この国の古き信仰によれば、あらゆる事物には魂が宿っているという。特に長く使い込まれたものは尚更である。ならば、手練れた職人が彫心鏤骨の技を振るった逸品には、いかなる荒魂、和魂が根を下ろすというのだろうか。それらは人の運命を、如何様に翻弄するのであろうか。野分きの風に舞い飛ぶ、木の葉のようにであろうか。それとも濁流に呑み込まれんとする笹舟のようにであろうか。これは名も知れぬ古人の手によってこの濁世に産み落とされた、美しくも悲しい一つの「調べ」に狂わされた、とある高校生の流転の人生を描いた物語である。とりあえずは気楽な格好になり、一袋300円のおせんべいでもかじりながら、ごゆるりとご鑑賞下されまし。
 
 さて物語を本格的に展開するに当たって、まずは我らが主人公、その名も浅見秀行の紹介から始めねばなるまい。彼は京極高校の三年生であり、博学才穎にして眉目秀麗、心根も優しく、後輩たちにも大いに慕われる剣道部の主将であり、同時に吹奏楽部の花形トランペッターであった。彼が一吹きすれば、六里四方にきこえるとか、羽黒山の天狗山伏が聴きに来たなどという、埒もない伝説が今でも残っている。
 そしてトランペットには、単に楽団の華というだけでなく、万一他校と一戦交えることになれば、重要な戦場の合図の道具になる役割がある。遡れば新石器時代の単純な喇叭にまで行き着くこの歴史ある楽器は、三千年前の埃及王朝時代の出土品にはすでに軍用として使われたあとがある。聖書にあるイェリコの城砦を神の角笛が粉砕した故事は有名であろう。浅見秀行の高らかに響く猛々しい楽の音は、敵の心を粉々に挫き、味方の闘志をどこまでも鼓舞し、音圧で戦線を前進させる。
 もちろんそれだけではない。特殊奏法を駆使した情緒豊かな曲は、戦士達の死と隣合わせの毎日を勇気づけたり、故郷を遠く離れた戦地の里心を慰めたりするのだった。
 トランペットは技術が難しく、その上誰でもが吹けるというものではない。音を出すことからそもそも生やさしくなく、唇の形からして才能の一部である。息も長くなければならず、循環呼吸により何十分と息を吐き続けなければいけない。もし適正がなければ、修練を積んでもうまくなるわけではないのだ。
 だからトランペットのソリストは、主君がそれを命じた家のものにしかなる事は許されないのだ。だから、「流儀」というほどのものは、この時代にはまだなかったが、トランペットを伝える家には「進軍の譜」「突撃の譜」「休戦の譜」「歓楽の譜」「戦勝の譜」……などとトランペットの吹き方を示した「譜」が家の秘伝としてつたえられていたものである。
 浅見源三郎秀行は、そういうトランペット方の家の三代目であった。

 「む! これはなんだ!」
 それは次の定期演奏会に備えるために、家に伝わる数々の譜を整理していたときのことであった。いつもはそんなところを覗かない押し入れの奥から、黒一色の漆器の箱が出てきた。他のもののように螺鈿や蒔絵やらの絢爛豪奢な飾りが一切なされず、ただただのっぺりとした漆黒に謎めいているその入れ物に、浅見秀行は興味をそそられた。開けてみると、中に入っていたのはやはり譜であった。しかし、尋常の譜ではなかった。
 巻物を紐解こうとした、その次の瞬間から、彼の目は驚きに見開かれる。
 「なんと、極秘の朱筆とは……」
 血を思わせる朱錠で書かれた内題には、簡潔にただ
 「禁 落城 譜」
 とだけ書かれている。
 なにやら不吉な予感に喉を鳴らして唾を飲み込むと、続きに眼を走らせていく。
 「之落城譜也 修練不可為 落城の悲運に際して一吹のみ」
 その意味することを理解するとともに、背筋に冷たいものが這い上がっていき、脇の下に妙な汗が出るのを感じる。指先が震え始めるが、それでも読むのをやめることは出来ない。
 「む~~初めてみる譜だ……」
 譜を読み進めるとともに、思わず賛嘆のため息が出る。
 「不吉な譜であるから、練習にも吹いてはいけないというのか。無理もない! 高校生にとって《落城》という言葉は最大の不幸を意味するもの! 不吉きわまるものである……」
 そして巻物の最後には、またも朱筆の大字で警告が書かれていた。
 「再度誠 修練無用 落城の悲運に際して一吹のみ」
 読み終わったあとも、しばらく譜を持ったまま呪いをかけられたように動くことすらできず、呼吸さえ忘れてしまったように座り尽くしている。頬を伝い落ちる汗が譜に落ちそうになっていることに気づいて、ようよう金縛りから抜けて額をぬぐう。
 「悲惨きわまりない節だ!」
 浅見秀行はもう一度譜を見直しながら嘆息する。
 「恐ろしい譜だ!」
 譜を床に伏せ、天井を見上げながら独りごちる。
 「しかし悲愴と哀愁に満ちあふれた、なんとすばらしい譜だろう」
 そうして唸ったり溜息をついたりしているかと思うと、突然立ち上がって、障子を開けると、
 「むむむむ、落城の譜! 見事な曲だ!」
 などと、両腕を組んで縁側に立ち尽くしながら、嘆ずる。普段は自ら手入れしている、ちょろちょろと小川の流れるお気に入りの庭も、今は全く目に入らない。
 「こんな曲がトランペットで吹けるとは……」
 そのまま呆然と、雲の流れゆく空を眺めながら、浅見秀行はどこまでも自分の世界に没入していく。
 「……一度でよいから吹いてみたい」
 吹いてみたいと彼が思うのは、無理もなかった。京極家中で随一の音楽者とうたわれる彼は、専門のトランペットはもとより、パーカッション、ハーモニカ、フルート、クラリネット、ギター等にも、すぐれた才能をもっており、音楽のすべてに関する事には、多大な関心をもっていたのである。あるとき座興に、十の楽器を身近に配して、見事に一曲劇的な演奏をしたことがあった。
 「う~~む」
 と、校長をはじめ、並み居る教師たちも、ことごとく感心の溜息をもらし、女生徒たちは感激のあまり涙を流したという程であり、正に音楽の鬼才である評判された。
 そういう彼であるから初めて見た「落城の譜」を吹奏してみたいと思うのも無理はない。ましてや人間……してはならぬと言われれば、よけいしてみたい心が動くもの……
 しかし「落城の譜」などという不吉なものを吹けば、
 「自らの学校の滅びることを願うとは! 不埒千万っ!」
 ということで、たちまち召捕らえられ……校則により斬罪に処せられることは必定である……
 浅見源三郎秀行が、何かしら思い込むようになったのは、その「落城の譜」をみた翌日からである。
