けんさく。

けんさく。が、いろいろ趣味のことをやるページです。

2015年01月

間違いだらけの少数民族

 うちの近所で新しい少数民族が発見されてしばらくが経ち、ようやく世間も落ち着きを取り戻しはじめた。
 最初は酷かった。人々の反応と言ったら、物騒ねえだのこわいなあとづまりすとこだの世も末だなどと正鵠を得ないことばかり。大体世が末になればなるほど未発見の少数民族が少なくなりそうなことぐらい、少し考えれば分かりそうのものだが。
 とにかく、当初の混乱が収まったあたりで、今まで分かったことの確認をしよう。とは言っても分かったことなどほとんど何もない。唯一判明したことはといえば、彼らが何もかも間違っている、ということだ。
 知は積み重ならない。それは流れ去る。
 つまり個人の知識にしろ、人類全体のそれにしろ、単調増加したりはしないということだ。
 彼らの言語体系や歴史が順調に判明しているように思えたある日、とんでも無いことが分かった。
 彼らはかつて、自然は真空を嫌い、月より上と月より下の世界は円運動と直線運動という別々の法則に導かれていると考えていた。
 もちろんこれらは間違いである。
 その後彼らは、熱とは熱素(カロリック)という一種の粒子であり、熱いものがだんだんと冷え、冷たいものがだんだんとぬるくなっていくのは、この粒子が移動するからだ、と考えたり、物が燃焼するのは然素(フロギストン)と呼ばれる物質が放出されるからだと考えたりした。
 これらももちろん間違いである。
 さらに彼らは、世界には全ての運動となる絶対空間と呼ばれるものが存在し、光は絶対空間に対して静止したエーテルと呼ばれる媒質の振動だと考えた。
 さすがに、これは無理があって、その後彼らは、空間や時間は運動に対して相対的で、むしろ光の速さこそ全ての運動に対して絶対的に一定だとしたり、運動量と位置とは同時に正確に知ることが出来ず、その誤差の積には下限があり、これはどうやら物質というものは揺らぎ続ける存在確率の波のようなものだからだ、とした。
 これらの説も、以前のものと比べたら世界を上手く記述・説明していたのだが、結局は間違いであることが分かる類のものである。
 彼らはそのほかにも、ガラス管を通すと水が高分子化するだの、常温で核融合が起き、鶏はそれによって体内で卵の殻のためのカルシウムを合成しているだの、革命的努力の結果獲得した形質は遺伝するはずだという信念のもと、種を低音に晒すことにより低温に強い品種に改良していけば、猛毒の鞭を振り回して三本足で歩き塩水で溶ける知能植物から良質の油が取れるようになるだの、我々から見れば愚かというほかない奇説珍説をしこたま捻り出している。
 ここまでのことから何が言えるだろうか。
 我々の科学の基本的な推論方の一つに「帰納」がある。これがなければ一切の科学は成り立たない。
 その推論形式は、「AはXである。BもXである。CもXである。……よって、これらのものと共通の性質を持つものは、全てXである」というものだ。
 これを使えば、実に単純に結論に至れる。
 「彼らが過去に主張した全てのことは間違いである。よって、彼らの主張することは全て間違いである」
 こうして、彼らの言うことは全て間違いであることが判明してしまった。
 この事実の重みが分かるだろうか。
 このことが分かった今、彼らの言うことは一切信用が出来ないのである。
 たとえば彼らがウサギを指差しながら「ウサギ」と言ったとする。これは決して彼らがウサギを「ウサギ」と読んでいることを意味しない。もしかしたら彼らはウナギのことを「ウサギ」と読んでいて、その上で目の前のウサギを間違えてウナギだと思い込んで、それを指差し「ウサギ」と呼んでいるのかもしれないのだ。それどころか、彼らの言う「ウサギ」とはある瞬間まではウナギのことを意味し、その瞬間が過ぎたとたんウとサギの複合体を意味する単語かもしれないが、彼らはその瞬間までウサギをウナギと間違え、その瞬間が過ぎた途端ウとサギの複合体と間違えているのかも知れない。
 彼らの思考が全て間違っていることが明らかな以上、彼らの発言、いやそれどころか彼らの行動からも、彼らが世界をどう捉えているかを知ることは出来ないのだ。
 もちろん行動や肉体組織から、彼らの物理的化学的生物的遺伝的動物行動学的な特徴を調べることは可能だ。しかし、それらは結局のところ、我々と寸分たがわず同一に他ならない。
 我々が知りたいのは、彼らが我々と違う部分、彼らが少数民族であるその根拠、すなわち彼らの文化なのに、それについての理解の道は完全に途絶している。
