けんさく。

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2015年02月

続いている公園の罠

 彼は数日前にその小説を読みはじめた。急用があって一度投げ出したが、農場にもどる列車の中でふたたび手に取ってみた。物語の筋と人物描写が少しずつ彼の興味を引きはじめた。午後は代理人に手紙を書き、農場の管理人と共同経営のことを話し合った。そのあと、樫の木の公園に面した静かな書斎で本にもどった。不意に人が入ってきそうで落ち着かないので、ドアに背を向けると愛用のひじかけいすに腰をおろし、時々左手で緑のビロードを撫でながら残りの章を読みはじめた。人物のイメージや名前がまだ記憶に残っていたので、たちまち小説の架空の世界に引き込まれた。読み進むうちに、まわりの現実が遠のいていった。頭はビロードの背もたれにゆったりもたれかかり、タバコは手の届くところにある。大窓のむこうでは夕暮れの大気が樫の木の下で戯れている。罪深い楽しみを味わっているような気持に襲われた。主人公たちは男女関係がもとでジレンマにおちいっていた。夢中になってストーリーを追って行くうちに、イメージがはっきりと像を結び、色彩と動きを伴うようになった。彼は二人の人物が山小屋で最後の密会をするところに立ち会った。最初女が不安そうに入ってきた。続いて男が姿を現した。男は木の枝で顔に怪我をしていた。女は傷口を舐めて血を止めてやったが、男はじゃけんに撥ねつけた。そこへ来たのは、枯葉と小道に守られた世界で秘めやかな情熱の儀式をくり返すたねではなかった。胸のところにナイフは生温かくなり、その下では囚われた自由が息づいていた。あえぐような会話が蛇の川のように何ページにもわたって続く。すべてが宿命によって定められているように思われた。女は引きとめ、思いとどまらせようとして男を愛撫する。その愛撫までが、もう一人の男、どうしても殺さなければならないあの男の身体をいまわしく描き出していた。アリバイ、偶然、犯しかねない過ち、何ひとつ欠けていなかった。そのあと物語は少しのたるみも見せず展開して行く。無慈悲な殺人計画は、女の手が顎をやさしく愛撫する時もほとんど休みなく練りあげられた。日が暮れはじめた。
 逃れることのできないつとめに縛られた二人は、小屋の戸口で別れる時も顔を見交わさなかった。女は北に抜ける小道を通るはずだった。男が逆方向の道からちらっと振り返ると、髪を乱して駆けて行く女の姿が目に入った。男は木々や生垣の間を縫うようにして走り出した。黄昏の藤色の靄の中に、あの屋敷に通じるポプラ並木が浮かび上がった。思ったとおり、犬は吼えなかったし、農場の管理人もいなかった。三段あるポーチを駆け上がると、屋敷の中に踏み込んだ。耳鳴りとともに女の言葉が聞こえてきた。中に入ると青い部屋があり、次はホール、そのむこうに絨毯を敷いた階段が見えるわ。見上げると、ドアが二つあった。最初の部屋には誰もいない、二番目の部屋にも。広間のドアが目に入った。ナイフに手がかかったのはそのときだ。大窓から光が差し込み、緑のビロードのひじかけいすの高い背もたれには、小説を読んでいる男の頭部が見え、次の瞬間残酷な刃が頭蓋骨を貫いてそこに深く突きたてられた。
 声を上げることすらできず男は椅子から転げ落ち、読みかけの小説は開いていたページを下に床を少しすべった。頭から倒れたときの音は、毛足の長い群青の絨毯が吸い取ってしまった。その上にゆっくりと血が広がっていく。男の荒い息の音だけが部屋に響いていた。窓から差し込む夕陽の最後の一条が、一瞬ナイフを凄まじく輝かせた。それが男を正気に戻した。男は絨毯に埋もれた顔を少し横にして確認する。自分に何が起こったか分からず、分かる前に事切れてしまったその顔は、見知らぬものだった。男には何がなんだか分からなくなってしまった。全てうまくいくはずだったのだ。綿密に計画したことだった。間違えるはずがなかった。道順や、屋敷の構造、どの部屋がどこへ繋がっているかは、全て女から聞き出したのだ。
 部屋をうろうろ歩き回る彼の足が何かを蹴飛ばした。それは半ばのページで開かれた小説だった。何も考えずに男はそれを拾い上げる。何の気なしに、開いていたページを目が走る。男はそこに女と、彼が殺すはずだった、殺さなければいけなかった男を見た。女はその男に抱かれていた。うっとりと目を閉じて。女の手が、男の胸や顎をやさしく愛撫する。
 男は叫び、本を引き裂こうとした。そして思い直すと無辜の犠牲者の後頭部からナイフを引き抜き、血に染まった凶器を振り回しながら屋敷を飛び出した。犬がけたたましく吼え立てる中、あのポプラ並木を来た道順をさかさまに掛けていく。
 しかし、男は女のもとにはたどり着けない。たそがれ時はとうにすぎ、公園はすでに閉じていた。
(了)
 