 「りゃあーーーーっ!」
 「おおおおーーーっ!」
 「きえええーーーっ!」
 ばしいんばすばすと道場に鋭い竹刀の音、どんどんという床を蹴破らんばかりの足音、そして空気を切り裂くような雄叫びが響き渡る。男たちが入り乱れて、刀を振ると言うよりも、体当たりの練習をしているようなその光景を、鋭い目つきで眺めている、仁王立ちの男が一人。
 「打ち合いやめい!!」
 彼の鶴の一声で、全員道場の片側に下がって一列に正座し、たちまち道場に水を打ったような静寂が訪れる。
 「只今より……」
 多くは息が上がって、正座したまま肩を上下させているその面々の中に、気の緩んでいるものを取って食おうとでも言うように睥睨しながら、その男はゆっくりと道場を闊歩していく。
 「……首相より、手合わせを頂く!」
 元々無音であったその場の空気が、さらに変わる。氷水に通したように、ピンと引き締まった雰囲気が、次の動きを待つ。
 「皆、心してやるように!」
 男はそう言うと、道場の上座を振り向く。そこには、半眼になって正座している浅見秀行の姿がある。完璧な姿勢のまま、微動だにしない。
 男は、彼の動きを待つ。しかし、数秒、浅見秀行は座禅して瞑想しているかのように、なんの反応も起こさない。自分の内部に深く深く沈滞し、外部の出来事に一切関心を払っていないようだ。
 「主将」
 男が声を掛ける。しかし、今も浅見秀行にはそれすらも聞こえていないようで、まるで人形にでもなったかのような案配だ。
 「主将っ!」
 大音声での一喝により、ようやく夢の淵から浮かび上がる浅見秀行。まるで自分がどこにいるのか分からないかのように、一瞬周りを見回すと、急いで竹刀を引っ掴んで膝立ちになり、
 「おう来たか! 俺の番か」
 と何かを取り繕うように、いやに元気よく答えるのだった。
 「浅見。おぬし、近頃変だぞ」
 男がすれ違いざまに、小声でささやく。
 「すまん」
 浅見秀行は、顔をしかめて答える。しかし、部員たちの前でそんな顔をし続ける分けにもいかない。すぐにいつもの、颯爽とした顔つきに戻ると、
 「よーし……一番来い!」
 と、道場の戸板のびりびり震えるような声で、呼びつける。緩み掛けた空気が再び張り詰め、気合いを入れ直した
 「はっ!」
 という応答がすぐさま続いた。
 (変ってる……どうも近頃変だ)
 浅見秀行の背中を見ながら、男は思う。
 (常に何かの節をつぶやいている様だが……)
 この様なはなはだ頼りない様子では、校内でも失敗ばかりしている。
 ごん!
 「失敬」
 林崎流居合いの功者と評判される校内随一のへんこつ者、渡会十兵衛先生の太刀をうっかり蹴飛ばしてしまったのである。
 各教科の準備室や職員室には太刀掛けがあるのだからそこへ掛けておけばいいものを、渡会十兵衛はそれを不用心だといい、
 「教師の魂はいつも体につけるか、身近かにおいておくもの! あの様なところへかけておけば、いざ事あるとき、わーっと刀を取りに行く者でテンヤワンヤとなり、その間に機を逸する恐れがござる!」
 と言い張り、誰がなんと言おうが、いつも身近かにおいている彼であった。
 そのために、人のより相当長いその太刀に蹴躓く生徒が今日まで八人もあった。
 「無礼者っ!!」
 その声と同時に、
 すとん
 と妙に軽い音を立てて、その哀れな生徒の首は吹っ飛んでいたのである。
 今日は浅見の首が吹っ飛ぶな! といあわす一同物言う者もなく、両者の挙動を見守った。
 何も起こらなかった。しーんとした部屋に、自分の固唾を飲む音だけが奇妙に響く。何事もないまま渡会十兵衛は、立ち上がって刀を腰に差すと、物も言わずに廊下に出て行った。
 いつもと違うぞ……と、一同の疑惑に満ちた目があとを追う。
 浅見秀行も、謝るためにか、廊下に出ようとする。その瞬間、彼のブレザーの胸元がだらりと広がった。
 同時に十兵衛の、背広のスラックスが口を開く。
 二秒程経ってから、ようやく一同にもその真相が分かる。二人の居合い術が同時に発揮されていたことが……
 「うぬ!」
 「むう!」
 抜き身の刀を光らせた教師と生徒が向かい合う。
 (このへんこつ者は、あやまっても許すような男ではない……斬るか斬られるか、やらねばなるまい)
 浅見秀行は決意を固めた。もし、
 「まてい!」
 教頭の一喝がなければ……
 「どちらかが、死んだことであろう」
 授業に向かうため廊下を歩きながら、目撃者の教師たちは語り合う。
 「うむ……しかしっすが渡会の居合いはすごいものだの」
 「うむ。だが、浅見もすごい! さすが剣道部の主将だけあって、やりおるわい」
 目にした今でも信じ切れない二人の手練れの妙技を、口々に賛頌しあう。そんな中、一人が疑問を口にする。
 「それにしても、浅見は最近変だと思わんか?」
 「思う。たしかに変だな」
 その日の夕方頃、浅見秀行は部活を早めに切り上げて下校すると、家路をゆっくりと歩いていた。沈思黙考しながら機械的に両脚を交互に前に出していた彼は、立派な門構えに浅見と表札のある家を、素通りしようとしてしまう。
 「若様! 若さまではありませんか? どこへ行かれます?」
 爺やがそう話しかけなければ、そのまま本当に迷子になってしまうかもしれないところだった。浅見秀行は、夢遊病から覚めたように、いつの間に自宅の前に出たのか怪しみながら、門をくぐる。
 「ご自分の屋敷を素通りしていくなんて。近頃どうかなさったのでは……」
 「爺!」
 相手の言葉を遮って、突然叫ぶ。
 「バイクの用意をせい!」
 そう言い放つと、急いで自室に入り、普段の丁寧さはどこへ行ってしまったのか、制服を乱雑に脱ぎ捨てて、ライダースーツに着替えると、トランペットのケースを持って、ガレージに急ぐ。
 「楽器を持って若様! どこへ行かれるのですか?」
 普段、それほど乗っているわけでもないホンダ・CB400スーパーフォアを引き出しながら、爺やと家付きの整備係が問いかける。しかし、浅見秀行はそれに答えようとせず、
 「夕飯には戻る!」
 とだけ言い残すと、ヘルメットの下に決意を込めた表情を隠し、疾風の様に走り去ってしまった。
 (吹くぞ! 落城の譜を! 吹かずにはいられないのだ!)
 ライダースーツの生地を通して肌に激しい向かい風を感じながら、何度も何度も胸の裡で決意表明する。
 (禁じられた〈譜〉を吹けばどうなるか! もちろん、校則違反で斬首されるに決まっている!)
