけなかった。黒目まで白くなってしまった彼らに視力があるはずもなく、プール縁からただひたすらに幾百もの白い 腕を伸ばす姿は、古今の地獄絵師ですら想像し得なかったものだ。
このような非現実的風景の真っただ中においてすら私は、何を見ても何かを思い出す、彼女に関する何事かを。大学内のカフェで洗剤を混ぜた炭酸水をペット ボトルから暴発させて机が泡だらけになって追い出されたり、水を流すと泡だらけになるようにトイレに仕掛けをして怒られたり、肥料から爆弾を作ろうとして 田舎の肥溜に落ちたり、賞金稼ぎから逃げて彼女の部屋に匿ってもらったり、連続殺人事件を連続解決してみたり、私的言語を作ろうとしてみたり、それより大 なるものが可能でない島を探してみたり、シリアルのおまけを使って電話をただでかけようとしてみたり、トンネル効果を確かめようと壁に体当たりをしつづけ たり、常温核融合で卵の殻を作ってみたり、ガラスの毛細管に水を通してポリウォーターを大量生産して新素材を開発したり、N線を使った健康器具を売りだし て逮捕されそうになったり、宇宙の中心を探すために三次元空間を四次元的に掘ろうとしてみたり、南極の氷を溶かして全世界を海の底に沈めてしまう技術の平 和利用を研究したり、鼠に洗礼をしつづけたホームレス牧師の書いた日記を解読して論文をでっち上げようとしてみたり、ヴィヴァルディ作曲のカズ―笛協奏曲 を路上パフォーマンスしたり(彼女がヴァイオリンで私がカズ―だった)、彼女をエチオピアの女帝に見立てて海自を騙して大学を除籍になりかけたり、賢者の 石を作れると豪語したら幽閉されて仕方がないから焼き物作りに熱中してみたり、毎日素手で大木なぎたおし朝昼晩にサメに話しかけてみたり、ドイツ語覚えて 忘れてみたり、犬ヅラ警部の耳噛んでみたり、etc、云々………、と何を思い出しても、そこには彼女がいたような気がする。大概は呆れたような顔で私を見 ている。次第に記憶は入り交じり、起こった順番も分からなくなり、どれが実際に起こったことで、どれが自ら捏造した記憶で、どれが私が彼女に話し聞かせた 冗談やら。エピソードを順番に辿って行こうとすると、いつの間にか最初の話に戻ってしまう。私の目の前で因果律は、自らの尻尾を加えてはむはむ飲み込みな がら、最後には消えてしまう。胡乱なウロボロスが私のことを馬鹿にしたような眼で笑っている。だが、どの彼女も彼女であることは変わりない。
旅の途中で彼女に似た女を何度も見かけた。しかしそれは様々な理由、時によっては何か言葉にできない理由により彼女ではなかった。ある時は何人かの女友 達と談笑しながら黄色い声をあげ、また別のある時には私の知らない男の隣にいた。ふと顔をあげると隣の幼児用の三日月プールに彼女の後姿を見たこともあっ た。彼女は足をバタバタさせる小さな男の子の手を引っ張っていた。その男の子の顔は何かを思い出させた。歪んだ鏡を見るような奇妙な気分。古い百科事典の 中で読んだような気がする西アジアのある哲学者の言葉、「鏡と父性は忌まわしい、宇宙を増殖し、拡散させるからである」。そうか鏡か。この奇妙な世界、目 に見えないくらいの変化を少しずつ繰り返すこの世界を作り出すためのトリックに必要なのは二つの向かい合わされた、目に見えないくらい歪んだ鏡、つまり普 通の鏡だ。鏡の中の鏡なんて魔術としても手品としても(英語にするとどちらも同じか)実に古典中の古典だし、線分の両端を同一視すると円と同相になるの だってトポロジーの基礎の基礎だ。なぜさっき思いつかなかったのだろうか。