 ここから分かることは、我々が彼らが何もかも間違えていると考えた根拠である彼らの歴史もまた、いまや非実在の泥濘の中に沈んでいくほかない、ということだ。おそらく、彼らは今まで月上の世界と月下の世界の違いや、絶対空間や、量子もつれにおける非局所性、などといった奇怪な概念を一度も思いついたことなどないのだろう。せいぜい思いついたと思い込んだくらいが関の山だが、彼らの言語の通訳不可能性が明らかとなった今それすら期待できない、というのが本音である。
 はっきり言ってしまえば、彼らとコミュニケーションをとることは不可能である。いや、そもそも彼ら同士で意思疎通することすら不可能なはずだ。彼らが我々からみて会話に見える行動を一見とっているのは多分、コミュニケーションが可能であると誤認しているのだろう。
 そんな欠陥生物が今まで生き残ってきたというのは、廃品置き場で起こった竜巻が完璧なボーイング747を作ってしまうなみの奇跡といわざるを得ない。それもなぜそのような奇跡が可能なのかについての理解への道は閉ざされている。
 このような奇跡よりはよほど、奇怪な彼らの言う言葉を信じてしまいたくなるが、それは不可能だ。彼らの発言にもし微塵でも真実が含まれていると仮定したが最後、我々は彼らの言語を翻訳することが可能になり、いまや図書館の奥に保存されるのみの運命となった彼らの歴史についての研究が正当なもととなり、よって彼らの発言が全て間違いであると認めざるをえなくなる。背理法によって、彼らの発言には一切の真実は含まれていないことが証明される。よって我々は彼らの発言および文化内容について一切知ることは出来ないが、それが全て間違いで我々に知ることが出来ないことだけは論理的に知ることが出来るのだ。
 この議論は直感主義的には問題があるが直感的には明らかなので、広く受け入れられている。主義なんてものはいざというとき弱いものだ。
 かくの如き袋小路的状況が長く続けば、誰もが興味を失う。世間の反応は冷え切り、まもなく彼らについての研究は途絶えた。近所に新発見の少数民族が生息していることや、いままで普通に付き合っていたお隣さんが一切の意思疎通が不可能であることなどに、最初は気味悪さを覚えていた付近住民たちも、長期にわたる哲学的違和感に耐え切れずに、すぐに慣れてしまった。そんな奇怪なものに耐えられる人で構成される付近住民というのも面妖千万なので文句は言うまい。ただそれが惹起した社会現象には面食らうほかなかった。
 彼らは発見される前と同様に、自分たち同士で、そして自分以外の人たちと、会話が出来ると錯覚しながら会話によく似た行為をしている。交流が可能だと誤認しながら、一切共有できる価値は存在しえないのに、通貨を介して物品を交換していたりする。
 そして恐ろしいことに、彼ら以外の人たちも彼らと何かが伝達あるいは交換可能だと信じてはじめてしまったのだ。これは一体どういうことなのだろうか。もしかしたら、混血が私が思っていた以上に進んでいるのかもしれない。我々知識人はナチス以来、純血主義に抵抗を覚えるようになり、私もそれらに眉を顰めることをいつの間にか学んだが、これにはさすがに本能的戦慄を覚えざるをえなかった。
 一体どれほどの人々が事象の地平面の向こう側にいるのか把握できない、というのは端的に恐怖である。道を歩くと私は、もしかしたら私以外の全ての人たちがあの少数民族の構成員になってしまったのかと思えるのだ。
 ただし、だからといって私が何か具体的なアクションをするわけではない。
 大廈の覆らんとするときに、一木いかでかこれを支えん。三十六計慣れるに如かず、である。
 理解し得ない人々とすれ違い、理解し得ない人々とレジを挟んで向かい合い、彼らには理解できないはずの貨幣で物を購い、必要とあらば談笑だってしてみせる。そんな毎日に私はだんだんと麻痺していく。
 心配することをやめ、愛する必要があったからだ。
 最後の手段として、私は少数民族の一人を、配偶者として迎え入れたりもした。もちろん抵抗はあったし、お互いを全然理解できないことにはかなり苦労した。それでもなんとかやっていることを考えると、やはりこの世界において問題というのは決して解決せず、ただ乗り越えられるものだというのは正しいのだろう。時間をかけて乗り越えられない問題はないのだ。
 逆に考えれば、何も解決していないということでもある。我々は相変わらず絶対的な相互的無理解と、無理解に対する理解不可能性の暗闇の真っ只中にいる。
 実際先日も私が配偶者に、
 「我々は本質的に、永久に分かり合えない関係らしいな」
 と言ったところ、次のような答えが返ってきたのだった。
 「ほんとそれ」