 それでも尚吹きたいと思うのは、ほかならぬ音楽者としての探求心のしからしむるところであった。もとより、母校の没落を願って吹くのでは断じてない。
 (ただ人に聞かれさえしなければ、斬首される事もない!)
 浅見秀行は、街の中心部の反対側、郊外からさらに外れた場所へと向かう。
 (人のいない所! 山奥……そこで吹けばいいのだ!)
 次第に道の両側が、暗く深い雑木林になっていく。その木の幹が、視界の後ろに急速に流れていくのを見ながら、さらに山道を昇っていく。そして、途中でバイクを乗り捨てて、そこからは道なき道を徒歩で上っていく。歩き固められていない道は、体重を掛けるとすぐにぼろぼろと崩れ、腐葉土は足首まで一瞬で飲み込むが、それでもトランペットだけはかばいながら、四つん這いになって、体中泥だらけにしながら登っていった。
 (そこでなら、たとえ聞かれても狩人か農夫……秘譜である落城の譜が分かるはずもない!)
 そういう考えから、彼は吹く決心をしたのである。
 彼が、山奥深く分け入ったところの、巌頭に立つ頃には、すでに日はすっかり沈み、そこからわずかにその下で楽しき夕餉の繰り広げられていよう街の灯りがほの見えていた。
 すうっ
 山中の空気を肺に納めようとするかのように、息を吸い込む。そして、

 悲愴な譜が、嫋々として高く、あるいは低く、泣くように、山奥の嶺々を、そして谷を、泣かせるとき、未だ知らぬ実際の落城の悲劇を目前に見る思いがして、秘曲「落城の譜」の偉大さに感激するのであった。
 ところが、誰も聞いていないと安心して吹いているのを聞く者があった。
 兵法の先生、加藤甚左右衛門である。
 三日前、出張で外出しての帰り、予想以上に帰宅が遅くなりそうなので、早道をとってこの山中を愛車のマツダ・ロードスターで通ったところ、オープンカーゆえに、その悲愴な響きが耳に入ったのであった。
 (これだけのトランペットを吹く者……浅見以外にはない。しかし……何故この山奥まで来て吹かねばならぬのか?)
 加藤は、車を車道脇に止め、風の音に混じる特殊奏法を駆使したむせび泣くような悲哀な曲調に
耳を澄ませる。
 (聞いたことのない譜だ……むっ!)
 そのとき、その脳裏に、恐ろしき疑惑が沸き起こる。
 (あれは兵法でいわれていて、まだ聞いたことのない落城の譜では?)
 そう思って聞いてみると、文章で読んだ情報とは言え、繰り返し繰り返し読み返した兵法書の描写と完全に一致するところがある。
 (む~~っ、違いない!)
 そう確信すると、運転席で唸って腕を組んだまま、動けなくなってしまう。
 (と、すると浅見は何故に? 不吉な落城の譜を吹くのだ)
 「む~~~~っ」
 彼、加藤甚左右衛門が、その夜一晩寝ずに思案したことは、今日の浅見の事を校長先生に伝えるべきかであった。
 伝えれば、ただちに浅見が校則違反で斬首されるのは当然である。
 しかし、浅見が音楽を愛するあまり、吹いてはならぬ秘譜をあの様に人をさけて吹いたものとすれば、それは道をきわめんとする者の尊い行為である。されば、他に聞いた誰かがあっても、それは誤りだと、私は彼を弁護してやろう。
 しかし、またしかしだ。戦国のこの世、もし大学への有利な推薦につられて、彼が敵方のスパイになったとすれば……
 あるいは校長先生に恨みを抱き、落城を願って吹いたものとすれば……
 これは用意ならぬ一大事である!
 若者を一人死なすか、生かすか。自分の判断一つで決まってしまうかと思うと、加藤甚左右衛門は寝るどころではなかった。
 それがどちらに決まったかは翌朝、登校する甚左右衛門の重い足どりをみればわかった。
 上司の安泰と一生徒の命、どちらが大切か? たとえ浅見に他意はなくとも事が事。一応は、言上しなければならないことであった。
 「何っ! 浅見が落城の譜を吹いたとっ!」
 その報告を聞いた途端、校長は激高して立ち上がった。
 「斬れっ! 反逆生徒、浅見源三郎秀行を討って参れっ!」
 事の成り行きに声も出ない教職員たちを見回し、その一人を指さして、
 「そちが行けっ!」
 と大喝した。
 指さされた男、古谷勘兵衛は顔面蒼白となった。剣道場で浅見に声を掛けていた男である。その場に居合わせたが為に、突然命ぜられた主命とはいえ、勘兵衛と浅見とは年こそ10才くらい違うし生徒と教師と立場の違いもあるにもかかわらず、親友の間柄である。
 また、浅見に居合い抜刀実を伝授したのも彼である。音感に鋭い浅見は、剣にも鋭い上達ぶりを見せた。彼は大学卒業と同時に母校に赴任して剣道部の顧問となり、一年のころから浅見を可愛がり、去年からはかつて自分が勤めた剣道部の主将となった浅見と、この名門部活をさらに盛り立てていったのである。
 その浅見を討たねばならぬ、今の彼。
 その日は、授業は休みであったので、浅見は家にいた。
 声を掛ければ情がうつって斬れなくなる。ゆえに案内も請わず、式台を上り、勝手知ったる浅見の部屋へ、古谷勘兵衛は歩んでいった。
 「あっ」
 縁側でトランペットの手入れをしていた浅見秀行が振り向く。
 「先生じゃありませんか。今頃なんです?」
 古谷勘兵衛は無表情で立ち尽くしている。かと思うと、細い目をかっと見開いて、
 「上意!」
 と叫んで、抜刀一閃、横に薙ぎ払う。間一髪、浅見秀行は庭に飛び退いて、切っ先をわずかに躱す。
 「上意ですとっ!?」
 浅見秀行は一瞬でことの次第を理解した。
 (むうっ! 誰かに聞かれたか!)
 しかしそれが分かったからなんだというのだろうか。浅見秀行は、師、古谷勘兵衛が刀をだらりと下げた無構えのまま、縁側からゆっくりと庭に降りていくのを、未だどうすればいいのか判断できないまま、半恐慌状態で見つめている。
 (またよりによって古谷先生が、討手に来られるとは!)
 「ハー―ッ!!」
 古谷勘兵衛が、また地面を強く蹴って神速の飛び込みから、心の臟を一直線に狙って突きを飛ばす。浅見秀行これを、斜め後ろに下がりながら避けるが、手首を素早く返してすぐさま繰り出される胴切りにはとても間に合わない。ぎりぎりの判断で抜刀してこれを受け止めようとするが、
 ガキン!
