けんさく。

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2013年06月

数取器

 「いづれの御時にか、道を歩いている最中のことである。歩道脇においたパイプ椅子に、数取器を片手に座っているおっさんがいた。
 ここまでは何の変哲も無い話だ。変哲好きの皆さん安心して。重要なのはここからです。
 なぜ私がその男に注意を引かれたかと言うと、一見交通調査をしているかのように見えるそのおっさん、道行く人々を一心に眺めている割に、指の方は一切動いていなかったのだ。
 それだけだったら、私も何も気がつかず、何にも知らずに通り過ぎていったのかも知れない。平和だ。ライプニッツの言っていた予定調和に支配された最善世界とはかくのごときものであろう。しかし、こんなことを私が語りはじめてしまっている時点で、それ以上の異常がすでに起きてしまっていることは必定。私がその男の目の前を幸か不幸か横切ろうとしたその瞬間、目敏い私の耳がカチッという音を捉えてしまったのだ。
 実を言うとそのときになって私は初めてそのおっさんの存在に気がついた。大変不注意な話で、もしおっさんが腕利きのスナイパーであったら私の命はなかったなと気づいたのは約二年と三日後の話である。しかしその時にはそんな反省をしている余裕はなかった。私はまたしても謎の虜になってしまったのだ。かつて日清カップ焼きそばUFOは茹でているだけで全く焼いていないのに何故UFOと呼ばれるのかという謎を解くために、MJ-12と接触すべく単身エリア52に潜入したときも、最初は単なる小さな引っかかりに過ぎなかったが、最後には青い血の人間達を巡る世界全体を巻き込むクリスマスの陰謀に足を突っ込む結果になってしまった。始まりはいつもこっそりと始まり、気がついたら終わってしまっている。始まりきってから慌ててももう遅い。
 私は、一回通り過ぎてから、もう一度そこまで戻ってきた。あのカチッという音が気になって仕方がなかったのだ。もしそのおっさんが尋常な交通調査なら、もっとカチカチとリズミカルにカウントが回り続けているはずだ。しかしおっさんが指を屈したのは、私が通り過ぎる短い間とは言え、あとにも先にもあの一回だけだった。私は、単なる自意識過剰だったのかも知れないが、それが私を数えたものであることを、直感的に理解していた。メネメネテケルウパルシン。数えられたり量られたり分けられたりするのは、私がまだ幼くてバビロニアの王だった頃からあまり好きではない。
 取引先との面会に間に合わなくなってしまうことを承知で、私が現場に戻ってみると、おっさんはやはりそこにずっと座って、数取器をただ握りしめてずっと通り過ぎていく雑踏を見つめ続けていた。やはり、おっさんはただ漫然と座っているだけで、何も数えていないように見える。
 しばらく交通調査員調査をしていても、何の収穫もえられず、もう少し近づいてみてみようと思って、おっさんの前を通り過ぎたとき、またおっさんの指が動き、カウンターが回るカチリという音が耳に冷たく響いた。やはり私を数えている。
 ということはこのおっさんは私の交通量を数えているのであろうか。誰が、何のために。一体、私がこの通りを何回往復するかを数えて、何の得があるというのだろうか。
 かっと頭に血が昇った私は思わずおっさんに掛けよって、問いただそうとする。
 ――おいおっさん!
 しかしおっさんは目を上げようともせず、全く調査対象が通らない通りに目を走らせ続ける。
 ――一体あんた何を数えているんだ。どういう目的で俺を数えているんだ。俺は数じゃない、人間だ。だから数えるのは止めてもらおうか。あんたに数えられるたびに、俺はなんだか数になった気がして、気持ち悪いんだ。
 一生懸命その場で抗議の理由を考えているから、少々強引で無茶な議論になってしまっている気もあるが、細部にこだわっている場合ではない。
 ――おいおっさん。聞いてるのか?
 そもそもこちらの声が届いているのか分からない程の無反応である。私はそのときになって初めて真空実験に使われたベルの気持ちが分かった気がした。本当に悪いことをした。
 ――おい!
 胸ぐらを掴んでこちらに無理矢理向かせようとしたその瞬間、おっさんがわずかに動いた。親指でボタンを押したのだ。カウンターがカチリと音を立てて周り、2という数字がスリットから消え、わずかに下半分だけ見えていた3が現れる。
 私は思わず顔を上げる。おっさんの視界を瞬時に追いかける。人混みの中にブリジット・バルドーを思い起こさせるピンクのギンガムチェックのフレアスカートの端が吸い込まれていくのをわずかに捉えた。戸惑いの一瞬の後、私は走り出していた。
 いくつもの肩を肩でかき分け、人海を泳いでどうにか先ほどの女性にたどり着く。首を隠すくらいの黒いセミロングヘアがわずかに横に揺れるのを見ながら、はてどうしたものか、と気がつく。一体どういう用件で話しかければいいものか。いきなり奇妙な交通調査員についての奇妙な話をし始める奇妙な男に話しかけられるという類いの奇妙な体験をすると、多くの尋常一様な人々はそもそも相手の話を聞かないことを、いくつかの経験から私は学んだ。しかしここで話しかけないと、私と彼女の共通点について、一生知ることができないままになってしまう気がする。いや、絶対に知ることはできまい。いま、ここでこの喉から声が出なければ、真実は超光速で光錐を横切って、時間的領域から空間的領域へと逃走してしまう。
 超光速について考えたせいであろうか、周囲の時間の流れがゆっくりとなったような気がした。だが相対性理論で周りの時間の流れがゆっくりに見えるのは実際に亜光速で動いたときであって、それについて考えただけで時間がゆっくりになるなんて聞いたこともない。そんなことを考えていた時だった。あのおっさんが数取器に指を掛けてサムズアップをした姿で脳裏に浮かび上がった。そしてこう言ったのだ。
 ――人生のアウトカウントは一つしかない。
 なにいってだこいつ。
 それだけ言って満足したのか、おっさんは私の脳裏から去って行き、二度と帰っては来なかった。そして時は動き出す。急に時が動き出した結果、私はなにもないところで躓いて盛大に転んでしまった。前のめりに倒れ、堅い歩道にキスをして、鼻血まで出している私に手を差し伸べる者がいた。顔を上げると、あのピンクのギンガムチェック。
 ――大丈夫ですか?
 そう、これが私と、君のママとの出会いだったんだよ」
 「ママァ! パパがまたヘンな話してるう」
 「無視しなさい。無視」

