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2013年08月

ラジオ体操第2はきつかった

先日、某国際的大財閥(黒マントが似合うオカルト研究家の姉と格闘家の妹の美人御令嬢姉妹も有名)の傘下のソフトウェア企業で、データ取りの手伝いに、ラジオ体操第2を一時間以上踊った。家庭用人型お手伝いロボットでも作るのであろうか。
久しぶりに踊ったラジオ体操第2は、予想以上にハードで、しかも妙に上半身重視で肩が痛くなりそうだった。続けてやり続ければ、「これマジ?上半身に比べて下半身が貧弱すぎだろ」てな感じの逆三角形ボディが手にいれられたかもしんない。

疲れたので五分間休憩 『Take Five』


とかいって、45分この動画を見ることになる。
ジャズに5/4拍子を持ち込んだウェストコースト・ジャズの名作。カヴァー曲はこれら以外にも、しこたまある。

ロシアのアニメーション作家Ivan Maximovによるアニメーション化

DVDの『ロシアアニメーション傑作選集』に収録されていて、見つけた。
ロシア・アニメーション傑作選集 Vol.1 [DVD]
ジェネオン エンタテインメント
2007-02-23



作曲者自身による続編『teke Ten』


しかし『Take 11』は最初に聞いたときは笑った。さすがFarmers Marketだ。
Speed /Balkan /Boogie
Farmer's Market
Kkv
2011-02-24

 

『Panty&Stocking with Garterbelt』のBDBoxの絵柄が相も変わらず相変わらずで安心した

2013年10月25日、パブロ・ピカソの誕生日でありエヴァリスト・ガロアの誕生日であり私の誕生日でもある日に発売される『Panty&Stocking with Garterbelt』のBDboxの絵柄が公開されてましたな。
PSG_BDBOXfinished2-1 










相変わらず、なんというかアレですな。
ちなみにBDboxには、☆Taku Takahashiによる「スペシャルDJ Mix CD」が付くらしく、個人的にはこれが一番欲しい。
そのほんの一部もYoutubeで公開されてますな。

コメントが英語ばかりなのも、この作品の幸か不幸かよく分からない現状を良く表している気がして、なんとうかかんといういか。
やっぱり、もう国外向けに作っちゃったら、TRIGGERさん? 

最近面白かったMLPの二次創作

『エキセントリック少年スパイク』

全てのシーズンを網羅して収集された小ネタが実に完成されているね。 AJが全て松ちゃんなのも良い。

『ボタンの冒険』
 
シーズン2の17話に一瞬出たゲーム小僧ポニーを主人公に仕立て上げた、質の高い二次創作。声可愛い。
最近ふたばのMLPスレを覗くと、このお母さんのエロ画像ばかり張られている。

 
MLPによる18禁ゲーム『恋妹』のOPパロディ。
ラリティとフラタシャイがサブに押し込められているのと、スコ太郎がいないのが気になるが、おおむねこれが日本語版OPでもいいんじゃないですかね? 

このレベルの本はもういらない 高橋昌一郎『理性の限界』『知性の限界』




私がゲーデルに最初に触れたのは、高橋昌一郎の『ゲーデルの哲学』だった。

これに関しては思い出はあるが、残念ながら今読み返す気にはならない。それに対して彼が訳したレイモンド・スマリヤンの『哲学ファンタジー』(原題は『紀元前5000年』)は、未だに影響を受け続けている本だ。

ウンベルト・エーコの『フーコーの振り子』においても、とてもうまい使われ方をしていた。

その高橋昌一郎の本が結構出ているので、二冊ほど読んでみたが、ひどい。 
かつて影響を受けた人の本がひどく駄目に思えるのは、私が成長した証拠だが、それでもこんなにも酷い代物に感心していたかと思うと、残念である。もうスマリヤンの翻訳に徹してもらいたい。

まず気になるのことは、この手の本を読んでいると、やけに「科学の限界」に関する需要を感じることだ。なんか科学に限界がないと困る、みたいな感じだ。その手の議論は、科学に勝手な思い込みを当てはめて、その上で限界があることにする、という体裁なので、実際に科学の限界を具体的に示したものなんて皆無だ。だいたい、科学をするよりも、科学の限界を示すことの方がずっと難しいことは、ウィトゲンシュタインに依るまでもなく、ちょっと考えたら分かることで、そんなことが分かると主張している時点で、一生懸命分からないことを分かろうとしている科学者よりも、そういう輩の方が傲慢といえる。
今ある科学に限界があるのは当たり前である。だからその限界を超えようと日夜努力している。それに対して、机上の空論で限界を当てはめようとする議論に一定の需要があるのは、被害妄想かも知れないが、「世界を理解する方法」という既得権益を奪われた哲学や思想の最後のあがきに見える。勝手に人に限界をおしつけてはならない(戒め)。
意識的にか無意識的にか、この本もその需要に対する供給の働きをしてしまっているのである。