疑似科学と科学の哲学
伊勢田 哲治
名古屋大学出版会
2002-12-10

トリフィド時代―食人植物の恐怖 (創元SF文庫)
ジョン・ウィンダム
東京創元社
1963-12

トリフィドの日~人類SOS!~ [DVD]
ハワード・キール
ランコーポレーション
2009-10-21

 

作家にして盲目の図書館長、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの夢

  一九八六年六月十三日の夜のこと、作家にして盲目の図書館長、ホルヘ・ルイス・ボルヘスは夢を見るために瞼を閉じ、現においてはすでに閉じて久しい視覚を開いた。そこは無限に広がる図書館の階段の踊り場だった。ぼろきれを被って横になっていたホルヘ・ルイス・ボルヘスは、徐に立ち上がって、いつもの捜索の旅に出る。無限に広がる図書館の中に一冊だけあるという、かれだけのための本を見つけるために。
 六角形の閲覧室を司書や翻訳者たちが、影のように通り過ぎる中を、かれは遠いこだまのように彷徨う。本棚に並べられた同じ形の書物を時々手に取るが、大半は意味を成さない文字の羅列である。意味を成す僅かのものも、この図書館のどこか別の場所にある書物の不正確な翻訳、乱暴な翻案、出典の分からない引用、歪められた解説、読むに耐えない落丁・乱丁、そしてそれらの目録とその目録の偽書ばかりだ。どの書物も、自分以外の別の書物を指し示している。だが、この全ての書物を所蔵すると言われる図書館のどこかには、書物ではないものを指し示す書物も存在すると言う。
 たとえば、このわたし、ホルヘ・ルイス・ボルヘスを指し示す書物も存在するはずだ。
 かれはそう考える。
 しかし、今自分が使える道しるべは、他の書物を指し示す書物、影の影、こだまのこだまだけだ。この指示の連鎖を遡っていけば、いつかそのただ一冊の本に出合えるかもしれない。
 以前かれに会いに来た若い数学者が言っていた、連鎖する矢印からなるカテゴリー論とやらで、それを整理してもいいかも知れない。なるほどカテゴリーか。アリストテレスの『形而上学』を再読せねばなるまいな。
 起きているときには、年とともに次第に靄が掛かるようになってきたかれの記憶力も、夢の中では若いとき以上の数学的透明さを見せる。しかし今、起きている世界での本棚を思い出そうとするかれの脳裏は俄かに曇り、それを補うために彼は胸のポケットから紙きれと小さな鉛筆を出してメモを取った。
 それを胸のポケットにしまってから、ホルヘ・ルイス・ボルヘスは考える。さて、今わたしは、何語でメモを取ったのだろうか? スペイン語で? それとも英語で?
 起きてから確かめれば済むことに思えたので、彼は捜索に戻る。
 上下の階をつなぐ螺旋階段はどこまでも続き、自分が今どこにいるかは全く分からない。分からないのではなく、無意味なのかも知れない。図書館の方々に鏡が置いてある。なぜかどの鏡も歪んでいる。しかし我々の網膜もまた歪んでいるとすれば、我々が歪んだ鏡を通してしか世界を見たことがないならば、どのようにして鏡が歪んでいるかどうかを判断するのだろうか。
 書物たちの参照は錯綜し、循環し、途切れ、曖昧模糊たる霧の中に消えていく。いや、そもそもその書物たちの間に仮定された関係からして、わたしの思い込み、先入見、偏執なのではなかろうか。霧は私の眼球の中や頭蓋の中に掛かっているのではなかろうか。
 書物から書物への矢印は、この世界に存在するものではなく、わたしが描いているものに過ぎない。いや、むしろ、このわたし、ホルヘ・ルイス・ボルヘスこそが、それらの矢印自身なのだ。
 わたしが「宇宙」と呼ばれるこの図書館を彷徨うことによって、書物と書物の間に見えざる関連が付けられていく。そしてその関連の連鎖が途切れるということは、わたしが歩みを止めるということなのだ。
 夢の中でホルヘ・ルイス・ボルヘスは、階段の踊り場でそれ以上上に上がることが出来なくなって、膝を折りその場に倒れこむ。かれはベッド脇に置いてある普段使っている杖を手探りで求めるが、それは夢の中には持ち込んではいないものだ。
 呼吸が止まれば、かれとよく似た影たちが、換気孔の中に投げ入れてくれるだろう。そうすれば、永遠に落下し続ける。
 夢の中で視覚を閉じようとしているとき、ホルヘ・ルイス・ボルヘスは考えた。
 とうとうあの一冊を見つけた。自分はそれをずっと読んでいたのだ、と。
 この「宇宙」と呼ばれる図書館そのものが、内部で自己参照を繰り返す一冊の書物なのだ。自分自身を指し示す書物、エル・アレフ、אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה。
 そして、その書物の中を彷徨い、読み進め、離れた文字列を関連付けさせるわたし、このホルヘ・ルイス・ボルヘスは、この書物を綴じ合わせる糸であり、結局はこの書物自身、図書館自身、すなわち宇宙自身なのだ。
 光に包まれた啓示の瞬間、一つの書物が閉じられ、百千万の、億兆京那由他阿僧祇の書物が閉じられ、その音が終わりのない螺旋階段に響き渡り、図書館は一瞬にして、塵となって消し飛んでしまった。
 そして視覚は閉じられ、ホルヘ・ルイス・ボルヘスはベッドの中で瞳を開く。
 かれにはもう啓示の光も、歓喜の瞬間も残ってはいなかった。目を覚ましてしまったかれには、すでに分かっていたからだ。先程夢の中で、確かに得たと思った答えは、すでに二千年以上前から、ウパニシャッドの哲人たちや、ギリシャのピタゴラス主義者たちや、ヨーロッパやアラビアのカバラやスーフィーの伝承者たちらに、何度も最発明され伝えられた思想の、影の影であり、こだまのこだまであり、鏡像のさらに歪んだ鏡像であり、夢のなかの夢に過ぎないのだ。
 しかしかれには、もうそれらのことを信じることが救いには思えない。かれは胸のポケットをまさぐりながら、虚空に向かって呟くしかない。
 たとえそうだとしても、そもそも、宇宙とは、ボルヘスとは、そう、このわたしを夢見るわたしとは一体何者なのか。
 ポケットの中には紙きれが一枚入っていた。