いや、この場合はむしろ線分のコピーを無限個つなげて直線を作っているわけだ。 そして射影空間においては直線と円とは同じものである。それならプールの両側の平行線が交わるような無限遠点で彼女が見つかるのだろうか。しかしそうする と、その直線に沿って炎天下を一定速度以下で移動し続ける点にしか過ぎない私には、永遠の時の後にしか辿りつけないことになる。これじゃニコラウス・ク ザーヌスだ。無限の直径を持つ円環の形をした迷宮に迷ってるってわけだ。だがクザーヌスにとって無限は一つだったが、私の目の前にはヤコブの梯子の格みた いにいくつものオメガとアレフが並んでいる。ゲーデルやウディンに倣って連続体仮説を否定すればおまけにベトまで現れて、不幸なことに私はまだドクじゃな い。選択公理を仮定しなければ一列に並んでくれる保証もないが(そんな梯子を梯子とは呼ばなかろうが)、彼女と自然数の取りあいっこをするときに決定性が ないとつらいのも事実だ(内輪だけ決定性を認めるっていうズルを使うわけだが)。大体整列可能な物に限ったって、ZFCで証明できないいくつもの到達不可 能だったり記述不可能だったり可測だったり強だったり超強だったり超コンパクトだったり拡張可能だったりほとんど膨大だったり膨大だったり超膨大だったり n-膨大だったりと、1=0すなわち絶対矛盾的自己同一者たる神との間にはいくつもの階層が待っているわけであり、これには天使の位階もびっくりだ。存在 の偉大なる連鎖ってのはこのことだったのか。だが別の角度から考えなおしてみると、射影平面では点と直線は入れ替え可能だ。まさに反対物の一致だ。だった ら、私の上をこのプールがさまようことになる。いや、さまよっているのは彼女だろうか。やはり彼女も私を探しているのだろうか。クザーヌスはこんなことも ちろん知らなかったわけだが、奴の理論だとそれは知ってたことになるわけか? そんなことを考えながら、私は久方ぶりに笑った。
いくつの太陽が生まれ、頭上を過ぎ、そして地平線の向こうに死んでいったろうか。長い旅路の中、私の心はいつしか奇妙な平穏に満たされ始めた。彼女の面 影は消えないし、私の耳は彼女の声を探し、手は離してしまった柔らかい掌の感覚を今も覚えている、それでも次第にすべてが現実感を失い始め、それにつれて 彼女の実在性も薄れ始めたのだ。彼女の思い出から彼女を再構成して見ようとしても、どれが真実でどれが彼女は私の脳が勝手に捏造した偽の記憶かも判別でき ず、その再構成の過程から様々な新しい思い出が、今まで知らなかった彼女像が産まれてくる。まるでバラバラになっていくV.の女みたいに拡散していく彼 女。おかしいな、重力とエントロピーとは喧嘩しないことにしていたつもりだったんだが。「どうやったらこんなふうに部屋を汚せるわけ?」いや、そもそも彼 女は実在せず、ただ私が夢想したに過ぎないのではないのか。それともこの奇妙な世界を彼女が夢見たのであろうか。実際、彼女らしいお茶目な支離滅裂さを、 ここは備えているようでもある。私の本当が彼女の嘘であるように、彼女の嘘が私の本当となる。彼女の夢見た世界を彼女を夢見てさまようのだ。これが愉快で なくて何だろう。私が彼女を夢見たように、彼女が私を夢見たのだ。胡蝶の夢だ。しかし荘子は自分の夢見た、そして自分を夢見た蝶と会って話がしたいとなぜ 夢見なかったのであろうか。聡明な彼にしてはどうにも詰めが甘い。私はこの一切の虫のいない似非南国で蝶を追い、できれば馬鹿みたいなパフェでも食べなが ら談笑したいと夢見ているのだ。
私と彼女は互いに互いを映し合う鏡