 
 この小説にはコルタサル著木村栄一訳『悪魔の涎・追い求める男』(岩波文庫)中の短編『続いている公園』の全文が使われています。





 解説
 まず、どこまでが『続いている公園』そのままなのかというと、第二段落の最後の文章の「男の頭部が」のところで、元の文章では「男の頭部が……。」で終わっている。そこからは、全て今回の付け足しである。
 まず、『続いている公園』の解説から行うと、この小説はいわゆる「第四の壁」(元は演劇から来た言葉で、三方を壁に取り囲まれた舞台において、客席との間にある見えない壁のことをいう)を取り扱った小説の中で古典として扱われている。小説を読んでいる男が、その小説の登場人物によって殺されてしまうのだ。それを納得させるために、短いながらも見事なテクニックが使われている。
 まず男が読書に集中していく様が描かれる。男の周りの現実から描き始め、男がそれをどう読書に適した状態にしていくかが描写される。そのうちに、男が読書に集中していくと、周りの現実が男の周りから消え始める。同時に読者の目からも自然に消えていく。そして代わりに男と読者の目の前に広がるのは、小説の中の世界である。
 ここで面白いのは、この小説の中で小説を読んでいる男にとっては、この小説内小説の中の世界は男の周りの世界と全く質を異にするものなのだが、この小説を読んでいる我々読者にとっては、小説内小説を読んでいる男の周りの世界も、小説内小説の世界も、質的には同じに見える、ということだ。だから、我々はいつの間にか小説内小説が小説と入れ替わっていることに、それほど違和感を持たない。ここで描かれている「第四の壁」は所詮偽の第四の壁であるので、慎重にことを運べば安全に通り抜けられるのだ。
 もちろん、違和感なく通り抜けるために、短い小説の中でゆっくりと男の周りの現実を小説内小説の現実へと入れ替えている。特に重要なのは、第一段落の終わりの「日が暮れはじめた。」という一文で、これは果たして小説内小説の外のことなのか中のことなのか、意図的に分からなくしている。これが分からないことが、通り抜けが成功した証であり、ここでパラグラフを切っていることも、通り抜けが完了したことを意味しているのだ。
 そこからは、最後まで一気である。何の疑問もなく読み進めているうちに、最後の文章で読者は見覚えのある緑のビロードのひじかけいすに腰掛けた男を見て、驚愕する。この男はこの小説を読んでいた男のはずだ、と。
 最後が途切れてしまっているのはなぜだろうか。それは我々読者が読んでいるこの文章は、この小説の中の男が小説を読んでいることの描写なので、男が死んでしまった以上、その描写もここで途切れなくてはいけないのだ。
 この小説と良く似た構造を持っている作品として、エッシャーの『とかげ』がある。

