先日映画館で、『フォーリナー/復讐者』を見てきた。ジャッキー・チェンが終始死んだ目の復讐者を演じることで一部で有名になった映画である。
なるほど、ジャッキーの目は死んでた。最初の方で少し笑顔はあったものの、それも非常に静かな笑顔で、いわゆる「ジャッキー映画的な笑顔」ではなかった。
しかしそれ以上に、とても感銘を受けた点がある。
この作品において、「復讐が何も生まない」ことである。
ネット上で『「復讐は何も生まない」と言って、復讐譚に水を差す人物を揶揄する人がいる』という言説を私は何度か見た。
私は正直、物語をそれほどたくさん享受しているわけではないので、「復讐は何も生まない」を復讐譚に水が差される物語の例をすぐには出せない。
それと、ネットもそれほど享受していないので、『「復讐は何も生まない」と言って、復讐譚に水を差す人物』もあまり見た覚えがない。
『「復讐は何も生まない」と言って、復讐譚に水を差す人物を揶揄する人がいる』という言説は見た覚えがある。
しかし、1つ言えることは、多くの復讐譚において(たとえ作中で「復讐は何も生まない」という主張がなされていようと)、復讐は何かを生んでいることである。
正の方向か負の方向かはともかく、状況を何らかの意味で動かす。それが物語を動かすからこその「復讐譚」のはずだ、普通は。
私も実は小説を書いたりするが、もし復讐をテーマに話を書いたら、素朴に「復讐が状況を動かす話」を書いてしまうと思う。
なので、『フォーリナー/復讐者』には感動した。そして、これを読んでいる人はぜひこの映画を見て欲しい。
この映画でジャッキーは復讐をしようとする。しかし、ジャッキーはほとんど(ほんの、ほんの一部を除いて)、状況を動かすことができない。
ジャッキーは復讐の相手ではない相手をひたすらさいなみ(この人が本当にかわいそうなので見て欲しい)、殺さなくても死んでいたであろう相手を殺す。
大きな状況はジャッキーとは全く関係ないところで動く(フォーリナー、という題がここで生きてくる)。
そして、ジャッキーと関係ないところでも、復讐が復讐を呼ぶ「復讐の連鎖」が起きている(先ほどのかわいそうな人は、ジャッキーの復讐と復讐の連鎖の両方に巻き込まれていて、とてもかわいそうなのだ。自業自得とはいえ、本当にかわいそうなので、本当に見て欲しい)。
ジャッキーの状況を一切変えない復讐の何も生まなさが、状況を変えようとしている復讐が、状況を変えているように見えて、実は何も生んでない様子を際立てているようでもある。
「復讐は何も生まない」という主張をする登場人物が嫌いな人も、「復讐は何も生まない」と本当に考えている人も、「復讐」が好きな人も、みんな見て欲しい。
物語においてはやはり主張するな、示せ、ということだろうか。