 と重い音がして、刃先五寸ほどが折れて吹き飛んだ。
 「ふ、古谷先生!」
 浅見秀行はたまらず叫ぶ。
 「私は斬られたくない! 死にたくないのだ!」
 矜恃を捨てて懇願するように、哀れっぽい声で言うのだが、次々と放たれる蛇の様に軌道の読めない連斬は止まらない。
 「私はただ譜を吹いただけなのだ! それだけで斬られるなぞ! 校則とはいえ、あまりに理不尽とは思いませんか!」
 それを皮一枚でどうにか避けていくのだが、折れた刀ではとても受けきれない。たちまち浅見秀行の来ているTシャツとジーンズにはいくつもの切れ目がつくとともに、流れ出した鮮血に赤く染められていく。
 「ああっ!」
 首から入って脇に抜ける斜めの袈裟切りの鋭い剣筋を、下をくぐるように転がってなんとか避ける。刀を持った手を地面について師を見上げながら、もう片方の手で、師をどうにか制止しようとする。
 「先生! 斬られたくない私は、一体どうすればよいのですっ!」
 古谷勘兵衛は体勢の悪い相手にとどめを刺そうと、大上段から唐竹割に振り下ろす。もうこうなったら剣術も糞もないとばかりに、浅見秀行は四つん這いになって、必死にそれから逃れる。
 「むおお! どうすれば良いのだ! 師であるあなたに刃向かう事は私にはできぬーっ!」
 顳顬からも額からも血を流しながら、血だらけの顔を涙で洗うように浅見秀行は号泣する。
 「出来ぬのだーーっ!」
 それを表情を変えずに見ている古谷勘兵衛の心の中も、決して穏やかではない。それどころか、野分けの風が舞い狂うようだった。
 (浅見! 今や俺は上意討ちの討手の身だ! 何としてもお前を討って帰らねば、俺は生きておれぬ立場になるのだ! お前を助ければ俺は死なねばならぬ! 断じてお前を殺さねばならぬのだ! お前が死ぬか、俺が死ぬか、二つに一つなのだ! しかし! 俺にはお前を殺す心が薄れてきた! お前も俺も一緒に逃げれば二人とも死なずにすむ! しかし……それでは不忠者、反逆者といわれて先祖代々の家をつぶされ、親族の者にも不幸が及ぶのだ! それよりは、お前が俺を殺して逃げてくれたほうがまだましなのだ! しかしお前はなぜ俺に刃向かってくれぬのだ! くれぬのだ!)
 それは一瞬だった。止める暇もなかった。古谷勘兵衛はくるりと刀を逆手に持ち替えると、ずぶぶと自らの腹に刀を突き刺したのだ。
 「あっ!」
 浅見秀行はすぐに師に駆け寄る!
 「先生!」
 古谷勘兵衛はかすれた声を賢明に絞り出す。
 「逃げろ……一刻も早く逃げるのだ……ぐぐっ……」
 倒れ伏そうというその肩を掴んで、浅見秀行は空を仰ぐ。
 「あゝ、私はなんということを……」
 そして血の混じった涙で顔をぐしゅぐしゅにしながら、師の胸に顔を埋めて慟哭する。
 「やはり、禁じられた落城の譜は、吹くべきではなかったのだーっ!」
 彼の腕の中で、師の体はたちまち力を失い、薄く開いた唇からは、最後の吐息が音もなく抜けていく。
 「ううーっ! 許して下さい、古谷先生! 私が悪いのだっ! 私がーっ!」
 彼が京極高校を退学したのは、それからまもなくの事であった。

 ところが、京極高校が彼を許すはずがなかった、上意討ちの追っ手をさしむけたのである。
 浅見がその第一番目の追手を斬ったのは、学区の境の医者の家の前であり、第二番目の追手を喫茶店で斬ったのはそれから十日後の事であり、第三番目の追手五人を斬ったのは一月後であった。半年後には、第八番目の十五人の追手が彼を襲ったのである。
 彼が如何に居合術にすぐれていようとも勝負は容易なことではない。十五人の彼らは腰抜達の集りではない。もとより校内から選抜された腕の立つ者ばかりである。彼が六人を斬ってやっと山中に逃げてきたのは、それから三時間後であった。しかし彼は大きな傷を数刀身に受けていたのである。
 「なぜこれほど拙者を! 追わねばならぬのです!」
 人の血と脂を吸って鈍く光る太刀を杖にして、よろよろと山の岩場を上りながら、吐き捨てるように言う。
 「うう……校長! いいかげんに許していただく訳にはいかぬのですかっ! むむう!」
 この半年の間に彼はすでに五十九人の追手を斬っていたのである。
 「いくらなんでもいいかげんに追手をさしむけるのはやめて下されーいっ」
 と、大声を出して叫びたいほどである。
 また、今日まで死んだ五十九人の追手の中には、幼い頃からの友人もいた。恩ある人もいた。そしてまた、自分が剣を仕込んだ後輩もいたのである。
 しかし、自分が生きるためには斬らねばならなかったのだ。
 「とはいえ、あまりに無残ではないか! 校長さえ、校長さえ許してくだされば、私は五十九人の親しい人々を斬らずに済んだものを!」
 浅見秀行は、たかが校則がこれほど人の人生を狂わす理不尽に、はらわたが煮えくりかえる思いがし始める。
 「なのに校長は、次から次へ追手をさし向けてくるとは! ぬぬ」
 血に霞む目を、意思の力でかっぴらいて、そこにいないかつての主君の姿を網膜に焼く。
 「憎い!!」
 あまりにも執念深い校長を憎まずにはいられなかった。
 「おーい! いたぞ!」
 「あそこだ!」
 岩場の下から声が聞こえる。岩の後ろに隠れて、姿は見えないはずだが、血の跡を辿ってきたのであろうか。
 「む! 来たか!」
 浅見は刀の柄を握り直す。しかし、そこに達人なら誰しも感じる、手のひらから刀に魂が通い、一体化する感覚が、今は起きない。指先と柄の間に、迷いが挟み込まれている。
 (これ以上彼らを斬りたくない! そしてまた自分も斬られたくない!)
 悲痛な願いが彼の脳裏を走る。
 (しかし斬らねば斬られる!)