エッシャーの宇宙
ブルーノ・エルンスト
朝日新聞社出版局
1983-07

 ここでも、絵の中で絵を描くことによって、偽の「第四の壁」を作り出し、それをすこしずつ変化する慎重な描写で乗り越えて見せたのだ。ちなみにこのような「本来越えられるはずのない層の間を仮想的に行き来する現象」を扱った本がダグラス・ホフスタッターの『ゲーデル・エッシャー・バッハ』であり、古今の様々な例や創作による例示が収録されている。

 そこから私はこの小説を、「騙し絵小説」と呼ぶことにしている。私自身、いくつかの作例(「騙し絵小説とは何か考えてみた」というエントリーを私のブログで検索してくれれば見つかる)を持っていて、知り合いに挿絵を描いてもらったので、近いうちに本の形にしたいと思っている。
 これはこれでとても趣のあるものだが、もっと本格的に第四の壁を乗り越えたいと思っているデッド・プールな人たちには、フレドリック・ブラウンの『真っ白な嘘』という短編集を読んでほしい。これまた奇妙な読書体験が待っていることを確約しよう。
まっ白な嘘 (創元推理文庫)
フレドリック・ブラウン
東京創元社
1962-05-25

 さて、ようやくこの小説自体を解説する準備が整った。
 なにゆえ、この完成された作品を汚してまで、このすでに小説が多すぎる世に、余分の小説を垂れ流そうというのか。
 私にとって批評とは、作品の「ありえる姿、ありえたかもしれない姿、絶対にありえない姿」などを描き出す行為だ。読むことと、書くことは不可分なのだ。読んでいるとき、あなたは書いている。特に作品に疑問点が見つかったときは、それはあなたが筆を取るべきときだ。
 まず疑問に思ったのが、この小説内小説の男は間違った男を殺しているのではないか、ということだ。もちろん何も書かれていないだけで、この小説を読んでいる男が、他人の恋人を農場主という権力を使って手篭めにしたり、誘惑したりしている可能性もある。しかしそれならば、この小説内小説の登場人物として、この小説には書かれていないだけで彼がいるはずで、それならば読んでいるうちに気付いてもよさそうなものだ。自分が今読んでいる小説が、彼にとっての現実だと。そうでないとすれば、やはり男は間違った男を殺したと考えたほうが筋が通るような気がした。
 そこで、この小説に蛇足と知りながら続きを書くために、私はサクラエディタを開いて、文庫本に重しを乗せて開きっぱなしにしながら、一言一句丸写しにしていったのだ。
 そのとき、何かが見えたのだ。
 その段階まで私は、なぜ男が間違った相手を殺してしまったのか、分からないでいた。
 しかし、「耳鳴りとともに女の言葉が聞こえてきた。中に入ると青い部屋があり、次はホール、そのむこうに絨毯を敷いた階段が見えるわ。」という部分を写していたとき、今まで漫然と読んでいたときには気付かなかった真相が啓示されたのだ。男は女に男の居場所を教えてもらっている。ならば男を騙したのは女だ。
 コルタサル本人ですら、この真相には辿りつけなかったのではなかろうか。作者であることが、真相へと近づくための障害になることがありえるのだ。全ての作品には、作者すら知らない無数の伏線が張られており、それを発見することが、読者が次の作者へと変貌することに繋がるのだ。そして作者となった者にとっては、書くことこそが、より深く読むことへの近道になりうる。
 このように、作者すら気付いていない真相を探すことを批評のスタイルとする者にピエール・バイヤールがいる。彼は『アクロイドを殺したのは誰か』や『シャーロック・ホームズの誤謬』などで、有名な探偵小説の推理を間違いだと断じ、真犯人を突き止めたと主張している。頭を柔らかくするためのひとつの試みとして、一度読んでみることをお勧めする。
アクロイドを殺したのはだれか
ピエール バイヤール
筑摩書房
2001-09