1冊目の『理性の限界』は「アローの不可能性定理」」と「ハイゼンベルクの不確定性原理」と「ゲーデルの不完全性定理」の三題噺だが、このなかで今でも重要なのは「不確定性原理」くらいなものだろう。
「アローの不可能性定理」なんて、完全な選挙がある、なんていう、なんでそんなこと信じてた人がいたのか不思議なくらいの信念を、ある種の定式化の下で否定しただけで、当たり前なことを数学的に証明しても、「あっそう」以上の感想は出ない。選挙の結果にあの手この手で影響を与えようとするなんて、誰でも普通に考えることで、それを防ぐことができないという「ギバード・サタースウェイトの定理」も、「理性の限界」を表す定理としては興味が薄い。
むしろ、この理論の肝は、集団が様々な物事を選択するシステムを形式的に議論する端緒を開いたことであり、どのようにすれば選挙結果等の集団選択に影響を与えられるかの理論の基礎になっている。
つまりこれらは全然「理性の限界」など表してはおらず、理性のさらなる躍進を示しているのだ。しかし、そんなことを書いてはある種の人々が面白がってくれないので、わざわざ古くさい結果を紹介しているのだろうか。 

ゲーデルの定理にしても、これは当時の「ヒルベルトのプログラム」が分かっていないと、どうしてこれが一部の数学者にとって衝撃だったのかよく分からない。それを、全ての数学者にとって衝撃で、数学のやり方を変えた、みたいな言い方をするのはおかしい。ゲーデルの定理はもちろん、その後の計算理論や論理学の基礎を成しているもので、その分野では重要なものだが、多くの数学者は聞いたことはあっても、証明は知らない人が多いし、それ以前とそれ以降で数学のやり方を変えてなんかいないし、その登場の衝撃にしたって、数学者社会全域にわたるものではなかったと思われる。
これも別に何らかの「限界」を表しているものとは考えられないことは、次の本に詳しい。
ゲーデルの定理――利用と誤用の不完全ガイド
トルケル・フランセーン
みすず書房
2011-03-26

高橋昌一郎は、この定理が「あるシステム内で証明も否定もできない命題がある」ことを意味すると正確に書いた直後に、「どのシステムでも証明も否定もできない命題がある」と間違った書き方をしていて、なんだかどうしても理性に限界がなくては困るみたいな案配だ。
そもそも数学者にとって、小さなシステムで定理を証明するのが難しいのは、経験的事実で、そのために彼らは自然数論の定理を証明するのに、ZFCやら、CHやら、「到達不可能基数の存在」やら「ペアノの公理」よりもずっと強い公理を使うのである。こうして、どんどんシステムを強くしながら問題を解決する、という方法論を教えてくれた意味で、「ゲーデルの定理」はいかなる意味でも「理性の限界」を表してなんかいない。ゲーデル自身の人間非機械論やグリムの神の非存在証明なんか、歴史のちょっとおかしいエピソード以上じゃない。 

「ハイゼンベルクの不確定性原理」に関しては、今でも重要だが、やはり浅さが気になる。でも専門家じゃないし、こんなもんかなあ、という印象。いろんな本に書いてある話をなぞってる感じ。

『知性の限界』の方は、いきなりウィトゲンシュタイン以降の言語哲学から始まるけど、こんなの中世のライムンドゥス・ルルス以来の言語神秘主義にしか見えないし、論理実証主義の言いぐさも、コメニウスなどの後期ルネッサンスの 普遍言語論者の言ってることと似すぎてて笑えてくる。
ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で言えてることなんて、「認識することを認識することは無理だ」っていうことじゃなくて、「認識することを認識することは難しい」ってことまでだと思うし、だったら言えることは「語り得ぬことについては沈黙しなくてはいけない」ではなく、せいぜいが「語りにくいことを語ることは気をつけましょう」程度だろう。言語中心主義さえ脱してしまえば、なんだか当たり前なことだけが残ってしまう。
だいたい高橋昌一郎は、科学哲学というと、すぐにウィトゲンシュタイン、論理実証主義、ポパー、クーン、ファイヤアーベント、となるけど、そんなの今科学哲学を勉強するのに、それほど必要ない名前ばかりだ。クワインとかラカトシュあたりからはじめればいいじゃん (いいじゃん)。 
ポパーなんて、帰納の拒否とか、論理実証主義を論駁するという問題設定がないと理解できないのに、持ち上げられすぎ。そもそもここら辺は、みんな「哲学で科学を基礎付けしなきゃ(使命感)」という破綻したプロジェクトの周辺の人達なんで、 そのプロジェクトが終わった今読んでも、意味が分からない。基礎付けという設定を外してしまえば、帰納がなんで問題なのか、全く分からなくなってしまうのだ。
そうすると、『知性の限界』の半分は、今ではとても受け入れられない「知性」を勝手に考えて、それに問題があると告発してることになってて、一体誰と戦ってるんだか。 