 彼はゆっくりと立ち上がり、近づく彼らに向かって体勢をととのえた。
 が、生きたいけれど、もはや彼らと戦って勝てる体力はなかった。
 (どうせ勝てぬなら、これ以上彼らを傷つけることなく、いさぎよく斬られて死のう)
 そう決心すると全身の力が抜けていった。
 野学生の一段が彼を助けたのはこのときである。
 助けたというよりも、野学生は彼らの教科書や筆記用具をうばうために彼らを襲ったにすぎないのだが。
 結果として浅見は野学生のために助かったのである。
 「おう! あそこにも一人おるわい」
 ぼさぼさの頭に破れた学生帽を被せた野学生の一人が、倒れている浅見を見つける。
 「どーれ、こいつの鞄も開けさせてもらうかの……ほう……Z会の参考書をもっとるな」
 野学生はそのまま収穫品を持って立ち去ろうとする。しかしその学ランの裾を掴んで離さない者がいた。
 「む! こやつ!」
 死体だと思っていたものが動いて驚いている野学生に、浅見秀行は息も絶え絶えに話しかける。
 「たのむ……俺を助けてほしい……このままでは死ぬ……」
 「何を!? 助けてくれ?」
 その言葉を野学生はあざ笑う。
 「アホォッ! 死ね!」
 野学生は持っていた鉄パイプを振りかぶる。
 「待てい!」
 それを鶴の一声で止めるジープの上の男。右目に黒い眼帯をしていて、その気迫からいって、この野学生の集団の首領であろうか。
 「その男、仲々の使い手とみた! 役に立つこともあろう。たすけてやれ!」
 「は……」
 野学生らは、その命令に忠実に動く。
 「命冥加なやつめ……来い! 俺の車に乗るのだ」
 こうして浅見は、野学生達の根城に連れて行かれて、そこで応急手当を受けることが出来たのであった。
 「名前はなんというのか?」
 「浅見源三郎……」
 「浪人してまもない様だが……どこへ通っていた」
 「京極高校……」
 「何! 京極高校!!」
 首領の顔つきが変わる。
 「ふ~~む、京極か……」
 「お知り合いの方でも?」
 「いや! それで? 何故に京極高校を退学したのかい?」
 「落城の譜……」
 浅見は、寝言を言うようにそう呟く。
 「ただそれを吹いたばかりに、校則違反と罵られ、この半年というもの追われどうしのありさま」
 それを聞いて、首領はだいたいの事情を理解する。
 「なるほど……それで彼らは上意討ちとしておぬしを……なるほど」
 そして同情をにじませた声で、浅見を慰めようとする。
 「ただ一曲の譜を吹いただけで上意討ちをかけられてはたまらんのう。きがねは一切無用だ。ゆっくり滞在して傷をなおすがよい……」
 「何から何まで忝けない」
 彼が野学生の一員となったのはこの時以来である。
 野学生らの目的は、なんと京極高校を乗っ取ろうというものであった。その為に彼らは、通学通勤中に学生や教師を襲い、教材や武具を奪っていたのだ。彼ら高校からも大学からも排除された浪人どもは、それらを使って日夜私的な勉強会練習会を開き、文武両道の研鑽に励んで、いずれくる決戦の日、もう一度日の当たる道を歩ける日に備えているのだ。
 首領は名を黒崎道順といって、彼の父は黒崎高校の校長であった。しかし彼が23才の時、京極高校によって亡ぼされた恨みがあった。
 「手伝ってくれるだろうな。京極高校を倒す事に!」
 「いかにも!」
 故郷を野学生の一味となって亡ぼそうというこの相談は、決して彼にとって楽しいものではなかった。
 (しかし執拗な校長を倒さねば、「追われる身」から逃れることの出来ぬ俺だ……)
 校長を倒せば、罪のない、恨みもない多くの教職員がそれによって不幸になるかも知れぬ、という思いやりは今の彼にはなかった。半年間に五十九人の人を斬ったためか、もはや彼には人間の血は流れていなかったのだ。
 野学生はただの野盗ではなかった。剣道部もおれば、弓道部もおり、科学部いれば、技術部もいた。
 それらがみな五人から十五人くらいの部員を持ち、全員を合計すれば三百人近い人数であった。しかし、三百人の人数で一万人ほどの京極高校を倒すにはもとより特殊作戦でなくてはならぬ。作戦は半年にわたって続けられた。
 彼が手伝う事は、校内の様子を話すことであった。実際この眼で落城のありさまを見たい……と思うようになったのは、この頃からであった。
 計画は一年後実行に移された。白々と夜の明けかかる頃、学校のあちこちで爆発が起こり、みるみる炎となって燃え上がった。
 校内の太鼓は、近辺に住む教職員に危急を知らすべく宿直によって狂ったように連打された。慌ただしく駆けつけた者は、正門前に仕掛けられた技術部が化学肥料の硝酸アンモニウムから作った爆弾によって、一人残らず吹っ飛んだ。
 校内の女達は泣き叫び走り回り、空堀に身を投げて自殺した。
 突然の大事件に気の動転している校内の教師らにはすでに勝ち目はなかった。
 武装した野学生軍の総攻撃で一人残らず殺されたのである。
 「うわははっ、どうじゃい! 思い知ったか、京極高校!!」
 もと校長先生であった人の首は一個の「物」に変わっていた。
 浅見源三郎は無表情にただそれを見るだけであった。
 焼け残った大会議室を根城として、黒崎道順は新しい校長先生となり、主立った野学生らは教師となり、その他の者は生徒となった。
 京極高校の生徒で生き残った多くの学生らは、降参して低学年の生徒となった。服従せぬ者ははじからぶち殺された。
 かつて部活において剣を教えた後輩の若者も殺された。幼友達の者も多く殺された。恩ある人も目の前で殺されていった。
 「浅見っ! きさまやはりスパイであったかっ!」
 と呪って皆死んでいった。
 生徒になるのも嫌! 殺されるのも嫌! という者は夜逃げ同様に退学していった。
 故郷を去りかねる者は、高校中退者として、フリーターや日雇い労働者として社会の底辺で働いた。
 浅見源三郎が「気違い」になったのはこの頃である。
 「ウワハーッ! ヒヒヒヒヒヒヒ! キキキ!」
 「気がふれおったわ」
 「発狂しおったわ」
 「もはや必要ない男でござるな。斬りますか?」
 新しく教頭になった男が新校長にそう尋ねる。
 「いや……あいつのおかげで我らは成功できたのだ。せめて死ぬまで面倒みてやらねばなるまいの」
 浅見が哀れな牢屋生活を送る様になったのは、この時以来である。
 「イーーーッ! ヒヒヒヒ! キキキキキキ!」
 「そオれめしだ! 食えい、この死にぞこないめが!」
 「へへへへ……ハラへった! ハラへった!」
 尋常でない目つきの浅見は奪い取るように皿を受け取ると、ぼろぼろこぼしたり口の周りをべたべたに汚したりしながら、手づかみで不味い給食を口に放り込む。
 「ウメーウメーおいしー!」
 「バッカメ! 相手にはなれねえよ!」
 そんな折、大会議室でこんな会話がなされていた。
 「ところで首領」
 「何い!」
 「いや、校長!!」
 教頭が言い直す。
 「学校も焼け跡のままでは何かと不便。新校舎など建築されてはいかがでござろう」
 「いかにもの……」
 校長は至極最もな話としてうなずく。
 「我らの校舎として立派なのを築こう! その方に普請担当を申しつける! やれ!」
 「は!」
 早速校内全ての生徒にプリントが配布され、各家庭に発布が行き渡った。

 告
 新校舎建築に付、各家より二名以上の人夫を差し出すべし
 一名も出せぬ家は米二俵を毎月差し出すべし
 右に従わざる家は家族全員を斬罪に処するものなり

 「なんつうてかいてあるだべ?