 
夢のなかの夢 (岩波文庫)
タブッキ
岩波書店
2013-09-19

伝奇集 (岩波文庫)
J.L. ボルヘス
岩波書店
1993-11-16

拍手コメントちゃんと読んでます

めったにコメントつき拍手なんてこないんで、返事を書いたりは出来てませんが、読んでます。溜まったら返信と思ってたら、いつまでも返信できないことに気付いたので変身します。拍手した人はこれを読まない可能性が高そうですが。
どれくらいこないかというと、ログインすると見られる5つの「最近のコメント」の一番過去の奴は、なんと二年前です。
でも最近のコメントは結構いろいろ書いてあって、少し感動します。
去年の八月の
リグビーとモーデカイはエドガー・ライト監督作品のサイモン・ピグとニック・フロストに似てると思いました
という『Regular Show』の記事への名無しさんのコメントは、私もなるほどなあ、と思いました。
私も好きです、サイモン・ピグとニック・フロスト。
『ショーン・オブ・ザ・デッド』とか『宇宙人ポール』 とか最高ですよね。
ショーン・オブ・ザ・デッド [DVD]
サイモン・ペグ
ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン
2005-12-23

宇宙人ポール [Blu-ray]
サイモン・ペッグ
ジェネオン・ユニバーサル
2012-12-21

 リグビーのマジな駄目っぽさと、モーディカイの「やれば出来る子なのにやる気がない」駄目っぽさの対比が似ています。

今年の1月22日に『恐竜惑星』と『ジーンダイバー』についての記事への、
情報量が増えると現実世界に影響が…」の理屈がわからず調べていたところ、たまたまこのエントリに出会いました。とてもわかりやすく、参考になりました!
という名無しさんのコメントもとても嬉しいです。
あの記事は別に理屈を説明したものではありませんでしたが(というかまともな理屈はつけようがない)、一所懸命、背景知識を説明した甲斐がありました。励みになります。 
何の意味があるか分からないブログですが、今年も無意味にひた走ろうと思いますので、思い出したころに見てくださいね。 

