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2011年01月

メタルチェロ軍団 Apocalypticaを聴こう

世の中にはもっと適した道具があるのに、それをわざわざ適さないもので無理やりやることにより技術を競うというジャンルがある。音楽の場合、とりあえずクラシックの楽器でやってみました、というのが定番の一つだ(楽器じゃないものでやってみました、も多い)。というわけで、フィンランドの変態達、Apocalypticaを紹介しよう。
もともとは超名門シベリウス音楽院に所属していたチェリスト四人組が学内のイベントで彼らの好きなメタルバンドMETALLICAのカヴァーをしたのがきっかけでデビュー。その後、さすがにチェロだけでメタルをやるのはつらかったのかドラムを入れて、メンバーがオーケストラに参加するために一人抜けて今に至る。
というわけで聞いてみよう。まずはデビューのきっかけとなったMETALLICAカヴァーから。


見事な風車ヘドバン


ギターソロまで再現とは


チェロってそういう音を出す楽器でしたっけ?

とまあ、海賊みたいないで立ちでよおやる人たちですよ。でもフィンランドでは相当人気のある人たちなので、公共のイベントにも呼ばれたりします。
それがこれ。

2005年世界陸上ヘルシンキ大会の開会式

フィンランドではメタルが老若男女問わず国民的に人気なので、こういうところに呼ばれるわけだね。子ども向けのメタルまであるわけですから変な国だ。ちなみに日本のテレビ局はここを削って放送しなかったとか。

ではpvを一つ紹介して今回は終わりとします。

このブログの

アクセス数が上がったり下がったりするのを見て、それが何を意味しているのかを考える毎日です。数字にアルファベットを当てはめてみたり、いろんな数字でmodを取ってみたり、並び変えてみたり、何個か置きにとってみたり、差や比を取ってみたり、平均と標準偏差を取ってみたり、前後左右への升目の移動の指令所だと考えてみたり、フーリエ級数やL関数の係数と思ってみたり、ひたすら滝に打たれながら唱えてみたりといろいろ試してみるんですけど、未だにフリーメイソンの陰謀を証明してくれはしません。なんでだろ?

対称性と勾玉

だいぶ前になるけど、吉野ヶ里遺跡に行ってきた。
そこで勾玉づくりを体験してきたので、そのときの作品の紹介をさせてくださいな。

こんなんです。

magatama3







横から見ると。

magatama2







普通の勾玉は、

BlogPaint






という感じだから私のは少し違う。
勾玉を縦に貫く軸に対して180度回転すると元の形に重なるような対称性があるのだ。ちなみに下から見ると、

magatama1







という感じ。

作品のイメージは「もののけ姫」のオッコトヌシがタタリガミになりそうになったとき体中にまとわりついていたアレ。もしくは、「千と千尋の神隠し」でハクがゼニーバから盗んだはんこに憑いてて千尋に踏まれたやつ。


どうやってつくるかというと、まず直方体の形をした石が貰える(300円くらいだったっけ?)。次に、その石の削りたい部分に鉛筆で色をつける。で、コンクリート片に擦り付けて色のついたところを削る。ここまでで、勾玉の形があらわれる。それを、やすりとサンドペーパーで磨いて紐を通せば完成だ。

私は石を削りながら、自分の前世は弥生人だったんじゃないかとすら思った。勾玉をつくっていると心がいっさいの邪念から開放されるのだ。思わず夢中になってずいぶん長い時間石を削っていたので、その間にカップルが3組も私の目の前の席に座って、削って、去っていった。カップルで勾玉づくりとは、どういうつもりだろうか?勾玉はいちゃいちゃじゃれあいながらつくれるような甘いもんじゃないのだ。デートで吉野ヶ里を訪れるのは結構なことだが、勾玉をつくるのなら、まず私語を慎み集中を最大限に高めなくてはいけない。だいたい、ちゃらちゃらとした軽いノリで削られた彼らの勾玉を弥生人が見たら何と言うだろう?あれでは到底、現代人としての面目を保てない。