 「ガヤガヤ」
 「新校舎を築くから二名以上の人夫を出せ……もし一名も出せぬ家は毎月米二俵を出せというのだ。この命令に従わない家は家族全員を殺すと書いてある!!」
 「ええっ!」
 「おらァとこじゃ、おれ一人が働いてじいさんばあさんくわしてるに、おれが行っちゃっちゃどうなるい! 米二俵なぞありゃしねえ!」
 「こりゃア大変だ!」
 全生徒の家族に動揺が走る。
 「ひえーっ! 助けてくらっせーっ! ギャーッ!」
 少しでも協力を渋った家庭は、見せしめに容赦なく殺された。
 「よいかーっ! 言うことを聞かぬ奴は、こうなるのだ。みておけーっ!」
 それを遠巻きに人々は見つめる。
 「ブルル! なんておそろしい事になったこった」
 「米二俵差し出すにもないわしらだ。吾作! 父っちゃんと一緒に行こう」
 「よいかーっ! のろのろしてやがる奴は容赦せぬぞ!」
 建築現場は人々の汗と涙とうめき声に充ち満ちていた。生徒の家族ばかりでなく、もと京極高校の用務員であった家からも二人ずつ出ていた。老人と幼い子しかいない家では夫婦で出ていたし、母娘で出ている家もあった。彼らは大きな石を運び、焼け焦げた木を運んだ。膝をがくがくさせながら、肩に赤黒い跡を付けながら、倒れても倒れても鞭の一降りで無理矢理叩き起こされながら。山に慣れぬ者たちが材木を運ぶためにかり出され、がけから落ちて死んだ。足場から落ちて死ぬ者も多かった。集金を滞納するものや、過労の為に動作の鈍った者は次々と斬られる有様であった。
 「このままでは我々の生きる道がない! 一揆を起こそう!」
 「おゝ!!」
 と、計画した者は、ニンジャによってたちどころに発見され、一人残らず殺された。
 今や人々のやり場のない怒りは自然に、牢屋の浅見を呪うようになったのである。
 「こやつのおかげで我々はこんな悲惨な目にあわねばならぬのだ」
 「こいつがあの野学生どもをひきよせたのだ! 憎い奴だ!」
 と牢屋の中の浅見に石などを投げつけるのであった。
 「イタア~イ! イタイヨーッ!」
 人々の働きにより六年後、立派な新校舎が築かれ、真ん中には時計塔もそびえ立った。自分たちの血と汗をしっかり吸い取ったその建物を、人々は恨みの眼で見上げるのだった。
 「うわっはっはっ、立派立派! 見事なものじゃ。明後日は大安吉日! 盛大なる落成式を行おうぞ!」
 「ハハーッ!」
 日の当たる世界が、人々の呻吟の上に築かれた栄華を極めようとしていたころ、浅見源三郎秀行牢の中のくらい隅で、一人迷妄の世界に沈んでいた。今や、石を投げる者もなく、彼の前に現れる人間は食事を運ぶ係の役人だけで、それ以外は人が来ることはめったにない。人目をはばかることもなく屁をひり、人目をはばかることなく放尿する。もはや、誰も狂人なぞ相手にしなくなったのである。
 そんなとき、現れたのは、老僕の爺やであった。
 (やはり噂は事実であったか)
 爺やは誰に見られることもなく牢屋に近づく。
 「若様」
 牢屋の隅に猿のようにうずくまっている、髪も髭もぼうぼうの不潔な男にそう声を掛ける。
 「じいでござりまするぞ。わかりませぬか。じいですぞ」
 音に反応して、顔を上げる。しかしその目は焦点も合わず、明らかに何も見ていない。
 「何と云う哀れな若様……お分かりにならぬのかよ……」
 爺やは、思わず泣き崩れてしまう。
 「おかわいそうに!」
 しかし、いつまでも泣いていても仕方がない。
 「そうだ。若様は音楽好きだ。そう思ってトランペットを持ってきたのだった。今の若様では、とてもお吹きになれないだろうから、わしが吹いておなぐさめ申し上げよう」
 爺やは背中に背負った袋からトランペットを取り出す。
 「よーし、名曲でも吹いておこしてやるかな。うまく吹ければいいが」
 爺やはトランペットを唇に当てて、息を吹き込もうとするが、どうにも音が出ない。
 「うまくないね。あ、そうか。ベロをこうするんだっけ」
 爺やはマウスピースをもう一度唇にあてがって、精一杯息を吸い込む。
 「今度こそは名曲を。はらに力を入れて……」
 ぶぴーーーーーーーーーーーーーっっ!!
 「ぎゃあああ!」
 その音に浅見源三郎秀行は飛び起きる。そして、雲脂を飛ばしながら首をぶんぶん振り回し、虱のたかった髪をぼりぼりかきむしると、
 「む~~」
 と唸って、きょろきょろと周りを見回す。まるで長い長い夢から覚めたような案配だ。
 「じいではないか。何をしておるのだ。そんな檻の中で?」
 浅見は、爺やを指さして、心底不思議だという顔でそう尋ねる。
 「え? お、檻の中にいるのは若様ですよ!」
 爺やは、驚きのあまり何が起こっているのか理解する前に、そう答える。
 「なに、私だと?」
 浅見源三郎秀行は、初めて自分が今どこにいるかに気づく。
 「おゝ、ほんとだ!」
 しかし、どうして自分がそこにいるのかまでは思い出せない。
 「一体これはどうした事だろう」
 そこでようやく爺やは、かつての主人の顔つきが、往事の鋭敏さを取り戻していることに気づいて叫ぶ。
 「若様っ! あなたは正気になられたのだ!」
 爺やは牢屋の格子に抱きつきながら、今度は喜びに泣き叫ぶ。
 「よかった! よかった! よかった! うあ~~」
 浅見源三郎秀行は、落ち着いた爺やから事の次第を聞く。
 「そうか! 親しい友人を五十幾人も斬ったので、それからおかしくなってしまっていたらしい」
 少しずつ記憶を取り戻し始めた浅見は、今の絶望的な状況に思いを馳せる。
 「で? お前はどうして今頃ここへ?」
 「若様が京極高校を退学なさったので、私も故郷へ帰りましたが、この噂を聞き、新校舎建築の人夫にまぎれてこうしてやってきたのです。ところがです」