私が偽なら彼女が真、彼女が偽なら私が真

私が夢なら彼女が現、彼女が夢なら私が現

彼女がアリスなら私は赤の王、赤の王を起こしちゃいけない

私が色なら彼女は空、彼女が空なら私が色

私が位置なら彼女は運動量、彼女が時間なら私はエネルギー

私が粒子なら彼女は波、どぶろい酒でも飲もうじゃないか

私が代数なら彼女は解析、私はGalois表現なら彼女は保型表現

私がArtin Lなら彼女はHecke L、私が前田橋バス停のそばの材木置き場なら彼女は鎌倉の関レンタカーの裏庭

私がリー群なら彼女はリー環、彼女が∂/∂xなら私はdx

私がコホモロジ―なら彼女はホモロジ―、彼女がメルツバウなら私はコメルツバンク

私がサーンキヤなら彼女はヨーガ、要は問題はモチーフ

私が環なら彼女は概形、彼女がモジュラーなら私はファイバー

私がイデアルなら彼女はフィルター、彼女がスキームなら私はストーン

私が圏なら彼女は景、彼女が層なら私はトポス

私がモナドなら彼女はノマド、彼女が射影的なら私は帰納的

アブストラクトナンセンスここに極まれり

私が怪物「親切な巨人」なら彼女はその芳しき密造酒、彼女が閉じた弦なら私は開いた弦

私が電気なら彼女が磁気、生成消滅しあい光になる

私が光なら彼女は闇、彼女が光なら私はフォティーノ

私がトップなら彼女はストップ、彼女が神の左手なら私は悪魔の右手

私が正二十面体なら彼女は正十二面体、彼女が離散なら私は連続

私が共変なら彼女は反変、彼女が直観なら私は量子

私が量子なら彼女は非可換、彼女が非可換なら私は一元

彼女がつくる人なら私は食べる人、いやこれは違うか

この世界を形作っているのは、目には見えないほどの小さな、たくさんのハープだ。そのハープが振動することによりこの世界は作られる。少しずつずれなが ら重なり合う隠された世界。共鳴しながら絡み合う、いやここではからびやうというのが正しい文法だ、からびやう世界の鏡の対称性が私と彼女を映し合うのだ から。私はその振動するハープをたどって歩いてきたのだ。我がアリアドネ―の糸、どこまでも伸びるトポロジカルソリトン。ζも振動する弦に見えないことも ない。エボラウィルスにも似ているような気もするが。だが確かζは光合成をするので緑色だった筈だ。ならばゼータ惑星はさぞ綺麗な星であろう。いや待てな んの話だか分からなくなってきたぞ、こういうときはどうするんだ? そうだ素数の歌に耳を澄ませるんだ。そうすれば無限の道行きもなんのその、数列の収束 したい気持ちも分かるというもの。
そして旅の終わりは唐突にやってきた。少しずつ流れが速くなっていき、次に音が聞こえ始めた。最後にそれ以上進めないことに気付いたので、仕方なく私は 立ち止まった。それを見たとき、さすがの私も思わず杖を取り落としてしまった。目の前の光景にあきれてはてて声も出せない。右手で額を叩き、顔を拭うよう に顎に持ってくる。コロンボの物まねを練習しているうちにそのまま私の癖になってしまったしぐさだ。数瞬たって、ようやく私はつぶやくことができた。
「おお、神よ……」
水の流れはそこでぷっつりと途切れていた。いや、それどころか地面自体がそこで終わっていて、水はそこから瀑布となり虚空に流れおちていたのだ。
「……冗談は俺の顔だけにしてください」
世界が終ってしまった方向の半球は一面のきらめく星空で、ところどころにケプラー多面体やポアンソ多面体の形をした小惑星が浮いている。中が空洞になっ てカメレオン二匹のカメレオンが住んでいたり、表面に都市が築かれていたりしているのもある。下を見ると、どこに重力源があるのかは知らないが、水が白い シャワーとなって散らばっていき、ずっと下では蒸発して消えてしまっているようだ。それと一緒にプールの客も落ちていくが、自分の身に何が起こっているか には全くの無頓着で、驚きも慌てもしないように見える。浮き輪に胴体を突っ込んだ少女がくるくる天王星のように自転しながら優雅に落下していく。私はすぐ 近くにいる監視員を読んで、こんなことになっていることに関する説明を求めてみた。もちろん何らかの有意義な情報が得られるとはこれっぽっちも期待してい なかったが、監視員はここでも私の疑問を理解すらしなかった。ただ私のことを頭がおかしいとでもいうような目で見るだけだ。