ところで、私の勾玉は‘竹とんぼ’と同じように回転対称になっているわけだけど、回転対称だと何がうれしいのか。利点をひとつ挙げるとすれば、それはつくりやすいということだ。彫刻をするとき、私のような素人には、人間等の動物のような左右対称な物体を彫るのに比べて、回転対称な物体を彫る方がやりやすい。というのは、左右対称な物体の右側と左側は形が同じようでも向きが違うからだ。例えば、人間の手のひらがひとつ道路に落ちていれば、ただちにそれが右手なのか左手なのか判断できるだろう。これは、右手と左手では向きが違うからだ。向きが違うと彫り方を変えないといけない。で、彫り方を変えると、素人の場合、形が変わってしまう。人間は対称性には敏感なので、左右の対称性が崩れたとたんに、その作品がぎこちないものに見えてしまうのだ。一方、回転対称な物体、例えば竹とんぼの両方の羽は全く同じ形だ(区別がつかない)。だから、それぞれの羽を同じ要領でつくることができ、結果的にとても対称性の高い、見た目にもきれいな作品になりやすい。ただ、左右対称な彫刻をつくるときに、人間の体が左右対称であることを利用するというのもある。つまり、例えば、仏像の左肩を彫るときは右手で‘のみ’を打ち、右肩を彫るときは左手で打つというようなやり方だ。これは、右利きの人でも、左手を右手と同じように動かす訓練をすればできるようになる。実は、私も昔、仏像を彫ったときこの方法を使った。弥生人がつくった一般的な勾玉は左右対称だった(勾玉は左右対称な生物であるカンガルーの子供に似ている)。彼らも左右の手を使い分けて石を削ったのだろうか?

むかしむかし、最初にむかしむかしと語ったころ

むかしむかし、まだ昨日より明日の方がずっと多かったころ、誰もむかしむかしと語ることはなかった。みんなあしたあしたと語っていた。そんなむかしむかしに一人の人がむかしむかしと語りはじめたのだが、誰もその話を理解できなかった。なぜならそんなむかしにはまだむかしなんてなかったのだから。でも今思えばその人は予言者だったのかもしれない。むかしむかしと語る人が予言者だなんておかしな話だけれど、それでもその人はいつか明日より昨日の方が多くなり、誰もあしたあしたとなんて語らなくなって、みんながむかしむかしと語りはじめることを、予見していたのかもしれないのだ。その人が語ったその内容が今に伝わっていないことが、重要なのは内容ではなく、その語り方であったということを傍証していると言えるかもしれない。多分あまり面白い話じゃなかったのだろう。明日なんて物がだんだんなくなっていっている今、あしたあしたなんて始まり方をする話があまり面白くならなさそうなのと同じだ。
あしたあした、むかしむかしのむかしがあまりに遠いむかしになって誰も覚えていなくなってしまった未来のこと、もちろんそんな時には未来なんてもうほとんど残っていないから、誰も明日を語ったりしない、そんな明日に人びとは一体何を語るのだろうか。

home, sweet home.