 爺やもまた、喜びが一通り過ぎ去って、これからの難事に思いを致し始める。
 「なに? 父兄達が私を?」
 「父兄達は野学生を恨む以上に、野学生の手引きをして学校を乗っ取る手助けをしたあなたを恨んでいます。このまゝお逃げください。正気になったと分かれば殺しに来るでしょう!」
 浅見はその言葉を深く受け止め、自分の身の振り方を考える。
 「大変なことになったものだな……よし……」
 そして、結局は、かつて友に殺されそうになったときに、結局は友を殺すことを選んだあの、生きたい、という気持ちが行動を決定した。
 「今夜のこぎりを持ってきてくれ。逃げるぞ」
 その夜、黒洞々たる闇に紛れて浅見源三郎秀行はどこへともなく逃げた。爺やは、その背中に向かって、
 「わたしの田舎へ来られてはいかがです、若様」
 と遠慮がちに声を掛けたが、浅見源三郎は、
 「さらばだ。達者での」
 と答えただけだった。その後の彼の行方は杳として知られていない。
 そして、それから十数年の月日が流れた、秋のある日、東海道を歩む、二人の学生の姿があった。一人は高校生、もう一人は大学生か浪人生であろうか。荒っぽい風に逆らいながら、道をとぼとぼと歩いている。
 「兄上」
 年若い方が話しかける。
 「もはや旅も出来ませんぞ」
 兄と呼ばれた方は前を向いたまま、その言葉を聞いているのかすらよく分からない風情で歩き続ける。
 「一文の旅費も食費もない我ら。このままでは飢え死にするのを待つようなもんです。一つの土地にとどまって、剣術道場でも開き、金儲けでもしながら、学校に通わねば、出席日数だって足りなくなる」
 「ウム……何とかせねばならん」
 ようやく口の重い兄が、言葉を発する。しかしそれはますます弟を呆れさせたようだ。
 「困るなァ。兄上はいつもそれだ。ほんとになんとかせねばならんのですよ!」
 「だまれ。お前があれこれ考えずとも今日まで俺が何んとかしてきたではないか。心配するな」
 「小刀を売った事が何んとかした事ですか! 兄上! いまに我々は大刀もなくなってしまうかも知れませんのですぞ」
 弟は首を横に振りながら、喋り続ける。兄が自分の言葉にまともに反応せず、何か別の事に気をとられていることにいらいらしているようだ。
 「いや、大刀どころか、着物まで食い物に替ってしまうかも知れない」
 「だまれと云うのが聞こえんのか」
 兄が突然立ち止まって、弟に有無を言わせぬ口調で言う。
 「耳をすませてみろ。風にのって来る音を聞くのだ!」
 (風?)
 弟もようやく気づく。風の中に、わずかに哀愁漂う金管の響きが交じっていることに。
 「トランペットだ!」
 兄も頷く。
 「まさしくトランペットの音に違いないな」
 「兄上、もしや!」
 「うむ!」
 兄弟は顔を見合わせて、音の源に向かって走り出す。
 「あっちだ!」
 そこは、松林で東海道から隠された、海岸であった。ざざーんざざーんと寂しげに波が寄せては返す砂浜の上に、一人の男が高らかにトランペットを吹いている。
 兄弟が砂を踏んで近づいていくと、男は吹くのをやめて振り返る。髭を生やし、縛った長髪を背中に垂らした、目つきの鋭い男である。
 「何かご用かな」
 風の吹きすさぶなか、相手の尋常ならざる気配を感じ取ったのか、少し警戒を声に滲ませて、男が問いかける。
 「唐突な質問で恐縮に存ずるが、珍しくもトランペットを吹く御仁ゆえおたずね申す。貴殿、もと京極高校の生徒、浅見秀行どのでは?」
 男は慌てる様子もなく静かに答える。
 「さよう。いかにも浅見秀行」
 それに兄は強く頷く。
 「やはりのォ。トランペットの名人と伺っておったが。やはりあなたであったか」
 二人は荷物を傍らに投げると、学ランの上を脱いで、戦闘態勢を整え始める。
 「我らは古谷勘兵衛を父とする者であってな。ようやく仇敵に巡り会えた訳でござる」
 「古谷……」
 浅見秀行は、懐かしそうにその名前を口にする。そして、深い諦観と覚悟に満ちた顔で呟く。
 「ついに来たか……」
 「年のために申し上げておく」
 腰に差した刀に片手を掛けた兄が、話し続ける。
 「あなたに対する恨みは父を討たれた我々だけではない。あなたの売国行為によって、野学生共に殺された故郷の人々のためにも、あなたを斬る」
 兄弟二人が、退路を断つように、浅見秀行の両側に回り込んでいく。
 「よかろう……今更何を語ったとて何んの得にもならぬ」
 「我らとて聞きたくもない」
 「まて、手向かいはせぬ」
 浅見源三郎秀行は、刀を相手に投げ捨てる。
 「死にのぞんで、最後の一曲をトランペットで吹かしてもらいたい」
 その言葉に弟は、困惑げに兄の顔を覗き込む。兄は、少し感心した顔つきをして、
 「よかろう!」
 と言う。
 「かたじけない」
 彼は、自分の過去の行為を恥じていた。自分が種を蒔いておきながら、学生・町人が悲惨な目にあっているのを救おうともせず、平然と牢からで、たゞ自分一人の平和と音楽だけを求めてきたこの十数年だったが、結果は何一つ成功することもなく、大検は受かったものの、結局大学に行くことはなかった最終学歴高校中退の浪人でしかない自分を恥じた。だから、せめて勘兵衛の子ら二人に斬られて死ぬのが、自分を始末する潮時だと覚悟したのである。
 しかし、死にのぞんで吹くこの落城の譜が、自分の人生を狂わせたかと思うと、この譜が皆をも不運にしたかと思うと、今彼ら二人に斬られて死ぬ事が、何やら馬鹿らしく思われてきた。
 その時!
 でいやあーっ!
 兄弟二人が同時に刀を振りかぶって突進してきた。逃げ場はない。浅見源三郎秀行は咄嗟に、兄の懐に潜り込むと、手に持っていたトランペットで思い切りその頭を殴りつける。
 ゴキン!
 鈍い音がして、トランペットの朝顔が割れる。
 とーーっ!