 ここまでくれば、あとは一気呵成に書くだけだ。最後に男が小説内小説の世界から小説の中に出てしまって帰れないことを説明する必要があったが、ここでもちょっとしたことに気付いた。
 夕暮れ時、という時間設定は面白いな。
 最初は、小説の世界から小説内小説の世界へと描写の主軸が完全に移ったことを表すためだけに使われていると思ったのだが、現実とフィクションが混ざる幻想的な時間として「たそがれどき」というのは実に相応しい時分であることに気付いたのだ。
 ならば、完全に日が暮れてしまったとき、男は帰り道を失うかもしれない。続いている公園が夜になって閉じてしまえば、もう帰ることは出来ないかもしれない。
 もちろん、無茶苦茶な論理である。しかし、「たそがれどき」というイメージが我々にもたらす特殊な効果は、そんな無茶苦茶な論理に説得力を与えるだけの力を今でも持っているのではないか、そう信じてみたくなったのだ(技術のないことに関する言い訳)。
 成功かどうかは皆さんが判定してくださいな。

aviutlが使えるようになってきた

アマチュアなのにソフトに金を払うのは馬鹿らしいというわけで、フリーソフトを使っていく方針で生きているのだが、gimpは旅行中に撮った写真でちょっとしたお遊びをしたりするのに気楽に使えるくらいには手に馴染んできて、inkscapeも時々使っている。
それに比べるとaviutlはとっつきにくいなあと思っていたが、pluginを入れては、結局よく分からないなあとなるのを繰り返しているうちに、環境が整ったのか、普通に動画の前後を切り取って字幕をつけたり、タイトルを入れたりするくらいは出来るようになってきた。
しかしこれではwindowsムービーメーカーと別に変わらない、というかあっちのほうが親切で使いやすい。
なんとかaviutlならではのことができるようにならないと面白くないなあ。
最終的には大好きな『Panty&Stocking with Garterbelt』のmad動画(youtube風に言えばamv)が作れるくらいには鍛え上げたいものだね。あわせたい曲はあるんだよ。 