むかしむかし、森のほとりの家に、貧しい夫婦と娘が住んでいました。
父親はがさつで木こりの仕事で稼いだお金の多くを酒を飲んで家具を壊したり妻や娘を殴ることにつかい、母親はいつから気が狂っていたのか自分で思いだせない有り様でした。そんな中、娘は父親も母親も自分を愛していると必死に信じ、神を信じ、未来を信じ、世界に祝福された結婚を信じて、心だけは美しくあろうと懸命に親を助けて暮らしていました。
そんなある夜、物音に目覚めた娘は、昼の仕事で疲れている筈の父親が、乏しい灯りの中で何枚かの紙を前に、頭を掻き毟っているのを見てしまいました。ぶつぶつと呟く声に耳を澄ませると、どうも借金の催促状のようです。そこで初めて純真な娘は、この家には自分を養うだけの稼ぎがないことを知ったのです。次の日の朝、娘は親たちの今日の分の食事を用意し、家の中を隅々まで掃除すると、これ以上両親に迷惑をかけないために、木こりである父親でも足を踏み入れようとしない、森の最奥へと分け入っていったのでした。なんということでしょう、穢れなき心を持つ少女には、父親が自分を人買いに売って金にしようと考えているなど想像ができなかったのです。せっかくの臨時収入を失った可哀そうな父親は、娘が森に逃げたことに気付くと、すぐに後を追いかけようとしたのですが、実は小心で臆病なこの男は、足が竦んで魔女が住むという昼なお暗い森の中に入っていくことができません。仕方なく家にとって返すといつもの様にやけ酒の力を借りて暴れ、「ブルガリア!ブルガリア!」と意味不明なことを叫びながら妻を殴り殺してしまいました。実は誰よりも妻を愛していた男は自殺を図るも、死ぬのが死ぬほど怖くてできず、仕方がないので、「いや、そんなことよりも妻や娘たちのためにも彼女の分まで生きることを選ぶのだ!」と決意したとたんに借金取りに保険金を掛けられて、事故死してしまいましたが、それはまた別の話。
実はもし、父親が毛虫程でも勇気という物を持っていれば、娘を捕まえることができたはずなのでした。娘は森に入ってから、道すがら自分の持ち物を目印として落とし続けていたのです。娘の意図は分かりません。ネタバレになるので言いませんが、娘はこの後誰かにその意図を話すような機会に巡り合うことは二度とありませんでした。もしかしたら、決心が変わって帰りたくなった時に迷わないためなのかもしれませんし、または誰かに追いかけてほしかったのかもしれません。もし後者だとしたら、それは多分父親でも母親でもなく、想像上の誰かだったのでしょう。最初のうちは、ポケットの中に入っていた綺麗な釦やガラス玉などの宝物を、点々と道に落として行きました。それが尽きると次は着ている服を一つずつ脱ぎながら道に落としていきます。しかし、それもすぐになくなってしまいます。仕方がないので娘は、まずは髪の毛、次は耳、そして次は鼻、と体の一部分をなくなっても大丈夫そうな順に取り外しては道に置いていきます。すぐに娘は目も耳も鼻も手足もない、のっぺりした肉の塊になってしまいましたが、心の強い少女はそれでも森の奥に向けてずりずりと這い進んでいきます。その後には肝臓や膵臓や消化器官が残されていきます。そして脳を道の真ん中に左右綺麗に揃えて並べ、体中の骨をまるで道路表示にように並べ終わると、少女は中身の空っぽな空の袋になってしまいました。それでも少女は止まるわけにはいかないのです。少女はいまや肉体を失い、道に置いていくものもすでに記憶や感情、思考力などの形のないものになってしまいました。その中には少女の大切な思い出もたくさんありましたが、泣く泣く捨てて行かなくてはいけません。すでに少女は自分が誰なのかも分からず、どうしてひたすら森の奥を目指しているのかも分からず、いまやこうして消えていくことが目的であるがごとく、ただひたすら身を削っていきます。そして森の奥の奥、かつて魔女が住んでいたというまことしやかな嘘がささやかれるその森の最奥で、少女は少女以外のすべての物を失い、ただの少女として、それ以上奥がないので仕方なくそこに留まることになりました。もし膝があれば膝を抱いたかもしれないし、悲しみがあれば悲しんだかもしれませんが、どちらも道の途中に置いてきてしまいましたので無理です。というわけで、にっちもさっちもいかなくなってしまいました。
そこへ登場したのが、誰も足を踏み入れないはずの森をさまよう一人の男です。「女子高生だあいすきい」などと分けの分からない歌を歌っていることからも分かるように変態です。その変態が道に点々と落ちている綺麗な釦やガラス玉、さらにはスカーフやスカート、ペチコートを見たらどのような行動に出るかは血を見るより明らかと言えましょう。男はほいほい拾っては背中の籠に投げ入れながら、森の奥へと分け入ります。収穫物が服から、まだほんのり温かみの残る体の部品に変わる辺りで、男の興奮は絶頂に達しかけますが、その後の内臓にたかる虫や鳥を追い払う作業によって、より低空飛行の安定を得ます。しかし、少女の記憶を拾い集める段になると少し話が変わってしまいました。男が拾い集めた記憶はどれも悲惨なものばかりで、それなのに少女はそれを大切な思い出と思っているようなのです。あまり一般には知られていない事実ですが、変態といえども人間です。単なる欲望充足の道具として見てこそ、女性に対して非道の限りを尽くせますが、一度情が移ってしまうとそうもいかなくなってしまうのが、人情の機微というもの。拾い集めながらどんどん陰鬱な気持ちになっていき、さらにはこの哀れな少女への憐憫の情がふつふつと心の奥底からあふれ出てきてしとどにズボンを濡らす勢いです。少女以外のすべてを捨ててしまった少女が佇む森の中心部に辿りいたとき、男はせっかく集めた、少女の体の部品をどうすればいいのか分からなくなっていました。そこで仕方なく男は、少女の体を建材にして、少女の記憶や感情を漆喰として、小さな小さな家を建てました。そして森の魔女を名乗る幼女強姦魔として、すべてを捨てて本質のみとなった少女と末長く幸せに暮らしましたとさ。実体のない女と暮らすのは割と得意だという話です。めでたしめでたし。
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