 その背中に襲いかかろうとする弟の突きを、体を横向きにして間一髪避けると、その顔に割れてぎざぎざになった断面をぐざっと顔に突き刺す。
 と、瞬間の中に、二人を殺してしまったのである。
 兄の頭骨には大きくひびが入り、弟の顔は両目が飛び出して、共に即死していたのである。
 「あああ! 何と云う事を!」
 浅見源三郎秀行は二人の死体を見下ろして、自分の情けなさに涙が止まらなかった。
 故郷の、もと京極高校、いま黒木高校の校舎へ、彼が現れたのは、それから二ヶ月後であった。
 「何者だ!」
 「浅見秀行と申す者、当校のOBでござる。校長に面会いたしたい」
 それはすぐにすっかり板についた校長先生の元に知らされる。
 「何い、浅見!?」
 「は! 門前に来ておりまする」
 「ウーム」
 校長は少し考えて後、にやりと口の端を上げて、言う。
 「面白い! 呼べ!」
 「は!」
 教職員の間で、たちまちひそひそと噂話が駆け巡る。
 「浅見と云うと、かなり以前何者かの手助けで牢を出た気違いの……」
 「そうらしいの……」
 「噂によると、気違いはなおっているとの事だがの……」
 「む」
 「来た」
 浅見源三郎は、社会人らしいスーツに背中に大きな黒い箱を背負って、来客用のスリッパをぺたぺたさせながら、会議室に入ってくる。
 「久しぶりだの、浅見」
 「十数年ぶりでござる」
 「何んだ、その箱は?」
 「おみやげでござる」
 「おみやげだと?」
 「左様」
 浅見は、持っていた蝋燭に火打ち石で火を付けて、片手に持ちながら、列席の教職員を見回す。
 「ところでこの席の中に、もと京極高校の職員がおられますかな」
 ざわざわがやがやと、周りが騒がしくなる。
 「いるならばなるべく遠くへ追っ払っていただきたいのでござるがな。このみやげものは、その者らにみせたくないものでござってな」
 「よかろう」
 校長は頷く。
 「散れっ」
 その命令一下、京極高校から野学生のもとに下った職員らは、会議室から退室していく。去って行くもののなかには、
 「くそっ、浅見め!」
 と罵詈雑言を呟くものもいた。
 それを浅見源三郎秀行は、無言で聞いていた。
 「時に首領、いや、今は国に認可された学校法人の主となっておられる故。校長殿と呼ぼう」
 彼は蝋燭を片手に静かに、異様な迫力を帯びながら話し始める。
 「そして、もと野学生の者共も聞けっ!」
 会議室に彼の怒号が響き渡る。
 「何んだと!」
 「汝らと共に、この京極高校を襲い、校舎をうばいとったが、俺はやはりここの生徒だ。母校に汝らをのさばらせておくわけにはゆかん。だから復讐に来たのだ」
 「ウヌ! 気違いめ!」
 校長は立ち上がる。
 「斬れっ!」
 「おお!」
 元は荒くれ不良学生だった教師達が、武器を片手に浅見源三郎を囲んで袋だたきにしようと駆け寄る。しかし、浅見源三郎は、それを見越して、床に置いた箱を蹴飛ばす。中から、褐色の粉末がこぼれる。
 かつて京極高校急襲の折り活躍した化学の教師がそれを見て叫ぶ。
 「火薬だっ!」
 周りの教師もそれを聞いて、慌てて逃げようとするがもう遅い。
 「一緒に死ねっ!」
 浅見源三郎秀行が蝋燭を火薬に投げ入れる。
 バーーーーーーーーーーーン!!
 爆発は、会議室と隣の職員室、校長室を丸ごと吹き飛ばし、窓ガラスを校庭中にまき散らして、さらに同じ階の全ての部屋へとたちまち火の手を広げた。
 めらめらと燃える火にあおられて、教職員も学生も逃げ惑い、煙に巻かれて目も見えず息も出来ず、大混乱に陥って覆い被さるように階段を転げ落ちていく。柱が次々と焼け落ち、教室が溶けるようにつぶれ、先ほどまで授業を受けていて逃げ遅れた生徒達のうめき声が、無間地獄の様を呈している
 そんな中を、校長先生が頭から血を流しながら、壁伝いに歩く姿があった。
 「むむ。まさか火薬を持ち込むとは……」
 校長先生は自らの判断間違いを呪った。
 「斬るべきであった。たちどころに!」
 それは、浅見が帰ってきたときのことであろうか。それとも彼が狂ったときであったろうか。
 「奴のためにこの校舎を焼かれてたまるか。だ、だれかおらぬかーっ!」
 その叫びに動く影。燃えさかる炎の中から現れたのは、やはり顔中から血を流す、浅見源三郎秀行の鬼神のごとき姿であった。
 「ひにくなものだ。あなたに助けられた俺ではあるが」
 彼は刀を片手にゆっくりとかつての仲間であり仇敵でもある男に近づいていく。
 「あなたは俺の母校をだいなしにしてくれた」
 その目は、ぎょろりと見開かれ、激越な光を帯びて、相手だけを見つめている。
 「ゆるさぬ!」
 「ぬぬ、気違いめ」
 その気迫に、さしもの校長も気圧される。
 「とれっ! そこに倒れてる奴の剣を!」
 「おのれっ!」
 しかし、浅見の咆哮に、かつて在野の学生組織の首領として、力尽くで荒くれ学生共をまとめ上げていたころの矜恃が蘇り、刀を拾って、この復讐の鬼に面と向かわせる。
 もう、向かい合う二人にとって、阿鼻叫喚の炎熱地獄さえ無となる。お互いにお互いだけが世界の全てとなる。燃え落ちんとしている校舎の中で、炎の光を反射する刀の煌めきだけが、二人の言葉となる。
 「覚悟!」
 浅見源三郎秀行は、切っ先で天を指し示すような八相の構えをとり、校長は、相手の左目に切っ先を突きつけ、気迫で脳をえぐり取るような晴眼の構えをとる。
 「りゃあーーっ!」
 浅見が、飛び込みながら、打ち込む瞬間にわずかに右に軸をずらしながら、大上段に刀を打ち込む。校長は、それを刀で受け止める。すると、浅見はすかさず校長の腕を切り落とそうと小手打ちに行くが、校長、それを間一髪鍔で受け止める。衝撃に精緻な飾りのついた鍔が欠けるが、次の瞬間、校長が刀を横に薙ぐ。
 「ぬおおっ!」
 ぎゃりんと、金属が擦れ合う音がして、二人とも飛び退く。まだ相手に致命傷を与えていない。そして、再びにらみ合う。ぱちぱちと木が弾け、魂魄のごとき火の粉を吹き上がる。黒々とした煙が囂々と逆巻きながらたちまちそれを飲み込む。その黒雲を突き破って、すさまじき紅炎が舞い狂う。それにも二人は微動だにしない。それどころか、二人の気迫に炎も煙も避けて通るようですらある。
 「「おーーーっ!」」
 二人の叫び声が重なる。二人が同時に飛び出す。二つの剣の軌道が交差し、そして赤い軌跡を描きながら離れる。
 胸元から大量の血を吹き出しながら、校長が倒れる。それを待っていたかのように、額を大きく割られた浅見源三郎秀行が前のめりに倒れた。
 廊下には、もう生きているものの姿は全くなかった。あとはまるで意思を持つように這い回る炎の舌が跳梁跋扈するばかりだった。それらはたちまち、全てを嘗め尽くし、人々の汗と血で出来た校舎は轟音を立てて崩れさっていった。
 その黒い煙は、学区のすべてから見えたという。

 終

 (この作品は、平田弘史作『落城の譜』を文章に起こし、現代の高校を舞台に乱暴に改変した小説です。ネタ本としては、ちくま文庫『名刀流転・落城の譜』を使いました。台詞などは、ほぼ原作をそのままなぞっています)