『Star vs the Forces of Evil』のスターが既知外可愛い

先行放送がアメリカでなされてさっそく世界中の一部の人々で話題になっている。

異世界から魔法使いのプリンセスが来る、といフォーマットは『魔法使いサリー』とか『魔女っ子メグ』とか、昔ながらの「魔女っ子もの」である(起源はさらに遡って海外ドラマの『奥様は魔女』。それに対して、普通の少女が魔法のアイテムなどを手に入れて、魔法が使えるようになるのが、『秘密のアッコちゃん』から「ぴえろ魔法少女シリーズ」に繋がる「魔法少女もの」の流れだ)。
しかしこの「魔法(物理)」的な雰囲気は『大魔法峠』を髣髴とさせるな。肉体言語で殴ってるやんけ。
でも実際可愛いなあ。声が低いのもいい。日本のアニメ声高すぎ。
 
OPのノリノリなのも良いが、EDのちょっと落ち着いてるのも好きだ。最近はアメリカのアニメもEDに歌が入るようになってきて、これはたぶん日本アニメの影響なんだろうけど、これは特に日本アニメっぽい。歩いているところとか。左から右に歩くのはいかにもアメリカだけど(日本のアニメはキャラクターの移動方向は基本右から左。敵と対峙するときも、右に味方左に敵。アメリカはどっちも逆になる。文字を読む方向であろう)。
いろいろと日本アニメっぽさがありながら、それでもやっぱり日本アニメと全然違うナチュラルハイバイオレンスな感じが面白そうだ。
主人公がラテン系なのも今まであまり覚えがないね。人種のバランスに気を使うのはいかにもディズニーだね。ママ美人だな。パパはちょっとステレオタイプすぎないか心配だが・
とにかく本放送はいつなのか、日本での吹き替えはいつなのか、吹き替え声優は誰なのか。楽しみに待とうではないか。

スタッフによるエピソードポスターも可愛い!
 star2star1

なぜ英語の月の名前は2ずれているのか?

九月を意味する「September」の「septem」の部分は英語の「seven」つまり「7」であり、十月を意味する「October」の「Octo」は英語の「eight」すなわち「8」である。もちろん蛸を意味する「octopus」の「octo」でもあり、これは「八本の脚」を意味している。
以下同様に、「November」 は「9月」、「December」は「10月」 を意味している。
なぜ2ズレるのであろうか。
教育者というやつは嘘を教えるのが昔から好きで、いつ誰にだったか忘れたが、確か小学生のとき私はこれを「カエサルとアウグストゥスが自分の名前を月の名前(それぞれJulyとAugust)に加えたからだ」と教わった覚えがある。子ども心に皇帝たちの我儘さが印象付けられたものだ。
それからしばらくして知識人となってデュメジルを読んでたときに、「当時のローマの暦は3月が一年の始まりであり、マルスの化身である老人が町に入ってくる儀式が植物の成長する春の始まりを意味していた」という文章を読んで、強く印象に残った。「March」という月名もそこから来ている(ラテン語では「Martius」)。