ウンベルト・エーコの『記号論』を読んでいるが、

記号論 (1) (同時代ライブラリー (270))記号論 (1) (同時代ライブラリー (270)) [新書]
著者:U.エーコ
出版:岩波書店
(1996-06-14)
記号論 (2) (同時代ライブラリー (271))記号論 (2) (同時代ライブラリー (271)) [新書]
著者:U.エーコ
出版:岩波書店
(1996-07-15)
さすがである。
「記号」などというものは抽象物であり、それほど「実在する」ものではない(実在するかどうかは、程度問題ではあるが)。
それに対して、「記号機能」の方がより「実在する」ものだ、と書いてある。
だから、記号機能を分類するときに重要なのは、「記号機能」が働く現場、つまり記号を作ったり、記号を解釈したりするときに、我々がする「労働」だというのだ。
これはまさに、クワインが哲学にもたらした「自然主義」(「自然科学を世界観の根底においた哲学」という意味なのだが、これはあまりいい用語ではない気がする。「科学正統主義」とでも呼びたい。ここでの「正統」はチェスタートンの意味での言葉である)に則っている方法論と言って良い。
「コードの理論」としての「記号論」もクワインの「全体論」と相似を成している(もちろん、ガダマーらの言う「解釈学」とも深い関係があるが、記号論の方が自然科学との親和性が高く、将来性がある)。
ヨーロッパの大陸哲学と英米経験論哲学との融合は、ここでは全くもって難しいことではないように見える。
邪魔しているものは一体何なんだろう> 彼らの文化の深層に今も根深く残る、キリスト教の残滓が、自然科学的世界観を受け入れまいとしているのだろうか? 

戸田山和久は最近、デネットが「自由意思」を物質や生物の進化と共に発展したものとして描いて「自然化」した手法を応用して、「意味」や「価値」などを自然化しようとしているという。
自由は進化する自由は進化する [単行本]
著者:ダニエル・C・デネット
出版:NTT出版
(2005-05-31)
 それはまさに「記号論」の自然化を含むものになるだろう。
その動きに期待したい。 

先日名古屋ドームでソフトボールしてきました。

弥久先生に久しぶりに会えると聞いて、思わず駆けつけてしまいました。
英語教師を引退した今も、元気にスカイフィッシュをとっているそうです。
 
弥久先生は、吃音症の英語教師という異色の経歴の持ち主で、弥久先生の発音のせいで、生徒が軒並み「understand」のアクセント問題を間違えたという伝説を持っている方です。言葉のはじめにつっかえるので、どうしても最初にアクセントが来てしまうのです。
生徒はもちろん馬鹿にして弥久先生の口まねをするのですが、弥久先生は「ど、どもりは真似するとうつるからいかんがね」と根拠不明のむちゃくちゃ怖いことを言って、生徒を脅していたのが記憶に残っています。
でもこう見えてもこの人、英検の組織のかなり偉い方らしく、試験管をしていたときに吃音が出てしまい「according to the passage」が言えず、「あっあっあっ」とつっかえてしまっていたところ、受験者に「大丈夫ですか?」と心配されて しまったこともあるとか。それに対して、弥久先生は「わ、わたし、英語ぺらぺらだかんね」と答えたという。そういう問題ではないのでは。
そんな弥久先生も、今では農業に専念していらっしゃるとか。いつまでも元気でいてください。心配する必要もないくらい四番ファーストでぱかぱかヒット打ってましたけど。
 