だいたいこの本のスタイルに私は疑義を感じる。
様々な立場を代表する人物が登場し、「方法論的虚無主義者」とか「論理実証主義者」とか「カント主義者」がそれぞれの意見を言い合うんだけど、それがどうしても「極論対極論」の形になってしまう。実際の科学者や哲学者はそんな単純化された考えなんか持っていないのに。
これを読んでいると、ある知り合いの物理学者が、知り合いの科学哲学者に実在論対反実在論に関して、「哲学の方法論とは極論と極論をぶつける ものなんですか? それって科学者のスタイルと全然違いますね。科学者なら、まずおおざっぱだが、だいたい合意の得られるモデルから始めます」と噛みついたことを思い出す。
それに対して科学哲学者は「科学者だって極論を言うし、この場合の極論は、おおざっぱで合意の得られるモデルが一種類にならないことに起因する」と反論していた。
おおむね発展している科学分野は、最初の「おおざっぱで合意の得られるモデル」が作りやすいが、「科学とはなんなのか」などの難しい問題はそうでない(これが上でウィトゲンシュタインがあることを示した「語りにくい問題」である)。哲学者だけでなく、科学者だってこういう問題に相対すると、極論を言い始めるものだ。
しかし、そんな中から着地点を得られそうな兆候が見えてきたのが最近の科学哲学である。
それなのに、また極論対極論を始める哲学者がいるのを見ると、なんだかやっぱり哲学者に問題があるような気がし始めてしまう。
そもそもこいつら問題を解決する気あるのか? と。

一つだけ指摘しておかなくてはいけない、哲学に対する間違った考え方は「問いを発することが重要」ということだろう。
もちろん問いを発することは重要だが、どこからその問いが出てきたのかも重要である。
つまり「問いを解決する」ことが同じくらい重要で、たくさんの問いを解決してきた設定から出てきた問いは、多くの人々が耳を傾ける価値があるとわれわれは予想する。
この本は、ひたすら問いを発することに終始しているが、たまには問題を解いて見たらいかがだろうか。そうしたら、みんなもっと言うことを聞いてくれるかも知れないよ。
そのためには、何もかも疑ってかかってばかりいるわけにはいかず、世界観の軸が必要になる。たとえば科学とかね。
これはファイヤアーベントが批判した権威主義だ。みんな、権威主義が無条件にいけないものだと思っているからファイヤアーベントに答えられなかったけど、現実に生きていくにはある程度の権威主義が必要だと言うことを認めてしまえば何の問題もない(時間とエネルギーが無限にあればファイヤアーベントの言うように、全てを平等に試して見ることもいいかもしれないが、現実はそうじゃないから、権威のあるものから試していかなくてはいけない。ファイヤアーベントなんてそれだけの話なのに、この本にはそこまですら行けてない)。
そうすれば、この本には解決が書いてない「ニューカムのパラドクス」だってそれほど難しい問題には見えない。

無責任にすでに解かれてしまったような問いをまき散らして終わりだなんて、酷い本だ全く。浅く広くいろんな話題を漁ることが教養ではあるまいに。教養とは、データベースではなく、単独のアプリケーションでもなく、それらにメモリーとタスクを分配する、オペレーション・システムのようなものだ。たとえば、現代科学の世界観と、最新の科学哲学が教えてくれる科学の方法論、呪術や魔術も含めた科学史が、私にとっての教養である(あと書籍とインターネットによる情報検索と若干の語学力)。
この著者には、何らの教養を感じない。 
あらゆる不思議の謎をプラズマで解くことで有名な大槻教授を科学者の代表みたいに書いている時点でどうもね。大槻教授も高橋昌一郎も、専門外に関してはあまり発言しない方がいいタイプだよ。 

まとめると全体的に、間違ったことは書かれていないものの、浅いし古い。
ここに書いてある内容なんて多くは、すでに歴史の話題でしかなく、歴史はもちろん重要だが、それは政治学や経済学や数学や哲学などの最前線の話題と混淆するわけにはいかない。
歴史に興味のある人以外は、それぞれの興味に必要な分の歴史を学べば良く、延々と今ではどうでも良くなってしまった話題に付き合う義理はない(どれくらい必要だと考えるかは、人によって違うから議論が起こるし、極端なことを言う人もいるだろうが、おおざっぱな同意が得られる量がやはりある)。もちろん、古くなってしまった話題が新しく蘇ることはあるが、それこそ歴史に興味のある人々の仕事で、最前線で働く人々にそれを押しつけてしまったら効率が悪くなる。アリストテレスの自然学は、調べるに足る興味深い対象だが、今現在物理学を教えるのにそこから始めるのは明らかにおかしい。
20世紀の科学哲学はずいぶん間違った問題設定から初めて、それじゃうまくいかないことが分かって、その中で今ではより実りがありそうなやり方が分かってきたんだけど、この本はその間違った問題設定を読者に教え込んで、それに問題があることが分かってきたところで終わってしまっている。こんな本、百害あって一利なしだろ。 
今は科学哲学方面ならいい本がたくさんあるので、そちらを読んでくださいな。
科学と証拠-統計の哲学 入門-
エリオット・ソーバー
名古屋大学出版会
2012-10-17



 
疑似科学と科学の哲学
伊勢田 哲治
名古屋大学出版会
2002-12-10


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