なぜ印象に残ったかというと、これも教師に教えられた話で、あれはたぶん浪人時代の河合塾だったと思うが、「Januaryは一年の始まりだから、出入り口の神である二つの顔を持つヤーヌスの名前を与えられた、というのは民間語源で正しくない」という話を覚えていたのだ。そんなこと言っても大概の塾生は理解できないと思うのだがまあよい。
とにかく私は、
「ああ、なるほど、一年の始まりが三月だったら、一年の始まりだからヤーヌスだ、という議論は成り立たないなあ」と感銘を受けた、というわけだ。
それからまた何年も過ぎ、暇な知識人として町を歩いているときにふと私は、月名の数字が2ずれている正しい理由に思い当たったのだ。
三月から一年が始まるとすれば、普通に月名と順番が合うではないか!
勢い込んでWikipediaなどで調べてみると、確かに「July」と「August」はそれまで「Quintilis」「Sextilis」(普通に「五番目の月」「六番目の月」を意味する)と呼ばれていたものを、本人たちが暦を修正したおりに「Julius」「Augustus」と名前を変えただけだ(自分の名前を平気で月名につけてしまう古人のセンスが好きだ)。
どうして今まで気付かなかったのだろう。というかデュメジルを読んでいるときに、気付いてもよさそうなものだ。いや、真実というのは得てしてこのように、伸ばせば手の届くところに無造作に転がっているものなのかもしれないな。
さらにいろいろ読んでみると、古代ローマの最初の暦(伝説上のローマ建国者の名前を取って「ロムルス暦」と呼ばれる)では、一年は10ヶ月で、農業をしない冬の間は月を数えず、春めいてくると王が一年の始まりを宣言していたらしい。それが私がデュメジルの本で読んだ記述なのだろう。
その後、冬の間も月を数えるために、「Ianuarius」と「Februarius」が付け加えられるが加えられた(これは、伝説上の二代目の王の名前をとって「ヌマ暦」と呼ばれている)。
ここでも、まだ一年の始まりは「Martius」だった。
今でも閏年に二月で日数の調整をするのは、二月が一年最後の月だった、このころの名残である。思わず膝を打つ。
この時代は、一年は355日だったので、二年に一回、「Februarius」のあとに「Mercedinus」という月を挟んでいたようだ(この記述を読んだとき、私はラファティの『草の日々、藁の日々』を読みなおして、これに関する記述がないか調べてしまった。ぱらぱら見ただけでは見つからなかった。私の言っている意味が分かる人は友達だ)。
どろぼう熊の惑星 (ハヤカワ文庫SF)
R.A. ラファティ
早川書房
1993-03

てっきり名前の由来は泥棒と商人の神「Mercury」かと思ったら(神出鬼没なところがピッタリだ)、一年の終わりなんで、「賃金」という意味から来ているらしい。まあ、語源は同じか。
ちなみに「April」はギリシャからエトルリアに伝わった「Aphrodite」、「June」は結婚、出産、育児を司るユピテルの妻「Juno」である。「June Bride」という習慣の起源もここにある。「February」が何の神様なのかは、いろいろと物を書き残し始めた時点のローマ人にもよく分からなくなっていたらしい。
その後、紀元前153年にヒスパニアでの反乱への対応のため、執政官が例年の3月15日より早く着任した。これがきっかけで、一年の始まりが1月になったのだ。
その後、閏日を入れる役割を持つ最高神祇官が、政治的理由で好き勝手に閏日を入れたため(昔の人のこういう適当なところが好きだ)、一年が正しい暦から90日もずれてしまった。
カエサルがこれを正すために、紀元前46年に、445日というものすごく長い一年を用意した。カエサルはこれを「ultimus annus confusionis(最後の混乱の一年)」と呼び、人々は「annus confusionis(混乱の一年)」と呼んだ(作品の題名にしたいくらい好き)。 
これ以降カエサルはそれまでの太陰暦である「ローマ暦」を廃止し、4年に一回閏年のくる太陽暦「ユリウス暦」を採用し、7月の名前を自分の名前に変えた。
しかし、その後間違えて3年に一回閏年を入れていたので(昔の人のこういう馬鹿なところが好きだ)、アウグストゥスがそれを調整したおりに、8月の名前を自分の名前に変えたのだ。
ここからグレゴリウス暦まで、しばらく大きな変化はない。そのときのごたごたはこちらへ。

さて、一つの謎は解けたが、まだもう一つの謎は残っている。結局、一月が一年の始まりだからヤーヌスだ、という話はどうなったのだ。
月の名前が2ずれている理由はWikipediaなどを調べればすぐに真相に当たったものの、そこには普通に「一年の始まりだから出入り口の神ヤーヌス」と書いてある。
しかし、今までの話を総合すると、やっぱりそれはおかしい。「Ianuarius」という月名が導入されたときには、まだそれは一年の始まりじゃなかったのだ。
どういうことなんだろうか?
結局「Feburus」がどんな神様かよく分からないように、これも歴史の忘却の彼方に消えてしまったのだろうか。

やっぱり真相は手の届くところになんかないじゃないか、うそつき! 
Leaves of Words
記事検索
最新コメント
月別アーカイブ
プロフィール

けんさく。

QRコード
QRコード
タグクラウド
  • ライブドアブログ