Private Neologism

 くさくさするとすぐに新しい言語を作り始めることが彼女の困ったところだ。自棄食いでもしてくれたほうがずっと助かる。そのたびに、偏奇な単語の一覧表を作成し、彼女が思いつきで考えた奇天烈な文法を分析し、どうにかこうにか日本語に翻訳する作業が始まる。面倒この上なし。
  なぜそんなことをするのか片言で質問してみると、なんでも彼女の彼女だけの気持ちを、他人が理解する振りをするのが我慢ならないらしい。だから本質的に彼女にしか理解できない「私的言語」を作りたいのだそうだ。
  そんな無茶な話で他人に迷惑を掛けるのを止めてもらいたい。そもそもある人にとって「他人」とは、その人のその人だけの気持ちを理解しようとする、もう少し正確に言えば少なくともそうしようとする可能性のある存在であり(つまりquid factiではなくquid juris)、それを否定しようとするのは「他人」という言葉の文法に対する違反だ。と、「私的言語」の不可能性を説き伏せようとするのだが、途端にまた新しい言語で喚き始めたり、と思えば新しい言語で黙りこくったりして、全く聞く耳を持とうとしない。
  そんな彼女との蜜月旅行でのことである。行き先は彼女の希望で北欧を回り、私の希望で東欧へも足を伸ばすことになった。
  最初は順風満帆だったように思えたが、すぐに彼女の機嫌が悪くなり始めた。しばらくは騙し騙し付き合っていたものの、だんだん殻に閉じこもりがちになり、文章の中に意味不明な単語がどんどん混じってきて、会話が成立しづらくなってきた。
  放っておこうかとも思ったが、それもそれで腹が立つので、私は彼女の捻り出した新言語を片端から翻訳していった。
  私に翻訳されてしまうと、彼女はむきになってさらに言語を畸形化させていく。彼女の言語には単数形と複数形双数形小数形・無数形・余数形を加え、能動態と受動態中間態逆受動態を加え、女性・男性・中性生物と非生物の文法的区別まで導入する。名詞・形容詞の格変化は、主格・対角・具格・与格・奪格・属格・処格・呼格に加え、様格変格まで取り入れ合計十個とする。結果最終的に、名詞の性だけでも十一を数えるほどになってしまう。茸の性別じゃあるまいし。
  何が彼女をさうさせたか。彼女が成し遂げようとしている不可能事、それは「私的現実」の実現のためである。
  言語とはそれぞれ特有の世界観を持ち、ある言語を習得したものは、その世界観に沿って「現実」を認識をしようとするからだ。たとえば、エスキモーは雪の状態についてに、アラビア語は駱駝の状態について、英語では髭の状態について、日本語では米の状態について多くの単語を裂いている。
  もちろんこれらの言語的区分を持たない人も、指摘されればそれらの違いを納得し、識別することが出来るだろう。しかし、それらを区別する言語を習得した者は、よりその違いを意識できるようになる。
  先に言っておくと、これは言語が無から「現実」を作り上げる、という話では決してない。私たち2人は以前からその手の言語相対主義に強く反対し続けている。むしろこれは、それらの言語の使用者たちが立ち向かわなくてはいけない「現実」に言語が影響を受けたのである。
  とは言え、言語が「現実」を切り取るある視点を提供しているのは本当だろう。
  彼女は「私的言語」を作り上げることによって、「私的現実」の存在を証明しようとしているのだ。
  となると「私的言語」の不可能性とは、つまり「私的現実」の不可能性なのだ。「私的な現実」という概念は、「現実」という言葉を使用するための文法への違反を含んでいるのだ。
  しかし不可能だからといって、擬似「私的現実」に引きこもろうとするのをほっとくわけにもいかない。そんなのと同じ屋根の下で暮らすのはいろいろな意味で敵わない。どうせ一緒に暮らすなら、お互い辛くないように用法用量を守った適度な意思疎通が必要、ということを私は長い同棲生活の中で学んだ二つのことのうち一つだ。もう一つはトイレの便座は下ろしておくことだ。
  私たち2人の会話はすべて毎日少しずつ変っていく新言語によって行われた。食事のときの雑談も、土産屋で何を買おうかという話し合いも、ベッドの中での愛の囁きも。いつしか私は彼女よりも彼女の言語に精通し始め、彼女がちょっとした第四人称や意味不明な不規則変化や古代アオリスト風の奇矯なアスペクトや複雑なムードとテンスの組み合わせを間違えたとき、逆に私が言いなおしてあげたくらいである。彼女はかなりムッとしていたが。
  そんな2人の蜜月旅行は次第に奇妙な色合に染まっていく。月の名前も国の名前の発音も弄りすぎて、今自分たちがいまどこの国を旅し、この旅はどれくらい続いているのかすらよく分からなくなる。私たちの前に広がるのは聞いたこともない景勝地ばかりで、なぜか奇妙に話の通じるガイドが語る謂れは、嘘とも真とも不分明で、只管目眩き眩暈を起こさせる。
  よりよき解決策として彼らは、太陽神を祭った神殿城壁を、三倍に偉大な賢人の残したと言われる神聖なイメージの言語で埋め尽くし、子どもたちにもこれらのイメージを描いた本を読ませて教育していた。これ以降、彼女の書く文字は全て神秘的な絵文字になってしまった。
 輪ん曲する湾口またぐように脚を開いて建てられた巨神像。その手には外敵を防ぐための溶けた鉛が常時満たされていた。