パンティ&ストッキングのDVDボックス買うべきなのかどうか……

Panty & Stocking with Garterbelt Blu-ray BOX Forever Bitch Edition(新規収録スペシャル DJ Mix CD付き)Panty & Stocking with Garterbelt Blu-ray BOX Forever Bitch Edition(新規収録スペシャル DJ Mix CD付き) [Blu-ray]
出演:小笠原亜里沙
出版:角川書店
(2013-10-25)
全部持ってるけど、買い換えるべきか?
英語吹き替えと英語字幕日本語字幕全部入ってるのはすばらしいし。
DJ Mix CDだけ欲しいなあ。
あと、発売日が私の誕生日というのも見逃せない。ちなみにガロアとピカソも同じ誕生日だよ(小学生並の自慢)。
 

地理の重要さ

地理の学生と話していて、地理学の重要さに目の鱗を落とされた。
世界についての我々の知識を整理して、図示しようとするのが地理学なので、当然のごとく物理化学生物地球科学数学歴史経済学社会学統計学と、自然科学と人文科学の両方の知見を結集させることになる。
しかも、それをわかりやすく地図にするとなると、これはデザインやグラフィックなども含む総合学問であり、知の最先端である。
私が、統計学の本に、誤解をもたらすグラフの見分け方など、統計学の周辺に関する注意事項がないことを嘆いていたら、地図でも同じ問題が起こっていることを、様々な例で教えてくれた。彼によると「地理学を知らない人間が地図を作ると酷い」らしく、行政が作るハザードマップもあまり役に立たない代物らしい。
私自身の興味から言うと、20世紀中盤までの科学哲学では、あまりに言語を偏重する風潮があった。曰く、科学とは言葉の集積であり、科学的かどうかは言葉に関する性質である。
20世紀の終わり頃にようやく、我々の知識の多くは非言語的なものだ、という当たり前な認識が広く受け入れられるようになっていく。たとえば、生物学における「ナトリウムポンプ」なんて、言葉では説明できない。あの絵があって、初めて理解できるものになる。
そして歴史を少し遡れば、知識というものは、絵画的なもので蓄えられ伝えられて来た、ということは、荒俣宏や高山宏なんかが喧伝していた通りだ。ま、彼らの要領を得ない文章を読むくらいなら、彼らが典拠とするフランセス・イエイツとかエルヴィン・パノフスキーとか直接読んだほうがずっと効率がいいけどね。
イコノロジー研究〈上〉 (ちくま学芸文庫)イコノロジー研究〈上〉 (ちくま学芸文庫) [文庫]
著者:エルヴィン パノフスキー
出版:筑摩書房
(2002-11)

記憶術記憶術 [単行本]
著者:フランセス・A. イエイツ
出版:水声社
(1993-06)
最近では、生物学や家系図や概念同士の関係を理解するための、「系統樹」について書いた、『系統樹曼荼羅』がすばらしかった。
系統樹曼荼羅―チェイン・ツリー・ネットワーク系統樹曼荼羅―チェイン・ツリー・ネットワーク [単行本]
著者:三中 信宏
出版:エヌティティ出版
(2012-11-09)
これらの「可視化」の考え方は、数学にとっても重要だ。数学は、ある意味では言葉だけですんでしまうものではあるが、それが人間にとって理解可能なものであるためには、豊かなイメージがどうしても必要だ。だからこそ、数学をわかりやすくするために、どんな図示をするべきか、どうやって目に見えないものを見えるようにするのかは、本気で研究するべき分野なのではなかろうか。グラフや表などはもちろん、代数幾何のスキームの図とか、圏論における綺麗な図式の書き方とか、結び目理論とか、ファインマンダイアグラムとか、単体的集合の理解とか……
そして、それは本来球面、つまり地球儀でしか表現できない、我々の住む大地を、どうにか平面の上に表現しようとした「地図投影法」の考え方であり、多くの数学も元はそこから発達したのだ。
普通に考えたら日本から南東にあるように見えるパナマが、どうして北東に向かわないと付けないのか、球面状の北極と南極を通る大円と、直交する大円で説明する様子はほとんど数学だった。
地理は様々な学問の統合された姿なだけでなく、様々な学問の故郷なのだ。
とりあえず、位相幾何における図の書き方でも練習しておこう。
トポロジーの絵本 新装版 (シュプリンガー数学リーディングス)トポロジーの絵本 新装版 (シュプリンガー数学リーディングス) [単行本]
著者:G.K.フランシス
出版:シュプリンガー・フェアラーク東京
(2005-12-01)
 そういう、非言語的な知識の作り方、保存の仕方、伝え方、などを考えるのに、地理学というのは、その長い伝統から言っても、ものすごく重要なはずだ。
これからの人文科学の、あるべき姿を垣間見たような気がした。
 
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