頭にきた私は無理やりこの男 に、崖下の深遠を覗きこませた、男はその拍子にバランスを失って、くるくる回りながら落ちていってしまった。あまりにも綺麗に回るものだから、見えなくな るまでしばらく眺めていてしまった。昔見た、「タイタニック」とかいう題名のひどい映画があったが、その映画で唯一ちょっと面白かったシーンがあって、そ れを思い出した。それは船が沈む時に船尾がせりあがり、そこから海面に何人もの乗客が悲鳴を上げながら落ちていくところで、その一人が途中で巨大なスク リューに当たったかなにかしてくるくる綺麗に回転しながら落ちていくのだ。監督がフェミのキャメロンなんだから、ヒロインが終盤いきなりマッチョ化して、 全部解決したら面白かったのに。
気が済むまで絶景を眺めて振り返るといつの間にか補充の監視員が監視台にちゃっかり座っている。それを見たら私は何もかもが馬鹿らしくなってしまい、ため息を一つ。ついでに魔法の呪文もつぶやく。
「ま、いいか」
そして棒を監視員に返すと(もちろん彼にとってその棒は遠い世界の物なので、渡されてもどうしようもないが、私が持っててももっとどうしようもないの で、無理やり押し付けた)、一番近い所にあったところから外に出た。シャワー室でできるだけ熱いシャワーを浴び、更衣室に向かうと、ちゃんと私が入れた ロッカーに私の服は入っていた。財布の中身もOK。読みかけだった本『シメンおよび、そこへの行き方』も、正しいページに栞が挟まっている。
外に出ると彼女が階段に腰掛けて待っていた。それなりの時間待たせてしまったようで、また白い目で睨まれるが、君こそ何をしていたんだ、と訊き返すとす ぐに機嫌が良くなる。私がいなくなってしまったのでしばらく捜していたが、見つからないのでプールの外に出て、別室の銭湯に入って、おまけに付属のエステ でアンチ・エイジングとコスメティックのアドバイスまで受けてきたというのだ。のんきなものだ。それにしてもアンチ・エイジングとは! 何と甘美な響きで あろうか。それこそエジプトのファラオや秦の始皇帝が空しく虚空に手を伸ばし、掴みとらんとしたものではないか! しかもコスメティックと来たもんだ!  私には宇宙空間の静謐の中に浮かぶ不老不死の不思議な結晶生命体が見えそうだ。ああ、宇宙の虚無に抱かれて、何だかまだ水の底にいるような気分だ。
「何言ってんの?」
目を開けると訝しげに顔を覗きこまれている。どうやら声に出ていたようだ。私は空しく虚空に伸ばしてわさわさしていた手を下ろすと、
「ものすごく疲れたという意味だ」
と答えてやった。すると
「じゃ、次はどこに行こっか?」
と来る。どうやら私の言っていることを理解できていないようだ。
「そんなことより、少し手を貸して欲しいのだが」
「へ? 何に?」
彼女の手を取り、掌を触りながら覗きこむ。くすぐったいと嫌がるが離してやらない。
「で、何か分かった?」
「君の結婚運の悪さがあまりに哀れで涙が出てきた」
「うるさいよ! って、本当に泣いてる?」
「ナイテナンカイマセンヨ」
借りていた彼女の手を彼女に返す。
彼女の手は間違いなく彼女の手のように思われた。つまりあの時離してしまったことを何回も何回も後悔したあの手のように。だがそれが何を意味しているの かはよく分からなかった。彼女がどの彼女で、ここがどのここなのかも、ついでに言うなら私がどの私なのかすら、よく分からなかった。今さっき見たことを頭 の中でどのように整理していいのか見当もつかなかった。でも、それならそれでいい。分からないまま生きていこう。整理できないまま生きていこう。あそこで 本当に起こったかどうかなんて大した問題じゃない。ここで彼女に今さっき見たばかりのことを話せば、多分鼻で笑われる。彼女だって一緒に見たはずのことで すら、彼女にとっては私一流の冗談に過ぎないのかもしれない。だからそんなこと話さない。私の本当が彼女の嘘なのだから、彼女の本当は私の嘘なのだ。
そしてこんなこともそんなことも宇宙の行く末も全部、
「よし、どうせ暇だし、今から百花屋に行って、馬鹿みたいなパフェをおごってやるぞ」
という私の言葉を聞いた瞬間の彼女の笑顔を見たら、考えたり悩んだりする必要のないことだと分かるのである。



『果てしなき流れの果ての宇宙のみなもとの滝』 (終)



「そういや、あんたのせいで、ウォータースライダーに乗れなかった」
「あんなの乗っていいのは10代までだろ」