  とあるたそかれとかわたれの狭間どき、私たちは円祖父アダム・カドモン言語博物館から夢見心地にその湾に向けて川走した真名求め魚の遡りし流出を件り、城主笑死で有名なアーカート城を経、遠永なる溺史の蛇珠繋ぎに円環多面とした後、巡り戻りて英地四囲委蛇たる地上の王国から天に向け根を張る逆様の木の陰に休みながら、影響の不安に身震いしたことをよく覚えている。
  これらはみな、彼女の新しい言語が切り開いた新しい世界から現れたものだ。言語が世界を作るわけではなくても、新しい言語のもたらす視点が、今まで見えていなかった「現実」の一面を発見することもあるだろう。適当に作った新言語が、たまたま世界の未発見の構造に一致するという僥倖を期待するのは、世界の知られざる顔を覗き見ようとする方法論として、ヘンペルが烏が黒いことを実証しようとしたやり方なみに悪手だが、全くの不可能ではないのだ。彼女はまさにそれを成し遂げた。
  私は最初のうちは困惑したものの、次第に、このような不可思議な世界をつれまわしてくれたことに対して、彼女に感謝の念を覚え始めていた。そして、どこまでもどこまでも、彼女の後を追いかけ続けよう、彼女が例え人類が生得的に持つ普遍文法の遥か外側にその歩みを進めて行こうとも、絶対に翻訳し続けてやろう、と決意を新たにしたのだった。
  しかし、男女の仲にありがちな話ではあるが、彼女は私に対して似たような感謝の感情などこれっぽっちも抱いていたわけではなく、事実は全くの逆であったのだ。
  ある日、私たちが一人一つずつの甲虫の入った箱を持つという奇怪な密儀に参列しているとき、自分の箱に入った虫ばかり見ていて退屈した私が、彼女の箱を横から覗き込もうとしたときに、とうとうその堪忍袋の緒が切れてしまったようだ。
  「個人が『私的言語』を持つことははプライバシーの権利として日本国憲法第十三条が保証しているのに、それをあんたは否定してる」
  といきり立って主張し始めたのだ。そして国家の最高法規を楯に取って離婚を迫り始めた。私はそもそも公務員じゃないから憲法に違反することなんて出来ない、と今考えるとズレた反論をするが、すぐさま
  「あんた消防団に入ってるし、特別職地方公務員でしょ」
  と言い返される。それもそうか。いやそうじゃなく、
  「そもそも俺が言い続けていたのは、『私的言語』は不可能だ、という話であって」
  「それじゃ、あなたの世界で『私的言語』が不可能だったら、あなたの世界が違憲だってことでしょ」
  無茶苦茶もいいところだ。
  私はなんとか彼女を宥めすかそうとする。しかし興奮している彼女は、猫の目かはたまた秋の空かというような目まぐるしさで言語を変形させていき、文章の始まりと終わりで発音も文法も単語の意味もすべて別物になっていってしまうような言語乱流の有様。気を抜いていると、「青」という単純な言葉すら、あるときまではgrueで、そのときからはbleenな色だと言われてしまう
  さすがの私も匙を投げたくなる。こうなったら、私たちの母国において違憲審査権を持つ裁判所に我々の結婚生活の未来を託すほかあるまい、ということになって、せっかく果てしなく続いている旅路を途中で切り上げ、急遽帰途に着くことになってしまったのだ。。
  母国日本への飛行機の中で私たちは2人だけの言語でも、懐かしき母国語でも、全く会話を交わさなかった。それくらい関係は冷え切っていたのだ。
  そしてどうなったかというと……
  結論から言えば、私と彼女との関係は、簡単に切るわけには行かなくなってしまった。
  帰ってきたはずの日本は私たちには全くの見知らぬ国だった。人びとが話す言葉も、空港に溢れる象形文字も、すべて見覚えのない奇怪なもので、法則性すら読み取れない。これは我々が間違えた国に帰ってきてしまったのか、それともいつの間にか私たちが日本語だと思っていたものが日本語ではなくなり、本当の日本語を2人とも忘れてしまったのか、どちらなのかが分からないので、ここが本当の日本なのかどうかが分からないのだ。
  これを読むあなたたちも気をつけたほうが良い。あなたの世界を支える言語とは、決して安定したものではなく、二度入ることのできない川の水のように日々流転するものなのだ。ディヴィッドソンの言うとおり、そもそもそんなもの初めから存在していないのかもしれないような儚い代物なのだ。
  だからたとえば、街中で聞いたことのない言語を教える塾があっても入ってはいけない。十分学んで出てきたときには、そこは見知らぬ街かもしれないからだ。また本にも気をつけるべきだろう。特に気をつけなければいけないのは、読み進めるうちに奇妙な読みにくさが邪魔をしてくるのだが、そこを乗り越えるといつの間にかそれが解消されるような本だ。たとえば、この本もそうだったのではなかろうか。あなたは先にこの本の結末部分を読んでみるべきだった。もしかしたらそこには冒頭とは全く別の言語で書かれているかもしれないからだ。文章から目を離し、ふとまわりを見回したとき、そこに何が広がっているかは保証できない。
  時すでに遅しだ。
  一切言葉の通じない不気味な顔顔顔と「エペペ、エペペペペ」という耳慣れない奇妙な声声声に囲まれて、私たちは唯一言葉の通じる者同士として肩を寄せ合い、強制的に末永く幸せに暮らしましたとさ。

