
著者:ジム クレイス
販売元:白水社
(2004-07)
販売元:Amazon.co.jp
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傑作。
主人公は動物学者の老夫婦で人気のない海岸で暴漢に殺されている。そして話の主な部分がこの2人の体がカモメやハエやカニに食べられて、腐っていく精密描写。
そ れに挟みこまれるように夫婦が学生時代に初めて出会い、初めて愛を重ねたときの話し(2人の愛が間接的に一つの死を呼び寄せる)。2人の行方が分からなく なったことにより、仲が悪くて家を出ていた娘の生活や心情の変化(若者の世界や親への葛藤が描かれる。愛されることの幸せと窮屈さ)。そして2人の死を呼 ぶことになった最後のピクニック(それは2人が最初に愛を交わした場所の確認であり、2人が呼び寄せた死を乗り越える儀式だった。ここでのモチーフはどう しようもなく訪れる老いだ)。この三つのエピソードが少しずつ語られる。
この小説が問うている問いは「我々が他人の死を乗り越え自分の死を迎える ために必要な物語はなんだ」ということだ。人間は弱いので太陽と死と無意味は直視できない。そのために物語のフィルター、意味のフィルターを付ける。やれ 天国に行くだの、やれ英霊になれるだの、なんたらのためだの、素晴らしい人生だったの。しかしそれは嘘だ。ほとんどの死は無意味だ。世界のほとんどは無意 味であるのと同様に。しかし私たちは世界の全てが有意味であると信じたがる。神さまとかがすでに意味づけていると。
アホか。神がいようがいなかろ うが関係ない。意味とは我々が意味づけていったところにしか存在しないのだ。だからこそ、我々はこの世界をより住みやすいものにするために、世界を意味づ けていかないといけないのだ。成功の保証はない。ほとんどの試みは無駄に終わるだろう。それが嫌で、神さまなんぞを持ち出して保証にしたってなんの意味も ないのだ。
では死に意味は? ほとんどない。でも絶望する必要はない。この作品では死から不要な物語を除くために徹底した描写を行う。しかしその 結果分かることは死体というのが何十という生命の活動の場だということ。そしてこの小説は主人公達の若いころの話で、彼らの愛が起因となった死を描いて、 生がいつでも死と隣り合わせだと語った返す刀で、もう一度その現場に足を踏み入れたとき、火災現場に繁茂する植物を描写する。いつだって死の後には生が続 くのだ。
確かにこの世界はほとんどは無意味だし、死は極限的には無意味だ(私にとっての意味の根源たる私が消滅するのだもの)。でもそれは意味と いうものに多くを求め過ぎだからで、まだほとんど無意味なこの世界を一歩一歩づつ意味づけることができ、その歩みは止まることを知らない、ってだけで満足 する必要があるんだ。それで充分だと知るべきなんだ。そのためにこの小説では親の死が娘にどんな影響があったかを詳しく語る。この出来の悪い娘が次の一歩 なのだから。
この小説では何も素晴らしいことは起きない。どちらかというと惨めなことしか起きない。でもこの小説は美しい。父親の死体が母親の死 体の足首を掴んだまま硬直しているのを娘が見て、親同士の愛に感動する場面など、やり過ぎで必要ないと思ったくらいだ。ここで作者は「愛」という別の嘘で 死を意味づける誘惑に耐えられなかったのだろう。しかし、この小説はこれ以上嘘を削ったら、小説なんか成り立たない瀬戸際に立たされている(小説を真面目 に考えたら全ての小説家にはそこに立ってもらわなきゃ困るんだがね)。だからこれくらいの嘘は必要悪として認めてやろう。まだ人類は小説を乗り越えて次の ステップに行く準備を整えていないのだから。
しかし、これほど死体描写が美しい小説がありえるとは。
『近づいて見てみると、 ジョゼフとセリースの体表には、魚が決して残していくことができない色とモチーフがあった。それは、表面の血管がつくる松の茶色をした目の眩むような金線 細工で、皮膚に樹枝状の模様を与えていた。水膨れが咲き乱れ、燃え立つ赤い花冠と黄色い子房はハンニチバナのよう。そして、口を開けたあたたかな洞窟(不 完全な肋骨、不完全な皮膚、不完全な頭蓋骨)には、ぎらつく青と赤の破裂し膨張した炎。それはもう腐り切って腐臭が強すぎたので、カモメやカニには魅力が なくなってきており、等級、形態、種において末端の種族である最下層生物の集まり、つまり、脚が多すぎるか脚がまったくない、ジムシ、シャクトリムシ、ヤ スデ、ボタンシラミ、ミミズ、フレット、グルメまたの名をミツスイムシに引き渡された。』
間違いなく名文。「主人公の心が暗いときは世界も暗くなって雨が降るべき」などというたわけた決まりごとを信じている人間には絶対に書けない。世界に物語を押し付けない、という覚悟が響いている。
もちろんここにも嘘がある。嘘というか、美しい部分だけ書いているというか。実際に死体を目の前にしたら美しいわけないもんな。
でも、これも認めてあげなきゃ。でなきゃ、死体を美しく描くことにより、世界を受け入れる覚悟を表明することができないからね。
とにかく面白かったし、大半死体の描写な小説なのに、ちゃんと感動させられそうになったよ。涙流す人もいるかもしれないね。
私は流さないよ。だってこの小説、ちょっとばかし説教臭いもの。ヨーロッパの無神論者ってのは、どうしてこう無神論を押しつけたがるんだろうね。無神論者の私にすら鼻につくよ。カルトだね、こりゃ。それがこの小説の小さな傷かな。でも、なんとなくその説教臭さというか、いろいろ語った末にたどり着いたのが割と見慣れた穏当な意見だった、っていうのが凄くイギリス人らしい。力強い保守性と言う感じが。
最後に題名について。英語に詳しくないから分からないけど現代の『Being Dead』ってのはあまり使わない用法じゃないのかな。死んだ状態であり続ける、と言うことだろう。
この言葉を見ると私は、世の中のほとんどの物が「死んでいる」状態であることを思う。「生きている」ものは本当に一部だ。もし「死んでいる」ことを悪いことと考えてしまったら、世の中はかなり悪い物になってしまう。それは多分不自然な考え方なのであろう。「死んでいる」ことは別にムチャクチャ悪いことではないのだ。もう少しいい状態が目指せる、と言う意味で絶望するほどでは。