電子マネーの意味がない

同人誌制作でgitを使い始め、普段の創作物や各種書類の管理にも愛用していて、みんなもっと使えばいいのに、という話をしていたら、
「メンバーがgitを理解しないまま導入してしまうと、gitが動いている状態で、ファイル名_日付.拡張子、のようなファイルを作ってしまい、gitを台無しにするだけでなく、ますます意味不明になってしまう」
という恐ろしい話を聞いた。
そしてそのときは思いつかなかったのだが、よく考えたら私にもそれとパラレルな症状がある。
交通系電子マネーにお金を入れて、駅での買い物などに時々使っているのだが、何故か端数を消そうと努力してしまうのだ。
つまり、残額の一の位が7とかだと、買ったものの合計額の一の位も7になるように、買わなくてもいいものまで買ってしまったりする。
これはもちろん財布の中の小銭を少なくしようとする、日本人の本能に起因するのだが、それにしてもしかし電子マネーの何たるかを完全に愚弄するような行為である。
反省せねば。
と言っても、私は別に誰にも迷惑かけてないから、どうでもいいんだけどな。 

『カレワラ』を読み始めた

フィンランド叙事詩の『カレワラ』を詠み始めた


フィンランドは住んでいる人は白人だが、その言語はゲルマン系でもスラブ系でもなく、ハンガリーなどと同じくアジア系のウラル語族だ。
その文化もアジアっぽい。フィンランド音楽なんかを聴くとよく分かる。
だから『カレワラ』がいきなりアジアっぽいかといわれるとそんなことないが、まあ名詞がヨーロッパぽくないのは面白い。
フィンランド神話の天空神の名前は「ウッコ」。で「ウッコの」を意味する言葉は「ウコン」。というわけで、ときどきフィンランド人名前には「ウコン」がつく。携帯電話会社ノキアの前日本代表取締役社長の「ウコンマーンアホ」みたいにね。ちなみに「マーン」は「大地の」で、「アホ」は「草地」。「アホ」っていうだけの名前の人もいる。あと、「ネン」が後ろにつくと「人 」って意味になるので、名前に「ネン」がよくつく。「アホネン」とか。『カレワラ』の登場人物にも大概ついてる。主人公の名前はワイナミョイネンだ。しかし、主人公が独身の老人てのもなかなかすげえよな。
北欧神話に出てくる稲妻を起こすトールのハンマー「ミョルニル」のフィンランド神話における対応物は、「ウコンバサラ」。 
漢字で書くと多分「玉金婆娑羅」であろう。嘘だが 
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